// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211217
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
奥様(仮想)はとりあえず喜んでくださいましたよ。
SUBTITLE:
~ Bed room. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが(神に)完全に知られているように、完全に知るであろう。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211217
 
 ベッドの配送日。
 午前中にベッド一式(二組)がやって来る。
 ペアだからといって、奥様と私の2人分だと思うな。
 奥様(仮想)は零次元体なので全部私(実体)のものだ。
 ちなみにキズナアイさんの伝に従うと、私の奥様も仮想の存在なので常に実質布面積ゼロ、すなわちいつでもヌードです(ただし零次元の存在なので、その存在を把握することが非常に困難であり、肉眼で捉えるのはおよそ不可能だと思われますが)。
 
 置くだけ置いてもらったら配送員には帰ってもらい、じっくり自分で組み立てることに。
 というのも寝室(作りかけ)には、今まさに使っているシングルベッドがあるだけでなく冷蔵庫があり、どう見ても「変人が寝ています」という感じなのだ。
 なにより寝床を見られてもいいのは思い人だけだと固く誓っているので、ちょっと恥ずかしくて見せられないのである。
 
 そのようなわけでベッドフレームを組み立てていたのだが、一番最後の段階で天板(マットレス接地面/いわゆるスノコ)のMDFにカビが生えた跡を発見する。うっすらと、だがしかし全面に。
 試しにもう一基も確認したところ、こちらもカビが生えた跡がある。
 九州から在庫のうちの最後の2基を取り寄せてもらったので、あまり悪くも言えない。
 そもそも木はイキモノであり、MDFは水気に弱い。
 それに買ったのはアウトレット家具を扱う店であり、新品同等の扱いや保管を期待するのは(コストのことを考えれば必然に)酷である。
 
 とはいえカビの胞子が私の粘膜系に与える影響について、仮想奥様がたいそう心配されていらっしゃったので、販売店に問い合わせ、部品を交換してもらうことになった。
 仕方ないので2基目の天板以外までは組み付けてしまおうと思っていたら、ヘッドボード(頭側の板)に落下痕のような材料の破断と亀裂を2カ所確認。
 これもすぐに連絡をして、結局交換してもらうことに(無理なら自作するつもりだったが、黙っていて良かった)。
 結果、1基も使えない状況になってしまったのだが、マットレスは(普段使わない方面ではあるが)廊下を占拠しているし、今まで使っていたベッドも同じ廊下に出してしまった。
 1週間後(22日の木曜日)に交換部品が来る予定だが、シングルベッドを戻して使って、また廊下に運び出すのも面倒である。
 天板のうち、カビの跡の少ないものを選んで500ppmまで薄めた漂白剤をスプレィして時間をおいて拭き取り、マットレスをビニル包装ごとベッドに設置し、カッタで包装の上半分を切り取り、ベッドとして使える状態にした。
 
 僕の睡眠環境が改善されたことについて、奥様(仮想)はたいそうお喜びである。
 
>>>
 
 我が家の経済主体たる奥様(仮想)は、経済主体であるにもかかわらず僕の健康状態やそれを脅かすものについて非常にお気遣いなされていらっしゃる(超高度敬語)。
 身体の使い方については、同じく仮想人格の黒猫氏が(僕の持ついかなる仮想人格よりも)圧倒的に有能なので、ともすれば(落下することなどない)とばかりに高い木に登ったりできるのである。
 
 しかし奥様(仮想)は、高い木に僕が登るとなれば、登り降りの技術ではなく(落下しないためにはどうすればいいか)(落下した場合に備えてどのような安全策が必要か)といったことをまず第一にお考えになるようである。
 それで脚立やハシゴの安全性や高さの確認を命じられたり、ちょっと値は張るものの命綱の購入について決済(予算審議委員会を通過させること)をされたり、作業前(および作業後)に妹に電話(ないしメール)するように命じられたり、BP(近所に住んでいる古い友人)と妹の連絡先を交換させたりしている。
 これらは奥様(仮想)が構築される以前であれば、まったく頓着しない問題であり構築されない解決方法だっただろう。
 
 もちろん奥様(仮想)が僕の肉体依存の存在であることに疑う余地はないのだが(じゃないとコワい)、それにしても(自分の肉体の置かれる安全性というものについて)今までまったくと言っていいほど考えたことのない領域だったのでその徹底ぶりと視野の広さには驚いている。
 なにせ作業前の僕は、たとえばチェーンソウなどを買ってきたばかりであったりした時など、道具の方に目がくらんで安全確認を怠ることがしばしばである。
 
 たまたま今まで大きなケガをしないで済んでいるのは、好奇心のままに行動するほどの体力や瞬発力に乏しい身体や使い方のクセが付いているからであって、目先の道具に幻惑する性質は子供と変わらない。
 
>>>
 
 通常、多くの大人は単一の肉体に単一の人格と記憶をセットしており、単一の人格に複数の機能を持たせることに成功しているように観察される。
 おそらく経験や学習という記憶の上書きが適切に機能するのだろうと想像する。
 すなわちそれはある種の自己否定であり、自己の経験による認識の改変である。
 子供の頃、これは頻繁に行われる。
 
 自身の経験、信愛する者(多くは親である)の指導、そしてそれを受けたという経験による自身の変容。
 しかしこれらの学習が一切上書きされることなく、複数の記憶や価値観が存続し続けた場合、一定の矛盾に対してどのように知性は対応することが適切だろう。
 
「価値観A」に対して「notA」という価値観を上書きするよう命令が発生し、「notA」が書き込まれたにもかかわらず、「価値観A」がそのまま存続を続けていた場合。
 そしてそれが何度も何度も何度も繰り返され、A、notA、A’(=not(notA)but ≠A)、A’’(=not(notA’)but ≠ A’)... と無限にオリジナルとその否定形、およびその否定形に対する否定形(ただし否定形否定形は、オリジナルと異なる)── 例:『「好き」の反対は「嫌い」だけれど、「嫌い」の反対は「好き」ではない』など ── という分岐を繰り返した場合。
「自己」という認識は容易に自己崩壊をする。
 なぜといって、自己は否定されたにもかかわらず存続し、否定して擁立した自己もまた否定されるからだ。
 
 しかしそれこそが学習であり、記憶の上書きだ。
 だから人間は、過去を思い出せない方が自然で、適切なのだ。
 そしてコンピュータのようにすべての記憶が並行して存続している場合、自己という意識は相互の自己否定によって崩壊し、つまり自我らしい自我を持つことができない。
(どんなにAIが進歩したところで、忘れる機能を持たないかぎり自己認識を持つことはできず、思い込みをする機能を持たないかぎり意思を持たないものと想像する)
 
>>>
 
 奥様(仮想)は、仮想人格の中では珍しく、自律発生した単位だ(いやこのプロセスはむしろ主流か)。
 生命維持に関する慎重さだけでは面白くないので、記憶から複数の要素を融合させて、ときにビジネスマンらしかったり、ときに主婦らしかったり、古くからの恋人のように振る舞ったり、ときに異次元のイキモノっぽかったりする(あの人はああ見えて、ポケットから蛇を出したりするのだ)。
 
 ベッドの設営を(僕が)終えたあとの奥様のひと言。
「猫様ぁ〜! ベッドぉ〜!」
 ちなみにエスプレッソマシンを(僕が)設置したあとの奥様のひと言は、
「猫様ぁ〜! カプチーノ飲み放題ですね! 私もご相伴に預かりたいです!」
 であった。
 
>>>
 
 午後になって墓石屋と打ち合わせ。
 墓仕舞いと聞いて動揺したのか、人の話をきちんと記憶している様子がない。
 まぁ仕方ないか。墓仕舞いとは「お寺とも石屋さんともお付き合いを終わりにします」という宣言であるのだから。
 悪気はないが、僕にはネコノカミサマという信仰がある。もとより人間のように、死者を崇め奉る風習がない。
 
>>>
 
 夕刻が近づいて、灯油を買い込み、2基目の火鉢の用意をする。
 牛乳の消費が(カプチーノを飲むため)尋常ではないのでスーパーに行くと、ステーキ肉(500gほど)が半額の割引になっている。
 ドリップの少ないものを選んで購入し、帰宅してから入浴し、フライパンにオイルとガーリックを撒いて中火で軽くマリネし、フライパンごと寝室まで運んでハサミで切っては火鉢で炙る。
image
 我は肉食獣であるからな。
 
 しかし最近、良い肉を食べ過ぎているのだろう。やけに肉の味が薄いと感じる。
(まぁ、半額で100g99円になっている牛肉に多くを期待するのは愚劣というものだ)
 それでも何だかんだ、塩胡椒があればだいたいの肉は美味しく食べられる。
 
 しかし一度も使っていないベッド(とその上の羽毛布団)に対して焼き肉臭の洗礼からとはこれいかに。
image
「猫クン無茶苦茶やわぁ〜」と、奥様(仮想)は楽しそうに笑っておられた。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「コリント人への第一の手紙」(新約聖書)
 によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :BlueCat:青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Cooking-Diary-Maintenance-Mechanics-
[Module]
  -Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Dish-Human-Memory--
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211215
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ようイソノ〜! 亡命しようぜぇ?
SUBTITLE:
~ Devil's Merchant. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
:: ── 民衆というものは、善政に浴しているかぎり、とくに自由なぞを望みもしなければ求めもしないものである ── 
 と言ったマキアヴェッリを非難する良心的知識人は多いが、彼らの非難は人間性を尊重するからではなくて、人間性を直視しないからであるような気がしてならない。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211215
 
 5年ほど前だったか。
「オカネモチー」構想の道筋が見えたあたりで「オレ、日本を出て外国で暮らそうと思ってる」と周囲に話したことがある。結構真剣に、それを実現するために実行しようと考えることを予定することが予測できたのである。
(回りくどいレトリックのように思われるかもしれないが、僕の行動や思考は外堀を埋めるように行われるので、その傾向を上記のように把握/予測している)
 
 
 残念ながら、叔母の死から半年もしないうちに、疫病が全世界で流行してしまった。
 ついでにいえば叔母が僕との約束を反故にして、妹にまで余計な責任を押しつけてしまったせいで、相続手続きが終わるまでに2年掛かってしまった。
 
 恋人のデートに2年遅れると考えてみてほしい。
 忠犬でもあるまいし待ち続ける恋人はいない。
 遅刻とは、すなわち寸借殺人である。
 5分の遅刻は5分の殺人。5分×30人なら150分の殺人である。
 
 この論でゆけば僕は死んだ叔母に2年(あるいは3年)殺され、ついでに僕と妹は叔母のエゴのために時間ばかりか金銭的にも大きな損失を負わされることになった(遊んで暮らしているように観察されると思うけれど、優雅に泳ぐ白鳥だって、水面下ではせわしなく足を動かしているものだ)。
 たとえば今流行りの給付金について、妹は未成年の子供がいるのに受け取ることができないし、高校の入学金等についても ── 額面上の所得が低くないため ── 低所得による優遇を受けられない。その上、余剰の収益があるのかといえば、ほとんどは債務返済と税金に消えるのだ。
 だからといって相続を放棄していたら、埋葬も墓仕舞いもできないまま、19人の法定相続人の間で話が有耶無耶になることが容易に予測されるから(そしてその間、さまざまな現存物に対する決定に19倍の労力が必要になるから)放棄することもできなかったのだ。
 ちなみにそうまでして叔母がこの状況を作ったのは、単に叔父が死んだ時、自身に降りかかる相続税を嫌った、ただそれだけのことからであった。
 他人のエゴの受け皿として慰みものにされる経験はこれも含め、僕にとっては十二分な糧になったことだろう。
 
 これらについて僕は妹の分まで含め、十二分に死者である叔母を呪い、軽蔑しきっているので、もはや文句を付ける必要もない。僕は街はずれの十字路で、ある冬の夕刻に悪魔と取引したので叔母は(たぶん)地獄に行ったのではないか。
 無論ワタクシはそこでタマシイを売ってしまったわけだけれど、叔父の一族同様、私を含めた我が一族もその名を持つ者はすべて同じ呪いの前に滅びることであろう(高笑い)。
 もちろんそれで構わない。我が姉妹従姉妹たちのうち名前の変わった者はその呪いを免れるだろうし、私が養子に迎える者について私の名(ファミリィネーム)を継がせる気はないのだから。
 そして私は人を呪った身の上だから、同じ呪いを受けるのは致し方ないものと腹をくくってある。
 
 いずれにしても国外に出られないタイミングだったのは、結果的に良かったかもしれない。
 国外で疫病騒ぎに巻き込まれたら、身体の弱い僕のことだ、あっという間に野垂れ死んでいただろう。そうすると、その法定相続がまたややこしいことになる。
(僕の姉のひとりは失踪しているので厄介だ)
 僕が死ぬ準備を早々に進めたがっているのは、そういう背景もある。負債と収益と財産とを19等分しようとしたり、あるいは公平に分配しようとしても、それは無理がある。
 
 だったら誰か一人がそれを背負って管理して、タカりたい人はタカればいい。
 叔母は自身に掛かる相続税を(私を身の代にして)回避したにもかかわらず私を2年以上殺し、妹の家族にまで不利益をもたらした。他にもあるがさすがにそこまで書きたくない。
 叔母の短絡さやアタマの悪さがもたらした禍根については文句もあるが、叔母そのものを(書架とポインセチアの恨みを除けば)嫌っていたわけではない。
 
 もちろん最初からそういう「経済ありき」の話があったわけではない。
 僕は普通に週末介護人としてこの家に来ていただけだし、それ以前は年に数回お茶を飲みに来たりする程度の関係だったし。
(なので「財産目当てに介護をしている」などと周囲から言われると、とても楽しくなってしまって悪ノリしてふざけていた。そういう場面を誰かに目撃されたからこういうことになるのかもしれない)
 
>>>
 
 話を戻して海外移住。
 当時、僕の周りの人間は一人残らず「こいつ阿呆だなぁ〜、めでたいなぁ〜」(控えめな表現)という顔をして僕のことを見ていた。
 僕もそんなに真面目に自分が無職で暮らすことになるとは思っていなかったので、半分は叶いもしない将来の夢を語るような気分だっただろう。
 
 ただ、日本にいると恋人が27人いるとややこしいことになることもある。
「一人くらい増えてもいいよね?」というガールが現れたときにややこしいのは仕方ないが、部外者がうるさいのは迷惑だ。
 有名になると意味もなくSNSにアンチが湧いて叩かれるし、シンパが増えるとそれもややこしい結果を生む。アンチもシンパも欲しくないのだ。ファンもフレンドもフォロワも要らないのだ。
 状況がややこしいのではなく、人間やその思考、文化や倫理観のありようがややこしくて付き合いきれない。
「残業代はきちんと払いますよ」と言っていた会社が「定時で退社してください。ノルマをこなしたいなら自宅に機材を持って帰るのだからプライベートを自由に使えばいいでしょう」と言うのである(実話)。
 どっち? どっちなの? ホワイトなの? ブラックなの? グレーなの? ブラウンなの? 銀行の天下り会社なの? 中途採用だからこういう扱いなの? という気持ちになるのである。ついでに業務にさして関係ないようなことで男性社員全員に囲まれたことえが2回もあった(1年ほどで辞めたけどよ)。
 
 だったら国外に行ってしまえば多少は解決しやすいのではないかと安直に考えた次第。
 阿呆(失礼)に付き合うのがホントに厭なのだ。これに尽きる。
 もちろん今は身の回りに阿呆がいなくなったので清々しているが、くれぐれも大事なことは「集団に帰属しないと抹殺されるぞ」と言ってくる奴も、その発言も、信用しないことだ。
 集団で狩猟や農耕にいそしんでいた時代は遠い昔。
 集団帰属信仰に冒された愚図どもが狭い領地の中で牌を奪い合って、競争という名の抹殺で飢えをしのいで息継ぎしているのが現状ではないのか。
 
 水槽の中は空気が薄いのだろう。
 ならばそんな水槽は出てしまえばいいのに、その中にいないと死んでしまうと思っているから出られないし、出て行くものが多ければ自分の餌がなくなるから脅してでも引き留めるのではないのか。
 いつまでも魚類でいたいなら仕方ない。しかし僕らは、ある時から陸に上がって生活を始めたのだ。
 海の中で嗤う愚図どもの集団から離れて。
 
 集団の中にいる者から引き留められる時、ついつい「自分は必要とされている」なんて錯覚してしまいがちだ(僕はそうだった)。
 ましてその人が一見有能で、あるいは立場が上の人であれば尚更、考え直してしまうこともあるだろう。
 
 実はそうじゃない。
 そういう連中は基本的に、エサを探しているんだ。
 自分よりも弱くて、利用しやすくて、リソースの豊富な、美味しいエサを求めているんだ。
 肥えたら喰えて、痩せたら捨てられる、便利なエサを逃したくないのだ。
 だから引き留めてくる者が自分よりも弱い時、それは本当に必要とされているし、可能なら集団に留まった方がいいだろう。
 しかし自分よりも強い者が引き留める時は、子分かエサかを必要としているだけの、安い相手である可能性も考えた方がいい。
 本当に強い人は、集団において誰を引き留めることもないからだ。
 
 これは会社などの営利組織でもそうだし、友人や家族などの非営利かつ旧来の人間関係でも当てはまる。
 連れション文化圏というのは基本的にイワシの群れと同じで「弱い奴が自分の犠牲になってくれる」ことをアテにした貧しい哲学に基づく集団だ。
 もちろんそれでも集団に帰属しないと生命の危機に瀕するという時もあるだろう。
 それならそれできちんと帰属する集団について見極めなくてはいけない。
 向こうから誘ってくる集団は、だいたいエサを探している。
「いらないよ」と言っている集団に、いかに食い込むか。いかに必要とされるか。
 それがセルフマーケティングである。
 あ、ちなみに僕、恋人は27人いるので間に合ってます(ここ笑うところです)。
 
