サザンオールスターズ前史②~1975年 桑田・原の出会いと「港のヨーコ」、そして赤ヘルブーム | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1975(昭和50)年、桑田佳祐関口和之は青山学院大学の2年生に進級したが、

その年(1975年)、桑田・関口の1年後輩として、原由子大森隆志が、青山学院大学に入学した。

後に結婚した桑田佳祐原由子は、ここで初めて出会う事となった。

 

 

というわけで、今回は桑田佳祐原由子が初めて出会い、

音楽界・芸能界に新たな才能が続々と生まれ、プロ野球では広島東洋カープが、球団創立26年目で初優勝を達成し、「赤ヘルブーム」を巻き起こし、そして阪急ブレーブスの黄金時代の幕開けとなった1975(昭和50)年に、スポットを当ててみる事としたい。

 

<1975(昭和50)年、原由子と大森隆志が青山学院大学に入学、桑田佳祐・関口和之と出会う>

 

 

 

1975(昭和50)年、神奈川県横浜市・関内出身の原由子と、岡山県岡山市生まれ、宮崎県育ちの大森隆志が、青山学院大学に入学した。

そして、音楽が大好きな新入生、大森隆志と原由子は、音楽サークル「AFT」に入った。

その「AFT」で、原由子と大森隆志の1学年先輩だったのが、桑田佳祐と関口和之であった。

 

 

 

 

原由子は、横浜の関内の老舗天ぷら屋「天吉」を営む両親の元に生まれ、音楽が大好きな女の子として育った。

原由子は、幼少の頃からピアノを習っていたが、兄・茂男の影響も有り、やがて洋楽に目覚めて行った。

フェリス女学院高校時代、原由子は親友の「モリ」という女の子と共に、「ジェロニモ」というデュオを結成し、日夜、音楽活動を行なっていたが、2人はエリック・クラプトンが大好きであり、1974(昭和49)年、高校3年生の頃、エリック・クラプトンの来日公演を見るために、原由子と「モリ」は日本武道館へと足を運んだ。

そこで、『いとしのレイラ』などを颯爽と歌うエリック・クラプトンに、2人は痺れまくった。

原由子にとって、生まれて初めて味わう、言葉に表せられないほどの感動だったという。

 

 

 

1975(昭和50)年、原由子は得意の英語を活かし、見事に青山学院大学の英米文学科に合格した。

原由子は、入学早々、美人の「ノリ」という音楽好きの女の子と仲良くなり、2人は早速、音楽サークルに入るために、色々なサークルの見学に行ったが、あるサークルの部室から、エリック・クラプトン『バッジ』という曲を歌う声が聞こえてきた。

「あ!クラプトンを弾いてる人が居る!!」

それが、桑田佳祐・関口和之らが結成していた、「温泉あんまももひきバンド」だったが、

バンドの名前は変だが、大好きなクラプトンを演奏している人達が居るという事が決め手となり、原由子と「ノリ」は「AFT」に入った。

 

 

 

一方、大森隆志は、大学に通う傍ら、下北沢の「ロフト」というライブハウスでアルバイトをしていたが、

そこで、大森隆志は、「ロフトのダニ」という異名を取る、野沢秀行という男と出会った。

「毛ガニ」という愛称で呼ばれていた野沢秀行は、当時、パーカッションのセミプロとして活動しており、周囲から一目置かれていたが、

「ロフト」では、野沢はお金を一切払わず、2歳年下の大森の事を、「おい、ター坊」と呼んでは、顎でコキ使って、大森に焼きそばを作らせたり、勝手にレコードを借りて行ったりしていた。

ちなみに、当時、野沢は日大のニセ学生という立場(?)でもあったという。

 

<1975(昭和50)年夏、「AFT」がフォーク派とロック派に分裂!!~桑田佳祐・原由子らロック派は「ベターデイズ」結成!!>

 

 

 

1975(昭和50)年夏、「AFT」はサークル活動の方針を巡り、フォーク派とロック派が対立してしまい、

「AFT」は、フォーク派とロック派に分裂したが、桑田佳祐や原由子らはロック派に属し、やがて、ロック派は新たに「ベターデイズ」というサークルを結成した。

「ベターデイズ」は、サザンオールスターズを輩出した音楽サークルとして、今日まで続く、青山学院大学の伝統のサークルであるが、

「ベターデイズ」は、サザンがデビューしてからも、しばしばサザン史に登場する事となる。

 

<桑田佳祐と原由子、お互いの音楽の才能に惹かれ合う…そして、2人はバンド「青学ドミノス」結成!!~後のサザンオールスターズの原型となるバンドの誕生>

 

 

当時、桑田佳祐は新たなバンド、「ピストン桑田とシリンダーズ」を結成していたが、

このバンドのライブを見に行った原由子は、桑田がディープ・パープルの『スモーク・オン・ザ・ウォーター』や、クリームの『ホワイト・ルーム』といった洋楽を次々と歌い上げるのを聴いて、とても驚いた。

