サザンオールスターズ前史③~1976年 サザン誕生と「およげ!たいやきくん」、巨人VS阪急の死闘 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1976(昭和51)年は、桑田佳祐サザンオールスターズの歴史において、大きな転機となった年である。

まず、青山学院大学の音楽サークルで活動していた桑田佳祐が結成したバンドの名前に、初めて「サザンオールスターズ」の名前が使われた事、そして、桑田佳祐の初めてのオリジナル曲が誕生した事も有り、サザン史における転換点とも言うべき出来事が次々に起こった。

 

 

そして、この年(1976年)は日本史上最大のヒット曲『およげ!たいやきくん』が生まれ、

山口百恵キャンディーズが大活躍し、遂にピンク・レディーがデビューした年でもあったが、

日本シリーズでは、長嶋茂雄監督率いる巨人と、上田利治監督率いる阪急ブレーブスの死闘が繰り広げられた。

というわけで、芸能界と野球界の転換点ともなった、1976(昭和51)年について、描いてみる事としたい。

 

<1976(昭和51)年春、桑田佳祐の初のオリジナル曲『娘心にブルースを』誕生!!>

 

 

1976(昭和51)年春のある日の事、桑田佳祐が、青山学院大学の学食に居た原由子に、突然、

「原、曲が出来たから、ちょっと聞いてよ」

と声を掛けて来て、桑田は原由子の事を、青学の1号館の屋上へと連れ出した。

暖かい春の陽気に包まれ、爽やかな青空と、風がとても気持ちの良い日だった。

そして、桑田はギターを弾きながら、三拍子のスロー・ブルースを歌い始めた。

それが、桑田佳祐の初めてのオリジナル曲である、『娘心にブルースを』であった。

 

 

当時、原由子は、胸が締め付けられるようなブルースにハマっており、

「私も、ブルースがわかる女になりたい!」と、思っていた頃だったという(後年、原由子は『横浜レディ・ブルース』を発表している)。

桑田が作った『娘心にブルースを』は、そんな原由子の気持ちをわかってくれているかのように、彼女には思えた。

この時は、桑田は原由子の事を、サークルの後輩としか思っていなかったようであるが、原由子は、この曲を聴きながら、何故か胸がドキドキしていた。

当時、桑田佳祐20歳、原由子19歳の、春の日の出来事である。

 

なお、後年、原由子は自伝的エッセイを発表しているが、その本のタイトルは『娘心にブルースを』であり、

今回、私がサザン史を書くにあたり、参考にさせて頂いているのも、この本である。

サザンの歴史と、桑田佳祐と原由子の2人が歩んで来た道が、原由子の素直な筆致により描かれた、とても素敵な本なので、ご興味が有る方は、是非とも、お読み頂きたい。

 

<桑田佳祐と「湘南ロックンロールセンター」、そして「サザンオールスターズ」の誕生!!>

 

 

 

この頃、桑田佳祐は青山学院大学の「ベターデイズ」の他、地元の茅ヶ崎で、「湘南ロックンロールセンター」というサークルを結成し、そこで定期的にライブなどを行なっていた。

「湘南ロックンロールセンター」は、桑田佳祐の小中学校(茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、茅ヶ崎市立第一中学校)時代の同級生・宮治淳一が旗揚げしたサークルであったが、桑田と宮治は別々の高校・大学に行ったものの(桑田は鎌倉学園高校⇒青山学院大学、宮治は神奈川県立鎌倉高校⇒早稲田大学)、2人の親交はずっと続いていた(※2018年、映画『茅ヶ崎物語』で、宮治淳一役を神木隆之介、桑田佳祐役を野村周平が演じた)。

 

 

桑田佳祐は、自らが結成したバンドを率いて、「湘南ロックンロールセンター」での月例ライブに出演していたが、

「青学ドミノス」をはじめとして、バンド名もメンバーも、コロコロ変わっているような状態だった。

しかし、1976(昭和51)年4月11日の月例ライブに出演する際に、桑田の友人・宮治が、お風呂の中で、

「あいつら、サザン・ロックが好きだから、この名前にしておくか」と、ふと思い付いたというバンド名が付けられた。

そのバンド名こそが「サザンオールスターズ」であった。

桑田佳祐も原由子も、このバンド名を大変気に入り、以後、彼らは宮治が名付けた「サザンオールスターズ」というバンド名を、ずっと名乗り続けている。

 

 

 

 

 

そして、宮治淳一は、レコード会社(ワーナー・ミュージック・ジャパン)に勤め、桑田佳祐との親交はずっと続き、

前述の通り、昨年(2018年)には、サザンのデビュー40周年を記念して、宮治はデビュー前のサザンが出演していた「湘南ロックンロールセンター」などを舞台とした、映画『茅ヶ崎物語』を企画・製作した。

そして、特別企画として、「湘南ロックンロールセンター」も「復刻」されているが、サザンの代名詞「湘南サウンド」の原型は、ここで形作られたであった。

 

 

