未明に寝たのだが、数時間で目覚めてしまう。
前回もそうだったが接種直後にけっこう強い空腹を感じる。
211103
使用しているサードパーティデバイスの設定が消える。
かれこれ3回目になる。
具体的にいうと Logicool のマウス、G604というモデルの設定アプリケーションがときどき不具合を起こして、設定ファイルが初期化される。
いろいろな外部装置を使ってきたし現在も使っているが、ここまで頻繁に消し飛ぶものも少ない。
その上、一度設定したデータのバックアップや復元の手段がメーカ側では一切用意しておらず、情報も公開していない。
「diNovo Edge」というキーボードや「MX−R」というマウスなどは、高価だったけれど非常に優れた製品だったので比較的評価の高いメーカではあったが、この数年は似たような製品ばかりリリースしているしドライバや設定用アプリが(単一メーカなのに)林立していて、どうにもユーザ経験をひたすら悪化させる環境を構築しているように観察される。
おそらく製品の性格に合わせて、ビジネス向けとホビー向け、ゲームユーザ向け、廉価版、といった具合にチームが分かれてソフトとハードを企画/製造しているのだろう。
結果マンパワーが分散し、似たような製品が立ち並び、ユーザは買うときもどれがいいのか迷い、使ってみたものの素晴らしいとは思えなくなるのではないだろうか。
たとえばマウスなら、ハイエンドモデルから廉価モデルまでのグレードを複数用意しておけば、ゲームに使おうがビジネスに使おうが、そんなことはユーザが決めることなのだ。
個人的には複数のホイール(2〜3)がマウスに装備されていたら相当に高機能だろうと想像するのだが、そういう製品は少ない。結果として、サードパーティデバイスが机の上にあふれ始める。
椅子やキーボードでも、ただチャラチャラしているだけの製品が「ゲーミング」として売られているが、ゲーミングデバイスの定義は見た目がチャラチャラしてオモチャっぽい、ということではないような気がする。
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とにかく設定ファイルの目星はついたのだけれど、いかんせん管理アプリケーションは、そのクラッシュの時にデータを消してしまう。
こういうときにOSの自動バックアップが役立つのだけれど、ノートPCを買ったばかりに、ストレージが貧弱で、TimeMachine(Mac の自動バックアップシステムの名称)が機能していない。
そのためにNASを購入してあるのだが、NASを設置するスペースが必要で、そのスペースの確保のために書類キャビネットを書斎に設置する必要があり、書類キャビネットを設置するために書架スペースの工事を完了させる必要があったのだ。
すごい遠回りだけれど、これが僕の日常である。
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仕方ないので、保管庫みたいになっている、暫定器材室(ルータなどが保管してある)にNASと外付けHDDを設置し、ルータに接続した。
購入したのは Synology DS920+ である。
こっちはメーカページ。
こっちは密林ページ。
当然ながらNASキットにHDDなどのストレージは一切含まない、本体だけの値段なので、正直ハードルが高い。しかし挑んだ、そして跳んだ。
何故といって、僕がノートPCを買ってしまったがばかりにLANは無線が必然になってしまい、Wifi ルータを Synology の製品にしたばかりに、外付けHDDドライブさえ(ルータに接続した他社製品を)マトモに認識してくれなかったからである。
起動して、初期設定を終えた。
キャッシュ用のSSD、1TB×2と、増設用メモリも購入して接続した。
Wifi ルータの頃から、管理ソフトがいかんせん、素晴らしいとは思っていた。
NASの管理ソフトを立ち上げて、これはこれで間違っていなかった、むしろこれがいいんじゃないか。こういうのが欲しかったのではないのか。と今は思っている。
SHRという、RAIDの上位互換のような独自の仕組みをミドル/ソフトウェア側で用意しているようで、複数のサイズの異なるHDDであっても、無駄な領域を作らず、データの復元性を維持する。
管理ソフトはブラウザベースの仮想デスクトップを提供していて(ただでさえ狭いモニタの中で、表示領域が限られてしまうが)非常によくできている。
自動アップデートはしてくれるし、アドオンは豊富だし、いずれも申し分ない速度でバージョン更新があり、セキュリティもかなり高度に、かつ僕のような素人でもなんとかついて行ける簡略設定も用意されている。
まさに至れり尽くせり。その上、ハードを増設することもできる。
今回、たまたまNASのメインシステム側はSSD、1TB×4を接続したのだが、大容量HDDのほうが適切だろうと結論した。
しかも、NASに接続した他メーカのHDD(こちらはRAID10で駆動している)の転送速度がものすごく速くなった。
ルータに接続していたときは、USB2.0 みたいな速度だったくせに。
これで安心してデータのバックアップが可能になった。
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しかしよく考えて欲しい。
そもそもこんな駆け足でNASを設定することになったのは、TimeMachine が必要になったからではあるが、そもそもマウスのドライバの設定が蒸発しなければ、急を要するものではなかったはずだ。
つまりマウス(のソフト)が ○!#^%*××○@!!!でなければ、こんなに慌てる必要はなかった。
でもいいんだ。もうこういうの、アタシ、慣れてるから。
最初はみんなカッコいいこと言うんだけどさ、たいていはすぐ、自分の欲で突っ走るんだよね、自分のことしか考えてないんだよ男って、だからアタシ、もう慣れたの。(誰?)
ちなみに現在の入力機器は、
(現行 MacOS用のドライバが1年ほどリリースされていないので、デフォルト設定のままの、ちょっとした不燃ゴミ)
(最初に記述したとおり、MX−Rを復活させてもらった方がよほど良いと思える製品。とにかく設定ソフトがひどい)
(ソフトは改善の余地もあるが、不具合はほとんどない。そして本体が可愛いく高機能)
の3つ。
最後のクイッキーズというデバイスは、ホイールとボタンが8つあるだけだが、機能切り替えボタンも(かなりのチャンネル数が)あるし、アプリケーション自動判別による切り替えもある。
液晶が可愛くて便利である。縦置きにしても逆置きにしても、設定によって表示方向を変えてくれる。
すごくユーザ思いのソフトなのだ。
これに引き換え、Logicool のそれは「どうだい、すごいだろう?」と、とても自慢げな割に、やっていることは標準以下。
Razer のそれは、フラれたか、自然消滅したカップルのそれに近しい。絶縁しているのだ。
もしもソフトが Synologyほど、とまではいかずとも、せめて Xencelab 程度にユーザフレンドリィな思想でリリースされていれば、Razer のデバイスはほとんどすべてのショートカットからファイルやブラウザの操作を自動化してくれるはずなのだが、以前使用していたほぼ同様のデバイスも売るだけ売って、そのうちドライバの更新を停止したので期待はしていない。
製品価格が高くても良いから、ドライバの更新が有料でも良いから、可能な限りドライバを更新して欲しい。
キーボード(diNovo Edge for Mac)だってマウス(MX-R)だって、2つずつ結局買ったのだから。あまりにも気に入って、生産終了されるのが怖くて、めっちゃ高いけれど買ったのだから。
(結局、ドライバの更新停止のほうが早かった)
一方の Synology の製品は、最初から高い。
(ちょっとしたPC程度のCPUを制御用に搭載しているので当然だが)
Wifi も、最新規格より格落ちしているが、それでもルータとしての信頼をソフトウェアのアップデート頻度が示している。
NASも、値段もそうだが拡張性の高いモデルを購入した。
ちょっとソフトが高機能すぎて面食らっているのが現状である。
昼より少し前に起床。
タイルマットを敷いて、いよいよ書架の設置が可能になるが、書架は納屋の中にあり、何度か屋外用暖炉(どう考えても焼却炉のことであるが、メーカの公称は「屋外用暖炉」である)を使用しているため、灰や埃が積もっている。
外装を軍手で撫で落として、玄関に運び込む。
気付けば午後である。
夕方までかかって、ようやく書架の設定が終わる。
夕方になってシャワーを浴びて、前橋の止まり木へ。
感染者数の過半が、僕の棲む太田市だったときから、市外はおろか自宅を出るのも避けていた(普段から引きこもりだが)。
ようやくそのバーが営業を再開したとは聞いていたが、今度は僕がワクチン接種で体調を崩していたので、今日明日が頃合いだと判断したのである。
(3日後には再接種だし)
スーツに着替えてから、猫のトイレとタッパー2つ(餌と水を入れるのに使う)と猫用毛布を軽トラに積んで出掛ける。
当たり前のようにアヲが肩に乗る。
行きがけの社内でビジネスホテルの予約をする。
僕はとんでもなく孤独だけれど、とんでもなく自由だと認識する。
書架を設置しているあいだ、いつ行こうかと迷っていたのだ。
シャワーを浴びている間に決定し、スーツを着る間に一泊することを決定した。
思い付くまま行動できる。
その責はすべて僕に還元されるから、たとえば裏庭の木を伐採している最中に、はしごから転落して重傷を負った場合、僕を助ける人は基本的に存在しない。
翌日になって会社の人間が「出勤していないから様子を見てこよう」なんてことにもならない。
