前回の記事

 

‐『歴史を直視すること』は 現在の「不条理を打ち破る力」である その4‐

 

 

・付和雷同 『サル山』の論理

 

 

日本人には一方では村八分にされたくないという意識がある。

 

また、六六〇年百済が敗れて日本に渡って来たので、大陸へのコンプレックスがある。

 

また他方では西欧に対するコンプレックスがあるわけです。

 

その中心に天皇がいるわけです。このうち一つでも欠けていたら、たとえば天皇がもし大統領だったら、もっと違ったものになっていたかもしれません。これは長い間に築かれてきた発想法でしょう。

 

今、自然科学は月の世界をも対象にしているときであるのに人文科学は遅れているんです。

 

差別だの何だのと、みみっちいことにかかわっているわけだが、今ここで大いに発見しなければならないと思います。発見するためには歴史の確認をしなければならないのです。

 

だから絶対に不和雷同<付和雷同-自分にしっかりとした考えがなく、他人の言動にすぐ同調すること。定見をもたず、すぐ他人の意見に賛成すること>してはいけないと思うんです。

 

後進性とは、サル山の政治状況ですよ。

 

一つのサル山のボスになるために血で血を洗うわけです。いったんボスになると、こんどは自分の友だちであろうが、学校の先輩であろうが多くの牝ザルをつかっていじめるわけです。

 

そしてそのボスは他の国の子ザルになるわけです。

 

韓国の兵隊がなんでベトナム人民に恨みがあるわけですか。

 

アメリカというボスザルのよき子分になるためにベトナムに軍隊を派遣するわけです。これは日本精神<付和雷同/非主体性>に侵された朴正煕大統領の奴隷根性の習性なんです。

 

一つの歴史の病気が治っていないうちに余病が起きているわけです。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 249~250頁より

 

 

・薩長的日本の概説(天皇を「皇帝」に偽造した連中)

 

 

先に、大陸や西欧への『コンプレックス』があると記述しましたが、私自身が文献を読んで調べた結果、天皇はやはり「中華皇帝の模倣」であることはハッキリとしています。

 

‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その1-

 

‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その2‐

 

北東アジアにおいて、農耕社会のトップたる中国の「凄まじき文明力」は、あらゆる国家の『文化』や『律令体制の基礎』をつくり、その威厳は言わずもがなであり、多くの「憧れ」を抱かせたことを含め、東洋史の勉強をすればするほど、それを強く自覚してきた。

 

『古事記』の時代から明治維新まで、漢文は長らく日本の公用語であった。飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸時代と、我が国のお役人や知識人たちは正式な書写言語として漢文ないしは日本語混じりの変体漢文を使ってきたのであり、その間に大量の漢語がそのまま日本語に入って、定着した。

 

今の日本語の中から漢語を取り去ったら、まともな文章は書けない。片仮名(カタカナ)や平仮名(ひらがな)さえも漢字を改良して作られたものに過ぎない。

 

つまり日本の文字文化は、近世以前は徹頭徹尾、中国の御蔭を被ってきたといっても過言ではない。しかるに明治維新以後、日本の政治家・官僚・経済人・文化人の目は欧米を向き、とりわけ第二次世界大戦後は、芸術・娯楽の分やを通じて一般大衆にいたるまでこぞってアメリカ合衆国になびくようになった。

 

かつての日本にとって中国は、現在のアメリカ合衆国以上の圧倒的存在であった。戦後六〇年を経て、今や日本の政府首脳や高級官僚が、日米同盟こそ日本外交の基本方針であると公言してはばからない外交不毛の情けない時代とはいえ、選択肢としてはヨーロッパもあればアジアもある。

 

しかし飛鳥・奈良時代から平安時代前期の日本にとって大唐帝国は、いわば唯一無二の絶対的存在であった。百済・新羅や渤海があったとはいえ、それらはいずれも漢字と律令制と仏教文化を受け継いだ東アジア文明圏の兄弟のようなものであって、父であり母であり師匠であったのはひとえに唐であった。

