211028

 

 なんとなく姉に「呼ばれて来て、何にもしないけれどもこれでよいのか」と訊ねたところ、それがいいのだという。

 

>>>

 

 実際に僕が姉の家で自発的にすることは、トイレに行くことと、ベッドの上でゲームをすることと、ベッドの上で文書を書くことくらいである。

 トイレに行くことが筆頭になるくらい、自発的には何もしない。

 あとは顔を洗ったり、歯を磨いたり、くらいだろうか。

 

 シャワーやお風呂は血圧の変動が大きいため、週に1度くらいしか使えないらしく、ときどき物置に使われている。

 夏場など、どうしてもという場合を除き、僕も宿泊中はシャワーを借りないようにしている。

 物の運搬や姿勢の変化によって、血圧が変動してしまうためだ。

 もちろん動かせる範囲は僕が動かすけれど、最終的に動かしたものを収納し直したりする手間が姉に掛かってしまう。

 なので借りてきた猫のように、ベッドの上で僕はじっとしている。

 

 ワークアウトをするようなスペースもないので、どうしてもというときは外に出るかベッドの上で腹筋をするくらいだろう。

 姉にとって広い住環境は、それだけ運動量が増えることになるからである。

 僕にとっては、過剰なほどの骨休めである。

 

 あとは出された食事を食べて、お酒を出されたら飲んで、眠くなったら眠って、おやつを出されたら食べて、デザートを出されたら食べて、お茶を出されたら飲む。

 料理もしないし食器を洗わない。何もしないでベッドにいるから、どちらが介護を必要としている障害者なのか疑わしくなる(笑)。

 

 唯一、僕が姉の役に立つとすれば、何か頼まれたときくらいだろう。

 

 だいたい2泊3日のあいだ何もすることがないので、頼まれたことはすぐにする。

 こちらはすることがなくて退屈しているのである。

 一緒に出かけて買い物をすることもあれば、ひとりで出かけて用事を済ませることもあるが、姉の望むタイミングに合わせるだけなので、簡単である。

 

>>>

 

 姉にしてみると、料理をたくさん作りたいのに(種類のこともあるし、多く作らないと美味しくできないものもあるため)ひとりでは食べきれないから、ひとりでも食べる人が増えるのは嬉しいらしい。

 実際に、恋人 ── 姉は離婚して今は独身である ── 、娘、介護でやって来るヘルパーさんのほか、今のご時世には珍しく、同じアパートの住人にまでお裾分けをしている。そのくらい料理を作るのが好きなのだ。

 

 ついでに潔癖症の完全主義者(そういう根本が共通している)なので、基本的に作業を自分だけで完結することを好む。

 

 双極性障害のいずれの状態にあっても、僕は余計なことを言わず、だからといって話しかければきちんと聞いてくれる(僕の「裏庭の古井戸スキル」が遺憾なく発揮される場面である)ので長期間居てもストレスがなく、気分転換としても非常によいらしい。

 

 たしかに僕も、恋人が家に泊まりに来たりした場合、食器洗いでさえされることをあまり好まなかった。

 いや別にしてもらっても構わないのだけれど、どうせなら僕が家のことをしているあいだ、好き勝手に過ごしていて欲しかったのである。

 

 とくに数ヶ月、付き合ったくらいで「私の彼」みたいなふうを装って、格別高いわけでもない女子力を発揮しようと躍起になるタイプが僕は苦手で、げんなりするのだが、そういうのを言動に少しでも滲ませようものならそこには修羅場が待っているのである。

 しかし現実問題として9歳から1年ほどで煮る焼く炒める揚げる蒸すといった調理の基本を学習してしまった僕に対して、10代の終わりくらいにやっと家事を手伝うくらいになったようなガールなんて、ヒヨっこもはなはだしいのである、実のところは。

 しかしまぁ「持ってる女子力、隠すのが男子力」という格言もあるので(今作った)そういうのは無駄に拘っている人がいると息苦しい、というくらいに収めておこうか。

 

