//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211114
// NOTE:驚きの新展開。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
文書データ、消し飛ぶ。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
211114
 
 今日の出来事。
○書架に書類を収める。
○ストーブの芯を替える。
○NASでストレージ交換に気を取られて文書データをすべて失う。
 
 まぁ、なんといっても今回のビッグなニュースは「文書データをすべて失う」。これだろう。
 
>>>
 
 NASの構築もほとんど終わったが、1TBのSSD×4だったストレージに不安を感じていた。
(SHR というのは RAID5 に近いシステムのため、利用可能領域はおよそ3TBほどである)
 
 急ぐ必要はないのだけれど、換装はいずれ必要なことである。
 そもそも TimeMachine のバックアップデータはあっというまに1TBくらいを使い潰してしまうのだから。
 よって、とりあえず外付けHDDをNASに接続し、そちら(外付けHDD)を TimeMachine 用のストレージにしたのである。
 
 しかしNAS側のSHRというシステムは、容量の異なるストレージを組み込んでも、2台以上なら余剰分の領域を使いこなすことができるという。さすがは高い機材である。
 一般的なストライピング以上の RAID では、容量の異なるストレージ集団において、利用可能な領域は集団の最下限を基準とする。たとえば 2:2:4:4 といったストレージ集団の場合 2:2:2:2 として利用され、4:4 のストレージの半分は無駄になる。
 ところがSHRのシステムはこの 4:4 の残った領域も無駄なく使うことができる。
 さすがは高い機材である(2度目)。
 
 そうとなれば東芝製のNAS用HDDを2台買ってあったので、とりあえず試してみようと思ったのだ。
 1台ずつ換装し、データを再構築すれば元通りになる! はずだったのだが、HDDとSSDが混在するボリュームを、システムは許してくださらなかった。
 まぁ速度が違うのだから、当然といえば当然なのか。
 ボリュームの再構築にはおよそ3時間ほど掛かったので、ここまでを試しただけで丸1日は潰れた。
 
 それにしてもSSDとHDDの互換がない(混在ボリュームの構築不可 )となると、今後のスケジュールにも問題が出る。
 より大きなストレージにアップデートしようにも、SSDはHDDほど大容量のものがない。
 NASの運用を続けて容量不足になったときは、増設ユニットを使うしかなくなる(専用の増設ユニットをメーカが取り扱っている。しかし機能相応に値段が高い)。
 それならば、最初からHDDで組んだ状態で運用を始めれば良いのだ、と結論した(今更だけれど仕方ない)。
 
 しかしすぐに使える空の(しかもNAS用)HDDは2台しかなく、残り2台の購入を待っていたら、それまではNASも外付けHDDも、満足に用を為さないことになる。
 そもそもは貧弱なノートPCのデータ領域を拡張したいのと、過去のシステムを含めたデータを安全に保管したいのと、バックアップを残す場所が欲しいのである。とくにバックアップストレージの用意は喫緊と言っていいだろう。
 
 仕方ないので、外付けHDDの中にある4TBのテキトーなHDD(高性能なNAS用モデルではない)を2つ取り出して、次のNAS用HDDの購入を待たずに4TBのHDD×4の状態を作ってしまおう、と思ったのだ。
(ちなみに、外付けHDDはまさに上記の 2:2:4:4 で RAID構築されていて、4TBのHDDは容量の無駄を体現していた)
 TimeMachine のバックアップストレージとして使ったことは1回しかないし、ここでNASの構築をいい加減にしたら未来に禍根を残すのだから、思い切るしかないだろう。
 
 それから外付けHDDを2:2のストライピングで初期化し、NASのデータを外付けHDDに待避し、NASをHDDで組んで初期化し、外付けHDDからNASへデータを戻し、外付けHDDを TimeMachine 用のボリュームにすればいい。
 
 と思っていたのだ。
 
 ええ、ええ。実際、そのとおり、うまくいきましたよ。
 しかし結果として、Evernote から避難させたデータはNASのどこかに仕舞われたまま、初期化されてしまったのですね(エクスポートし忘れた)。
 
 10年分くらい(もしかしたらそれ以上)の、自分で書いた文書データがすべて消し飛んだので、3秒くらい呆然としてしまった。
 これまで書いた、あるいは書きかけのストーリィ(設定資料を含む)も、ざっくり消えてしまった。
 僕が職業ライタなら致命的な状況である。
 しかし僕は思想家なのでそんなに致命的でもないか、と思ったのだ(3秒の間に)。
 
 運良くブログサービスに、文書のひな形は残っていたので、それだけは元通りにできた。
 あとはもうwebとアタマの中に残っているだけなので、むしろすっきりして気持ちが良いではないか。
(負け惜しみではない)
 
 いやぁ、Evernote からエクスポートしたデータを削除して、その上、一度はバックアップを取ったはずの TimeMachine を使えないようにしてしまったのは致命的だった。
 今回のハードの組み直しにあたってはデータの待避先として外付けHDDを使う必要があったし、実際にデータを無事に待避できたのだ。
 Evernote の代わりに使い始めた NoteStation のデータだけ、忘れた。
 エクスポートする必要があって、それをどこかに保存しておく必要があった。しておくべきだった。しなくてはならなかった。
 
 でもまぁ過ぎてしまったことはもうよい(いきなり火の神口調)。
 
 なぜといって、webで公開していない文書は、僕にとって(誰が覗くか分からない恐怖を生み出すことがあるから、できればない方がいいもの)なのだ。
 こんなヘンな価値観を持っていなかったら、おそらく+10秒くらいは呆然とすることになっただろう。
 
 さてさて。これで毎日何かを書くのが、また楽しみになってきたわけであり……。
 
>>>
 
 このところ毎日、日記として書くようにしていた。
 これまでは基本的に自分の中にあるテーマごとに並行して書いて、それが書き上がったらwebにリリースしていたのだが、ある日ふと「自分は毎日、実は何もしていないのではないか」という恐怖に駆られたのだ。
 昨日も今日も同じように気ままに過ごしていて、特に予定のない日が多い。
 会社に勤めていたり、毎日何らかの職務があればいいのだけれど、月に1〜3日、事務処理をすれば終わってしまうのが僕の経済的就労である。
 
 残りの日は、つまり、寝ていても遊んでいてもいいわけであり、特にワクチン接種後は今まで以上にアタマが悪くなった気がして少し気掛かりだった。
 今日を過ごしたときに、昨日がどんな1日だったか思い出せないこともある。
 そもそも昨日と今日の区切りが曖昧だ(寝起きする時間が一定ではないので)。
 白痴とは私のことではないのかと思い、毎日何をしているのか記録することで、自分の行動を振り返ってみよう、と思ったのである。何もしていなかったらちょっと問題だし。
 
 しかしテーマのない日記というのは近年、あまり書いていなかった気がする(実はそうでもないかもしれない)ので、少々途方に暮れて、数日分をまとめてリリースしていたわけである。
 
 最初はタイトルを「ここまでのあらすじ(これまでのあらすじ)」としたものの、すぐに飽きてしまった。
 仕方ないので母音と文字数の一致する、意味が通じるような文を作り、それをタイトルにしていた。
「OOAEOAAUI」と「OEAEOAAUI」のいずれかである。
 
 結果的に、壁のリフォームなど何らかの作業がある限り、僕は起きて作業をしていることが分かった。
 自分で考えて計画して行動しているはずなのだが、白痴なので許してほしい。あるいは重度の認知症かもしれない。どちらでも今のところ日常生活に問題はない。
 
>>>
 
 とはいえリフォームの記録は読み返すと(僕自身にとって)役立つ情報もいくつかあった。
 とくに慣れない床の作業など。
 だからまぁ、多少は今後も書くかもしれないし書かないかもしれない。
 毎日することはおそらくあるのだし、あるいはしなくてもいいのだし。
 そうだ。
 毎日のんびりぼんやり(文字通り)寝て過ごしていても、数日だったら大丈夫だろう。
 
 ただし今の僕は、書斎をおよそ完成させたので、そんなに寝て過ごさないかもしれない。
 本も読めるし煙草も吸えるしコンピュータもある。
 あちこちに散らばった本を探して書架に収める作業も必要だし、NASを含めたコンピュータシステムの構築もまだまだ続けることだろう。
 それに気が向いたら(予算が審議委員会を通過して、材料がそろって、計画を実行できるようになった上で)リフォームを続けるだろうし。
 
 とはいえ年内はリフォームに割く予算がほとんどないことが奥様(仮想)から通達されている。
 奥様としては自動車を買う計画を放棄され、ベッドを買う予定が頓挫したことについて、少々思うところがあるようだけれど、まぁこれは私のいくつかの目論見が外れた(思うようなベッドフレームがなかった)ことと、予定外の高額な出費があったこと(これは主に叔母の不手際の顛末のひとつであるが、まぁ、これでまたひとつ解決すると思えば良いか)などが影響していることなので不問とされている。美味しい料理を作って機嫌を取るという姑息な手段で事態の改善を図りたい。
 
 よって来年まではリフォームはお休みの予定である。
 とはいえ床のリフォームは7万円前後、壁塗りは漆喰がだいたい1万円でバケツ一杯買えるので、気が向いたら少し進めようかな。
 
 そうこうしているうちにバイトの依頼が入った。
 例の遠い場所の居酒屋のバイトである。行きたくない。
 しかし人助けもときには必要である。ただそのために高騰しているガソリンを使うのはどうなのかという気もする。こんなことをしていたらグレタさんに怒られると思う。まぁ、親しくない(そも知り合いでもない)ので問題はないが。
 
image
<9月頃から毎日のように焼き続けていただし巻き卵(唐突)>
 居酒屋バイトで覚えたことを実践に移したもの。
 奥様(仮想)はお気に入りの様子だったが、ひとつ焼くのに30分近く掛かるため、およそ1週間で僕が根を上げた。
 だし巻き卵ログは、よって成立しなかった(2枚しか写真がない。これは焼き終えると同時に気力が尽きているため)
 卵1つにつきだし汁50ml(90%の水と10%の白だしと1%のインスピレーションで構成される)をミキサーで混ぜてこねこねしていうるうちに焼き上がる。
 もう卵焼きとか炒り卵でいいんじゃないかな。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  工場長:青猫α:黒猫
 
[InterMethod]
  :Algorithm:Diary:Ecology:Kidding:Maintenance:Technology:
 
[Module]
  :Condencer:Reactor:
 
[Object]
  :Book:Computer:Dish:Tool:
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
 工場長の設計室:ひとになったゆめをみる
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211107
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
書物という友人
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
211107
 
 午前中の陽を浴びてから眠って午後に目覚める。
 ファイル整理やら書架に本を納めたり、といったことをする。
 
 苦節というほどでもないし、実際には僕はその苦しみに負けて自分の考えや態度(行動)を変えて暮らしていたのだが。
(「苦節」は「苦しみに負けず,自分の考えや態度を守りぬくこと。また,その心」と辞書にある)
 
 6年ほど前の僕は、月に一冊の本を買うのにも困窮していた。
 だからといって「欲しい本は思いついたら買ってしまう」という態度を従前のように貫けば生活が立ちゆかないし、「それでも本を手に入れよう」と万引きすればそれは犯罪である。
 ために、新しい本を買うことも読むことも我慢していた。
 ちなみに書店などでお金を払わず読了するようなことを自慢する人が僕の周囲にいたが、それは立派な情報万引きだと僕は思っている。あえて指摘はしなかったが。
(スーパーで、その場で使うわけでもない大量のビニル袋を持ち帰ったり、ファミリーレストランのドリンクバーで砂糖やお茶のティーバッグを持ち帰るのと同じ、顧客のフリをした盗賊である)
 
 その後、数年で僕はちゃんとした収入が得られる仕事に就いたものの、今度は引っ越したために本を置く場所がなかった。
 書架は持ってきていたがそれを設置するスペースがなく、ちょっとしたブラック企業であったため時間に追われ、体力も削られた。
 その後、介護をしながら運送業をするが、棲み家の関係もあり身体を壊した上、勤務しながら棲むはずだった叔母の家に運んでおいた書架は(わざわざ)すべて雨ざらしにされて使い物にならなくなってしまった。
 
