サザンオールスターズ前史④~1977年「勝手にしやがれ」「渚のシンドバッド」と王貞治756号 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1977(昭和52)年は、サザンオールスターズのプロデビューが決まった年である。

当時、学生バンドだったサザンオールスターズは、「イーストウエスト'77」というコンテストに出場し、

そこで認められたサザンは、遂にプロの世界に入る事となった。

 

 

今回は、サザンオールスターズのプロデビューが決まり、

沢田研二『勝手にしやがれ』と、ピンク・レディー『渚のシンドバッド』が大ヒットし、

そして、キャンディーズ「普通の女の子に戻りたい!」と解散宣言して大騒ぎとなり、

プロ野球では、王貞治通算756号ホームランの世界新記録を達成した、熱狂の年・1977(昭和52)年について、描いてみる事としたい。

 

<1977(昭和52)年、サザンオールスターズのメンバーが出揃う!!そしてサザンはヤマハ主催のアマチュア・バンドコンテスト「イーストウエスト'77」に出場!!>

 

 

1977(昭和52)年2月頃、サザンオールスターズに、「ター坊」こと、ギターの大森隆志が加わった。

大森隆志は、宮崎に住んでいた頃の幼馴染で、ドラマーを目指し上京していた松田弘を桑田佳祐に紹介した。

そして、同年(1977年)4月頃、大森はヤマハ主催の「イーストウエスト'77」というアマチュアバンド・コンテストの存在を知り、

桑田に、「イーストウエストに出よう!!」と、話を持ち掛けた。

当時、桑田佳祐原由子は、それほどプロ志向は強くなかったのだが、大森隆志や松田弘はプロ志向が強く、コンテスト出場に熱心な姿勢を見せていた。

 

 

「よし!それならイーストウエストに出てみようか」

そう決まると、サザンは熱心に練習に励んだが、当時、サザンは『別れ話は最後に』『今宵あなたに』『女呼んでブギ』など、オリジナル曲も次々に出来て、かなりノッている時期だった(※いずれも、後にサザンのファーストアルバム『熱い胸さわぎ』に収録されている)。

そして、「イーストウエスト」に出場する頃までには、桑田佳祐(ボーカル)、原由子(キーボード)、大森隆志(ギター)、松田弘(ドラム)、関口和之(ベース)という、後にデビューする事になるメンバーも固まった。

 

大森は、下北沢の「ロフト」でよく会う、パーカッションのセミプロで、「毛ガニ」こと野沢秀行にも、サザンへの参加を呼び掛けたが、

「まあ、俺もセミプロだし、色々忙しいわけよ。まあ、その内、ヒマになったらね」

と、鼻にも引っかけずに断られてしまった。

 

 

こうして、前述の「イーストウエスト'77」の予選大会に出場したサザンは、

コンテスト会場に、青山学院大学の「ベターデイズ」の後輩達を「サクラ」として動員し、

彼らに「アンコール!!」の大合唱をさせるなど、会場を大いに盛り上げた。

その甲斐も有ったのか、サザンは強烈なインパクトを残し、見事に予選大会を突破し、

同年(1977年)8月27日に、東京・中野サンプラザで行われる決勝大会への出場を決めた。

決勝大会への出場を決めた時、サザンのメンバー達は、高校球児のように、皆、抱き合って喜びを分かち合った。

 

<1977(昭和52)年8月27日…「イーストウエスト'77」決勝大会で、桑田佳祐がベストボーカリスト賞を受賞!!>

 

 

 

そして、1977(昭和52)年8月27日、サザンオールスターズは、「イーストウエスト'77」の決勝大会に臨んだ。

しかし、決勝大会では、ドラムの松田弘が、地元・宮崎でお世話になった先輩のバンドを手伝わなければならないとの事で、残念ながら出場は出来ず、知り合いの紹介で、代役のドラマーの「Oさん」が参加した。

この決勝大会には、カシオペア、シャネルズ、円広志や、後にDJになった赤坂泰彦が所属していた東京JAPなど、実力派のバンドやミュージシャン達がひしめいており、原由子は「尻尾を巻いて、逃げ出したい気分」だったという。

 

 

 

サザンは、『女呼んでブギ』『今宵あなたに』の2曲のオリジナル曲を披露したが、

サザンはまたしても、「ベターデイズ」の後輩達を総動員し、「サクラ作戦」を決行、

彼らは、「アンコール!!」と大合唱するなど、またも会場を大いに盛り上げてくれた。

そして、サザンは優勝こそ成らなかったものの(※優勝はカシオペア)、

桑田佳祐が、見事にベストボーカリスト賞を受賞し、サザンは入賞を果たした。

この時、会場に来ていた、レコード会社のビクターの高垣健が、翌日、桑田佳祐に声を掛けた。

「何だか、面白い奴らだな」というのが、高垣のサザンに対する第一印象だったが、まずは桑田と2人で会った高垣は、意気投合し、

高垣の勧めにより、サザンはデモテープ作りに励んだり、ライブハウス回りを行なったりした。

 

<野沢秀行が、(いつの間にか)サザンに加入…サザンオールスターズのプロデビューが決定!!>

 

