伊吹有喜著「なでし子物語」 ~美しい靴~
せいいっぱいのばした指先が、あと少しでふれそうに、つながりそうに、揺れて伸びている。懸命に天を仰いで、決して折れない、なでしこの花のように。* * *オリビア・ニュートン・ジョンの歌う 「ザナドゥ」この一週間、何回聴いたかわからないくらい聴いた。歌詞の意味を知って、いっそう深く。(なぜ今)日本の言葉には置き換えられない語感が、情感の渦となって、映像を結んだ。オーロラは、空の羽ばたき。宇宙を奏で、巡る、壮大な祈り。(伸びゆくものは伸びていけ)そう願う。伊吹有喜さんの書く物語を読むと、忘れていたものを思いだす。「知っていた」ということを思いだす。かつていた場所に似ている。好きだった場所に似ている。なつかしい場所に似ている。琥珀色の場所。こんぺいとうのような場所。そこにいてもいい場所。誰かを思い出し、自分を思い出し、たくさんの感情を思い出し、「こんなふうに泣きたかった」と思える涙を流し、自分がとても満たされていることに気づく。静かに寄せるエールのように。「なでし子物語」(伊吹有喜著 ポプラ社刊)* * *薦めたい人が二人だったら、個別にメールを送る。三人以上だったら、ブログに書く(今回、決めた)。以下、ネタバレでよかったら、読んでください。◆なでし子に翔けられたもの◆ザナドゥとは◆美しい靴を履け◆世阿弥の初心◆伸びていく先に* * *◆なでし子に翔けられたもの「なでし子物語」は、たくさんの言葉やアイテムが、掛詞のように意味を織りなし、彩られ、ちりばめられている。物語の舞台は日本なのに、外国の物語を読んでいるような、不思議な情景。(受け取るということは、果敢な能動だ)「なでし子」は「撫でし 子」 そう思った瞬間から、作品が全く変わってくる。撫でられたこと。撫でたこと。ぬくもり。てのひら。気配が近付いてくる。子どもをかわいがる、愛するという姿が、さまざまなエッセンスで、幾層にも掛詞となり織り上げられ、その花の持つ伝説とともに読んだ人の心に咲く。「星の天女」 (以下、物語の中で語られる伝説のあらすじ)峰生の里には天女と少年の伝説がある。見習い中の童女だった天女がうっかり居眠りをして下界に落ち、峰生の少年に助けられた。天女はやがて天に戻る。だけどお互い、相手のことが忘れられなくて、少年は、木を懸命に育てる。天に届くほど高く。天女の目に留まるよう、どこの山よりも美しく。天女も少年のことが忘れられず、峰生の里に降りるため、糸を織り、長い長い紐を編み続けた。そして、ある七夕の夜、一番高くて美しい木に少年が登ったとき、天から美しい紐が降りてきた。長い年月の間に、童女は立派な天女になり、少年はたくましい若者になっていた。そのまま、星の天女は地上に降り、糸を取り、機を織ることを女たちに教え、峰生は、美しい糸と森の里として栄え続けた。そして、若者の寿命が尽きたとき、天女は姿を消し、その墓のまわりに、星の形をした花が咲いた。天女は小さな花になって、この地を守ると決めたのだった。星に似た花は天女の加護の印。* * *花屋にはない。ちっぽけで、風が吹けばすぐに揺れる。だけど折れない。いつも懸命に天を仰いでいる。なでしこは、天空を超えた愛の祈り。舞台となる遠藤家の家紋である「撫子紋」は、天女の加護だ。「なでし子物語」には、たくさんの母親が登場する。子どもたちが登場する。息子の姿。娘の姿。父親の姿も祖父の姿もある。せいいっぱいのばした指先が、あと少しでふれそうに、つながりそうに、揺れて伸びている。なでしこの花のように。◆ザナドゥとは「ザナドゥ」は、主人公の子どもたち(耀子と立海)が、偶然、ラジオで耳にする曲として物語に登場する。(からだが自然に動き出す)(気持ちがキラキラと透き通って突き抜けていく)たちまち、その旋律と美しい声に夢中になった耀子は、感情が解き放たれていくことを体感する。二人の大好きな歌として、物語の中で幾度も象徴的に流れる「ザナドゥ」透明感のあるオリビアの歌声とファンタジエンな世界。1980年、世界中に流れていた「ザナドゥ」は、洋楽を聴かないわたしでさえ、そのメロディがよみがえる歌だ。耀子と立海の耳に、どのように聞こえたかを感してみたくて、音源を探して聴いた。(「ザナドゥ」とは何のことだろう?) (オリビアは何を歌っているのだろう?)ふと、気になり、調べてみると……「なでし子物語」そのものだった。