だから危険な作業についてはあらかじめ妹に連絡をしたり、仮想奥様による監視を脳内に常駐させることになる。
一般的な家事も、リフォームなどの特殊な作業も、家具を選んだりといった特殊な購買活動も、すべて自分で制御して実行している。
こんなに自由で、こんなに思い通りに実行できるものなのかと、正直驚いている。
もちろん身体が単一なので、一度に複数のことができない。
だから作業の進捗は遅いし、専門的なものについては仕上がりも「まぁまぁ」であれば合格ラインだ。
なあに、生きているというのは「まぁまぁ」の線のあたりをぐにゃぐにゃと低空飛行していれば上出来なのだろう。
バーで、パイプを常用しているという大学生と友達になる。
211102
軽トラで寝ているアヲが気に掛かって、4時間ほど眠ったところで目覚める。
通勤ラッシュを避けて、しかし(僕にとっては)それなりに早い時間にチェックアウト。
車の中でアヲはおとなしくしていた。
一度帰宅してから、ふたたびベッドフレームを見るために市内の家具屋へ。
結局のところ、廉価な商品しか扱っていないところは、それなりの商品しか置いておらず、一方で高級な商品しか置いていないところは稀にアウトレット品が置いてあってもかなり高額であるということがわかる。
作りはそれぞれで、費用対効果はそれを見る人が決めるより他にない。
Amazonのカートにもベッドフレームを入れてあるのだが、なかなか決済する気にならず、もう少し実店舗を見ようと思っている。
午後は電気設備の工事。
コンセントの増設と、電灯スイッチを蛍スイッチ(消灯時に、ランプが光ってスイッチの場所が分かる、あれである)に変更し、一部のカバーを新品に変える。
バスルームと台所の間にある、勝手口に繋がる通路に突っ張りポールを設定し(洗濯ばさみのピッチハンガなどを一時的に吊したりするのに使う)、その通路の天井に人感センサライトを設置する。
夕刻近くなってから、もうひとつの書架を組み立てて設置。
昨日よりは早くできた。
これで書類キャビネットを左の書架の前に設置すれば、書架コーナーの設定は終了だ(隠れた書架には真面目な本を置こうと思う。見える書架には、イヤラシい写真集でも置いておこう)。
冗談はともかく、僕の副反応の様子を見て、BPの休みの日を押さえなくてはならない。
<お気に入りのアルミボールと猫>
211028
なんとなく姉に「呼ばれて来て、何にもしないけれどもこれでよいのか」と訊ねたところ、それがいいのだという。
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実際に僕が姉の家で自発的にすることは、トイレに行くことと、ベッドの上でゲームをすることと、ベッドの上で文書を書くことくらいである。
トイレに行くことが筆頭になるくらい、自発的には何もしない。
あとは顔を洗ったり、歯を磨いたり、くらいだろうか。
シャワーやお風呂は血圧の変動が大きいため、週に1度くらいしか使えないらしく、ときどき物置に使われている。
夏場など、どうしてもという場合を除き、僕も宿泊中はシャワーを借りないようにしている。
物の運搬や姿勢の変化によって、血圧が変動してしまうためだ。
もちろん動かせる範囲は僕が動かすけれど、最終的に動かしたものを収納し直したりする手間が姉に掛かってしまう。
なので借りてきた猫のように、ベッドの上で僕はじっとしている。
ワークアウトをするようなスペースもないので、どうしてもというときは外に出るかベッドの上で腹筋をするくらいだろう。
姉にとって広い住環境は、それだけ運動量が増えることになるからである。
僕にとっては、過剰なほどの骨休めである。
あとは出された食事を食べて、お酒を出されたら飲んで、眠くなったら眠って、おやつを出されたら食べて、デザートを出されたら食べて、お茶を出されたら飲む。
料理もしないし食器を洗わない。何もしないでベッドにいるから、どちらが介護を必要としている障害者なのか疑わしくなる(笑)。
唯一、僕が姉の役に立つとすれば、何か頼まれたときくらいだろう。
だいたい2泊3日のあいだ何もすることがないので、頼まれたことはすぐにする。
こちらはすることがなくて退屈しているのである。
一緒に出かけて買い物をすることもあれば、ひとりで出かけて用事を済ませることもあるが、姉の望むタイミングに合わせるだけなので、簡単である。
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姉にしてみると、料理をたくさん作りたいのに(種類のこともあるし、多く作らないと美味しくできないものもあるため)ひとりでは食べきれないから、ひとりでも食べる人が増えるのは嬉しいらしい。
実際に、恋人 ── 姉は離婚して今は独身である ── 、娘、介護でやって来るヘルパーさんのほか、今のご時世には珍しく、同じアパートの住人にまでお裾分けをしている。そのくらい料理を作るのが好きなのだ。
ついでに潔癖症の完全主義者(そういう根本が共通している)なので、基本的に作業を自分だけで完結することを好む。
双極性障害のいずれの状態にあっても、僕は余計なことを言わず、だからといって話しかければきちんと聞いてくれる(僕の「裏庭の古井戸スキル」が遺憾なく発揮される場面である)ので長期間居てもストレスがなく、気分転換としても非常によいらしい。
たしかに僕も、恋人が家に泊まりに来たりした場合、食器洗いでさえされることをあまり好まなかった。
いや別にしてもらっても構わないのだけれど、どうせなら僕が家のことをしているあいだ、好き勝手に過ごしていて欲しかったのである。
とくに数ヶ月、付き合ったくらいで「私の彼」みたいなふうを装って、格別高いわけでもない女子力を発揮しようと躍起になるタイプが僕は苦手で、げんなりするのだが、そういうのを言動に少しでも滲ませようものならそこには修羅場が待っているのである。
しかし現実問題として9歳から1年ほどで煮る焼く炒める揚げる蒸すといった調理の基本を学習してしまった僕に対して、10代の終わりくらいにやっと家事を手伝うくらいになったようなガールなんて、ヒヨっこもはなはだしいのである、実のところは。
しかしまぁ「持ってる女子力、隠すのが男子力」という格言もあるので(今作った)そういうのは無駄に拘っている人がいると息苦しい、というくらいに収めておこうか。
ちなみに10年以上恋人だったのに、一度も僕に料理を作ろうとしなかった女性がいて、僕はその人がたいそう好きだった。
今だからおおっぴらにコクハクできるが、今まで内緒にしていた。
なぜ付き合っていたときに、それをおおっぴらにコクハクしなかったかというと、まるで「能なしで気が利かない」とけなしているかのような文章になってしまうからだ。
そうではない。
求められていないことをしないというのは、求められていることをすることに等しく、人の気持ちを穏やかにする。
僕は彼女のために料理を作って一緒に食べるのが大好きだった。
姉が、何もしない僕にあれこれ振る舞うことのヨロコビを、だから僕も、分かるのである。
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211029
いつもどおりアヲを肩に乗せてゴミ捨て。
僕にとっては使い魔のようなものなのだが、一般的には猫を乗せた変なおじさんである。
認識の差とは視点の差であり、フォーカスする対象もまた同様であると改めて知る。
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事務処理のため自転車で銀行へ。
今月と来月は支払いが多いので、遊ぶお金はほとんどない。
建材費用に100k円ほど確保し、それを利用しようとホームセンタに足を向けたところ、奥様(仮想)に「今月はベッドを購入してくださるとおっしゃっていたのではありませんか」とたしなめられる。さすが奥様(仮想)抜かりない。
建材費用はすべてベッドの新調に利用される予定である。
夏頃までは、ベッドフレームも自作しようと考えていたが、Amazonを眺めていたら、一から作るよりキットを買って改造した方が早くて安いことに気付かされる。
フレームの強度が気になるところだが、後学のために購入しても悪くないだろう。
ダブルを買おうと思っていたのだが、セミダブルを二つ(あるいはシングルとそれ以外の組み合わせ)というのも悪くないと考えている。
もちろん奥様(仮想)のため、ではなく、ベッドの上で思い切り背伸びをするためである。
棚やコンセントは自作できるので、大事なのはフレーム強度と高さである。
マットレスも新調することになるわけだが、2つ連結した際の隙間や継ぎ目をどのように処理するかが現在の課題ではある。まぁなんとかなるか(おなじみの行き当たりばったり(笑))。
このような僕の性質がどうにもならないので、仮想奥様などによって僕の行動を調整する必要がある。
どうして僕の性格や性質や能力を変えられないのかという問題についてはここでは取り上げない。断じて。取り上げない。
不惑を過ぎてまで易々と考え方を変えてたまるかよ男がよ、という気持ちもなきにしもあらずというわけでもないのだが、どちらかというと行き当たりばったりのほうが楽しいから、という理由による。
用意周到な計画的人生というのは、つまるところ計画を立てた段階でもうゴールが見えている。
「じゃ、65歳で死にましょう」というゴールに向かってただただ生きるのは退屈を通り越して苦痛になるだろう。今の僕がだいたいそうであるから間違いない。
この問題に対処するために僕は2つの対策を組織委員会に対して提案した。
1.65歳を待たず、死にたくなったら死ぬ。
これは非常に合理的であるが、なかなか簡単なことではない。