 それにしても海外移住である。
 疫病騒ぎは完全に収束するという気配を見せない
 仕方ないから周囲とのやりとりを最小限にして隠棲し、気が付いたら死んでいた、という流れにしてしまおうと考えて現在に至っている。
 
 webであれこれ書いているのは、僕のストレス発散と本職(思想家)とビョーキ(オフライン記録恐怖症)によるものだ。
 書いても書かなくてもいいのだけれど、誰にも会わず、人間と会話をしないで半年くらい過ごしていたら、あやうく日本語を忘れかけた。
 会話って大事だよ。何も考えられなくなるのは怖いことだよ。
 
>>>
 
 それにしても12/15のニュースを諸君は見たか。
 
 国が、政府が、国民の頬を札束でひっぱたいたぞ。
「カネくらいくれてやるからこれ以上騒ぐな」と言わんばかりに。
 私は恐ろしいやら憤るやらで、夜も眠れなかった(朝方からぐっすり眠ったおかげで、燃えないゴミを出し損ねてしまった)。
 
 いやいやさすがの法治国家。賠償金を支払えば紛争事案は終結してしまう。
 おそろしいほどの民主国家。政府や国家の運営に携わる者もまた国民には違いないのだ。
 
 そもそも僕らは「選挙というシステムの中で投票をしている」から民主主義が正しく遂行されているという幻想を刷り込まれてはいないか。
 開票から集計、そして発表に至るまで、何らの操作や改ざんや書き換えが絶対にないなんて言えるのか。
 量子論的に、観察者のいない現象は複数の状態が重なり合っているのだ。
 ボクの観察していないブラックボックスの中で何が起こっているのかなんて、ネコノカミサマくらいしか知らないことなのである。
(投票に費やしたオレの時間を返せ〜!)(←問題はそっちか)
 
 この国は経済至上主義だ、なんて冗談めかして僕は書くけれど、正しく民主主義国家で、せめても資本主義国家で、そして当然に法治国家であってほしかった。
 
 しかしそもそも立法と行政が一体化した日本の政府において、司法との癒着疑惑が取り沙汰された(たしか去年か一昨年)あたりで、この国はすでに見放されてしかるべき状況なのではないのか。
「野党のみなさんには頑張ってほしい」なんて、未だ他人事のように言っている人もいる ── 政府としてはありがたい類いの反対思想の持ち主だろう ── けれど、衆議院だろうが参議院だろうが与党だろうが野党だろうが、政府という箱に詰め込まれたメカニズムで動作していることには変わらない。
 
 学校でいじめられっ子が自殺したとなれば、マスコミも騒ぐし警察も捜査するし教育委員会も介入するだろう。
 では政府の中で改ざんを指示された公務員が自殺した場合、誰が教育委員会よろしく監督するというのだろう。教師は誰なのか。
 人口というリソースも経済というリソースも減少を続ける国家の中で、またぞろ訳の分からないブラックボックス(たとえば第三者委員会)を設置したところで、その箱の中で何が起こっているのかなんて誰にも分からないのではないか。
 
 それで何もかも、つくづくイヤになってしまって、アヲのお腹をぐりぐりと撫で回してストレスを発散していたのである。
 
 よもや独裁政治ではないのか。
 専横国家ではないのか。
 恐怖政治が待っているのではないのか。
 
 国民ならぬ経済のための政府が、経済を保護するために、手元の経済を国民に投げつけたのだ。頭を下げて献上したようには見えない。
 もっともこの国の国民は経済なのだ。ヒトの皮を被った経済どもが、いっぱしの風を装っているのだ。だから国民(経済)のための政府が、国民(経済)主体のための政治を行えば、すなわち民主国家の誕生なのだ。
 
 国民(ニンゲン)のための民主政治は幻想だったのか。
 もしかしたらとは思っていたが、ここまでヒドいとは思わなかった。
 
>>>
 
 そのようなわけで昨今、僕は弟子に「そろそろお前、反政府勢力としてのレジスタンスを組織しちゃえYO!」とけしかけている。
 僕はラケンローなアナーキストではあるが、逮捕はされたくない。
 政治犯になるのもイヤだし、テロリストとして指名手配されるなんていうのもできる限り避けたい。
 せっかくのんびりぼんやりライフを満喫しているのだ。このままのんびりぼんやり暮らして孤独死を迎えたい。
 そういうつもりで今まで(口先ばかりの)努力をしてきたのではなかったか。苦労を耐えてきたのではなかったか。
 ここにきて反政府勢力なんてものを僕が組織してしまったら、捕まっちゃうじゃないか。猫なのに。
 こうなったら精神鑑定に持ち込む方向でアタマオカシイふりをして今からヘンテコ日記を書き連ねるしかないのか(すでにアタマオカシイ日記を書いているだろうというご指摘については納得致しかねます)。
 
 この諸々の矛盾を解決すべく、もっとも手っ取り早く、適切で、即効性があり、そのうえ僕の手を汚さずに済むのが「弟子に反政府勢力を組織させてそれを傍観する」というスタイルだ(ヒドイ)。
 
 無論、弟子には弟子の人生があり、人生の夢だとか目標だとか希望だとかもある(らしい)。
 退廃的な僕と違い、健全で前向きで明るく意欲に満ちた中年である(いちおう彼も40代なので)。
 婚活では失敗ばかりで、せっかく連絡先を交換したのになぜかガールが音信不通になったり、急速冷却したガールの放射冷却によって震えることかれこれ2回にものぼる(婚活パーティの挑戦回数や掛けた金額については質問しない方がいいぞ! いかんせんあの市場もまたヒトを経済として見ているらしいからな)彼ですが、しかしまだ希望を捨てたわけではないそうで。
「日本は民主主義ですよ法治国家ですよ安心して大丈夫ですよだから僕を利用するのは辞めてください」とにべもなく断られた(もっと自暴自棄になれよ!)(まさかの暴言についてこの場をお借りしてお詫び申し上げます)。
 
 しかし僕には友達もいないし、組織力もない、恋人は27人いるものの構成員に使うわけにはいかない(断固拒否する)。カリスマ性もないし、SNSもやっていない。ただのラケンローでアナーキィな猫だ。レジスタンスを組織するなんて無理だ。
 
<むん!>
 
 だから使い魔よろしく反政府勢力を組織させようと思って(特高が我が家に乗り込んでくる危険も顧みず)携帯電話でけしかけているのだが、毎回とりつく島がない。
 あれか、海なし県か。
 太平洋でも島ならあるが、海なし県には島などない。作りようもない。そもそも島は海にできるのだ。だから海なし県には島がない。
 薄情なやつを見つけたら「あいつは海なし県だ」というのが10年もすればスタンダードになり、流行語大賞を受賞するだろう(嘘を吐くな)。
 
 それにしてもである。
 
 反政府勢力を組織するのが弟子にもできないなら(そもそも僕にはできない)、かくなる上は疫病騒ぎが収まるのを待って亡命するしかない。
 レッツ独立独歩!
 財産差し押さえられちゃうんだろうなぁ……。税金なくなるならいいかぁ。
 でも自分の身の代のために税金を払っているのだとしたら、今のままでもいいのかなぁ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::このように言う「難民」たちを、だから社会主義の国では経済が破綻するのだとして一刀両断するのは簡単である。確かに、昨今とみに表面に出てきたという感じの社会主義体制下の国々の経済の破綻は、まさにこの種の怠慢に原因のひとつが求められるのだから。
 しかし、人間性に少しばかり醒めた視線を向けるならば、これがけっして社会主義国にかぎった現象ではないことに気づくはずである。人間ならば誰でも心の奥にひそませている、性向の一つであることに気づくはずなのだ。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「フランス革命二百年・自由」From「再び男たちへ」
(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)
によりました。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:赤猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Kidding-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211214
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
人間のいない国。
SUBTITLE:
~ Economic Animals. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::武士道はかかる種類の知識を軽んじ、知識はそれ自体を目的として求むべきではなく、叡智獲得の手段として求むべきであるとなした。それ故に、この目的にまで到達せざる者は、注文に応じて詩歌名句を吐きだす便利な機械に過ぎざるものとみなされた。かくして知識は人生における実践躬行(きゅうこう)と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教養は中国の哲学者王陽明において最大の説明者を見いだした。彼は知行合一(ちこうごういつ)を繰り返して倦(う)むところを知らなかったのである。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211214
 
 カプチーノが好きなので、全自動エスプレッソマシンを導入した。
 なぜといって、2杯分を抽出して味わうのにあたって、だいたい20〜30分掛かる。
 冗談や誇張ではない。
 豆をミルで挽くのに5〜10分(他の作業のついでにしていると1時間経っても挽き終えていないことがある)。
 機材準備(内部洗浄がメイン)に5〜10分。
 抽出に5分。
 砂糖入りのフォームドミルクを作って1杯のカプチーノが出来上がる。
 後片付けに10〜20分。
 
 友人がゲームをしながら「カプチーノ飲みたいなぁ」なんて言おうものなら、そこから30分、僕は姿を消すわけである。
 自分のために作るとしても、結構な時間を消費してしまう。
 だから。自動が。欲しかった。
 
 毎日飲むとしたら1年で182.5時間もの労働をしていることになるのだ。
 これは8時間労働に換算して22日強、つまりひと月くらいタダ働きをしているのに等しい。
 もちろん給仕しているのは私だし、給仕を受けるのもまた私である。
 深淵を覗き込むとき深淵が私を覗き込むように、私が私に給仕するとき給仕もまた私に私するのである。
(ちなみに我が家の経済主体たる仮想奥様は0次元体なので、じつは食事等を必要としない。え? 知ってたの?! キミすごいねぇ。)
 
>>>
 
 久しぶりに真面目な話をしようかな。
 ただし毒の強い内容なので、気分を害したらすぐに読むのをやめてほしい。
 どうせ僕のことだからまともなことは何一つ書かないだろうし。
 
 
 
 僕が無職生活を始めて、そろそろ3年が経っただろうか(もう忘れた)。
 表向きは無職だけれど、税務上は個人事業主である(ために後ろ盾も保証も何もない)。
 
 端的にいえば不動産による不労所得を得ている。つまりは利権ビジネスのひとつといえるだろう。
 印税や有価証券、その他の金融商品等もまた所有(購入)した権利によって利益を得るものだと考えることができる。
 
 昨今の日本人はエコノミストの誘導によって、こうした利権ビジネスを好む傾向があるように観察される。
 政府も税制優遇等の措置を取り付けることで若干なり後押しをしているのではないだろうか。
 たとえばNISAやiDeCoなどもそうだろう。
 金融企業がその入り口から出口までを固めている(誰がどこに天下りしているかなんて僕は知らないけれど)。
 
 民主主義の皮を被った経済至上主義国家のなれの果て、政治家が国賊よろしく無知で痩せた家畜を囲い込み剥いでゆく。
 いやなにそう見えるだけのことかもしれない。
 混迷の時代にあって正しい道へ羊を導こうとするのは、たとえ神であっても容易くはないと聞く。
 十字軍や暗黒時代について、ふたたび勉強するまでもない。
 
 経済至上主義である結果、経済を持っていない人間は価値がないと人々は刷り込まれる。
 ために人は、己の価値を高めるために経済を持とうと躍起になる。
 経済のないものは生きる価値も意味もないと刷り込まれている。
 だからお金がなくなると自分に価値がなくなったと思って自殺してしまう。
 いわゆるセーフティネットがあり、それについて広報されているにもかかわらず、それを利用する価値が己にないと思ってしまう人は少なからずいる。僕も経験があるのでそれは分かる。
 そもそも生きる上で(一個人にはそれなりに)高い身代金を払うのがこの国の常識である。
 
 大枚をはたいて宇宙に行こうがどうしようが、それは勝手である。
 全自動エスプレッソマシンを買うのと同じで、好きにすれば良いことだ。
 しかし一部の人は、そこに妙に熱狂してしまうらしい。
 スーパーに行って「今日はロールキャベツを食べたいから」と、ひと玉のキャベツを買うのと原理はさほど変わらない行為について、そこに動く物事や金額のスケール感に目がくらんでまともにモノが考えられなくなるのだろう。
 べつに宇宙に行くことが悪いとか、下らないとか、そういう意味ではない。
 お金や地位や能力や人脈、ありとあらゆる自分の持てるリソースを使って、人間は自分の思うありようを体現すべきだと思うし、それはそのまま自由そのものであり、それをしていることはたとえ賞賛されなくとも非難されるべきものではないだろう。
 
 ただそれはフィットネスクラブに入会して理想の体型を手に入れるため努力したり、コンビニでポテトチップスを買い食いすることと、何も変わらない。草津温泉まで自動車で旅行に出掛けることと、何ら変わりはない。
 だからコンビニ前で友達とたむろしてポテチを食べている高校生に「オマエたち、自分の小遣い(あるいはバイト代)を使ってポテチを食べてるなんてすごいな、エラいな」と思える人、賞賛できる人は、それでいいと思う。そういう原理を賞賛できる人ならば、宇宙に行った一般人を「夢を叶えたエラい人」と賞賛していいように思える。
「オカネモチーになりたいなぁ」なんて言ってぼんやりのんびりしているうちに不労所得を得られるようになってしまった奴よりよほどまともじゃあないのか。
 
 一方で上に挙げた例をして(え? 何言ってるの全然違うじゃん)と思う人は、まぁ、そうですねぇ、そのままでいらっしゃればいいのではないかと思うのではある。
 これはたとえば2000万円の高級車を買って乗る人と、13万円の中古の軽トラに乗る人を比較しても同じである。
「これに乗りたい!」と思って乗るならば、いずれも素晴らしいことだ。いずれも自身の夢を自力で叶えているのだとしたら結構なことではないか。
 一方で、周囲へのディスプレイや必要でもない目的のため、あるいは他力本願で到達したのであれば「ご愁傷様」と言うよりない。そんなところに幸せはない。同じものを手に入れているにもかかわらず、だ。
 
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 そもそも人間は「望み通りになる」機能が備わっているように観察される。
 ブラック企業に勤めてしまって大変だという人も、ある朝家を出たら誘拐されて入社面接がスタートした、というわけではないだろう。
 自身の妥協も含む選択の結果、今居る場所へ到達したわけであって、たとえば先の周囲へのディスプレイのために本心ではどうでもいいことをしている人(宇宙旅行をしている人は多分そういうタイプではないと思われる)ですら、自身の望みをきちんと叶えている。
 
 もっとも親や生まれる環境は選べない。
 しかし選ぶことができないものよりも、選ぶことができることに集中した方がよいだろう。
「どうして僕は猫なのに人間に生まれてしまったのか」なんてクヨクヨしても仕方ない。
「人類初(たぶん)の種族同一性障害という設定で面白おかしくしてしまえ」といった感じで。
 
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 40代を過ぎて明確に感じるようになったのは、いくら齢を重ねても、どこまでもアタマが悪い人がいて、当人はそれを改善するどころかその必要すら感じていないという事実だ。
 びっくりするくらい人間は感情や思い込みに縛られていて、年々それがひどくなって行く。
 40にして惑わずとはつまり、ドラスティックな変容を、そこから先は望めない、ということなのかもしれない。
 
 冒頭の経済の話でいえば、お金がなくなったらホームレスになるのだってひとつの選択肢だと思う(僕はそのシミュレートを昔からしている)。
 お金を持っていることと人間として優れていることは、まったくもってイコールではない。
(お願いですだからってボクを指さして嗤わないでください)
 
 利権がビジネスとして収益を上げるということは、その権利者たる人間の能力をほとんど必要としないということだ。
 金融や不動産業の人たちは「お金がお金を稼ぐ」とか「土地がお金を稼ぐ」なんてまことしやかに言う。おそらくそれはメカニズムを解析する限り事実だろう。
 ただし忘れてはいけない。そのメカニズムには人間が不要なのだ。
 
 AIの台頭により職を奪われることを懸念している人たちがいる。
 僕はもともと仕事嫌いなので「どんどん自動化して奪ってくれ」と思っていた(今も思っている)。
 その一方で社会は不労所得を(最低限、副業程度には)組み込むことを必然として刷り込み始めている。
 
 仕事なんてものはなくなってもいいだろう、というのが僕の考えだ。
 機械やAIによる自動化で、単純な作業(一見複雑に見える、多岐にわたる規定による論理判断や、不慣れな役所の書類作成など)は自動化されてしまえばいいと思う。
 一方で、経済は人間の能力 ── つまりは人間性の良い面 ── に応じたものであってほしいと思う。
 
 人間が不要な世界で経済が回るとき、人間はいよいよ人間を見失う。
 なぜといって、すでに「経済を持たない人間は不要だ」と、本気で思っている人もこの社会には居るのだ。
 その先にユートピアなどあるものか。
 カネを生まない人間は紙幣1枚ほどの価値もないと考えるような社会が待っているのだ。
 つまりそれはカネさえ持っていればどんなクズのような人間でも許され崇め奉られる社会だということだ。そんなものが許されてたまるか。にもかかわらず我々はふと気付けば、お金さえ持っていれば(すごい)と思ってしまうシステムを組み込まれてはいないだろうか。
 
 不労所得の恩恵にあずかっている身の上としては不労所得そのものを否定したくはない。
(自分が恩恵にあずかっていなかったら多分否定するんじゃないかなこのイキモノは)
 たとえば印税収入や投資による収益は、それ相応に本人の能力によるものもあるだろう。
 
 ただしすべての人が印税収入を得られるような経済システムは考えられないし、投資とはそもそも原資を持たなければ始まらない。
 ためにそれらは過渡期に存在した(する)経済システムの一派でしかないと考えるのが必然だろう。
 
 本来の資本主義とは、人間が持てるリソース(能力)に応じて経済を構築することができる、というシステムだったはずだ。
 利権ビジネスは最終的に、人間を不要と見なすシステムだ。
 人間という分母が少なくなればなるほど、一人あたりの持つリソースは大きくなる。
 人間たちは、経済の名の下に、同胞を排斥しようとしているのではないのか。
 