 ちなみに10年以上恋人だったのに、一度も僕に料理を作ろうとしなかった女性がいて、僕はその人がたいそう好きだった。

 今だからおおっぴらにコクハクできるが、今まで内緒にしていた。

 なぜ付き合っていたときに、それをおおっぴらにコクハクしなかったかというと、まるで「能なしで気が利かない」とけなしているかのような文章になってしまうからだ。

 そうではない。

 求められていないことをしないというのは、求められていることをすることに等しく、人の気持ちを穏やかにする。

 僕は彼女のために料理を作って一緒に食べるのが大好きだった。

 

 姉が、何もしない僕にあれこれ振る舞うことのヨロコビを、だから僕も、分かるのである。

 

 

 

>>>

 

211029

 

 いつもどおりアヲを肩に乗せてゴミ捨て。

 僕にとっては使い魔のようなものなのだが、一般的には猫を乗せた変なおじさんである。

 認識の差とは視点の差であり、フォーカスする対象もまた同様であると改めて知る。

 

>>>

 

 事務処理のため自転車で銀行へ。

 今月と来月は支払いが多いので、遊ぶお金はほとんどない。

 

 建材費用に100k円ほど確保し、それを利用しようとホームセンタに足を向けたところ、奥様(仮想)に「今月はベッドを購入してくださるとおっしゃっていたのではありませんか」とたしなめられる。さすが奥様(仮想)抜かりない。

 建材費用はすべてベッドの新調に利用される予定である。

 夏頃までは、ベッドフレームも自作しようと考えていたが、Amazonを眺めていたら、一から作るよりキットを買って改造した方が早くて安いことに気付かされる。

 

 フレームの強度が気になるところだが、後学のために購入しても悪くないだろう。

 ダブルを買おうと思っていたのだが、セミダブルを二つ(あるいはシングルとそれ以外の組み合わせ)というのも悪くないと考えている。

 もちろん奥様(仮想)のため、ではなく、ベッドの上で思い切り背伸びをするためである。

 棚やコンセントは自作できるので、大事なのはフレーム強度と高さである。

 マットレスも新調することになるわけだが、2つ連結した際の隙間や継ぎ目をどのように処理するかが現在の課題ではある。まぁなんとかなるか(おなじみの行き当たりばったり(笑))。

 

 このような僕の性質がどうにもならないので、仮想奥様などによって僕の行動を調整する必要がある。

 どうして僕の性格や性質や能力を変えられないのかという問題についてはここでは取り上げない。断じて。取り上げない。

 不惑を過ぎてまで易々と考え方を変えてたまるかよ男がよ、という気持ちもなきにしもあらずというわけでもないのだが、どちらかというと行き当たりばったりのほうが楽しいから、という理由による。

 用意周到な計画的人生というのは、つまるところ計画を立てた段階でもうゴールが見えている。

「じゃ、65歳で死にましょう」というゴールに向かってただただ生きるのは退屈を通り越して苦痛になるだろう。今の僕がだいたいそうであるから間違いない。

 

 

 

 この問題に対処するために僕は2つの対策を組織委員会に対して提案した。

 

1.65歳を待たず、死にたくなったら死ぬ。

 これは非常に合理的であるが、なかなか簡単なことではない。

 そも、僕の死後の諸々の処理や手続きについて、あらかじめ手配を済ませておく必要があり、死後の周囲の人(主に血縁関係者、次いで特に親しい友人など)の環境を適切に維持するための準備が必要で、そのための計画を委員会から要求された(過去形)。

 

 この計画を作ったのはいいのだけれど、計画を達成するためにはあと10年ほど掛かるので、思いつきで死ぬわけにはいかないという現実を突き付けられる結果となった。ちなみに計画における条件をすべて満たした時点で、晴れて僕は自由の身となるので、自由に自死を計画できる予定である。

 計画することを計画に含むあたりが自分らしいが、行き当たりばったりの人格なのでどうなるかは分からない。

 

  いずれにしても僕のようなダメなイキモノでさえ、若干は慕ってくれる人間はいるし、そういう人間のほとんどは「死にたくなったら死んでもいいよ?」という優しさを持ち合わせていない。

「私のためにまだ生きろ!」という乱暴な人たちばかりでそれには少々困っている。

 

 