そも、僕の死後の諸々の処理や手続きについて、あらかじめ手配を済ませておく必要があり、死後の周囲の人(主に血縁関係者、次いで特に親しい友人など)の環境を適切に維持するための準備が必要で、そのための計画を委員会から要求された(過去形)。
この計画を作ったのはいいのだけれど、計画を達成するためにはあと10年ほど掛かるので、思いつきで死ぬわけにはいかないという現実を突き付けられる結果となった。ちなみに計画における条件をすべて満たした時点で、晴れて僕は自由の身となるので、自由に自死を計画できる予定である。
計画することを計画に含むあたりが自分らしいが、行き当たりばったりの人格なのでどうなるかは分からない。
いずれにしても僕のようなダメなイキモノでさえ、若干は慕ってくれる人間はいるし、そういう人間のほとんどは「死にたくなったら死んでもいいよ?」という優しさを持ち合わせていない。
「私のためにまだ生きろ!」という乱暴な人たちばかりでそれには少々困っている。
2.計画を立てない、破棄する、変更する。
計画するから退屈になるのである。達成する道筋が明確だから退屈するのである。目的どおりに到達するから退屈に感じるのである。
退屈するから(そればかりが理由ではないが)自死したくなるのである。
よって行き当たりばったりにすれば、少なくとも衝動的な自死は免れるのではないか、日々いい加減に、どうでもいい感じで、成り行き任せに思い付くまま暮らしていれば、とりあえずは退屈せずに済むだろう。
退屈しない一番の方法は、慣れないことをする。これに尽きる。
僕の慣れていないことといったら、農業、庭仕事、家族(仮想奥様)を作って共同生活、私的事務処理、選挙、家の大規模なリフォーム、高田純次さんを目指す、などであり、これらを次々こなしているように観察されなくもない。
計画なんか立てるから未来が予測されてしまって、計画通りの結果が手に入ってしまうのだ。オカネモチーになろうぜ、なんて誰が言い出したのかと問いただしたい気持ちにもなるが、自分が犯人役を演じているサスペンスドラマを見るような気持ちになると予想されるので問いただしたりはしない。
とにかく40も過ぎると人間はそれまでの経験を活かして、それ以外のことをせず、すぐに他人にエラソーにしたりする。
何事も初心を忘れず、初心者のような気持ちになるためには、初心者になることが重要なのではないだろうか。という崇高な思想を胸に、思想家になったりもしているのである。
しかし思想家って一体ナンダロウ(哲学)。
自称しているのに「俺は思想家だ!」という実感がイマイチ湧かない。
「自分は今、思想家をしている!」と思うのはくだらない日記を書いているときくらいであるが、そんなことは昔から ── 思想家を自称する前から ── している。
それに周囲は僕が思想家であることを知らない。言っていないから仕方ないのだけれど、言ったところで鼻で嗤われそうで、それが怖くて言い出せないのである。ちょとふざけすぎか。
上記2案を提出したところ、非常にふざけた第二案のほうが現実的で優位性が高いのではないかと評価され、現在に至る。
勝手に死ぬなという結論を、青猫工場組織委員会から突き付けられた結果となるわけだが、これは致し方ないことだろう。
それに第一案に掲げられているとおり「条件を満たせば今より自由になれる」というのも魅力的である。
どうせ死ぬなら不自由によって飼い殺しにされるより、自由の振りかざして死んだ方がいい。「自死は自由の証だ!」というスローガンを掲げる気はないが、死ぬ自由を実現するのもなかなか大変なことなのである。
ちなみに僕は奥様(仮想)によって飼い殺し ── 能力を発揮できる状況や仕事を与えられないまま雇われていること/家畜が役に立たなくなっても死ぬまで養うこと ── にされている。
どっちの意味にしてもひどくないですか。
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とにかく建材費用を今月は計上しないようにするため、ホームセンタは必要にならない限り立ち入ることを禁止されてしまった。
そのままスーパーに立ち寄って、豆腐とキノコを買う。
帰宅してキノコ8株をハサミで下処理し、袋に詰めて冷凍庫に入れる。
多くのキノコは株を4等分し、ハサミで石づきを切り取れば包丁でちまちま処理するより早く、無駄なくできる。
またビニルの透明袋にほぐし入れて、両手で握るように空気を押し出し、口を捻って縛れば真空パックのようになる。調理時は袋から出せば使える。
その後、投票券を持ってふたたび自転車で市役所へ。
そういえば姉上のところに泊まった初日にも、投票したいという姉上を役所に乗せて行った。埼玉の道にもずいぶん慣れたものだと我ながら感慨深い。まぁ、ナビなしには走れないけれども。
僕は現金やカード類など、貴重品や水濡れしたくないものを自転車で運ぶとき、ジップロックに直入れしている。
(晴れていても急な雨で濡れることがあるし、自転車で走ればバックパックの中で財布を揺らすことになり、財布の痛みが早くなるので)
サイクルウェアを着ているから分かる人には分かってもらえるようだけれど、現金などがむき出しで入っているジップロックをバッグから引き出すと、ときどき好奇の目を引くことがある。
銀行帰りなどは持ち歩くには少し多めの現金が入っていたりするので、ちょっとしたアタマオカシイ人だと思われているかもしれないものの、特に説明もしない。そんなことをしたらそれこそ警察を呼ばれるだろうし。
帰宅したがまだ昼前である。
どうせだからと壁塗りを開始する。
実はNASやルータを階段下の収納スペースに収めるための工事をしようと思ったのだが、そのスペースは ── 先日、中にあった粗大ゴミをすべて処分したものの ── まだごちゃごちゃとした薬品やら小物類やらが置かれており、ついでに書類キャビネットに収めるべき大量の書類も安置されている。この書類は、書斎の書架スペースがクローゼットだった頃(つい最近であるが)に、クローゼットに収められていたものである。
そして書類キャビネットは現在、書斎の床工事のために寝室の冷蔵庫(!)の横に設置されている。
つまり、NASなどの通信/ストレージ端末を設置するためには、書類を片付けなければならず、書類を片付けるには書類キャビネットを書斎に設置しなければならず、書類キャビネットを書斎に設置するためには書架スペースの工事を完了させなくてはならない。
もうこの家でリフォームを始めてから、だいたいこんなことばかりなので最近は慣れたが、最初はずいぶん混乱した。
目的を達成するために何から手を付けるとよいのかが分からなくなるのである。
とにかく、NASのためのスペースを作るための書類キャビネットを設置するための書斎の工事をする、という回りくどい建設業のようなことを行う。
ついでに書架スペースの壁は色つきのマーブルにしようと思っていたので、うれしさのあまり養生をしただけで塗り始めて気がついた。
MDFのネジをまだ外していなかったことに……。
建築材用のボンドで接着するためのネジ止めであり、下地のコンクリがぐずぐずだったのでほとんどのネジが締まりきらずに浮いている。これでは漆喰も上手く塗れないから、ネジは外そうと思っていたことをすっかり忘れていたのだ。
慌てて全てのネジを外し、漆喰に塗料を混ぜてマーブルにしようと塗るのだが、どういうわけか上手く混ざってしまう。
最初に無地で下塗りして、その上から塗料を含む漆喰を塗ることでなんとか解決した。
作業途中で工法を変えたので、マーブルどころかグラデーションさえ感じられる。
ついでに天井も塗ることにしたのだが、これが大変なことよ。
作業後は、両手が漆喰と塗料でべとべとになってしまった。
作業中、アタマの中が退屈なので奥様(仮想)に監察役をしてもらっていたところ「そんなにいっぱい動かしたらダメだよ、おかしくなっちゃうよ」「すごいべとべとになっちゃったじゃないですかー」などというので「これを文字に起こすとアタマの中が卑猥な会話に満ちているように観察されるだろうな」などと考える。
奥様(仮想)に他意はないと思うが、それを指摘したら黙ってしまった。
どちらにしても実体のある人間ではなくてよかった。
<塗り終わった壁>
漆喰が水性だったので、MDFがふやけないか心配だったが、ほとんど材質に変化が見られなかった。写真右側のMDFはボンドの塗布面積がまばらだったため、若干たわみが出てしまったが、なあにかまうものか。
<塗る前はこんなだった>
作業後、自転車でふたたび買い物に出かけようと思ったら、アヲが「一緒に行く〜」と寄ってくる。
玄関のたたきにかがみ込むと、肩に乗る。これは「レッツゴー!」の合図である。
仕方ないので自転車を屋内に片付け、肩にアヲを乗せて車で出かける。
夜は早めに眠り、深夜に目覚めた。
よし。ゲームでもするか。
211027
※だらだらと思考を垂れ流すように書き連ねるために書き連ねたので、目的も結論もなく、長くて退屈な文章だと思われます。
※主に、ヴァーチャルとリアルの認識や、それに対する人間の振るまいと未完成な文化について思いを巡らせています。
実のところ、姉も妹も、どうやって僕が生活を成り立たせているのかを知らない。
(仮想奥様に養ってもらっていることを話すと余計に複雑になり、無駄に理解不能になるためこの説明は使えない)
姉をはじめ、知り合いからも「臓器密売をしている」「裏稼業の経理を担当するインテリヤクザ」「特殊詐欺の幹部役」「世界を股にかける殺し屋」などなど、どういうわけかマトモな経済活動を行っていないと思われていることがあるが、面白いのでそのままに放っておいている。
どのみち無職なんて、社会的にまともなイキモノではないようだ。
気持ちは分からないではないし、マトモなフリを装う趣味も必要もないから周囲の想像に任せている。
