みみより日和


当日になるまで、
村松先生は
「ご謙遜されているのだ」
と思っていた。


驚いたのは、
ほんとうに
「なんちゃってお茶会」
だったことだ(!)


*    *    *


民家集落博物館で行った「表現の会」スペシャルのレポートです。
本当に、本当に、忘れられない一日となりました。


参加してくださった皆様、ありがとうございました!
今回も長いので、目次を掲載します。


参加した人もしなかった人も、まるでその場にいるような臨場感! 
舞台裏もすべて公開!

村松先生と浜田に降り注ぐアクシデントとギフト。
そして、サムシングとは?


◆何があっても驚かない
◆風みたいな、空みたいな、花みたいな
◆隠れテーマ
◆もてなしの心1
◆なにが起こっても平気
◆もてなしの心2
◆音符の椅子
◆瞑想
◆顔を描く
◆弦楽四重奏
◆自由な時間
◆なんちゃってお茶会
◆サムシング


*    *    *


◆何があっても驚かない


緑地公園の駅を出たとたん、いきなり空が広かった。


(風が踊っている)
(緑がしゃべっている)
(そこにいる)


そんな祝福につつまれていて、ひとりでにテンションが高くなっていく。


(気持ちいいーーーっ)


「浜田さん、ここ、前に入らなかった陶芸の展示があるところと、ちがうの?」
「は? 陶芸???」


(陶芸って、なんだ?)
(もしかして、万博公園の「大阪日本民藝館」のこと?)


「先生、それは、このあいだの万博公園で、時間がなくてまわれなかったので、“次にまた来ましょうね”って言ってた展示館のことですか?」
「……違うのね? なんだか近いなって思ってたんだ」


(がーーーーん)


「ぜんぜん、ちがいます! このあいだは吹田市の“民俗学博物館”、今日は豊中市の“民家集落博物館”です! ちゃんと博物館の案内を送ったじゃないですかー」


昨年末から打ち合わせを重ねていたけれど、村松先生の頭の中では、服部緑地(豊中市)も万博公園(吹田市)も同じ緑地であり、「お茶会を開催する民家集落博物館は、 「楽しかった国立民俗学博物館」に隣接している、 「入れなかった大阪日本民藝館」に、置き換わっていたのだった(!)

 

お互いがパラレルワールドにいたことに、駅を降りて、緑地エリアに入るまで気づかなかったなんて(!)
ひょっとして、「太陽の塔」が見えないので、おかしいと気づかれたのだろうか(苦笑)


太陽の塔や、陶芸の展示を楽しみにしていた(かもしれない)村松先生には、たいへん申し訳ないけれど、


「今日は、民家集落博物館でのお茶会です! また、日本民藝館にも行きましょう。次は、万博公園でやりましょう!」


(何があっても驚かないぞ)


だって、何もしていないから。 
アクシデントは、いろいろあるだろうと覚悟していた。
まさか、先生が開催場所を勘違いしているとは想像もしなかったけれど(汗)


でも、よく考えてみれば、初めて訪れる場所なのだから、万博公園であろうと緑地公園であろうと、変わりないのだった。
「どこでもドア」で潜り抜けるようなものだ。


◆風みたいな、空みたいな、花みたいな


しかし。
遠――――――――――――い!


ウェブサイトにあったマップでは、さほど迷わずたどりつけるはずなのに、実際に歩いてみると、公園内は、さまざまに路が分岐していて、花壇があったり、階段があったり、坂があったり。
看板は出ているけれど、矢印の指す方向が、イマイチつかみにくい(!)


「村松先生、どっちですか?」
「なんで、浜田さんは、ぼくに聞くのかなー」
「だって、事前にマップを送ったじゃないですか。わたしだって、初めてなんです。めっちゃ方向オンチだし」


(参加してくれる皆さんは、迷わず来れるのだろうか?)