「この人、ただのちゃらんぽらんな人かと思ってたけど…すっごい歌が上手い!!」

当時、桑田は可愛い女の子を見るや、すぐに声を掛けまくるような、ナンパ男と思われていたが、実はかなり音楽的才能が有る事に、この時、原由子は気が付いた。

 

一方、桑田佳祐も、原由子に「原さん、何か1曲ピアノで弾いてみて」と、リクエストしたところ、

原由子は、ちょっと良い所を見せてやろうと、エリック・クラプトン『いとしのレイラ』を弾いてみせた。

すると、桑田はとても驚いた顔をしていた。

「やれば出来るじゃん!!」

桑田は、心から感心したように言ったが、原由子は、実はピアノもギターも、その腕前は超一流と言っても良いものであった。

 

 

こうして、お互いの音楽的才能を認め合った桑田佳祐と原由子は、同年(1975年)10月、新たなバンド「青学ドミノス」を結成した。

これが、後のサザンオールスターズの原型となるバンドである。

桑田佳祐と原由子は、以後、今日に至るまで、ずっと音楽面でのパートナーでもあり続けているが、

この時の「青学ドミノス」こそが、その原点であった。

なお、「青学ドミノス」は、その後、メンバーチェンジを繰り返し、その都度、「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」など、適当に名前を変えながらも、バンド活動を続けて行った。

 

<1975(昭和50)年のヒット曲…沢田研二『時の過ぎゆくままに』が大ヒット!!…ユーミン(荒井由実)、中島みゆきなども登場etc>

 

 

 

 

1975(昭和50)年も様々なヒット曲が生まれたが、中でも沢田研二は、自らが主演するTBSドラマ「悪魔のようなあいつ」の主題歌、『時の過ぎゆくままに』を大ヒットさせ、以後、長く続く事になり、沢田研二の時代をスタートさせた。

『時の過ぎゆくままに』を作詞したのは阿久悠だったが、阿久悠は、沢田研二という「素材」を使い、以後、沢田研二にその都度、色々な世界観を演じさせる主演俳優のように、歌に生命を吹き込むように求め、沢田研二も、それに答えて行った。

沢田研二は、ザ・タイガース時代から、「ジュリー」というニックネームで大人気だったが、これ以降、ソロ歌手としても大成して行く事となる。

 

 

 

 

その他、この年(1975年)には、布施明『シクラメンのかほり』(作詞・作曲:小椋佳)、かまやつひろし『我が良き友よ』(作詞・作曲:吉田拓郎)、太田裕美『木綿のハンカチーフ』(作詞:松本隆、作曲:筒美京平 ※1975年12月発売、翌1976年にかけて、大ヒット)などのヒット曲が続々と生まれて行ったが、いずれも、後世に残る名曲ばかりであり、この時代の流行歌というものが、いかに優れていたかを物語っていると言えよう。

 

 

また、バンバンに『いちご白書をもう一度』という楽曲を提供していた、「ユーミン」こと荒井由実は、当時、多摩美術大学に通う学生であったが、この年(1975年)、自らも『あの日にかえりたい』というヒット曲を生み出した。

以後、長く続く「ユーミン」の時代の幕開けとなった。

 

 

 

 

また、ヤマハ主催のポプコンで優勝した中島みゆきも、『時代』という曲を大ヒットさせたが、

中島みゆきも、ユーミンと同様、自ら作詞・作曲して歌うという、シンガーソングライターであり、

期せずして、ユーミンと中島みゆきという新たな才能が、音楽界で大きな注目を集め始めたのであった。

 

<「あんた、あの子の何なのさ」…ダウンタウンブギウギバンド『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』が大ヒット!!>

 

 

 

1975(昭和50)年は、何とも異色の大ヒット曲が有った。

それが、ダウンダウン・ブギウギバンド『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』である。

ボーカルは宇崎竜童で、その妻の阿木燿子が作詞したこの曲は、

「ちょっと前なら覚えちゃいるが、1年前だと、ちとわからねえな…」から始まる台詞が延々と続き、宇崎竜童が「あんた、あの子の何なのさ」と啖呵を切った後、歌の部分は「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカー!!」と歌い上げる所だけという、斬新な構成であった。

 

 

「港のヨーコ」を追い掛ける(と思われる)男を主役とし、徐々に「港のヨーコ」の人となりがわかって来る仕掛けの歌詞であるが、

阿久悠は、この曲を聴いて「やられた!!」と思ったという。

そして、どんな物事でも、流行歌に成り得るのだという事を、阿久悠はこの時に改めて学んだ。

そして、山口百恵も、この曲を大変気に入っており、それが翌年以降の彼女の活動の伏線となった。

 

<ザ・ピーナッツの引退、「高2トリオ」の活躍と山口百恵の躍進、そしてキャンディーズのブレイク!!…クッキー(後のピンク・レディー)はデビューを目指し、奮闘中>

 

 