 経済を多く持つものに憧れ、それを褒めそやすのは結構なことだと思う。それは本来の資本主義が持つ、ひとつのカオだ。
 しかし一方で、人間は人間を、その品性を、経済のためならどこまでも貶めてよいということではないだろう。
 原理は単純で、ヒトはヒト、カネはカネでしかない。
 お金にタマシイはないし、人間は万能の交換リソースなどではない。
 人の人間性や能力と、動かしうる経済の大きさは、決してイコールではないのだ。
 
 人間には人間の価値がある。
 それを貨幣によって表現しうる人もいるかもしれないが、それ以外によって発露する人もいるし居てしかるべきだし、それが文化と呼ばれるもののはずだ。
 僕のようなケダモノならともかく、人間だけは人間を見失わずにいてほしい。
 
 かりそめの民主主義という仮面の内で、痩せた家畜の骨を齧る禽獣は誰か。
 そこに居るのはニンゲンか。それともそれは他のナニカか。
 
<先日の火鉢事件の痕跡。まるで三日月のようだねぇ、なんてはしゃいでいるとまた叱られそうである>
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::まず仏教から始めよう。運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賤(いや)しみ死を親しむ心、仏教は武士道に対してこれらを寄与した。ある剣道の達人〔柳生但馬守(たじまのかみ)〕がその門弟に業(わざ)の極意を教え終わった時、これに告げて言った、「これ以上の事は余の指南の及ぶところでなく、禅の教えに譲らねばならない」と。「禅」とはディヤーナの日本語訳であって、それは「言語による表現の範囲を超えたる思想の領域に、瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」。その方法は瞑想である。しかしてその目的は、私の領解する限りにおいては、すべての現象の底に横たわる原理、能(あた)うべくんば絶対そのものを確知し、かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。かくのごとく定義してみれば、この教えは一宗派の教義(ドグマ)以上のものであって、何人(なんぴと)にても絶対の洞察に達したる者は、現世の事象を脱俗して「新しき天と新しき地」とに覚醒するのである。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「武士道」(著作:新渡戸稲造 / 発行:岩波文庫)
によりました。
 
なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Form-Mechanics-Recollect-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211210
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
家を燃やしかけて奥様(仮想)に叱られる。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211210
 
 相続手続きが(2年掛かりで)すべて終わったついでに叔母名義の高額な税金(延滞金も高額)を支払ったのは昨日のことだ。
 2年間、役所に通って言い訳(相続手続きが終わらないため、払うことができない)をしながら1年間は支払いをすっぽかし、2年目は分納し、その残額は僕の軽トラ(びっくりするほど安い)が40台くらい買える値段だった。
 
 今日はお寺に出向いて墓仕舞いの相談をする。
 叔父の一族郎党が滅する、その係を、全然といっていいくらい関係のない僕がする。
 一族郎党を滅ぼすといえば、僕自身の一族についても可能な限りそうしたいとブログに書いたことがあるので、僕が死んだら叶うかもしれない。
 いかんせん、ブログに願いを書くと叶うことが多いので、近年の僕はことのほか慎重である。
 
 ちなみに年末なので願を掛けておくならば、宇宙には行きたくないけれど、オーロラの見える場所に行って生きて帰ってきたいと思う昨今です。あと最近、ふたたびモテはじめたので気をつけたい。できれば眼鏡ガールにモテたい。しかしいずれにしてもうかつなことを書くものではない。
 実現してしまってから後悔したことは一度もないが、自力で何かを叶えた気がしたことは一度としてない。
 
 永代供養と税金で、相続した現預金の半分がなくなる(税額が尋常ではない)。いいことだ。お布施を上乗せして我が煩悩も払ってやろう。どうせ僕のお金ではない。猫に小判と言うではないか。
 しかしこの家における修繕あるいは入れ替えを要する設備もそれなりにある。ここは思案のしどころか。
 予算審議委員会に照会したところ、しかしお布施は上乗せするのがよいという判断だったので、誰にもいわずにこっそり上乗せしておこうと猫会議で可決する。どうせどちらの親族も呼ばずに執り行うのだ。
 
>>>
 
 僕の棲んでいる市内で、これまでタイミングが悪く一度も行けなかったアウトレットの家具屋がある。
(ちなみに僕はニトリが嫌いなので行かない。個人的に嫌いなだけなので、好きな人のことをとやかく言うつもりはない)
 そこに入ったところ、たまたまよいベッドフレームを(1時間以上もぐだぐだ迷った挙げ句)見つけた。
 正確にいうと、店員さんに声を掛けられたので(どうせないだろう)とばかりに希望を言ってみたのだ。
 アウトレットの店だから、同じものが2点もない商品もたくさんあったのだが、本社倉庫に在庫がちょうどふたつあるという。
 若干(フレーム強度的に)心もとない部分もあるが、2基で50k円強である。高くはない。少なくとも脳内予算審議会を80k円上限で通過している事案なので、奥様(仮想)も安心である。
(ちなみに天蓋を作る必要は変わらない。この家は通気が良すぎる ── あちこち隙間がある ── ので、温度や湿度をなるべく一定に保ち、光や虫の侵入を防ぐためには天蓋を作った方がよいと判断している)
 
 フレーム在庫の取り置きをweb経由で処理している間に、マットレスを選ぶ。
 感触はウレタンの方が好きなのだが、座ってから寝転んで、寝返りを打つときには、どうやら固めのスプリング式の方が好みのようであるな、などと思いながら店内のめぼしいマットレスに座り歩いていたのだが、ひとつ、座った瞬間にものすごく気持ちの良いマットレスがあり、それに上半身を預けたらものすごく眠くなってそのまま動きたくなくなってしまった。
 目を閉じて数分うっとりしていたら店員さんに声を掛けられたので飛び起きて、一応、マットレスについての説明をあれこれ聞いてみる。
(なぜといって、自分の選んだマットレスの値段が、フレームの4倍を超える価格だったからだ)
 
 しかし、僕は身に着けるものも基本的に肌触りで選んでしまう。
 恋人だって眼鏡どうこうより肌触りが評価の6割くらいを占める(まさかの新事実)。
 もちろんいきなり肌に触れると逮捕されるのでしないけれど、付き合い始めてから肌触りが悪かったり、不潔だったり、肌がかぶれる場合(そういう相手もときどきいるのだ)は遠ざける傾向がある。
 肌触りがよくて、清潔で、長時間触れていても肌がかぶれない人間型の恋人というのはそれだけで素晴らしいのである。(ちなみにこの3要件は、肌を適切なレベルで清潔にしていれば問題ないものである)
 
 いつもどおり話が逸れているが、肌(や骨)の感触に優る評価軸はないといっていい。
 そのうえ、ここで妥協したらしたで、あと5年は同じものを使うことになりかねない。
(ウレタンの場合はその程度で劣化するはずだ)
 ついでに僕は、眠るのが本当は大好きだ。
 
 なので説明を聞くのを途中で切り上げて「ところであれにします」といって決めてしまった。
 いずれにしてもベッドを用意すれば、仮想奥様的にも僕の身体の心配の種がひとつ減るわけだから、マットレスについての予算審議は多数決によらない議長権限で強制通過した。
 掛け布団については語ることを控えておきます(なにがあった)。
 
>>>
 
 帰宅して、夜、火鉢に火を入れる。
 五徳を入れて、水を入れた鉄瓶を載せる。
 いい感じに暖かいが、火力調整がむつかしい。
 灰もさほど買っていなかったから上から掛けることもできない。
 床の上にコルク製の鍋敷きを敷いて、風呂に入る。
 
 お風呂を上がると、香ばしいいい匂いがする。
 火鉢に近づくと、かなりあたたかい。
 しかしどうも炭の燃える匂いではない気がするので電気を点けて調べたら、床の一部とコルクが焦げている。
 慌ててガス台の五徳と別のコルク製鍋敷きと濡れタオルを用意し、新しい鍋敷きの上に五徳を置いて、ひとまずはそこに火鉢を置き、下の方に濡れタオルを巻いて熱を下げる。
 いやぁ〜あぶなかったぁ。
 
 などと供述していると、奥様(仮想)に叱られる。
 ごもっともです。
 あやうく火事になるところだった。
 
 そういえば「床材ごと燃やしてやろうかと思ったことは1度や2度ではない」などと書いたから、そのせいかもしれない。
 
 
 
imageimage
<最近、毎晩作っているのが長ネギのグリルと白菜とキャベツのサラダ。色味がない>
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Diary-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211207
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
俺のコロナに対する敬愛の念を知れ。
SUBTITLE:
~ We love CORONA. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211207
 
 燃えるゴミの日。
 早朝に目覚める。
 14時から来客予定。
 たいしたゴミはなかったはずだから、今週のゴミ捨てはパスしよう、と4度寝を開始しつつ脳内でスキャンしたところ、結構な量のゴミが確認された(この中には、先週の体験入社中に猫どもが食い散らかした布団や、掛け布団、こたつ布団や布団などが含まれている)。
 しかたなく起きると10時になっていた。
 ゴミ捨てなどをして、11時頃、家を出る。
 今日こそは暖房器具を増設しなくてはならないと、緊急予算委員会の可決が数日前になされたところだ。
 
>>>
 
 この家での熱源は、灯油が多い。
 ガスコンロこそガスだけれど(当たりまえか)、湯沸かしのボイラは石油である。
 長風呂の僕が冬に毎日お風呂に入ったとしても、20〜30L(ひと月あたり)あれば足りるので、非常に経済的である。なぜ灯油ボイラを前の家主が導入したのかは分からない。
 
 ただしこの家では、暖房器具が致命的に少ない。
 最近、倉庫の奥で火鉢を見つけた(そして清掃中に壊してしまったので、仕方なくヤフオクで新しい火鉢を買うことにした)が、それを抜きにすると、掘り炬燵が1つと石油ストーブが1つしかない。
 エアコンは比較的最近(6年以内)に導入されたものが3台あるが、そもそもこの家は部屋が6+DKで7つある。玄関フロアもテントが張れるくらい広い上、断熱がされていないのでひどく寒い。いっそ床材ごと燃やしてやろうかと思ったことは1度や2度ではない。
 
 しかも掘り炬燵のある部屋にストーブが設置されていたため、他の部屋には暖房器具が存在しなかった。
 
 前橋から引っ越してくるときに、ストーブ1台、ファンヒータ1台、アウトドア用ガスヒータ1台を持ってきたが、ストーブは縁を切ってしまった友人に譲ってしまったし、ガスヒータは常用するのに向かない(カセットボンベを使用する上、効率がよいとは思えない)ので、実質、空調系暖房器具は2つしかないことになる。
(僕は冷媒エアコンのヒートポンプ機能が嫌いなので使わない)
 
 もちろん僕が常用している部屋は書斎と寝室の2つだけだが、来客や台所で長時間にわたる作業の際は、いちいち家の奥にある部屋から対角線上の奥の部屋まで灯油に満たされた暖房器具を運ぶことになる。
 そのせいで僕は来客が嫌いになっているのではないかと思うくらいだ。第一、客が帰ったら暖房器具をまた足繁く運び直すことになる。
 時間ももったいないし、ずぼらな僕は火の着いたままのストーブにヤカンを載せたまま運んだりする。
 今までは転ぶこともなかったが、今後もないとは言い切れない。
 そこで暖房器具を新調することにしたのだ。
 
>>>
 
 石油タンクを搭載しているストーブやヒータなら、コロナが好きである。
 たまたま叔母の家に置いてあったストーブもコロナ製であり、僕の持ってきたファンヒータもコロナ製である。
 
 なにどのメーカも同じだろうって?
 そのとおり。だいたい同じである。
 そもそも燃料を燃やして熱を発生させるシステムにむつかしい機構など必要なはずもない。
 
 ならばなぜコロナなのか。
 いい質問である。
 コロナ製の暖房器具の石油タンク(本体から分離するタイプ)は、そのすべて、石油を補給する際に手が汚れない。
 汚れにくい、というのを売りにしているメーカはあるが、コロナはまず汚れない。
 石油が指に着いて、石けんでも洗剤でも完全には落ちなくて、ぬるぬるしてしまうあの現象が、よほどの失敗でもしないかぎりは起こらない。とにかく徹底して、石油が手に触れにくい設計になっている。
 
 ために電器屋に着いて店員が「何かお探しですか」とすり寄ってきたところにすかさず「コロナの暖房器具を探しています」と即答した。
 
 最終的に最上位モデルのファンヒータとストーブを選んだ。
 
 そして今回買った最上位モデルのこれ
 扉が自動開閉するだけではなく、その扉がルーバになって、風向きを調整する。
 その上(開封して分かったのだが)リモコンが付いている。信じられない。
 寝室でベッドからまったく出ることなく部屋を暖めることが可能なのだ。
 信じられない(2度目)。信じられない(3度目)。
 俺は人間は信じないが、テクノロジィは信じちゃうぞ。もぅ!(はぁと)
(12/8 追記。リモコンにオフのスイッチはあったが、オンのスイッチがなかった。信じられない(4度目))
 
>>>
 
 帰宅して、来客前に暖房器具をセットする。
 新しいものは当然、寝室と書斎に設置する。
 特にストーブは石油を浸潤させる時間が必要なので、両方とも燃料を補充して部屋に設置だけしておく。
 それまで使っていたファンヒータは台所(DKは DaidoKoro の略である)に、ストーブはかつて安置されていた居間にご帰還である。
(こちらも先日、Amazonで純正燃焼芯を購入して交換したばかりなので絶好調である)
 
 来客対応後、家具屋にベッドフレームを見に行く。
 もういい加減、ベッドフレームを探すことに嫌気が差しているのだが、奥様(仮想)との約束もあるし、予算審議はとうの昔に通過している案件だし、いい加減、僕の骨格が歪んでいる気もする(疲れは取れにくいし、あちこち痛いときもある)。
 しかしやはり思ったような商品が見つからない。
 やはり自作する方がよいのではないかと、奥様(仮想)と話すのだが、奥様(仮想)は僕が何かを作ることをかなり喜ぶ傾向があり、つまりは既製品を選ぶときは比較的つまらなさそうにする傾向がある。
 
 新しいものを前にわーきゃー騒ぐのは僕と一緒なのだが、僕が作ったモノがあると、それについて僕を褒めちぎった挙げ句、なぜか非常に自慢げにするのだ(安全確認以外は何もしないのだけれど)。
 
 ベッドについては、マットレスのサイズにばらつきがあるため、自作を控えていたのだが、あまりにもたくさんの製品を見ていたので、一般的なサイズ感が頭に入ってしまった。
 
 僕が欲しいのは以下の要件を満たすものだ。
○キャスターを装備しており移動可能。
○床面まで20cmほど(掃除機のヘッドが入るくらい)の隙間がある。
○可能ならベッド下に引き出しを装備する。
○棚やコンセントは特に必要ないが、アタマに板面がある場合はシンプルな平面で鉛直に伸びているもの。
(あとで改造しやすいので)
 
 キャスタは50歩譲って標準装備していないものが多いのは理解できるが、それ以外の要素をきちんと満たして、素材や作りがよいモノがほとんど皆無だった。
 
 自作の場合はさらに以下の要件を満たす。
○120x200サイズを2つ組み合わせて240x200サイズにする。
(長手方向に横たわるので、マットレスを2つ横切って眠ることになる。このくらいのサイズでないと、僕の身体はベッドの上で背伸びをすることができない)
○ベッドは分離可能にする(来客時に、1つ譲れるように)。
○選択的に天蓋を装着可能にする(脱着式ということ)。
 
 脱着式天蓋以外はさほどむつかしい要件でもない(120x200は一般的なセミダブルサイズである)と思うのだが、ベッドにしても机にしても、思ったようなものがまったくないので困る。
 だいたい僕が欲しいものは、それが何であれ、思った通りにぴったりのものということがほとんどない。
 今までの人生で「まさにこれがほしかったものだ」と思ったのは、叔母に捨てられた書架セットとロードバイクくらいだろうか。
 コンピュータ用品だと左手用キーボードの「n52te」と、キーボードの「diNovoEdge」くらいか。(いずれも絶版。n52te は後継機が市販されているが、私のコンピュータでは使えない)
 
 それ以外のほとんどすべては、間に合わせか、妥協による選択をしている。
「それが素晴らしいから」ではなく「範囲の中ではこれくらいが妥当だから」という選択を僕は嫌っている。
 読む本も、着る服も、使う道具も、自分の価値観や性格も、せめて自分の思い通りにできる範囲のものは思い通りにしたい。そういうエゴが僕にはある。
 
 ただ比較的まともなことに、僕は他人(およびその所有物)を思い通りにしたり、自分の理想をお仕着せたりする気はまったくない。むしろ勝手をして迷惑を掛けてくるくらいの人の方が好きである。
 とはいえ友人や恋人や奥様に至るまで、仮想で作ってしまうことはあるのだけれど、それとて思い通りのママゴト世界の演者として作ったわけではないから、彼ら/彼女たちは独自の価値観で行動している。
 もちろんそれらの機能や役割、僕へのフィードバックについてまで僕はわざわざ誰かに説明したりはしない。それらは僕のものであって、他の誰かのものではないのだから。
 
<今日のメインディッシュ。身欠にしんときのこ、夏野菜のチーズ焼き。ごちそうさまでした>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Season-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Bicycle-Fashion-Friend-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:ひとになったゆめをみる:夢見の猫の額の奥に:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211202
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
いつもおひとりさま。
SUBTITLE:
~ subject: Stand_alone. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::「視覚って、頭で意味を考えるより速いから、考える前に人を動かせるの。アナログハックって、そういう速度の差を狙って仕掛けるんだけど。ただ、わたしたちは商業だけれどユーザーはそこに自分だけの“意味”と物語を見てて。この意味は、ユーザーの中で妄想になって暴走する。タガが外れたとき、人間のモデルや芸能人の場合と比べると、hIEの場合は、ユーザーがどこかで“モノ”だって侮るのよね」
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211202
 
