【今日は何の日?】1959/6/25…天覧試合で長嶋茂雄がサヨナラ本塁打(巨人5-4阪神) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(6/25)は、今からちょうど60年前の、1959(昭和34)年6月25日に、

昭和天皇香淳皇后のお二人が、史上初めてプロ野球の公式戦をご観戦された日、

所謂「天覧試合」が行われた日である。

 

 

その「天覧試合」は、後楽園球場の巨人-阪神戦というカードで行われたが、

この試合で、長嶋茂雄(巨人)が劇的なサヨナラ本塁打を放ち、

「大舞台に強い長嶋茂雄」の面目躍如となり、以後、プロ野球を大衆娯楽の王座に押し上げた、伝説の試合となった。

今回は、戦後プロ野球のターニング・ポイントとなった、1959(昭和34)年6月25日の「天覧試合」について、ご紹介する事としたい。

 

<1959(昭和34)年4月10日…皇太子・明仁親王と正田美智子さんの、ご成婚パレード…「世紀のご成婚」で、「ミッチーブーム」が巻き起こる!!>

 

 

1957(昭和32)年夏、軽井沢のテニスコートで、皇太子・明仁親王(現・上皇陛下)は、

軽井沢のテニスコートで、日清製粉社長・正田英三郎の長女・正田美智子さんと、初めて出会われた。

当時、正田美智子さんは、1934(昭和9)年10月20日生まれで、間もなく23歳になろうとしていた。

一方、明仁親王は、1933(昭和8)年12月23日生まれ、美智子さんより一つ年上で、この年の年末に24歳となられる頃であった。

皇太子殿下は、そろそろ結婚適齢期で、「お妃候補」がマスコミを賑わせていた。

そんな折であったが、明仁親王は正田美智子さんの清楚な美貌に、一目惚れをしたのである(所謂「テニスコートの恋」である)。

 

 

その後、紆余曲折を経て、皇太子妃に正田美智子さんが内定したが、

その頃、1956(昭和31)年に「週刊新潮」、1957(昭和32)年に「週刊女性」など、相次いで週刊誌が創刊されていた事も相俟って、

その週刊誌を中心に、空前の「ミッチーブーム」が巻き起こった。

各メディアが、こぞって取り上げたのは、「ミッチー」こと正田美智子さんの、清楚で気品溢れる美しさだった。

 

 

 

そして、1959(昭和34)年4月10日、皇太子殿下と美智子さんは、正式に「ご成婚」となり、美智子さんは、皇太子妃となられた。

そして、お二人は昭和天皇・香淳皇后の列席の下、「ご成婚の儀」を執り行われた。

皇太子の「ご成婚」に、昭和天皇・香淳皇后ともに、安堵の表情を浮かべておられた。

 

 

 

こうして、同日(1959(昭和34)年4月10日)、皇太子ご夫妻による、「世紀のご成婚パレード」が行われたが、

沿道には黒山の人だかりが出来て、お二人に祝福の歓声を送った。

そして、この「ご成婚パレード」を見るために、テレビを買う人の数が爆発的に増えて、世の中に「テレビ時代」が到来したというのは、あまりにも有名な話である。

 

<昭和天皇、プロ野球に興味を抱く…後楽園球場の光を見て、「あの光は、何か?」>

 

 

その頃、昭和天皇には、ある関心事が有った。

皇居から、夜の帳が下りた後、昭和天皇がふと水道橋の方に目を向けると、

そこには、煌々とした光の塊が見えていた。

 

 

昭和天皇は、傍らに控える侍従に訊ねられた。

「あの光は、何か?」

昭和天皇に尋ねられた侍従は、こう答えた。

「後楽園球場の、プロ野球のナイターでございます、陛下」

 

「そうか、ナイターか…」

昭和天皇は、興味深そうに、その光の方をご覧になっていた。

昭和天皇は、それ以前も学生野球の早慶戦をご覧になった事は有ったが、

プロ野球の試合をご覧になった事は、一度も無かった。

この時、昭和天皇プロ野球の試合に、強い関心を持たれたようであった。

 

<読売新聞・正力松太郎VS大毎・永田雅一の駆け引き…「天覧試合」を開催するのは、どちらか!?>

 

 

 

この情報は、すぐさま、2人の人物の耳に入った。

その2人とは、即ち、読売巨人軍の、いや、プロ野球の生みの親と言って良い、読売新聞社の元社主・正力松太郎と、

映画会社・大映の社長にして、プロ野球の大毎オリオンズのオーナーでもある、「永田ラッパ」こと、永田雅一である。

 

 

 

正力松太郎は、自らが作り、育て上げた巨人軍の試合、つまり後楽園球場の巨人の公式戦に、昭和天皇をお招きし、試合をご覧頂く事を熱望した。

一方、1960(昭和35)年の、大洋ホエールズと大毎オリオンズの日本シリーズでは、毎試合、大洋・中部謙吉オーナーと共に、野球帽を被ってオリオンズを応援するほど、野球好きだった永田雅一は、パ・リーグ総裁を務めており、パ・リーグ振興のためにも、是非とも昭和天皇に、大毎オリオンズの試合(カードは、大毎オリオンズ-西鉄ライオンズ)をご覧になって頂きたいと、強く願っていた。