A place where nobody dared to goThe love that we came to knowThey call it xanadu「ザナドゥ」は、なでしこ物語の舞台である「峰生の里・常夏荘」A million lights are dancingAnd there you are, a shooting star「流れ星」まさに、〈dared to go〉としか言いようのない状況で、流れ星のように耀子が常夏荘にすべりこんでくる。そびえたつ門をくぐると、七夕の笹飾りのトンネルが続く中を、着物の背中に白い星(の家紋)を着けた子どもが駆けていく。人なのか、妖なのか、夢か現かもわからないまま、読み手は舞台に取り込まれている。愛を知り、愛に気づく場所。そして、星の輝き。〈a shooting star〉物語を読んだ上で、「ザナドゥ」を聴き、原文を眺めていると、伊吹有喜さんの書こうとした世界が近づいてくる気がする。your neon lights will shineFor you xanaduそしてThe dream that came through a million yearsThat lived on through all the tears物語の中の、たくさんの涙が。through all the tears言葉でないものが、自分の中をおりていくのを感じた。あたりまえのことだけど、文章表現は、言葉を伝えるものではない。言葉ではないものを伝えるために、言葉を使うのだ。わたしにとっての言葉は、絵の具であり、楽器であり、糸であり、窓であり、扉であり、橋であり、どこにでも行ける乗り物。流れ星。永遠。輝き。愛。夢。涙。その人だけの「ザナドゥ」。◆美しい靴を履け実は、子どもが主体の物語は苦手だ。うまく感情移入できない。楽しみにしていた伊吹有喜さんの新刊が、子どものモノローグで始まっているとわかった瞬間、(かんべんしてくれよ)という気分だった。ところが、次の章になると、「四十七歳の未亡人(!)・照子」が、丘の中腹で語り始めていた。(いったい、どういう展開に?) 舞台は、静岡県の天竜川上流の、人里離れた天竜杉の里・峰生。かつて林業と養蚕で栄華を誇り、現在は事業を東京に移した遠藤一族の、時が止まったような大屋敷。そこで起こるのは夢か現か。登場するのは人か妖か。そんなぼんやりした輪郭が、読み進むうち、くっきりとしてくる。「人」の姿に、かけがえのない輝きが増していく。「自立」と「自律」父親が亡くなり、母親から捨てられ、いじめられ、仲間外れにされ、うつむいて目を閉じ、自ら透明になってしまうことで、全てをやりすごそうとする耀子に、この言葉を贈った家庭教師・青井先生が贈った言葉。自立、顔をあげていきること。自律、うつくしくいきること。変わるとは、あたらしい自分をつくること。耀子の祖父の言葉も年輪を重ねた大木のような、不動で武骨な優しさにあふれている。わたしは、照子の亡くなった夫、龍一郎が照子に言った言葉が好きだ。美しい靴は美しい場所に君を運ぶ堂々と。君は背筋を伸ばして堂々と、優雅な足取りで世を渡れ。うつむくな、君は自分に自信を持て。 * * *美しい靴で美しい場所に行く。顔をあげて歩いていく。◆世阿弥の初心物語は、「あたらしい自分をつくるんだ」と、耀子が決心するところで、余白となり、続く言葉は記されていない。(余白)終わりという文字はどこにもない。物語は続いている。きれいごとすぎるセリフにがっかりする人や、不満を持つ人もいるだろう。「あたらしい自分をつくる」と、いくら耀子が顔をあげたとしても、置かれている立場や周囲の環境は、必ずしも好意的に働くものばかりではないと。だけど、耀子は、一つ、階段をのぼった。* * *能楽の世阿弥が残した言葉に 「初心忘れるべからず」 というものがある。現在では、「どんなことでも、最初の時の緊張感をもった初々しく謙虚な気持ちを忘れてはいけない」という意味で一般的に使われることが多いけれど、「花鏡」という能学の秘伝書の中で、世阿弥は、「三つの初心」について述べている。(これについては、名前のことだま研究科の講義で、山下弘司先生から教えていただいたことから、その解釈とされている文献を幾つか読み、響いたものを融合して、このレビューの中で採用している)世阿弥のいう初心は、「初めての芸に取り組んだ時の気持ち」ではなく、「そのときの芸の(未熟な)段階」を覚えておくということ。