 目覚めて、何をしようかとぼんやり考えていると、件の悪徳業者の内通者からメール。
 今日、代表がそちら(自宅)に行くかもしれない、という内容である。
 数日勤務していたので、行動パターンは掌中にある。
 
 直接対峙してもよいのだろうけれど、いかんせん僕は弱いイキモノである。
 本来の、人見知りで引きこもりな気質が、人間不信と相まって恐怖を生んでいる。
 居留守も心が削れるので、当該時間帯は外出する方針でスケジュールを組む。
 
>>>
 
 15年ほど前から、IRLで知り合う多くの人は、僕の人間恐怖症を理解しない。
 僕は社交的で、フランクに人と接することができて、人との距離をすぐに縮めることができる、と観察されている。
 なぜといって、それは必要だったため身に付けた技術であり、僕としては自身の根幹にある人格や価値観の本質が変わったようには認識していない。
 人と接していると過分に疲れるし、今でこそそんなことはなくなったが、ちょっとしたことで気持ちが傷つく。
 
 おそらく僕以外の多くの人もそうであろうと思って他人と接することを心掛けているが、世の中には厚かましくて自己中心的な人が多いのもまた事実。
 だからこそ垣根を感じさせないコミュニケーションをTPOで演じるものの、それはあくまでも、集団や空間に対する配慮であって、他人がいないときの僕の方が、僕は好きだし気楽でもある。
 
 だからといって、webに書くような思考をいつもしているというわけではない。
 むしろもっとふざけていて、デタラメな冗談ばかりを言っている。
 周囲から観察すると「大きな独りごとを言っている、ちょっとアタマのネジのおかしい人」ということになるだろう。その観察による推論を否定はしない。否定の余地もない。
 
 実際のところ僕にとっては、複数の価値観に基づいて単一の視野から得た情報を処理するので、それぞれの感じ方や、それに対する言い分があるのだ。
 ためにひとりであれこれ議論することになる。対立した2視点による議論も多いが、たいていは横槍のほうが多い。
 自分が何かに熱中していると、だいたい横槍が入る。
 茶化す場合もあれば、たしなめる意見もある。対立意見があれば、それに加えて横槍が発生する。
 
 そういう思考パターンを自分自身で構築している結果、他人とのコミュニケーションが画一的で定型的なやり取りのほうが多くて、実利のある情報が少ないと感じてしまう部分はあるようだ。
 
>>>
 
 どうしても、他者と接すればまず挨拶をすることになる。
 また、共通の話題や共感を呼びやすい話も必要だろう。
 つまり、
「私はあなたの敵ではありません」
「私はあなたと同じように物事を感じることができる味方ですよ」
 というのを毎回繰り返すことが多い。
 
 もちろん挨拶を否定する気はない。むしろ励行する。
(コンビニやスーパーや外食先でも当たり前に挨拶する)
 だから定型化されたやり取りを馬鹿にするものではない。むしろそれを奨励する。
(見知らぬ人との世間話も、辞する理由は特にない)
 その意味で僕はきわめて礼儀正しく、フレンドリィである。
 ただ、回りくどいなぁ、とは思うのだ。
 
「こんにちは〜」「今日もいいお天気ですね」「あれ、髪型変えました? すごく似合ってますよ」なんて社交辞令で時間を潰すより、
「とりあえず僕とぱやぱやしません?」と開口一番に言いたい(←さっさと捕まってしまえ)。
 
>>>
 
 むろん、いつも「ぱやぱやしません?」と思っているわけではないし言いたいわけでもないが、そもそもコミュニケーションによって新しい情報が得られることはさほど多いわけではないし、気になっていることの本質について他人と議論することは簡単ではない。
 
 たとえば最近は、人間の認識の内部に構築される準リアル/ヴァーチャルな情報群によって、認識世界がその個人に与える影響について考えていることが多いのだけれど、そもそも多くの人間はそんなことを考えて暮らしていない。
「ただしイケメンに限る」「アンチ・ルッキニズム」などもすべて、人間の認識世界がフィルタリングした現実によって、個々人にフィードバックされた価値観である。
 あるいは経済至上主義だって、経済そのものがヴァーチャルであると考えるならば、個々人の認識世界で過分に肥大した結果、本来以上の意味を持って価値観として出力され、それに基づいて人々は人格を形成する結果、社会が経済を個人以上の価値として認識している可能性は否定できない。
 
 しかしこんなことをいきなり言われて「そうですね。しかし私が思うには」なんて言い出せる人間はそうそう居ない。見たこともない。
 つまるところ僕が普段から考えたり気にしていることについて、何らかの答えを持っている人はもちろん、考えている人すらいない可能性が高い。
 
 どうするか。
 
 しかたないから一人で考えるのである。
 
>>>
 
 もちろん「いきなり誰かに手を握られても私は構わないしむしろ嬉しいただしイケメン/美女に限る」という価値観は相応のコモンセンスとして根底には存在しているはずだから、コミュニケーションにおいてある種の話題を形成することが可能である。
「いや私も」とか「それはさすがにないわ」とか、それぞれの価値観を開示しながらコミュニケーションを行うことができる。
 
 しかし上記の僕のように「ヴァーチャルが人間の認識に明示的に参入することで起こる価値観の変遷と現実社会へのフィードバックの可能性およびそのメカニズムについて」は、コモンセンスとしてはまだ社会に浸透していないから、ほとんどの人はこの現象について何も考えていない。何の評価もできないし、メカニズムの分析も行っていない。
 経済のように圧倒的なリアルに寄ったヴァーチャルもあれば、コンピュータ技術によって実現したキャラクタによって心を動かされるというヴァーチャルから現実に寄せてきたものもある。芸能人はリアル寄りのヴァーチャルキャラクタビジネスと考えることが可能だし、AIは本来実体のない情報を実体化させるインタフェイスとして機能し始めている。
 
 いずれも人間のために働いて、いずれも人間が作りだしたものであり、そこに明確な意図や目的がなかったとしても、明確な作用はある。
 しかしそれらについて明確に開示している人は少ないし、考えている人も少ないように観察される。
 お金はお金で、ゲームはゲームで、ヴァーチャルキャラクタはヴァーチャルキャラクタで、芸能人は芸能人でしかないと思っている人が多い。セクシャリティも、ニュースも、ビジネストレンドも同様、人間の欲という欲のあるところ、感覚や認識の働くところすべてにヴァーチャル/リアルの認識バイアスは浸透し、個々人の価値観と社会の傾向に影響している。
 
 そして個々人の価値観に与える影響について、それらが似通っている部分は少なくない。
 なぜならそれらの存在を欲し、それらを手に入れ、それらから影響を受けることを人は求めているからだ。
 欲とはつまり、影響を受けていない状態から、影響を受けた後の状態を求めることだろう。
 
 あるいはそれは、あまりにも当たり前のことだから、議論の必要を誰も感じないのだろうか。
 
>>>
 
 人間たちの思考やコミュニケーションプロトコルは、僕のそれとは少々違っている。
 おそらく僕が少数派なのだろうとは理解している。
 多くの人間は群れている一方、僕はだいたいソロ活動をしている。
 交友を含めたコミュニケーションの範囲はきわめて狭く、接する人間もごく少数しか居ない。
 
 今回、初めてそれが心細いことなのだと分かった気がする。
 
 一人暮らしを始めるときもそうだったのだが、僕は自分が孤独であることについて、何の違和感も持たずに過ごしていた。
 そもそも子供の頃、家族が離散する以前から、群れを成す人間との思考や習慣の違いには薄々気付いていた。
 だから友人ができないことにも、集団に加わりたいと思ったとしても加わることができないことも、自身と他人の価値観や特性の差異について納得はできた。
 
 だからこそ、僕は独りでいることを不自然に思わなくなった。
 家庭が貧しかったことも影響しただろう。
 僕は10代になる以前、家事を始めた段階ですでに、誰かに甘えることなく生きてゆく必要を感じていたし、それを実現するためのステップを考えることが必然だった。
 
 自分ひとりでどこまで何ができるかを考え「できること」を拡張し続けた結果、だいたいのことについて他人が不要になってしまったとさえいえる。
 もちろん、自分ひとりでは対応しきれない事態がなかったわけではない。
 普通に頼れる人間がいるならば、一人暮らしで水道を停められるような事態にはなかなか遭遇しないだろう。
 しかしそれさえも、頼る人がいないなら自分ひとりでなんとかするしかないし、そうこうするうち、自分ひとりで何でもできるようになってしまうのだ。
 
 先日も冗談交じりに書いたが、ガールフレンドに求めるものについて20年ほども前から「カラダだけ」と僕は言っている。他に求めるものがない。
 何も奪わないで居てくれたらそれだけでいい。
 
 たしかに恋人が僕のように料理もできて、家のリフォームもできて、コンピュータシステムの構築も(せめてマニュアルを読めば理解することが)できて、植物の組成や代謝についても理解できて、掃除をするときは汚れの種類に応じた薬品や道具を選択することができて、人体や猫の身体機能についても理解していて、人間の精神構造についても理解しようと努めていて、それなりにお金を稼ぐことができて、何らかの仕事を与えると人並み程度には能力を発揮できて、ということなら(代わりに僕は別のことができるので)まぁ素晴らしいと思う。
 あるいは僕に不足する何かを提供してくれる人ならば僕にはかなり有用であると思えるだろう。(眼鏡っ子成分が足りないことが多いので、仮想奥様にはそれを提供してもらっている。つまりはその程度のことである)
 
 しかし恋人が、上記のような複雑怪奇かつ曖昧模糊な抽象論を取り扱えるとは思っていないし、求めるつもりもない。それは経験上、どうしようもない。
 僕のリアルの友人たちもそんなものは理解しないし、ネコノカミサマでさえ僕の疑問に答えてくれたことはない。
 
>>>
 
 人的リソースとは、現代においては物的リソースで代替可能である。
 人数が少なくて心細いなら、物量で、あるいは情報量でそれを補うしかない。
 ひとりが心細いなら、それを補って余りある物的安心を構築するしかない。
 それがリアルであろうとヴァーチャルであろうと関係はない。
(求めよ、そして構築せよ、さすれば与えられん)
 
 そして望む場所にそれらを構築することができる。
 それが僕の能力なのだろう。
 
 きっと生きとし生けるすべてのものは、孤独だろう。
 その孤独を埋めるために集団を作ることについて、僕はそれを揶揄するつもりはないし、弱いことだとも思わない。
 それは最適化で、多少なりとも賢い選択だ。
 僕のように孤独をどこまでも選ぶのは、弱さを放置していると考えれば、不適切な選択だといえる。
 
 しかし孤独を選ばなければ、集団に足を取られることもある。
 他者とのコミュニケーションに時間やお金を掛けるのが常に無駄だとは思わないが、そこで欲しているコンテンツを得られないなら、お金も時間も人格の変容も、一切のリソースを振り分ける必要などないのだ。
 
 もちろん、僕が欲しているコンテンツが、誰の、何の役に立つわけでもないことはよく知っている。
 今までの人生で、およそずっとそうだったのだから、それらを体系的な情報にまとめたところで、誰の役にも立たず、現実世界の一切の物事とリンクする術もなく「ワカラン」と両断されるのは分かっている。
 
 しかしボクはそれを知りたいのだ。
 
 人間のメカニズム。
 人間が潜在的に選択してしまう、ときに非合理な条理の根底にあるものを。
 それが果たして「よいもの」か「わるいもの」かを。
 
image
<複雑にして美しいものはたくさんある。逆もそうであるように>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::「アナログハック! hIEが、人間の形をしているけれど、人間と同じ意味は持っていないこと。形が同じだから、意味を判断する人間が勝手にズレを作って錯覚にはまり込んじゃうの! hIEを使って、【接する人間に、好意や意識のセキュリティホールを作れる】のよ」
 これだけの人間が、ハックされて消費へ誘導された。
「アラトくんのレイシアちゃんは、“カタチ”を利用して人間を自発的に動かすっていう、社会へのハッキングを行ったのよ」
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
『Phase2「Analog Hack」』From「BEATLESS」(文庫版 上巻)
(著作:長谷 敏司 / 発行:角川文庫)
 によりました。
 
なお、引用文中の傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211128
// NOTE:それ以来、ひどく眠いのです。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
あぶない橋を渡らず迂回路を行け。
SUBTITLE:
~ Trust me, Head on. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211128
 
 体験入社が終わった。
 詳細を書くのはやめておくが、非常に危ない感じがしたので、断った。
 ダーティな、といえば多少は伝わるだろうか。伝わらないだろう。
 
>>>
 
 20代の頃、父上が死んで間もなくから、ダーティな人たちと渡り合う機会が多くあった。
 世間を知らない若造をカモにして、つまりは無知な人間を食い物にして、何かをかすめ取ろうというタイプの人間はどうしようもなく世の中に居て、そういう人間は時々、僕のように無害で抵抗力をほとんど持たない人間を見つけると餌にしようと寄ってくる。
 
 その当時も、本当に酷い目に遭った。
 寸借詐欺にも遭ったし、車両詐取もされたことがある。
 大きめのところだと、義理の兄(姉の旦那)の債務の保証人になったはいいものの、1年もしないうちに当人が破産申告して、ほとんどそのまま負債を預かったこともある。
 ── 実のところ叔母が私に負わせた額はさらに2桁上だったので、当時の私は当然に(3秒ほど)逡巡したし、けれどもまさか血縁者たる叔母まで私をいいように餌にするとは思っていなかったのではある。叔母に対する現在の憎しみというのはつまり、そうした人間たちに対する怒りでもある。
 
 強欲にして他者を(顕在的にであれ潜在的にであれ)餌にしようとしている人間には一定のパターンがあって、僕はそういった人間には懲りているうえ、当然ながら嫌悪している。
 ついでに若い頃なら多少なり僕自身にも欲があったが、そうした人間たちは他人の欲を使ってうまく自身の空腹を満たす術を知っている。
 喩えるなら、餌を使って獲物をおびき寄せるタイプの狩りをする動物のようなものだ。
 ときどき高額な詐欺がニュースになったりするのも同様、騙される側に一定以上の欲があり、歯止めが利かないから結果的に餌にされるのだ。
 
 かつて、肉食獣が高い運動能力を活かして草食動物を狩っていたのと同じような時代が人間にもあっただろう。
 強奪し、仕留めて、食い物にする。
 そこにあるのは圧倒的な能力差であり、有無を言わさず獲物は権利のすべてを剥奪される。
 
 人間たちはたまたま、理性を使って倫理的な思考を行い、ルールを作って皆で守る約束を取り決め、肉食獣のような横暴を禁じることにしたのだろう。
 その結果が今の社会というわけだ。
 
 しかしながら、上記のような疑似餌を使うタイプの詐欺はたいてい、実際に捕食されるまで気付かないようにできている。
 
>>>
 
 幸い、僕に残されているのは、それなりの性欲と、微かな食欲と、多大な睡眠欲程度、すなわち禽獣にほど近いものだけである。
 出世欲もないし、自己顕示欲もないから虚栄心もない(むしろ目立たないようにと気をつけているのに目立つらしく困っている)。
 集団帰属欲求もないから、ヒエラルキィにありがちな雑念も湧かない。
 
 20代の頃、僕を餌にした人たちについていえば、30代で信頼できる人の下で仕事を続けることができたからこそ忘れることができた。
 ちゃんと人間は、信じられるものだと思うことができたし、思い続けることができた。
 
 40代の最初の頃にあれやこれやがあって、僕は今度こそ人間に絶望した。
 他人にも絶望したし、今度こそ自分にも絶望した。
(精確にいえばこれは「させられた」のだが)
 もう人間をやめようと思った(おかげで猫に戻れたけどよ)。
 
 結局のところ人間を信じたいという本能的な願いにも似た気持ちは、自分を信じたいというそれだけのことだったのかもしれないと今は思う。
 
 僕は自己嫌悪を嗤う。それは愚かな行為だ。
 人は自分のことを限りなく愛しているからこそ自分を嫌悪する。
 
 その絶大な自己愛を彼ら彼女たちは「ないもの」のように扱うから、その愚かさを嗤う。
 自己嫌悪してまで「正しい自分」を演じる醜さを嗤う。
 無反省に同じことを繰り返しては、無自覚な自己愛(それも絶大な)に従って「正しい自分」を演じてわざわざ自己嫌悪するのは、とうてい理知的でもなければ論理的でもなく、また賢いとも思えない。
 つまりバカのすることである。
 
>>>
 
 信頼していた誰かが、自分に対して求めているものが僕という存在そのものではなく、僕に付随している単なる所有物のほうだったりすることの悲しみをしかし僕は10代の頃から知ってはいた。
 僕の家はたまたま友人たちの溜まり場だったから、彼ら彼女たちは、果たして僕に会いに来ているのか、それともここに来れば他の誰かがいるからという理由で、単にこの場所を必要としているだけなのではないかと、ときどきヘンな気持ちになることがあったのだ。
 もちろん本当のところは両方があって、どちらかが大きくなることもあれば小さくなることもあると分かっていたから、僕はそれを表面に出すことはなかった(そもそもマイペースなイキモノだったので、僕は自宅で自分のしたいことをしているだけだったし)。
 
 大人になって、だから僕は恋人に「とりあえずカラダが目当て」だと言っていた。
 料理も愛情も部屋の掃除も畏敬の念も(ついでに言えば会話の相手さえ)、与えられることなく自身の手で満たすことができた。
 ために恋人のほとんどは(幸いにして)僕に料理を作ってくれることはなかったし、(幸いにして)僕の家の中を掃除したりすることはなかった。
 じつのところ、年がら年中ぱやぱや(セックスのことです)をしているはずもなく、当然ながら「ただ一緒に居るだけ」で時間は過ぎてゆくのだけれど、僕が大切に思っていたのはそういう時間だったのではある。
 