2.計画を立てない、破棄する、変更する。

 計画するから退屈になるのである。達成する道筋が明確だから退屈するのである。目的どおりに到達するから退屈に感じるのである。

 退屈するから(そればかりが理由ではないが)自死したくなるのである。

 よって行き当たりばったりにすれば、少なくとも衝動的な自死は免れるのではないか、日々いい加減に、どうでもいい感じで、成り行き任せに思い付くまま暮らしていれば、とりあえずは退屈せずに済むだろう。

 

 退屈しない一番の方法は、慣れないことをする。これに尽きる。

 僕の慣れていないことといったら、農業、庭仕事、家族(仮想奥様)を作って共同生活、私的事務処理、選挙、家の大規模なリフォーム、高田純次さんを目指す、などであり、これらを次々こなしているように観察されなくもない。

 計画なんか立てるから未来が予測されてしまって、計画通りの結果が手に入ってしまうのだ。オカネモチーになろうぜ、なんて誰が言い出したのかと問いただしたい気持ちにもなるが、自分が犯人役を演じているサスペンスドラマを見るような気持ちになると予想されるので問いただしたりはしない。

 

 とにかく40も過ぎると人間はそれまでの経験を活かして、それ以外のことをせず、すぐに他人にエラソーにしたりする。

 何事も初心を忘れず、初心者のような気持ちになるためには、初心者になることが重要なのではないだろうか。という崇高な思想を胸に、思想家になったりもしているのである。

 

 しかし思想家って一体ナンダロウ(哲学)。

 自称しているのに「俺は思想家だ!」という実感がイマイチ湧かない。

「自分は今、思想家をしている!」と思うのはくだらない日記を書いているときくらいであるが、そんなことは昔から ── 思想家を自称する前から ── している。

 それに周囲は僕が思想家であることを知らない。言っていないから仕方ないのだけれど、言ったところで鼻で嗤われそうで、それが怖くて言い出せないのである。ちょとふざけすぎか。

 

 

 

 上記2案を提出したところ、非常にふざけた第二案のほうが現実的で優位性が高いのではないかと評価され、現在に至る。

 勝手に死ぬなという結論を、青猫工場組織委員会から突き付けられた結果となるわけだが、これは致し方ないことだろう。

 それに第一案に掲げられているとおり「条件を満たせば今より自由になれる」というのも魅力的である。

 どうせ死ぬなら不自由によって飼い殺しにされるより、自由の振りかざして死んだ方がいい。「自死は自由の証だ!」というスローガンを掲げる気はないが、死ぬ自由を実現するのもなかなか大変なことなのである。

 ちなみに僕は奥様(仮想)によって飼い殺し ── 能力を発揮できる状況や仕事を与えられないまま雇われていること/家畜が役に立たなくなっても死ぬまで養うこと ── にされている。

 どっちの意味にしてもひどくないですか。

 

>>>

 

 とにかく建材費用を今月は計上しないようにするため、ホームセンタは必要にならない限り立ち入ることを禁止されてしまった。

 そのままスーパーに立ち寄って、豆腐とキノコを買う。

 帰宅してキノコ8株をハサミで下処理し、袋に詰めて冷凍庫に入れる。

 

 多くのキノコは株を4等分し、ハサミで石づきを切り取れば包丁でちまちま処理するより早く、無駄なくできる。

 またビニルの透明袋にほぐし入れて、両手で握るように空気を押し出し、口を捻って縛れば真空パックのようになる。調理時は袋から出せば使える。

 

 その後、投票券を持ってふたたび自転車で市役所へ。

 そういえば姉上のところに泊まった初日にも、投票したいという姉上を役所に乗せて行った。埼玉の道にもずいぶん慣れたものだと我ながら感慨深い。まぁ、ナビなしには走れないけれども。

 

 僕は現金やカード類など、貴重品や水濡れしたくないものを自転車で運ぶとき、ジップロックに直入れしている。

(晴れていても急な雨で濡れることがあるし、自転車で走ればバックパックの中で財布を揺らすことになり、財布の痛みが早くなるので)

 サイクルウェアを着ているから分かる人には分かってもらえるようだけれど、現金などがむき出しで入っているジップロックをバッグから引き出すと、ときどき好奇の目を引くことがある。