また、「サザンオールスターズ」というバンド名は付けられたものの、初期サザンは相変わらずメンバーチェンジを繰り返し、

一時は、後に音楽評論家となった萩原健太も、サザンのメンバーとして名を連ねていた(桑田と萩原健太の親交も、ずっと続いている)。

初期サザンオールスターズは、まさに混沌とした「オールスター」状態であった。

 

<1976(昭和51)年秋、桑田佳祐と原由子、友達から恋人同士になる>

 

 

桑田佳祐と原由子は、随分前から、お互いを意識していたが、友達同士という関係が続いていた。

しかし、「銀杏の木が黄色く色づいた頃」(※『娘心にブルースを』より)、つまり、この年(1976年)の秋頃だと思われるが、

桑田は原由子に「結婚しよう」と、いきなりプロポーズした。

そして、後日、桑田は原由子を居酒屋に呼び出し、「この間の事、ちゃんと考えてくれてる?」と聞いて来た。

桑田は、いい加減な言葉ではなく、真剣に彼女との結婚を考えていたようであった。

こうして、桑田佳祐と原由子は、友達から恋人同士となったが、この後、更なる紆余曲折が、2人を待ち受けていた。

 

<1976(昭和51)年、日本史上最大のヒット曲、『およげたいやきくん』が誕生!!>

 

 

 

1976(昭和51)年といえば、フジテレビの子供番組「ひらけ!ポンキッキ」から、『およげ!たいやきくん』という大ヒット曲が生まれたという事が特筆される。

モジャモジャのアフロヘアに丸メガネという、特徴有る風貌の子門真人が、「毎日 毎日 ぼくらは鉄板の…」という、独特の節回しで歌う『およげ!たいやきくん』は、爆発的な大ヒットとなった。

 

 

 

『およげ!たいやきくん』は、とにかく売れに売れまくり、最終的には約453万枚という、日本の音楽史上最大のヒット曲となったが、これは恐らく、今後も二度と破られる事は無いであろう。

後年(2000年)、サザンも『TSUNAMI』という大ヒット曲を出したが、それでも約293万枚であり、『およげ!たいやきくん』には及ばなかった。

まさに、『およげ!たいやきくん』こそ、日本の音楽史上に残る、不滅の金字塔である。

 

<1976(昭和51)年のヒット曲…都はるみ『北の宿から』が大ヒット!!~阿久悠の黄金時代の幕開け、そして「東村山音頭」で志村けんが大ブレイク!!「クイズダービー」のスタートetc>

 

 

 

前述の『およげ!たいやきくん』を筆頭に、この年(1976年)も数々のヒット曲が生まれたが、

田中星児『ビューティフル・サンデー』や、斉藤こず恵『山口さんちのツトム君』など、NHKの「おかあさんといっしょ」、「みんなのうた」という子供向け番組発の大ヒット曲が続いたのも、この年(1976年)の特徴だった。

 

 

 

 

 

1976(昭和51)年の日本レコード大賞は、都はるみ『北の宿から』が受賞したが、

『北の宿から』は、作詞:阿久悠、作曲:小林亜星という作家陣によって作られた、渾身の力作であった。

そして、阿久悠は1971(昭和46)年の尾崎紀世彦『また逢う日まで』以来のレコード大賞受賞であり、これ以降、阿久悠の黄金時代が幕を開けた。

 

 

 

 

同年(1976年)は、TBSの人気番組「8時だヨ!全員集合」で、志村けん『東村山音頭』で大ブレイクした。

志村けんは、1974(昭和49)年に、脱退した荒井注に代わり、ザ・ドリフターズに加入したが、当初、志村は全く人気が出ず、伸び悩んでいた。

しかし、この年(1976年)、志村は遂に『東村山音頭』を歌い、大人気となったが、天才コメディアン・志村けんの時代が、遂に始まったのであった。

そして、この年(1976年)は大橋巨泉が司会の「クイズダービー」がスタートし、以後、16年も続く大人気番組となった。

 

<山口百恵が「横須賀ストーリー」の大ヒットなどで超人気アイドルの座に君臨!!…「山口百恵伝説」の始まり>

 

 

 

 

 

1976(昭和51)年6月21日、山口百恵は13枚目のシングル『横須賀ストーリー』をリリースした。

『横須賀ストーリー』は、山口百恵が自ら、作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童という、『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』を大ヒットさせたコンビを指名し、発注したものであったが、『横須賀ストーリー』はオリコン最高1位を獲得、山口百恵の最大のヒット曲となった。

「これっきり これっきり もうこれっきりですか」から始まる、キャッチーな歌詞と、ロック・テイスト溢れる曲、そして何かに挑みかかるような山口百恵の表情なども相俟って、この曲は山口百恵を象徴する楽曲となった。

 

 

 

この年(1976年)、山口百恵三浦友和のゴールデンコンビは、

堀辰雄が原作の『風立ちぬ』や、谷崎潤一郎が原作の『春琴抄』という映画も、次々にヒットさせた。

これは、百恵・友和コンビが初めて主演した、川端康成が原作の『伊豆の踊子』がヒットした事により、敢えて、文芸路線を踏襲したものであったが、その戦略が大当たりした形である。

 

 

 