 たとえば僕は勝手にゲームをしていたり、たとえば恋人は勝手に本を読んだり学校のレポートをまとめていたり。
 たとえば僕は台所で料理をしていたり、たとえば恋人はベッドで眠っていたり。
 たとえば僕が眠っているあいだ、恋人たちは僕の知らない何かをしていたり。
 それが僕にはシアワセだったのである。それを当たり前に過ごせる誰かがいるというただそれだけの事実が。
 
 けれどもそれは、いちいち説明すると、なんだか気障なのである。
 もちろん、おそらく僕は気障なイキモノではある。
 周囲を観察していると「もっとみんな格好付けようよ」と思うのである。
 なぜといって、人間は所詮、禽獣の域を出ないからだ。
 もともとカッコいい人もいるとは思う。
 自然に振る舞っているだけで、カッコいい(あるいは可愛い)人というのは存在する。
 
 では僕のように凡庸な ── あるいは凡庸にも満たない ── イキモノはどうしたらいいのか。
 あなたのように凡庸な ── あるいは凡庸にも満たない ── 人はどうすればいいのか。
 
 自分の思う「カッコいい」「可愛い」を追求して、体現するよりないのである。
 つまるところそれは「美しい」あるいは「醜くない」存在を体現することである。
 
「何気ない日常を当たり前に過ごせる誰かがいるというただそれだけの事実がシアワセなのだ」なんて気障なことを(恋人に面と向かって)言ったら、それはカッコ悪いのである(当社比)。
 まるでナルシスティックな自己満足のため、あるいは甘言を弄して相手をたぶらかそうとしているようではないか。
 
 ために僕はその気障なセリフをぐっと飲み込んで「ん〜。カラダが目当てなんだよねぇ」と言うのである。
 他に伝える術がないのだ(一緒に居られるだけでシアワセだ)という気持ちを。
 
>>>
 
 あるいはあなたがた人間は言うかもしれない。
「一緒に居られるだけでシアワセだというならそう言えばいい」と。
「正しい気持ちを正しく言葉にしないからそれは嘘になるのだ」と。
 
 しかし僕はまったくそうは思わない。
 
 本当のことを伝えると、ときどき嘘くさくなることがあるのだ。
 相手に正しく伝えたいことが、言葉にしたことによって、却って伝わらないことがあるのだ。
 だとしたら僕らは。
 だとするなら僕は、より下賤な言葉で、より下卑た表現で「僕には君が必要だ」と伝えなくてはならないのだ。
 
 なぜといって僕は恋人に、高尚(自分で言うか普通)な思考の話し相手になって欲しいわけでもないし、仕事の愚痴を聞いて欲しいわけでもないし、料理を作ったり洗濯や掃除といった家政婦のような仕事をして欲しいわけでもなければ、病気のときに看病して欲しいわけでもないのだ。
 強いて言えば僕の代わりに自動車を運転したり、僕より仕事ができて収入があったらいいかな、くらいには思うこともあったけれど、そんなものはどうでもいい付属のスキルだし、実際に今となっては僕自身に対してさえどうでもいい問題である。
 
 ために僕は恋人という恋人(つくづく複数形で書いてしまうな私は)に、訊ねられたら「カラダが目当て」と答えていたし、仮に身体を重ねていない時間であっても、そこに居てくれるということを大切に思っていたのではある。
 
>>>
 
 信頼できない人間というのは、結局のところ、他人の付属品を求めているのだ。
 誰かの所有物を自分のものにしたくて仕方ない。その欲をどうすることもできないケダモノなのだ。
 場合によっては、相手の存在そのものを自分の支配下に置きたくて仕方ない、その欲に対して抗う術も気持ちも考えも持たない下等な生物なのだ。
 
 一番最後に付き合っていた人間型の恋人が、そのどうにもならない種類の動物で、僕は非常にひどい思いをした。
 もちろん表向き、多くの人間は正しく自分の欲しいものを伝えない。
 きっと気障な言葉になってしまうから隠していたのだろうか。
 それとも目を覆うような下劣な欲だったから、口にしなかったのだろうか。
 
 今回の仕事のトップもまた、そうした人間だった。
 だから僕は非常に混乱してしまった。
 甘言を弄して他人を支配し、所有物をせしめ取ろうとする人間に共通の気配が明らかにそこにあって。
 しかし人間を信じないことが僕には非常に辛いことなので。(からいのではないが、甘口でもいいかな)
 
>>>
 
 僕には信頼できる人間も幾人かいる。
 彼ら彼女たちは、僕の所有物や付属品を求めて、奪い取ろうと考えていたりはしないし、僕を拘束することもない。
 思い通りに支配しようとはしないし、僕が陰に日向に何をしていたところで詮索さえしない。
 
 今と言わず20年前と言わず、もっとずっと昔から、そしてこの先も、信頼できる人間がたとえ少数でもいる反面、信頼できない種類の人間もいるのである。
 
 それは年齢によらず、時世によらず、地位や肩書きによらず、財産や人脈の多少によらず、性別にも(そしておそらく)種族にもよらないのだ。
 
 数日ぶりに家に戻ったら、いくつかの部屋が荒らされていた。
 この家でゴミ箱や人間の食物を漁り散らかすことを、アヲはしないので、犯人は必然一匹に絞られる。
 
 しかしまあ、動物の方が人間よりも、悪事の規模が小さいぶんだけましであり、その意味では幸運なのだろう。
 部屋を荒らされたことも含め厭な記憶が少々フラッシュバックしたものの。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Cat-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211121
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
君にしばしのお別れを。
SUBTITLE:
~ CU again. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::どれほど優れたソーシャルゲームでも、ガチャでSSRを引くことができない限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。然るべき場所にリソースを集中させ、人事を尽くして天命を待ったところに不要なカードの山を築いている限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。そして私とウマ娘の間柄において、ウマ娘プリティーダービーはそのように振舞い続けているのだから、ウマ娘プリティーダービーといえどもクソゲーと名指ししなければならない。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
 
//[Body]

 ヴァーチャルキャラクタに対する好意は、仮にそれが愛情と呼ぶにふさわしいレベルの強さや深さを持つとしても、あるいはだからこそ、どこまでも一方通行の片思いであることを僕らゲーマーは知っていなければならない。
 一方通行であるということは、相手の気持ちどころか、相手との距離感における節度さえをも相手に確認する術を持たず、すなわちそれらを確認する距離まで近づくことすら許されないのである。
 
 たとえ「NieR:Automata」で、我々がいかに主人公の2Bのスカートの中身を何度となく覗き込もうとしたとしても、彼女(アンドロイドなので正確な意味での性別を持つわけではないが、女性型であるため代名詞は「彼女」が相当するだろう)が我々の存在はもちろん、親愛の情を理解するはずはない。
 我々は空気であり、だからこそのゆえにスカートの中身を覗き込むという行為が法に抵触しないわけである(正確には、ヴァーチャルキャラクタに人格権が存在しないから、なのだろうけれど)。
 
 恋愛 ── こと「相手と両思いになること」ではなく「両思いになってからお付き合いすること」 ── がメインコンテンツであった「ラブプラス」シリーズにおいてさえ、我々の好意は、結局のところ(いわゆる「次元の壁」により)一方通行であって ── それを超えるだけのフォースのパワーが炸裂しない限り ── 彼女(ヴァーチャルキャラクタなので正確な意味での性別を持たない単なるデータ群)たちは演算結果にのみ従って我々への好意的な言動を出力する。
 
 もちろん僕はゲーマーであると同時に、ゲームクリエイタでもありプログラマでもある(すべて自称である。経済と交換していないからプロではないし、現役でもない)から、
「クリエイタ:(次元の壁):ヴァーチャルワールド:(次元の壁):プレイヤ」という構図について、相応に理解はしているつもりである。
 
 その上でなお、我々はヴァーチャルワールドを、ヴァーチャルキャラクタを愛していればこそ、その次元の壁を理解して、ときにその垣根を払い、ときにその敷居を尊重し、きわめて親愛なる存在としてお金や時間や体力や気力を費やしもすれば、モデルやテクスチャやモーションや会話や字幕の不整合にも(最悪、長期に渡って修正を待たされるバグにも)目をつむり、融和の道を探るわけである。
 
>>>
 
 ところで「ウマ娘 プリティーダービー」というゲームがあって、僕はもともと全てのギャンブルに興味がないので、必然「競馬馬の擬人化? また擬人化なの? そのうえウマなの? いやぁ、ぼかぁちょっと……」といった感じで敬遠していた。はっきりいって興味がなかった。
(こうした初期反応は「けものフレンズ」のときもそうだった。人気を不思議に思って1期1話を見たときは ── 悪い意味で ── 絶句したものだ。今は好きだけれど)
 
 たまたまあるとき、ゲーム実況動画を見る機会があって、それで少々興味を持った。
 競馬が好きな人のブログでも、プレイしてみたという記述があり、興味が膨らんだ。
 そして少しプレイして、驚いた。
 キャラクタのモデリングからレンダリングに至るまで、その表現が凄まじくて。
 
 全方位からのモデルの完成度はもちろん、テクスチャも、ボーン設定も、モーションも、ハイライトとシャドウの調整も、果てはステージのスポットライトやフォグの表現に至るまで、驚くほど手抜きを感じさせない、それどころかどうやったらこんなに破綻のないブラッシュアップができるのかと驚嘆した。
 キャラクタを表現することについて、まったく想像を超える出来映えがそこにあった。
 
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【glossary】
 モデリング :キャラクタの3D造形をすること。出来上がったものがモデルである。
 レンダリング:モデルや環境をカメラに投影するための演算処理のこと。
 テクスチャ :モデルの表面に張り付けられる絵のこと。これがないとペーパクラフトや粘土細工のようである。
 ボーン設定 :関節の位置と動きを設定すること。
 モーション :関節を基準にした動きのこと。服や髪にも関節を持たせて動かす。これもモーションである。
 フォグ   :レンダリングの表現のひとつ。霧のかかったような光の拡散や収束を表現する。
 
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 いわゆる「リセマラ」行為をしてサイレンススズカさんとライスシャワーさんを手に入れた。
(物静かで大人しいキャラクタが好みなのでもある)
 スズカさんの実馬のストーリィは競馬を知らない僕でもなんとなく記憶にあった。
 当時の深夜のニュースでその(当日の)死が大々的に取り上げられた記憶もあるため、少々調べたりもした。
 スズカさんが好きすぎて、一部の文書に濃厚に影響を及ぼしたこともある。
(僕の「天才肌」は程度が知れているが)
 
 スズカさんだけではなくそれぞれのキャラについて、モデルや映像演出もさることながら、ストーリィもそれぞれの馬の史実からうまく抽象して落とし込んである。
 もちろん、まともにストーリィを読むと、1プレイで2時間くらい使ってしまう。
(ストーリィを省略しても1プレイ30分くらいを僕は使ってしまう。)
 だからなかなかきちんと読みながらプレイする機会は少ないが、それでもときどき(2ヶ月に1回くらい)、本を読み返すような気持ちで、いずれかのウマ娘との3年間を過ごすのではある。
 
 しかし残念なことに、どんなに感動的なシナリオが書かれていて、どんなに魅力的にキャラクタが描かれていても、結局はガチャゲーである。僕がもっとも忌み嫌い、ゲームというジャンルの最底辺だと考え、その文化を貶めるものと憎んですらいるガチャゲーなのである。
 
>>>
 
 ここまであまり書いたことがなかったが、いわゆる「ガチャゲー」とは、どんなに複雑で魅力的なシステムを持っているとしても、最終的にくじ引きによって手に入れるキャラクタでプレイ体験のほとんどが決定づけられてしまうタイプのゲームである。

 冒頭の引用はまさにそんなガチャゲーにおけるプレイヤの、つまりは我々ゲーマーの率直な感想であり、ゲームを、そこに登場するキャラクタを愛すればこそ生まれる苦悩の叫びでもある。
 
>>>
 
 かつて業務用のゲーム機(ゲームセンタに置かれるもの)に、じゃんけんゲームがあった。
 コインを入れて、じゃんけんをする、ただそれだけのゲームだ。
 
 原理は非常に単純だ。

(ただし、以下のようなプログラムで動いていたとは限らない。僕が再現するならこうするというだけの話である)

 

 0〜2の乱数xを発生させ、プレイヤに0〜2のyを入力させる。
 
 0を「グー」
 1を「チョキ」
 2を「パー」と定義したとき、
 
 x=yなら「あいこ」と判定する。
 
 mod(2−x+y,3)の返り値が
 0のときはプレイヤの負け。
 1のときはプレイヤの勝ち。
 と判定する(詳細は後述)。


「あいこ」のときは、そのまま最初に戻る。
 プレイヤが「勝ち」のときは勝ちの処理(コンピュータが負けた処理)をして最初に戻る。
 プレイヤが「負け」のときはゲームオーバーの処理をして終了する。

(申し訳ないが僕は昔からフローチャートを書かずに直接コーディングするので、ここでもフローチャートを載せない)


 それぞれの処理にあたって、映像(LEDの雑な電光表示だったか)と音声を出力すれば出来上がりだ。
 Z80チップを使うことさえもったいないくらいの、簡単な基板でできるだろう。

 

<<<
 
【解説】
 上記のmod関数はBasicおよびExcelに使われるもので、
 mod(値1,値2)とあるとき、値1を値2で割った「余り」を返り値(出力)とする。
 
 x=yのときは「あいこ」でやり直しになる。
 x(コンピュータ)が0(グー)でy(プレイヤ)が1(チョキ)のとき、
 2−y+x=2−0+1となるので、答えは3、これを3で割った余りは0、ということになる。
 他の組み合わせも表にするとこうなる。
 

[プレイヤが負けの組み合わせ]
x(コンピュータ) y(プレイヤ) 2−x+y mod(2−x+y,3)
0(グー) 1(チョキ) =3
=0
1(チョキ) 2(パー) =3 =0
2(パー) 0(グー) =0 =0
 ※ 3を3で割った余りは0である。
 ※ また0を3で割ると0であり、余りは発生せず、よって余り0である。
 
 
[プレイヤが勝ちの組み合わせ]
x(コンピュータ) y(プレイヤ) 2−x+y mod(2−x+y,3)
0(グー) 2(パー) =4
=1
1(チョキ) 0(グー) =1 =1
2(パー) 1(チョキ) =1 =1
 ※ 4を3で割った余りは1である。
 ※ 1を3で割ろうとしても割り切れず、余りは1である。

 


 ちなみに即興で思いついた処理方法なので、もっと分かりやすい数式や関数を用いて、簡便に処理できる方法もあるかもしれない。
 プログラミングの世界に正解なんてないのだ。
 
<<<
 
 ゲームのほとんどにおいて、乱数は非常に重要な要素だ。
 それは運の要素を複雑な演算式やリソース管理の中に含むことで、予測可能な領域にゆらぎを含ませ、人間がどれほど経験を重ね、高度な予測ができるようになったところで「必ずそうなるとは限らない」という可能性を成立させる。
 
 ギャンブルに魅了される人間や、スポ根マンガに魅了される人間の似通った部分は、この「0ではない可能性に賭けて勝利を収めることができる」という展開に、全身全霊を震わせるほど興奮するからだろう。
 僕は前述の通りプログラマでありゲームデザイナであり逃避が得意な逃げ腰天才肌なので、まったく興奮しない。
 
 1%の勝率は、0%にほぼ等しいと考える人間である。
 かつて「大戦略Ⅱ(システムソフトのストラテジック・ウォーシミュレーションゲーム)」をPC8801でプレイしていた。
 ゲーム内で補給車は5%の確率で相手戦車(スコーピオンだったか)を撃破しうるのだけれど、それがどんなにひどい確率で、戦闘なのかを知っている。
 2%か1%で重戦車(M1のような)だったか戦闘機(F14など)を撃破しうるのだけれど、もう、惨憺たる有様である。何度繰り返そうともそれは変わらない。
 
 僕もゲームをデザインするとき、乱数の要素を必ず入れるようにしている。
 それは「0ではない可能性に賭けて勝利を収める」ことの喜びを、あるいは「ほぼ確実だった計画が綻び、それをリカバする」ことのスリルを、味わうためだ。
 現実世界でそれをするのは馬鹿げている。
 
 まして確率がゲームデザインの中核を為すようなゲームなど、どんなに優れたシステムや美麗なグラフィックや豪華声優陣を配していようとも、プログラムの入門編の延長線上にしかないようなゴミプログラムだとさえ思うのだ。
 確率を体験することがゲーム体験の中核を為しているだけならまだしも、その確率を思うさま体験するためには相当額の現金(それも紙幣だ)を積み重ねなければならないなんて、それが現実の逃避先であり、ひとときの心のオアシスであるはずのゲームがするべきことだろうか。してよいことなのだろうか。
 
 ために僕は、ガチャとその出力結果が主体に成り下がっている基本無料のゲームを忌み嫌う。
 ゲームとその文化、引いてはゲームプレイヤを貶めるものとして嫌悪しているし、それに夢中になる(貶められた)プレイヤをただのギャンブル中毒と同じダメ人間だと断ずる。
 札束で他者を蹂躙することについてIRLだけでは満足できないのだとしたら、それはそれでビョーキではないか。
(もっとも上記「ウマ娘」について、PvP(対人プレイ)の要素はさほど多くないと感じているが)
 
 0.X %の確率をお金で買わないと面白い体験ができないゲームは、ゲームではない。ゲームなどではない。賭博だ。
 たしかに賭博もゲームだろうけれど、ガチャゲーの価格設定は、ヴァーチャルな世界とキャラクタ(つまりはそのデータによる体験)を買うには、少々高すぎる気がする。
 あるいはそれ(ガチャゲー)以外のゲーム(およびそのデータによる体験)にこれまで我々が払っていた対価は、そこまで、そんなにも安いものだったのかとさえ思う。
 
