サザンオールスターズ前史①~1974年「AFT」と「新御三家」「高1トリオ」、そして長嶋引退~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(6/25)は、サザンオールスターズ『勝手にシンドバッド』でデビューした日である。

そして、現在、私は「サザンオールスターズと野球界の40年」という記事を「連載」しているが、

その記事は、1978(昭和53)年に、サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』でデビューして以降から、サザンの活躍を描いている。

しかし、「国民的バンド」であるサザンにも、当然、デビュー前のアマチュア時代が有ったわけである。

 

 

というわけで、今回はサザンオールスターズが結成されるキッカケとなった、

桑田佳祐原由子らが青春を過ごした青山学院大学時代(1974~1977年)の、

サザンオールスターズの前身となった音楽サークルの活動と、その時代の芸能界・野球界の動きを、描いてみる事としたい。

今回は、桑田佳祐青山学院大学に入学した、1974(昭和49)年がテーマである。

 

<サザンオールスターズのメンバーのプロフィール>

 

 

サザンオールスターズは、青山学院大学の音楽サークルの所属メンバーを中心に結成されたが、

サザンの各メンバーのプロフィールは、下記の通りである。

 

桑田佳祐(くわた・けいすけ) 1956(昭和31)年2月26日生まれ 神奈川県茅ケ崎市出身(ボーカル、ギター)

原由子(はら・ゆうこ) 1956(昭和31)年12月11日生まれ 神奈川県横浜市出身(キーボード、コーラス) ※通称「ハラ坊」

関口和之(せきぐち・かずゆき) 1955(昭和31)年12月21日生まれ 新潟県出身(ベース)

松田弘(まつだ・ひろし) 1956年4月4日生まれ 宮崎県出身(ドラム)

野沢秀行(のざわ・ひでゆき) 1954(昭和29)年10月19日生まれ 東京都出身(パーカッション) ※通称「毛ガニ」

大森隆志(おおもり・たかし) 1956(昭和31)年12月12日生まれ 岡山県岡山市出身(ギター) ※2001(平成13)年8月7日にサザン脱退

 

サザンのメンバーは、1978(昭和53)年のデビュー以来、ずっと不動のメンバーだったが、

2001(平成13)年8月7日に、ギターの大森隆志が脱退し、それ以降は、桑田佳祐らの青山学院の後輩・斎藤誠が、サポートメンバーとして、ギターを担当している(※ただし、サザンに正式加入はしていない)。

 

<1974(昭和49)年…桑田佳祐、関口和之が青山学院大学に入学、音楽サークル「AFT」で「温泉あんまももひきバンド」を結成!!>

 

 

 

1974(昭和49)年、神奈川県茅ケ崎市出身の桑田佳祐(鎌倉学園高校を卒業)と、新潟県出身の関口和之は、青山学院大学に入学した。

桑田佳祐は、受験には全く自信が無かったようであるが、国語と英語が得意科目で、特に英語には天才的な才能を発揮しており、その2科目の出来が良かった事もあって、青山学院大学に奇跡的に合格出来たようである。

桑田は、幼少の頃から、映画館を経営していた父親や、洋楽好きだった、姉・えり子などの影響により、自らも洋楽が大好きな少年であった。

そして、洋楽だけではなく、歌謡曲など、ありとあらゆる音楽を貪欲に吸収していた。

 

 

さて、青山学院大学に入学した後、桑田は早速、青学の音楽サークルに入ったが、

その音楽サークルの名称は「AFT」であった。

「AFT」とは、何の略称なのかと、桑田が先輩に聞いたところ、「青山・フォーク・旅立ち」だという答えが返って来た。

桑田は、ちょっとダサい名前だと思ったが、それはともかく、「AFT」桑田関口和之と出会い、意気投合した。

そして、桑田と関口はバンドを結成し、桑田は自らのレパートリーであるエリック・クラプトンの曲などを歌ったが、

そのバンド名は「温泉あんまももひきバンド」という、何とも珍妙なものであったという。

ともあれ、こうして音楽に明け暮れる、桑田佳祐の青学での学生生活は始まった。

 

<1974(昭和49)年のヒット曲…フィンガー5、新御三家、山口百恵・桜田淳子・森昌子の「花の高一トリオ」が大人気!!>

 

 

 

 

桑田佳祐が、青山学院大学に入学した1974(昭和49)年は、何と言ってもフィンガー5の大旋風が吹き荒れた年として記憶される。

フィンガー5は、「学園天国」「恋のダイヤル6700」など、大ヒット曲を連発し、大ブームを巻き起こしたが、

フィンガー5の作詞を担当した阿久悠は、確固たる独自の世界観を持ったグループを作り上げるという事に、手応えを掴んでいた。

それが、後のピンクレディーに繋がる事となるが、この頃は、まだ誰も、その事を知る由も無かった。

 

 

 

そして、この頃、芸能界で輝きを放っていたのが、桑田佳祐と同じ1955(昭和30)年度生まれの、

新進気鋭の若手スター、西城秀樹・郷ひろみ・野口五郎の、所謂「新御三家」である。

一方、桑田はまだ一介の大学生に過ぎず、芸能界で煌びやかに輝く彼らは、桑田にとっては、まだまだ遠い存在に過ぎなかった。

 

 

 

 

一方、女性アイドルの方は、前年(1973年)に、所謂「花の中3トリオ」として売り出されていた、

山口百恵・桜田淳子・森昌子の3人が、大人気となっていた。

中でも、山口百恵は、この年(1974年)に『ひと夏の経験』という大ヒット曲を出して、「高1トリオ」(※学年が1つ上がって、そう称された)の中でも、頭一つ抜け出た存在になりつつあった。

 

 

 

 

同年(1974年)の第25回NHK紅白歌合戦は、前述の「新御三家」「花の高1トリオ」が、初めて勢揃いしたという、記念すべき回となった。

当然、紅白が大好きな桑田も、この年の紅白は見ていた筈であるが、果たして、同年代が活躍する紅白を、彼はどんな思いで見ていたのであろうか?

 

<1974(昭和49)年のプロ野球…長嶋茂雄の引退と、「燃えよドラゴンズ」の勢いに乗り、中日が20年振り優勝~そして金田正一監督のロッテが日本一!!>

 

 

 

この年(1974年)のプロ野球の最大の話題といえば、何と言っても、

「ミスタープロ野球」長嶋茂雄が現役引退したという事であろう。

長嶋茂雄の引退は、一つの時代の終わりを感じさせるものであったが、

長嶋茂雄は、10月14日の引退試合で、現役生活に別れを告げた。

そして、長嶋は「我が巨人軍は永久に不滅です!」という、歴史に残る名文句を吐いた。

まさしく、長嶋茂雄現役を終える時まで、不滅のスーパースターであり続けたわけである。

 

 

 

 

後年(2013年)、桑田佳祐は、サザンオールスターズとして『栄光の男』という曲をリリースした。

『栄光の男』は、まさに桑田佳祐が青山学院に入った1974(昭和49)年の時代が舞台となっており、

桑田が、蕎麦屋で蕎麦を食べている時に、テレビで「栄光の男」長嶋茂雄の引退試合が映し出されているのを見た時の情景が歌われているという。

長嶋茂雄という男が、栄光に包まれて引退して行く一方、大学生となった桑田は、女の子にもあまりモテておらず、

「こんな筈じゃなかった…」と、長嶋と我が身のあまりの違いを嘆き、鬱々として過ごしていたというのである。

つまり、長嶋茂雄こそ、桑田にとって、遠い遠い世界に住むスーパースターの象徴だったわけである。

しかし、この後、桑田佳祐もまたスーパースターに成長して行ったというのは、皆さんもご存知の通りである。

 

 

 

 

そして、この年(1974年)のセ・リーグは、前年(1973年)まで不滅の「V9」(9年連続日本一)を達成していた巨人を破り、

星野仙一がエースとして獅子奮迅の働きを見せた中日ドラゴンズが、見事に20年振りの優勝を達成した。

中日は、板東英二が歌う「燃えよドラゴンズ」という応援歌が大ヒットしていたが、これは、同年(1974年)に大ヒットしていた映画、

ブルース・リーが主演の映画『燃えよドラゴン』のタイトルをパクリ、イントロは『月光仮面』のイントロをも、思いっきりパクったものであったが、

当時は、まだ一介のアマチュアの中日ファンに過ぎなかった山本正之が作曲した『燃えよドラゴンズ』は爆発的な大ヒットを記録し、中日ドラゴンズは、その勢いに乗って優勝してしまった。

なお、『燃えよドラゴンズ』は、今日まで歌い継がれる名応援歌である(※山本正之は、後に『タイムボカン』シリーズの主題歌などを作曲した事で知られている)。

 

 

 

この年(1974年)のプロ野球の頂点に立ったのは、

本拠地を持たない「ジプシー球団」だった、金田正一監督率いるロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)であった。

ロッテオリオンズは、日本シリーズで中日を4勝2敗で破り、見事、日本一の座に就いたが、

この後、ロッテが再び優勝⇒日本一に輝くのは、これから31年後の2005(平成17年)であった。

こうして、時代の節目となる1974(昭和49)年は幕を閉じて行ったが、翌1975(昭和50)年には、桑田佳祐の人生を大きく左右する出会いが待っていた。

 

(つづく)