「いみゐずゐじ(忌み居ず居じ)」。語尾の「ずゐじ」は「じじ」のような音になりつつ一音化した。語尾の「じ」は、けしてない、という意の助動詞(「君が悔ゆべき心は持たじ」(万3365))。「いみゐずゐじ(忌み居ず居じ)いみじ」は、忌(斎)みて居(ゐ)ずに居(ゐ)ことはけしてない、忌(斎)みて居(を)らずに居(ゐ)ことはけしてない、ということ。つまり、一般的・絶対的に忌む(斎む)べきことであることを表現します。この慣用的表現がシク活用の形容詞のように活用変化するようになりました。つまり、それは極度に忌むべきこと・斎むべきことであり、その程度が深刻である心情が表現されます。それは忌みおそれるようなことや、忌み、触れたくないと思うようなことや、その尊重性から触れることを恐れる(つまり深刻なほど素晴らしい)ことも、さまざま表現します。その深刻な「いみ(忌み・斎み)」、その深刻な心情の深まり、が悲嘆的なそれなのか歓喜的なそれなのかは文脈によって決まります。「いみじ」で表現されるその深刻な心情の深まりがどのような心情なのかは様々なのです。

「神(かみ)さへいといみじく鳴り」(『伊勢物語』:神(かみ)は雷(かみなり)のこと)。

「世の中にいみじき目見給ひぬべからん時に、この琴をばかきならし給へ」(『宇津保物語』ひどく辛いときや嫌な日々のとき)。

「いといみじき花の蔭」(『源氏物語』:深刻なほど美しい)。

「いみじき色好み」(『宇津保物語』)。

「みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし」(『徒然草』:自分では(自分を)非常にたいしたものだと思う)。

「『……物の聞こえあらば(もし何かが耳に入ったら)、北の方いかにのたまはむ。『わが言はざらむ人のことをだにしたらば、ここにも置いたらじ』とのたまひしものを』とて、いみじと思ひたまへれば、……」(『落窪物語』:深刻に悲嘆的な思いになっている)。

 

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