 もっとも、我々消費者の一部(あるいは多く、なのかもしれない)は、あまりに中古売買でソフトを手に入れることに慣れすぎたのだろう。
 僕でさえ、遊ぶ金ほしさに遊ぶ金を惜しんで、中古ソフトを買ったことがある。
 ゲームとその文化を愛するものとして恥ずべきことだと思うので、今はしていないが、僕はどちらかというと貧乏な人間なのだ。
 
 そして、ガチャゲーによる現在の洗礼は「中古ソフトを手に入れることでメーカに何の利益ももたらさずコンテンツを食い潰した不届き者たち」に対する、メーカーの復讐なのかもしれない。
 
 ああ。ならば。それならば。
 我々は生贄(現金)を捧げて、怒りが収まるのを待つしかないのだろうか。
 しかし、生贄を捧げれば捧げるほどに、神というのは力を増してしまうのではないのか。
 
>>>
 
 フィクションやヴァーチャルやゲームは、確かに楽しいものだと思う。
 しかしその楽しさは、現実において現実離れした美味しい部分をフィーチャーできるからだ。
 リンコ(小早川凛子:「ラブプラス」の妹系暴力カノジョ)やライス(ライスシャワー:「ウマ娘」の怯え妹系キャラ)は、現実世界の我々の妹になることもないし、ましてカノジョになったりはしない。それは確率的にも、次元の壁的にもありえないのだ。
 だからこそ、我々はヴァーチャルをヴァーチャルとして、現実から逃避することを楽しみながら愛でるのではないか。
 
「ウマ娘」の場合であれば、トレーナの立場で、それぞれのウマ娘との競技生活を歩むことが(乱数要素がかなり多いけれど)楽しめる、それが良さであり、楽しみなのではある。
 そして(非常に渋い確率の)ガチャの排出についてはおよそ目をつむれば(とりあえず一度のプレイで育成できるのは育成ウマ娘ひとりだけなのだから)お気に入りの育成ウマ娘が一人か二人か三人くらいいれば、それでプレイできるのだろうとは思う。
 もちろんこのゲームでは(育成ウマ娘は最低一人いればいいというシステムもあって)サポートウマ娘はとにかく必要であり、先の引用にあったシロクマ氏も、サポートカードで(最低限必要なのではないか)とまことしやかに言われているカードが揃わず(自分は愛されていない)と折れてしまったように観察される。
 
 くじけないで、とは思わない。
 そもそもヴァーチャルなキャラクタたちは、僕らIRLの住人を愛さない。
 愛している演技をしたとしても、それはプログラムの出力に過ぎない。
 僕らはこの片思いをときに時間で、ときに札束で、表現することで自分を慰めるのかもしれない。
 
 僕自身は、すでにこのゲームに飽きていて、たまにプレイするけれど毎日はプレイしないしイベントもスルーすることがある。
 なぜって、育成するかレースするか(悪習たるガチャを回すか)それしかコンテンツはないのだから。
 
 もちろんキャラは魅力的だ。
 そのデータの表現力はスマートフォンのガチャゲーの割に圧倒的といってもいい。
 そう。ガチャゲーだからという理由で、僕は見くびっていて、だからその映像表現に驚いたのではある。
 しかしレースと育成とガチャのゲームでしかない。
 シナリオも優れているが、しかしガチャゲーである。
 
 モデルは優れているし、表現や演出も素晴らしいが、プレイ体験の幅は狭く、ゲーム体験はもっと狭い。
 キャラを愛でることがモチベーションなのに、そのキャラ(の排出率)が渋くて、そのシステムの渋さがときどき憎くなる。
 いかにモデルが、シナリオが、システムが、グラフィックが、音楽が、アテレコが、演出が優れていようとも、いやだからこそ、それがガチャゲーであるかぎりゲームとしてはクソゲーだと言わなくてはならない。
 我々は、そのコンテンツを、愛しながら憎まなくてはならない。
 いや、その憎しみは大事なものだ。
 
 我々は確かにゲーム業界を搾取した。あるいは今もしているかもしれない。
 しかし一部のゲームメーカが我々に対する復讐として、愛情の名の下にプレイヤを搾取していいわけでもないだろう。
 このあたりはバランスなのでむつかしい問題だ。しかしガチャゲーというのは、もっと直截的に問題だ。
 我々に融和の道はないのか。
 
「クリエイタ:(次元の壁):ヴァーチャルワールド:(次元の壁):プレイヤ」というレイヤを為す世界にあって、力関係は左から右へと一方通行である。
 逆方向がありえないから我々はヴァーチャルキャラクタを愛せない。仮に愛していてもそれが通じない。
 
 しかし実のところ「クリエイタ:プレイヤ」は同じ次元に存在しているのである。
 
>>>
 
 いつか。
 ゲームが再び、キャラクタがふたたび、プレイヤと手を繋いでともに歩んでくれる日常が戻るようにと願ってならない。
 
 何度でも繰り返すが、ガチャゲーは悪習である。
 それはプレイヤをヴァーチャルで惹きつけつつ捕食する類いの、共存共栄からは遠い存在なのだから。
 そして中古ゲーム売買もまた悪習である。
 目先のお金に目がくらんで、メーカにお金を払うことを怠った購買者たちが居たために、今のゲーマーはお金による復讐を受けているのだから。
 
>>>
 
 ついでだからどうでもいい余談を書いておこう。
 先日「トーセンジョーダン」という(いわゆるギャルっぽい性格付けの)育成キャラがリリースされたとき(キャラクタのモデルデータ量が豪華なので)欲しくなり、ガチャを20回ほど回した。(ちなみに僕は無課金である)
 トーセンジョーダンは出なかった。
 
 そして先頃、メジロドーベルという(お嬢様系正統派美少女の)育成キャラがリリースされたとき(僕は軽い相貌失認のわりに正統派美女/美少女キャラだけは比較的正しく認識できるようで)欲しくなり、ガチャを20回ほど回した。
(初めて少し課金した)
 もう育成キャラは当分要らない。そう結論した。
 メジロドーベルを(も)愛でるのだ今から私は。
 そんなわけで課金プレイヤとなった一瞬の後、たまにサポートキャラを引いて、週に数回遊ぶだけの無課金プレイヤに戻った。
 コンテンツは優秀なのに、そんなに熱烈に愛せるゲームでもないのだ。少なくとも僕には。
 
 それにしてもスズカさんのときもそうなのだが、僕はどういうわけか、お嬢様系にはモテるような気がするのだ。(すごい妄想力)
 やっぱりギャルはダメなのか。俺の魅力が通じないのか。
 IRLでも恋人はお嬢様系が多かった、という話についてはまた別の機会に。



 

 

 

 

 


// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::ソーシャルゲームにおいて、人間がゲームを遊戯するのでなくゲームが人間を遊戯し、人間がガチャを回すのでなくガチャが人間を回しているとは周知の事実ではある。ところがこのようにウマ娘プリティーダービーに恋慕してしまった結果、またしてもガチャにいいように回され、レースにいいように走らされてしまった。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭および文末の引用は、
 
from「シロクマの屑籠
 
によりました。
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]

 

 

 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Kidding-Link-Love-Mechanics-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Game-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  コントローラと五里霧中
 
 
//EOF
 
//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211119
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
放逐の羊。
SUBTITLE:
~ Anti matter bullet. ~
Written by 青猫β

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::私は日常を、平凡さを愛している。
 特別である必要を感じないし、特別でありたいとも思わない。
 
 日々が平穏無事に過ぎ去ってくれることが、どれほど喜ばしいかを忘れたくないし
 時折振り返って、それがどれほど奇跡的であるかを感謝せずにはいられない。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 最近になって、自分の育った特殊な環境に気が付いた。本当にこの1年ほどのあいだである。
 もちろん家庭というのはそれぞれ個別の環境で、共通する点はあったとしても、まったく同じ環境などというものは存在しないだろう。
 それにしても、僕の育った家庭環境は、思うにかなり特殊だったような気がする。
 結果として、僕の人生が思いのほか特殊なものになったような気がしないでもないが、この人生が特殊だったのは、家庭環境がすべての根源だったとはさすがに言い過ぎだろうか。
 ただ少なくとも、僕がこういう人格(価値観の集合)を持つことになったのは、家庭環境の影響が非常に強かったのだと、考察される。
 
>>>
 
【僕の子供の頃の家庭環境の概要】
 
 文章にしても面白いとは思うのだが、ざっくり箇条書きにしてしまおう。
 
○住居
 自宅 兼 工場 兼 事務所 兼 簡易倉庫。
 居住スペース(事務所や工場、倉庫など、会社機能を持つエリアを除いた場所)の部屋だけで思い出せる限り9部屋あった。浴室を含むと10。トイレを1F2F合わせると12にもなる。
 今棲んでいる場所が6部屋だから、考えるにえらく広い。
 
○家族構成
 父(会社経営)
 母(兼業主婦。事務やら工場作業もすることがあったように記憶している)
 姉(12歳/10歳/5歳 僕と年齢が離れている。計3人。個性はそれぞれにある)
 僕
 妹(2歳下。悪魔のような性格)
 犬(2〜1匹。時期によって若干異なる)
 猫(0〜7匹。ものすごく増えたり減ったりしていた)
 鳥(煙突というか、通気口というか、その穴から、百舌だとかスズメの雛が落ちてくることがあって、それを育てていることがあった)
 叔母(私が介護することになった叔母が、同居していた時期がある)
 祖母(父方の兄弟のところで叔母が介護していたのだが、諸般の事情で一緒に出てきたらしい)
 祖父(一緒に住んでいたことがあったと聞いたことがあるが、僕の生まれる前だったのか、まったく記憶にない)
 従業員(上記、父の会社に勤めている人たち。数名。僕の乳母役だった人もいたらしい。このあたり、記憶が曖昧である)
 
>>>
 
 ここまで書いただけで疲れた。もうやめたい。
 歴史的な詳細は面倒なので省く。
(両親の馴れ初めなど、僕が生まれる以前の記憶の一切を僕は持たない)
 最終的に両親は離婚し、会社は倒産し、上記の環境は大きく変化したが今回の話題はそこにあまり関係しない。
 
>>>
 
【僕の性格の特色と、それに環境がもたらした影響】
 
○競争を求めない。
 両親は、僕に対して競争に勝つことを求めなかった。
 姉妹間で勝手に競争すること(当事者本人が競争意識を持つこと)は当然あっただろうと思うが、僕だけは家族間で一切の競争から除外されて育った。
 姉妹と比較されることもなかったし、近所の、あるいは同じ学年の、あるいは同年代の一般的な傾向などとも比較されなかった。
 
 学校に通うようになってから(小学2年以降は母親がいなかった)成績の良し悪しは若干あったが、それが特に秀でていても格別褒められることはなかったし、周囲に劣っていても(小学校までは相対評価だったので体育などでは特に顕著だったが)格別、注意を受けたり伸ばすように促されたりはしなかった。
 このため一切の競争ごとに興味を持たず、価値を見出さなかった。
 
 競争というのは、労多くして功少ないもので、誰かが勝てば誰かが負けるという必然があり、トップだけが勝ちとするなら、かなりの敗者を生む仕組みだと感じていた。
 とにかく面倒だったし、今でも競争が好きな人や競争そのものを面倒だと思う。
 
 両親が離婚するまで(まぁ、したあとも、かな)父上は(主として仕事で)ほとんど家にいなかった。
 家は女性と動物が、とくに何を競うでもなく生活しており、僕はその中で、のんびりと暮らしていたのだと思う。
 結果、僕は競争を嫌い、他者に競争を求めることもない。
 競争とは、リソースの無駄を生むものだと認識している。
 企業間の入札や製品の開発競争であっても、競争によって生まれる無駄がある。
 勝者があるとき、敗者は無駄な存在なのだ。
 
 
○無責任でもOK。
 すごいことを書いているが、本当にそうだったと思う。
 学校の宿題をまったくしなかった。もちろん父子家庭という事情は学校の先生も承知しているのである程度までは目をつむってもらえたと思うが、父はまったくそのことについて僕に注意をしなかった。
 しかしそれを徹底的に嫌う先生も当然ながらいて(当たり前だ)、僕はよく叱られたり廊下に立たされたり、教室の後ろの床に正座をさせられたりしていた。
 もっとも3歳の頃から正座を躾けられていたので、正座で苦痛を感じることはまったくなく、居眠りをして起こされた。
 
 今になって思うと、これはさすがに悪影響が大きかったように思う。
 僕はかなり無責任な人間になってしまって、与えられた課題をきちんとクリアするという責任感や目標達成意識を構築するのにずいぶん苦労した。
 まぁ、子供の頃に散々ラクをしたツケが回ったのだ。
 
 
○「男らしさ」の概念が希薄。
 父親も母親も、僕に「男らしさ」を押しつけなかった。
(主に妹に泣かされて)泣いていれば「どうしたのか」と訊ねて、理知的に喧嘩を解決した。
「男なんだから」「お兄ちゃんなんだから」といったことは一度も言われなかった。
 姉はときどき「女なんだから」「お姉ちゃんなんだから」と言われていたかもしれないが、数えるほども見ていない。
 結果、僕は自分が女なのだと小学生になるまで思っていた。
(「いつか自分もおっぱい大きくなるんだなぁ」とか本気で思っていた)
 妹に至っては悪魔なので、両親も手に負えなかったのではないかという気がしないでもない。
 
 学校では僕の性差はさほど問題視されなかった。
 10歳頃までろくに男友達はできなかったが、それは僕の性差によるものというよりは、転校生なのに学校帰りに拾った猫を、翌日から教室に持ち込んで育てたり、まったく宿題をしないのにテストは高得点で、授業では挙手して正しい回答をするという奇行が目立ったためだろう。
 当然いじめられたりもしたのだが、猫は世界でも最強に匹敵するイキモノなので、猫の友達になりたい気持ちが勝る結果、僕の敵になろうとする人間は少なかった気がする。
 
 実に「男らしくなさい」と言われたのは社会人になってからだったし、そのときはとても驚いた。
 職場にいた、母親であってもおかしくない年齢の先輩に言われたのだが、まぁその人はそういう(男は男らしく、という)世代であることには違いないし、僕は30代までは同性愛者に間違われることもあったので、さほど気にしなかったし今も気にしていない。
 
 正直なところ、自他共に性(ジェンダー)なんてどうでもいい、性別は性交に必要な肉体準拠の識別子に過ぎない、と考えるのはこうした環境の影響も強いのだと思った。
 ちなみに僕の姉妹は、僕より男っぽい人もいる。
 
 しかし僕は姉妹だろうと、恋人だろうと、女らしくとか、恋人らしく、といった役割をとくに求めない。
 その役割はすでに自己処理ができている。
 母親らしさを誰かに求める必要もなかった。
 自分にないもの、必要なものを、可能な限り自力で埋めるのは、僕には必然のことだった。
 
 
 
○動物が多い。
 上記のとおり、落ちてきた野鳥の雛を家族で育てたり、誰かが蚕を大量にもらってきたり(あれが大量に箱の中で蠢く姿は衝撃的である)、庭で拾ったトカゲだかヤモリだかを虫かごで誰ともなく育てたりしていた。
 後年のことを考えても、父上は人間以外の生き物にも優しく、また好ましく思っているようだった。母上のことはよく分からない。
 これらは僕が動物を好きになるきっかけだったと思う。
 
 なにより僕は4歳の頃、動物に強く激しく魅入られた。特に猫だ。
 愛らしい貌、力強くしなやかな造形、艶めかしい毛並み。
 性欲と呼べるものも存在しないのに僕は、ひどく官能的に動物に魅入られていて、将来、人間と恋愛をしたり家庭を作ったりすることはできないのではないかと自ら危惧したほどである。
 おそらくこの段階で僕は「どうして自分は猫ではないのか」という初歩的な疑問に突き当たったのだと思う。記憶にないけれど。
 
 何故といって普通、猫を知らない人間が、自分のことを猫だと思ったりはしないからだ。
 異性を知らない人間が「自分はこっちの性別ではない」なんて言い出したりはしないのと同じように。
 
 もちろん種族違和と性別違和を同列に語るのはどうかと思うし、僕の種族違和は僕の性別違和と同じくらい僕にとってはどうでもいいことなので、なんともいえない。
 ちなみに今までのところ人間と恋愛することはあったが、人間と家庭を作ることはなかった。
 また猫と恋愛することはなかったが、猫と暮らしていると気持ちが落ち着くのは変わらない。
 
 他人を信じられないと感じる出来事も、自分を信じられなくなる出来事も、何度となくあったが、動物はそれを救ってくれる。
 
 
 
>>>
 
 これらの少々風変わりかもしれない環境によって、僕は衆に秀でた能力を発揮せずとも(特に賞賛はされなくとも)非難されず、協調性を持たなくても共存していられるという、とても平和的な日常の中にあった。
 
 通気口から落ちて畳を汚したヒナ鳥は、叱られることも捨てられることもなく育てられた。
 家族はよく捨てられた猫を拾い、知人から子犬を貰い受けた。
 個々人間にそれぞれ何らかの軋轢はあったのだろうけれど、僕はまるで羊のように、牧歌的な存在であり続けた。
 誰かを攻撃する理由も目的も持たなかったし、誰かより優れる指命もなかった。
 何かを守る必要も価値も知らなかったし、何者かの謀略や略奪、背信や欺瞞の存在を知らなかった。
 
 後年にも通じて、僕は生きているだけで家族から大切にされた(おそらく今もそうだ)。
 理由は分からない。
 
 おそらく僕は、姉妹を相手に、父を相手に、何かを競うことで自身を証明しようとしなかった。
(母は競争の相手にはなりようもなかった)
 おそらく僕は友人にもそれをしなかった。教師に競争を命じられたところで自身の能力を発露することはあっても、それを他者に誇示することで自身の証明とはしなかった。
 おそらくこれまでの人生にただ一度として、それをしなかっただろう。
 
