この映画について具体的につらつらと書く前に少しだけ。
私たちの一生とは、人生の分岐点になるような事柄から日常生活の些細な事に至るまで、意識するにせよ、しないにせよ、常に選択と決断に迫られています。
そして、人の価値とはその決断によって定まるものではないか、と梅之助は考えております。
私たちは普通、「死にたくない」「出来れば楽に生きたい」「生きる以上は豊かに生きたい」と思うものです。しかしその一方では、人としての名誉や誇りを抱きながら「立派に人生を生き、立派に死にたい」と考えている人も多いのではないでしょうか。
前者の思いはより「生存本能」に由来するものであり、後者は「人間が持つ理念性」によるものだと梅之助は理解しているのですが、この本能と理念が共存し、競合し、矛盾し、激突する事で、人間は他の動物には見られない複雑な精神を構成していると考えるのです。まあ、普通の日常生活での選択・決断は、本能と理念の深刻な相克などは生まないで済む事が殆どですがね。
ただし生命に関わる覚悟と決断は極めて深刻かつ重大で、日常生活において全く気付かれず、むしろ隠されていた「その人の価値」が表れてきます。
通常、人は好んでこのような非常な決断はしたがりません。決断をするのは自分ですが、それを迫るのは環境です。そしてその諸々の環境の中でも、個人の生命に対する覚悟と決断を決定的に迫るのが「戦争」なのです。
勿論、戦争それ自体は大量殺人であるから、その反倫理性は否定できませんが、「戦争による死」に直面した個々あるいは集団の人間性と心情を、現代日本に生きる自分がどう受け止める事が出来るのか、という問いかけはずっと持っていたいと思っています。
梅之助が戦争映画を観るのは、そういった所にも理由があります。
さて、冒頭から長々と書いてしまいました。
以下は、ざっくばらんに映画「大日本帝国」の感想を連ねていきますか。
映画「二百三高地」に続く東映の戦争映画第二弾で、1982年の公開です。当初は1981年公開の予定で企画されましたが、東宝が「連合艦隊」を同年に公開した為、競合を避ける意味で82年の公開となったそうです。
監督・脚本は「二百三高地」と同じ、舛田利雄&笠原和夫のコンビ。出演者も多くの役者さんが「二百三高地」と共通です。
冒頭から「桜」ですよ。大東亜戦争らしいですねぇ。
少尉に任官した小田島剛一役の三浦友和さん。凛々しいです。
「二百三高地」引き続き、こちらでも登場の故・夏目雅子さん。
柏木京子と戦地の現地人・マリアの二役でした。ただ、ストーリー上、夏目さんの二役は必然的なものでしたが、二人分の役柄故に注目が分散し、かえって印象が薄くなってしまった感が個人的にはあります。
つぶらな瞳が何とも言えない・・・
こちらは、出征を控えた床屋の小林幸吉のもとに嫁いだ新井美代役の関根恵子さん。
実生活では82年に結婚して、丁度この映画の公開時期に高橋恵子さんになります。
同じ北海道出身なので以前から関根恵子さんの名前くらいは知っていましたが、その映像にリアルで接したのはこの映画のあたりだったと記憶しています。
実は梅之助的には、和風美人顔をした関根恵子さんの方が好みだったりします(初めてこの映画を観た10代の頃は、まだ夏目さんの方が好みだったとは思うけれど)。
特に彼女の20代後半から30代の美しさはかなりのドストライク。また、「関根」時代は色々あったようだけれど、結婚してからは意外(?)にも良き家庭を築き、それなりに夫婦円満でおられる事にも好感が持てます。
風雲急を告げる日米開戦前夜、大命降下を受ける東條英機。
「二百三高地」で圧巻の児玉源太郎を演じた故・丹波哲郎さん。
美代の夫・幸吉が戦ったマレー作戦。
戦地で負傷し、内地の病院で治療を受けていたあおい輝彦さん演ずる幸吉を訪ねる美代。
幸吉は退院して除隊となり、つかの間の幸せな生活を送っていた二人。
しかし戦局の悪化に伴い、再び幸吉に召集令状が届きます。
幸吉が赴いたのはサイパン島。
そこにはマレー作戦で共に戦った小田島の姿もありました。
このあたりから見ていて辛いものがあります。負け戦ですからね。
関根さん、夏目さんに続く第3の美人、国吉靖子役の佳那晃子さん。
米兵がおもちゃにしていた日本兵の頭部の遺骨を手に、涙する小田島。
絶対国防圏であるサイパンの日本軍は玉砕し、多くの民間人も運命を共にしました。
終戦後、東條は最後の陸軍大臣となった下村定(演:田村高廣)から「平和を求めていた陛下の真意を裁判で証言できるのはあなたしかいない」と、自決を思い留まるよう説得されます。
「戦争は相手のある事であり、相手国の政府をも審理の対象としなければ、真実の経過の解明にはならない」と証言する東條。
その頃、民間人殺害を起こした下士官の上官としてBC級戦犯となり、死刑判決を受けた江上孝(演:篠田三郎)を現地まで訪ねる京子。助命嘆願書を携え、彼に再審請求をするように訴えるものの、それを拒否する江上。