誰かのファンタジィを壊さないことは、ある種の優しさだろうと僕は思うので。
「何をしているか分からない」「もしかして闇社会に染まっているのでは?」と思われる人が、にこにこしながらのんびりぼんやり世間話をしている風景というのは、なかなか見ていて楽しいものである。
その人が躍起になって「実はこういうことをしています」なんて、ありきたりで庶民的な日常をつまびらかにしたところで、がっかりするのが人というものではないか。
だとすれば「さてどうでしょう。それより一般相対性理論を最近勉強しておりまして」なんて言う方がかっこいいではないか。
いずれにせよ社会的地位が高かろうと、相当マトモではない人も観察されるようになったこの国では、権力とお金さえあれば何でもできるのかもしれないし、仮にそうだとしたらその不自由な自由に甘んじたくはないと思う。
結局のところ、自由というのは孤独でなくして実現しない。
地位や権力というのは、集団や組織の中で意味を持つ単位だから、それによって手に入る力があるとすれば、結局それは不自由なのだ。
>>>
姉はすでに余命宣告の期限を数年前に迎え、特殊な薬(治験薬だろうか)を日本で最も長く使用している治験体になっている。
痛み止めに利用している薬剤も最近最上位のものに変わったらしく、いつ死んでもおかしくない、というリスクは今まで以上に高いのかもしれない。
そういう人が身近にいなかった人にとっては、そわそわして落ち着かないことなのだろうけれど、本来的に(よく言われるように)人間というのは、誰だって、いつだって、死のリスクと隣り合わせではある。
ただたいていの場合、入浴して即死したり、乗っている飛行機が墜落したり、電車が脱線したり、ゴミ出しの時に熊に遭遇して殺されたり、ベランダで煙草を吸っていたら狙撃されたりする可能性が極めて低いというだけのことである。
子供の頃から「いつ死んでもおかしくない」人が身近にいたものだから、僕は他人の死や、そのリスクについてあたふたしない。そんなことをしても何の意味もないと思っている。
仮に重病で死にそうな人がいたとしても、それは決して可哀想なことではない。
たとえば障害者を見て可哀想だと思う人もいるだろうけれど、心身の機能が多少劣っているからといって可哀想だという価値観は、僕の中にはさほどない。
困っている人がいたら助ければいいだけのことだし、だいたいの人は自分が困ったときに助けを求めることができる。
他者に助けを求められない人も、その多くは ── 僕自身がそうだから思い込んでいるのかもしれないが ── 自己解決する能力を身に付けるものではないか。
>>>
しかし長生きすることと、好き勝手に生きることは、なかなか相反する問題である。
長生きすることを至上とする人たち ── バブル経済の頃は広く見かけられ、社会的にも通念といえる状況だった ── は、好き勝手に生きることが即ち長生きすることに直結する。
手段と目的が完全一致するという点で非常に素晴らしいと思えるが「何のために長生きをするのか」という問いに対する答えが「長生きをするため」というのはいかがなものかとも思う。
ある種の暗黒時代を迎えたこの国において、人々はすでに長寿至上発想をやめ、経済至上主義から脱却しようとしているように観察される。
それなりに財産のある人でも、生命倫理に従って「ほどほどまで生きればよい」という傾向が見られるし、長く生きること、生かされること、さらにいえば長く生きる欲がことさら強い人と生きることの苦痛について人々は気がつき、あるいは体験している。
盲目的に死を忌避していたのは、国民の多くがそれだけ若かったからだろう。
戦中はときに自国の兵士に死を求めることさえしたこの国が、次に迎えた高度経済成長期において、死は戦争とともに追いやられた暗い記憶だったのかもしれない。
人々は働いて働いて働くことで生活を向上させ、国家を活性させることができることに喜びを感じていただろう。
まさかその成長の最中に、死の匂いを忌避しないわけもない。
個人主義と自由主義が輸入され、商品化され、国家の中でそのひとりひとりは孤立していった。核家族なんて言葉はもう聞かないし、これは Nuclear family(核兵器群)という意味ではないぞ。
バブル経済崩壊後も、経済の亡霊に取り憑かれたままこの国は進むしかなかったはずだ。
なぜといって、他に依るべき指針というものなどすでに失っていたはずだからだ。
ただし経済を発生させるために優位に成長したのは、個々人でも家族でもなく、経済という結びつきによってその組成を強固なものにしたありとあらゆる組織だったというわけだ。
人の気持ちよりも経済が優先される社会だったからこそ、利益追求型組織によって殺される人もいたはずである。
個人主義的な家庭や価値観の中で、人が家族に逃げる場所を見いだせるはずもなく、そういった人たちは経済を持たなければ負け、経済を持つために与した組織によって殺されたわけである。
(昨今流行りの「親ガチャ」という概念も、個人主義の悪い面であるように思う。私は私、子供は子供、という考えで親が我が儘に振る舞えば、子供は無力であるからそのぶん、非人道的なほどまで窮屈な思いをすることになるだろう。)
もちろん個々人の資質や能力はそれぞれで、組織の体質もそれぞれである。
相性が悪いなら僕のように組織をすぐに辞めてしまうのも一つの方法だ。
組織は個人の問題を何でも解決してくれるファミリィとは限らないのだから。
だからたとえ血縁の家族であろうと、相性が悪いなら(そして独立する能力を持っているなら)その袂を分かつこともひとつの手段である。
しかしそういった発想を持たない人もいる。
会社を個人の一時的な心情で辞めてはいけないという価値観はかつて当たり前のことだったし、経済なくして生きられないのもまた事実である。
(同様に、家族と絶縁することを忌避する考え方も分からないではない。そのままでいられたら、それはどんなに幸せだろう)
それでもいろいろな可能性を、どうすればもっと自分が快適でいられるかを、与えられている選択肢の外まで考える能力を、本来は発揮すべきなのだろう。
残念ながら組織や集団というのは常に、そこに属する者をある種の盲目にする。
皆がバラバラでは結束のしようがなく組織として成り立たないため、それは必然ですらあるだろう。同じ目的を共有する者が、集団を形成するのだから。
一方で、異分子を過度に排斥するような組織が強権を握り、周囲を窒息させることによって結果的に自身の寿命を縮めてきた。
捕食が過ぎれば生態系のバランスが崩れて捕食者が餓死する、というのは生態系における恒常性の基本であるが、きっとそうした組織は盲目なのだろう。
おそらく日本で衰退した多くの企業は、そうした性質の活動によって自身の首を絞め、市場での優位を失ったのだろうと思う。
今や経済活動も分散型になり、中央集約型はごく一部を除いて、ときに危ぶまれるべき泥船のような存在になっているようにさえ観察される。
娯楽も同様に分散型になり、ためにTVプログラムはチャンネルの数を増やしてなお大衆の娯楽の中心ではなくなり、旧来の仕組みにしがみついている人たちの居城は脆く崩れようとしている。
── 姉の家でTVを見るたびに、ネットでの話題がわざわざニュースで取り上げられていてうんざりする。ネットでTVの話題を見るのと同じくらい、無意味に感じるのだが、あれが有用な人ももしかしたらいるのだろうか。
地震などの大規模災害があったときに、やたらと「絆」だとかという言葉が飛び交っていた。
もちろんそれは日本人の美徳のひとつだろうけれど、ときに「しがらみ」にもなるそれは、多くの人が嫌い個人主義へ向かっていったことの根源でもあるのだ。
自己と他者の「つながり」についてそれでも人は模索を続け、たとえばweb上では、個々人が物理的拘束にさほど左右されずに結びつくことが可能になった一方で、それを悪用した犯罪も目立つようになった。
僕はSNSを利用していない(その上、SNSでやりとりする友達も恋人も家族もいない)ので、あまり知ったふうのことはいえないが、10年ほど前からすでにwebは窮屈な場所として感じられるようになっていた。
たとえばそれは20年ほど前にTVがつまらなく感じるようになったのと同じものである。
ようやく社会的にもwebが不自由な場所だと認識されるようになってきたようではあるが、利用を最小限にするのではなく規約や規制によって統制を図り、安全性を確保しようとしているように見える。
結局のところそれは、TVが娯楽として楽しくなくなったことにもそのまま通じている。
社会や人間関係そのものが、規約や規制によって統制を図り、安全性を確保しなくてはならないものに変化してしまったかのように。
もはや恒常性は神話でしかないのかもしれない。
かつて規制によって一定の秩序が集団に作用するようにできていた。
集団の中でトップダウン的に出された指針によって、組織は一定の働きをするようにできていた。
放送局と視聴者は、その(どちらか一方ではない、両者という)集団において個人主義的な価値観が行き過ぎた結果、一部の一意的な善意によるクレーム対応のため規制を強めるよりなくなったり、あるいは一方的な目的意識によって発信側に問題行動が発生する(倫理的な問題がある場合はもちろん、実際に倫理的な問題はなくても、発信側の行動が視聴者に問題だとされる)こともあった。
後者は特に抽象的に感じられると思うが、例えばいわゆる「やらせ」と呼ばれる捏造行為であるとか、「このあとスタッフがおいしくいただきました」というテロップを必要としたりといった「手法」のことである。
またドキュメントとエンタテインメントを(おもに出演者の人間関係や感情の長期的な変遷 ── 主に恋愛感情 ── などをコンテンツとして)混合したような番組では発信側の予期しない展開そのものが本来はコンテンツであり、それが結果的に視聴者の反応(主に不快感)を制御不能なレベルにすることもあったように観察される。