失敗を重ねながらも、日々、研鑽し、たゆみない努力の果てに、その芸を身につけていった「習熟の過程(試練の乗り越え方)」を、決して忘れてはならないと述べている。これが、 「是非の初心」 そして、「時々の初心」これは、その時々に苦労して身につけた過程と、演じた芸を、その場限りで決して忘れてはならないということ。同じ演目であっても、若い頃から最盛期を経て老年に至るまで、その時々での一つ一つの在り方を全て身につけておけば、歳月を経て、全てに味が出ると世阿弥は述べている。最後は「老後の初心」これまでの経験や技量の集大成があるからもう学ぶことはないというのではなく、歳をとってから、初めて遭遇し、対応しなければならないことがある。その都度、自分の未熟さを受け入れ、挑戦してマスターしていく心構えと取り組みをいう。老いることも初めての舞台だ。この三つの初心を忘れなければ、何歳になっても、何が起きようとも、その都度対処してきた方法を拠り所として、人生のさまざまな段階で出会うことに不安や怖れを抱くことなく、初心に立ってチャレンジしていけると世阿弥は教えている。耀子は、この物語で、一つ目の「初心」を身につけた。この先、幾つも出会う「時々の初心」の段を一つ登った。「時々の初心」を重ねながら、自分の足でザナドゥに立つだろう。◆伸びていく先に舞台となった1980年の山深き郷・峰生のような場所は、もはや昔話の里として、失われつつある古き良きノスタルジーの世界だと、懐古的にしか感じられない人もいるかもしれない。ましてやザナドゥなんて、桃源郷のような場所、夢の中だけの場所だとして、現実のものとは考えにくいだろう。だけど、ザナドゥ(という場所)は、過去でもファンタジーでもない。これから、出逢うきらめき。行く手に開くワンダーランド。美しい靴が連れていく美しい場所だ。(初心は、不安と怖れを無用にする)だから顔をあげて。美しい靴とは、美しい心のこと。ザナドゥへの切符は、自分の中にある。(伸びてゆく)あたらしい自分は、つくるものではなく、ただ伸びていくのだと、耀子に伝えたい。種が発芽するときは、先に根が伸びる。いつまでも根だけが伸びるのではなく、まったく別の場所から、やがて芽が出る。伸びた芽は小さな双葉となり、次に形を変えて本葉が出てくる。いつまでも同じ形状のまま大きくなるのではなく、成長段階によって、伸びていく形は変わり、やがて蕾がつき、花を咲かせ、実をつける。次々にあたらしい自分になっていく。変わろうとしなくていい。ただ、(伸びてゆくだけ)だけど、苗のような子どもたちが伸びていくためには、まわりの大人たちが手を添え、環境を整えなければならないことが、たくさんある。物語の中では、山を守ることと「背守り」という風習が、象徴的に描かれていた。次の世代のために森を育て、山を守る。美しい山は美しい川を作り、豊かな海を育む。海は天空を駈け、山に戻ってくる。「背守り」にこめられた祈るという守り。「背守り」という風習を初めて知った。着るものが洋装に変わった現代でも、もう幼児ではなくなった今からでも、子どもの衣服の背に、たとえ一針だけでも、魔除けのお守りを縫い取りたい衝動にかられた。* * *伊吹有喜さんの書く物語を読むと、忘れていたものを思いだす。「知っていた」ということを思いだす。かつていた場所に似ている。好きだった場所に似ている。なつかしい場所に似ている。琥珀色の場所。こんぺいとうのような場所。そこにいてもいい場所。誰かを思い出し、自分を思い出し、たくさんの感情を思い出し、「こんなふうに泣きたかった」と思える涙を流し、自分がとても満たされていることに気づく。静かに寄せるエールのように。誰もが靴をはいている。行きたいところに行ける靴を。初心とは、靴を磨くこと。美しい靴は美しい場所に君を運ぶ堂々と。君は背筋を伸ばして堂々と、優雅な足取りで世を渡れ。うつむくな、君は自分に自信を持て。龍一郎が照子に言った言葉は、靴を履いていることを思いださせてくれた。大人になった今でも、こうして、折々の言葉で時々の初心を重ねていく幸福。子どもたちにできることは、山を育てるように、どっさりある。オーロラは、空の羽ばたき。宇宙を奏で、巡る、壮大な祈り。(伸びゆくものは伸びていけ)そう願う。せいいっぱいのばした指先が、あと少しでふれそうに、つながりそうに、揺れて伸びている。懸命に天を仰いで、決して折れない、なでしこの花のように。浜田えみな