>>>
 
 10代の頃、数ヶ月の小遣い、あるいはバイト代で買ったそれは、最近リフォームついでに購入したような、天井までの高さを自由に設定できるタイプのもので、オプションパーツの取り扱いも豊富だったから、拡張性にも優れていた(だから値段も高かった)。
 
 叔母にダメにされたのは書架だけではない。
 師匠(と勝手に慕っていた、父上の友人の男性)から譲り受けて10年以上一緒に暮らしていたポインセチアまで枯らされたのである。
 しかし叔母を恨んだりするのは良くないと思って我慢していたというわけである(今はとくに我慢をしていない)。
 人間型の友人も恋人もろくにいないのに、そのうえ大切に慕っていたモノや植物まで殺されて(はいそうですね、人間こそが至上です)なんて、従順で優しい理解の気持ちを僕は捨てた。
 
 しかし果たすわけにもいかない復讐を、誓うか誓わないかのうちに、叔母は死んでしまった。より以上の禍根を残して。
 
 いつだったか、ふらりとやって来た不動産会社の人間が言ったものだ。
「それでもその叔母さんのおかげで今があるわけでしょう」と。
 彼の言いたかったことは即ち「死んだ叔母のおかげで、あなたは仕事をしなくても暮らしてゆけるのでしょう」という意味だっただろう。
 これには神妙な笑顔で「まぁそうですね」と返したが、実のところ、腸(ハラワタ)が捩れるかと思った。腸捻転には注意したい。
 叔母と関係がなければ、僕はもちろん『こんなことはしていない』し、同時にされもしなかったのだから。
 
 それは「遊んで暮らせる経済」などと交換する価値のあるものだったろうか。
 僕はそうは思わない。
 人間に対する信頼を失い、大事にしていた家族(のようなもの)をないがしろにされたのだ。
 実際に、家族であるところの妹夫婦にまで被害が及んでいる。
 しかしそれを説明したって、伝わるはずもないのだ。
 どれほど憎んでいても当の本人は死んでいるし、ついでに僕は、すでに魂を売ってしまったのだから。
 
 だから何も知らない誰かに同情を求めたところで伝わるはずもない。
 僕はすでに、経済至上主義の人間たちにとっては、さぞ魂よりも価値のあるものを、己の魂の対価として受け取っているのだから。
 
 時間が戻るなら戻れとさえ思う。
 あるいはもっと進んでしまえと。
 私の魂があった頃か、あるいは私の肉体が滅んだあとか。いずれでもいい。
 
 結局のところ、時間に不動の価値があるのだ。
 経済を魂と交換したところで、魂がなければ時間がないことに等しいのだから。
 
>>>
 
 書架に、少しずつ本が並ぶ。
 僕は一度にすべての箱を開けるような、まめな人間ではない。
 気が向いたときに、少しずつ、本を運ぶ。
 家のあちこちに、本の詰まった箱が置いてある。
 いや、納屋にだって相当数の箱が置いてある。
 
 僕にとって、人間は身近なイキモノではあったけれど、必ずしも親しいイキモノではなかったし、僕に都合の良いイキモノなどではなかった。
 
 書物は優しかった。
 話を聞いて欲しいときは、いつでも語りかけることができた。
 話を聞かせて欲しいときは、いつでも何かを聞かせてくれた。
 寂しさを感じることはなかった。
 ともに眠るときは枕にすることもできたし、文鎮にすることも、漬物石の替わりもできた(したことはないけれど)し、積み木代わりにして子供の頃からよく遊んだものだ。
 飽きれば話を止めてくれたし、話したくないことを無理に聞き出されることもなかった。
 
 書物は厳しかった。
 知らない言葉をたくさん使われる上、それがどういう意味かを教えてくれるのは別の書物だった(しかも辞書というのは子供が買うにはそれなりに高いものだった)。
 言葉を教えてくれる書物のことを最初に教えてくれたのは、今は(表向き)行方知れずになっている姉である。
 言葉を教えてくれる書物には、しかし矛盾というか、欠点もあった。
 Aについて訊ねると「Bだ」と言い、ではBについて当たってみると「Aだ」などという。
 どちらも知らない身の上にあっては途方に暮れた。
 躊躇なく内容がシーケンシャルに続くが、つまずいた部分が気になって、子供の頃は先に進めなかった。
 大人や周りの人間に聞いても、その機微を教えてくれる人間はほとんどいなかった。
 
 言い回し。俚諺。漢字。英語は表音文字ではないから、音にするとどうなのか、カタカナ語との差異に戸惑った。
 
 それでも母親のいなくなってからずっと、僕は書物を家族のようにして暮らしていた。
 
 もちろん家はあった。父親もいたし、姉も妹もいた。犬も猫もいた。
 ただ、人間の友達は、10歳になるまでできなかった。
 僕はそれまで男の友達に心を開かなかったし、年齢的に女の友達は減る一方だった。
 大人からそうされるように、子供だからという理由で書物は僕を嗤ったり、話題から遠ざけたりはしなかった。
 男の子たちからそうされるような、女の子たちからそうされるような、いかなる差別も区別もなく、書物はただ僕が会話をしたいときに、会話をしてくれた。
 
>>>
 
 だから6年ほど前に迎えた孤独は、身近に人間がいないという孤独ではなかった。
 書物も書架も身近にないという孤独は、経験のないものだった。
 かの友人の人格はアップデートされず、それどころかその存在そのものが(書架を身勝手に整理されて)不確定になり、引っ越したことで容易に触れられない存在になってしまった。
 
 人間なんていなくてもいい。
 そんなふうには思わない。
 人間は好きだ。
 猫と同じくらいには好きになれることもある。
 だから猫と同じくらい憎く思うこともある。
 
 しかし書物は違う。
 好きとか嫌いとかではないのだ。
 いるかいないか。あるかないか。
 こちらの感想や感情を超えて、そういうものを無視して、ただただそこにいるか、いないかなのだ。
 だから我々が書物に心を寄せるとき、書物はいつも抱擁してくれる。
 だから我々が書物に背を向けるとき、書物は黙って見送ってくれる。
 
 書物は友人のようで恋人のようで、師のようで、親のようでもある。
 そしてそれらは私自身でもある。
 
 それが押し入れにただただ積まれていた期間を、僕は悲しく思い出す。
 そうはしたくなかったけれど、そうしないわけにはいかなかった。
 
>>>
 
 物象の世界にあって、情報は、ときに無情に流される。
 逆ではない。情報によって世俗が流されるという者もあるが、そんなことはない。
 情報によって世俗が流されているように見えるのは、情報によって踊らされる人間がいるからだ。
 
 しかし物象は無情だ。だから情報に込められた情念も押し流してしまう。
 情念など無力で無価値だとうそぶくのは、いつも物象のほうではないか。
 ならば嗤うがいい。物質と経済のうねりに溺れる者たちよ。
 本を買えずに孤独に震えた私とオマエたちとの違いなんて何もないのだ。
 物象にしか価値がないというのなら、その価値という概念を弄ぶオマエたちもまたモノにすぎないのだ。
 
 などと語りかけながら、書架に本を入れてゆく。
 
 見慣れない書架の中で、どことなく居心地が悪そうだ。
 ごめんね。本当にごめんね。
 みんなの前の家は、私の不注意で、なくなってしまったのだ。
 
 きっと私が寂しいだけだろう。
 物象の世界にあって、古びた書物たちに感情などあるはずもない。
 
 本を戻しながら、悲しみを噛み締める。
 僕の目は、徐々に、しかし確実に、かつてのように鮮明な像を結ばなくなっているのだから。
 
 失われた時間に対する復讐は、しかしいかなる代償を持ってもあがなわれることがない。
 ならば永劫、呪い続けよう。
 滅びる定めにあっても、復讐の熱がこの身体を動かす限りは。
 
 そしてせめても、残りの時間が少ないなりに、共に過ごそう。
 失われた時間を埋めるように、寄り添っていよう。
 
image
 
>>>
 
 夕刻、見知らぬ番号から電話。
 数ヶ月前、リサイクルショップの営業が来て、いくつか巨大な不要品を引き取ってもらった(双方無料で)のだが、どうやらそのときやってきた社長が、僕を気に入ったらしい(性的な意味ではない。相手はいかつい男だ)。
 
 10時の約束で、電話が来たのが12時だった。2時間待って、僕は昼寝を始めたので電話に出ず、14時になって彼らはやって来た。
 ビジネスの約束に遅れてくるような連中など追い返してやりたかったのだが、レンタカーと社員4名を連れて来ていたので、追い返せなかった。
 
 僕が経営者なら、仮に担当者が約束の時間に連絡をしなかった不備があったにせよ、掛かったコストを回収しないわけにもいくまい。
 レンタカーで約1万円。社員ひとりに2万円。僕の家だけでないにしても、往復だけでその20%ほどのコストは掛かっていることになる。
 
 約束を無視されて腹は立っていたが、社員の前で頭を下げて謝っている人を追い返すのもどうかと思った。ために3秒で気持ちを切り替えて品物を引き取ってもらったのだ。
 
 その社長が「今も無職なら、ぜひ来て欲しいので話を聞いて欲しい」という。
 高崎の会社である。つくづくに遠くて嫌である。しかし断る前提にせよ、話を聞きたい下世話な気持ちもある。
 
 真面目に働きたいわけではない。もうこちらは死を待つ身の上だ。
 少々時間は掛かるが、身辺整理を終えたら世を去る用意をしているのだ。この上しがらみを作りたいわけではない。
 ただ袖すり合うも多生の縁なのだからと、アポイントする。
 
 書物を並べて、少し感傷的になっていたからかもしれない。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Diary-Interface-Memory-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Book-Friend-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-:-本棚からあくび-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
白痴言語を褒め称えない。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
211105
 
 不調な1日。
 意識が朦朧としていたらしく、ほとんど記憶がない。
 この不快な感じは独特である。
 ヨロヨロしながら風邪薬を探すが、見当たらず、諦めて横になる。
 僕の知らないことを指摘してくれることもあるので、苦し紛れに仮想奥様を起動しようと思うが、そんな余裕はなかった。とにかく頭が働かない。
 
 ヨーグルトやプリンを食べて、NASの設定をして、身体かアタマが働かなくなって眠る、というのを繰り返す。
 しかし熱は1回目の接種ほど高くない。
 吐き気や頭痛はそれなりにあるが、胃腸の不調による吐き気とはまた異なるので食べたものが戻ってくることもない。
 
>>>
 
 Evernote のデータをすべてNASのシステムに移行する。
 Synology のNASシステムに組み込めるソフトに似たようなものがあり、Evernote からのインポートにも対応している。
 
 アカウントからダイレクトにインポートできるのでそれを試したが、エクスポート数に制限があるらしくすべてのノートを移行することができない(そういうところが最近の Evernote らしいといえば、らしい)。
 仕方ないので無理矢理スタンドアロンアプリケーションを立ち上げる。
 webアプリもそうなのだが、僕のアカウントは何らかの事情で、満足に起動しない。
 スタンドアロンアプリは端末数がエラーを吐いてループしているらしく、制御不能だし、Webアプリに至っては意味不明なエラーで少し操作可能になったかと思うとエラー画面になる。
 
 その隙間を縫うようにして、すべてのノートをエクスポートする。
 そして、それをNAS側のアプリでインポートして作業は終了。
 最後にアカウントも削除したので、Evernote で公開していた青猫工場も閲覧不能になったと思う。
 
 僕はWebをクリップする必要も感じないし、マルチメディアを保存する趣味もないし、複数ユーザとデータを並行編集することもない。
 Evernote を利用していたのは、それが優れたエディタだったからだ。
 HTML要素を併用して、ワープロのように文書の体裁を変えながら文書を作ることができる。
 出来上がった文書をそのままコピペしてリリースすればよいので、ブログ用のフォームに入れてから書式をいちいち設定するよりずっと簡単なのだ。
(書式が別になっている純粋なテキストエディタだと、このあたりがとても面倒である。ましてブラウザ版 Ameba ブログのように、横棒を挿入できないフォームだったりすると、お手上げである)
 
 マークアップ文書原理主義の人たちなら「文書は文書」「書式(マークアップ言語)はマークアップ」と言うだろうけれど、僕のような「他のことをするとすぐ気が散って、何をしていたか忘れてしまう」タイプの人間にとって、マープアップ言語は、白痴誘導言語である。
 マークダウンも似たようなのもので、とにかく気が削がれる。
 