 そして僕は、父を相手に、姉妹を相手に、その役割を強要しなかった。
 他者に対して「こうあれかし」なんて理想を持たず、それを押しつけることもなかった。
(母に対しては、言葉にしたことこそないが、おそらくそれを求めていたとは思う。不在になったから余計に)
 
 ── なぜならそれらを、僕は誰からも押しつけられたことがなかったからだ。求められなかったからだ。
 証明する必要もなく認められ、達成する必要もなく大切にされていたのだ。
 
>>>
 
 上記の環境は、僕が6〜7歳のときにドラスティックに変化し、その変化によっても僕は(もちろん僕以外の家族も)それ以降、大きな影響を受けることになった。
 
 僕の根底を変える手段など存在しなかっただろう。
 僕はすでに他人の存在する環境において、個々人間の競争による証明の必要を感じず、何かの目標を押しつけあうコミュニケーションの有り様に意味を見出さなかった。
 だから僕の根底を変える手段は、存在しないだろう。
 
>>>
 
 資本主義は無情だ。
 競争を必然とし、競争を原理とし、競争を美化する。
 
 勝者は賞賛されその価値を燦然と刻み込むが、しかし敗者はどうなる。
 暗闇でぐつぐつと煮詰りくすぶるだけではないのか。
(生活保護さえ、今の社会には無駄で不要だと断ずる思想が存在する。自己責任と自助努力の名の下に死ねということだろう。)
 
 どうして他者に対して自身のありようを、今持つ熱情を、証明する必要があるだろう。
 どうして証明して勝利しなければ、存在を認められず価値を見出されないのだろう。
 
 その手法、概念、演算式、原理に、なぜ誰も疑問を持たないのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::「自分に価値があるか自信がない」なんて、いい大人になったら口にするべきではないだろう。
 自分が、持てるすべてを削って、時に痛めつけられて、そうやって傷跡のようにカラダに刻み込まれたものが、時に価値となる。
 
 いわば宝石のようなもので、その価値は外部からしか観察できないかもしれない。
 
 けれども自分以外の人がどう感じるかをきちんと知っていることが優しさであるとするならば、
 優しい人はすべて、自分の価値をきちんと知っているものである。
 そしてその価値は、謙遜するでも誇示するでもなく、そこにある小さな光としてきちんと認められるべきものだろう。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
引用は、
残り続けるカタチ 〜 Remainable Exist 〜」From「青猫工場 〜 Bluecat Engineering 〜」
によりました。
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  :Algorithm:Blood:Convergence:Darkness:Ecology:Form:Life:Link:Mechanics:Memory:Recollect:Style:
 
[Module]
  :Condencer:Connector:Convertor:Generator:JunctionBox:Reactor:Resistor:
 
[Object]
  :Cat:Human:Memory:
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:青猫のひとりごと:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211118
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
共感至上主義なんてクソくらえ。
SUBTITLE:
~ True Individualism. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::結果として、人間は過剰に個人を見るようになったといえる。
 ヴァーチャルが個々人のアタマの中に投影されてヴァーチャルでなくなるとき、実のところそれはリアルを超えてしまう。
 とくにヴァーチャル慣れしていない人ほど、ヴァーチャルを脳内投影した結果、暴走しがちだろうと思われる。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 最近の大学生にとって、政治と恋愛(自分と話し相手が恋愛感情を抱いている相手について、など)の話はタブーとされている。という話を先日、知り合いの現役大学教授から聞いた。
 実際にそのセンセーと同席していた知人(接客業をしている)の観察範囲において、これらは事実であり、特に男子学生に顕著だそうだ。
 またその他の観察される傾向から察するに、彼らはとにかく傷つくことを恐れているらしい。
 
「傷つく」の定義はともかく、彼らは集団における不調和の因子たることを恐れ、また集団の中で不調和の因子を生むことを恐れているのだろうと推測される。
 それなら一人で行動すればよいのではないかと、私のような短絡なイキモノは思ってしまうのだが、彼ら彼女たちは、まず一人では行動しないらしい。
 
>>>
 
【実体を持たない人間関係】
 
 恋愛の話はともかくとして、同程度の知性水準を持つとされる集団に属している友人がいるにも関わらず、政治や学術の疑問について議論を避けるというのはいったいどういうことかと首をひねってしまった(スティーブンセガールに倒される、悪の組織のドア警備員レベルに)。
 
 想像するに、彼ら(彼女たち)にとって、一人で行動することは、すなわちある種の機能や能力の欠如を意味するのだろう。
「共感と共生の時代」とまことしやかに言われる昨今にあって、たしかに暗黙裡に作用している集団の趣味嗜好が存在するように観察される。
 ありとあらゆるSNSにおいて、見ず知らずの人であっても形成される集団意識は、当然に平等を愛し、不義を嫌う。
 
 だからIRLで仮に不倫をしている友人がいても「友人>不倫をしている人」といった具合に、友情の価値のほうが重く大きくない限り、その行為を糾弾するのが人間である。
 しかし不倫という他人の悪業よりも、実体を持つ友人が、こちらのことも友人として認識しているという価値は、より自身にとって大きな意味があると考えるのが必然だろう(もちろん自身が「不倫をされている配偶者」であれば、また意味合いが変わるのかもしれないが、今回は不倫がメインテーマではないので、その位置関係による力学について掘り下げない)。
 もしそうでないなら、それはそもそも友人などではないということだ。
 
 しかしヴァーチャルな人間関係において、そもそも友人でも知人でも何でもない人たちがあまりにも視界を横切る。
 webに限らず、あらゆるメディアではそうした「有名人」が経済活動をしていたわけだし、彼ら(彼女たち)は「近づきがたいほどの圧倒的な個性」よりも「親しみやすくて欲を投影しやすい存在」として自らのキャラクタをプロデュースしマーケティングしてきたはずだ(後者の方が、コストが安く、リターンが大きく、訓練次第で誰にでもできるので)。
 SNSでまことしやかなプライベートを垂れ流す「有名人」も少なからずいる。
 クリエイターがクリエイションをリアルタイムで配信(イラストレータなどに多いか)したりする風景も珍しくなくなった(これについても私見はあるが、余談なので捨て置く)。
 ファンにとっては垂涎のサービスだろう。
 また「有名人」にとっては、ファンの心理(欲求)の中に存在する自分の専有面積を広げる意味でも有用な、低コストで高いリターンを見込める宣伝活動である。
 
>>>
 
【「好き」と交換されるもの】
 
 何かを好きになるということは決して悪いことではないと僕は思う。
 きっと多くの人がそう思っているはずだ。
 しかし何かを好きになるということは、自分の心や価値観や欲求の空白が占有されるということでもある。
 もちろん心の空白面積が東京ドーム512個分もある僕のような心の空白富豪でなくても、その空白を埋めることはさぞ気持ちのよいことだろうと想像できる(大量の造語については、なんとなく理解してください)。
 しかしコンピュータのメモリやストレージ同様、空きのない領域は全体のパフォーマンスを低下させる。
 時間も、お金も、欲求も、価値観さえもその「大好きなヴァーチャル」に侵食され「本来の自分」「本来あるべき自分」「本来ありたいはずの自分」というものが削られ風化するのだ(「合い挽き肉のハンバーグ デミグラスソース」が「森の気まぐれ木こり風」といった感じになる、ということではない)。
 
 そもそも、ヴァーチャルな人間関係には根っこがない。
 IRLでお互いをよりよく知っている親しい関係ではないから、ヴァーチャルな理想を投影し、押しつけていることになる。
 もちろんファンはそれに気付かない。それを気付かせないのが「親しみのある有名人」というスクリーン戦略なのだ。
 かつての有名人たちは、己のキャラクタをファンというスクリーンに投影していた。
 ファンは心のスクリーンに映る有名人たちに憧れ、しかしそのスクリーンに触れることを忌避した。スクリーンに触れてもそれは平面で、それが揺れ動けば像は歪むからだ。
 今は逆である。
 有名人は、ファンのスクリーンに成り果てた。
 ファンは複雑怪奇な欲をそのスクリーンに投影して「キャー素敵」と推し活を楽しんでいる。
 時間もお金も価値観さえも明け渡しているのだから、欲を投影して悪いはずもない。それらは有名人とファンが実際に交換しているものなのだ。経済を媒介にして。
 
 これと同様のことが、ありとあらゆる作品に当てはまった。
 あらゆるクリエイタも、作品も、閲覧者のスクリーンに何かを投影するのではなく、閲覧者の欲を投影するスクリーンに成り果てたのだ。
 結果として、クリエイタや作品は「対価を受け取っている」という理由によって、ファンの欲の捌け口として慰みものにされる運命を負わされ、ファンの(欲求の)思い通りでなければ「金を払っている」という理由で糾弾される。
 
 煙草やお酒、セックスやドラッグ、法規に抵触する行為、公序良俗に反する言動 ── 。
「フィクションだから」許されていたものでさえ「フィクションだから」許されなくなった。
 もちろん、フィクションにさえそれを許さないという強固にして潔癖なる正義の支配は、ノンフィクションつまりはIRLたる現実世界にもなべて等しく投影される。
 
「共感の世界」が生み出している潔癖とは、すなわちそういう副作用を持っている。
 きっといいこともたくさんあるのだろう。
 僕はその世界が嫌で逃げ回っているからなんともいえないが。
 
 ブログはweb上に容赦なく公開しているものの、それでもIRLで見知っている人には特別扱いをしてしまうのが僕である。
 web上だけで知ったつもりになるな。俺はそもそも猫だということを忘れるな、と僕は思っている。
 どうせおまーら人のことを人間か何かと勘違いしてるんだろコノヤロー、という気持ちである。
 
 まぁとにかく。
「共感の世界」の大前提は、一人で、孤立した価値観を持たないこと、だと誤解されているのだろう。
 現に、通り魔的な犯罪を犯す人などを観察するに、到底理解しがたい「その人だけが持っていそう」な価値観に基づいて行動しているように思いがちだ。
 
>>>
 
【通り魔的な価値観】
 
 しかしどうだろう。
 余談になるが、僕は一度といわず、そうした「誰でもいいから殺したい」とか「幸せそうにしている他人が憎い」という感情を持ったことが、実はある。
 
 その当時、僕は一人暮らしをしていて、肩の骨が折れたために車を運転することができず、ために仕事もできず、お金がなくてガスや電気どころか水道が止まることもあった。
 当然にアパートの家賃も払えなかったのだが、管理会社に骨折して仕事ができないことを説明したところ「そうですか気の毒ですがお金を用意してください用意できないならお金を払って出ていってください」と言われるだけだった。
 ありとあらゆる支払いができなかったが、お金を借りる相手もいなかった。
 だからといって仕事としてお金を貸している組織を頼るつもりもなかった。返せるはずがないからだ。
 友人にも親にも、僕は頼るということを知らなかった。
 僕はそれをしたことがなかったし、したいとも思わなかった。
 ただただ毎日、不安し、恐怖していた。空腹を感じる余地もなかった。
 誰かに窮状を説明することを恐れた。「そうですかお気の毒ですね」と言われて放置されるのだ。
 恥を忍んで現状を説明して、哀れみのお言葉を頂いて、放置されるのだ。あるいはそのうえ何かを請求されるのだ。
 だから毛布にくるまって震えて眠った。涙なんて出なかった。
 恋人は当時いなかったが、いたところでその窮状を説明する気にはならなかっただろう。僕はそういう性格だ。
(11/19追記。
 記憶を辿ったら、この当時、そういえば恋人がいた。しかし僕は彼女に何も説明せず、頼るようなことを避けていた。)

 お金を借りても返せないと思った(そういう状況だった)し、親しい間柄でお金の貸し借りをするのは関係が壊れることだと無意識に(しかし経験則から)思っていたので、借りたくなかった。
 たぶん寄付なら受け付けたが、寄付をお願いするのはヒトとしてどうかと思って黙っていただろう。
 夜が恐ろしかったが、日中も恐ろしかった。
 誰かが来ること、会うこと、話すことが恐怖だったし、電話やメールも、その着信音にさえ怯えた。留守番電話やメッセージを確認するのに、ひどく気力を要したので、ひたすら通知が溜まっていった。
 
 誰も、僕の窮状を理解はしないと思った。
 みな表向き「そうですかお気の毒ですね」と同情を示してくれるだろう。
 頼めば(あるいは頼まれなくても)お金を貸してくれる人はいるかもしれない。いたかもしれない。
 しかしそれはその人との関係を最終的に壊すものであり、暗黙のうちに「返済をしない人間だ」というレッテルを貼られて、関係を断ち切られることになるだろう。
 
 ── 実家暮らしの頃、友人の友人にお金を貸して、少なくとも僕自身がそう感じたから、その価値観は強固だった。あれ以来、僕は友人にはお金を貸さなくなった。あげるか、断るかである。人間関係を維持するためにはそれしかないと結論したのだ。
 
 あのとき、アパートの外に走る車の音や、人々の楽しそうに笑う声を聞いて、あるいは小銭を握りしめて(という表現は大袈裟だが)スーパーに買い物に出かけて、ふと思ったのだ。
「ならばどいつもこいつも偽善の仮面を被った守銭奴ではないか。自分がそうしたように、金のためなら人間関係をも質草に流すようなケダモノじゃないか。どうしてこいつらは親もいて家族もいて友人や恋人もいて仕事もしていて健康でこんなに当たり前に恵まれてますみたいな顔をして道路を往来したり買い物をしているんだ」と、明確に、不特定多数に対する強烈な殺意を覚えたのだ。
 母親に手を引かれる子供を見てすら憎悪した。
 子供が泣きついて甘えている姿を見て、憎しみやら(憎悪が発生したことに対する)驚きやら(憎しみを感じる自分の心のメカニズムに対する)悲しみやらが心の中で渦巻いて、気絶するかと思ったほどだ。
 
 それは歪んだ怒りで、歪んだ憎悪だった。
 でもそれは確かに僕のものだった。
 幸いにして僕が無差別殺人に走らなかったのは、右肩を骨折して自由が利かなかったことと、いつでも複数の価値観が並列して動作している(つまりは理性が外れない)という理由によるものだろう。
 身体が自由で、人格や価値観が単一なら、僕はあっさりあのとき自暴自棄になったと思う。感情にまかせて他人を殺めただろうと思う。
 とはいえ身体が自由なら、仕事をして、収入もあったと思うのでこの前提は結果的に果たされないのだが。
 
 ただ「ああ、こういう気持ちなんだな」ということはよく分かった。
 
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 同情するには値しないし、共感するには危険な類いの感覚である。
 だから一般に、そうした「通り魔的な犯罪者」の気持ちなんて理解されるべきではない。
 少なくとも僕については、共感や同情をしないでほしい(僕はそれを恐怖し嫌悪している)。
 ただ僕は、そういう人たちの痛みや苦しみが ── 個々に異なることは承知の上で ── ちょっと分かるような気がする。
 経験上、その「幸せな他者」に対する憎しみが分からないではないのだ。それを抱える悲しみも。それらの歪みを自分に認める恐怖も。(もちろん今はそんなものは持っていない。だからこそこうして書くことができるのだが)
 
 そして何より、そういう「気持ち」が芽生えないような社会であってほしいとは思う。
 社会とはそういう装置であるべきなのではないだろうか。
 つまりそれが、社会や、あるいは政治や、あるいは実在世界における人間の精神や教養のありように対して僕が興味関心を持つ理由でもある。
 
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【共感という毒と密度】
 
 共感できるもの、共感できること、そういうものは確かに素晴らしいから、それが多ければ多いほど、その領域が広ければ広いほど、素晴らしいのだと勘違いされているように思えてならない。
 しかし上述の通り、共感できない方が自然で、よいことだってたくさんある。
 
 そもそも共感ができないことが普通で、その方が多いからこそ、共感できることが特別で、素晴らしいと思えるのではないのか。
 だとすれば、共感できる物事はそれが少なければ少ないほど、その領域が狭ければ狭いほど、その素晴らしさが相対的に価値を高めるはずだし、その価値を等しく高いまま、より広い領域で共感を得ることはおそらく不可能だろう。
 そう考えた場合、共感至上主義的な価値観や思想は、ある種の矛盾を抱えたままそれに気付かず破綻すると考えられる。
 
 これらはやはり個人主義的な価値観が蔓延した結果に導かれた状況だと思える。
 ありとあらゆる物事が、個人主義的に分断され、家族も分断され、友人関係でさえ分断されているのだ。
 それはつまり個々人が孤独を感じるような価値観を植え付けられて、それでも現実世界の人間関係には辟易して、あるいは過剰にヴァーチャルな欲を投影して、結果的に共感を現実世界で体現することができないということだ。
 
 だから安易に他人の価値観が羅列されているwebやSNSで、共感に値する情報を求めてしまう。
 求めよ、さすれば与えられん。
 じつに手軽にそれらは転がっているだろう。
 要は、自分が思っていることと同じようなことを言っている誰かの発言が欲しいだけだ。
 そこでSNSのように、相互性が発生するプラットフォームであれば、相手も自分と同じような発言を欲していれば、お手軽な共感ができあがる。
 お手軽であっても、共感は孤独の専有面積を埋めてくれるだろう。
 
 孤独とはすなわち、空白のことだ。誰にも譲らない、明け渡さない領域のことだ。
 実体を持つ人間との間に共感というバイパスを作って、それで孤独を埋めるのはとても骨の折れる作業だ。
 ただ孤独の冷え冷えとした空白に怯え、それを埋めればよいだけならば、なるほどヴァーチャルな人間関係に作られた手軽な共感だけでいい。
 