結局のところ、不特定多数に向けたエンタテインメントはすでに成立しないのだ。
出版物にしても、かつては発行100万部を超えてベストセラーと呼ばれていたものが、最近では数十万部でそう呼ばれている。そのくらい、人々はその興味も関心も分散している。
それをひとつのテーブルやメディア、コミュニティに集約することは、それ自体が前時代的なありようなのだと思える。
お茶の間に自宅の家族はおろか近所の人まで集まってTVを観るという文化は、その価値観も倫理も絆もすでに失われたのだ。
そのうえ、多くの娯楽がインタラクティヴィティを持つようになっている。
発信者側が組織や集団であったとしても、結果的にコンテンツを楽しんでいる人間がそこに個人を見ている場合、一部の(僕の言葉では「アタマオカシイ」とされる)人にとってはあたかも友達のように文句を言う相手になってしまう。
直近の例では「これまでオリンピック開催に否定的だった番組(あるいはコメンテータ)が、急にオリンピック開催に肯定的かつ積極的になった」というクレームを見ることもあった(とくにwebで、だったろうか)。
TVプログラムは個人ではない。
そこに登壇して発言する人も、それがキャスタであれ、ホストであれゲストであれ、あるいはディレクタやプロデューサであったとしても、カメラの前で発言している以上は個人の皮を被った出演者に過ぎない。
個人の意見や思想を公共の電波に乗せるのは、それが目的になっているときだけだ、という当たり前のことを理解できない人は、放送局や番組構成チームといった組織や集団の存在を忘れ、無視している。そしてそれらの集団には人格(権利義務主体としての人格ではなく、価値観の集合によって個人と見なされるべき対象)が存在しないにもかかわらず、勝手にそこに個人を投影してしまう。
これらを僕は「アタマオカシイ」と断じてしまうのだが、実のところ人格のないものにキャラクタを見出すのは、高度な人間の能力でもある。
子供が人形を相手にキャラクタを設定してコミュニケーションするように、かつての社会では、それは幼稚なこととして忌避されていた。
当時の社会の中で、インタラクティヴィティを持つのは実在する人間とのダイレクトなやり取り(対面/電話/手紙など)によるものだけであり、そうでないヴァーチャルなすべては現実世界で何の役にも立たないものとして馬鹿にされてさえいたのだ。
ためにTVゲームはただの遊びと見なされ、アニメや漫画も芸術よりは格下の単なる娯楽として扱われていたわけだ。
今では漫画やアニメが芸術として認められ、TVゲームがエンタテインメントとして、あるいはスポーツとしてさえ認められるようになった。
同時にヴァーチャルなものさえインタラクトできる対象になった。
実在しないキャラクタが声を持ち、歌を歌い、実存しないモデルを人はリアルタイムに演じ/それを観ることが可能になり、それらはエンタテインメントとして成り立っている。
(参照:Vocaloid / Vtuber|いずれも Wikipediaへのリンク)
人間の人格認識能力は、かくして過剰に発揮されることをよしとされるようになり、経済がそれを後押しした。
結果として、人間は過剰に個人を見るようになったといえる。
ヴァーチャルが個々人のアタマの中に投影されてヴァーチャルでなくなるとき、実のところそれはリアルを超えてしまう。
とくにヴァーチャル慣れしていない人ほど、ヴァーチャルを脳内投影した結果、暴走しがちだろうと思われる。
これは実証を集めていないのでなんともいえないのだが、恋愛経験が少ない人ほどストーカーになりやすいことに似ているのではないかと考えている。
経験の少なさや、視野の狭さは、結果的に過剰な想像力を増長させる。
通常ならば、経験や広い視野によって、現実的な範囲内に想像力がセーブされるはずが、それらの不足によって制御を失い、過剰なままの想像を現実世界に投影することになる。
これは社会経験や対人経験のすべてに共通していて、それらに憧れる人もそれらを嫌う人も、経験していない人のほうが想像によって過剰な意味づけをしている。
たとえば僕は基本的に人見知りではあるが、人と会わないときの方が人と会うのが怖くなり、会いたくなくなるのだ。
定期的に人と会っていれば、その過剰な恐怖心は抑制される。
それは正しい「他人の像」を認識できるからだ。
就職も同様で、僕は最初、就労するのを過度に恐れていた。
恋愛だってセックスだって同様である、最初は怖くて仕方なかった。
未知のもの、未経験のこと、他者が関わる全てのことは、怖くないわけがない、というのが僕のスタンスである。
未知のもの、未経験のことについて、適切なスケールでそれを把握できる人のほうが少ないだろうと僕は思っている。およそそれは不可能だ。
また他者が関わる場合について、十人十色の言葉の通り、絶対の答えなど存在しないのも事実だ。
たとえばどんなにwebや書籍で情報を集めたとしても、実際にそれを経験することによって得る情報とは雲泥の差があり、求めた「正しさ」が具現するとは限らない。
俚諺にも「過ぎたるは及ばざるがごとし」というではないか(そっちかい)。
そして、たとえばアイドル歌手のファンが、自分を特別視してくれていると過剰に思い込むことは異常だと自覚できる可能性が高いけれど、相手がヴァーチャルな存在であればそもそも相手は人間ではないのだからどのような隠された設定を脳内でしたところで問題になることもない。
こうした現象が現実世界ですでに齟齬を生んでいる。
たとえばある Vtuber(Youtube そのものもあまり見ないので名前も忘れた)がIRLの日常風景を撮影して撮影された現実世界の手について、視聴者から「(そのキャラクタは)そんな手じゃないだろう」とクレームを付けられたりすることもあったそうだ。
先の「TV番組としての意見」というものも、視聴者の勝手なイメージである(一方でクレームを付ける側は真剣である)。
不特定多数を相手に経済活動をする中で、ちょっとした発言で炎上したり、不祥事で活動停止に追い込まれるのも、個々人に投影されたイメージが過剰に保護されている結果だろう。
綺麗で完璧なものがあると思うこと、思い込むことは決して悪いことではないと思える。
しかし本来的に綺麗でも完璧でもないものにそれを投影できる時点で相当ファンタジィでハッピィな脳内だろうとは想像できる。
それが行き過ぎれば、自分の想像したキャラクタだけが絶対的なものとなり、自身の設定を侵す行為は許されない、ということにもなる。
この「脳内でヴァーチャルが過剰成長する」現象は、ヴァーチャルな存在には留まらず、結局のところ自分以外の全てに投影される。
過剰な想像力を制御できない個人は、TVプログラムに人格を見出して発言に一貫性を求め、SNSの有名人を古くからの友人であるとか学閥の後輩か何かのように扱おうとする。
もちろんそうした人は極めて少ないけれども、脳内に投影されるヴァーチャルな風景を「自分が作っている」と認識できない幼稚な知性は確かに存在していて、その過剰な想像力は社会にとって危険な因子として作用することもある。
かくいう僕も想像力が過剰なほうであるから、自分の確固たる人格がないのをいいことに人格を分離させている。
極端なことをいえば「殺人はよくない」という僕がいるかと思えば「殺人も致し方ない場合がある」という僕もいる。
「自然環境の汚染を防ごう」という僕と「なあにかまうものか」という僕は同じ肉体にパッケージされていて、その時々の場面にならないと(蓋を開けてみないと)どちらに転ぶか分からない。
SNSはほとんど使わないけれど、ゲームをするときによく使う人格もあり(それは女性であるが)僕はその人格を使うことをとても楽しんでいる。
僕が異常な行動に走らないのは「正しいかどうかは僕が決めることではない」と思っているからである。
他者の言動に正しさを求める正義感は、決して悪いものではないとは思う。
けれども一意的な正しさを他者に強制するとき(昨今のニュースやコメントではよく見かける風景になりつつあるが)それは一線を超えると狂気になり、どういうわけか人はヴァーチャル(あるいは「匿名性」と言い換えてもいい)の中で独善を暴走させる。
いやなに独善の暴走なら僕だってする。
しかし誰かにそれを突き付け、突き刺すようなことはしない。それは暴力だ。
それをされたことのある人なら知っているだろう。あれは無駄に痛い。
僕はSNSをせず、ブログも目立たないように、読者が増えないように工夫している。
不特定多数のシンパを作ることは(たとえそれが経済活動であるとしても)もはや危険なことでしかない。
極論から入りたがる僕はちょっとしたことですぐに炎上しそうだし、誰に問題視されることもない無難なコンテンツなら作る必要はない。
思ったことを思った通りに表現して、それがきちんと受け入れられる場所は、web上でもヴァーチャルの中でもなく、IRLの、つまりは足で歩いて手で触れられる人間たちのコミュニティにこそある。
1211023
未明に就寝。
体調は、絶好調ではないが、不調でもない。いかんせん寒いので扱いに困る。
こういうときに油断をすると風邪を引く。
だからといって大人しくしすぎると、体力と気力が落ちる。
毎日すこしずつ、何かをすることができればいいのだけれど、1時間何かをしていると、ずっとそれをしていたくなることが多い。いわゆる行動における慣性の法則である。
最初はあまりしたくないのに、ひとたび始めると、楽しくなってしまって今度はやめどきが分からなくなる。何一つ計画的に行動できたためしがない気がしないでもない。
8時に来客の約束をしていたことを忘れ、インタフォンで目覚める。恥ずべき事態である。