この年(1975年)、1960年代にデビューし、日本の歌謡界を長く引っ張って来た、ザ・ピーナッツが引退した。

そして、ザ・ピーナッツの引退と入れ替わるようにして、次々に新たな女性アイドルが台頭して行った。

 

 

 

山口百恵・桜田淳子・森昌子は、また1つ、学年が上がり「花の高2トリオ」として、相変わらず人気を誇っていたが、

この年(1975年)には、「高2トリオ」としては唯一の主演映画『初恋時代』も公開されている。

 

 

 

なお、山口百恵は、前年(1974年)末に公開された映画『伊豆の踊子』で、映画初主演を果たし、

この年(1975年)は大映ドラマ『赤い疑惑』にも主演し、いずれも大ヒットさせたが、以後、これらの作品で共演した山口百恵三浦友和「ゴールデンコンビ」と称され、数々の映画や「赤いシリーズ」などのドラマで、大ヒットを連発した。

歌と映画とテレビドラマ、どの分野でも大ヒット作品を出した山口百恵は、以後、大スターへの階段を駆け上がって行った。

 

 

 

 

この年(1975年)は、2年前(1973年)にデビューしていたキャンディーズ(伊藤蘭(ラン)・田中好子(スー)・藤村美樹(ミキ))が、5枚目のシングル『年下の男の子』を大ヒットさせ、遂にブレイクを果たしたが、それまでセンターを務めていた田中好子に代わり、この曲から伊藤蘭がセンターを務め、それが大ヒットに繋がったが、以後、キャンディーズの快進撃が続く事となった。

 

 

この頃、静岡県の常葉大学付属常葉高校に通う、親友同士の根本美鶴代(ミー)・増田恵子(ケイ)は、

キャンディーズの名前にあやかった「クッキー」というデュオを結成し、デビューを目指して奮闘していたが、この頃の彼女達は、まだ一介の女子高生に過ぎなかった。

しかし、この2人は、間もなく日本中に前代未聞の大旋風を巻き起こす事となるのである。

 

<大人気となった長嶋巨人…しかし、球団史上初の最下位に低迷>

 

 

 

前年(1974年)に、惜しまれつつ現役引退した長嶋茂雄は、

この年(1975年)、引退後すぐに巨人の監督に就任したが、背番号「90」を付けた長嶋監督は、相変わらずの大人気であった。

しかし、巨人は開幕早々、全く勝てず黒星を積み重ね、低迷してしまった。

 

 

結局、この年(1975年)の長嶋巨人は、最後まで低迷から脱出出来ず、巨人は球団史上初の最下位に終わったが、

不思議な事に、長嶋巨人は負ければ負けるほど、異様に人気が高まって行った。

そして、巨人のV9末期には低迷していた巨人戦の観客動員は、飛躍的に伸びたのであった。

 

<広島東洋カープ、球団創立26年目の悲願の初優勝!!~「赤ヘルブーム」が巻き起こる>

 

 

 

 

この年(1975年)のプロ野球の主役となったのは、前年(1974年)まで3年連続最下位と低迷し、「万年Bクラス」と称されていた、広島東洋カープであった。

この年(1975年)から、帽子とヘルメットを赤色に変えた広島カープは、快進撃を見せたが、

オールスターゲームでは、山本浩二・衣笠祥雄が、2人共に2打席連続アベックホームランを放ち、全国の野球ファンに「赤ヘル軍団」の存在を強烈に印象付けた。

 

 

 

そして、1975(昭和50)年10月15日、広島は後楽園球場で巨人を4-0で破り、遂に球団創立26年目にして、悲願の初優勝を達成し、カープを初優勝に導いた古葉竹識監督が、広島ナインや無数のファンによって胴上げされ、後楽園の夜空で宙を舞った。

弱小球団と言われ続けて来た広島カープの初優勝は、日本中を感動の渦に巻き込み、空前の「赤ヘルブーム」を巻き起こしたのであった。

 

<伝説の剛速球投手・山口高志の大活躍で、阪急ブレーブスが初の日本一!!>

 

 

 

この年(1975年)は、パ・リーグにも伝説の投手が登場した。

それが、阪急ブレーブスに入団した山口高志投手であったが、山口高志の剛速球は凄まじく、

山口は、ほぼ直球のみで、パ・リーグの強打者達をナデ斬りにして行った。

山口は「戦後最高の剛速球投手」とも称され、彼の凄まじいストレートは、各球団の打者達を恐怖のどん底に陥れた。

 

 

 

 

そして、選手時代は無名だったものの、前任の西本幸雄監督時代に、阪急のコーチを務めていた上田利治が、阪急ブレーブスの監督を引き継ぐと、上田利治監督は、見事な統率力を見せ、就任2年目のこの年(1975年)、前述の山口高志の大活躍も原動力となり、阪急はリーグ優勝を果たすと、阪急は日本シリーズでも広島を4勝2分で破り、見事に球団創設40年目にして、初の日本一の座に就いた。

そして、上田監督率いる阪急ブレーブスは、以後、最強の黄金時代を築き上げて行く事となった。

 

(つづく)