雨上がりの
どんよりとした曇り空の日、
久しぶりに外を歩いていると、
ふわりと懐かしいような甘い香りが漂う。
ふと視線を移すと、そこにキンモクセイの花が咲き誇っていた。
この香りを嗅ぐと、私の心は一瞬であの秋の日の記憶に引き戻される。
まだ、小さくて温かい長男の手を引いて歩いた道。
そこにも立ち込めていた、甘く心地よいキンモクセイの香り。
あの頃の秋の景色が、五感の記憶とともに、鮮やかによみがえってきた。
実家から離れた見知らぬ土地で、初めての子育てに追われていた頃。
知り合いもいなくて、
まるでひとりきりで奮闘しているように思えた日々。
夫も仕事で帰りが遅く、毎日が心細さばかりが募る。
当時、やんちゃだった息子のわがままに手を焼き、
正直、我が子ながら持て余してしまう日もあった。
どうして友達みたく地元の人と結婚しなかったのかと何度も後悔した。
そんななか
いつもの息子の公園遊びに付き添っていた日、
砂場で息子の電車のおもちゃに興味を持った子がいた。
「ああ、また、取り合いになるのかな。」
今までにあった、子ども同士の物でのいざこざが頭の中をかすめる。
まだ、上手に貸し借りができない頃の小さな子どもにありがちなトラブルだ。
電車に異様に執着していた息子は、一瞬たりともおもちゃに触れることを許さぬだろう。
そんなことを思いながら
想定される展開にうんざりしていると、
その子は息子のおもちゃをいじり始めた。
「あーっ、第一ラウンドが始まる」
と、ヒヤヒヤしながら様子を見ていると、
なんと、親の心配をよそに何事もなく、2人で並んで遊んでいる。
想定外の出来事に驚きつつも、その光景に思わず胸を撫でおろした。
それからしばらく経っても
楽しそうに並んで遊んでいて、帰るころにはすっかりお友達に。
相手のお母さんも優しく感じのいい方で、
不思議とすんなり心が通い合う予感がした。
聞けば、その子も息子と同い年。
家も近く、大の電車好きだという。
「うちにも電車のおもちゃがたくさんあるから、遊びに来て」
そう言ってもらえて、次回の約束をしてその日は帰った。
帰り道、ずっと心細かった心に、
キンモクセイの温かなオレンジ色がほんのりと灯っていく。
その甘い香りに包まれるうちに、
ずっと張りつめていた心がふわりとほどけていった気がした。
あれから年月が経ち、
私の手を引いていた息子は社会人になった。
今では彼女ができて、連休は仲間と旅行三昧の「リア充」っぷりだ。
「親の顔なんて忘れてるんじゃない?」と思うほど、毎日を楽しそうに駆け抜けている。
さらに最近、「一人暮らしを始める」とまで言い出した。
小さい頃は、私とセットでなければ
遊びにいけなかった息子が、
自分で仕事を見つけ、好きな人や仲間と出かけ、飛行機を手配し旅に行く。
今では私の知らない場所へ、自分の足で出かけていく。
そして、今、この家から巣立とうとしている。
大人になれば当たり前のことだが、
いつの間に、こんなに遠くまで歩いてきたんだろうと思う。
正直、部屋が広くなると思うと、少し胸の奥がキュッと寂しくなる。
でも、あの頃、見知らぬ土地で
必死に手を引いていた小さな子が、
今や自分の足で立ち、自分の人生をこれほどまでに豊かに楽しんでいる。
そう思ったら、母親として、これ以上の「喜び」があるだろうか。
空がゆっくりと、
オレンジから優しいピンク色に
染まっていくのを眺めているうちに、ふと思った。
手を離れていく寂しさも、
あの日から今日まで、
一生懸命に自分の人生と向き合ってきた証拠なのだと。
キンモクセイの甘い香りと夕焼けは、
まるで私に「頑張ったね、お疲れ様」と語りかけてくれているように感じた。
切ないけれど、温かい光に満ちた、愛おしく想える秋の夕暮れ。
外はどんよりとした曇り空だけれど、
私の心には、あの日と同じキンモクセイのオレンジ色が優しく灯っている。
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