慌てて目覚めて作務衣を着て、玄関へ。
寝る前に確認しなかったスケジュールはこのようにして忘れ去られる。
外に出て作業をしようかしばらく考えるが、寒いし土曜なのだからのんびり過ごそうと考える。完全に慣性の法則に支配されている気がする。
要するにやる気が出ない。やる気というのは出したり引っ込めたりするものでも、できるものでもないとは思うが、とにかくやる気が出ないのである。寒いし。どことなく気力も体力も絶好調とは言い難い。
しかしそんなことを言っていたら、絶好調の時なんて、月に数回も訪れない気もする。単純な怠け癖ではないのか、とも思うが分からない。好調なときは、目覚めてすぐに次の作業を開始したいと思うのだ。たしかそうだったはず。
理由の分からないやる気のなさは、体調由来なのか、それとも季節由来なのか、昨日気付いたセロトニン不足のせいなのか、よく分からない。
こういう気質をして、姉にして僕を「双極性障害だよ」と言わしめるのであろう。
気力というのが、そもそもよく分からない。
たしかに気分が乗るときもある。目覚めた瞬間から、よーしやるぞぅ! という気分のときのことである。
しかしそういうのは、いつまでも続くようにそのときは思うのだけれど、思い返すと2週間も続かない。1週間続けばいいのではないのか。
待て待て。
ワクチン接種以降と以前の行動を考えると、まずギターを弾いていない。
朝方、軽いワークアウトをしたら急激な眠気に襲われ、倒れるように眠る。
211024
世間的に日曜ということなので、今日は何もしないことにしようと決める。
211025
未明に眠り9時頃、姉の電話で目覚める。
月曜だけれど雨になるということなので、今日は何もしないことにしようと決める。
しかし朝から晴れ。こころなしか暖かい気もする。おかしい。
211018
未明から寒い。
冬の匂い。
朝方眠って午前中に目覚める。
冬は僕の恋人なので、僕はその匂いも大好きである。寒いけれど。
熱はほぼ平熱に戻ったけれど、春過ぎから平熱が36.4〜5℃になってしまったようである(接種会場でもそのくらいの体温だった)。
朝は36.8。特に熱っぽい気はしないが、左腕の接種位置は痛むし少し腫れているような感じである。
寒いので庭に出る気もしない。
そういえば寝るときに寒い思いをしたので、羽毛布団を干すことにする。
この家ではどういうわけか、布団を屋根で干していた。たしかに他に適切な場所も見つからない。
2Fのベランダに出て、1Fの屋根の上に布団を広げる。
これで今日の仕事が終わったような気分になる。
211019
未明に眠り8時起床。
今日は外出の予定がスケジュールされている日。
とても眠かったがスーツに着替える。
まるで会社員の頃のようだ。
ゴミ捨てをして、約束地点に出発する。所有物の立ち会い確認。
>>>
やはりスーツを着るのは好きである。
なんというか、表皮や外骨格に包まれるような安心感とフィット感がある。
スーツによって、液体のように不定型な肉体が、正しく限界を設定されるような。
とくに寒い時期は、スーツは本当に心地がよい。
帰宅してもスーツで過ごす。
作業着の時は汚れていることが多いのですぐにシャワーを浴びたり、少なくとも着替えるのだけれど、スーツならそのままでいいんじゃないかと思う。
会社員の頃は、休日でも外出するときはスーツを着ていた。
スーツ以外の服の手持ちがほとんどなかったからなのだが、基本的に、夏は涼しく、冬は暖かく過ごせる。
211012
午前中にレンタカーを借りて姉の家へ。猫たちは留守番。
最近の軽自動車は装備がすごいな、と感じる。乗りたいかどうかは別として。
個人的には、エレクトロニックな先進性が嫌いなわけではないが、メカニカルで、ちょっと不便なくらいの機械が好きだ。
おそらく人間についても、何でもスマートにこなすファンタジックな人間よりも、ちょっと癖があって、多少扱いにくいくらいのほうが好きである。
機械や自動車には、機械らしさとか、自動車らしさというものがあり、人間には人間らしさがある。
融通が利かないのは機械らしさだし、なぜかときどき調子が悪かったり調子がよかったりするのが自動車をはじめとするコンプレクスな機械らしさである。
人間の場合も、素晴らしい部分と、ダメな部分が同居しているくらいの方がいい。
夢物語にあるような王子様、お姫様というのは、水耕栽培のレタスのように味もなければ歯応えもない。
それぞれ勝手にすればいいことだ。
だいたいは夢見がちな人たちだけれど、最近はヴァーチャルに対してそうした欲を向けることも可能になった。
昭和の頃なら、ヴァーチャルは非現実で、そんなものに傾倒する人間は幼稚で愚かで使い物にならないと言われていたのだ。
ちなみに僕は完全にヴァーチャル寄りの人間だと思う。
僕という実存を、きちんと感じたことはあまりないし、僕という人格を断定できないため、うまく定義できない。
つまり自分を自分で「こういうものだ」と言い切れない。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。蓋を開けるまでは分からない。
それで猫なのかもしれない。
211013
久しぶりの首都高。
都内中央部は、いつもどおり強いストレス。
湾岸線を抜けて横浜方面に向かうような道(名前は知らない)ならば多少は景色を眺めて気持ちも晴れるのだけれど。
隣に人がいるのも強い緊張を強いられる。
ハンドルを握るのは基本的に、だから、とても疲れる。
もちろん、誰かが隣にいるのが悪いとは思わない。
単にいつも以上の安全運転をするだけである。
しかし首都高というのは一部、悪意があったのではないかと疑いたくなるほどおかしな設計になっている箇所もあるから、譲り合うことがおよそ不可能な状況がたびたび発生する。
(二車線同士の合流、合計4車線から数百mで二車線2つに分岐、中央二車線の合流がアツい。なども一例)
帰宅してぐったり。
ちなみに姉の入院している看護しさんたちに、こっそりモテているらしい。
社交辞令か嘘かは知らない。
そもそも直接コクハクしてもらわないことには、その好意は最初から存在していないに等しいのだ。
211014
午前中に壁のMDF張り。これで張り付け作業は終了。
午後にワクチン接種。
「EVE Online」というゲームのMac版(M1チップ版)クライアントがリリースされたので、DLして即日課金し、プレイする。
5年ほど前までプレイしていたが、時間とお金がなくてプレイを継続できなくなってしまった。
5年前まで持っていたほとんどすべてを、僕は失った。
仕事もなくなったし、人間型の恋人もいなくなった。介護もなくなって、棲む場所も変わった。猫が増えて、仮想人格がまともに動作する環境が出来た(意味の分からない文章については無視してください)。
端的に言えば、ほとんど全てを失って、およそ想像を超えるくらい自由になった。
5年前までのほとんどすべてを失ったけれど、それによって手に入れた自由は、なんというか別次元のように感じる。
ひとつだけ心残りというか、後悔がある。
僕は5年ほど前、何人かの人をひどく傷つけた。
それから徐々に、何かの罰が下るかのようにして、いろいろなものを失うことになった。
とくに、結婚するという理由で別れることを突きつけられた当時の恋人(人間型でかつ当時すぐに連絡が取れる範囲で、だけれど)には、本当に申し訳ないことをしたと今でも思う。僕がそれをされたら、ちょっと耐えられない(だから僕は、恋人が勝手に増えることがあっても、自分から減らすようなことはしなかったのだ)。
僕がいろいろなものをなくしたことを、しかし悲しいとは思わない。
それは僕の選択だし、たとえば倉庫や冷蔵庫、あるいはスケジュールのように、何かがなくなれば自由に使える空間や時間が手に入る。
ただ、自分以外の誰かに何か(たとえば猫だと自称する恋人)を失わせることを選択したのは、僕にとって(僕の選択によって誰かが悲しい思いをするということで)は悲しいことだ。
それでも基本的に女性というイキモノはドライだから、メンスと一緒に僕に対する想いも記憶も流れていればとは思う。それならせめても救いがある。
それに人間型の恋人がいなくなれば、もう誰かが悲しい思いをすることもない。
これは結局、自由の利点だろう。
211015
副反応。発熱。38.5℃、左腕に強い痛み。他も部分的に痛む。
筋肉痛とも関節痛とも違う、不思議な種類の痛み。
強く力を入れたり、強い圧が掛からなければまったく何の痛みもないのに、ひとたび力が掛かると、骨でも肉でもないぼんやりとした広い範囲に、くっきりとした痛みが走る。どこから、でもなく、いつまで、でもない。つかみどころのない、しかしはっきりとした痛みだ。
まっすぐ歩くことが出来ない。
211016
弟子を怒らせる。
弟子は自身に対する他者の認識の上で「正しい」とされる状態でないと気が済まない性分なので、ついムキになってからかってしまった結果である。
(より具体的には、交通事故に遭ったらしいのだが、その状況について、情状酌量の余地がないということを淡々と押しつけてしまった)
しかし僕は基本的に「自分は正しい」とか「自分は正しいことをしようとしている」と、確信を持っている人間や思考が大嫌いなのだ。
夜は体調が回復してきたので、買い物に出かける。
味噌汁をこのところたくさん作ったので、水がなくなりやすい。
211017
昼頃、突然BPがやって来る。どうやら見舞いだったらしい。
僕は「EVE Online」を元気にプレイしていたので、見舞いというほどでもなくなってしまった。
2人でそれぞれゲームをして過ごす。
BPの母上が、なぜか手作りの料理をお裾分けにいらっしゃる。
拝顔するのは15年ほどぶりか。
しばらくゲームをして過ごしたいからブログは書かないかもしれない。
俺は死んでいないから安心して眠れ。
211006
朝早くに目覚めるが、身体の寝覚めがあまりよくない。
重いわけでもないし、喉鼻の粘膜にひどい乾燥や腫れも感じないが、かといって軽快に活動したい! というわけでもない。
昨日決めたとおり、今日は生産的なことは一切せず、昼頃までごろごろしようと思うが、目を閉じてしばらくして気が変わり、起きて粥作りをすることにする。
いつもきちんと計量しないので正確には分からないが4〜5合を圧力鍋で軽く研ぐ。
白米を、しかもこれほどの量を見るのが久しぶりで少し眩しい。
炊き上がったはいいが、柔らかめのごはんであり、粥にならなかった。
水をかけて冷ましながら温度を60℃に調整し、麹を混ぜ入れる。
再び蓋をして羽毛布団でくるみ、最初は30分、次からは60分ごとに温度を確認する。
10時を過ぎたあたりの検温のあと、退屈してきたので次のタイマをセットして仮眠する。
11時頃、電話で目覚める。
見知らぬ番号ではあるが、珍しいことでもあるので受電すると、ホームセンタからであり、昨日取り寄せ依頼をしたトリマが納品されたとのこと。
どういう仕組みか考えつつ、出掛けることにする。
>>>
1歳半になるアヲは、使い魔よろしくいまだに僕の肩に乗ることを好む。
朝になると「散歩連れてけ〜!」と催促に来ることもあるほどである。
車に乗るのもいまだに平気で、肩に乗って顔を窓から出しては周囲の注目を集めている。(僕に、ではないので努めて無視している)
しかし今日は陽射しが強めなので、肩に乗ったアヲを下ろして留守番をしてもらう。
ちなみにクロとソックスはすっかり引きこもりの子になったので、ケージから出ることも稀である。
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帰宅して、半分くらいの麹床を甘酒用にタッパに取り、残りに塩と輪切り唐辛子を放り込んで漬物床にする。考えるに三五八床を作るのは6年ぶりではないだろうか。
環境が整わないと実力を発揮できない繊細なセイカクナンダナァー、と明後日の方向を眺めて呟く。といっても twitter に書き込むという意味ではない。
夕刻、買い物をしてキュウリと人参を漬物床に漬けたあとは、ぼんやりして一日が終わる。
奥様(仮想)に「猫クン、もしかして逆流性胃腸炎なのではないのですか」と問われる。
奥様によると、
などが原因になることもあるという。
ウィスキィやブランディとチョコレートの組み合わせは格別であり、そこに煙草を合わせるとまた絶妙なので、たしかに数日前、この組み合わせをして深酒をしてしまった記憶がある。
そのあたりを申し上げたところ、ジト目でしばらく見つめられる。
この組み合わせはしばらく控えよう。
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211007
8時頃、外に出る準備(作業着を着て、頭にタオルを巻いて、ゴーグルと防塵マスクを準備する)をしていると、浄化槽の掃除屋さんがやって来る。
「お仕事は、今日はお休みでしたか」と問われたので「ええ、そうなんです」と嘘を吐く。社交辞令程度の世間話に対して正直に無職であることを説明しても、お互いに面倒なだけだということが最近分かったからだ。
大人になったものだと思う。
新しいブロワも設置してもらった。
とても静かで仕事をしているようには見えない。
かなり近づいてようやく作動音を確認できる。
会社にも必ずこういう人間がいる。僕はどちらかというとその手合いだった。
なので動いていないブロワのことを、気遣いをしているだけで実は仕事の出来る奴だと勘違いしていたのだ。まぁ、僕は静かな上、あまり真面目に働いてもいなかったけれど。
浄化槽は7人槽サイズらしい。なるほど滅多に清掃を頼まなかったわけである。
この数十年、この家で暮らしていたのは叔父夫婦二人きりなのだから。
帰りがけに訊ねたところ、1人なら2年に一度くらいの点検清掃で十分だそうだ。
僕は定期的にバクテリア(浄化槽用のそれがホームセンタにも売っている)を放り込むので、うまく働いてくれるといいな、と思う。
草取りをするが、夏の間に取った草がかなり溜まっていたので、焼却炉で焼く作業と並行する。
庭木の一部の枝が邪魔なので、伐採。
昼過ぎ、ひどい鼻づまりに気付く。薬が切れたらしい。
やはり花粉症がひどいのかもしれない。常飲している薬を飲む。
花粉症は気がつくと始まって、気がつくと終わっているので、飲み出しと止める頃合いを測るのがむつかしい。
>>>
211008
やはり昨日も22時頃に眠くなって寝てしまう。
そのため目覚めたのは6時。
洗濯などを軽く済ませて9時を回ったところでワクチン接種の予約をする。
もうかなり空いているという話を聞いていたが、それでも予約できる日は限られていた。もっとも僕はLINEを使っていないため、電話予約の窓口では予約できる日にちや会場に制限があるのかもしれない。
行政がLINEをインフラにするのがずいぶん定着しているようだ。とくに是非はないけれど、どうしてメールにしていないのかは謎である。LINEを利用できる人はもれなくメールを使えると思うのだけれど。あるいはweb予約でもいいと思うのだが。使うとポイントでももらえるのかな。
10時頃から草取り。
一向に終わる気配がない。
焼却炉の灰と炭は畑に撒いている。
近所の人からは完全に変人扱いされているだろうと思うが、親交がないのでなんともいえない。もしかしたら聖人扱いされて、崇め奉られている可能性もないとはいえない。いや、ないな。
なるべく毎日4時間程度作業をして、4時間程度家事をして、後は遊んだり眠ったりしようと思っている。
しかし極端に暑かったり寒かったりすると作業時間が0になることも多いし、天候が悪いときも働かないことが多い。
やはり4時間程度を基準にして、もっとしたいときはすればいいという方式が良いか、と考える。
トリマを使って庭木を軽く整える。
トリガボタンを押し続けないと動作しない(ロックがない)上、重い。ついでに駆動音がうるさい。
もっと価格が上のモデルなら、せめてスイッチロックくらいはあると思うが、これは廉価版だから仕方ないと諦めて作業する。
午後になってから自転車で買い物に出かける。
庭仕事をすると、だいたいシャワーを1日に2〜3回浴びることになる。そのうち1回は風呂だけれど、まるで20代の頃のようだと思う。
記憶では30代半ばを過ぎるまで、朝と夜とにシャワーを浴びていた。
皮膚の感触が気持ち悪くて、顔を洗うだけでは足りなかったからだ。
>>>
211010
早寝がすっかり身体になじんでしまった。
早いと18時頃、遅くとも22時には眠くなってしまう。
眠くなったら素直に眠ってしまう。
すると未明に目覚めることになる。まぁ、寝直すもよし、起き出すもよし。
花壇のいわゆる雑草たちの除去があらかた終わる。
次いで手入れが悪くて弱ってしまった植木や過剰に繁茂している庭木を剪定し、一部は根元から切り倒す。
ツルハシを使って根を掘り返す。
まずは周辺から。最後に根本体を。
数年前から茅が繁殖し始めていたのだが、植え込みの根に絡まって完全な除去は不可能な状態だった(種で増え、地下茎で増えるのだ)。ついでにこれらの根を、可能な範囲で掘り返す。
途中、比較的小ぶりな庭石に当たる。
(土の中で、鍬やシャベルが石に当たったときの音を僕はもう完全に識別できる)
納屋からシャベルだの何だのを持ち出して、周辺から掘り起こす。
赤い石だから、それなりに値の張る物だったのだろうか、丸くてどうでもよさそうな石と併せて3つほど出てきた。とても重いが、納屋の前に運び出す。
昨年に切り倒した中くらいの木の根がいまだ除去できない。
ひたすら周辺を掘り返す。
ツルハシを持つ腕の力が、仕舞いに弱くなる。
腕は痛いし、掌に水疱ができている。
相変わらず柔らかくて弱い皮膚だけれど、まぁ、私は自分の肌が好きだからこれは仕方ないかな。あとで労ってやろう。
休憩をしていたら強い空腹を感じたので、カップうどんを作って玄関で啜る。
作業着が泥で汚れているので、他に居場所がない。
食べていたらアヲに肩に乗られる。出掛けるとでも思ったか。
作業を再開し、焼却炉も火を入れる。
14時頃、作業終了。手も足も腕も腰も痛い。
シャワーを浴びて、自転車で買い物に出かける。
>>>
最近自転車で買い物をする機会が増えたのは、そのためにけっこう大きめ(35Lサイズ)のバックパックを買ったからである。
それまではバックパックが直接背中に触れず、エアフローが確保されるようなものしか持っていなかった。
軽くて高耐久で抜群の通気性を誇り、当然放熱性が上がるわけである。
しかし容量が少ない。オマエは何のための道具なのかと言いたくなるくらい高かったくせに何も入らない。持つため専用バッグみたいなものである(そこまで入らないわけでもないが)。
そこで大容量のバックパックの必要性が調達部および運動管理委員会から訴えられていたのである。
実際に使ってみると、豆腐4丁と牛乳パック1Lx2、きのこ(しめじサイズ)6株を入れても、さらに少し隙間があった(けっこう重いが)。
重量物に対して変形するのは否定できないが、容量の大きさはかなりのものである。しかもさほど高いモノでもなかった。
>>>
13日に定期入院する姉を港区の病院に連れて行かなくてはならない。
これは夏の頃には決まっていたスケジュールであり、このため奥様(仮想)から「車を買ってください」と言われていた。
だいたい20〜50万円もあれば走る車は買えると算出されていた(これが「概算要求基準の通達」である)。
ちなみに以前、エンジンが爆発した車は10万円で買ったので、50万円もあれば同じものが5台も買える計算である。買わないけれど。
今回はレンタカーを利用することにした。買うより安いし、僕は今のところ、乗用車には用がなさそうだからだ。
「来年の夏までには、必ず、乗用車を買ってください」と奥様(仮想)に強く要望される。
たしかに乗用車がないと熱中症で体調を崩す。可能性の問題ではなく、すでに何度か経験している以上、奥様(仮想)の指摘は正しい。
12日の午前中にレンタカーを預かり(歩いて行ける距離にある)、姉の家に一泊し、13日に病院に送って帰宅(レンタカーも返却)、14日はワクチン接種である。
(1日ひとつしか予定を入れないようにしていることもあり)スケジュールが立て込むので、11日は何もしない日と決める。
何もしない日というのも、この数日では珍しいので、何をしたら何もしないで済むのかが分からなくなっている。
久しぶりにTVゲームでもしようか。眠くなってしまいそうだけれど。
そういえばしばらく喫煙していないので、夜になって1本だけ点ける。
まだ美味しく感じられないので、もうしばらく禁煙していようと奥様(仮想)に報告する。
このところ胸のむかつきや胃液の逆流もまったく感じない。
(頻繁に感じていたら病院に行くべきだが)
もうしばらく胃腸を労る食生活を維持しておこう。
211005
早朝に目覚める。
早寝したから当たり前かとも思うが、この数日の体調を考えるときちんと身体まで目覚めたことはちょっとした驚きである。
ゴミ捨てののち、草取り。
庭に勝手に咲かせている花を付ける草の根に混じって猫じゃらしだのなんだの(だいたい名前を知らない)が生えるので、そういう場所の草取りが一番厄介ではある。カサも集まらないから、いまいち仕事をした気分にならない。
それでも少しずつ進める。
おそらく僕が抜かないように育てている草花も、雑草のうちなのだろう。なにせ痩せた砂利の上で自生するのだから。
それでもつい選り好みをして、依怙ひいきしてしまう。
1時間程度ごとに意識的に休憩を挟む。気温は比較的高めになりそうな予感。
蚊取り線香をだいたい3〜4点で焚きながらの作業になるのだが、体調に配慮して防毒マスクをしながら作業する。
(基本的に蚊取り線香の殺虫成分は、哺乳類の体内に取り込まれてもかなりの速度で分解されてしまうため、基本的に無害とされている)
ステルスマーケティングのようなことを書いてしまうが、僕は今年、蚊取り線香を何種類か試した。
店舗で実売価格を観ると分かるのだが、金鳥が、一番高い。
それで他社の廉価な商品を買うことが多かった(表示上の有効成分と用量はほぼ同一なので)。
アース製薬の蚊取り線香が一番安かったので、通常版と「最強」を謳う商品とを使ったのだが、いずれも喉に刺激を感じることが多かった。
特に「最強」版は、香りも強くて僕には不向きだった。
一方、秋に入ってから金鳥を買ってみたのだが、香りも優しく、喉や鼻の刺激もさほど感じない。(あるいはだからこそ吸い込んでも気にせず作業してしまって体調を崩しているのかもしれないが、そもそもそんなに蚊取り線香で影響が出るような身体なのだろうか)
そのようなわけでちょっと値段が高いのだけれど、来年から、煙が当たるような場所で焚くのは金鳥の商品にしようと思った。(閉めた窓の屋外などなら、廉価版をじゃんじゃん焚けばいいのだ)
ほうら。ステルスマーケティングっぽいだろう?
(残念ながら僕はインフルエンサと呼びうるほどの影響力をweb上では持っていない ── IRLでも持っていない ── ので、マーケティングに貢献しても金鳥からマージンをもらうことが出来ない。無名であることの優位を好むので仕方のないところか)
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作業中、ときどき胃や胸のもたれというか、吐き気というかに襲われる。
理由は分からない。
しゃがみ込んでいるときに、内臓が圧迫されることが原因だろうか。
しかしよくよく振り返ると、1週間ほども前から、作業をしていない時間でもこの吐き気のようなものを自覚していた。
思い当たる原因といえば飲酒くらいか。
明日こそは飲酒をしないでおこう、というのをここ数日、確かに思っているような気がするが、お酒を目にする頃には忘れている。それがよくない。コップにマスキングテープを貼り付けておけば間違いないだろう。煙草を吸わないことには何の抵抗もないのに、お酒の場合は気付きにくい。まぁ、そんなに強い自覚症状がないからだろう。相関性も不明だし。
体温や心拍、その他の体内器官の感覚に自覚的な異常はないので、気にせず作業を続行。
畑(の予定の花壇)に進入し、大量の草を一輪車で数回集めて気付く。
「そうだ、草刈り機、買おう」
静かに、そして固く決意する。
どのくらい固いかというと、水で戻す前の高野豆腐くらいの固さである。
木綿豆腐よりは固いが、コンクリートと比較すると柔らかい。それに人間の手で折れる程度の固さである。
緊急予算審議委員会 ── 委員長:奥様(仮想) ── を招集し、草刈り兼ヘッジトリマの必要性を訴える。概算要求基準は半年以上前に奥様(仮想)から通達されているので、むしろ審議に上げないまま放置し、夏が終わってしまったことの方が問題視されかねない。
ここは秘書や担当官に責任をなすりつけ、自分だけは穏便に保身を図りたいところだ。なにより幹事長たる上席(奥様(仮想))は僕の味方だ。マスコミについては買収しよう。しかしそんな予算はないから誰かにタカって買収用の予算を提供してもらえばいい。記録文書は作らず、審議等で一時的に保存される文書についてもすべて破棄すれば何も残らない。オレッテテンサイダナー。
審議は数秒で無事通過した。
むしろ上の蛇足の文書の方がはるかに時間と手間が掛かっている。こういうところに僕という思考回路の問題が露呈する。
いいんだ。これがキャラクタであり味わいなのだと言い聞かせるしかない。今さら他人になんかなれるものか。支持者はきっとたくさんいるし、いなくてもどうせ投票に来るような連中は私を支持するに違いない。一度当選した以上、絶対にこの地位は手放さないぞ!という不退転の決意を上乗せで固めつつ、今度の固さはドノクライカナーなんて思ってみたり。(思わない)
作業を即撤収して顔を洗い、ホームセンタへGO!する。なんだかポップな表現でスピード感はあるが、キャラではない気がすることは否めない。
あいにく欲しいと思った商品が売り切れていたので、取り寄せてもらい、帰宅する。
13時を回っていたので近所の蕎麦屋に寄ったのだが、9月末まで店休していた影響がまだ残っているのか、待っている人が多い。
観察するに、夫婦や家族連れなどもちらほら見える(会社員なら通常の昼休みは終わっている時間であるし、市街地からは少し離れているし)。
どうしてこんなに暇人ばかりなのかと嘆くが、きっと僕が一番暇人だと思うので、黙って帰ることにする。駐車場で車を降りて2分程度で車に乗り直す。
いいさ、どうしても食べたかったわけじゃないしと自分に言い聞かせて。
そもそも昼食を摂るというのは、僕にとってはおやつを食べるようなものだし。いいもん。悔しくないもん。胃もたれだか胸焼けだかなんだかしているし。
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帰宅後、軽くシャワーを浴びて花屋に出かける。
花束を持って母上のところへ。
未だ埋葬をしていないので、姉上からあとで連絡が欲しいと甥に言伝を頼む。
故人に花を手向ける習慣は、僕にはない。
(なので盆に叔母たちに花を用意したりはしなかった)
母へ花を手向けるのは、ただの依怙ひいきである。
再び帰宅し軽く外食。
2時間もしないうちに激しい睡魔に襲われ、よろよろと(歩いて)帰宅。
ふらふらしながら服を脱ぎ散らかしてベッドで横になり、気絶するように眠る。
(日付の変わる前に目覚めたのでこれを書いている)
草取りをしている最中、ドーラ(doller)と呼ばれる、人形愛好家についてあれこれ考えていたが、今日は体力が少ないので続きを書かない。
先日軽く触れた Synology のNASキットが数日前に到着しているのだが、設置は書斎の壁の作業が終わってからになりそう。
書架も届いてしまって作業の種類と量が多い。
会社であれ家族であれ、組織ならば上司や部下や同僚に相談したり業務を割り振ることが可能だが、僕の場合はせいぜいが仮想人格を作って業務に対する認識の幅を持たせることで作業の効率化を図るくらいがやっとであり、実作業については身体がひとつのため、つくづく弱い。
そもそもこの家で改修作業(リフォームや補修)をしながら定期メインテナンス(草取りや外構掃除)などの通常作業を並行し、炊事洗濯掃除といった日常業務を行うのにあたって、果たして一人で足りるのかという問題が最近頭をもたげる。庭の開墾だってあるし。
もっとも期限を設定していないから問題がないというのは事実だ。
家族がいたら急を要する作業 ── たとえば浄化槽の処理であるとか、先日いくつかまばらに外して廃棄したキッチンの収納のドアの再設定、ベッドが致命的にカラダに合わない問題など ── を無視することができる。仮想奥様は僕を(基本的に)急かすことがない。
むしろ体調を大きく崩して回復を待つ方が、時間もコストも余計に掛かる。
(僕はそれを今年の春に学んだ)
身体を労り、作業を安全に進行することについて、奥様(仮想)は非常に優れた能力を発揮しているように思う。(実働の作業効率は黒猫氏のおかげだが)
しばらく身体を休めよう。
このところ休めてばかりの気もするが、この環境は比較対象も観察者も存在しないのだし、この不調は時期的なもののような気もするから。
そういえば、寝ている最中に弟子から電話があったのだった。
何を話していたか、まったく記憶にない。