と思いつつ、「近くに立って、二方向から眺め直さなければ方向を特定しにくい、まったりとした看板」を探しつつ、民家集落博物館の入口を目指した。

のどかな春の休日を過ごしに訪れる人の姿が、しだいに増えていく。


「あ! あの奥じゃないですか?」


合掌造りの屋根らしきものが木立の向こうに見える。


(きゃー)


そのあたりまで来ると、どうやら周辺はバーベキュー広場になっているらしく、簡易テントの屋根がはためき、風に乗って、人々の喧騒と、おいしそうな焼肉の匂いが漂ってきた。


「傍に行ったら、ちょっと、食べさせてくれないかな」
「おなかすいてきましたね」


わたしたちは、お弁当持参だ。
昨日のSBAオープンセミナーに続いて参加してくださる岡山のHさんと三人。
早目に現地入りして、空の下で食べる計画だ。

Hさんは、髪も目もまっくろでまっすぐで、かわいらしくて、初めて会ったとき、瞬時に


(ハイジみたい!)


と思ったのだけれど、その後、いろいろと話していると、植物や昆虫に詳しくて、本もたくさん読んでいて、優しくて面倒見がよく、自然の中にいると生き生きと幸せそうで、なぜだかコロボックルのお姉さんのように思えてきた。

Hさんが来てくれると、とっても安心する。


このわたしでさえ、
風みたいな、空みたいな、花みたいな気持ち になって、気負わない自分でいられるのだ。


◆隠れテーマ


みみより日和


ようやくたどりついた!
入口になっている長屋門は、元財務大臣の塩川正十郎氏(塩爺!)の生家から寄贈されたものらしい。パンフレットには「河内布施の長屋門」と書いてある。

当日、このことを話せたらよかったと思うけれど、今回は「何もしない」ことが私のテーマだったので、お茶会の時は何も調べていかなかった。


(これが門だなんて、いったい、どれだけ格式が高い家だったのだろうか)


入ると、こんもりした緑が見えた。


みみより日和

麦が地面から生えているのを初めて見た! 


(百科事典の挿絵みたいだー)


麦の穂は、不思議な形をしている。


*    *    *


民家集落博物館は、不思議な空間だった。


みみより日和


二百年以上前の日本各地の古民家が、そこかしこに建っていて、畑があり、坂があり、小山があり、竹林があり、木々が揺れ、花が咲き、風が吹いているのに、時間が止まっているかのような錯覚がある。



みみより日和


歩きながら、何度も頭の中に「桃源郷」という言葉が浮かんだ。
この場所にいると、今朝まで自分が暮らしていた場所とは、流れがちがっているように感じる。

「桃源郷」がきれいすぎるなら、俗な言い方では、テーマパークか、書割の世界。ドラマのセット。


みみより日和


(現実感がない)
(しがらみからも分断される)


お芝居のセットの中にいるのは、別の自分。
テーマパークにいると、浮き浮きと心が躍り出す。


そんなふうに、全身の細胞が再生を始め、生まれ変わっていくように、不思議な力に、ほとびていく。

ひとときでもいい。
日常から離れ、非日常の世界へ。


今回の隠れテーマだ。


◆もてなしの心1


みみより日和


村松先生が、ごちそうしてくださった春のお弁当。
一輪挿しに使われている玉(?)は、昨日のSBAオープンセミナーで披露されたものだ。村松先生の陶芸作品。


どのように使っているものなのかは、セミナーに参加した人だけの秘密だ。


花は、今日のお茶席のために、村松先生が、わざわざ朝早くから開いている花屋を調べて、買い求めてくださったもの。

本来は、そこらに咲いている野の花で季節の趣を供するものらしいけれど、民家集落博物館内の花の枝を手折るわけにはいかないので、用意してくださった。


お弁当を置いているのは、音符の腰掛。
ちょうど、木立の下で、石で造られた椅子が音符となり、五線上に「赤とんぼ」の旋律となって並んでいるだ。


◆なにが起こっても平気


「浜田さん、茶室は何畳?」
「? ……わかりません。先生には間取り図をお送りしてありますが、書いていなかったですか?」


今回、わたしは本当にノータッチ。下見にも来ていないし、茶道の心得もない。予習もしなかった。
ふだんは頼まれもしないのに、やりすぎるほどやってしまう。


今年は「違う自分」を選択すると決めたのだ。
「何もしない」ことで後悔したり、「やっぱりやればよかった」と思ったなら、次からはそうすればいい。少しずつ、自分の魂が喜ぶことに近づいていこうと思った。