 

森安孝夫 『シルクロードと唐帝国』 講談社 16~17頁より

 

その中で、なぜか本家中国の「皇室」を「帝室」と言い換え、自国の「王家」を「皇室」となぞらえることへの疑問から始まり、近代、アジア諸国に対して不必要なる不遜と敵愾心を持った明治期の『元勲』や『学者』の言説を調べ、しばらく吟味した結果、6年も前に至る英語ブロガーMichikoさんの言葉が、ふとよぎった・・・。

 

-シリーズ『オリエンタリズム、名誉白人、薩長日本』1-

 

-シリーズ『オリエンタリズム、名誉白人、薩長日本』2-

 

‐シリーズ・「韓国人」の日本人観 その5(日韓それぞれの「思い込み」)‐

 

『薩長的日本』、いわば脱亜入欧と叫ばれた「ヨーロッパ」と「国学」のキメラである、奇怪な近代日本像そのものとして、わが北東アジアにおいて強烈な違和感を催すのである。

 

私は冒頭引用の「サル山の論理」については、なかなか理解が追い付かず、同意へ至っておりませんが、わかりやすく言うならば、日本社会に蔓延する『同調圧力』の認識であり、それに溺れた李光洙(香山光郎)朴正熙(高木正雄)の姿でしょう。

 

‐『歴史を直視すること』は 現在の「不条理を打ち破る力」である その3‐

 

‐『歴史を直視すること』は 現在の「不条理を打ち破る力」である その4‐

 

現在の退廃しきった社会を見れば、あらゆる人文科学的認識の「欠如」が、歴史や哲学的意識の発想によって「社会を切り取って分析すること」を通じ、人々に今いる立ち位置や、この先の未来を描く展望を見いだせるツールとなり得ると信じて、ブログを書かせて頂いています。

 

 

『公文書偽造で始まった明治維新!現在も続く「官軍教育」の中で描かれた「偉人」たちの姿は「ウソ」ばかり!? ~岩上安身によるインタビュー 第847回 ゲスト 作家・歴史評論家・原田伊織氏 2018.3.8』

 

 

https://iwj.co.jp/wj/open/archives/414211

 

昨日の晩に、本動画の一部再放送を拝見して、そこで語られる薩長の「傍若無人ぶり」は、物凄いものがありました。作家原田伊織氏ご見識を借りて、当時自然科学が発達し、自前で軍艦も製造できるようになった徳川政権のスタンスは、外洋侵略でなく『徹底した専守防衛思想』(北東アジアの秩序維持)であり、それらの軍艦は、江戸湾に入ってくる欧米船籍を迎え撃つためだけのものでした。

 

‐江戸時代の朝鮮観その3(優越思想と国学者の場合)‐

 

‐江戸時代の朝鮮観その4(幕末期)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論①)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論②)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論③)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識①)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識②)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識③)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合①)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合②)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合③) ‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合④)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答①)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答②)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答③)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答④)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答➄)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答⑥)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答⑦)‐

 

しかしながら、国学の狂信者であり、やがて神武天皇の皇紀2500年を「現実のもの」たらしめた薩長閥の人間は、まったくもって「真逆の思想(海外雄飛/近隣諸国の侵略)」であり、思わず岩上安身氏「(薩長の者たちが)同じ民族ではないのではないか」と述べたくらいでした。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

・森安孝夫 『シルクロードと唐帝国』 講談社 

 

・Youtube動画 『公文書偽造で始まった明治維新!現在も続く「官軍教育」の中で描かれた「偉人」たちの姿は「ウソ」ばかり!? ~岩上安身によるインタビュー 第847回 ゲスト 作家・歴史評論家・原田伊織氏 2018.3.8』

 

https://iwj.co.jp/wj/open/archives/414211

 

 

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