篠田さん、死相がありありです。
ああ、夏目さんは「二百三高地」同様、ここでも泣き崩れるのですね。
一方、サイパンの日本軍が玉砕した時は夫の後を追って海で親子心中をしようとまでした美代でしたが、東京大空襲を生き延び、戦後も闇商売などで逞しく生きる姿がありました。
・・・遠くに人影が。
映画としての客観的印象は旅順攻略という局地戦を描いた「二百三高地」に比べて、対英米開戦~終戦までと期間が長い為、物語の展開が散漫な印象があります。
また「二百三高地」は、「政府」「現地軍上層部」「前線の将兵及び彼らを取り巻く一般人」という3段重ねのドラマとしての重厚さがありましたが、この作品では「東條を中心とした政府」と「前線の将兵及び彼らを取り巻く一般人」だけなので、人間ドラマとしての見応えも「二百三高地」に比べると、やや物足りなく感じました。まあ、描写対象のスパンが長いので、脚本的には難しいですよね。
米国との開戦経緯の描写は割と客観的な感じです。東條が開戦決定時の夜に一人泣いた事も描かれており、彼の描写も全体的に公平でした。
もっとも、作品中には首をかしげたくなるシーンも散見されますが、この映画の公開当時はまだ「勝者の悪事は隠蔽され、敗者の悪事は徹底的に誇張・強調される」時代であり、市井の我々の多くもそのように受け止めていたので、まあそれは諦めています。
ただし、「二百三高地」では「戦争批判」という一般的なメッセージに留まったのが、この作品ではより具体的かつ先鋭的に描かれているようでした。
ズバリそれは「天皇の戦争責任の追及」。
「天皇陛下も戦争に行くのかしら?」「天子様はずっと宮城だよ、ずっと」
「天子様のお言葉で戦争が済むんだったら、なしてもっと早く止められなかったんだべか」
現在のように高等教育を多くの人が受けてはおらず、基礎教育のみの者が殆どであった昭和初期においては、実際にそのように素朴に思った人もいた事でしょう。
しかし、旧帝国憲法下の「君主無答責」の仕組みや解釈、「天皇機関説」に賛成であった昭和天皇の事を知りうる立場であるこの映画の製作陣が、このような描写を意図的にすることは如何なものでしょうか。
まあ、まだこれくらいなら許せます。
「仏さまに比べたら、この地上の帝王など、実に小さなものだ」
東條の獄中での言葉ですが、このような発言の事実はあるんでしょうかね。人一倍、天皇の忠臣という意識が高かった彼の言葉とは思えないのですが。
「日本政府がポツダム宣言を受諾したとしても、天皇陛下は例え、お一人になられても必ず私らを助けに来てくれるはずです」
類型的な帝国軍人として描かれ、BC級戦犯として拘留されるものの、陛下が助けてくれると信じて脱走を企てようとした下士官の言葉。
これを聞いて、梅之助は唖然としました。何という脚本家の嫌味か。
「天皇陛下、お先に参ります」
誰よりも理性的・反戦的だった元京大生・江上が戦犯として処刑される際の言葉。
これも凄い脚本的皮肉。暗に「天皇も処刑されて、こちらに来い」と言っている、と取れます。
Wikipediaによると、
”右派の作曲家・黛敏郎は「非常に巧みに作られた左翼映画」と評し、左派の映画監督・山本薩夫は「非常にうまく作られた右翼映画」と評したとのことである”
とあります。これ、どう考えても黛敏郎氏の解釈が正しいでしょう(脚本家の笠原氏は、黛氏の解釈が正しい事を認めています)。左翼の知識人って、「大日本帝国」という反動的なタイトルや、理性的な人間が「天皇陛下バンザーイ」って叫ぶシーンを表面的に見るだけで、底の浅い解釈しか出来ないんですかね。
予告・宣伝用フィルムにある「今、甦えるトージョーの伝説」というテロップは、右派の人たちへの単なる「撒き餌」でしかないのに。
ストーリー的には関根恵子さんや夏目雅子さんが美しかったので、引き込まれて観る事はできました。いや~、関根さんホント良かったな。
最後に、映画とは直接関係はないですが、一言。
「大日本帝国」に並んで反動的な言葉といえば、「大東亜戦争」でしょう。
梅之助もこのブログを書き始めた当初は、あまりこの表現は使おうとしませんでした。かと言って「太平洋戦争」という言葉も嫌だったので、「対英米戦争」などと書くことが多かったと思います。
ただし、ここ近年は「大東亜戦争」という言葉を積極的に用いるようにしています。
理由は、「植民地解放戦争だった」事をことさら強調したい訳では無くて、もっとシンプルに当時の内閣が閣議決定した正式名称だから。
憲法は変われど、初代内閣総理大臣の伊藤博文から始まって、現在の第98代内閣総理大臣安倍晋三まで、敗戦で一度リセットされた訳でもなく日本の内閣制度は連続しています。正式に順を追って数えられてもいます。
ならば第40代東條内閣、つまり国が決めた名称を使う事の方が、梅之助は筋だと思っているからです。