「今日、何人来るの?」
「九人です。先生を入れると十人」
「四畳半だったら、そんなに入らないな」
「そうなんですか!?」


お茶席がどういうものなのか、どんなふうにしつらえるのか、四畳半の茶室に何人入れば満員になるのかなんて、想像もつかないけれど、村松先生が言うのなら、そのとおりなのだろう。

急きょ、二グループに分けてお茶会を行うことになった。


(あらら)


「今日、弦楽器のコンサートがあるんでしょ?」
「はい。案内では、1時30分~2時30分となっていました」
「じゃ、ちょっと話をしてから、それ聴いて、2時半から3時までと、3時から3時半まで、お茶会して、残りの人は自由に散策しててもらって、最後にまとめよう」


(はー)


「散策の時間」と言えば聞こえはよいが、村松先生は茶室にいるのだから、講師不在。
ワークはできないわけだ。実質は〈放置〉???


(うーーーーん)


茶室に入りきらないのだからしょうがない。
事前に綿密なプログラムを立てて準備をしていたワークができなくなったわけではないので、さほど喪失感もない。

村松先生は、「顔を見て決める」と言っていた。
顔を見る前に、時間の制限が加わっただけだ(笑)


(「なにもしない」ということは、「なにが起こっても平気!」ということなのだ)


「なにが起こっても平気」という自分を、初めて体験した。

いつも、分刻みでスケジュールを立てていたから、少し狂っただけで、すべてがダメになるような喪失感がぬぐえず、気持ちの切り替えができないでいた。怒ったり、焦ったり。


(こんなことだったのか)


と思った。

いろんなことに、さばさばと対応できる人は、「なにもしていない」のだ。

来てくれた人が、そんな状態を許してくれるかどうかは別としてー(爆)


◆もてなしの心2


茶室は1時からの貸し出しだったので、あたふたと準備をする。
もともとは観覧に供する施設なので、あちこちに説明の札が置かれていた。水屋や勝手のほうは施設の備品が置かれている。


(どこに片付けるの??)


そもそも、正式な「にじり口」は使えないようなので、茶室に入る場所は一つしかない。
どうみても、「裏口」
お客様に玄関からではなく、裏口から台所を通って応接間に入ってもらうという感じ。


「先生、こんなのでいいんですか?」


と、さすがのわたしでも、チラリと思う(汗)

Hさんが、こまごまと動いて、準備をしてくれている。本当に働き者。いいお嫁さんなのだろうと思う。

見とれていたら、わたしにも声がかかった。


「浜田さんは、ちょっと、これを手伝って」
「はい」


(何をするのだろう?)


と思ったら、わたしの仕事は、お抹茶がダマにならないよう、目の細かい網でこして、先生手作りの陶芸作品、“茄子”を模した「棗」にうつす作業だった。


お抹茶を濾すのは、けっこう難しい。目が細かいので、焦ってもなかなか落下せず、急ぐと粉が舞う。くしゃみなどしたら、大変だと思いながら、濃い若葉色と向き合っていると、気持ちが落ち着いてくる。先生が渡してくれた陶芸の茶さじを、くるくるとまわしながら、


(こういうところから、きちんと居住まいを正し、おもてなしの心で行うのだ)


と思いながらも、そのときは時間がないので焦りまくり! 精神統一も何もあったものではない。
おまけに、この日は25度を超える夏日だったから、汗だくだ。


「先生、もうそろそろ、皆さん、集まっていらっしゃるかも」


外をのぞくと、それらしき人だかり。
初めての顔もたくさんだ。もちろん、参加者同士も初対面。
村松先生の顔を知らない人だっている。


(わー どうしよう)


◆音符の椅子


茶室が手ぜまなので、いったん、音符の椅子のところまで降りていく。
まるで、ワークショップのためにしつらえたような場所だった。
ほどよい木陰と並んだ椅子。


楽しいことを“やっているぞ!”という恰好になる(笑)


(これがなかったら、まさか直立?)
(それとも地べた?)