 フォントや配置など、そんなものはどうだっていい、という人もいるだろう。
 明朝だろうがゴシックだろうが、右寄せだろうがセンタリングだろうが、文書は中身だ、という人がいるだろう。
(だったら改行も</br>で続くひたすらのテキストを読めよ、と言いたくなるが、まぁ僕はそちら側の人間ではないので、改行を改行として使って体裁を整えることに異論はない)
 実際、Web文書でわけもなくセンタリングされた文書を読むと(ポエムか広告か)と戸惑ってしまうのは僕だけでしょうか(生徒会長立候補口調ふたたび)。
 
 いずれにしても、僕にとってフォントや配置に気を取られないような環境というのは、とても重要なのであった。
 しかしながら Evernote は、とにかく使い物にならない状態になってしまっていたので、NASにそういうアプリがあるのなら、そっちでもいいかな、というのが今回NASを導入した大きな理由のひとつでもある。
 もちろん、スマートフォンとPCのバップアップストレージも欲しかった。
 
 何となればNASを利用して自宅サーバにアドレスを取得し、ブログなりパーソナル Wiki を構築して公開することもできる。
「Webサービスを終了するからあなたの書いた文書も撮った写真も全部消えてなくなりますありがとうございました早くどっか行ってください」ということはなくなるし、とりあえずIEと Safari で動作確認してるんだから、Firefox でCSSが動作しなくても関係ないよという Amebaブログのようなこともないし、Note のように文書の編集機能に難があることもないし、はてなのようになぜかサーバ側のシステムが遅い、ということもなくなるわけだ。
 
 とにかく公開されていなくても、データが全て残っているというのは心強い。
(Evernote を使い始めた頃も、それは重要な目的のひとつだった。結局ダメになったけれど)
 
 やっぱりこれからは、自宅サーバで自家製ブログの時代かもしれない。SNS性がほぼ皆無になるだろうが、それさえ僕にはちょうどいいのではないか。
 
>>>
 
 寝て起きてを繰り返し、夕方頃にある程度回復して目覚める。
 熱は38度を超えない。
 1回目の接種より、具合が良いと感じる。
 インスタントラーメンを晩ごはんにして少し(少し?)横になる。
 
 22時頃起き出す。意識も明晰。
 0時頃から回復し始める。
 腫れが残っているから押せば痛いが腕はもう上がるぞ。
 
 2時頃にシャワーを浴びて、のんびり過ごす。
 
 これを書いていてふと思ったのだが、最近「のんびり過ごす」というフレーズを多用している気がする。
 
 俺、のんびり過ごしすぎじゃないのか。
 
image
<夏の終わり頃のアヲ、そして私の貴重な生足写真(笑)>
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  Diary-Maintenance-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Reactor-
 
[Object]
  -Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:211104
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
2度目のワクチン。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
211104
 
 ワクチン接種当日。
 未明に寝たのだが、数時間で目覚めてしまう。
 緊張しているのか、それともコンピュータや書斎の環境が整いつつあることに興奮しているのか。
 
 午後までのんびり過ごす。
 
>>>
 
 午後にワクチン接種。
 前回もそうだったが接種直後にけっこう強い空腹を感じる。
 普段空腹を感覚することが少ないので、それが違和感として鮮明に浮上する。
 
 帰宅途中に買い物をする。
 家に帰って普通に過ごす。
 NASの設定が順調に進む。とにかく驚くほど高機能だ。
 外付けストレージと同じようなものだと思っていた自分に猛省を促したい。
 
 副作用は朝方に出るだろう。
 と思っていたのだが、零時を回る頃から少しずつ、頭が働かなくなる。
 
 具体的には、目の前のことに集中できない。
 ちょうど日記を書いていたのだが、何を考えていたのか、少し目を逸らしたときに忘れてしまい、思い出せなくなる。
 少々離席して戻ってくる途中に、他ごとに気を取られて、日記を書いていたことを忘れてしまう。
 
 2時頃から身体が痛くなってくる。熱も上がりはじめて、横になることにした。
 徐々に身体に力が入らなくなる。
 身体が重くて怠いとかではなく、単純に力を入れることができないのだ。まぁ、結果として身体は重いし、思ったように動かないから真っ直ぐに歩くこともできない。発熱によるふらつきとは少し違う気がする。
 これは関節や肉体各部の痛みの出方にもいえる。
 高熱の風邪の時とは、似た症状なのにまったく異なる感覚に思える。
 
 うとうとしたころ、不意に針で刺すような激しく局所的な痛みを感じる。
 最初はびっくりして声が出てしまった。
 痛む場所も決まっていないので、ちょっと疑心暗鬼になるが、4、5回ほどで終わってしまった。
 
 薬を飲んだわけでもないのに、意識がまとまならない。
 目の焦点が合わないのか室内の遠近感が狂っていて、やけに部屋が広く見えたり、照明器具が目の前にある小さなミニチュアのように感じられたりするのが面白くて、ぼんやりあれこれ眺める。
 ヴァーチャル/リアルについてのひらめきが少しあったように思うが、まったく思い出せない。
 おそらく、身体に対する入力(主に痛み)があまりに多くて、思考が身体に引きずられてしまったのかもしれないと思う。なぜといってワクチンが、向精神性の機能を持っているとは思えないので。
 
 なかなか経験のない不調である。
 結局、明るくなるまで、ほとんど眠れなかった。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Blood-Diary-Maintenance-Mechanics-
 
[Module]
  -Resistor-
 
[Object]
  -Human-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211103
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
NASと書類キャビネットの設置
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

211103

 使用しているサードパーティデバイスの設定が消える。

 かれこれ3回目になる。

 

 具体的にいうと Logicool のマウス、G604というモデルの設定アプリケーションがときどき不具合を起こして、設定ファイルが初期化される。

 いろいろな外部装置を使ってきたし現在も使っているが、ここまで頻繁に消し飛ぶものも少ない。

 その上、一度設定したデータのバックアップや復元の手段がメーカ側では一切用意しておらず、情報も公開していない。

 

「diNovo Edge」というキーボードや「MX−R」というマウスなどは、高価だったけれど非常に優れた製品だったので比較的評価の高いメーカではあったが、この数年は似たような製品ばかりリリースしているしドライバや設定用アプリが(単一メーカなのに)林立していて、どうにもユーザ経験をひたすら悪化させる環境を構築しているように観察される。

 おそらく製品の性格に合わせて、ビジネス向けとホビー向け、ゲームユーザ向け、廉価版、といった具合にチームが分かれてソフトとハードを企画/製造しているのだろう。

 結果マンパワーが分散し、似たような製品が立ち並び、ユーザは買うときもどれがいいのか迷い、使ってみたものの素晴らしいとは思えなくなるのではないだろうか。

 

 たとえばマウスなら、ハイエンドモデルから廉価モデルまでのグレードを複数用意しておけば、ゲームに使おうがビジネスに使おうが、そんなことはユーザが決めることなのだ。

 個人的には複数のホイール(2〜3)がマウスに装備されていたら相当に高機能だろうと想像するのだが、そういう製品は少ない。結果として、サードパーティデバイスが机の上にあふれ始める。

 

 椅子やキーボードでも、ただチャラチャラしているだけの製品が「ゲーミング」として売られているが、ゲーミングデバイスの定義は見た目がチャラチャラしてオモチャっぽい、ということではないような気がする。

 

>>>

 

 とにかく設定ファイルの目星はついたのだけれど、いかんせん管理アプリケーションは、そのクラッシュの時にデータを消してしまう。

 こういうときにOSの自動バックアップが役立つのだけれど、ノートPCを買ったばかりに、ストレージが貧弱で、TimeMachine(Mac の自動バックアップシステムの名称)が機能していない。

 

 そのためにNASを購入してあるのだが、NASを設置するスペースが必要で、そのスペースの確保のために書類キャビネットを書斎に設置する必要があり、書類キャビネットを設置するために書架スペースの工事を完了させる必要があったのだ。

 すごい遠回りだけれど、これが僕の日常である。

 

>>>

 

 仕方ないので、保管庫みたいになっている、暫定器材室(ルータなどが保管してある)にNASと外付けHDDを設置し、ルータに接続した。

 

 購入したのは Synology DS920+ である。

 

こっちはメーカページ。

 

こっちは密林ページ。

Amazon | Synology NASキット 4ベイ DS920+/JP【ガイドブック付】 クアッドコアCPU 4GBメモリ搭載 スタンダードユーザー向け 国内正規代理店品 電話サポート対応品 DiskStation | Synology | パソコン・周辺機器 通販Synology NASキット 4ベイ DS920+/JP【ガイドブック付】 クアッドコアCPU 4GBメモリ搭載 スタンダードユーザー向け 国内正規代理店品 電話サポート対応品 DiskStationがパソコン・周辺機器ストアでいつでもお買い得。当日お急ぎ便対象商品は、当日お届け可能です。アマゾン配送商品は、通常配送無料(一部除く)。リンクwww.amazon.co.jp

 

 当然ながらNASキットにHDDなどのストレージは一切含まない、本体だけの値段なので、正直ハードルが高い。しかし挑んだ、そして跳んだ。

 何故といって、僕がノートPCを買ってしまったがばかりにLANは無線が必然になってしまい、Wifi ルータを Synology の製品にしたばかりに、外付けHDDドライブさえ(ルータに接続した他社製品を)マトモに認識してくれなかったからである。

 

 起動して、初期設定を終えた。

 キャッシュ用のSSD、1TB×2と、増設用メモリも購入して接続した。

 

 Wifi ルータの頃から、管理ソフトがいかんせん、素晴らしいとは思っていた。

 NASの管理ソフトを立ち上げて、これはこれで間違っていなかった、むしろこれがいいんじゃないか。こういうのが欲しかったのではないのか。と今は思っている。

 SHRという、RAIDの上位互換のような独自の仕組みをミドル/ソフトウェア側で用意しているようで、複数のサイズの異なるHDDであっても、無駄な領域を作らず、データの復元性を維持する。

 管理ソフトはブラウザベースの仮想デスクトップを提供していて(ただでさえ狭いモニタの中で、表示領域が限られてしまうが)非常によくできている。

 自動アップデートはしてくれるし、アドオンは豊富だし、いずれも申し分ない速度でバージョン更新があり、セキュリティもかなり高度に、かつ僕のような素人でもなんとかついて行ける簡略設定も用意されている。

 まさに至れり尽くせり。その上、ハードを増設することもできる。

 

 今回、たまたまNASのメインシステム側はSSD、1TB×4を接続したのだが、大容量HDDのほうが適切だろうと結論した。

 しかも、NASに接続した他メーカのHDD(こちらはRAID10で駆動している)の転送速度がものすごく速くなった。

 ルータに接続していたときは、USB2.0 みたいな速度だったくせに。

 

 これで安心してデータのバックアップが可能になった。

 

>>>

 

 しかしよく考えて欲しい。

 そもそもこんな駆け足でNASを設定することになったのは、TimeMachine が必要になったからではあるが、そもそもマウスのドライバの設定が蒸発しなければ、急を要するものではなかったはずだ。

 つまりマウス(のソフト)が ○!#^%*××○@!!!でなければ、こんなに慌てる必要はなかった。

 でもいいんだ。もうこういうの、アタシ、慣れてるから。

 最初はみんなカッコいいこと言うんだけどさ、たいていはすぐ、自分の欲で突っ走るんだよね、自分のことしか考えてないんだよ男って、だからアタシ、もう慣れたの。(誰?)