 

その後、ドラマーの松田弘も復帰し、サザンはまだ5人体制で、デモテープ作りや、ライブハウスでのライブ活動を積み重ね、

徐々に、その実力を高めて行き、ライブハウスの観客動員も増えて行った。

どうやら、サザンは本当にプロになれそうな気配が高まって来ていた。

その頃、原由子は、「私なんかより、もっと上手い人がキーボードをやった方が良いのではないか」と思い悩み、桑田に相談したところ、

「お前ねー、上を見てたらキリが無いんだよ。一緒に上手くなって行けば良いんだよ!」と言われた。

その言葉を励みに、原由子も覚悟を決め、プロデビューを目指し、ますます熱心に活動するようになった。

 

 

 

一方、大森の誘いを鼻にも引っかけずに断った野沢は、大いに焦った。

「まずい、このままでは船に乗り遅れる!!」と思ったのか、野沢は急にサザンの練習に現れるようになった。

最初は、野沢は「まあ、手伝ってあげても良いよ」という言い方だったようであるが、サザンのプロデビューの気配が濃厚になると、野沢は、渋谷のカレー屋(画像では「タク」とあるが、「タック」)で、大森を通して、桑田に「サザンのメンバーとして、パーマネントでやりたい」という意思を伝えた。

その時は、結論は出なかったが、サザンのメンバー間で話し合った結果、野沢は「準メンバー」としての加入が認められた(?)。

なお、野沢は未だに正メンバーにはなっていないようであるが(※主に、原由子が「ケガちゃんは準メンバー」とからかっている(?))、ともあれ、野沢も加わって6人になったサザンオールスターズは、作り上げたデモテープが評価され、同年(1977年)12月、遂にプロデビューが決まったのであった。

 

<1977(昭和52)年、沢田研二『勝手にしやがれ』が大ヒット!!>

 

 

 

 

 

 

1977(昭和52)年といえば、何と言っても沢田研二『勝手にしやがれ』の大ヒットが、まずは特筆される。

『勝手にしやがれ』は、阿久悠が1959年のフランス映画『勝手にしやがれ』からタイトルを拝借し、

そのタイトルから膨らませて、沢田研二のために、彼のイメージに合わせて書き上げた。

 

 

 

歌の途中で、沢田研二が、被っていた帽子を投げるパフォーマンスなど、

『勝手にしやがれ』は全てが計算され尽くした楽曲であり、作詞:阿久悠、作曲:大野克夫、そして歌手:沢田研二が三位一体となった、快心の作品と言って良く、今聴いても全く古さを感じさせない、素晴らしい名曲である。

 

<1977(昭和52)年、ピンク・レディーの大旋風!!…『S・O・S』、『カルメン'77』、『渚のシンドバッド』、『ウォンテッド(指名手配)』と大ヒットを連発!!前代未聞の大ブームを巻き起こす>

 

 

 

1977(昭和52)年は、ピンク・レディーが前代未聞の大旋風を巻き起こした年でもある。

作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一を中心としたプロジェクトチームにより、毎回、次はどんなコンセプトの楽曲にするか、楽しみながら作った曲が、次々に大ヒットして行ったが、まずは前年(1976)年11月にリリースされていた『S・O・S』が初のオリコン1位となったが、これはまだ、ピンク・レディー狂騒曲の序曲に過ぎない。

 

 

 

 

1977(昭和52)年3月10日、ピンク・レディーは3枚目のシングル『カルメン'77』をリリースし、

オリコンで5週連続1位を達成、「カルメン」というオペラの主人公のように、超ミニの衣装で、ミーとケイが情熱的に踊る楽曲はセンセーションを巻き起こした。

ピンク・レディー狂騒曲が、いよいよ始まった。

 

 

 

 

 

 

 

1977(昭和52)年6月10日、ピンク・レディー4枚目のシングル『渚のシンドバッド』がリリースされた。

『渚のシンドバッド』は、オリコンで8週にわたり1位を獲得し、ピンク・レディー初のミリオンセラーを達成したが、

この頃には、ピンク・レディーの面白い振り付けにも、注目が集まり、いよいよお祭り騒ぎが始まっていた。

 

 

 

 

 

 

1977(昭和52)年9月5日、ピンク・レディー5枚目のシングル『ウォンテッド(指名手配)』がリリースされると、

『ウォンテッド(指名手配)』はオリコンで12週連続1位を獲得、2曲連続のミリオンセラーを達成したが、この曲の振り付けの面白さに、遂には小学生の子供達が飛び付き、ピンク・レディーの大ブームは、阿久悠らが想定していない層にまで拡大した。

もはや、ピンク・レディーの大旋風がどうなって行くのか、誰も予想が付かなくなっていた。

 

 

そして、同年(1977年)12月5日、ピンク・レディーは6枚目のシングル『UFO』をリリースしたが、

『UFO』は翌1978(昭和53)年にかけて10週連続1位を獲得、ピンク・レディー最大のヒット曲となった。

こうして、1977(昭和52)年はピンク・レディー旋風が、日本中を熱狂の渦に巻き込んだのであった。

 