(…………)


音符の椅子様々だ。


◆瞑想


「今から一分間。何も考えない瞑想をします」


そんなことは無理だと思っていた。

頭の中は常に言葉が渦巻いている。
どんな刺激を受けても、瞬時に言葉に置き換わってしまう。


言葉を思い浮かべないのは、息をしないことと同じだ。


そう思っていたけれど、できた。
昨日のSBAオープンセミナーでも、最初に行った。

そのときは、「闘い」のようだった。
次々に襲ってくる「言葉の戦士」を、有無を言わさず切り捨てているような。


だけど、民家集落博物館では、楽にできた。
なんにも言葉を思い浮かべず、無になること。
それは、とても「楽」になることだった。


わたしはもしかして……。
本当は、言葉になど、したくないのかもしれない。


◆顔を描く


村松先生が指定された持物は「スケッチブック」
いったい何を描くのだろう? と思っていたら、


「顔を描きます」


(顔ですかー?)


二人ペアになって向かいあうようにと言われ、もぞもぞとおしりの位置をずらしてみれば、


「Hさんだ!」


というわけで、浜田の最初のペアはHさん。


(かわいい顔だから描くのが嬉しい!)


などと、やる気マンマンでいたら、村松先生の指示が入った。


「手元を見ないで、顔を描く」
「えーーーーーーーーーーーーっ!!!」


手元を見ないで描くというのは、「描く福笑い」のようなもの。
一度、ペン先を紙から離してしまったら、元の場所には戻れない。


以前、コンサート会場で、まっくらな中でステージを見つつ、MCをメモしたことがある。自分では、たとえ暗闇であっても、文字は書けると思っていた。

確かに、文字は書けていた。

でも、読めなかった。何度も同じ場所に書いてしまっていたからだ。
まっくろの塊だった。ずらして書いているつもりでいたのに、同じ場所に何度も上書きしていたからだ。


(はたして、描けるのだろうか?)


描けないことが自然なのに、描こうとした。

わたしは、「顔を描く」ということに、やっぱりとらわれてしまって、ダメだった。
「枠にとらわれる自分」というものに、またしても気づけたというわけだ。

しみついた「アカデミック」から抜け出せない。


みなさんは、とっても自由にチャレンジされていた。
あちこちで笑い声があがっていた。

自己紹介もせず、ワークが始まったのだけど、一気に参加者の距離感が近付いたようだった。
ペアリングも、見えない天の采配なのだ。


相手を変えて、2ラウンド行ったあと、作品を掲げての自己紹介タイムとなった。

音符の椅子が設置されている場所は、風がとてもよく抜ける場所で、さまざまな緑のグラデーションが目に入った。
竹林の葉擦れの音が遠く近く聴こえ、春の陽射しがふりそそいでくる。


*    *    *


「“絵を見ずに似顔絵を描く”ということをしていただきました。途中で考えないことが大事なことです。正確に描こうとすると見てしまう。止まると線が死んでしまう。下手だと悪いという呪縛がよくないんだよね」


顔って、なんだろう?
顔は何のためにあるのだろう?