 

<6月19日…「天覧試合」が、6月25日の「巨人-阪神戦」(後楽園球場)に決定、宮内庁より通達>

 

 

こうして、「天覧試合」の開催を巡り、読売と大毎(大映・毎日新聞)の暗闘が続いたが、

6月19日、宮内庁より「天皇陛下と皇后陛下が、6月25日の後楽園球場の巨人-阪神戦をご観戦になる」とに通達が有った。

こうして、「天覧試合」開催争いは、読売側に軍配が上がる事となった。

 

 

その決め手となったのは、やはり巨人-阪神戦が、戦前から続く、プロ野球の看板カードであるという事と、

正力松太郎の方が、永田雅一よりも政治力が勝ったという事、

そして、何よりも、昭和天皇が初めてプロ野球にご関心を持たれたのが、後楽園球場の巨人戦のナイターの光だった、という事だったと思われる。

こうして、歴史的な「天覧試合」は、「伝統の一戦」である巨人-阪神戦に決まった(※この時は、プロ野球が始まってから、まだ20年足らずだったので、それほど伝統が有ったわけではないが)。

 

<1959(昭和34)年6月25日、午後7時…昭和天皇・香淳皇后が、後楽園球場にご到着>

 

 

 

1959(昭和34)年6月25日、午後7時、昭和天皇香淳皇后が、後楽園球場に到着された。

この日、初めて天皇・皇后両陛下をお迎えするという事で、後楽園球場の職員が、廊下をピカピカに磨きすぎていたが、

「これでは、陛下が転んでしまわれる危険性が有る」と、宮内庁職員から注意される一幕も有ったという。

しそれはともかく、昭和天皇・香淳皇后が、後楽園球場に姿を現すと、後楽園球場を埋め尽くした大観衆からは、大拍手と大歓声が起こった。

 

 

 

後楽園球場は、この日のために、それまでは無かったロイヤルボックスが作られており、

昭和天皇・香淳皇后のお二人は、そのロイヤルボックスで、試合をご覧になる事となった。

ロイヤルボックスでは、読売の正力松太郎、阪神の野田誠三の両オーナーや、

両陛下へのご説明役として、中沢不二雄(パ・リーグ会長)も列席した。

そして、試合前には巨人と阪神の両球団の選手達が整列し、両陛下に一礼した。

なお、この日は後楽園球場は鉦や太鼓などの、鳴り物の応援は自粛され、試合前から異様な緊張感が漂っていた。

 

<「天覧試合」の試合開始…巨人・藤田元司、阪神・小山正明の両エースが先発し、両チームとも必勝を期す>

 

 

 

こうして、歴史的な「天覧試合」は幕を開けたが、巨人・藤田元司、阪神・小山正明という、両エースの先発となった。

巨人、阪神の両チームとも、必勝を期して、一番信頼出来るエースをマウンドに送ったのだが、

試合前から、若手選手はともかく、戦争に行った経験が有るようなベテラン選手は、ガチガチに緊張していたようである。

当時は、まだ終戦から10数年しか経っておらず、日本が漸く、戦後復興の途に着いた所であった。

 

 

 

特に両チームの監督は、この試合に並々ならぬ意気込みで臨んでいた。

巨人・水原茂監督は、かつて日本が敗戦した後、数年にわたったシベリア抑留により、辛酸を嘗め尽くした経験が有り、

漸く、命を永らえて帰国した日本で、今、「天覧試合」の晴れ舞台に立つ事となった。

一方、阪神のカイザー田中(田中義雄)監督は、ハワイ生まれの日系2世で、戦前に阪神で捕手としてプレーしていたものの、

戦争の激化により帰国し、アメリカ兵として、日本と戦った経験が有った。

つまり、共に戦争を乗り越えた同士として、「天覧試合」に臨んでいたのであり、2人とも、どうしても勝ちたいと意気込んでいた。

 

という事で、「天覧試合」の両チームの先発メンバー(スタメン)は、下記の通りである。

 

【阪神】

(遊)吉田義男

(二)鎌田実

(三)三宅秀史

(一)藤本勝巳

(左)大津淳

(右)横山光次

(中)並木輝男

(捕)山本哲也

(投)小山正明

 

【巨人】

(左)与那嶺要(ウォーリー与那嶺)

(遊)広岡達朗

(中)藤尾茂

(三)長嶋茂雄

(右)坂崎一彦

(一)王貞治

(二)土屋正孝

(捕)森昌彦

(投)藤田元司

 

 

<「天覧試合」は、白熱の好ゲーム!!…追いつ追われつの激しい点の取り合いと、「ONアベックホームラン第1号」>

 

 

 