また、この年(1976年)は、山口百恵は大映ドラマの「赤いシリーズ」の『赤い運命』『赤い衝撃』をも、大ヒットさせた。

いささか時代がかった設定のドラマであったが、山口百恵が演じると、妙な説得力が有り、見る者を惹き付けた。

こうして、山口百恵はまたしても、歌・映画・ドラマと全てのジャンルで大ヒットを連発し、ブロマイドの売り上げが年間1位になるなど、大スターの座を不動のものとしたが、真の「山口百恵伝説」は、ここから始まったと言って良い。

 

<キャンディーズ、『春一番』が大ヒット!!~「見ごろ!食べごろ!笑いごろ」でも大人気に>

 

 

 

 

1976(昭和51)年、キャンディーズ(伊藤蘭・田中好子・藤村美樹)は、『春一番』を大ヒットさせた。

「もうすぐ春ですね 恋をしてみませんか」という歌詞が有名であるが、今も春の季節がやって来ると、テレビやラジオなどで必ず流れて来るような、爽やかな名曲である。

 

 

また、キャンディーズの魅力といえば、歌だけではなく、バラエティー番組に積極的に出演し、

身体を張ったギャグも披露するなど、3人のお茶目な姿も、人気の秘訣であった。

「8時だヨ!全員集合」には、ブレイクする前から、ずっと出演しており、キャンディーズにとってホーム・グラウンドと言っても良いものだった。

 

 

 

 

また、この年(1976年)には、テレビ朝日「みごろ!食べごろ!笑いごろ」で、キャンディーズは伊東四朗や小松政夫などと共演し、更にギャグのセンスを開花させ、お茶の間に、その魅力をアピールし、更に人気を伸ばして行った。

キャンディーズの、ラン(伊藤蘭)、スー(田中好子)、ミキ(藤村美樹)の3人は、今までには無いタイプの、親しみやすいアイドルだったと言って良いであろう。

 

<1976(昭和51)年、ピンク・レディーがデビュー!!『ペッパー警部』『S・O・S』が大ヒット>

 

 

1976(昭和51)年2月、常葉大学付属常葉高校の卒業を目前に控え、「クッキー」というデュオで活動していた根本美鶴代(ミー)、増田恵子(ケイ)は、目標であるプロデビューをかけて、日本テレビのオーディション番組「スター誕生」に出場し、見事に合格を果たした。

そして、2人は待望のプロデビューを果たす事となった。

 

 

 

こうして、ミーとケイの2人は、ピンク・レディーというユニット名を授けられ、1976(昭和51)年8月25日、作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一の『ペッパー警部』で、遂にデビューを果たした。

当初、売れるためには何でもやろうと覚悟を決めていたピンクレディーの2人は、極寒のスキー場で、水着のグラビア撮影をする事も厭わなかった。

 

 

 

その『ペッパー警部』は、当初はなかなか売れなかったが、発売から2ヶ月ぐらいが過ぎた後、「足をパカパカ開く」大胆な振り付けと、

阿久悠が作詞した、無国籍で独特な世界観、そして2人のパワフルな歌声が、次第に評判になり始めた。

 

 

 

 

 

 

そして、『ペッパー警部』は、ヒット・チャートを急上昇し、最終的にはオリコン最高4位という大ヒットを記録、

ピンク・レディーは、デビュー曲から世間に強烈な印象を残す事となった。

稀代の大作詞家・阿久悠の最高傑作とも言うべき、ピンク・レディーの時代が、遂に始まったのであった。

 

 

同年(1976年)11月25日、ピンク・レディーは2枚目のシングル『S・O・S』をリリースし、

ピンクレディー初のオリコン1位となったが、この曲が大ヒットしたのは、翌1977(昭和52年)の事である。

そして、ピンク・レディーは、日本の芸能史上、空前絶後の大旋風の主役となって行く事となる。

 

<1976(昭和51)年の日本シリーズ…長嶋巨人VS上田阪急の死闘~阪急ブレーブスが、悲願の「打倒巨人」を達成し、2年連続日本一!!>

 

 

 

1976(昭和51)年、2年目の長嶋茂雄監督率いる巨人は、張本勲(日本ハム)、加藤初(太平洋)などを積極的に補強し、

長嶋巨人は、阪神とのデッドヒートを制し、130試合目の最終戦で、巨人は広島を5-3で破り、見事に前年最下位からの劇的な優勝を果たした。しかも、前年(1975年)、後楽園で広島に初優勝を決められた屈辱を晴らし、今度は広島市民球場で広島の目の前で優勝を達成した。

 

 

 

 

 

一方、パ・リーグは上田利治監督率いる阪急ブレーブスが連覇を果たし、

日本シリーズは、長嶋巨人VS上田阪急の激突となった。

当初、阪急が3連勝し、一気に日本一に王手を掛けたが、そこから巨人が3連勝と盛り返し、3勝3敗のタイとなった。

しかし、最終戦で阪急が足立光宏の力投で踏ん張り、阪急が4-2で巨人を破り、V9時代に巨人に5度も日本シリーズで敗れたリベンジを果たし、阪急が遂に悲願の「打倒巨人」を達成、2年連続日本一となった。まさに、阪急ブレーブスの最強の黄金時代であった。

 

(つづく)