目や鼻や口の位置にとらわれることで、見過ごしてしまうもの。
本当に大事なものは見えないところに隠されているもの。
アゲハ蝶の幼虫の眼状紋のように。


本質を描いていいという自由を与えられながら、とらわれた線しか描けなかった自分を反省する。

気づきながら、ほどいていく。



みみより日和


みみより日和


◆弦楽四重奏


日向椎葉の民家で、弦楽四重奏のコンサートがあるので、みんなで移動する。

遅れてきたのに、空いている前の座敷を薦めてもらって、かぶりつきで座って鑑賞した。
何の楽器なのかもわからずに聴きにいったのだけど、演奏している女の子たちも、楽曲も、音色も、とってもかわいらしくて、夢の中にいるように、浮き浮きした気持ちになった。


終わってから教えてもらったことによると、彼女たちの持っている楽器は、バイオリンとビオラとチェロという、「バイオリン属」と呼ばれる三種類の楽器なのだそうだ。
大きさが違うだけで、同じ構造をしているのだという。


プログラムが三曲しかなかったようで、予定よりも早く終わってしまい(!)、一曲しか聴けなくて、がっかり。アンコールをしてもいいのかどうか迷っているうちに、あっさり撤収されてしまった。

彼女たちは、中学1年生から29歳までが参加できる「センチュリーユースオーケストラ」の団員だそうだ。楽器を弾くことが楽しくて楽しくてたまらない様子だった。


みみより日和


確か5月ごろに開催される演会のお知らせなども伝えてくれたと記憶しているのだけど、チラシをもらわないと、日時や場所が覚えられない(!)


夏には、服部緑地野外音楽堂で、「星空ファミリーコンサート」が開催されるとのこと。
大好きでたまらないものと向き合っている笑顔は、大人でも子どもでも、美しいと思った。とても、みずみずしいもので、心の中が充たされた。


あとで聴くと、アンコールをすれば、応えてくれたとのこと。お願いすればよかった!!

次からは、やろうと思ったことは迷わずやる。


◆自由な時間


準備があるので茶室に戻りがてら、見るともなく、参加者の姿が目に入ってきた。
熱心にスケッチをしている姿。カメラを抱える姿。何かを見上げている姿。


◆なんちゃってお茶会



みみより日和


そんなこんなで、お茶会だ。

何も予習していかなかったので、知っている人からすれば、ギャグのようなお茶会だったと思う。

(けっして、村松先生とわたしは、茶席で漫才をしていたわけではないことを改めて書き添えておく)


終わってから勉強するのもナンだと思ったけれど、あらためて「茶席を楽しもう!」というサイトを閲覧したら、すごく楽しめた。


(茶会って、こんな決まり事があったのかー)


驚くべき事実と作法のオンパレードで、自分たちのお茶会と比べては、いちいち吹き出した。
そもそも、わたしは、茶室をどのように使えばよいのかわからなかったし、どこに座ったらよいのかも謎だった。

りっぱな茶釜は置いてあったけれど、事務室で貸出してくれたのは、湯沸し電気ポット。
電気ポットから茶碗に、じょーじょーと垂直にお湯をそそいでいる姿は、ユーモラスだが、たぶんありえない。

皆さん、見て見ぬふりで優しく受け入れてくださって、ありがとうございます(感涙)


しかし、なんちゃっては、そんなことだけではとどまらない。

(亭主と客は、どのくらい離れて座るのだろう?) 


当日になるまで、村松先生は「ご謙遜されているのだ」と思っていた。
驚いたのは、ほんとうに「なんちゃってお茶会」だったことだ(!)


点てたお抹茶を、どのようにしたら、美しい所作で、客のそばに持っていくことができるのか、ふと、疑問に思った村松先生。


「こんなふうに、ずりずりしながら行くんだっけ?」

(…………)


なんとなく不恰好だし、ヘンかもしれないと思うけれど、答えを出せる人が誰もいない(笑)


「運んでくださる人がいらしたような……」

という声が出た。


(え、それ、わたしの役目ですか?)


浜田が受けとって運ぶほど、亭主と客が遠く離れているわけではないので、先生には申し訳ないけれど、ずりずりしながら、続けてもらった(笑)


お茶碗は、陶芸をされている村松先生が焼いたものだ。

みみより日和


濃い緑のお茶碗が好評だったけれど、点々模様も、春先の仔鹿のようで初々しい。
わたしは、お茶よりも、


(白和えをよそって食べたいなあ)
(煮物を入れたらおいしそうだなあ)


などと、食べ物を入れることばかりが浮かんできて、困った。
撮影できなかったけれど、茄子を模した棗がかわいらしくて、好評だった。


「次は、お濃茶」

(ええっっっ)


なんと、まさか2バージョンをふるまっていただけるとは。


「お濃茶のほうが、上級だと言われてるんだよね」
テレる先生はチャーミングだ。


「点て方が違うんですか? お濃茶とお薄って、どうちがうんですか?」
「抹茶の量が多いだけじゃないの?」
「ほんとですか?」


つっこんでいるわけではないのだけれど(汗)
すべてがハテナなので、茶道・超初心者として、尋ねずにはいられない。
けっして先生を困らせようと思っているわけではないのだ。


お濃茶は、点てるではなく「練る」というのだそうだ。
しかも、みんなで回し飲みをする!


(そうか、回し飲みしているのが、お濃茶なのか!)


【一つの味わいをもって心を同じくする】


(おお! なんだか茶道らしくなってきた!)


みみより日和

前半と後半、あわせて二席に同席させていただいたけれど、それぞれ、村松先生が話してくださるテーマも、皆さんで話題になることも違っていて、だけど「なんちゃって」には変わりなく、茶会としてどうかということは別として、終始アットホームな空気に包まれた茶会だった。


あっというまにお開きの時間だ。


◆サムシング


皆さんには先に音符の場所に降りて待っていてもらうことにして、急いで茶室の撤収をする。
片付けて降りていくと、すっかり打ち解けた感じで歓談されている姿が見えた。


村松先生から締めの御挨拶をいただき、参加してくださった皆さんに、ひとりずつ感想などをお話してもらった。


わたしは本当に何もしなかったけれど、村松先生のお人柄と、春の陽射しと、のどかな空気と、いっぱいの緑と、ここちよい風と、自然の祝福に助けられた。

一つ一つの細胞が、生まれ変わっていくような、命が癒える時間。

一緒にすごしてくださって、ありがとうございました。


何もしなかったことの結論は、「大正解」


(何もしなくていい)


ツアーだって、団体行動よりも、自由な時間が多いほうが喜ばれる。
全員で、プログラムどおりに何種類ものワークをすることよりも、思い思いに過ごす時間のほうが必要な人たちが、集まったのだとわかった。


村松先生が何かをしたわけじゃなくて、わたしが何かをしたわけじゃなくて、みんなで何かをしたわけじゃなくて、
あの日、あのひととき、あの場所で過ごして感じたことが、その人にとって、息吹をふきかえすようなことだったのだ。


(祈るように、願うように)


たくさんの緑のグラデーション。
空。風。土。民家のたたずまい。
目に見えるもの、聴こえるもの、感じるもの。

すべてが、ふだんの日常生活では認識しないもの。

たくさんの新しい刺激が、スイッチだ。
オンにしたものも、オフにしたものもある。


いつでも、そうできることを思いだしてもらえたらと願う。

日常の生活に戻ったとしても、空は続いている。風は巡っている。
いつだって、そんな時間をもてることを。


スイッチをオンにすることも、オフにすることも。
何もしないことも。


全身の細胞が再生を始め、生まれ変わっていくように、不思議な力に、ほとびていく。

ひとときでもいい。
日常から離れ、非日常の世界へ。


あの日のサムシングとつながるキーを、いくつも生活の中に仕掛けて、笑顔でいてください。


浜田えみな


たとえば、抹茶・まんじゅう・なすび・スケッチブック
たとえば、空。風。光。


みみより日和

*    *    *


行けなかった大阪日本民藝館のときのレポートはこちら → 「太陽の塔と民博」