 

 ちなみに現在の入力機器は、

 

(現行 MacOS用のドライバが1年ほどリリースされていないので、デフォルト設定のままの、ちょっとした不燃ゴミ)

 

 

(最初に記述したとおり、MX−Rを復活させてもらった方がよほど良いと思える製品。とにかく設定ソフトがひどい)

 

 

(ソフトは改善の余地もあるが、不具合はほとんどない。そして本体が可愛いく高機能)

 

の3つ。

 

 最後のクイッキーズというデバイスは、ホイールとボタンが8つあるだけだが、機能切り替えボタンも(かなりのチャンネル数が)あるし、アプリケーション自動判別による切り替えもある。

 液晶が可愛くて便利である。縦置きにしても逆置きにしても、設定によって表示方向を変えてくれる。

 すごくユーザ思いのソフトなのだ。

 

 これに引き換え、Logicool のそれは「どうだい、すごいだろう?」と、とても自慢げな割に、やっていることは標準以下。

 Razer のそれは、フラれたか、自然消滅したカップルのそれに近しい。絶縁しているのだ。

 もしもソフトが Synologyほど、とまではいかずとも、せめて Xencelab 程度にユーザフレンドリィな思想でリリースされていれば、Razer のデバイスはほとんどすべてのショートカットからファイルやブラウザの操作を自動化してくれるはずなのだが、以前使用していたほぼ同様のデバイスも売るだけ売って、そのうちドライバの更新を停止したので期待はしていない。

 

 製品価格が高くても良いから、ドライバの更新が有料でも良いから、可能な限りドライバを更新して欲しい。

 キーボード(diNovo Edge for Mac)だってマウス(MX-R)だって、2つずつ結局買ったのだから。あまりにも気に入って、生産終了されるのが怖くて、めっちゃ高いけれど買ったのだから。

(結局、ドライバの更新停止のほうが早かった)

 

 一方の Synology の製品は、最初から高い。
(ちょっとしたPC程度のCPUを制御用に搭載しているので当然だが)

 Wifi も、最新規格より格落ちしているが、それでもルータとしての信頼をソフトウェアのアップデート頻度が示している。

 NASも、値段もそうだが拡張性の高いモデルを購入した。

 ちょっとソフトが高機能すぎて面食らっているのが現状である。

 
 >>>
 
 午後にBPにメールをしたら「ちょうど今日、行こうと思っていた」とのこと。
 近所に友人がいるって、こんなに便利なのか。
 なるほど軽トラを借りたり工具を借りたり、作ってもらったカプチーノを飲みながらゲームしたいときに便利で都合が良いというわけだ。いずれも彼から見た僕のことじゃないか! なんだこの搾取されてるのに気付かない系尽くしちゃうキャラ、そうじゃない、あってほしいのはそういう関係性じゃないんだよ!
 
 書類キャビネットを書斎に暫定設置し、酒盛りして1日が終わる。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Diary-Link-Maintenance-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Computer-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211101-02
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
書架を設置する。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211101
 

 昼より少し前に起床。

 

 タイルマットを敷いて、いよいよ書架の設置が可能になるが、書架は納屋の中にあり、何度か屋外用暖炉(どう考えても焼却炉のことであるが、メーカの公称は「屋外用暖炉」である)を使用しているため、灰や埃が積もっている。

 外装を軍手で撫で落として、玄関に運び込む。

 

 気付けば午後である。
 夕方までかかって、ようやく書架の設定が終わる。

 

 

 

 夕方になってシャワーを浴びて、前橋の止まり木へ。

 

 感染者数の過半が、僕の棲む太田市だったときから、市外はおろか自宅を出るのも避けていた(普段から引きこもりだが)。

 ようやくそのバーが営業を再開したとは聞いていたが、今度は僕がワクチン接種で体調を崩していたので、今日明日が頃合いだと判断したのである。
(3日後には再接種だし)

 

 スーツに着替えてから、猫のトイレとタッパー2つ(餌と水を入れるのに使う)と猫用毛布を軽トラに積んで出掛ける。
 当たり前のようにアヲが肩に乗る。

 

 行きがけの社内でビジネスホテルの予約をする。

 僕はとんでもなく孤独だけれど、とんでもなく自由だと認識する。

 

 書架を設置しているあいだ、いつ行こうかと迷っていたのだ。
 シャワーを浴びている間に決定し、スーツを着る間に一泊することを決定した。

 思い付くまま行動できる。

 

 その責はすべて僕に還元されるから、たとえば裏庭の木を伐採している最中に、はしごから転落して重傷を負った場合、僕を助ける人は基本的に存在しない。

 翌日になって会社の人間が「出勤していないから様子を見てこよう」なんてことにもならない。

 だから危険な作業についてはあらかじめ妹に連絡をしたり、仮想奥様による監視を脳内に常駐させることになる。

 一般的な家事も、リフォームなどの特殊な作業も、家具を選んだりといった特殊な購買活動も、すべて自分で制御して実行している。

 

 こんなに自由で、こんなに思い通りに実行できるものなのかと、正直驚いている。
 もちろん身体が単一なので、一度に複数のことができない。
 だから作業の進捗は遅いし、専門的なものについては仕上がりも「まぁまぁ」であれば合格ラインだ。

 

 なあに、生きているというのは「まぁまぁ」の線のあたりをぐにゃぐにゃと低空飛行していれば上出来なのだろう。

  バーで、パイプを常用しているという大学生と友達になる。

 

 

 

211102

 

 軽トラで寝ているアヲが気に掛かって、4時間ほど眠ったところで目覚める。
 通勤ラッシュを避けて、しかし(僕にとっては)それなりに早い時間にチェックアウト。

 

 車の中でアヲはおとなしくしていた。

 

  一度帰宅してから、ふたたびベッドフレームを見るために市内の家具屋へ。
 結局のところ、廉価な商品しか扱っていないところは、それなりの商品しか置いておらず、一方で高級な商品しか置いていないところは稀にアウトレット品が置いてあってもかなり高額であるということがわかる。
 作りはそれぞれで、費用対効果はそれを見る人が決めるより他にない。

 Amazonのカートにもベッドフレームを入れてあるのだが、なかなか決済する気にならず、もう少し実店舗を見ようと思っている。

 

  午後は電気設備の工事。

 コンセントの増設と、電灯スイッチを蛍スイッチ(消灯時に、ランプが光ってスイッチの場所が分かる、あれである)に変更し、一部のカバーを新品に変える。

 

 バスルームと台所の間にある、勝手口に繋がる通路に突っ張りポールを設定し(洗濯ばさみのピッチハンガなどを一時的に吊したりするのに使う)、その通路の天井に人感センサライトを設置する。

  夕刻近くなってから、もうひとつの書架を組み立てて設置。
 昨日よりは早くできた。

 

 これで書類キャビネットを左の書架の前に設置すれば、書架コーナーの設定は終了だ(隠れた書架には真面目な本を置こうと思う。見える書架には、イヤラシい写真集でも置いておこう)。

 冗談はともかく、僕の副反応の様子を見て、BPの休みの日を押さえなくてはならない。

 

 

<お気に入りのアルミボールと猫>

 

 

 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Diary-Engineering-Link-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Connector-Generator-
 
[Object]
  -Cat-Human-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-工場長の設計室-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
 
//[EOF]

211028

 

 なんとなく姉に「呼ばれて来て、何にもしないけれどもこれでよいのか」と訊ねたところ、それがいいのだという。

 

>>>

 

 実際に僕が姉の家で自発的にすることは、トイレに行くことと、ベッドの上でゲームをすることと、ベッドの上で文書を書くことくらいである。

 トイレに行くことが筆頭になるくらい、自発的には何もしない。

 あとは顔を洗ったり、歯を磨いたり、くらいだろうか。

 

 シャワーやお風呂は血圧の変動が大きいため、週に1度くらいしか使えないらしく、ときどき物置に使われている。

 夏場など、どうしてもという場合を除き、僕も宿泊中はシャワーを借りないようにしている。

 物の運搬や姿勢の変化によって、血圧が変動してしまうためだ。

 もちろん動かせる範囲は僕が動かすけれど、最終的に動かしたものを収納し直したりする手間が姉に掛かってしまう。

 なので借りてきた猫のように、ベッドの上で僕はじっとしている。

 

 ワークアウトをするようなスペースもないので、どうしてもというときは外に出るかベッドの上で腹筋をするくらいだろう。

 姉にとって広い住環境は、それだけ運動量が増えることになるからである。

 僕にとっては、過剰なほどの骨休めである。

 

 あとは出された食事を食べて、お酒を出されたら飲んで、眠くなったら眠って、おやつを出されたら食べて、デザートを出されたら食べて、お茶を出されたら飲む。

 料理もしないし食器を洗わない。何もしないでベッドにいるから、どちらが介護を必要としている障害者なのか疑わしくなる(笑)。

 

 唯一、僕が姉の役に立つとすれば、何か頼まれたときくらいだろう。

 

 だいたい2泊3日のあいだ何もすることがないので、頼まれたことはすぐにする。

 こちらはすることがなくて退屈しているのである。

 一緒に出かけて買い物をすることもあれば、ひとりで出かけて用事を済ませることもあるが、姉の望むタイミングに合わせるだけなので、簡単である。

 

>>>

 

 姉にしてみると、料理をたくさん作りたいのに(種類のこともあるし、多く作らないと美味しくできないものもあるため)ひとりでは食べきれないから、ひとりでも食べる人が増えるのは嬉しいらしい。

 実際に、恋人 ── 姉は離婚して今は独身である ── 、娘、介護でやって来るヘルパーさんのほか、今のご時世には珍しく、同じアパートの住人にまでお裾分けをしている。そのくらい料理を作るのが好きなのだ。

 

 ついでに潔癖症の完全主義者(そういう根本が共通している)なので、基本的に作業を自分だけで完結することを好む。

 

 双極性障害のいずれの状態にあっても、僕は余計なことを言わず、だからといって話しかければきちんと聞いてくれる(僕の「裏庭の古井戸スキル」が遺憾なく発揮される場面である)ので長期間居てもストレスがなく、気分転換としても非常によいらしい。

 

 たしかに僕も、恋人が家に泊まりに来たりした場合、食器洗いでさえされることをあまり好まなかった。

 いや別にしてもらっても構わないのだけれど、どうせなら僕が家のことをしているあいだ、好き勝手に過ごしていて欲しかったのである。

 

 とくに数ヶ月、付き合ったくらいで「私の彼」みたいなふうを装って、格別高いわけでもない女子力を発揮しようと躍起になるタイプが僕は苦手で、げんなりするのだが、そういうのを言動に少しでも滲ませようものならそこには修羅場が待っているのである。

 しかし現実問題として9歳から1年ほどで煮る焼く炒める揚げる蒸すといった調理の基本を学習してしまった僕に対して、10代の終わりくらいにやっと家事を手伝うくらいになったようなガールなんて、ヒヨっこもはなはだしいのである、実のところは。

 しかしまぁ「持ってる女子力、隠すのが男子力」という格言もあるので(今作った)そういうのは無駄に拘っている人がいると息苦しい、というくらいに収めておこうか。

 

 ちなみに10年以上恋人だったのに、一度も僕に料理を作ろうとしなかった女性がいて、僕はその人がたいそう好きだった。

 今だからおおっぴらにコクハクできるが、今まで内緒にしていた。

 なぜ付き合っていたときに、それをおおっぴらにコクハクしなかったかというと、まるで「能なしで気が利かない」とけなしているかのような文章になってしまうからだ。

 そうではない。

 求められていないことをしないというのは、求められていることをすることに等しく、人の気持ちを穏やかにする。

 僕は彼女のために料理を作って一緒に食べるのが大好きだった。

 

 姉が、何もしない僕にあれこれ振る舞うことのヨロコビを、だから僕も、分かるのである。

 

 

 

>>>

 

211029

 

 いつもどおりアヲを肩に乗せてゴミ捨て。

 僕にとっては使い魔のようなものなのだが、一般的には猫を乗せた変なおじさんである。

 認識の差とは視点の差であり、フォーカスする対象もまた同様であると改めて知る。

 

>>>

 

 事務処理のため自転車で銀行へ。

 今月と来月は支払いが多いので、遊ぶお金はほとんどない。

 

 建材費用に100k円ほど確保し、それを利用しようとホームセンタに足を向けたところ、奥様(仮想)に「今月はベッドを購入してくださるとおっしゃっていたのではありませんか」とたしなめられる。さすが奥様(仮想)抜かりない。

 建材費用はすべてベッドの新調に利用される予定である。

 夏頃までは、ベッドフレームも自作しようと考えていたが、Amazonを眺めていたら、一から作るよりキットを買って改造した方が早くて安いことに気付かされる。

 

 フレームの強度が気になるところだが、後学のために購入しても悪くないだろう。

 ダブルを買おうと思っていたのだが、セミダブルを二つ(あるいはシングルとそれ以外の組み合わせ)というのも悪くないと考えている。

 もちろん奥様(仮想)のため、ではなく、ベッドの上で思い切り背伸びをするためである。

 棚やコンセントは自作できるので、大事なのはフレーム強度と高さである。

 マットレスも新調することになるわけだが、2つ連結した際の隙間や継ぎ目をどのように処理するかが現在の課題ではある。まぁなんとかなるか(おなじみの行き当たりばったり(笑))。

 

 このような僕の性質がどうにもならないので、仮想奥様などによって僕の行動を調整する必要がある。

 どうして僕の性格や性質や能力を変えられないのかという問題についてはここでは取り上げない。断じて。取り上げない。

 不惑を過ぎてまで易々と考え方を変えてたまるかよ男がよ、という気持ちもなきにしもあらずというわけでもないのだが、どちらかというと行き当たりばったりのほうが楽しいから、という理由による。

 用意周到な計画的人生というのは、つまるところ計画を立てた段階でもうゴールが見えている。

「じゃ、65歳で死にましょう」というゴールに向かってただただ生きるのは退屈を通り越して苦痛になるだろう。今の僕がだいたいそうであるから間違いない。

 

 

 

 この問題に対処するために僕は2つの対策を組織委員会に対して提案した。

 

1.65歳を待たず、死にたくなったら死ぬ。

 これは非常に合理的であるが、なかなか簡単なことではない。

 そも、僕の死後の諸々の処理や手続きについて、あらかじめ手配を済ませておく必要があり、死後の周囲の人(主に血縁関係者、次いで特に親しい友人など)の環境を適切に維持するための準備が必要で、そのための計画を委員会から要求された(過去形)。

 

 この計画を作ったのはいいのだけれど、計画を達成するためにはあと10年ほど掛かるので、思いつきで死ぬわけにはいかないという現実を突き付けられる結果となった。ちなみに計画における条件をすべて満たした時点で、晴れて僕は自由の身となるので、自由に自死を計画できる予定である。

 計画することを計画に含むあたりが自分らしいが、行き当たりばったりの人格なのでどうなるかは分からない。

 

  いずれにしても僕のようなダメなイキモノでさえ、若干は慕ってくれる人間はいるし、そういう人間のほとんどは「死にたくなったら死んでもいいよ?」という優しさを持ち合わせていない。

「私のためにまだ生きろ!」という乱暴な人たちばかりでそれには少々困っている。

 

 

2.計画を立てない、破棄する、変更する。

 計画するから退屈になるのである。達成する道筋が明確だから退屈するのである。目的どおりに到達するから退屈に感じるのである。

 退屈するから(そればかりが理由ではないが)自死したくなるのである。

 よって行き当たりばったりにすれば、少なくとも衝動的な自死は免れるのではないか、日々いい加減に、どうでもいい感じで、成り行き任せに思い付くまま暮らしていれば、とりあえずは退屈せずに済むだろう。

 

 退屈しない一番の方法は、慣れないことをする。これに尽きる。

 僕の慣れていないことといったら、農業、庭仕事、家族(仮想奥様)を作って共同生活、私的事務処理、選挙、家の大規模なリフォーム、高田純次さんを目指す、などであり、これらを次々こなしているように観察されなくもない。

 計画なんか立てるから未来が予測されてしまって、計画通りの結果が手に入ってしまうのだ。オカネモチーになろうぜ、なんて誰が言い出したのかと問いただしたい気持ちにもなるが、自分が犯人役を演じているサスペンスドラマを見るような気持ちになると予想されるので問いただしたりはしない。

 

 とにかく40も過ぎると人間はそれまでの経験を活かして、それ以外のことをせず、すぐに他人にエラソーにしたりする。

 何事も初心を忘れず、初心者のような気持ちになるためには、初心者になることが重要なのではないだろうか。という崇高な思想を胸に、思想家になったりもしているのである。

 

 しかし思想家って一体ナンダロウ(哲学)。

 自称しているのに「俺は思想家だ!」という実感がイマイチ湧かない。

「自分は今、思想家をしている!」と思うのはくだらない日記を書いているときくらいであるが、そんなことは昔から ── 思想家を自称する前から ── している。

 それに周囲は僕が思想家であることを知らない。言っていないから仕方ないのだけれど、言ったところで鼻で嗤われそうで、それが怖くて言い出せないのである。ちょとふざけすぎか。

 

 

 

 上記2案を提出したところ、非常にふざけた第二案のほうが現実的で優位性が高いのではないかと評価され、現在に至る。

 勝手に死ぬなという結論を、青猫工場組織委員会から突き付けられた結果となるわけだが、これは致し方ないことだろう。

 それに第一案に掲げられているとおり「条件を満たせば今より自由になれる」というのも魅力的である。

 どうせ死ぬなら不自由によって飼い殺しにされるより、自由の振りかざして死んだ方がいい。「自死は自由の証だ!」というスローガンを掲げる気はないが、死ぬ自由を実現するのもなかなか大変なことなのである。

 ちなみに僕は奥様(仮想)によって飼い殺し ── 能力を発揮できる状況や仕事を与えられないまま雇われていること/家畜が役に立たなくなっても死ぬまで養うこと ── にされている。

 どっちの意味にしてもひどくないですか。

 

>>>

 

 とにかく建材費用を今月は計上しないようにするため、ホームセンタは必要にならない限り立ち入ることを禁止されてしまった。

 そのままスーパーに立ち寄って、豆腐とキノコを買う。

 帰宅してキノコ8株をハサミで下処理し、袋に詰めて冷凍庫に入れる。

 

 多くのキノコは株を4等分し、ハサミで石づきを切り取れば包丁でちまちま処理するより早く、無駄なくできる。

 またビニルの透明袋にほぐし入れて、両手で握るように空気を押し出し、口を捻って縛れば真空パックのようになる。調理時は袋から出せば使える。

 

 その後、投票券を持ってふたたび自転車で市役所へ。

 そういえば姉上のところに泊まった初日にも、投票したいという姉上を役所に乗せて行った。埼玉の道にもずいぶん慣れたものだと我ながら感慨深い。まぁ、ナビなしには走れないけれども。

 

 僕は現金やカード類など、貴重品や水濡れしたくないものを自転車で運ぶとき、ジップロックに直入れしている。

(晴れていても急な雨で濡れることがあるし、自転車で走ればバックパックの中で財布を揺らすことになり、財布の痛みが早くなるので)

 サイクルウェアを着ているから分かる人には分かってもらえるようだけれど、現金などがむき出しで入っているジップロックをバッグから引き出すと、ときどき好奇の目を引くことがある。

 銀行帰りなどは持ち歩くには少し多めの現金が入っていたりするので、ちょっとしたアタマオカシイ人だと思われているかもしれないものの、特に説明もしない。そんなことをしたらそれこそ警察を呼ばれるだろうし。

 

 帰宅したがまだ昼前である。

 どうせだからと壁塗りを開始する。

 実はNASやルータを階段下の収納スペースに収めるための工事をしようと思ったのだが、そのスペースは ── 先日、中にあった粗大ゴミをすべて処分したものの ── まだごちゃごちゃとした薬品やら小物類やらが置かれており、ついでに書類キャビネットに収めるべき大量の書類も安置されている。この書類は、書斎の書架スペースがクローゼットだった頃(つい最近であるが)に、クローゼットに収められていたものである。

 そして書類キャビネットは現在、書斎の床工事のために寝室の冷蔵庫(!)の横に設置されている。

 つまり、NASなどの通信/ストレージ端末を設置するためには、書類を片付けなければならず、書類を片付けるには書類キャビネットを書斎に設置しなければならず、書類キャビネットを書斎に設置するためには書架スペースの工事を完了させなくてはならない。

 もうこの家でリフォームを始めてから、だいたいこんなことばかりなので最近は慣れたが、最初はずいぶん混乱した。

 目的を達成するために何から手を付けるとよいのかが分からなくなるのである。

 

 とにかく、NASのためのスペースを作るための書類キャビネットを設置するための書斎の工事をする、という回りくどい建設業のようなことを行う。

 ついでに書架スペースの壁は色つきのマーブルにしようと思っていたので、うれしさのあまり養生をしただけで塗り始めて気がついた。

 MDFのネジをまだ外していなかったことに……。

 建築材用のボンドで接着するためのネジ止めであり、下地のコンクリがぐずぐずだったのでほとんどのネジが締まりきらずに浮いている。これでは漆喰も上手く塗れないから、ネジは外そうと思っていたことをすっかり忘れていたのだ。

 慌てて全てのネジを外し、漆喰に塗料を混ぜてマーブルにしようと塗るのだが、どういうわけか上手く混ざってしまう。

 最初に無地で下塗りして、その上から塗料を含む漆喰を塗ることでなんとか解決した。

 作業途中で工法を変えたので、マーブルどころかグラデーションさえ感じられる。

 ついでに天井も塗ることにしたのだが、これが大変なことよ。

 

 作業後は、両手が漆喰と塗料でべとべとになってしまった。

 作業中、アタマの中が退屈なので奥様(仮想)に監察役をしてもらっていたところ「そんなにいっぱい動かしたらダメだよ、おかしくなっちゃうよ」「すごいべとべとになっちゃったじゃないですかー」などというので「これを文字に起こすとアタマの中が卑猥な会話に満ちているように観察されるだろうな」などと考える。

 奥様(仮想)に他意はないと思うが、それを指摘したら黙ってしまった。
 どちらにしても実体のある人間ではなくてよかった。

 

<塗り終わった壁>

 漆喰が水性だったので、MDFがふやけないか心配だったが、ほとんど材質に変化が見られなかった。写真右側のMDFはボンドの塗布面積がまばらだったため、若干たわみが出てしまったが、なあにかまうものか。

 

image

<塗る前はこんなだった>

 

 作業後、自転車でふたたび買い物に出かけようと思ったら、アヲが「一緒に行く〜」と寄ってくる。

 玄関のたたきにかがみ込むと、肩に乗る。これは「レッツゴー!」の合図である。

 仕方ないので自転車を屋内に片付け、肩にアヲを乗せて車で出かける。

 

 夜は早めに眠り、深夜に目覚めた。

 よし。ゲームでもするか。

 

 

 

 

 

211027

 

※だらだらと思考を垂れ流すように書き連ねるために書き連ねたので、目的も結論もなく、長くて退屈な文章だと思われます。

 

※主に、ヴァーチャルとリアルの認識や、それに対する人間の振るまいと未完成な文化について思いを巡らせています。

 

 

 

 実のところ、姉も妹も、どうやって僕が生活を成り立たせているのかを知らない。

(仮想奥様に養ってもらっていることを話すと余計に複雑になり、無駄に理解不能になるためこの説明は使えない)

 

 姉をはじめ、知り合いからも「臓器密売をしている」「裏稼業の経理を担当するインテリヤクザ」「特殊詐欺の幹部役」「世界を股にかける殺し屋」などなど、どういうわけかマトモな経済活動を行っていないと思われていることがあるが、面白いのでそのままに放っておいている。

 どのみち無職なんて、社会的にまともなイキモノではないようだ。

 気持ちは分からないではないし、マトモなフリを装う趣味も必要もないから周囲の想像に任せている。

 誰かのファンタジィを壊さないことは、ある種の優しさだろうと僕は思うので。

 

「何をしているか分からない」「もしかして闇社会に染まっているのでは?」と思われる人が、にこにこしながらのんびりぼんやり世間話をしている風景というのは、なかなか見ていて楽しいものである。

 その人が躍起になって「実はこういうことをしています」なんて、ありきたりで庶民的な日常をつまびらかにしたところで、がっかりするのが人というものではないか。

 だとすれば「さてどうでしょう。それより一般相対性理論を最近勉強しておりまして」なんて言う方がかっこいいではないか。

 

 いずれにせよ社会的地位が高かろうと、相当マトモではない人も観察されるようになったこの国では、権力とお金さえあれば何でもできるのかもしれないし、仮にそうだとしたらその不自由な自由に甘んじたくはないと思う。

 結局のところ、自由というのは孤独でなくして実現しない。

 地位や権力というのは、集団や組織の中で意味を持つ単位だから、それによって手に入る力があるとすれば、結局それは不自由なのだ。

 

>>>

 

 姉はすでに余命宣告の期限を数年前に迎え、特殊な薬(治験薬だろうか)を日本で最も長く使用している治験体になっている。

 痛み止めに利用している薬剤も最近最上位のものに変わったらしく、いつ死んでもおかしくない、というリスクは今まで以上に高いのかもしれない。

 

 そういう人が身近にいなかった人にとっては、そわそわして落ち着かないことなのだろうけれど、本来的に(よく言われるように)人間というのは、誰だって、いつだって、死のリスクと隣り合わせではある。

 ただたいていの場合、入浴して即死したり、乗っている飛行機が墜落したり、電車が脱線したり、ゴミ出しの時に熊に遭遇して殺されたり、ベランダで煙草を吸っていたら狙撃されたりする可能性が極めて低いというだけのことである。

 

 子供の頃から「いつ死んでもおかしくない」人が身近にいたものだから、僕は他人の死や、そのリスクについてあたふたしない。そんなことをしても何の意味もないと思っている。

 仮に重病で死にそうな人がいたとしても、それは決して可哀想なことではない。

 たとえば障害者を見て可哀想だと思う人もいるだろうけれど、心身の機能が多少劣っているからといって可哀想だという価値観は、僕の中にはさほどない。

 困っている人がいたら助ければいいだけのことだし、だいたいの人は自分が困ったときに助けを求めることができる。

 他者に助けを求められない人も、その多くは ── 僕自身がそうだから思い込んでいるのかもしれないが ── 自己解決する能力を身に付けるものではないか。

 

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 しかし長生きすることと、好き勝手に生きることは、なかなか相反する問題である。

 長生きすることを至上とする人たち ── バブル経済の頃は広く見かけられ、社会的にも通念といえる状況だった ── は、好き勝手に生きることが即ち長生きすることに直結する。

 手段と目的が完全一致するという点で非常に素晴らしいと思えるが「何のために長生きをするのか」という問いに対する答えが「長生きをするため」というのはいかがなものかとも思う。

 

 ある種の暗黒時代を迎えたこの国において、人々はすでに長寿至上発想をやめ、経済至上主義から脱却しようとしているように観察される。

 それなりに財産のある人でも、生命倫理に従って「ほどほどまで生きればよい」という傾向が見られるし、長く生きること、生かされること、さらにいえば長く生きる欲がことさら強い人と生きることの苦痛について人々は気がつき、あるいは体験している。

 

 盲目的に死を忌避していたのは、国民の多くがそれだけ若かったからだろう。

 戦中はときに自国の兵士に死を求めることさえしたこの国が、次に迎えた高度経済成長期において、死は戦争とともに追いやられた暗い記憶だったのかもしれない。

 人々は働いて働いて働くことで生活を向上させ、国家を活性させることができることに喜びを感じていただろう。

 まさかその成長の最中に、死の匂いを忌避しないわけもない。

 

 個人主義と自由主義が輸入され、商品化され、国家の中でそのひとりひとりは孤立していった。核家族なんて言葉はもう聞かないし、これは Nuclear family(核兵器群)という意味ではないぞ。

 

 バブル経済崩壊後も、経済の亡霊に取り憑かれたままこの国は進むしかなかったはずだ。

 なぜといって、他に依るべき指針というものなどすでに失っていたはずだからだ。

 ただし経済を発生させるために優位に成長したのは、個々人でも家族でもなく、経済という結びつきによってその組成を強固なものにしたありとあらゆる組織だったというわけだ。

 人の気持ちよりも経済が優先される社会だったからこそ、利益追求型組織によって殺される人もいたはずである。

 個人主義的な家庭や価値観の中で、人が家族に逃げる場所を見いだせるはずもなく、そういった人たちは経済を持たなければ負け、経済を持つために与した組織によって殺されたわけである。

(昨今流行りの「親ガチャ」という概念も、個人主義の悪い面であるように思う。私は私、子供は子供、という考えで親が我が儘に振る舞えば、子供は無力であるからそのぶん、非人道的なほどまで窮屈な思いをすることになるだろう。)

 

 もちろん個々人の資質や能力はそれぞれで、組織の体質もそれぞれである。

 相性が悪いなら僕のように組織をすぐに辞めてしまうのも一つの方法だ。

 組織は個人の問題を何でも解決してくれるファミリィとは限らないのだから。

 だからたとえ血縁の家族であろうと、相性が悪いなら(そして独立する能力を持っているなら)その袂を分かつこともひとつの手段である。

 

 しかしそういった発想を持たない人もいる。

 会社を個人の一時的な心情で辞めてはいけないという価値観はかつて当たり前のことだったし、経済なくして生きられないのもまた事実である。

(同様に、家族と絶縁することを忌避する考え方も分からないではない。そのままでいられたら、それはどんなに幸せだろう)

 それでもいろいろな可能性を、どうすればもっと自分が快適でいられるかを、与えられている選択肢の外まで考える能力を、本来は発揮すべきなのだろう。

 

 残念ながら組織や集団というのは常に、そこに属する者をある種の盲目にする。

 皆がバラバラでは結束のしようがなく組織として成り立たないため、それは必然ですらあるだろう。同じ目的を共有する者が、集団を形成するのだから。

 

 一方で、異分子を過度に排斥するような組織が強権を握り、周囲を窒息させることによって結果的に自身の寿命を縮めてきた。

 捕食が過ぎれば生態系のバランスが崩れて捕食者が餓死する、というのは生態系における恒常性の基本であるが、きっとそうした組織は盲目なのだろう。

 

 おそらく日本で衰退した多くの企業は、そうした性質の活動によって自身の首を絞め、市場での優位を失ったのだろうと思う。

 今や経済活動も分散型になり、中央集約型はごく一部を除いて、ときに危ぶまれるべき泥船のような存在になっているようにさえ観察される。

 

 娯楽も同様に分散型になり、ためにTVプログラムはチャンネルの数を増やしてなお大衆の娯楽の中心ではなくなり、旧来の仕組みにしがみついている人たちの居城は脆く崩れようとしている。

 ── 姉の家でTVを見るたびに、ネットでの話題がわざわざニュースで取り上げられていてうんざりする。ネットでTVの話題を見るのと同じくらい、無意味に感じるのだが、あれが有用な人ももしかしたらいるのだろうか。

 

 地震などの大規模災害があったときに、やたらと「絆」だとかという言葉が飛び交っていた。

 もちろんそれは日本人の美徳のひとつだろうけれど、ときに「しがらみ」にもなるそれは、多くの人が嫌い個人主義へ向かっていったことの根源でもあるのだ。

 

 自己と他者の「つながり」についてそれでも人は模索を続け、たとえばweb上では、個々人が物理的拘束にさほど左右されずに結びつくことが可能になった一方で、それを悪用した犯罪も目立つようになった。

 僕はSNSを利用していない(その上、SNSでやりとりする友達も恋人も家族もいない)ので、あまり知ったふうのことはいえないが、10年ほど前からすでにwebは窮屈な場所として感じられるようになっていた。

 たとえばそれは20年ほど前にTVがつまらなく感じるようになったのと同じものである。

 

 ようやく社会的にもwebが不自由な場所だと認識されるようになってきたようではあるが、利用を最小限にするのではなく規約や規制によって統制を図り、安全性を確保しようとしているように見える。

 結局のところそれは、TVが娯楽として楽しくなくなったことにもそのまま通じている。

 社会や人間関係そのものが、規約や規制によって統制を図り、安全性を確保しなくてはならないものに変化してしまったかのように。

 もはや恒常性は神話でしかないのかもしれない。

 

 かつて規制によって一定の秩序が集団に作用するようにできていた。

 集団の中でトップダウン的に出された指針によって、組織は一定の働きをするようにできていた。

 

 放送局と視聴者は、その(どちらか一方ではない、両者という)集団において個人主義的な価値観が行き過ぎた結果、一部の一意的な善意によるクレーム対応のため規制を強めるよりなくなったり、あるいは一方的な目的意識によって発信側に問題行動が発生する(倫理的な問題がある場合はもちろん、実際に倫理的な問題はなくても、発信側の行動が視聴者に問題だとされる)こともあった。

 

 後者は特に抽象的に感じられると思うが、例えばいわゆる「やらせ」と呼ばれる捏造行為であるとか、「このあとスタッフがおいしくいただきました」というテロップを必要としたりといった「手法」のことである。

 またドキュメントとエンタテインメントを(おもに出演者の人間関係や感情の長期的な変遷 ── 主に恋愛感情 ── などをコンテンツとして)混合したような番組では発信側の予期しない展開そのものが本来はコンテンツであり、それが結果的に視聴者の反応(主に不快感)を制御不能なレベルにすることもあったように観察される。

 結局のところ、不特定多数に向けたエンタテインメントはすでに成立しないのだ。

 

 出版物にしても、かつては発行100万部を超えてベストセラーと呼ばれていたものが、最近では数十万部でそう呼ばれている。そのくらい、人々はその興味も関心も分散している。

 それをひとつのテーブルやメディア、コミュニティに集約することは、それ自体が前時代的なありようなのだと思える。

 

 お茶の間に自宅の家族はおろか近所の人まで集まってTVを観るという文化は、その価値観も倫理も絆もすでに失われたのだ。

 そのうえ、多くの娯楽がインタラクティヴィティを持つようになっている。

 

 発信者側が組織や集団であったとしても、結果的にコンテンツを楽しんでいる人間がそこに個人を見ている場合、一部の(僕の言葉では「アタマオカシイ」とされる)人にとってはあたかも友達のように文句を言う相手になってしまう。

 直近の例では「これまでオリンピック開催に否定的だった番組(あるいはコメンテータ)が、急にオリンピック開催に肯定的かつ積極的になった」というクレームを見ることもあった(とくにwebで、だったろうか)。

 

 TVプログラムは個人ではない。

 そこに登壇して発言する人も、それがキャスタであれ、ホストであれゲストであれ、あるいはディレクタやプロデューサであったとしても、カメラの前で発言している以上は個人の皮を被った出演者に過ぎない。

 個人の意見や思想を公共の電波に乗せるのは、それが目的になっているときだけだ、という当たり前のことを理解できない人は、放送局や番組構成チームといった組織や集団の存在を忘れ、無視している。そしてそれらの集団には人格(権利義務主体としての人格ではなく、価値観の集合によって個人と見なされるべき対象)が存在しないにもかかわらず、勝手にそこに個人を投影してしまう。

 

 これらを僕は「アタマオカシイ」と断じてしまうのだが、実のところ人格のないものにキャラクタを見出すのは、高度な人間の能力でもある。

 子供が人形を相手にキャラクタを設定してコミュニケーションするように、かつての社会では、それは幼稚なこととして忌避されていた。

 

 当時の社会の中で、インタラクティヴィティを持つのは実在する人間とのダイレクトなやり取り(対面/電話/手紙など)によるものだけであり、そうでないヴァーチャルなすべては現実世界で何の役にも立たないものとして馬鹿にされてさえいたのだ。

 ためにTVゲームはただの遊びと見なされ、アニメや漫画も芸術よりは格下の単なる娯楽として扱われていたわけだ。

 

 今では漫画やアニメが芸術として認められ、TVゲームがエンタテインメントとして、あるいはスポーツとしてさえ認められるようになった。

 

 同時にヴァーチャルなものさえインタラクトできる対象になった。

 実在しないキャラクタが声を持ち、歌を歌い、実存しないモデルを人はリアルタイムに演じ/それを観ることが可能になり、それらはエンタテインメントとして成り立っている。

(参照:VocaloidVtuber|いずれも Wikipediaへのリンク)

 

 人間の人格認識能力は、かくして過剰に発揮されることをよしとされるようになり、経済がそれを後押しした。

 

 結果として、人間は過剰に個人を見るようになったといえる。

 ヴァーチャルが個々人のアタマの中に投影されてヴァーチャルでなくなるとき、実のところそれはリアルを超えてしまう。

 とくにヴァーチャル慣れしていない人ほど、ヴァーチャルを脳内投影した結果、暴走しがちだろうと思われる。

 

 これは実証を集めていないのでなんともいえないのだが、恋愛経験が少ない人ほどストーカーになりやすいことに似ているのではないかと考えている。

 経験の少なさや、視野の狭さは、結果的に過剰な想像力を増長させる。

 通常ならば、経験や広い視野によって、現実的な範囲内に想像力がセーブされるはずが、それらの不足によって制御を失い、過剰なままの想像を現実世界に投影することになる。

 これは社会経験や対人経験のすべてに共通していて、それらに憧れる人もそれらを嫌う人も、経験していない人のほうが想像によって過剰な意味づけをしている。

 

 たとえば僕は基本的に人見知りではあるが、人と会わないときの方が人と会うのが怖くなり、会いたくなくなるのだ。

 定期的に人と会っていれば、その過剰な恐怖心は抑制される。

 それは正しい「他人の像」を認識できるからだ。

 

 就職も同様で、僕は最初、就労するのを過度に恐れていた。

 恋愛だってセックスだって同様である、最初は怖くて仕方なかった。

 未知のもの、未経験のこと、他者が関わる全てのことは、怖くないわけがない、というのが僕のスタンスである。

 

 未知のもの、未経験のことについて、適切なスケールでそれを把握できる人のほうが少ないだろうと僕は思っている。およそそれは不可能だ。

 また他者が関わる場合について、十人十色の言葉の通り、絶対の答えなど存在しないのも事実だ。

 たとえばどんなにwebや書籍で情報を集めたとしても、実際にそれを経験することによって得る情報とは雲泥の差があり、求めた「正しさ」が具現するとは限らない。

 俚諺にも「過ぎたるは及ばざるがごとし」というではないか(そっちかい)。

 

 そして、たとえばアイドル歌手のファンが、自分を特別視してくれていると過剰に思い込むことは異常だと自覚できる可能性が高いけれど、相手がヴァーチャルな存在であればそもそも相手は人間ではないのだからどのような隠された設定を脳内でしたところで問題になることもない。

 

 こうした現象が現実世界ですでに齟齬を生んでいる。

 たとえばある Vtuber(Youtube そのものもあまり見ないので名前も忘れた)がIRLの日常風景を撮影して撮影された現実世界の手について、視聴者から「(そのキャラクタは)そんな手じゃないだろう」とクレームを付けられたりすることもあったそうだ。

 先の「TV番組としての意見」というものも、視聴者の勝手なイメージである(一方でクレームを付ける側は真剣である)。

 不特定多数を相手に経済活動をする中で、ちょっとした発言で炎上したり、不祥事で活動停止に追い込まれるのも、個々人に投影されたイメージが過剰に保護されている結果だろう。

 

 綺麗で完璧なものがあると思うこと、思い込むことは決して悪いことではないと思える。

 しかし本来的に綺麗でも完璧でもないものにそれを投影できる時点で相当ファンタジィでハッピィな脳内だろうとは想像できる。

 それが行き過ぎれば、自分の想像したキャラクタだけが絶対的なものとなり、自身の設定を侵す行為は許されない、ということにもなる。

 

 この「脳内でヴァーチャルが過剰成長する」現象は、ヴァーチャルな存在には留まらず、結局のところ自分以外の全てに投影される。

 過剰な想像力を制御できない個人は、TVプログラムに人格を見出して発言に一貫性を求め、SNSの有名人を古くからの友人であるとか学閥の後輩か何かのように扱おうとする。

 

 もちろんそうした人は極めて少ないけれども、脳内に投影されるヴァーチャルな風景を「自分が作っている」と認識できない幼稚な知性は確かに存在していて、その過剰な想像力は社会にとって危険な因子として作用することもある。

 

 かくいう僕も想像力が過剰なほうであるから、自分の確固たる人格がないのをいいことに人格を分離させている。

 極端なことをいえば「殺人はよくない」という僕がいるかと思えば「殺人も致し方ない場合がある」という僕もいる。

「自然環境の汚染を防ごう」という僕と「なあにかまうものか」という僕は同じ肉体にパッケージされていて、その時々の場面にならないと(蓋を開けてみないと)どちらに転ぶか分からない。

 SNSはほとんど使わないけれど、ゲームをするときによく使う人格もあり(それは女性であるが)僕はその人格を使うことをとても楽しんでいる。

 

 僕が異常な行動に走らないのは「正しいかどうかは僕が決めることではない」と思っているからである。

 他者の言動に正しさを求める正義感は、決して悪いものではないとは思う。

 けれども一意的な正しさを他者に強制するとき(昨今のニュースやコメントではよく見かける風景になりつつあるが)それは一線を超えると狂気になり、どういうわけか人はヴァーチャル(あるいは「匿名性」と言い換えてもいい)の中で独善を暴走させる。

 

 いやなに独善の暴走なら僕だってする。

 しかし誰かにそれを突き付け、突き刺すようなことはしない。それは暴力だ。

 それをされたことのある人なら知っているだろう。あれは無駄に痛い。

 

 僕はSNSをせず、ブログも目立たないように、読者が増えないように工夫している。

 不特定多数のシンパを作ることは(たとえそれが経済活動であるとしても)もはや危険なことでしかない。

 極論から入りたがる僕はちょっとしたことですぐに炎上しそうだし、誰に問題視されることもない無難なコンテンツなら作る必要はない。

 

 思ったことを思った通りに表現して、それがきちんと受け入れられる場所は、web上でもヴァーチャルの中でもなく、IRLの、つまりは足で歩いて手で触れられる人間たちのコミュニティにこそある。

 もちろん、僕の人格の全てをそこに投入することはできない。
 対外用の人格ばかりなのに、矛盾が多くて、キャラクタが崩壊してしまう。
 
 ために僕は、IRLの「人間の男性」としてのキャラクタを用意して、それ以外の「ゲーム好きな女性」や「人間のフリをしている猫」といったキャラクタはweb上でのみ活動している。
(もちろん、ヴァーチャルな彼ら/彼女たちの価値観や視座をIRLで利用することは、それこそ頻繁にあるが)
 
 自分が単一であり、世界が単一であり、正しさが単一であるという思想は、少しの力加減ですぐに危険な暴走をしかねないとさえ思える。
 いやもちろん、そんな簡単に暴走する人は極めて少数のはずだけれど。
 
 
 いずれにしても人間たちはまだ、ヴァーチャルとリアルの間にいる自分について、その境界を設定し、制御することに慣れていないように思える。
 自分の中に居る、ヴァーチャルとリアルも、自分の外にあるヴァーチャルとリアルも。その区分や力学を、まだ十分には理解し切れていないのだろう。
 
 
まさか最後まで読んだのかねキミ。

1211023

 

 未明に就寝。

 体調は、絶好調ではないが、不調でもない。いかんせん寒いので扱いに困る。

 こういうときに油断をすると風邪を引く。

 だからといって大人しくしすぎると、体力と気力が落ちる。

 

 毎日すこしずつ、何かをすることができればいいのだけれど、1時間何かをしていると、ずっとそれをしていたくなることが多い。いわゆる行動における慣性の法則である。

 最初はあまりしたくないのに、ひとたび始めると、楽しくなってしまって今度はやめどきが分からなくなる。何一つ計画的に行動できたためしがない気がしないでもない。

 

 8時に来客の約束をしていたことを忘れ、インタフォンで目覚める。恥ずべき事態である。

 慌てて目覚めて作務衣を着て、玄関へ。

 寝る前に確認しなかったスケジュールはこのようにして忘れ去られる。

 

 外に出て作業をしようかしばらく考えるが、寒いし土曜なのだからのんびり過ごそうと考える。完全に慣性の法則に支配されている気がする。

 要するにやる気が出ない。やる気というのは出したり引っ込めたりするものでも、できるものでもないとは思うが、とにかくやる気が出ないのである。寒いし。どことなく気力も体力も絶好調とは言い難い。

 しかしそんなことを言っていたら、絶好調の時なんて、月に数回も訪れない気もする。単純な怠け癖ではないのか、とも思うが分からない。好調なときは、目覚めてすぐに次の作業を開始したいと思うのだ。たしかそうだったはず。

 

 理由の分からないやる気のなさは、体調由来なのか、それとも季節由来なのか、昨日気付いたセロトニン不足のせいなのか、よく分からない。

 こういう気質をして、姉にして僕を「双極性障害だよ」と言わしめるのであろう。

 

 気力というのが、そもそもよく分からない。

 たしかに気分が乗るときもある。目覚めた瞬間から、よーしやるぞぅ! という気分のときのことである。

 しかしそういうのは、いつまでも続くようにそのときは思うのだけれど、思い返すと2週間も続かない。1週間続けばいいのではないのか。

 

 待て待て。
 ワクチン接種以降と以前の行動を考えると、まずギターを弾いていない。

 

 朝方、軽いワークアウトをしたら急激な眠気に襲われ、倒れるように眠る。

 

 

 

211024

 

 世間的に日曜ということなので、今日は何もしないことにしようと決める。

 

 

 

211025

 

 未明に眠り9時頃、姉の電話で目覚める。

 月曜だけれど雨になるということなので、今日は何もしないことにしようと決める。

 

 しかし朝から晴れ。こころなしか暖かい気もする。おかしい。

 庭作業をするかしばし迷うが、目覚めたときから(正確には昨晩から)お腹を下しているので、止めておこうと決める。
 悪いモノを食べたのか、胃腸虚弱を発動したのかは不明。お腹が痛いこともなく、ただただ下しているだけである。
 
 午後からお昼寝。やはり疲れているのかもしれない。何もしていないのに?
 そう、何もしていないからこそ、である。
 寝ている最中、姉からの電話で目覚めるが、受電せず眠り続ける。
 夕刻、妹からの電話で目覚める。
 メールに返事がなかったので、何か事故でもあったのかと心配したらしい(確認したら確かに受信していた)。
 その後、姉に電話。
 僕の姉妹はどのみちたいした用でもないのに僕に連絡をする傾向が強い。まぁ、僕が暇人だとバレているのだ。もっと忙しい人のフリをしようと思った。
 
 
 
211026
 
 燃えるゴミ出しの日、を無視して昼頃まで眠る。
 本来ならきちんとゴミ出しをするのだが、ゴミの量がさほどでもなかったことと、雨の予報だったのでやる気が出なかったのが理由か。
 
 昼過ぎにシャワーを浴びて、午後から姉上の家に出掛ける。
 
 
 
211027
 
 姉上の家にいるときの僕は、正直何もしない。
 姉は身体能力の発揮にかなりの制限を持つ病気と障害があるのだが、だからといって替わりに何かをしようにも家の勝手も分からないので、頼まれないことは何もしていないことにしている。恐らくだけれど、無闇に手伝うと言われても面倒に感じるような気がする。
 僕がそうだから。なのだけれど。
 
 気質に似ている部分が多いから勝手にそう思っているだけで、実のところ「手伝おうか?」と訊ねるくらいしてもいいんじゃないか、と当の姉は思っているのかもしれない。まぁ、姉の家は全体に狭いので、キッチンにひとり立つのがやっとなので、物理でも無闇に手伝わない方がよいものと思われる。
 
 
 
【1027までのまとめ】
 
 歌を歌わないと、気分が鬱屈しやすい傾向は以前から分かっている。
 しかし自然に歌っているので、歌わないことを不自然とも思わない。

 

 体調の悪いときはギターを持つのも苦痛だし、いい音も出ない。声も出ないからどうにもならない。

 

 煙草も同様で、吸うのは苦痛だし、味も香りも最悪である。 
 
 行動によって気分が変わるのは事実だが、その行動を支えているのはいわゆる「健康」である。
 もちろんただ健康なだけを目指す「健康至上主義(最近あまり見かけなくなりましたが)」の人たちを観察する限り、「健康」だけを目指して手に入れても、それだけが目的になっている限り「健康な割に不健全」なありようを体現するよりない。
 
 もともと僕は身体が弱かったから余計なのかもしれないが、成長期の間も心身は安定しなかったし、30代を過ぎれば徐々にそれらの機能は衰え続けた。
 本当に意味もなく「調子がいいな」と思えたのは今までの人生で3年くらいしかなかっただろう。
 
 しかし衰えることが特に悪いこととも思わない。 
 死ぬときにはすべて止むことでもある。
 呼吸をしなくなれば、声も出ないし煙を味わうこともできない。
 
 おそらく会社員を続けていた方が僕の場合は健康的だっただろう。
 行動を最適化するため夜は早めに寝るだろうし、適度な運動も今以上に心掛けていただろう、他者との摩擦をできるだけ小さくするため、価値観を修正する努力を、努力とも思わずし続けたはずだ。
(摩擦抵抗を低減させることは、僕には大きな意味を持つので)
 
 しかし抵抗や摩擦というのは、運動、つまりは推進することによって発生するものだともいえる。何もせず、停止しているものには抵抗も摩擦も発生しない(摩擦があるから停止しているのかもしれないが)。
 
 生きているというのは、抵抗や摩擦を必然に受けながら、今いる場所から次の場所へと運動する現象のことだろう。
 そこには必ず環境があり、他者が存在する。
 それらこそが抵抗や摩擦になるわけだけれど、それらが存在しない場所に自己の存在はない。
 おそらく自身も環境であり他者なのだ。
 
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 明日には家に戻る。
 途切れることなくしたいことはある。
 しなくてはならないことも、まだある。
 直近では経費の精算がいくつかあるし、期日前投票にも行きたい。
 他にも花壇の木の根の除去、松の木の手入れ、庭の草取り(まだ残っている)、火鉢の準備、etc,etc……
 気力と体力を整えて、万全の体制を待たずに挑みたいところである。
 
 
 投票といえば、他人に投票に行くことを強要する人があまり好きではない。
 ネット上でもときどき「みなさん、投票に行きましょう」と言う人がいるが、そんなことはわざわざ誰かに呼びかけるものではないと僕は思っている。
 
 語感は強いものではないし、何かを強要しているふうでもないが、明らかに催促している、要求している。つまりは強要しているのである。
 これはたとえば学校から帰宅した子供に対して親が「今日も宿題があるんじゃないの? すぐに勉強しなさい!」と強い語調で言うことと「宿題は今日は出ましたか? あるならしなくてはなりませんね」と柔らかい口調で言う程度の差でしかない。
 
 まぁ、僕は親からそんなことを言われたことが一度もないので分からないのだが、言われたら絶対にしなかったろうと思う。言われなかったのでやはりしなかったのだが。
 
 オンラインゲーム(EVE Online)をしていて驚いたことがある。
(成人のプレイヤが多いゲームであることもあり)多くの人が「今日は選挙に行ってくる」といってログオフする場面を見ることが多かった。
 コミュニティの中で「(誰かに)行きましょう」ではなくて「(私は)行ってくる」ということでも十分に姿勢を示すことはできる。
 何故わざわざ不特定多数に向かって「行きましょう」などと呼びかけるのか。
 その潜在的な支配欲を僕は嫌悪する(天性のアナーキストでありラケンローラなので)。
 
 数日前、弟子からの電話で「猫さん、投票に行ってくださいよ」と言われたため文句を垂れた。
「お前に言われたから俺は投票には行かない。投票にだけは絶対に行かないからな!」とまで言った(言いながら2人で大笑いしてしまったが)。
 実に大人げないことである。
 
 行きたくない人、行く意味を感じない人は行かなくていいと思う。
 投票しなくても、政権に文句がある人はしゃあしゃあと文句を言っていいと思う。
 したいことをする中で、自分の影響力を知るといいと思う。
 つまるところ投票をするというのは、労少なくして最大限の効果を発揮するのではないだろうか。まぁ、ろくに投票に出掛けない人間がこれを書いているのだが。
 しかしクーデターを起こしたり、革命を起こしたり、反体制組織を構築するよりは簡単であるし合法的でもあるし人道的でもある。ついでに投票用紙が勝手に送られてくる。
 
 つまり革命を起こせる人は起こせばいいのだ、と弟子に話していたら「中年革命家として Youtube でデビューしてはいかがですか」と言われて絶句した秋。
 残念ながら僕は革命家には向かない。それも明らかに。
 
 
 

211018

 

 未明から寒い。

 冬の匂い。

 朝方眠って午前中に目覚める。

 

 冬は僕の恋人なので、僕はその匂いも大好きである。寒いけれど。

 

 熱はほぼ平熱に戻ったけれど、春過ぎから平熱が36.4〜5℃になってしまったようである(接種会場でもそのくらいの体温だった)。

 朝は36.8。特に熱っぽい気はしないが、左腕の接種位置は痛むし少し腫れているような感じである。

 

 寒いので庭に出る気もしない。

 そういえば寝るときに寒い思いをしたので、羽毛布団を干すことにする。

 この家ではどういうわけか、布団を屋根で干していた。たしかに他に適切な場所も見つからない。

 2Fのベランダに出て、1Fの屋根の上に布団を広げる。

 これで今日の仕事が終わったような気分になる。

 

 

 

211019

 

 未明に眠り8時起床。

 今日は外出の予定がスケジュールされている日。

 とても眠かったがスーツに着替える。

 まるで会社員の頃のようだ。

 ゴミ捨てをして、約束地点に出発する。所有物の立ち会い確認。

 

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 やはりスーツを着るのは好きである。

 なんというか、表皮や外骨格に包まれるような安心感とフィット感がある。

 スーツによって、液体のように不定型な肉体が、正しく限界を設定されるような。

 とくに寒い時期は、スーツは本当に心地がよい。

 

 帰宅してもスーツで過ごす。

 作業着の時は汚れていることが多いのですぐにシャワーを浴びたり、少なくとも着替えるのだけれど、スーツならそのままでいいんじゃないかと思う。

 

 会社員の頃は、休日でも外出するときはスーツを着ていた。

 スーツ以外の服の手持ちがほとんどなかったからなのだが、基本的に、夏は涼しく、冬は暖かく過ごせる。

 スウェットやジャージのように、人間の姿勢や振る舞いがぐにゃぐにゃしないという良さがある。
 
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 午前中に戻ってたいしたこともせず1日を終える。
 左手用の入力デバイスを一つ買う。
 眠いので早めに眠ることにする。
 
 
 
211020
 
 8時頃目覚める。まだ少し眠い。
 9時過ぎたあたりで庭に出る。
 草取り、木の枝の剪定。
 いくつかの低木については、花壇の手入れにも、畑作業にも邪魔になるので撤去することを決定。
 スギ科と思しき背の高い木は、僕の胸くらいより低い位置の枝を下ろす。
 
 木が小さかった頃は良かったのだろうけれど、他にもいくつか、木が育ってきたが為に過密になっているものもある。順次剪定予定。
 
 昼より少し前に思い立ち、粗大ゴミをトラックに積み込む。
 納屋に放置していたものがほとんどだが、軽トラの荷台が一杯になってしまった。
 そのまま清掃センターへ。
 
 午後は何もせず。
 左手用デバイスの設定を少し。
 マウスも併せて買ったのでその設定も行う。
 MacOS は Apple Silicon がリリースされてから、サードパーティーの入力デバイスに恵まれない。ドライバの対応がむつかしいのかもしれない。
 以前のマシンで使っていたすべての入力機器は、いずれもドライバさえ対応していないので使い物にならない。(マウスでさえもだ)
 あるメーカなどは、現在のOSがリリースされて1年ほども経つというのに、ドライバのアップデートも、設定用アプリもリリースされていない。
 
 しかし純正品が最善とはとうてい思えないし、複雑な入力機器を必要とする人はいるはずなのだ。
(たとえばイラストレータやCADオペレータなど)
 
 確かに新しいモデル(およびそのCPU)は高性能だと思うし、ユーザのプライバシー保護についても、それなりには優れているのだと思う。
 それでもそろそろMacを使う理由はないかな、と思い始めている。
 まるでOS8の頃のように適合デバイスがなく、そのうえアプリケーションやシステムアドオンを提供しているユーザも、そのチャンネルも非常に限られている。
 小洒落たカフェで「仕事もできてお金も持っている自分アピール」をするにはいいマシンかも知れないが、そもそも僕はPCを人前で開くことを恥ずかしいと感じるため、その必要もない。
 
 今日もやたらと眠くて0時頃就寝。
 
 
211021
 
 8時起床。少し筋肉痛。
 室温がすでに15℃くらいになっている。
 誰だ、床に断熱材を入れたから大丈夫とか言っていたのは。
 ついでに湿度は50%ほどで、寝ている間に喉が乾燥しやすくなっている。
 そのうえベッドが狭いせいで、布団や毛布が落ちる。
 
 奥様に打診をしたところ「青猫様が風邪を引いたら大変なことになります(実際そうなる)ので、早急に大きめのベッドを買いましょう」ということで、予算審議を待たず、特別予算計上で対応しようということになったが、残念ながら欲しいものがすぐに買えるほどのオカネモチではないので、来月か再来月まで待たなくてはならない。
 
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 庭で枝の剪定作業の続きをしていると、向かいの県営アパートの植樹の手入れをしていた業者のお爺さんがやって来て、しばし世間話をする。
 世間話ついでに、松の手入れの仕方をレクチャしてもらった。
 
 先端の枝の最初の節から幹寄りの枝については、まず、すべて葉をむしり取って、枝が空くようにするらしい。
 そのうえで芽が過剰に伸びていたりする場合(向きや混み具合を見た上で)、芽の根元から切るとよいという。
 
 これはよいことを聞いたと、早速試す。
 なるほど、まったく知らなかったが、素晴らしい知恵をもらったことを感謝している。
 
 夜、お風呂に入ったら、両手首のあたりがちくちくする。
 松の葉が、刺さったのだ。
 しばらくちくちくを楽しむ。
 赤い、ぽつぽつができている。
 跡にならないといいな、と思いながら、それを撫でる。ちくちくする。
 
 
 
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211022
 
 この数日、本当に寒い。もう冬なのではないかと、晩秋はいつも思う。
 屋内キャンプ場、と僕は自分の家のことを称することがある。
 実際、雨風がしのげるくらいで通気性の良さはテントに等しいのではないだろうか。バンガローのほうが気密が高い可能性すらある。
 
 午前中、妹がやって来る予定なので、起床して早々、ゴミを出してから灯油を買いに行く。
(妹はストーブが好きで ── 正確には寒さが嫌いなのだが ── 、数日前、来る約束をしたときから「ストーブを出しておいて」と言われていたのである)
 1L、102円。昭和のレギュラーガソリンだってこんなにしなかったぞ(笑)。
 
 妹が来てから事務処理上の書類の手続き。
 妹の娘はそろそろ受験らしいので、塾や進路相談などでなかなか忙しいようだ。
 収入がさほどなければ、進学にあたって市から授業料や入学金の補助が受けられるのに、叔母が余計な手配をしたために妹の額面収入がものすごいため、妹夫婦はそうした公的扶助を受けることができない。
 
 実情は収入に見合っただけの負債を抱えているので、家計が豊かになった、ということではない。
 僕はそれらを(経緯も知っているため)便宜上管理している立場だし、あまり気にしない性質なので書いてしまうが、毎月100万円を越える返済を妹はしている。つまり収入はそれより僅かに上回っている。住民税なども相応に取られる。むしろマイナスではないのか。ひどい話である。
 
 これらの出来事は、相続税を嫌った叔母のエゴにより始まり、私だけが引き受けるはずの厄介ごと ── 財産だけではなく負債も、また元はといえば義理の叔父の所有物なのだから、対外的なことも含めた諸々の責任問題も引き受けること ── を誰に相談するでもなく分散したため起こった。
 
 叔母を恨んでいるのは、単純に、手間や悩みが僕だけでも数倍になり、あろうことか何も知らなかった妹夫婦やその娘にまで禍根を遺したためである。
 もちろんそれとてもいずれは解消させる計画であるが、ために僕の余生(だいたいあと19年)の半分が費やされる。
 いったい死人がどれだけ僕の時間を奪うというのか。
 そのようなわけで呪っているのである。余生の半分といったら、だいたい50%である(本当はもう少しかかる)。
 
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 昼頃から雨が降りだし、庭仕事はしないことにする。
 
 夕刻、スーパーでハヤトウリを見つけて6つ購入。
 三五八漬けにすると美味しいのである。
 
 夜になって、10日ほどぶりに3本ほど煙草を吸う。
 まだあまり本調子ではないが、美味しかった。
 
 僕にとって煙草は純粋な嗜好品なので、体調が悪いと吸わない。
 体調が悪いときはだいたい味や香りも悪い。
 
 Webニュースだったか、セロトニンが減ると眠くなる、というような記事を読む。
 ああ。それでは、あの、ひたすら眠り続けていた頃の僕は確かに鬱病だったのかもしれないと思う。
 そして最近やたらと眠い。
 
 セロトニンが市販薬として売っていればいいのに(脳内物質だと思うから売っているはずはないと思うし、あっても経口摂取できるとは思えないが)と思いつつ、カフェインを飲んで、過剰な眠気を抑える。