 そうなれば誰かと価値観の衝突をするなんて労力の無駄であり、また集団において忌避される個体と見なされることを予測して「無難な人格」を仮想で構築するのも必然だろう。
 政治について熱く議論するなんてもってのほか。
 気になる女の子のことを「ここが可愛い」なんて褒めてしまって、恋慕している対象が友人と重複する事故の発生なんて論外。
 なるほどそういうことかもしれない。
 メディアを通してヴァーチャルなキャラクタに恋慕し、経済を媒介にすることで決して裏切られるはずのない「推し活」をし、大人になって自分の将来に不安を感じて婚活でもするのだろう、多分。
(これらは国家的に、非常に由々しき事態ではあるが、今の社会はそれでも構わない様子である。結果、日本は滅びる)
 
 いずれにしても今回の主体たる「群馬県前橋市近辺で観察される大学生(特に男子)」はその多くが「共感という幻想に支配された仮想人格」を形成しており、その上、そのベースにあるべき「実体を持った自身本来の人格」が著しく侵食されている可能性も否定できない。
 
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【共感とは何なのか】
 
 自身の持つ価値観が誰かの持つそれと似通っている(あるいは同一である)と相互に(あるいは一方的に)認識できたとき、人は「共感」を得るようだ。
 
○共感は、孤独を埋める。
 
○孤独は価値観の中にメタ情報として書き込まれている。
 この価値観は「共感者」がいる/いない、といった具合に。
 
○共感者のない価値観は、集団の中で無価値、あるいは危険な要素として認識されていることがある。
 いじめのメカニズムにも通じるものがある。
 
○ために孤独は避けるべき要素であり、共感すること/しあうことが、集団において優位性を持つメタ情報の書き込み行為として一定の地位を持つ。
 SNSによるリスペクトも、される側を優位にするのと同様、する側の優位性を高めるのだろう。
 これは「私は誰々の知り合いです」と周囲に言うことで、一定の優位性を発揮する場があるのと同じ原理である。
 ヴァーチャルではないリアルな人間関係でも古くから動作しているメカニズムで、個人的には悪習だと思っている。
 
○「共感」は集団には有益であるため優位性を持つが、ときに個を殲滅する。
 これもいじめに根底が通じている。
 メカニズムがいい加減に運用される危険性があるので、僕は「共感」というメカニズムを本能的に忌避するようにしている。
 もちろん、誰かに共感することはあるし誰かに共感されることもあるが、それは僕の(あるいは相手の)持つ価値観をより優位にするわけではないと思っているから、共感できない価値観があったとしてそれを劣位だと思ったりはしない。
 
○個人主義のなれの果てに「共感」は神格化されている。
 みんながみんな同じように感じて、同じ正義を信じるなんて、僕は信じられないしキモチワルイと感じる。
 
○「共感」を集団が強要するとき、果たしてどうなるのか。
 冒頭の知り合いたちが言っていたのは、これが政府やメディアが誘導した民衆支配の一形態ではないか、というものだった。
 たしかに本来の個性たる主体人格を、集団の共感を優先するような仮想人格によって侵食されて育った世代は、集団の動きに合わせないことを本能的に恐怖するだろう。
 その意味において、もし本当にそれを計算づくで導いたのだとすれば、それを提唱し実現してきた人や組織は大した実力を持っていると評価できる。
 世が乱れているのは、その過渡期だからだという判断も可能だ。
 
 ただしそれは、その善悪を問わない場合において、である。
 
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【急に父性の話】
 
 個人主義の導入によって、日本に父性という概念は消失したように観察される。
 不惑を過ぎた男どもは、軒並み「おっさん」という(旧来は蔑称だったはずのそれ)によって呼称され、あるいは自称し、父性を持ち、それを発揮することで賞賛されるような場面はおよそ観察されなくなった。
 家庭の主婦ども(あえて軽蔑的に表記している)が、配偶者に求めているのは「より優れた父の姿」ではなく「便利な道具」としてのそれである。
 そこで男たちは家事をすることを求められ、子育てを担うことを求められ、家計の主体であることも求められ、見目麗しく、なおかつ配偶者たる女がいかなる状態にあっても褒め称え、最良の「女」として評価することを絶対とさせられている。
 
 なぜといって、女も男も、母親の配偶者たる中年男性を知ってはいても「父性」を知らないからだろう。
 そして上記の女目線に都合のよい道具をして「父親」を見た子供たちが、そういうオトコを再生産してゆく。
 
 女というのは基本的に、家庭のような極めて狭い範囲での損得勘定に優れている一方、大局的なことや抽象的なことを取り扱うことが苦手な脳構造を持っている。
(もっとも人間の心理的機微については優位性を持っているので、一概に政治や社会貢献に役に立たない傾向があると言いたいわけではない)
 
 しかしそもそもオトコたちが父性を失うとき、集団は結束を失う。
 庇護と安心をなくせば、社会は疑心暗鬼なくして成り立たなくなる。
 個人主義は加速し、人はバックボーンのない不安から集団を拠りどころとし、個人主義的であるにもかかわらず、全体としては結果的に社会主義として機能する。
 しかし表向きは資本主義だから、その道理に基づけば、経済的弱者は敗者として見捨てられ、愚者は禽獣にも等しい扱いから脱却できない。愚者を愚者でなくするのは、誇りと学びである。
 
 なるほど支配者層に有益な潜在的社会主義国家を形成するにあたって、これほど理に適った誘導はないようにさえ思える。
 それも経済という力をうまく利用して価値観の流れを形成しているという点においては、完璧ともいえるだろう。
 経済や社会的影響力を持っているオトコであっても、父性を知らず、女たちの道具であることが必然とされた社会にあっては、人という人のすべてが、経済によって支配できる道具に過ぎなくなるからだ。
 男も女も金で買える社会は、まして安い金で買えるならば、経済的支配者層にとってまさに理想的な奴隷制度の国家である。表向きの名称は何であれ。
 とりあえず選挙さえしていれば民主国家の体裁は保てるのだから。
 そうでしょう? みんなこの国が民主国家でないなんて、疑っていないでしょう? 選挙制度があるのだから。
「なに政治家が悪い? お気の毒ですね。あなた方が選んだ代表者です。とりあえずお金を払ってください払えないなら死になさい」
 
 しかし疑問も残る。
 もし仮に、優れた頭脳が誘導した社会的価値観がもたらしたのが「これ」ならば、その先をどう予測しているのか、ということだ。
 少なくとも僕の考えられる範囲では、奴隷が次々死ぬのが次のフェイズである。
 現に高齢化社会のなかで、若者のほとんどは将来に希望など見ていないし、楽観もしていない。
 高齢者はどうやっても基本的に死んでゆく。
 上記の仮定された支配者層が(政治家や国家がそれであるかどうかも分からないが)望むものは、何よりもまず国家の存続ではないのか。繁栄ではないのか。
 
 奴隷が潤うことに支配者層が嫉妬するだろうか。そんなはずはないと思うのだ。
 奴隷が潤えば、支配者層は一層潤う。
 もちろんバブル経済のような冷や水を浴びることはあったにせよ、国家という家庭の家族が幸せになることに嫉妬し、不幸になることをはたしてマトモな支配者層が望むとは思えないのだ。
 
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【国家陰謀論なの?】
 
 よってここから導き出せるのは、
 
○そもそも国家(あるいはそれ以上の支配者層があったとしたらそれ)による意図的な価値観誘導など存在しない。
 
○仮に価値観誘導があった場合、非常に優れた奴隷を生み出すことには成功しているかもしれないが、民主国家あるいは資本主義国家としての弱体化を招いていることは明白である。
 
○ために目先のことに気を取られて、最終的に自滅する演算結果であるように観察されるのだから、意図的な支配者層は自らの首を絞めて自滅する。
 
○あるいはもっとすごい計画があるのか(←陰謀論者めw)。
 
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【経済の持つ機能に踊らされているのではないのか】
 
 個人的には、経済という「人間が生み出した概念的なモノ」がもつ性質、メカニズムなのだと思う。
 経済(つまりお金)も、相当にヴァーチャルな存在なのに、人間はあたかもそれが現実で、ときに命に等しいモノとして扱ってきた。
 結果、生きるためにお金は絶対に必要なものとして認識している人が多い(僕はそうでもないが)。
 
 経済という価値観が人々の価値観に浸潤し浸食した結果、人間はその「人間至上主義」だった価値観を崩壊させたのだろう。
 もちろん表向きはみな「人間至上主義」の貌をしているが、お金を持っていない人間は人間として扱わないからそんなカオをしていられるだけだ。
 
 金がない=仕事をしていない=大人ならクズ。
 金がある=素晴らしい能力を持った、社会的に優れた人間に違いない。
 そんな価値観を持ってはいないだろうか。
「ケガをして、お金が払えないんです」「気の毒ですが自分でなんとかしろお金を用意できないなら死ね」という社会ではないのだろうか。
 
 実際、意図的な犯罪を犯す人の多くは「ラクして大量のお金を手に入れたくて」法を犯す。
 お金にそれだけの力があるのだけれど、その力をお金に見出し、与えているのは社会そのものであり、人間のそのものではないだろうか。
 
 お金は人間に信頼され過ぎた。もはやカミサマみたいではないか。
 それを人がポケットに入れている。カミサマ in the ポケットである。
 そりゃ相対的に人間の値打ちが下がるわけである。
 人間というのは等しく人間であるから、他人の価値も自分の価値もお金によって等しく下がる。
 友達になりたそうにしている人間と、1億円が並んでいて、どちらか選んでいいと言われたら1億円を選ぶだろう。僕ならそうする。いや、100円だってそうするかもしれない。
 なぜといって、人間はお金に換えられないほどの損害をもたらしたりすることもあるからだ。
 
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 今のところ人間が接しているヴァーチャルな存在、あるいはヴァーチャル/リアルの境界面のうち、もっとも力を持っているのが経済である。
 
 共感についても同様、それはヴァーチャルで、単純に自己満足の感情でしかないともいえる。
 共感が何を生み出すかといって、たいしたことはしない。
 ただメディアで共感を集めれば、大勢の人間を動かすことができるから、個々人から小銭を集めればそれが大金になる。
 共感の社会だなんて綺麗事みたいなセリフは大嫌いだが、つまりその「共感の社会」もまた、経済の価値観によって狂わされた誰かに、いいように使われているのだろう。
 
 共感よりは、怒りや憎しみの方が、はるかに有用で何かを生み出すだろう。
 僕は冬は好きだけれど寒さが嫌いだし、暑さがとにかく嫌いなので、空調についていつも考えている。
 まぁ「いつも」というのは言い過ぎだ。
 そんなにいつもは考えていないかな。ガールとぱやぱやすることを考えている方がシアワセかな。
 ためにエネルギー効率がよく、結果的に環境性能も高く、さらには経済効率も高い熱交換システムについて考えていた(過去形。経済効率をもっと高めるヒラメキが欲しいところだ)。
 
 怒りや憎しみや悲しみは、孤独だ。
 誰かのそれに共感することはあっても、共感してもらうことはできないものだ。
 共感なんかされてはいけないし、させてはいけない。させるわけにはいかないものだ。
 
 では孤独に対する共感はどうかといえば、これもまた推奨されるものではない。
 孤独は大きな力になるものだ。その人固有の、力の糧だ。
 それに共感することは、少なくともその孤独に共感を表明してしまうことは、その人の孤独の芽を摘むことだ。だから電信柱の陰からそっと、熱い視線を送るしかない。バレたらストーカー扱いされるけれど、逮捕されてでも見守り続けるしかない(それはどうなのか)。
 
 共感は、ひとつ間違えば単なる馴れ合いになる。
 馴れ合いけっこう、馴れ合いの何が悪いのか、とも思う。
 同調圧力大いにけっこう、そんなものを蹴散らかすだけの孤独を秘めることができるなら、それこそ先に述べたその人ならではの力になるだろう。
 だから、共感そのものを否定するつもりもない。
 共感は素晴らしいといってもいいだろう。そのメカニズムをして経済や集団に悪用されなければ、なおさらいいと思う。
 
 ただ、共感と引き換えに孤独の魂を明け渡すことを、少なくとも僕ならしない。
 
 イマドキの若者たちが共感のためのヴァーチャルな価値観を主体とした仮想人格によって構成されているとするならば、彼らは仮想人格を使いこなす資質を育てていることになる。
 どうか正しく、本来の人格を陰に日向に育てて欲しいと思う。
 それによっていずれ、正しく「父性」と呼ばれるべき人間の資質が目覚めることもあるだろう。再生することもあるだろう。
 あるいは性差を持たない新しい言葉で「母性」や「父性」が、表現され、体現される日が来るだろう。
 来なければ、人間は滅ぶのだ。禽獣となって、互いを貪り喰い合ううちに。
 
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【「傷つく」の定義と父性】
 さても冒頭の「傷つく」ということの定義だが、彼らが恐れている傷とはすなわち、社会的抹殺そのものだろう。
 もちろん「社会」のサイズの大小はある。
 彼らは彼らの属しているリアル/ヴァーチャルなコミュニティの中で、自身の価値が他人と衝突し、勝敗はともかくとして、衝突する行為すら最終的に集団において自身の優位性を下げることに怯えているわけだ。
 そんなものは「社会」というほど広くない、という人もいるだろうけれど、人間にはその属する「社会」のサイズが変わるものではないか。
 そしてそれは、扱いきれないほど広ければ相互に何の役にも立たないものだし、狭すぎればお互いに手に余ることになる。
 
 会社の中でのコミュニティに迎合せざるを得ない、なんていう経験もあるのではないか(僕もある)。
 そしてもっと広く、日本国家において、あるいは世界の他の人種や国家と渡り合おうとする場面においてそれは、恐れている場合ではない傷なのだ。
 
 孤独のうちに生きようと思えば、傷は負う。
 誰かを傷つけることによって、自分の不義を思い知ることもある。
 綺麗事、ヴァーチャルな格好良さ、美しさ、矜恃だけを持って生きられたらどんなにいいだろうと思う。
 キリストの曰く「汝姦淫するなかれ」とある。

::「『姦通してはならない』と命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲を抱いて女を見る者は、その女に対し心の中ですでに姦通の罪を犯したことになる」とおっしゃいました。
 
引用元:

 
 この伝に従えば、僕はすでに無差別殺人を犯している。
 それどころではない。
 親を殺し、自らの一族郎党を滅ぼし、なんとなればヒトというヒトを滅ぼしている。それも何度となくだ。
 
 姦淫など、それこそリアルに数え切れないほどしているから、ヴァーチャルなそれを数える気になどならない。風俗店に行く趣味もない(お金を払うのが嫌なのではなくて、恋愛感情のない他人の身体に触れたり、触れられたりするのが、己の性欲を超えて嫌である)のに、この有様である。
 
 僕は僕が思う以上に、だから誰かが思っているよりはるかにそれ以上、自分が汚れていることを知っている。
 集団に適合せず、あるいは危険な因子と見なされうることを知っている。
 
 必然、僕は集団に迎え入れられない(ことも多い)。
 しかし僕は傷つかない。
 
 先の父性に話を戻せば、父性とはすなわち、自身が傷ついてでも負ったものを守ろうとする性質のことではないだろうか。
 いやもちろん、母性にだってそういう側面はあるだろう。
 しかし母性が直面するのは自らのファミリィに対して発露する能力であるのに対し、父性が直面するのはファミリィの外に対して発露する能力なのである。
 
 外に対して発露すべき能力を持つというのなら、そこで無傷のまま帰ってこようという方がそもそもおかしい。
 先に述べた「より広い社会」を負って立つということは、その外側に向かって発露する能力を有するということでもある。
 
 もともと父らしい父親を持たず、女同士のファミリィでキャッキャウフフしていただけの僕のようなイキモノが、父性だの母性だのを語るのも相当に滑稽なことだとは自覚しているのが、父親というものを社会が粗末にし始めた段階で、現状は運命づけられていたようにも思える。
 理想の父親かくあらんと感じさせるほど、日本を負って立つような政治家も、そうした背中を見せつける経営者も、あるいはインフルエンサだろうとカリスマだろうと構わないが、父性を感じさせる権力者がいなくなってしまった。
 
 共感の名の下に、自らの価値を傷つけられることを恐れるのは結構なことだ。
 しかし、それに怯えているだけでは、守りたいものができたときに満足に立ち向かうこともかなわないだろう。
 あるいは刺し違えてでも守りたいものとして、誰かに庇護された経験がないのだろうか。
 きっとないのだ、誰も彼も。父性というものがこの日本に失われてからというもの。
 
 顔が整っていて、身体のあちこち脱毛して、お肌の手入れを欠かさず、いい匂いのする香水を焚いて曖昧な笑顔を振りまく男が今どきの女に好かれるのは必然である。
 しかし彼らはけっしてお前たちを守らないだろうと、彼女たちは理解しているのだろうか。
 それとも、かつて男が女にしたように、醜い欲のヴァーチャルを投影して金を払った(あるいは股を開いた)対価に夢を見せろと命令し、支配するつもりだろうか。
 
 セックスそのものを除いては、この国はメスばかりになったのかもしれない。
 なるほど与しやすいのだが、それによって一体誰が得をするというのだろう。
 
 
 
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<むん!>
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::これらを僕は「アタマオカシイ」と断じてしまうのだが、実のところ人格のないものにキャラクタを見出すのは、高度な人間の能力でもある。
 子供が人形を相手にキャラクタを設定してコミュニケーションするように、かつての社会では、それは幼稚なこととして忌避されていた。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
ヴァーチャル/リアルに漂う君たちよ。」From「青猫工場」
によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
[ Cross Link ]
 
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫
 
[InterMethod]
  :Algorithm:Blood:Ecology:Link:Mechanics:Recollect:Stand_Alone:Style:
 
[Module]
  :Connector:Convertor:JunctionBox:Reactor:Transistor:
 
[Object]
  :Friend:Human:Koban:
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:ひとになったゆめをみる:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF