// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211128
// NOTE:それ以来、ひどく眠いのです。
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TITLE:
あぶない橋を渡らず迂回路を行け。
SUBTITLE:
~ Trust me, Head on. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211128
 
 体験入社が終わった。
 詳細を書くのはやめておくが、非常に危ない感じがしたので、断った。
 ダーティな、といえば多少は伝わるだろうか。伝わらないだろう。
 
>>>
 
 20代の頃、父上が死んで間もなくから、ダーティな人たちと渡り合う機会が多くあった。
 世間を知らない若造をカモにして、つまりは無知な人間を食い物にして、何かをかすめ取ろうというタイプの人間はどうしようもなく世の中に居て、そういう人間は時々、僕のように無害で抵抗力をほとんど持たない人間を見つけると餌にしようと寄ってくる。
 
 その当時も、本当に酷い目に遭った。
 寸借詐欺にも遭ったし、車両詐取もされたことがある。
 大きめのところだと、義理の兄(姉の旦那)の債務の保証人になったはいいものの、1年もしないうちに当人が破産申告して、ほとんどそのまま負債を預かったこともある。
 ── 実のところ叔母が私に負わせた額はさらに2桁上だったので、当時の私は当然に(3秒ほど)逡巡したし、けれどもまさか血縁者たる叔母まで私をいいように餌にするとは思っていなかったのではある。叔母に対する現在の憎しみというのはつまり、そうした人間たちに対する怒りでもある。
 
 強欲にして他者を(顕在的にであれ潜在的にであれ)餌にしようとしている人間には一定のパターンがあって、僕はそういった人間には懲りているうえ、当然ながら嫌悪している。
 ついでに若い頃なら多少なり僕自身にも欲があったが、そうした人間たちは他人の欲を使ってうまく自身の空腹を満たす術を知っている。
 喩えるなら、餌を使って獲物をおびき寄せるタイプの狩りをする動物のようなものだ。
 ときどき高額な詐欺がニュースになったりするのも同様、騙される側に一定以上の欲があり、歯止めが利かないから結果的に餌にされるのだ。
 
 かつて、肉食獣が高い運動能力を活かして草食動物を狩っていたのと同じような時代が人間にもあっただろう。
 強奪し、仕留めて、食い物にする。
 そこにあるのは圧倒的な能力差であり、有無を言わさず獲物は権利のすべてを剥奪される。
 
 人間たちはたまたま、理性を使って倫理的な思考を行い、ルールを作って皆で守る約束を取り決め、肉食獣のような横暴を禁じることにしたのだろう。
 その結果が今の社会というわけだ。
 
 しかしながら、上記のような疑似餌を使うタイプの詐欺はたいてい、実際に捕食されるまで気付かないようにできている。
 
>>>
 
 幸い、僕に残されているのは、それなりの性欲と、微かな食欲と、多大な睡眠欲程度、すなわち禽獣にほど近いものだけである。
 出世欲もないし、自己顕示欲もないから虚栄心もない(むしろ目立たないようにと気をつけているのに目立つらしく困っている)。
 集団帰属欲求もないから、ヒエラルキィにありがちな雑念も湧かない。
 
 20代の頃、僕を餌にした人たちについていえば、30代で信頼できる人の下で仕事を続けることができたからこそ忘れることができた。
 ちゃんと人間は、信じられるものだと思うことができたし、思い続けることができた。
 
 40代の最初の頃にあれやこれやがあって、僕は今度こそ人間に絶望した。
 他人にも絶望したし、今度こそ自分にも絶望した。
(精確にいえばこれは「させられた」のだが)
 もう人間をやめようと思った(おかげで猫に戻れたけどよ)。
 
 結局のところ人間を信じたいという本能的な願いにも似た気持ちは、自分を信じたいというそれだけのことだったのかもしれないと今は思う。
 
 僕は自己嫌悪を嗤う。それは愚かな行為だ。
 人は自分のことを限りなく愛しているからこそ自分を嫌悪する。
 
 その絶大な自己愛を彼ら彼女たちは「ないもの」のように扱うから、その愚かさを嗤う。
 自己嫌悪してまで「正しい自分」を演じる醜さを嗤う。
 無反省に同じことを繰り返しては、無自覚な自己愛(それも絶大な)に従って「正しい自分」を演じてわざわざ自己嫌悪するのは、とうてい理知的でもなければ論理的でもなく、また賢いとも思えない。
 つまりバカのすることである。
 
>>>
 
 信頼していた誰かが、自分に対して求めているものが僕という存在そのものではなく、僕に付随している単なる所有物のほうだったりすることの悲しみをしかし僕は10代の頃から知ってはいた。
 僕の家はたまたま友人たちの溜まり場だったから、彼ら彼女たちは、果たして僕に会いに来ているのか、それともここに来れば他の誰かがいるからという理由で、単にこの場所を必要としているだけなのではないかと、ときどきヘンな気持ちになることがあったのだ。
 もちろん本当のところは両方があって、どちらかが大きくなることもあれば小さくなることもあると分かっていたから、僕はそれを表面に出すことはなかった(そもそもマイペースなイキモノだったので、僕は自宅で自分のしたいことをしているだけだったし)。
 
 大人になって、だから僕は恋人に「とりあえずカラダが目当て」だと言っていた。
 料理も愛情も部屋の掃除も畏敬の念も(ついでに言えば会話の相手さえ)、与えられることなく自身の手で満たすことができた。
 ために恋人のほとんどは(幸いにして)僕に料理を作ってくれることはなかったし、(幸いにして)僕の家の中を掃除したりすることはなかった。
 じつのところ、年がら年中ぱやぱや(セックスのことです)をしているはずもなく、当然ながら「ただ一緒に居るだけ」で時間は過ぎてゆくのだけれど、僕が大切に思っていたのはそういう時間だったのではある。
 
 たとえば僕は勝手にゲームをしていたり、たとえば恋人は勝手に本を読んだり学校のレポートをまとめていたり。
 たとえば僕は台所で料理をしていたり、たとえば恋人はベッドで眠っていたり。
 たとえば僕が眠っているあいだ、恋人たちは僕の知らない何かをしていたり。
 それが僕にはシアワセだったのである。それを当たり前に過ごせる誰かがいるというただそれだけの事実が。
 
 けれどもそれは、いちいち説明すると、なんだか気障なのである。
 もちろん、おそらく僕は気障なイキモノではある。
 周囲を観察していると「もっとみんな格好付けようよ」と思うのである。
 なぜといって、人間は所詮、禽獣の域を出ないからだ。
 もともとカッコいい人もいるとは思う。
 自然に振る舞っているだけで、カッコいい(あるいは可愛い)人というのは存在する。
 
 では僕のように凡庸な ── あるいは凡庸にも満たない ── イキモノはどうしたらいいのか。
 あなたのように凡庸な ── あるいは凡庸にも満たない ── 人はどうすればいいのか。
 
 自分の思う「カッコいい」「可愛い」を追求して、体現するよりないのである。
 つまるところそれは「美しい」あるいは「醜くない」存在を体現することである。
 
「何気ない日常を当たり前に過ごせる誰かがいるというただそれだけの事実がシアワセなのだ」なんて気障なことを(恋人に面と向かって)言ったら、それはカッコ悪いのである(当社比)。
 まるでナルシスティックな自己満足のため、あるいは甘言を弄して相手をたぶらかそうとしているようではないか。
 
 ために僕はその気障なセリフをぐっと飲み込んで「ん〜。カラダが目当てなんだよねぇ」と言うのである。
 他に伝える術がないのだ(一緒に居られるだけでシアワセだ)という気持ちを。
 
>>>
 
 あるいはあなたがた人間は言うかもしれない。
「一緒に居られるだけでシアワセだというならそう言えばいい」と。
「正しい気持ちを正しく言葉にしないからそれは嘘になるのだ」と。
 
 しかし僕はまったくそうは思わない。
 
 本当のことを伝えると、ときどき嘘くさくなることがあるのだ。
 相手に正しく伝えたいことが、言葉にしたことによって、却って伝わらないことがあるのだ。
 だとしたら僕らは。
 だとするなら僕は、より下賤な言葉で、より下卑た表現で「僕には君が必要だ」と伝えなくてはならないのだ。
 
 なぜといって僕は恋人に、高尚(自分で言うか普通)な思考の話し相手になって欲しいわけでもないし、仕事の愚痴を聞いて欲しいわけでもないし、料理を作ったり洗濯や掃除といった家政婦のような仕事をして欲しいわけでもなければ、病気のときに看病して欲しいわけでもないのだ。
 強いて言えば僕の代わりに自動車を運転したり、僕より仕事ができて収入があったらいいかな、くらいには思うこともあったけれど、そんなものはどうでもいい付属のスキルだし、実際に今となっては僕自身に対してさえどうでもいい問題である。
 
 ために僕は恋人という恋人(つくづく複数形で書いてしまうな私は)に、訊ねられたら「カラダが目当て」と答えていたし、仮に身体を重ねていない時間であっても、そこに居てくれるということを大切に思っていたのではある。
 
>>>
 
 信頼できない人間というのは、結局のところ、他人の付属品を求めているのだ。
 誰かの所有物を自分のものにしたくて仕方ない。その欲をどうすることもできないケダモノなのだ。
 場合によっては、相手の存在そのものを自分の支配下に置きたくて仕方ない、その欲に対して抗う術も気持ちも考えも持たない下等な生物なのだ。
 
 一番最後に付き合っていた人間型の恋人が、そのどうにもならない種類の動物で、僕は非常にひどい思いをした。
 もちろん表向き、多くの人間は正しく自分の欲しいものを伝えない。
 きっと気障な言葉になってしまうから隠していたのだろうか。
 それとも目を覆うような下劣な欲だったから、口にしなかったのだろうか。
 
 今回の仕事のトップもまた、そうした人間だった。
 だから僕は非常に混乱してしまった。
 甘言を弄して他人を支配し、所有物をせしめ取ろうとする人間に共通の気配が明らかにそこにあって。
 しかし人間を信じないことが僕には非常に辛いことなので。(からいのではないが、甘口でもいいかな)
 
>>>
 
 僕には信頼できる人間も幾人かいる。
 彼ら彼女たちは、僕の所有物や付属品を求めて、奪い取ろうと考えていたりはしないし、僕を拘束することもない。
 思い通りに支配しようとはしないし、僕が陰に日向に何をしていたところで詮索さえしない。
 
 今と言わず20年前と言わず、もっとずっと昔から、そしてこの先も、信頼できる人間がたとえ少数でもいる反面、信頼できない種類の人間もいるのである。
 
 それは年齢によらず、時世によらず、地位や肩書きによらず、財産や人脈の多少によらず、性別にも(そしておそらく)種族にもよらないのだ。
 
 数日ぶりに家に戻ったら、いくつかの部屋が荒らされていた。
 この家でゴミ箱や人間の食物を漁り散らかすことを、アヲはしないので、犯人は必然一匹に絞られる。
 
 しかしまあ、動物の方が人間よりも、悪事の規模が小さいぶんだけましであり、その意味では幸運なのだろう。
 部屋を荒らされたことも含め厭な記憶が少々フラッシュバックしたものの。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Cat-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211121
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
君にしばしのお別れを。
SUBTITLE:
~ CU again. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::どれほど優れたソーシャルゲームでも、ガチャでSSRを引くことができない限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。然るべき場所にリソースを集中させ、人事を尽くして天命を待ったところに不要なカードの山を築いている限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。そして私とウマ娘の間柄において、ウマ娘プリティーダービーはそのように振舞い続けているのだから、ウマ娘プリティーダービーといえどもクソゲーと名指ししなければならない。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
 
//[Body]

 ヴァーチャルキャラクタに対する好意は、仮にそれが愛情と呼ぶにふさわしいレベルの強さや深さを持つとしても、あるいはだからこそ、どこまでも一方通行の片思いであることを僕らゲーマーは知っていなければならない。
 一方通行であるということは、相手の気持ちどころか、相手との距離感における節度さえをも相手に確認する術を持たず、すなわちそれらを確認する距離まで近づくことすら許されないのである。
 
 たとえ「NieR:Automata」で、我々がいかに主人公の2Bのスカートの中身を何度となく覗き込もうとしたとしても、彼女(アンドロイドなので正確な意味での性別を持つわけではないが、女性型であるため代名詞は「彼女」が相当するだろう)が我々の存在はもちろん、親愛の情を理解するはずはない。
 我々は空気であり、だからこそのゆえにスカートの中身を覗き込むという行為が法に抵触しないわけである(正確には、ヴァーチャルキャラクタに人格権が存在しないから、なのだろうけれど)。
 
 恋愛 ── こと「相手と両思いになること」ではなく「両思いになってからお付き合いすること」 ── がメインコンテンツであった「ラブプラス」シリーズにおいてさえ、我々の好意は、結局のところ(いわゆる「次元の壁」により)一方通行であって ── それを超えるだけのフォースのパワーが炸裂しない限り ── 彼女(ヴァーチャルキャラクタなので正確な意味での性別を持たない単なるデータ群)たちは演算結果にのみ従って我々への好意的な言動を出力する。
 
 もちろん僕はゲーマーであると同時に、ゲームクリエイタでもありプログラマでもある(すべて自称である。経済と交換していないからプロではないし、現役でもない)から、
「クリエイタ:(次元の壁):ヴァーチャルワールド:(次元の壁):プレイヤ」という構図について、相応に理解はしているつもりである。
 
 その上でなお、我々はヴァーチャルワールドを、ヴァーチャルキャラクタを愛していればこそ、その次元の壁を理解して、ときにその垣根を払い、ときにその敷居を尊重し、きわめて親愛なる存在としてお金や時間や体力や気力を費やしもすれば、モデルやテクスチャやモーションや会話や字幕の不整合にも(最悪、長期に渡って修正を待たされるバグにも)目をつむり、融和の道を探るわけである。
 
>>>
 
 ところで「ウマ娘 プリティーダービー」というゲームがあって、僕はもともと全てのギャンブルに興味がないので、必然「競馬馬の擬人化? また擬人化なの? そのうえウマなの? いやぁ、ぼかぁちょっと……」といった感じで敬遠していた。はっきりいって興味がなかった。
(こうした初期反応は「けものフレンズ」のときもそうだった。人気を不思議に思って1期1話を見たときは ── 悪い意味で ── 絶句したものだ。今は好きだけれど)
 
 たまたまあるとき、ゲーム実況動画を見る機会があって、それで少々興味を持った。
 競馬が好きな人のブログでも、プレイしてみたという記述があり、興味が膨らんだ。
 そして少しプレイして、驚いた。
 キャラクタのモデリングからレンダリングに至るまで、その表現が凄まじくて。
 
 全方位からのモデルの完成度はもちろん、テクスチャも、ボーン設定も、モーションも、ハイライトとシャドウの調整も、果てはステージのスポットライトやフォグの表現に至るまで、驚くほど手抜きを感じさせない、それどころかどうやったらこんなに破綻のないブラッシュアップができるのかと驚嘆した。
 キャラクタを表現することについて、まったく想像を超える出来映えがそこにあった。
 
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【glossary】
 モデリング :キャラクタの3D造形をすること。出来上がったものがモデルである。
 レンダリング:モデルや環境をカメラに投影するための演算処理のこと。
 テクスチャ :モデルの表面に張り付けられる絵のこと。これがないとペーパクラフトや粘土細工のようである。
 ボーン設定 :関節の位置と動きを設定すること。
 モーション :関節を基準にした動きのこと。服や髪にも関節を持たせて動かす。これもモーションである。
 フォグ   :レンダリングの表現のひとつ。霧のかかったような光の拡散や収束を表現する。
 
<<<
 
 いわゆる「リセマラ」行為をしてサイレンススズカさんとライスシャワーさんを手に入れた。
(物静かで大人しいキャラクタが好みなのでもある)
 スズカさんの実馬のストーリィは競馬を知らない僕でもなんとなく記憶にあった。
 当時の深夜のニュースでその(当日の)死が大々的に取り上げられた記憶もあるため、少々調べたりもした。
 スズカさんが好きすぎて、一部の文書に濃厚に影響を及ぼしたこともある。
(僕の「天才肌」は程度が知れているが)
 
 スズカさんだけではなくそれぞれのキャラについて、モデルや映像演出もさることながら、ストーリィもそれぞれの馬の史実からうまく抽象して落とし込んである。
 もちろん、まともにストーリィを読むと、1プレイで2時間くらい使ってしまう。
(ストーリィを省略しても1プレイ30分くらいを僕は使ってしまう。)
 だからなかなかきちんと読みながらプレイする機会は少ないが、それでもときどき(2ヶ月に1回くらい)、本を読み返すような気持ちで、いずれかのウマ娘との3年間を過ごすのではある。
 
 しかし残念なことに、どんなに感動的なシナリオが書かれていて、どんなに魅力的にキャラクタが描かれていても、結局はガチャゲーである。僕がもっとも忌み嫌い、ゲームというジャンルの最底辺だと考え、その文化を貶めるものと憎んですらいるガチャゲーなのである。
 
>>>
 
 ここまであまり書いたことがなかったが、いわゆる「ガチャゲー」とは、どんなに複雑で魅力的なシステムを持っているとしても、最終的にくじ引きによって手に入れるキャラクタでプレイ体験のほとんどが決定づけられてしまうタイプのゲームである。

 冒頭の引用はまさにそんなガチャゲーにおけるプレイヤの、つまりは我々ゲーマーの率直な感想であり、ゲームを、そこに登場するキャラクタを愛すればこそ生まれる苦悩の叫びでもある。
 
>>>
 
 かつて業務用のゲーム機(ゲームセンタに置かれるもの)に、じゃんけんゲームがあった。
 コインを入れて、じゃんけんをする、ただそれだけのゲームだ。
 
 原理は非常に単純だ。

(ただし、以下のようなプログラムで動いていたとは限らない。僕が再現するならこうするというだけの話である)

 

 0〜2の乱数xを発生させ、プレイヤに0〜2のyを入力させる。
 
 0を「グー」
 1を「チョキ」
 2を「パー」と定義したとき、
 
 x=yなら「あいこ」と判定する。
 
 mod(2−x+y,3)の返り値が
 0のときはプレイヤの負け。
 1のときはプレイヤの勝ち。
 と判定する(詳細は後述)。


「あいこ」のときは、そのまま最初に戻る。
 プレイヤが「勝ち」のときは勝ちの処理(コンピュータが負けた処理)をして最初に戻る。
 プレイヤが「負け」のときはゲームオーバーの処理をして終了する。

(申し訳ないが僕は昔からフローチャートを書かずに直接コーディングするので、ここでもフローチャートを載せない)


 それぞれの処理にあたって、映像(LEDの雑な電光表示だったか)と音声を出力すれば出来上がりだ。
 Z80チップを使うことさえもったいないくらいの、簡単な基板でできるだろう。

 

<<<
 
【解説】
 上記のmod関数はBasicおよびExcelに使われるもので、
 mod(値1,値2)とあるとき、値1を値2で割った「余り」を返り値(出力)とする。
 
 x=yのときは「あいこ」でやり直しになる。
 x(コンピュータ)が0(グー)でy(プレイヤ)が1(チョキ)のとき、
 2−y+x=2−0+1となるので、答えは3、これを3で割った余りは0、ということになる。
 他の組み合わせも表にするとこうなる。
 

[プレイヤが負けの組み合わせ]
x(コンピュータ) y(プレイヤ) 2−x+y mod(2−x+y,3)
0(グー) 1(チョキ) =3
=0
1(チョキ) 2(パー) =3 =0
2(パー) 0(グー) =0 =0
 ※ 3を3で割った余りは0である。
 ※ また0を3で割ると0であり、余りは発生せず、よって余り0である。
 
 
[プレイヤが勝ちの組み合わせ]
x(コンピュータ) y(プレイヤ) 2−x+y mod(2−x+y,3)
0(グー) 2(パー) =4
=1
1(チョキ) 0(グー) =1 =1
2(パー) 1(チョキ) =1 =1
 ※ 4を3で割った余りは1である。
 ※ 1を3で割ろうとしても割り切れず、余りは1である。

 


 ちなみに即興で思いついた処理方法なので、もっと分かりやすい数式や関数を用いて、簡便に処理できる方法もあるかもしれない。
 プログラミングの世界に正解なんてないのだ。
 
<<<
 
 ゲームのほとんどにおいて、乱数は非常に重要な要素だ。
 それは運の要素を複雑な演算式やリソース管理の中に含むことで、予測可能な領域にゆらぎを含ませ、人間がどれほど経験を重ね、高度な予測ができるようになったところで「必ずそうなるとは限らない」という可能性を成立させる。
 
 ギャンブルに魅了される人間や、スポ根マンガに魅了される人間の似通った部分は、この「0ではない可能性に賭けて勝利を収めることができる」という展開に、全身全霊を震わせるほど興奮するからだろう。
 僕は前述の通りプログラマでありゲームデザイナであり逃避が得意な逃げ腰天才肌なので、まったく興奮しない。
 
 1%の勝率は、0%にほぼ等しいと考える人間である。
 かつて「大戦略Ⅱ(システムソフトのストラテジック・ウォーシミュレーションゲーム)」をPC8801でプレイしていた。
 ゲーム内で補給車は5%の確率で相手戦車(スコーピオンだったか)を撃破しうるのだけれど、それがどんなにひどい確率で、戦闘なのかを知っている。
 2%か1%で重戦車(M1のような)だったか戦闘機(F14など)を撃破しうるのだけれど、もう、惨憺たる有様である。何度繰り返そうともそれは変わらない。
 
 僕もゲームをデザインするとき、乱数の要素を必ず入れるようにしている。
 それは「0ではない可能性に賭けて勝利を収める」ことの喜びを、あるいは「ほぼ確実だった計画が綻び、それをリカバする」ことのスリルを、味わうためだ。
 現実世界でそれをするのは馬鹿げている。
 
 まして確率がゲームデザインの中核を為すようなゲームなど、どんなに優れたシステムや美麗なグラフィックや豪華声優陣を配していようとも、プログラムの入門編の延長線上にしかないようなゴミプログラムだとさえ思うのだ。
 確率を体験することがゲーム体験の中核を為しているだけならまだしも、その確率を思うさま体験するためには相当額の現金(それも紙幣だ)を積み重ねなければならないなんて、それが現実の逃避先であり、ひとときの心のオアシスであるはずのゲームがするべきことだろうか。してよいことなのだろうか。
 
 ために僕は、ガチャとその出力結果が主体に成り下がっている基本無料のゲームを忌み嫌う。
 ゲームとその文化、引いてはゲームプレイヤを貶めるものとして嫌悪しているし、それに夢中になる(貶められた)プレイヤをただのギャンブル中毒と同じダメ人間だと断ずる。
 札束で他者を蹂躙することについてIRLだけでは満足できないのだとしたら、それはそれでビョーキではないか。
(もっとも上記「ウマ娘」について、PvP(対人プレイ)の要素はさほど多くないと感じているが)
 
 0.X %の確率をお金で買わないと面白い体験ができないゲームは、ゲームではない。ゲームなどではない。賭博だ。
 たしかに賭博もゲームだろうけれど、ガチャゲーの価格設定は、ヴァーチャルな世界とキャラクタ(つまりはそのデータによる体験)を買うには、少々高すぎる気がする。
 あるいはそれ(ガチャゲー)以外のゲーム(およびそのデータによる体験)にこれまで我々が払っていた対価は、そこまで、そんなにも安いものだったのかとさえ思う。
 
 もっとも、我々消費者の一部(あるいは多く、なのかもしれない)は、あまりに中古売買でソフトを手に入れることに慣れすぎたのだろう。
 僕でさえ、遊ぶ金ほしさに遊ぶ金を惜しんで、中古ソフトを買ったことがある。
 ゲームとその文化を愛するものとして恥ずべきことだと思うので、今はしていないが、僕はどちらかというと貧乏な人間なのだ。
 
 そして、ガチャゲーによる現在の洗礼は「中古ソフトを手に入れることでメーカに何の利益ももたらさずコンテンツを食い潰した不届き者たち」に対する、メーカーの復讐なのかもしれない。
 
 ああ。ならば。それならば。
 我々は生贄(現金)を捧げて、怒りが収まるのを待つしかないのだろうか。
 しかし、生贄を捧げれば捧げるほどに、神というのは力を増してしまうのではないのか。
 
>>>
 
 フィクションやヴァーチャルやゲームは、確かに楽しいものだと思う。
 しかしその楽しさは、現実において現実離れした美味しい部分をフィーチャーできるからだ。
 リンコ(小早川凛子:「ラブプラス」の妹系暴力カノジョ)やライス(ライスシャワー:「ウマ娘」の怯え妹系キャラ)は、現実世界の我々の妹になることもないし、ましてカノジョになったりはしない。それは確率的にも、次元の壁的にもありえないのだ。
 だからこそ、我々はヴァーチャルをヴァーチャルとして、現実から逃避することを楽しみながら愛でるのではないか。
 
「ウマ娘」の場合であれば、トレーナの立場で、それぞれのウマ娘との競技生活を歩むことが(乱数要素がかなり多いけれど)楽しめる、それが良さであり、楽しみなのではある。
 そして(非常に渋い確率の)ガチャの排出についてはおよそ目をつむれば(とりあえず一度のプレイで育成できるのは育成ウマ娘ひとりだけなのだから)お気に入りの育成ウマ娘が一人か二人か三人くらいいれば、それでプレイできるのだろうとは思う。
 もちろんこのゲームでは(育成ウマ娘は最低一人いればいいというシステムもあって)サポートウマ娘はとにかく必要であり、先の引用にあったシロクマ氏も、サポートカードで(最低限必要なのではないか)とまことしやかに言われているカードが揃わず(自分は愛されていない)と折れてしまったように観察される。
 
 くじけないで、とは思わない。
 そもそもヴァーチャルなキャラクタたちは、僕らIRLの住人を愛さない。
 愛している演技をしたとしても、それはプログラムの出力に過ぎない。
 僕らはこの片思いをときに時間で、ときに札束で、表現することで自分を慰めるのかもしれない。
 
 僕自身は、すでにこのゲームに飽きていて、たまにプレイするけれど毎日はプレイしないしイベントもスルーすることがある。
 なぜって、育成するかレースするか(悪習たるガチャを回すか)それしかコンテンツはないのだから。
 
 もちろんキャラは魅力的だ。
 そのデータの表現力はスマートフォンのガチャゲーの割に圧倒的といってもいい。
 そう。ガチャゲーだからという理由で、僕は見くびっていて、だからその映像表現に驚いたのではある。
 しかしレースと育成とガチャのゲームでしかない。
 シナリオも優れているが、しかしガチャゲーである。
 
 モデルは優れているし、表現や演出も素晴らしいが、プレイ体験の幅は狭く、ゲーム体験はもっと狭い。
 キャラを愛でることがモチベーションなのに、そのキャラ(の排出率)が渋くて、そのシステムの渋さがときどき憎くなる。
 いかにモデルが、シナリオが、システムが、グラフィックが、音楽が、アテレコが、演出が優れていようとも、いやだからこそ、それがガチャゲーであるかぎりゲームとしてはクソゲーだと言わなくてはならない。
 我々は、そのコンテンツを、愛しながら憎まなくてはならない。
 いや、その憎しみは大事なものだ。
 
 我々は確かにゲーム業界を搾取した。あるいは今もしているかもしれない。
 しかし一部のゲームメーカが我々に対する復讐として、愛情の名の下にプレイヤを搾取していいわけでもないだろう。
 このあたりはバランスなのでむつかしい問題だ。しかしガチャゲーというのは、もっと直截的に問題だ。
 我々に融和の道はないのか。
 
「クリエイタ:(次元の壁):ヴァーチャルワールド:(次元の壁):プレイヤ」というレイヤを為す世界にあって、力関係は左から右へと一方通行である。
 逆方向がありえないから我々はヴァーチャルキャラクタを愛せない。仮に愛していてもそれが通じない。
 
 しかし実のところ「クリエイタ:プレイヤ」は同じ次元に存在しているのである。
 
>>>
 
 いつか。
 ゲームが再び、キャラクタがふたたび、プレイヤと手を繋いでともに歩んでくれる日常が戻るようにと願ってならない。
 
 何度でも繰り返すが、ガチャゲーは悪習である。
 それはプレイヤをヴァーチャルで惹きつけつつ捕食する類いの、共存共栄からは遠い存在なのだから。
 そして中古ゲーム売買もまた悪習である。
 目先のお金に目がくらんで、メーカにお金を払うことを怠った購買者たちが居たために、今のゲーマーはお金による復讐を受けているのだから。
 
>>>
 
 ついでだからどうでもいい余談を書いておこう。
 先日「トーセンジョーダン」という(いわゆるギャルっぽい性格付けの)育成キャラがリリースされたとき(キャラクタのモデルデータ量が豪華なので)欲しくなり、ガチャを20回ほど回した。(ちなみに僕は無課金である)
 トーセンジョーダンは出なかった。
 
 そして先頃、メジロドーベルという(お嬢様系正統派美少女の)育成キャラがリリースされたとき(僕は軽い相貌失認のわりに正統派美女/美少女キャラだけは比較的正しく認識できるようで)欲しくなり、ガチャを20回ほど回した。
(初めて少し課金した)
 もう育成キャラは当分要らない。そう結論した。
 メジロドーベルを(も)愛でるのだ今から私は。
 そんなわけで課金プレイヤとなった一瞬の後、たまにサポートキャラを引いて、週に数回遊ぶだけの無課金プレイヤに戻った。
 コンテンツは優秀なのに、そんなに熱烈に愛せるゲームでもないのだ。少なくとも僕には。
 
 それにしてもスズカさんのときもそうなのだが、僕はどういうわけか、お嬢様系にはモテるような気がするのだ。(すごい妄想力)
 やっぱりギャルはダメなのか。俺の魅力が通じないのか。
 IRLでも恋人はお嬢様系が多かった、という話についてはまた別の機会に。



 

 

 

 

 


// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::ソーシャルゲームにおいて、人間がゲームを遊戯するのでなくゲームが人間を遊戯し、人間がガチャを回すのでなくガチャが人間を回しているとは周知の事実ではある。ところがこのようにウマ娘プリティーダービーに恋慕してしまった結果、またしてもガチャにいいように回され、レースにいいように走らされてしまった。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭および文末の引用は、
 
from「シロクマの屑籠
 
によりました。
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]

 

 

 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Kidding-Link-Love-Mechanics-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Game-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  コントローラと五里霧中
 
 
//EOF
 
//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211119
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
放逐の羊。
SUBTITLE:
~ Anti matter bullet. ~
Written by 青猫β

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::私は日常を、平凡さを愛している。
 特別である必要を感じないし、特別でありたいとも思わない。
 
 日々が平穏無事に過ぎ去ってくれることが、どれほど喜ばしいかを忘れたくないし
 時折振り返って、それがどれほど奇跡的であるかを感謝せずにはいられない。
 
 
 

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//[Body]
 
 最近になって、自分の育った特殊な環境に気が付いた。本当にこの1年ほどのあいだである。
 もちろん家庭というのはそれぞれ個別の環境で、共通する点はあったとしても、まったく同じ環境などというものは存在しないだろう。
 それにしても、僕の育った家庭環境は、思うにかなり特殊だったような気がする。
 結果として、僕の人生が思いのほか特殊なものになったような気がしないでもないが、この人生が特殊だったのは、家庭環境がすべての根源だったとはさすがに言い過ぎだろうか。
 ただ少なくとも、僕がこういう人格(価値観の集合)を持つことになったのは、家庭環境の影響が非常に強かったのだと、考察される。
 
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【僕の子供の頃の家庭環境の概要】
 
 文章にしても面白いとは思うのだが、ざっくり箇条書きにしてしまおう。
 
○住居
 自宅 兼 工場 兼 事務所 兼 簡易倉庫。
 居住スペース(事務所や工場、倉庫など、会社機能を持つエリアを除いた場所)の部屋だけで思い出せる限り9部屋あった。浴室を含むと10。トイレを1F2F合わせると12にもなる。
 今棲んでいる場所が6部屋だから、考えるにえらく広い。
 
○家族構成
 父(会社経営)
 母(兼業主婦。事務やら工場作業もすることがあったように記憶している)
 姉(12歳/10歳/5歳 僕と年齢が離れている。計3人。個性はそれぞれにある)
 僕
 妹(2歳下。悪魔のような性格)
 犬(2〜1匹。時期によって若干異なる)
 猫(0〜7匹。ものすごく増えたり減ったりしていた)
 鳥(煙突というか、通気口というか、その穴から、百舌だとかスズメの雛が落ちてくることがあって、それを育てていることがあった)
 叔母(私が介護することになった叔母が、同居していた時期がある)
 祖母(父方の兄弟のところで叔母が介護していたのだが、諸般の事情で一緒に出てきたらしい)
 祖父(一緒に住んでいたことがあったと聞いたことがあるが、僕の生まれる前だったのか、まったく記憶にない)
 従業員(上記、父の会社に勤めている人たち。数名。僕の乳母役だった人もいたらしい。このあたり、記憶が曖昧である)
 
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 ここまで書いただけで疲れた。もうやめたい。
 歴史的な詳細は面倒なので省く。
(両親の馴れ初めなど、僕が生まれる以前の記憶の一切を僕は持たない)
 最終的に両親は離婚し、会社は倒産し、上記の環境は大きく変化したが今回の話題はそこにあまり関係しない。
 
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【僕の性格の特色と、それに環境がもたらした影響】
 
○競争を求めない。
 両親は、僕に対して競争に勝つことを求めなかった。
 姉妹間で勝手に競争すること(当事者本人が競争意識を持つこと)は当然あっただろうと思うが、僕だけは家族間で一切の競争から除外されて育った。
 姉妹と比較されることもなかったし、近所の、あるいは同じ学年の、あるいは同年代の一般的な傾向などとも比較されなかった。
 
 学校に通うようになってから(小学2年以降は母親がいなかった)成績の良し悪しは若干あったが、それが特に秀でていても格別褒められることはなかったし、周囲に劣っていても(小学校までは相対評価だったので体育などでは特に顕著だったが)格別、注意を受けたり伸ばすように促されたりはしなかった。
 このため一切の競争ごとに興味を持たず、価値を見出さなかった。
 
 競争というのは、労多くして功少ないもので、誰かが勝てば誰かが負けるという必然があり、トップだけが勝ちとするなら、かなりの敗者を生む仕組みだと感じていた。
 とにかく面倒だったし、今でも競争が好きな人や競争そのものを面倒だと思う。
 
 両親が離婚するまで(まぁ、したあとも、かな)父上は(主として仕事で)ほとんど家にいなかった。
 家は女性と動物が、とくに何を競うでもなく生活しており、僕はその中で、のんびりと暮らしていたのだと思う。
 結果、僕は競争を嫌い、他者に競争を求めることもない。
 競争とは、リソースの無駄を生むものだと認識している。
 企業間の入札や製品の開発競争であっても、競争によって生まれる無駄がある。
 勝者があるとき、敗者は無駄な存在なのだ。
 
 
○無責任でもOK。
 すごいことを書いているが、本当にそうだったと思う。
 学校の宿題をまったくしなかった。もちろん父子家庭という事情は学校の先生も承知しているのである程度までは目をつむってもらえたと思うが、父はまったくそのことについて僕に注意をしなかった。
 しかしそれを徹底的に嫌う先生も当然ながらいて(当たり前だ)、僕はよく叱られたり廊下に立たされたり、教室の後ろの床に正座をさせられたりしていた。
 もっとも3歳の頃から正座を躾けられていたので、正座で苦痛を感じることはまったくなく、居眠りをして起こされた。
 
 今になって思うと、これはさすがに悪影響が大きかったように思う。
 僕はかなり無責任な人間になってしまって、与えられた課題をきちんとクリアするという責任感や目標達成意識を構築するのにずいぶん苦労した。
 まぁ、子供の頃に散々ラクをしたツケが回ったのだ。
 
 
○「男らしさ」の概念が希薄。
 父親も母親も、僕に「男らしさ」を押しつけなかった。
(主に妹に泣かされて)泣いていれば「どうしたのか」と訊ねて、理知的に喧嘩を解決した。
「男なんだから」「お兄ちゃんなんだから」といったことは一度も言われなかった。
 姉はときどき「女なんだから」「お姉ちゃんなんだから」と言われていたかもしれないが、数えるほども見ていない。
 結果、僕は自分が女なのだと小学生になるまで思っていた。
(「いつか自分もおっぱい大きくなるんだなぁ」とか本気で思っていた)
 妹に至っては悪魔なので、両親も手に負えなかったのではないかという気がしないでもない。
 
 学校では僕の性差はさほど問題視されなかった。
 10歳頃までろくに男友達はできなかったが、それは僕の性差によるものというよりは、転校生なのに学校帰りに拾った猫を、翌日から教室に持ち込んで育てたり、まったく宿題をしないのにテストは高得点で、授業では挙手して正しい回答をするという奇行が目立ったためだろう。
 当然いじめられたりもしたのだが、猫は世界でも最強に匹敵するイキモノなので、猫の友達になりたい気持ちが勝る結果、僕の敵になろうとする人間は少なかった気がする。
 
 実に「男らしくなさい」と言われたのは社会人になってからだったし、そのときはとても驚いた。
 職場にいた、母親であってもおかしくない年齢の先輩に言われたのだが、まぁその人はそういう(男は男らしく、という)世代であることには違いないし、僕は30代までは同性愛者に間違われることもあったので、さほど気にしなかったし今も気にしていない。
 
 正直なところ、自他共に性(ジェンダー)なんてどうでもいい、性別は性交に必要な肉体準拠の識別子に過ぎない、と考えるのはこうした環境の影響も強いのだと思った。
 ちなみに僕の姉妹は、僕より男っぽい人もいる。
 
 しかし僕は姉妹だろうと、恋人だろうと、女らしくとか、恋人らしく、といった役割をとくに求めない。
 その役割はすでに自己処理ができている。
 母親らしさを誰かに求める必要もなかった。
 自分にないもの、必要なものを、可能な限り自力で埋めるのは、僕には必然のことだった。
 
 
 
○動物が多い。
 上記のとおり、落ちてきた野鳥の雛を家族で育てたり、誰かが蚕を大量にもらってきたり(あれが大量に箱の中で蠢く姿は衝撃的である)、庭で拾ったトカゲだかヤモリだかを虫かごで誰ともなく育てたりしていた。
 後年のことを考えても、父上は人間以外の生き物にも優しく、また好ましく思っているようだった。母上のことはよく分からない。
 これらは僕が動物を好きになるきっかけだったと思う。
 
 なにより僕は4歳の頃、動物に強く激しく魅入られた。特に猫だ。
 愛らしい貌、力強くしなやかな造形、艶めかしい毛並み。
 性欲と呼べるものも存在しないのに僕は、ひどく官能的に動物に魅入られていて、将来、人間と恋愛をしたり家庭を作ったりすることはできないのではないかと自ら危惧したほどである。
 おそらくこの段階で僕は「どうして自分は猫ではないのか」という初歩的な疑問に突き当たったのだと思う。記憶にないけれど。
 
 何故といって普通、猫を知らない人間が、自分のことを猫だと思ったりはしないからだ。
 異性を知らない人間が「自分はこっちの性別ではない」なんて言い出したりはしないのと同じように。
 
 もちろん種族違和と性別違和を同列に語るのはどうかと思うし、僕の種族違和は僕の性別違和と同じくらい僕にとってはどうでもいいことなので、なんともいえない。
 ちなみに今までのところ人間と恋愛することはあったが、人間と家庭を作ることはなかった。
 また猫と恋愛することはなかったが、猫と暮らしていると気持ちが落ち着くのは変わらない。
 
 他人を信じられないと感じる出来事も、自分を信じられなくなる出来事も、何度となくあったが、動物はそれを救ってくれる。
 
 
 
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 これらの少々風変わりかもしれない環境によって、僕は衆に秀でた能力を発揮せずとも(特に賞賛はされなくとも)非難されず、協調性を持たなくても共存していられるという、とても平和的な日常の中にあった。
 
 通気口から落ちて畳を汚したヒナ鳥は、叱られることも捨てられることもなく育てられた。
 家族はよく捨てられた猫を拾い、知人から子犬を貰い受けた。
 個々人間にそれぞれ何らかの軋轢はあったのだろうけれど、僕はまるで羊のように、牧歌的な存在であり続けた。
 誰かを攻撃する理由も目的も持たなかったし、誰かより優れる指命もなかった。
 何かを守る必要も価値も知らなかったし、何者かの謀略や略奪、背信や欺瞞の存在を知らなかった。
 
 後年にも通じて、僕は生きているだけで家族から大切にされた(おそらく今もそうだ)。
 理由は分からない。
 
 おそらく僕は、姉妹を相手に、父を相手に、何かを競うことで自身を証明しようとしなかった。
(母は競争の相手にはなりようもなかった)
 おそらく僕は友人にもそれをしなかった。教師に競争を命じられたところで自身の能力を発露することはあっても、それを他者に誇示することで自身の証明とはしなかった。
 おそらくこれまでの人生にただ一度として、それをしなかっただろう。
 
 そして僕は、父を相手に、姉妹を相手に、その役割を強要しなかった。
 他者に対して「こうあれかし」なんて理想を持たず、それを押しつけることもなかった。
(母に対しては、言葉にしたことこそないが、おそらくそれを求めていたとは思う。不在になったから余計に)
 
 ── なぜならそれらを、僕は誰からも押しつけられたことがなかったからだ。求められなかったからだ。
 証明する必要もなく認められ、達成する必要もなく大切にされていたのだ。
 
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 上記の環境は、僕が6〜7歳のときにドラスティックに変化し、その変化によっても僕は(もちろん僕以外の家族も)それ以降、大きな影響を受けることになった。
 
 僕の根底を変える手段など存在しなかっただろう。
 僕はすでに他人の存在する環境において、個々人間の競争による証明の必要を感じず、何かの目標を押しつけあうコミュニケーションの有り様に意味を見出さなかった。
 だから僕の根底を変える手段は、存在しないだろう。
 
>>>
 
 資本主義は無情だ。
 競争を必然とし、競争を原理とし、競争を美化する。
 
 勝者は賞賛されその価値を燦然と刻み込むが、しかし敗者はどうなる。
 暗闇でぐつぐつと煮詰りくすぶるだけではないのか。
(生活保護さえ、今の社会には無駄で不要だと断ずる思想が存在する。自己責任と自助努力の名の下に死ねということだろう。)
 
 どうして他者に対して自身のありようを、今持つ熱情を、証明する必要があるだろう。
 どうして証明して勝利しなければ、存在を認められず価値を見出されないのだろう。
 
 その手法、概念、演算式、原理に、なぜ誰も疑問を持たないのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::「自分に価値があるか自信がない」なんて、いい大人になったら口にするべきではないだろう。
 自分が、持てるすべてを削って、時に痛めつけられて、そうやって傷跡のようにカラダに刻み込まれたものが、時に価値となる。
 
 いわば宝石のようなもので、その価値は外部からしか観察できないかもしれない。
 
 けれども自分以外の人がどう感じるかをきちんと知っていることが優しさであるとするならば、
 優しい人はすべて、自分の価値をきちんと知っているものである。
 そしてその価値は、謙遜するでも誇示するでもなく、そこにある小さな光としてきちんと認められるべきものだろう。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
引用は、
残り続けるカタチ 〜 Remainable Exist 〜」From「青猫工場 〜 Bluecat Engineering 〜」
によりました。
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  :Algorithm:Blood:Convergence:Darkness:Ecology:Form:Life:Link:Mechanics:Memory:Recollect:Style:
 
[Module]
  :Condencer:Connector:Convertor:Generator:JunctionBox:Reactor:Resistor:
 
[Object]
  :Cat:Human:Memory:
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:青猫のひとりごと:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211118
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
共感至上主義なんてクソくらえ。
SUBTITLE:
~ True Individualism. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::結果として、人間は過剰に個人を見るようになったといえる。
 ヴァーチャルが個々人のアタマの中に投影されてヴァーチャルでなくなるとき、実のところそれはリアルを超えてしまう。
 とくにヴァーチャル慣れしていない人ほど、ヴァーチャルを脳内投影した結果、暴走しがちだろうと思われる。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 最近の大学生にとって、政治と恋愛(自分と話し相手が恋愛感情を抱いている相手について、など)の話はタブーとされている。という話を先日、知り合いの現役大学教授から聞いた。
 実際にそのセンセーと同席していた知人(接客業をしている)の観察範囲において、これらは事実であり、特に男子学生に顕著だそうだ。
 またその他の観察される傾向から察するに、彼らはとにかく傷つくことを恐れているらしい。
 
「傷つく」の定義はともかく、彼らは集団における不調和の因子たることを恐れ、また集団の中で不調和の因子を生むことを恐れているのだろうと推測される。
 それなら一人で行動すればよいのではないかと、私のような短絡なイキモノは思ってしまうのだが、彼ら彼女たちは、まず一人では行動しないらしい。
 
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【実体を持たない人間関係】
 
 恋愛の話はともかくとして、同程度の知性水準を持つとされる集団に属している友人がいるにも関わらず、政治や学術の疑問について議論を避けるというのはいったいどういうことかと首をひねってしまった(スティーブンセガールに倒される、悪の組織のドア警備員レベルに)。
 
 想像するに、彼ら(彼女たち)にとって、一人で行動することは、すなわちある種の機能や能力の欠如を意味するのだろう。
「共感と共生の時代」とまことしやかに言われる昨今にあって、たしかに暗黙裡に作用している集団の趣味嗜好が存在するように観察される。
 ありとあらゆるSNSにおいて、見ず知らずの人であっても形成される集団意識は、当然に平等を愛し、不義を嫌う。
 
 だからIRLで仮に不倫をしている友人がいても「友人>不倫をしている人」といった具合に、友情の価値のほうが重く大きくない限り、その行為を糾弾するのが人間である。
 しかし不倫という他人の悪業よりも、実体を持つ友人が、こちらのことも友人として認識しているという価値は、より自身にとって大きな意味があると考えるのが必然だろう(もちろん自身が「不倫をされている配偶者」であれば、また意味合いが変わるのかもしれないが、今回は不倫がメインテーマではないので、その位置関係による力学について掘り下げない)。
 もしそうでないなら、それはそもそも友人などではないということだ。
 
 しかしヴァーチャルな人間関係において、そもそも友人でも知人でも何でもない人たちがあまりにも視界を横切る。
 webに限らず、あらゆるメディアではそうした「有名人」が経済活動をしていたわけだし、彼ら(彼女たち)は「近づきがたいほどの圧倒的な個性」よりも「親しみやすくて欲を投影しやすい存在」として自らのキャラクタをプロデュースしマーケティングしてきたはずだ(後者の方が、コストが安く、リターンが大きく、訓練次第で誰にでもできるので)。
 SNSでまことしやかなプライベートを垂れ流す「有名人」も少なからずいる。
 クリエイターがクリエイションをリアルタイムで配信(イラストレータなどに多いか)したりする風景も珍しくなくなった(これについても私見はあるが、余談なので捨て置く)。
 ファンにとっては垂涎のサービスだろう。
 また「有名人」にとっては、ファンの心理(欲求)の中に存在する自分の専有面積を広げる意味でも有用な、低コストで高いリターンを見込める宣伝活動である。
 
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【「好き」と交換されるもの】
 
 何かを好きになるということは決して悪いことではないと僕は思う。
 きっと多くの人がそう思っているはずだ。
 しかし何かを好きになるということは、自分の心や価値観や欲求の空白が占有されるということでもある。
 もちろん心の空白面積が東京ドーム512個分もある僕のような心の空白富豪でなくても、その空白を埋めることはさぞ気持ちのよいことだろうと想像できる(大量の造語については、なんとなく理解してください)。
 しかしコンピュータのメモリやストレージ同様、空きのない領域は全体のパフォーマンスを低下させる。
 時間も、お金も、欲求も、価値観さえもその「大好きなヴァーチャル」に侵食され「本来の自分」「本来あるべき自分」「本来ありたいはずの自分」というものが削られ風化するのだ(「合い挽き肉のハンバーグ デミグラスソース」が「森の気まぐれ木こり風」といった感じになる、ということではない)。
 
 そもそも、ヴァーチャルな人間関係には根っこがない。
 IRLでお互いをよりよく知っている親しい関係ではないから、ヴァーチャルな理想を投影し、押しつけていることになる。
 もちろんファンはそれに気付かない。それを気付かせないのが「親しみのある有名人」というスクリーン戦略なのだ。
 かつての有名人たちは、己のキャラクタをファンというスクリーンに投影していた。
 ファンは心のスクリーンに映る有名人たちに憧れ、しかしそのスクリーンに触れることを忌避した。スクリーンに触れてもそれは平面で、それが揺れ動けば像は歪むからだ。
 今は逆である。
 有名人は、ファンのスクリーンに成り果てた。
 ファンは複雑怪奇な欲をそのスクリーンに投影して「キャー素敵」と推し活を楽しんでいる。
 時間もお金も価値観さえも明け渡しているのだから、欲を投影して悪いはずもない。それらは有名人とファンが実際に交換しているものなのだ。経済を媒介にして。
 
 これと同様のことが、ありとあらゆる作品に当てはまった。
 あらゆるクリエイタも、作品も、閲覧者のスクリーンに何かを投影するのではなく、閲覧者の欲を投影するスクリーンに成り果てたのだ。
 結果として、クリエイタや作品は「対価を受け取っている」という理由によって、ファンの欲の捌け口として慰みものにされる運命を負わされ、ファンの(欲求の)思い通りでなければ「金を払っている」という理由で糾弾される。
 
 煙草やお酒、セックスやドラッグ、法規に抵触する行為、公序良俗に反する言動 ── 。
「フィクションだから」許されていたものでさえ「フィクションだから」許されなくなった。
 もちろん、フィクションにさえそれを許さないという強固にして潔癖なる正義の支配は、ノンフィクションつまりはIRLたる現実世界にもなべて等しく投影される。
 
「共感の世界」が生み出している潔癖とは、すなわちそういう副作用を持っている。
 きっといいこともたくさんあるのだろう。
 僕はその世界が嫌で逃げ回っているからなんともいえないが。
 
 ブログはweb上に容赦なく公開しているものの、それでもIRLで見知っている人には特別扱いをしてしまうのが僕である。
 web上だけで知ったつもりになるな。俺はそもそも猫だということを忘れるな、と僕は思っている。
 どうせおまーら人のことを人間か何かと勘違いしてるんだろコノヤロー、という気持ちである。
 
 まぁとにかく。
「共感の世界」の大前提は、一人で、孤立した価値観を持たないこと、だと誤解されているのだろう。
 現に、通り魔的な犯罪を犯す人などを観察するに、到底理解しがたい「その人だけが持っていそう」な価値観に基づいて行動しているように思いがちだ。
 
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【通り魔的な価値観】
 
 しかしどうだろう。
 余談になるが、僕は一度といわず、そうした「誰でもいいから殺したい」とか「幸せそうにしている他人が憎い」という感情を持ったことが、実はある。
 
 その当時、僕は一人暮らしをしていて、肩の骨が折れたために車を運転することができず、ために仕事もできず、お金がなくてガスや電気どころか水道が止まることもあった。
 当然にアパートの家賃も払えなかったのだが、管理会社に骨折して仕事ができないことを説明したところ「そうですか気の毒ですがお金を用意してください用意できないならお金を払って出ていってください」と言われるだけだった。
 ありとあらゆる支払いができなかったが、お金を借りる相手もいなかった。
 だからといって仕事としてお金を貸している組織を頼るつもりもなかった。返せるはずがないからだ。
 友人にも親にも、僕は頼るということを知らなかった。
 僕はそれをしたことがなかったし、したいとも思わなかった。
 ただただ毎日、不安し、恐怖していた。空腹を感じる余地もなかった。
 誰かに窮状を説明することを恐れた。「そうですかお気の毒ですね」と言われて放置されるのだ。
 恥を忍んで現状を説明して、哀れみのお言葉を頂いて、放置されるのだ。あるいはそのうえ何かを請求されるのだ。
 だから毛布にくるまって震えて眠った。涙なんて出なかった。
 恋人は当時いなかったが、いたところでその窮状を説明する気にはならなかっただろう。僕はそういう性格だ。
(11/19追記。
 記憶を辿ったら、この当時、そういえば恋人がいた。しかし僕は彼女に何も説明せず、頼るようなことを避けていた。)

 お金を借りても返せないと思った(そういう状況だった)し、親しい間柄でお金の貸し借りをするのは関係が壊れることだと無意識に(しかし経験則から)思っていたので、借りたくなかった。
 たぶん寄付なら受け付けたが、寄付をお願いするのはヒトとしてどうかと思って黙っていただろう。
 夜が恐ろしかったが、日中も恐ろしかった。
 誰かが来ること、会うこと、話すことが恐怖だったし、電話やメールも、その着信音にさえ怯えた。留守番電話やメッセージを確認するのに、ひどく気力を要したので、ひたすら通知が溜まっていった。
 
 誰も、僕の窮状を理解はしないと思った。
 みな表向き「そうですかお気の毒ですね」と同情を示してくれるだろう。
 頼めば(あるいは頼まれなくても)お金を貸してくれる人はいるかもしれない。いたかもしれない。
 しかしそれはその人との関係を最終的に壊すものであり、暗黙のうちに「返済をしない人間だ」というレッテルを貼られて、関係を断ち切られることになるだろう。
 
 ── 実家暮らしの頃、友人の友人にお金を貸して、少なくとも僕自身がそう感じたから、その価値観は強固だった。あれ以来、僕は友人にはお金を貸さなくなった。あげるか、断るかである。人間関係を維持するためにはそれしかないと結論したのだ。
 
 あのとき、アパートの外に走る車の音や、人々の楽しそうに笑う声を聞いて、あるいは小銭を握りしめて(という表現は大袈裟だが)スーパーに買い物に出かけて、ふと思ったのだ。
「ならばどいつもこいつも偽善の仮面を被った守銭奴ではないか。自分がそうしたように、金のためなら人間関係をも質草に流すようなケダモノじゃないか。どうしてこいつらは親もいて家族もいて友人や恋人もいて仕事もしていて健康でこんなに当たり前に恵まれてますみたいな顔をして道路を往来したり買い物をしているんだ」と、明確に、不特定多数に対する強烈な殺意を覚えたのだ。
 母親に手を引かれる子供を見てすら憎悪した。
 子供が泣きついて甘えている姿を見て、憎しみやら(憎悪が発生したことに対する)驚きやら(憎しみを感じる自分の心のメカニズムに対する)悲しみやらが心の中で渦巻いて、気絶するかと思ったほどだ。
 
 それは歪んだ怒りで、歪んだ憎悪だった。
 でもそれは確かに僕のものだった。
 幸いにして僕が無差別殺人に走らなかったのは、右肩を骨折して自由が利かなかったことと、いつでも複数の価値観が並列して動作している(つまりは理性が外れない)という理由によるものだろう。
 身体が自由で、人格や価値観が単一なら、僕はあっさりあのとき自暴自棄になったと思う。感情にまかせて他人を殺めただろうと思う。
 とはいえ身体が自由なら、仕事をして、収入もあったと思うのでこの前提は結果的に果たされないのだが。
 
 ただ「ああ、こういう気持ちなんだな」ということはよく分かった。
 
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 同情するには値しないし、共感するには危険な類いの感覚である。
 だから一般に、そうした「通り魔的な犯罪者」の気持ちなんて理解されるべきではない。
 少なくとも僕については、共感や同情をしないでほしい(僕はそれを恐怖し嫌悪している)。
 ただ僕は、そういう人たちの痛みや苦しみが ── 個々に異なることは承知の上で ── ちょっと分かるような気がする。
 経験上、その「幸せな他者」に対する憎しみが分からないではないのだ。それを抱える悲しみも。それらの歪みを自分に認める恐怖も。(もちろん今はそんなものは持っていない。だからこそこうして書くことができるのだが)
 
 そして何より、そういう「気持ち」が芽生えないような社会であってほしいとは思う。
 社会とはそういう装置であるべきなのではないだろうか。
 つまりそれが、社会や、あるいは政治や、あるいは実在世界における人間の精神や教養のありように対して僕が興味関心を持つ理由でもある。
 
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【共感という毒と密度】
 
 共感できるもの、共感できること、そういうものは確かに素晴らしいから、それが多ければ多いほど、その領域が広ければ広いほど、素晴らしいのだと勘違いされているように思えてならない。
 しかし上述の通り、共感できない方が自然で、よいことだってたくさんある。
 
 そもそも共感ができないことが普通で、その方が多いからこそ、共感できることが特別で、素晴らしいと思えるのではないのか。
 だとすれば、共感できる物事はそれが少なければ少ないほど、その領域が狭ければ狭いほど、その素晴らしさが相対的に価値を高めるはずだし、その価値を等しく高いまま、より広い領域で共感を得ることはおそらく不可能だろう。
 そう考えた場合、共感至上主義的な価値観や思想は、ある種の矛盾を抱えたままそれに気付かず破綻すると考えられる。
 
 これらはやはり個人主義的な価値観が蔓延した結果に導かれた状況だと思える。
 ありとあらゆる物事が、個人主義的に分断され、家族も分断され、友人関係でさえ分断されているのだ。
 それはつまり個々人が孤独を感じるような価値観を植え付けられて、それでも現実世界の人間関係には辟易して、あるいは過剰にヴァーチャルな欲を投影して、結果的に共感を現実世界で体現することができないということだ。
 
 だから安易に他人の価値観が羅列されているwebやSNSで、共感に値する情報を求めてしまう。
 求めよ、さすれば与えられん。
 じつに手軽にそれらは転がっているだろう。
 要は、自分が思っていることと同じようなことを言っている誰かの発言が欲しいだけだ。
 そこでSNSのように、相互性が発生するプラットフォームであれば、相手も自分と同じような発言を欲していれば、お手軽な共感ができあがる。
 お手軽であっても、共感は孤独の専有面積を埋めてくれるだろう。
 
 孤独とはすなわち、空白のことだ。誰にも譲らない、明け渡さない領域のことだ。
 実体を持つ人間との間に共感というバイパスを作って、それで孤独を埋めるのはとても骨の折れる作業だ。
 ただ孤独の冷え冷えとした空白に怯え、それを埋めればよいだけならば、なるほどヴァーチャルな人間関係に作られた手軽な共感だけでいい。
 
 そうなれば誰かと価値観の衝突をするなんて労力の無駄であり、また集団において忌避される個体と見なされることを予測して「無難な人格」を仮想で構築するのも必然だろう。
 政治について熱く議論するなんてもってのほか。
 気になる女の子のことを「ここが可愛い」なんて褒めてしまって、恋慕している対象が友人と重複する事故の発生なんて論外。
 なるほどそういうことかもしれない。
 メディアを通してヴァーチャルなキャラクタに恋慕し、経済を媒介にすることで決して裏切られるはずのない「推し活」をし、大人になって自分の将来に不安を感じて婚活でもするのだろう、多分。
(これらは国家的に、非常に由々しき事態ではあるが、今の社会はそれでも構わない様子である。結果、日本は滅びる)
 
 いずれにしても今回の主体たる「群馬県前橋市近辺で観察される大学生(特に男子)」はその多くが「共感という幻想に支配された仮想人格」を形成しており、その上、そのベースにあるべき「実体を持った自身本来の人格」が著しく侵食されている可能性も否定できない。
 
>>>
 
【共感とは何なのか】
 
 自身の持つ価値観が誰かの持つそれと似通っている(あるいは同一である)と相互に(あるいは一方的に)認識できたとき、人は「共感」を得るようだ。
 
○共感は、孤独を埋める。
 
○孤独は価値観の中にメタ情報として書き込まれている。
 この価値観は「共感者」がいる/いない、といった具合に。
 
○共感者のない価値観は、集団の中で無価値、あるいは危険な要素として認識されていることがある。
 いじめのメカニズムにも通じるものがある。
 
○ために孤独は避けるべき要素であり、共感すること/しあうことが、集団において優位性を持つメタ情報の書き込み行為として一定の地位を持つ。
 SNSによるリスペクトも、される側を優位にするのと同様、する側の優位性を高めるのだろう。
 これは「私は誰々の知り合いです」と周囲に言うことで、一定の優位性を発揮する場があるのと同じ原理である。
 ヴァーチャルではないリアルな人間関係でも古くから動作しているメカニズムで、個人的には悪習だと思っている。
 
○「共感」は集団には有益であるため優位性を持つが、ときに個を殲滅する。
 これもいじめに根底が通じている。
 メカニズムがいい加減に運用される危険性があるので、僕は「共感」というメカニズムを本能的に忌避するようにしている。
 もちろん、誰かに共感することはあるし誰かに共感されることもあるが、それは僕の(あるいは相手の)持つ価値観をより優位にするわけではないと思っているから、共感できない価値観があったとしてそれを劣位だと思ったりはしない。
 
○個人主義のなれの果てに「共感」は神格化されている。
 みんながみんな同じように感じて、同じ正義を信じるなんて、僕は信じられないしキモチワルイと感じる。
 
○「共感」を集団が強要するとき、果たしてどうなるのか。
 冒頭の知り合いたちが言っていたのは、これが政府やメディアが誘導した民衆支配の一形態ではないか、というものだった。
 たしかに本来の個性たる主体人格を、集団の共感を優先するような仮想人格によって侵食されて育った世代は、集団の動きに合わせないことを本能的に恐怖するだろう。
 その意味において、もし本当にそれを計算づくで導いたのだとすれば、それを提唱し実現してきた人や組織は大した実力を持っていると評価できる。
 世が乱れているのは、その過渡期だからだという判断も可能だ。
 
 ただしそれは、その善悪を問わない場合において、である。
 
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【急に父性の話】
 
 個人主義の導入によって、日本に父性という概念は消失したように観察される。
 不惑を過ぎた男どもは、軒並み「おっさん」という(旧来は蔑称だったはずのそれ)によって呼称され、あるいは自称し、父性を持ち、それを発揮することで賞賛されるような場面はおよそ観察されなくなった。
 家庭の主婦ども(あえて軽蔑的に表記している)が、配偶者に求めているのは「より優れた父の姿」ではなく「便利な道具」としてのそれである。
 そこで男たちは家事をすることを求められ、子育てを担うことを求められ、家計の主体であることも求められ、見目麗しく、なおかつ配偶者たる女がいかなる状態にあっても褒め称え、最良の「女」として評価することを絶対とさせられている。
 
 なぜといって、女も男も、母親の配偶者たる中年男性を知ってはいても「父性」を知らないからだろう。
 そして上記の女目線に都合のよい道具をして「父親」を見た子供たちが、そういうオトコを再生産してゆく。
 
 女というのは基本的に、家庭のような極めて狭い範囲での損得勘定に優れている一方、大局的なことや抽象的なことを取り扱うことが苦手な脳構造を持っている。
(もっとも人間の心理的機微については優位性を持っているので、一概に政治や社会貢献に役に立たない傾向があると言いたいわけではない)
 
 しかしそもそもオトコたちが父性を失うとき、集団は結束を失う。
 庇護と安心をなくせば、社会は疑心暗鬼なくして成り立たなくなる。
 個人主義は加速し、人はバックボーンのない不安から集団を拠りどころとし、個人主義的であるにもかかわらず、全体としては結果的に社会主義として機能する。
 しかし表向きは資本主義だから、その道理に基づけば、経済的弱者は敗者として見捨てられ、愚者は禽獣にも等しい扱いから脱却できない。愚者を愚者でなくするのは、誇りと学びである。
 
 なるほど支配者層に有益な潜在的社会主義国家を形成するにあたって、これほど理に適った誘導はないようにさえ思える。
 それも経済という力をうまく利用して価値観の流れを形成しているという点においては、完璧ともいえるだろう。
 経済や社会的影響力を持っているオトコであっても、父性を知らず、女たちの道具であることが必然とされた社会にあっては、人という人のすべてが、経済によって支配できる道具に過ぎなくなるからだ。
 男も女も金で買える社会は、まして安い金で買えるならば、経済的支配者層にとってまさに理想的な奴隷制度の国家である。表向きの名称は何であれ。
 とりあえず選挙さえしていれば民主国家の体裁は保てるのだから。
 そうでしょう? みんなこの国が民主国家でないなんて、疑っていないでしょう? 選挙制度があるのだから。
「なに政治家が悪い? お気の毒ですね。あなた方が選んだ代表者です。とりあえずお金を払ってください払えないなら死になさい」
 
 しかし疑問も残る。
 もし仮に、優れた頭脳が誘導した社会的価値観がもたらしたのが「これ」ならば、その先をどう予測しているのか、ということだ。
 少なくとも僕の考えられる範囲では、奴隷が次々死ぬのが次のフェイズである。
 現に高齢化社会のなかで、若者のほとんどは将来に希望など見ていないし、楽観もしていない。
 高齢者はどうやっても基本的に死んでゆく。
 上記の仮定された支配者層が(政治家や国家がそれであるかどうかも分からないが)望むものは、何よりもまず国家の存続ではないのか。繁栄ではないのか。
 
 奴隷が潤うことに支配者層が嫉妬するだろうか。そんなはずはないと思うのだ。
 奴隷が潤えば、支配者層は一層潤う。
 もちろんバブル経済のような冷や水を浴びることはあったにせよ、国家という家庭の家族が幸せになることに嫉妬し、不幸になることをはたしてマトモな支配者層が望むとは思えないのだ。
 
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【国家陰謀論なの?】
 
 よってここから導き出せるのは、
 
○そもそも国家(あるいはそれ以上の支配者層があったとしたらそれ)による意図的な価値観誘導など存在しない。
 
○仮に価値観誘導があった場合、非常に優れた奴隷を生み出すことには成功しているかもしれないが、民主国家あるいは資本主義国家としての弱体化を招いていることは明白である。
 
○ために目先のことに気を取られて、最終的に自滅する演算結果であるように観察されるのだから、意図的な支配者層は自らの首を絞めて自滅する。
 
○あるいはもっとすごい計画があるのか(←陰謀論者めw)。
 
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【経済の持つ機能に踊らされているのではないのか】
 
 個人的には、経済という「人間が生み出した概念的なモノ」がもつ性質、メカニズムなのだと思う。
 経済(つまりお金)も、相当にヴァーチャルな存在なのに、人間はあたかもそれが現実で、ときに命に等しいモノとして扱ってきた。
 結果、生きるためにお金は絶対に必要なものとして認識している人が多い(僕はそうでもないが)。
 
 経済という価値観が人々の価値観に浸潤し浸食した結果、人間はその「人間至上主義」だった価値観を崩壊させたのだろう。
 もちろん表向きはみな「人間至上主義」の貌をしているが、お金を持っていない人間は人間として扱わないからそんなカオをしていられるだけだ。
 
 金がない=仕事をしていない=大人ならクズ。
 金がある=素晴らしい能力を持った、社会的に優れた人間に違いない。
 そんな価値観を持ってはいないだろうか。
「ケガをして、お金が払えないんです」「気の毒ですが自分でなんとかしろお金を用意できないなら死ね」という社会ではないのだろうか。
 
 実際、意図的な犯罪を犯す人の多くは「ラクして大量のお金を手に入れたくて」法を犯す。
 お金にそれだけの力があるのだけれど、その力をお金に見出し、与えているのは社会そのものであり、人間のそのものではないだろうか。
 
 お金は人間に信頼され過ぎた。もはやカミサマみたいではないか。
 それを人がポケットに入れている。カミサマ in the ポケットである。
 そりゃ相対的に人間の値打ちが下がるわけである。
 人間というのは等しく人間であるから、他人の価値も自分の価値もお金によって等しく下がる。
 友達になりたそうにしている人間と、1億円が並んでいて、どちらか選んでいいと言われたら1億円を選ぶだろう。僕ならそうする。いや、100円だってそうするかもしれない。
 なぜといって、人間はお金に換えられないほどの損害をもたらしたりすることもあるからだ。
 
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 今のところ人間が接しているヴァーチャルな存在、あるいはヴァーチャル/リアルの境界面のうち、もっとも力を持っているのが経済である。
 
 共感についても同様、それはヴァーチャルで、単純に自己満足の感情でしかないともいえる。
 共感が何を生み出すかといって、たいしたことはしない。
 ただメディアで共感を集めれば、大勢の人間を動かすことができるから、個々人から小銭を集めればそれが大金になる。
 共感の社会だなんて綺麗事みたいなセリフは大嫌いだが、つまりその「共感の社会」もまた、経済の価値観によって狂わされた誰かに、いいように使われているのだろう。
 
 共感よりは、怒りや憎しみの方が、はるかに有用で何かを生み出すだろう。
 僕は冬は好きだけれど寒さが嫌いだし、暑さがとにかく嫌いなので、空調についていつも考えている。
 まぁ「いつも」というのは言い過ぎだ。
 そんなにいつもは考えていないかな。ガールとぱやぱやすることを考えている方がシアワセかな。
 ためにエネルギー効率がよく、結果的に環境性能も高く、さらには経済効率も高い熱交換システムについて考えていた(過去形。経済効率をもっと高めるヒラメキが欲しいところだ)。
 
 怒りや憎しみや悲しみは、孤独だ。
 誰かのそれに共感することはあっても、共感してもらうことはできないものだ。
 共感なんかされてはいけないし、させてはいけない。させるわけにはいかないものだ。
 
 では孤独に対する共感はどうかといえば、これもまた推奨されるものではない。
 孤独は大きな力になるものだ。その人固有の、力の糧だ。
 それに共感することは、少なくともその孤独に共感を表明してしまうことは、その人の孤独の芽を摘むことだ。だから電信柱の陰からそっと、熱い視線を送るしかない。バレたらストーカー扱いされるけれど、逮捕されてでも見守り続けるしかない(それはどうなのか)。
 
 共感は、ひとつ間違えば単なる馴れ合いになる。
 馴れ合いけっこう、馴れ合いの何が悪いのか、とも思う。
 同調圧力大いにけっこう、そんなものを蹴散らかすだけの孤独を秘めることができるなら、それこそ先に述べたその人ならではの力になるだろう。
 だから、共感そのものを否定するつもりもない。
 共感は素晴らしいといってもいいだろう。そのメカニズムをして経済や集団に悪用されなければ、なおさらいいと思う。
 
 ただ、共感と引き換えに孤独の魂を明け渡すことを、少なくとも僕ならしない。
 
 イマドキの若者たちが共感のためのヴァーチャルな価値観を主体とした仮想人格によって構成されているとするならば、彼らは仮想人格を使いこなす資質を育てていることになる。
 どうか正しく、本来の人格を陰に日向に育てて欲しいと思う。
 それによっていずれ、正しく「父性」と呼ばれるべき人間の資質が目覚めることもあるだろう。再生することもあるだろう。
 あるいは性差を持たない新しい言葉で「母性」や「父性」が、表現され、体現される日が来るだろう。
 来なければ、人間は滅ぶのだ。禽獣となって、互いを貪り喰い合ううちに。
 
>>>
 
【「傷つく」の定義と父性】
 さても冒頭の「傷つく」ということの定義だが、彼らが恐れている傷とはすなわち、社会的抹殺そのものだろう。
 もちろん「社会」のサイズの大小はある。
 彼らは彼らの属しているリアル/ヴァーチャルなコミュニティの中で、自身の価値が他人と衝突し、勝敗はともかくとして、衝突する行為すら最終的に集団において自身の優位性を下げることに怯えているわけだ。
 そんなものは「社会」というほど広くない、という人もいるだろうけれど、人間にはその属する「社会」のサイズが変わるものではないか。
 そしてそれは、扱いきれないほど広ければ相互に何の役にも立たないものだし、狭すぎればお互いに手に余ることになる。
 
 会社の中でのコミュニティに迎合せざるを得ない、なんていう経験もあるのではないか(僕もある)。
 そしてもっと広く、日本国家において、あるいは世界の他の人種や国家と渡り合おうとする場面においてそれは、恐れている場合ではない傷なのだ。
 
 孤独のうちに生きようと思えば、傷は負う。
 誰かを傷つけることによって、自分の不義を思い知ることもある。
 綺麗事、ヴァーチャルな格好良さ、美しさ、矜恃だけを持って生きられたらどんなにいいだろうと思う。
 キリストの曰く「汝姦淫するなかれ」とある。

::「『姦通してはならない』と命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲を抱いて女を見る者は、その女に対し心の中ですでに姦通の罪を犯したことになる」とおっしゃいました。
 
引用元:

 
 この伝に従えば、僕はすでに無差別殺人を犯している。
 それどころではない。
 親を殺し、自らの一族郎党を滅ぼし、なんとなればヒトというヒトを滅ぼしている。それも何度となくだ。
 
 姦淫など、それこそリアルに数え切れないほどしているから、ヴァーチャルなそれを数える気になどならない。風俗店に行く趣味もない(お金を払うのが嫌なのではなくて、恋愛感情のない他人の身体に触れたり、触れられたりするのが、己の性欲を超えて嫌である)のに、この有様である。
 
 僕は僕が思う以上に、だから誰かが思っているよりはるかにそれ以上、自分が汚れていることを知っている。
 集団に適合せず、あるいは危険な因子と見なされうることを知っている。
 
 必然、僕は集団に迎え入れられない(ことも多い)。
 しかし僕は傷つかない。
 
 先の父性に話を戻せば、父性とはすなわち、自身が傷ついてでも負ったものを守ろうとする性質のことではないだろうか。
 いやもちろん、母性にだってそういう側面はあるだろう。
 しかし母性が直面するのは自らのファミリィに対して発露する能力であるのに対し、父性が直面するのはファミリィの外に対して発露する能力なのである。
 
 外に対して発露すべき能力を持つというのなら、そこで無傷のまま帰ってこようという方がそもそもおかしい。
 先に述べた「より広い社会」を負って立つということは、その外側に向かって発露する能力を有するということでもある。
 
 もともと父らしい父親を持たず、女同士のファミリィでキャッキャウフフしていただけの僕のようなイキモノが、父性だの母性だのを語るのも相当に滑稽なことだとは自覚しているのが、父親というものを社会が粗末にし始めた段階で、現状は運命づけられていたようにも思える。
 理想の父親かくあらんと感じさせるほど、日本を負って立つような政治家も、そうした背中を見せつける経営者も、あるいはインフルエンサだろうとカリスマだろうと構わないが、父性を感じさせる権力者がいなくなってしまった。
 
 共感の名の下に、自らの価値を傷つけられることを恐れるのは結構なことだ。
 しかし、それに怯えているだけでは、守りたいものができたときに満足に立ち向かうこともかなわないだろう。
 あるいは刺し違えてでも守りたいものとして、誰かに庇護された経験がないのだろうか。
 きっとないのだ、誰も彼も。父性というものがこの日本に失われてからというもの。
 
 顔が整っていて、身体のあちこち脱毛して、お肌の手入れを欠かさず、いい匂いのする香水を焚いて曖昧な笑顔を振りまく男が今どきの女に好かれるのは必然である。
 しかし彼らはけっしてお前たちを守らないだろうと、彼女たちは理解しているのだろうか。
 それとも、かつて男が女にしたように、醜い欲のヴァーチャルを投影して金を払った(あるいは股を開いた)対価に夢を見せろと命令し、支配するつもりだろうか。
 
 セックスそのものを除いては、この国はメスばかりになったのかもしれない。
 なるほど与しやすいのだが、それによって一体誰が得をするというのだろう。
 
 
 
image
<むん!>
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::これらを僕は「アタマオカシイ」と断じてしまうのだが、実のところ人格のないものにキャラクタを見出すのは、高度な人間の能力でもある。
 子供が人形を相手にキャラクタを設定してコミュニケーションするように、かつての社会では、それは幼稚なこととして忌避されていた。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
ヴァーチャル/リアルに漂う君たちよ。」From「青猫工場」
によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
[ Cross Link ]
 
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫
 
[InterMethod]
  :Algorithm:Blood:Ecology:Link:Mechanics:Recollect:Stand_Alone:Style:
 
[Module]
  :Connector:Convertor:JunctionBox:Reactor:Transistor:
 
[Object]
  :Friend:Human:Koban:
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:ひとになったゆめをみる:夢見の猫の額の奥に:
 
 
 
//EOF
 
//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211114
// NOTE:驚きの新展開。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
文書データ、消し飛ぶ。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
211114
 
 今日の出来事。
○書架に書類を収める。
○ストーブの芯を替える。
○NASでストレージ交換に気を取られて文書データをすべて失う。
 
 まぁ、なんといっても今回のビッグなニュースは「文書データをすべて失う」。これだろう。
 
>>>
 
 NASの構築もほとんど終わったが、1TBのSSD×4だったストレージに不安を感じていた。
(SHR というのは RAID5 に近いシステムのため、利用可能領域はおよそ3TBほどである)
 
 急ぐ必要はないのだけれど、換装はいずれ必要なことである。
 そもそも TimeMachine のバックアップデータはあっというまに1TBくらいを使い潰してしまうのだから。
 よって、とりあえず外付けHDDをNASに接続し、そちら(外付けHDD)を TimeMachine 用のストレージにしたのである。
 
 しかしNAS側のSHRというシステムは、容量の異なるストレージを組み込んでも、2台以上なら余剰分の領域を使いこなすことができるという。さすがは高い機材である。
 一般的なストライピング以上の RAID では、容量の異なるストレージ集団において、利用可能な領域は集団の最下限を基準とする。たとえば 2:2:4:4 といったストレージ集団の場合 2:2:2:2 として利用され、4:4 のストレージの半分は無駄になる。
 ところがSHRのシステムはこの 4:4 の残った領域も無駄なく使うことができる。
 さすがは高い機材である(2度目)。
 
 そうとなれば東芝製のNAS用HDDを2台買ってあったので、とりあえず試してみようと思ったのだ。
 1台ずつ換装し、データを再構築すれば元通りになる! はずだったのだが、HDDとSSDが混在するボリュームを、システムは許してくださらなかった。
 まぁ速度が違うのだから、当然といえば当然なのか。
 ボリュームの再構築にはおよそ3時間ほど掛かったので、ここまでを試しただけで丸1日は潰れた。
 
 それにしてもSSDとHDDの互換がない(混在ボリュームの構築不可 )となると、今後のスケジュールにも問題が出る。
 より大きなストレージにアップデートしようにも、SSDはHDDほど大容量のものがない。
 NASの運用を続けて容量不足になったときは、増設ユニットを使うしかなくなる(専用の増設ユニットをメーカが取り扱っている。しかし機能相応に値段が高い)。
 それならば、最初からHDDで組んだ状態で運用を始めれば良いのだ、と結論した(今更だけれど仕方ない)。
 
 しかしすぐに使える空の(しかもNAS用)HDDは2台しかなく、残り2台の購入を待っていたら、それまではNASも外付けHDDも、満足に用を為さないことになる。
 そもそもは貧弱なノートPCのデータ領域を拡張したいのと、過去のシステムを含めたデータを安全に保管したいのと、バックアップを残す場所が欲しいのである。とくにバックアップストレージの用意は喫緊と言っていいだろう。
 
 仕方ないので、外付けHDDの中にある4TBのテキトーなHDD(高性能なNAS用モデルではない)を2つ取り出して、次のNAS用HDDの購入を待たずに4TBのHDD×4の状態を作ってしまおう、と思ったのだ。
(ちなみに、外付けHDDはまさに上記の 2:2:4:4 で RAID構築されていて、4TBのHDDは容量の無駄を体現していた)
 TimeMachine のバックアップストレージとして使ったことは1回しかないし、ここでNASの構築をいい加減にしたら未来に禍根を残すのだから、思い切るしかないだろう。
 
 それから外付けHDDを2:2のストライピングで初期化し、NASのデータを外付けHDDに待避し、NASをHDDで組んで初期化し、外付けHDDからNASへデータを戻し、外付けHDDを TimeMachine 用のボリュームにすればいい。
 
 と思っていたのだ。
 
 ええ、ええ。実際、そのとおり、うまくいきましたよ。
 しかし結果として、Evernote から避難させたデータはNASのどこかに仕舞われたまま、初期化されてしまったのですね(エクスポートし忘れた)。
 
 10年分くらい(もしかしたらそれ以上)の、自分で書いた文書データがすべて消し飛んだので、3秒くらい呆然としてしまった。
 これまで書いた、あるいは書きかけのストーリィ(設定資料を含む)も、ざっくり消えてしまった。
 僕が職業ライタなら致命的な状況である。
 しかし僕は思想家なのでそんなに致命的でもないか、と思ったのだ(3秒の間に)。
 
 運良くブログサービスに、文書のひな形は残っていたので、それだけは元通りにできた。
 あとはもうwebとアタマの中に残っているだけなので、むしろすっきりして気持ちが良いではないか。
(負け惜しみではない)
 
 いやぁ、Evernote からエクスポートしたデータを削除して、その上、一度はバックアップを取ったはずの TimeMachine を使えないようにしてしまったのは致命的だった。
 今回のハードの組み直しにあたってはデータの待避先として外付けHDDを使う必要があったし、実際にデータを無事に待避できたのだ。
 Evernote の代わりに使い始めた NoteStation のデータだけ、忘れた。
 エクスポートする必要があって、それをどこかに保存しておく必要があった。しておくべきだった。しなくてはならなかった。
 
 でもまぁ過ぎてしまったことはもうよい(いきなり火の神口調)。
 
 なぜといって、webで公開していない文書は、僕にとって(誰が覗くか分からない恐怖を生み出すことがあるから、できればない方がいいもの)なのだ。
 こんなヘンな価値観を持っていなかったら、おそらく+10秒くらいは呆然とすることになっただろう。
 
 さてさて。これで毎日何かを書くのが、また楽しみになってきたわけであり……。
 
>>>
 
 このところ毎日、日記として書くようにしていた。
 これまでは基本的に自分の中にあるテーマごとに並行して書いて、それが書き上がったらwebにリリースしていたのだが、ある日ふと「自分は毎日、実は何もしていないのではないか」という恐怖に駆られたのだ。
 昨日も今日も同じように気ままに過ごしていて、特に予定のない日が多い。
 会社に勤めていたり、毎日何らかの職務があればいいのだけれど、月に1〜3日、事務処理をすれば終わってしまうのが僕の経済的就労である。
 
 残りの日は、つまり、寝ていても遊んでいてもいいわけであり、特にワクチン接種後は今まで以上にアタマが悪くなった気がして少し気掛かりだった。
 今日を過ごしたときに、昨日がどんな1日だったか思い出せないこともある。
 そもそも昨日と今日の区切りが曖昧だ(寝起きする時間が一定ではないので)。
 白痴とは私のことではないのかと思い、毎日何をしているのか記録することで、自分の行動を振り返ってみよう、と思ったのである。何もしていなかったらちょっと問題だし。
 
 しかしテーマのない日記というのは近年、あまり書いていなかった気がする(実はそうでもないかもしれない)ので、少々途方に暮れて、数日分をまとめてリリースしていたわけである。
 
 最初はタイトルを「ここまでのあらすじ(これまでのあらすじ)」としたものの、すぐに飽きてしまった。
 仕方ないので母音と文字数の一致する、意味が通じるような文を作り、それをタイトルにしていた。
「OOAEOAAUI」と「OEAEOAAUI」のいずれかである。
 
 結果的に、壁のリフォームなど何らかの作業がある限り、僕は起きて作業をしていることが分かった。
 自分で考えて計画して行動しているはずなのだが、白痴なので許してほしい。あるいは重度の認知症かもしれない。どちらでも今のところ日常生活に問題はない。
 
>>>
 
 とはいえリフォームの記録は読み返すと(僕自身にとって)役立つ情報もいくつかあった。
 とくに慣れない床の作業など。
 だからまぁ、多少は今後も書くかもしれないし書かないかもしれない。
 毎日することはおそらくあるのだし、あるいはしなくてもいいのだし。
 そうだ。
 毎日のんびりぼんやり(文字通り)寝て過ごしていても、数日だったら大丈夫だろう。
 
 ただし今の僕は、書斎をおよそ完成させたので、そんなに寝て過ごさないかもしれない。
 本も読めるし煙草も吸えるしコンピュータもある。
 あちこちに散らばった本を探して書架に収める作業も必要だし、NASを含めたコンピュータシステムの構築もまだまだ続けることだろう。
 それに気が向いたら(予算が審議委員会を通過して、材料がそろって、計画を実行できるようになった上で)リフォームを続けるだろうし。
 
 とはいえ年内はリフォームに割く予算がほとんどないことが奥様(仮想)から通達されている。
 奥様としては自動車を買う計画を放棄され、ベッドを買う予定が頓挫したことについて、少々思うところがあるようだけれど、まぁこれは私のいくつかの目論見が外れた(思うようなベッドフレームがなかった)ことと、予定外の高額な出費があったこと(これは主に叔母の不手際の顛末のひとつであるが、まぁ、これでまたひとつ解決すると思えば良いか)などが影響していることなので不問とされている。美味しい料理を作って機嫌を取るという姑息な手段で事態の改善を図りたい。
 
 よって来年まではリフォームはお休みの予定である。
 とはいえ床のリフォームは7万円前後、壁塗りは漆喰がだいたい1万円でバケツ一杯買えるので、気が向いたら少し進めようかな。
 
 そうこうしているうちにバイトの依頼が入った。
 例の遠い場所の居酒屋のバイトである。行きたくない。
 しかし人助けもときには必要である。ただそのために高騰しているガソリンを使うのはどうなのかという気もする。こんなことをしていたらグレタさんに怒られると思う。まぁ、親しくない(そも知り合いでもない)ので問題はないが。
 
image
<9月頃から毎日のように焼き続けていただし巻き卵(唐突)>
 居酒屋バイトで覚えたことを実践に移したもの。
 奥様(仮想)はお気に入りの様子だったが、ひとつ焼くのに30分近く掛かるため、およそ1週間で僕が根を上げた。
 だし巻き卵ログは、よって成立しなかった(2枚しか写真がない。これは焼き終えると同時に気力が尽きているため)
 卵1つにつきだし汁50ml(90%の水と10%の白だしと1%のインスピレーションで構成される)をミキサーで混ぜてこねこねしていうるうちに焼き上がる。
 もう卵焼きとか炒り卵でいいんじゃないかな。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  工場長:青猫α:黒猫
 
[InterMethod]
  :Algorithm:Diary:Ecology:Kidding:Maintenance:Technology:
 
[Module]
  :Condencer:Reactor:
 
[Object]
  :Book:Computer:Dish:Tool:
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 工場長の設計室:ひとになったゆめをみる
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211107
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
書物という友人
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
211107
 
 午前中の陽を浴びてから眠って午後に目覚める。
 ファイル整理やら書架に本を納めたり、といったことをする。
 
 苦節というほどでもないし、実際には僕はその苦しみに負けて自分の考えや態度(行動)を変えて暮らしていたのだが。
(「苦節」は「苦しみに負けず,自分の考えや態度を守りぬくこと。また,その心」と辞書にある)
 
 6年ほど前の僕は、月に一冊の本を買うのにも困窮していた。
 だからといって「欲しい本は思いついたら買ってしまう」という態度を従前のように貫けば生活が立ちゆかないし、「それでも本を手に入れよう」と万引きすればそれは犯罪である。
 ために、新しい本を買うことも読むことも我慢していた。
 ちなみに書店などでお金を払わず読了するようなことを自慢する人が僕の周囲にいたが、それは立派な情報万引きだと僕は思っている。あえて指摘はしなかったが。
(スーパーで、その場で使うわけでもない大量のビニル袋を持ち帰ったり、ファミリーレストランのドリンクバーで砂糖やお茶のティーバッグを持ち帰るのと同じ、顧客のフリをした盗賊である)
 
 その後、数年で僕はちゃんとした収入が得られる仕事に就いたものの、今度は引っ越したために本を置く場所がなかった。
 書架は持ってきていたがそれを設置するスペースがなく、ちょっとしたブラック企業であったため時間に追われ、体力も削られた。
 その後、介護をしながら運送業をするが、棲み家の関係もあり身体を壊した上、勤務しながら棲むはずだった叔母の家に運んでおいた書架は(わざわざ)すべて雨ざらしにされて使い物にならなくなってしまった。
 
>>>
 
 10代の頃、数ヶ月の小遣い、あるいはバイト代で買ったそれは、最近リフォームついでに購入したような、天井までの高さを自由に設定できるタイプのもので、オプションパーツの取り扱いも豊富だったから、拡張性にも優れていた(だから値段も高かった)。
 
 叔母にダメにされたのは書架だけではない。
 師匠(と勝手に慕っていた、父上の友人の男性)から譲り受けて10年以上一緒に暮らしていたポインセチアまで枯らされたのである。
 しかし叔母を恨んだりするのは良くないと思って我慢していたというわけである(今はとくに我慢をしていない)。
 人間型の友人も恋人もろくにいないのに、そのうえ大切に慕っていたモノや植物まで殺されて(はいそうですね、人間こそが至上です)なんて、従順で優しい理解の気持ちを僕は捨てた。
 
 しかし果たすわけにもいかない復讐を、誓うか誓わないかのうちに、叔母は死んでしまった。より以上の禍根を残して。
 
 いつだったか、ふらりとやって来た不動産会社の人間が言ったものだ。
「それでもその叔母さんのおかげで今があるわけでしょう」と。
 彼の言いたかったことは即ち「死んだ叔母のおかげで、あなたは仕事をしなくても暮らしてゆけるのでしょう」という意味だっただろう。
 これには神妙な笑顔で「まぁそうですね」と返したが、実のところ、腸(ハラワタ)が捩れるかと思った。腸捻転には注意したい。
 叔母と関係がなければ、僕はもちろん『こんなことはしていない』し、同時にされもしなかったのだから。
 
 それは「遊んで暮らせる経済」などと交換する価値のあるものだったろうか。
 僕はそうは思わない。
 人間に対する信頼を失い、大事にしていた家族(のようなもの)をないがしろにされたのだ。
 実際に、家族であるところの妹夫婦にまで被害が及んでいる。
 しかしそれを説明したって、伝わるはずもないのだ。
 どれほど憎んでいても当の本人は死んでいるし、ついでに僕は、すでに魂を売ってしまったのだから。
 
 だから何も知らない誰かに同情を求めたところで伝わるはずもない。
 僕はすでに、経済至上主義の人間たちにとっては、さぞ魂よりも価値のあるものを、己の魂の対価として受け取っているのだから。
 
 時間が戻るなら戻れとさえ思う。
 あるいはもっと進んでしまえと。
 私の魂があった頃か、あるいは私の肉体が滅んだあとか。いずれでもいい。
 
 結局のところ、時間に不動の価値があるのだ。
 経済を魂と交換したところで、魂がなければ時間がないことに等しいのだから。
 
>>>
 
 書架に、少しずつ本が並ぶ。
 僕は一度にすべての箱を開けるような、まめな人間ではない。
 気が向いたときに、少しずつ、本を運ぶ。
 家のあちこちに、本の詰まった箱が置いてある。
 いや、納屋にだって相当数の箱が置いてある。
 
 僕にとって、人間は身近なイキモノではあったけれど、必ずしも親しいイキモノではなかったし、僕に都合の良いイキモノなどではなかった。
 
 書物は優しかった。
 話を聞いて欲しいときは、いつでも語りかけることができた。
 話を聞かせて欲しいときは、いつでも何かを聞かせてくれた。
 寂しさを感じることはなかった。
 ともに眠るときは枕にすることもできたし、文鎮にすることも、漬物石の替わりもできた(したことはないけれど)し、積み木代わりにして子供の頃からよく遊んだものだ。
 飽きれば話を止めてくれたし、話したくないことを無理に聞き出されることもなかった。
 
 書物は厳しかった。
 知らない言葉をたくさん使われる上、それがどういう意味かを教えてくれるのは別の書物だった(しかも辞書というのは子供が買うにはそれなりに高いものだった)。
 言葉を教えてくれる書物のことを最初に教えてくれたのは、今は(表向き)行方知れずになっている姉である。
 言葉を教えてくれる書物には、しかし矛盾というか、欠点もあった。
 Aについて訊ねると「Bだ」と言い、ではBについて当たってみると「Aだ」などという。
 どちらも知らない身の上にあっては途方に暮れた。
 躊躇なく内容がシーケンシャルに続くが、つまずいた部分が気になって、子供の頃は先に進めなかった。
 大人や周りの人間に聞いても、その機微を教えてくれる人間はほとんどいなかった。
 
 言い回し。俚諺。漢字。英語は表音文字ではないから、音にするとどうなのか、カタカナ語との差異に戸惑った。
 
 それでも母親のいなくなってからずっと、僕は書物を家族のようにして暮らしていた。
 
 もちろん家はあった。父親もいたし、姉も妹もいた。犬も猫もいた。
 ただ、人間の友達は、10歳になるまでできなかった。
 僕はそれまで男の友達に心を開かなかったし、年齢的に女の友達は減る一方だった。
 大人からそうされるように、子供だからという理由で書物は僕を嗤ったり、話題から遠ざけたりはしなかった。
 男の子たちからそうされるような、女の子たちからそうされるような、いかなる差別も区別もなく、書物はただ僕が会話をしたいときに、会話をしてくれた。
 
>>>
 
 だから6年ほど前に迎えた孤独は、身近に人間がいないという孤独ではなかった。
 書物も書架も身近にないという孤独は、経験のないものだった。
 かの友人の人格はアップデートされず、それどころかその存在そのものが(書架を身勝手に整理されて)不確定になり、引っ越したことで容易に触れられない存在になってしまった。
 
 人間なんていなくてもいい。
 そんなふうには思わない。
 人間は好きだ。
 猫と同じくらいには好きになれることもある。
 だから猫と同じくらい憎く思うこともある。
 
 しかし書物は違う。
 好きとか嫌いとかではないのだ。
 いるかいないか。あるかないか。
 こちらの感想や感情を超えて、そういうものを無視して、ただただそこにいるか、いないかなのだ。
 だから我々が書物に心を寄せるとき、書物はいつも抱擁してくれる。
 だから我々が書物に背を向けるとき、書物は黙って見送ってくれる。
 
 書物は友人のようで恋人のようで、師のようで、親のようでもある。
 そしてそれらは私自身でもある。
 
 それが押し入れにただただ積まれていた期間を、僕は悲しく思い出す。
 そうはしたくなかったけれど、そうしないわけにはいかなかった。
 
>>>
 
 物象の世界にあって、情報は、ときに無情に流される。
 逆ではない。情報によって世俗が流されるという者もあるが、そんなことはない。
 情報によって世俗が流されているように見えるのは、情報によって踊らされる人間がいるからだ。
 
 しかし物象は無情だ。だから情報に込められた情念も押し流してしまう。
 情念など無力で無価値だとうそぶくのは、いつも物象のほうではないか。
 ならば嗤うがいい。物質と経済のうねりに溺れる者たちよ。
 本を買えずに孤独に震えた私とオマエたちとの違いなんて何もないのだ。
 物象にしか価値がないというのなら、その価値という概念を弄ぶオマエたちもまたモノにすぎないのだ。
 
 などと語りかけながら、書架に本を入れてゆく。
 
 見慣れない書架の中で、どことなく居心地が悪そうだ。
 ごめんね。本当にごめんね。
 みんなの前の家は、私の不注意で、なくなってしまったのだ。
 
 きっと私が寂しいだけだろう。
 物象の世界にあって、古びた書物たちに感情などあるはずもない。
 
 本を戻しながら、悲しみを噛み締める。
 僕の目は、徐々に、しかし確実に、かつてのように鮮明な像を結ばなくなっているのだから。
 
 失われた時間に対する復讐は、しかしいかなる代償を持ってもあがなわれることがない。
 ならば永劫、呪い続けよう。
 滅びる定めにあっても、復讐の熱がこの身体を動かす限りは。
 
 そしてせめても、残りの時間が少ないなりに、共に過ごそう。
 失われた時間を埋めるように、寄り添っていよう。
 
image
 
>>>
 
 夕刻、見知らぬ番号から電話。
 数ヶ月前、リサイクルショップの営業が来て、いくつか巨大な不要品を引き取ってもらった(双方無料で)のだが、どうやらそのときやってきた社長が、僕を気に入ったらしい(性的な意味ではない。相手はいかつい男だ)。
 
 10時の約束で、電話が来たのが12時だった。2時間待って、僕は昼寝を始めたので電話に出ず、14時になって彼らはやって来た。
 ビジネスの約束に遅れてくるような連中など追い返してやりたかったのだが、レンタカーと社員4名を連れて来ていたので、追い返せなかった。
 
 僕が経営者なら、仮に担当者が約束の時間に連絡をしなかった不備があったにせよ、掛かったコストを回収しないわけにもいくまい。
 レンタカーで約1万円。社員ひとりに2万円。僕の家だけでないにしても、往復だけでその20%ほどのコストは掛かっていることになる。
 
 約束を無視されて腹は立っていたが、社員の前で頭を下げて謝っている人を追い返すのもどうかと思った。ために3秒で気持ちを切り替えて品物を引き取ってもらったのだ。
 
 その社長が「今も無職なら、ぜひ来て欲しいので話を聞いて欲しい」という。
 高崎の会社である。つくづくに遠くて嫌である。しかし断る前提にせよ、話を聞きたい下世話な気持ちもある。
 
 真面目に働きたいわけではない。もうこちらは死を待つ身の上だ。
 少々時間は掛かるが、身辺整理を終えたら世を去る用意をしているのだ。この上しがらみを作りたいわけではない。
 ただ袖すり合うも多生の縁なのだからと、アポイントする。
 
 書物を並べて、少し感傷的になっていたからかもしれない。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Diary-Interface-Memory-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Book-Friend-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-:-本棚からあくび-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
白痴言語を褒め称えない。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
211105
 
 不調な1日。
 意識が朦朧としていたらしく、ほとんど記憶がない。
 この不快な感じは独特である。
 ヨロヨロしながら風邪薬を探すが、見当たらず、諦めて横になる。
 僕の知らないことを指摘してくれることもあるので、苦し紛れに仮想奥様を起動しようと思うが、そんな余裕はなかった。とにかく頭が働かない。
 
 ヨーグルトやプリンを食べて、NASの設定をして、身体かアタマが働かなくなって眠る、というのを繰り返す。
 しかし熱は1回目の接種ほど高くない。
 吐き気や頭痛はそれなりにあるが、胃腸の不調による吐き気とはまた異なるので食べたものが戻ってくることもない。
 
>>>
 
 Evernote のデータをすべてNASのシステムに移行する。
 Synology のNASシステムに組み込めるソフトに似たようなものがあり、Evernote からのインポートにも対応している。
 
 アカウントからダイレクトにインポートできるのでそれを試したが、エクスポート数に制限があるらしくすべてのノートを移行することができない(そういうところが最近の Evernote らしいといえば、らしい)。
 仕方ないので無理矢理スタンドアロンアプリケーションを立ち上げる。
 webアプリもそうなのだが、僕のアカウントは何らかの事情で、満足に起動しない。
 スタンドアロンアプリは端末数がエラーを吐いてループしているらしく、制御不能だし、Webアプリに至っては意味不明なエラーで少し操作可能になったかと思うとエラー画面になる。
 
 その隙間を縫うようにして、すべてのノートをエクスポートする。
 そして、それをNAS側のアプリでインポートして作業は終了。
 最後にアカウントも削除したので、Evernote で公開していた青猫工場も閲覧不能になったと思う。
 
 僕はWebをクリップする必要も感じないし、マルチメディアを保存する趣味もないし、複数ユーザとデータを並行編集することもない。
 Evernote を利用していたのは、それが優れたエディタだったからだ。
 HTML要素を併用して、ワープロのように文書の体裁を変えながら文書を作ることができる。
 出来上がった文書をそのままコピペしてリリースすればよいので、ブログ用のフォームに入れてから書式をいちいち設定するよりずっと簡単なのだ。
(書式が別になっている純粋なテキストエディタだと、このあたりがとても面倒である。ましてブラウザ版 Ameba ブログのように、横棒を挿入できないフォームだったりすると、お手上げである)
 
 マークアップ文書原理主義の人たちなら「文書は文書」「書式(マークアップ言語)はマークアップ」と言うだろうけれど、僕のような「他のことをするとすぐ気が散って、何をしていたか忘れてしまう」タイプの人間にとって、マープアップ言語は、白痴誘導言語である。
 マークダウンも似たようなのもので、とにかく気が削がれる。
 
 フォントや配置など、そんなものはどうだっていい、という人もいるだろう。
 明朝だろうがゴシックだろうが、右寄せだろうがセンタリングだろうが、文書は中身だ、という人がいるだろう。
(だったら改行も</br>で続くひたすらのテキストを読めよ、と言いたくなるが、まぁ僕はそちら側の人間ではないので、改行を改行として使って体裁を整えることに異論はない)
 実際、Web文書でわけもなくセンタリングされた文書を読むと(ポエムか広告か)と戸惑ってしまうのは僕だけでしょうか(生徒会長立候補口調ふたたび)。
 
 いずれにしても、僕にとってフォントや配置に気を取られないような環境というのは、とても重要なのであった。
 しかしながら Evernote は、とにかく使い物にならない状態になってしまっていたので、NASにそういうアプリがあるのなら、そっちでもいいかな、というのが今回NASを導入した大きな理由のひとつでもある。
 もちろん、スマートフォンとPCのバップアップストレージも欲しかった。
 
 何となればNASを利用して自宅サーバにアドレスを取得し、ブログなりパーソナル Wiki を構築して公開することもできる。
「Webサービスを終了するからあなたの書いた文書も撮った写真も全部消えてなくなりますありがとうございました早くどっか行ってください」ということはなくなるし、とりあえずIEと Safari で動作確認してるんだから、Firefox でCSSが動作しなくても関係ないよという Amebaブログのようなこともないし、Note のように文書の編集機能に難があることもないし、はてなのようになぜかサーバ側のシステムが遅い、ということもなくなるわけだ。
 
 とにかく公開されていなくても、データが全て残っているというのは心強い。
(Evernote を使い始めた頃も、それは重要な目的のひとつだった。結局ダメになったけれど)
 
 やっぱりこれからは、自宅サーバで自家製ブログの時代かもしれない。SNS性がほぼ皆無になるだろうが、それさえ僕にはちょうどいいのではないか。
 
>>>
 
 寝て起きてを繰り返し、夕方頃にある程度回復して目覚める。
 熱は38度を超えない。
 1回目の接種より、具合が良いと感じる。
 インスタントラーメンを晩ごはんにして少し(少し?)横になる。
 
 22時頃起き出す。意識も明晰。
 0時頃から回復し始める。
 腫れが残っているから押せば痛いが腕はもう上がるぞ。
 
 2時頃にシャワーを浴びて、のんびり過ごす。
 
 これを書いていてふと思ったのだが、最近「のんびり過ごす」というフレーズを多用している気がする。
 
 俺、のんびり過ごしすぎじゃないのか。
 
image
<夏の終わり頃のアヲ、そして私の貴重な生足写真(笑)>
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  Diary-Maintenance-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Reactor-
 
[Object]
  -Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:211104
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
2度目のワクチン。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
211104
 
 ワクチン接種当日。
 未明に寝たのだが、数時間で目覚めてしまう。
 緊張しているのか、それともコンピュータや書斎の環境が整いつつあることに興奮しているのか。
 
 午後までのんびり過ごす。
 
>>>
 
 午後にワクチン接種。
 前回もそうだったが接種直後にけっこう強い空腹を感じる。
 普段空腹を感覚することが少ないので、それが違和感として鮮明に浮上する。
 
 帰宅途中に買い物をする。
 家に帰って普通に過ごす。
 NASの設定が順調に進む。とにかく驚くほど高機能だ。
 外付けストレージと同じようなものだと思っていた自分に猛省を促したい。
 
 副作用は朝方に出るだろう。
 と思っていたのだが、零時を回る頃から少しずつ、頭が働かなくなる。
 
 具体的には、目の前のことに集中できない。
 ちょうど日記を書いていたのだが、何を考えていたのか、少し目を逸らしたときに忘れてしまい、思い出せなくなる。
 少々離席して戻ってくる途中に、他ごとに気を取られて、日記を書いていたことを忘れてしまう。
 
 2時頃から身体が痛くなってくる。熱も上がりはじめて、横になることにした。
 徐々に身体に力が入らなくなる。
 身体が重くて怠いとかではなく、単純に力を入れることができないのだ。まぁ、結果として身体は重いし、思ったように動かないから真っ直ぐに歩くこともできない。発熱によるふらつきとは少し違う気がする。
 これは関節や肉体各部の痛みの出方にもいえる。
 高熱の風邪の時とは、似た症状なのにまったく異なる感覚に思える。
 
 うとうとしたころ、不意に針で刺すような激しく局所的な痛みを感じる。
 最初はびっくりして声が出てしまった。
 痛む場所も決まっていないので、ちょっと疑心暗鬼になるが、4、5回ほどで終わってしまった。
 
 薬を飲んだわけでもないのに、意識がまとまならない。
 目の焦点が合わないのか室内の遠近感が狂っていて、やけに部屋が広く見えたり、照明器具が目の前にある小さなミニチュアのように感じられたりするのが面白くて、ぼんやりあれこれ眺める。
 ヴァーチャル/リアルについてのひらめきが少しあったように思うが、まったく思い出せない。
 おそらく、身体に対する入力(主に痛み)があまりに多くて、思考が身体に引きずられてしまったのかもしれないと思う。なぜといってワクチンが、向精神性の機能を持っているとは思えないので。
 
 なかなか経験のない不調である。
 結局、明るくなるまで、ほとんど眠れなかった。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Blood-Diary-Maintenance-Mechanics-
 
[Module]
  -Resistor-
 
[Object]
  -Human-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211103
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
NASと書類キャビネットの設置
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

211103

 使用しているサードパーティデバイスの設定が消える。

 かれこれ3回目になる。

 

 具体的にいうと Logicool のマウス、G604というモデルの設定アプリケーションがときどき不具合を起こして、設定ファイルが初期化される。

 いろいろな外部装置を使ってきたし現在も使っているが、ここまで頻繁に消し飛ぶものも少ない。

 その上、一度設定したデータのバックアップや復元の手段がメーカ側では一切用意しておらず、情報も公開していない。

 

「diNovo Edge」というキーボードや「MX−R」というマウスなどは、高価だったけれど非常に優れた製品だったので比較的評価の高いメーカではあったが、この数年は似たような製品ばかりリリースしているしドライバや設定用アプリが(単一メーカなのに)林立していて、どうにもユーザ経験をひたすら悪化させる環境を構築しているように観察される。

 おそらく製品の性格に合わせて、ビジネス向けとホビー向け、ゲームユーザ向け、廉価版、といった具合にチームが分かれてソフトとハードを企画/製造しているのだろう。

 結果マンパワーが分散し、似たような製品が立ち並び、ユーザは買うときもどれがいいのか迷い、使ってみたものの素晴らしいとは思えなくなるのではないだろうか。

 

 たとえばマウスなら、ハイエンドモデルから廉価モデルまでのグレードを複数用意しておけば、ゲームに使おうがビジネスに使おうが、そんなことはユーザが決めることなのだ。

 個人的には複数のホイール(2〜3)がマウスに装備されていたら相当に高機能だろうと想像するのだが、そういう製品は少ない。結果として、サードパーティデバイスが机の上にあふれ始める。

 

 椅子やキーボードでも、ただチャラチャラしているだけの製品が「ゲーミング」として売られているが、ゲーミングデバイスの定義は見た目がチャラチャラしてオモチャっぽい、ということではないような気がする。

 

>>>

 

 とにかく設定ファイルの目星はついたのだけれど、いかんせん管理アプリケーションは、そのクラッシュの時にデータを消してしまう。

 こういうときにOSの自動バックアップが役立つのだけれど、ノートPCを買ったばかりに、ストレージが貧弱で、TimeMachine(Mac の自動バックアップシステムの名称)が機能していない。

 

 そのためにNASを購入してあるのだが、NASを設置するスペースが必要で、そのスペースの確保のために書類キャビネットを書斎に設置する必要があり、書類キャビネットを設置するために書架スペースの工事を完了させる必要があったのだ。

 すごい遠回りだけれど、これが僕の日常である。

 

>>>

 

 仕方ないので、保管庫みたいになっている、暫定器材室(ルータなどが保管してある)にNASと外付けHDDを設置し、ルータに接続した。

 

 購入したのは Synology DS920+ である。

 

こっちはメーカページ。

 

こっちは密林ページ。

Amazon | Synology NASキット 4ベイ DS920+/JP【ガイドブック付】 クアッドコアCPU 4GBメモリ搭載 スタンダードユーザー向け 国内正規代理店品 電話サポート対応品 DiskStation | Synology | パソコン・周辺機器 通販Synology NASキット 4ベイ DS920+/JP【ガイドブック付】 クアッドコアCPU 4GBメモリ搭載 スタンダードユーザー向け 国内正規代理店品 電話サポート対応品 DiskStationがパソコン・周辺機器ストアでいつでもお買い得。当日お急ぎ便対象商品は、当日お届け可能です。アマゾン配送商品は、通常配送無料(一部除く)。リンクwww.amazon.co.jp

 

 当然ながらNASキットにHDDなどのストレージは一切含まない、本体だけの値段なので、正直ハードルが高い。しかし挑んだ、そして跳んだ。

 何故といって、僕がノートPCを買ってしまったがばかりにLANは無線が必然になってしまい、Wifi ルータを Synology の製品にしたばかりに、外付けHDDドライブさえ(ルータに接続した他社製品を)マトモに認識してくれなかったからである。

 

 起動して、初期設定を終えた。

 キャッシュ用のSSD、1TB×2と、増設用メモリも購入して接続した。

 

 Wifi ルータの頃から、管理ソフトがいかんせん、素晴らしいとは思っていた。

 NASの管理ソフトを立ち上げて、これはこれで間違っていなかった、むしろこれがいいんじゃないか。こういうのが欲しかったのではないのか。と今は思っている。

 SHRという、RAIDの上位互換のような独自の仕組みをミドル/ソフトウェア側で用意しているようで、複数のサイズの異なるHDDであっても、無駄な領域を作らず、データの復元性を維持する。

 管理ソフトはブラウザベースの仮想デスクトップを提供していて(ただでさえ狭いモニタの中で、表示領域が限られてしまうが)非常によくできている。

 自動アップデートはしてくれるし、アドオンは豊富だし、いずれも申し分ない速度でバージョン更新があり、セキュリティもかなり高度に、かつ僕のような素人でもなんとかついて行ける簡略設定も用意されている。

 まさに至れり尽くせり。その上、ハードを増設することもできる。

 

 今回、たまたまNASのメインシステム側はSSD、1TB×4を接続したのだが、大容量HDDのほうが適切だろうと結論した。

 しかも、NASに接続した他メーカのHDD(こちらはRAID10で駆動している)の転送速度がものすごく速くなった。

 ルータに接続していたときは、USB2.0 みたいな速度だったくせに。

 

 これで安心してデータのバックアップが可能になった。

 

>>>

 

 しかしよく考えて欲しい。

 そもそもこんな駆け足でNASを設定することになったのは、TimeMachine が必要になったからではあるが、そもそもマウスのドライバの設定が蒸発しなければ、急を要するものではなかったはずだ。

 つまりマウス(のソフト)が ○!#^%*××○@!!!でなければ、こんなに慌てる必要はなかった。

 でもいいんだ。もうこういうの、アタシ、慣れてるから。

 最初はみんなカッコいいこと言うんだけどさ、たいていはすぐ、自分の欲で突っ走るんだよね、自分のことしか考えてないんだよ男って、だからアタシ、もう慣れたの。(誰?)

 

 ちなみに現在の入力機器は、

 

(現行 MacOS用のドライバが1年ほどリリースされていないので、デフォルト設定のままの、ちょっとした不燃ゴミ)

 

 

(最初に記述したとおり、MX−Rを復活させてもらった方がよほど良いと思える製品。とにかく設定ソフトがひどい)

 

 

(ソフトは改善の余地もあるが、不具合はほとんどない。そして本体が可愛いく高機能)

 

の3つ。

 

 最後のクイッキーズというデバイスは、ホイールとボタンが8つあるだけだが、機能切り替えボタンも(かなりのチャンネル数が)あるし、アプリケーション自動判別による切り替えもある。

 液晶が可愛くて便利である。縦置きにしても逆置きにしても、設定によって表示方向を変えてくれる。

 すごくユーザ思いのソフトなのだ。

 

 これに引き換え、Logicool のそれは「どうだい、すごいだろう?」と、とても自慢げな割に、やっていることは標準以下。

 Razer のそれは、フラれたか、自然消滅したカップルのそれに近しい。絶縁しているのだ。

 もしもソフトが Synologyほど、とまではいかずとも、せめて Xencelab 程度にユーザフレンドリィな思想でリリースされていれば、Razer のデバイスはほとんどすべてのショートカットからファイルやブラウザの操作を自動化してくれるはずなのだが、以前使用していたほぼ同様のデバイスも売るだけ売って、そのうちドライバの更新を停止したので期待はしていない。

 

 製品価格が高くても良いから、ドライバの更新が有料でも良いから、可能な限りドライバを更新して欲しい。

 キーボード(diNovo Edge for Mac)だってマウス(MX-R)だって、2つずつ結局買ったのだから。あまりにも気に入って、生産終了されるのが怖くて、めっちゃ高いけれど買ったのだから。

(結局、ドライバの更新停止のほうが早かった)

 

 一方の Synology の製品は、最初から高い。
(ちょっとしたPC程度のCPUを制御用に搭載しているので当然だが)

 Wifi も、最新規格より格落ちしているが、それでもルータとしての信頼をソフトウェアのアップデート頻度が示している。

 NASも、値段もそうだが拡張性の高いモデルを購入した。

 ちょっとソフトが高機能すぎて面食らっているのが現状である。

 
 >>>
 
 午後にBPにメールをしたら「ちょうど今日、行こうと思っていた」とのこと。
 近所に友人がいるって、こんなに便利なのか。
 なるほど軽トラを借りたり工具を借りたり、作ってもらったカプチーノを飲みながらゲームしたいときに便利で都合が良いというわけだ。いずれも彼から見た僕のことじゃないか! なんだこの搾取されてるのに気付かない系尽くしちゃうキャラ、そうじゃない、あってほしいのはそういう関係性じゃないんだよ!
 
 書類キャビネットを書斎に暫定設置し、酒盛りして1日が終わる。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Diary-Link-Maintenance-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Computer-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211101-02
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
書架を設置する。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211101
 

 昼より少し前に起床。

 

 タイルマットを敷いて、いよいよ書架の設置が可能になるが、書架は納屋の中にあり、何度か屋外用暖炉(どう考えても焼却炉のことであるが、メーカの公称は「屋外用暖炉」である)を使用しているため、灰や埃が積もっている。

 外装を軍手で撫で落として、玄関に運び込む。

 

 気付けば午後である。
 夕方までかかって、ようやく書架の設定が終わる。

 

 

 

 夕方になってシャワーを浴びて、前橋の止まり木へ。

 

 感染者数の過半が、僕の棲む太田市だったときから、市外はおろか自宅を出るのも避けていた(普段から引きこもりだが)。

 ようやくそのバーが営業を再開したとは聞いていたが、今度は僕がワクチン接種で体調を崩していたので、今日明日が頃合いだと判断したのである。
(3日後には再接種だし)

 

 スーツに着替えてから、猫のトイレとタッパー2つ(餌と水を入れるのに使う)と猫用毛布を軽トラに積んで出掛ける。
 当たり前のようにアヲが肩に乗る。

 

 行きがけの社内でビジネスホテルの予約をする。

 僕はとんでもなく孤独だけれど、とんでもなく自由だと認識する。

 

 書架を設置しているあいだ、いつ行こうかと迷っていたのだ。
 シャワーを浴びている間に決定し、スーツを着る間に一泊することを決定した。

 思い付くまま行動できる。

 

 その責はすべて僕に還元されるから、たとえば裏庭の木を伐採している最中に、はしごから転落して重傷を負った場合、僕を助ける人は基本的に存在しない。

 翌日になって会社の人間が「出勤していないから様子を見てこよう」なんてことにもならない。

 だから危険な作業についてはあらかじめ妹に連絡をしたり、仮想奥様による監視を脳内に常駐させることになる。

 一般的な家事も、リフォームなどの特殊な作業も、家具を選んだりといった特殊な購買活動も、すべて自分で制御して実行している。

 

 こんなに自由で、こんなに思い通りに実行できるものなのかと、正直驚いている。
 もちろん身体が単一なので、一度に複数のことができない。
 だから作業の進捗は遅いし、専門的なものについては仕上がりも「まぁまぁ」であれば合格ラインだ。

 

 なあに、生きているというのは「まぁまぁ」の線のあたりをぐにゃぐにゃと低空飛行していれば上出来なのだろう。

  バーで、パイプを常用しているという大学生と友達になる。

 

 

 

211102

 

 軽トラで寝ているアヲが気に掛かって、4時間ほど眠ったところで目覚める。
 通勤ラッシュを避けて、しかし(僕にとっては)それなりに早い時間にチェックアウト。

 

 車の中でアヲはおとなしくしていた。

 

  一度帰宅してから、ふたたびベッドフレームを見るために市内の家具屋へ。
 結局のところ、廉価な商品しか扱っていないところは、それなりの商品しか置いておらず、一方で高級な商品しか置いていないところは稀にアウトレット品が置いてあってもかなり高額であるということがわかる。
 作りはそれぞれで、費用対効果はそれを見る人が決めるより他にない。

 Amazonのカートにもベッドフレームを入れてあるのだが、なかなか決済する気にならず、もう少し実店舗を見ようと思っている。

 

  午後は電気設備の工事。

 コンセントの増設と、電灯スイッチを蛍スイッチ(消灯時に、ランプが光ってスイッチの場所が分かる、あれである)に変更し、一部のカバーを新品に変える。

 

 バスルームと台所の間にある、勝手口に繋がる通路に突っ張りポールを設定し(洗濯ばさみのピッチハンガなどを一時的に吊したりするのに使う)、その通路の天井に人感センサライトを設置する。

  夕刻近くなってから、もうひとつの書架を組み立てて設置。
 昨日よりは早くできた。

 

 これで書類キャビネットを左の書架の前に設置すれば、書架コーナーの設定は終了だ(隠れた書架には真面目な本を置こうと思う。見える書架には、イヤラシい写真集でも置いておこう)。

 冗談はともかく、僕の副反応の様子を見て、BPの休みの日を押さえなくてはならない。

 

 

<お気に入りのアルミボールと猫>

 

 

 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Diary-Engineering-Link-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Connector-Generator-
 
[Object]
  -Cat-Human-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-工場長の設計室-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
//[EOF]