さて、「天覧試合」のスコアと試合展開については、上記の画像をご覧頂きたいのだが、

巨人と阪神、両チームの意地と意地がぶつかり合った、素晴らしい名勝負となった。

3回表、阪神が先発投手・小山正明自らのタイムリーにより、まず1点を先取し、阪神が1-0とリードした。

 

 

 

しかし4回裏、巨人は4番・長嶋茂雄、5番・坂崎一彦が、

阪神・小山から2者連続ホームランを放ち、巨人が2-1と逆転し、試合を引っ繰り返した。

この時、後楽園球場を埋め尽くした大観衆からはヤンヤの大歓声が起こった。

 

 

 

しかし、1-2と逆転された阪神は、6回表、2番・三宅秀史タイムリーで2-2の同点に追い付いた後、

4番・藤本勝巳が、レフトスタンドへ高々と2ランホームランを放ち、阪神が4-2と再逆転に成功した。

なお、藤本勝巳は、この「天覧試合」の4年後、1963(昭和38)年に島倉千代子と結婚したが、その数年後に離婚してしまった。

 

 

 

2-4と逆転された巨人は、7回裏、この試合で6番を打っていた、新人・王貞治(早稲田実業出身)が、小山正明から、ライトスタンドへ起死回生の同点2ランホームランを放った。

当時の王貞治は、まだ「一本足打法」を習得する前であり、これが、このシーズンの4号ホームランであったが、その一発が、誠に値千金の同点ホームランとなった。

なお、この後、通算106回を数える事となる、「ON(王・長嶋)アベックホームラン」の、これが第1号であった。

このように、白熱の好ゲームが展開され、「応援自粛」もどこ吹く風と、後楽園のスタンドは興奮の坩堝と化していた。

勿論、両陛下も大いに楽しまれているご様子であった。

 

<7回途中、阪神は2番手に新人・村山実を投入!!…そして9回裏、長嶋茂雄が劇的なサヨナラホームラン!!…「千両役者」「持ってる男」長嶋茂雄の面目躍如>

 

 

4-4の同点に追い付かれた阪神は、7回途中で先発の小山を諦め、

この年(1959年)、関西大学から阪神に入団した新人・村山実をマウンドに送った。

村山は、気迫の投球で巨人打線を抑え込み、4-4の同点のまま、9回裏を迎えた。

 

 

 

 

 

4-4の同点で迎えた9回裏、巨人は先頭打者として、4番・長嶋茂雄が打席に立った。

この時、両チームの関係者は誰も知らなかったが、実は、昭和天皇・香淳皇后の退席時間が迫っていた。

退席予定は、午後9時15分であり、この時、退席予定時間まで、あと数分に迫っていた。

しかし、長嶋はそんな事は関係無く、極限まで集中力を高め、そしてカウント2-2からの5球目、

長嶋村山が投じた内角高目の速球を振り抜き、見事にレフトスタンドへ劇的なサヨナラホームランを放った。

 

 

 

 

 

 

長嶋茂雄の、あまりにも劇的なサヨナラホームランに、後楽園球場は、熱狂に包まれた。

三塁コーチャーズボックスに立っていた、巨人・水原監督は、帽子を振り回し、喜びを全身で表していたが、普段はクールな水原監督も、よほど興奮していたようである。

長嶋は、誇らしげにベース一周し、歓喜の巨人ナインに迎えられたが、一方、村山はガックリとうなだれ、そして足取り重く引き上げて行った。

そして、昭和天皇は、長嶋のサヨナラホームランをご覧になった後、拍手をされるでもなく、惹き込まれるように、じっと見入っておられたという。

こうして、昭和天皇の目の前で打った長嶋茂雄の劇的なサヨナラホームランは、日本野球史上に残る「伝説」となった。

 

 

ちなみに、長嶋は立教大学時代、東京六大学野球の通算最多ホームランの7本に並んでいたが、

学生最後の試合となる、1957(昭和32)年の立教-慶応の最終戦で、見事に新記録の8号ホームランを放ち、神宮球場を熱狂させたが、

その東京六大学のスーパースター・長嶋茂雄が、この「天覧ホーマー」により、プロ野球のスーパースターの座に就いた。

そして、東京六大学の人気が、ゴッソリとプロ野球に移ったのは、まさに長嶋茂雄のプロ野球での大活躍が契機だったのである。

つまり、大袈裟に言えば、日本野球の歴史を変えるホームランだったと言って良い。

 

<長嶋茂雄VS村山実…生涯の宿敵として、名勝負を繰り広げる!!~そして巨人-阪神戦が「真の黄金カード」に>

 

 

 

 

一方、長嶋に屈辱のサヨナラホームランを浴びた村山実は、以後、この悔しさをバネに大投手に成長し、

長嶋茂雄と村山実は、数々の名勝負を繰り広げたが、巨人-阪神戦が真の黄金カードとなり、

「長嶋茂雄VS村山実」という名勝負が生まれたという意味でも、「天覧試合」の歴史的意義は大きかった。

そして、この「天覧試合」以降、巨人は日本の大衆娯楽の王座に就き、巨人は黄金時代を築き上げて行くのであった。