<1977(昭和52)年、キャンディーズが突然の解散宣言…「普通の女の子に戻りたい」が流行語に>

 

 

 

 

1977(昭和52)年も、キャンディーズは相変わらず絶好調であった。

3月1日にリリースした『やさしい悪魔』は、作詞:喜多条忠、作曲:吉田拓郎、衣装をアン・ルイスがデザインし、キャンディーズの新たな魅力をアピールする事に成功し、大ヒットした。

 

 

 

 

6月21日には、『暑中お見舞い申し上げます』をリリースしたが、これまた、キャンディーズの爽やかなイメージも相俟って大ヒットし、キャンディーズはこの頃、まさにノリにノッって絶好調という状態であった。

 

 

ところが、7月17日の日比谷野音でのコンサートで、キャンディーズは突然、

「普通の女の子に戻りたい!!」と、解散宣言を行ない、世間を騒然とさせた。

この頃、殺人的なスケジュールで、キャンディーズは心身ともに限界に達しており、事前に誰にも相談せず、事務所へのクーデター同然に、解散宣言を行なったのである。

この時の「普通の女の子に戻りたい」は、流行語となった。

 

 

 

しかし、この後、キャンディーズと所属事務所との話し合いが行われ、解散は翌年(1978年)3月まで延期される事が決まった。

そして、この事態に全国のキャンディーズのファンが結束し、この時点では一度も無かった、オリコン1位をキャンディーズに獲らせようという運動が盛り上がったのである(※そのファンの中には、後に防衛大臣となった石破茂も居た)。

 

<「花の高3トリオ」の「卒業」…なおも続く、山口百恵の快進撃>

 

 

1977(昭和52)年3月27日、山口百恵・桜田淳子・森昌子「高3トリオ」は、日本武道館で「高3トリオ」の「解散コンサート」を行なった。

正式なトリオではなかったのだが、お互いに支え合い、高め合って来た3人は、ここで一区切りを付けた。

 

 

 

 

 

また、山口百恵『イミテイション・ゴールド』(作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童)と『秋桜』(作詞・作曲:さだまさし)という、

全くタイプが異なる曲を歌いこなし、いずれも大ヒットさせたが、曲ごとに、その曲の主人公に成り切る、山口百恵の「女優」としての真骨頂とも言うべき楽曲であった。

 

 

女優といえば、この年(1977年)の12月に公開された、松本清張が原作の映画『霧の旗』では、山口百恵は兄(関口宏)の冤罪を晴らすため、弁護を頼みに行った弁護士(三国連太郎)に断られ、その弁護士に復讐する女性・柳田桐子役を熱演した。

この映画に限っては、三浦友和(柳田桐子を支える記者の役)は添え物のような役割で、山口百恵と三国連太郎の緊迫したやり取りが、観客を惹き付けた。

 

<1977(昭和52)年のヒット曲…『津軽海峡・冬景色』etc、そして『勝手にしやがれ』が日本レコード大賞!!>

 

 

 

 

 

この年(1977年)は、ピンク・レディーの大旋風が吹き荒れたが、阿久悠は、「高3トリオ」と同年代ながら、伸び悩んでいた石川さゆりに、『津軽海峡・冬景色』という名曲を作詞し、そして『津軽海峡・冬景色』は大ヒットし、石川さゆりは美人演歌歌手として大ブレイクを果たしたが、ピンク・レディーから演歌まで、阿久悠の守備範囲は、本当に幅広いものである。

 

 

 

 

 

1977(昭和52)年のヒット曲は、上の画像の通りであるが、日本レコード大賞は沢田研二『勝手にしやがれ』が受賞し、

阿久悠は、前年(1976年)の都はるみ『北の宿から』に続き、日本レコード大賞連覇を達成した。

まさに、阿久悠はこの頃、我が世の春を謳歌していたと言って良いであろう。

 

<「背番号1の凄い奴」…王貞治の通算756号(世界新記録)の大フィーバー!!…そして阪急の3年連続日本一>

 

 

 

前年(1976年)、王貞治(巨人)は、史上初の通算700号ホームラン、そしてベーブ・ルースの記録を破る通算715号ホームランを放ち、

日本中の野球ファンを熱狂させていたが、この年(1977年)は、ハンク・アーロンの通算755本塁打の「世界記録」更新まで、あと40本に迫っており、日本中が王貞治に注目していた。

 

 

 

 

そして、1977(昭和52)年9月3日、王貞治シーズン40号、通算756号ホームランという「世界新記録」を達成し、野球ファンの枠を超えて、日本中に大フィーバーを巻き起こした。

政府は、王貞治に史上初の「国民栄誉賞」を授与し、王貞治は日本国民の誰もが知る、スーパースターとなっていた。

 

 

そして、日本シリーズは前年(1976年)に続き、長嶋巨人VS上田阪急の対決となったが、

阪急ブレーブスが4勝1敗で巨人を破り、阪急が3年連続日本一を達成し、圧倒的な強さを見せた。

阪急黄金時代は、まだまだ続くかに思われていた。

 

(つづく)