 銀行帰りなどは持ち歩くには少し多めの現金が入っていたりするので、ちょっとしたアタマオカシイ人だと思われているかもしれないものの、特に説明もしない。そんなことをしたらそれこそ警察を呼ばれるだろうし。

 

 帰宅したがまだ昼前である。

 どうせだからと壁塗りを開始する。

 実はNASやルータを階段下の収納スペースに収めるための工事をしようと思ったのだが、そのスペースは ── 先日、中にあった粗大ゴミをすべて処分したものの ── まだごちゃごちゃとした薬品やら小物類やらが置かれており、ついでに書類キャビネットに収めるべき大量の書類も安置されている。この書類は、書斎の書架スペースがクローゼットだった頃(つい最近であるが)に、クローゼットに収められていたものである。

 そして書類キャビネットは現在、書斎の床工事のために寝室の冷蔵庫(!)の横に設置されている。

 つまり、NASなどの通信/ストレージ端末を設置するためには、書類を片付けなければならず、書類を片付けるには書類キャビネットを書斎に設置しなければならず、書類キャビネットを書斎に設置するためには書架スペースの工事を完了させなくてはならない。

 もうこの家でリフォームを始めてから、だいたいこんなことばかりなので最近は慣れたが、最初はずいぶん混乱した。

 目的を達成するために何から手を付けるとよいのかが分からなくなるのである。

 

 とにかく、NASのためのスペースを作るための書類キャビネットを設置するための書斎の工事をする、という回りくどい建設業のようなことを行う。

 ついでに書架スペースの壁は色つきのマーブルにしようと思っていたので、うれしさのあまり養生をしただけで塗り始めて気がついた。

 MDFのネジをまだ外していなかったことに……。

 建築材用のボンドで接着するためのネジ止めであり、下地のコンクリがぐずぐずだったのでほとんどのネジが締まりきらずに浮いている。これでは漆喰も上手く塗れないから、ネジは外そうと思っていたことをすっかり忘れていたのだ。

 慌てて全てのネジを外し、漆喰に塗料を混ぜてマーブルにしようと塗るのだが、どういうわけか上手く混ざってしまう。

 最初に無地で下塗りして、その上から塗料を含む漆喰を塗ることでなんとか解決した。

 作業途中で工法を変えたので、マーブルどころかグラデーションさえ感じられる。

 ついでに天井も塗ることにしたのだが、これが大変なことよ。

 

 作業後は、両手が漆喰と塗料でべとべとになってしまった。

 作業中、アタマの中が退屈なので奥様(仮想)に監察役をしてもらっていたところ「そんなにいっぱい動かしたらダメだよ、おかしくなっちゃうよ」「すごいべとべとになっちゃったじゃないですかー」などというので「これを文字に起こすとアタマの中が卑猥な会話に満ちているように観察されるだろうな」などと考える。

 奥様(仮想)に他意はないと思うが、それを指摘したら黙ってしまった。
 どちらにしても実体のある人間ではなくてよかった。

 

<塗り終わった壁>

 漆喰が水性だったので、MDFがふやけないか心配だったが、ほとんど材質に変化が見られなかった。写真右側のMDFはボンドの塗布面積がまばらだったため、若干たわみが出てしまったが、なあにかまうものか。

 

image

<塗る前はこんなだった>

 

 作業後、自転車でふたたび買い物に出かけようと思ったら、アヲが「一緒に行く〜」と寄ってくる。

 玄関のたたきにかがみ込むと、肩に乗る。これは「レッツゴー!」の合図である。

 仕方ないので自転車を屋内に片付け、肩にアヲを乗せて車で出かける。

 

 夜は早めに眠り、深夜に目覚めた。

 よし。ゲームでもするか。

 

 

 

 

 

211027

 

※だらだらと思考を垂れ流すように書き連ねるために書き連ねたので、目的も結論もなく、長くて退屈な文章だと思われます。

 

※主に、ヴァーチャルとリアルの認識や、それに対する人間の振るまいと未完成な文化について思いを巡らせています。

 

 

 

 実のところ、姉も妹も、どうやって僕が生活を成り立たせているのかを知らない。

(仮想奥様に養ってもらっていることを話すと余計に複雑になり、無駄に理解不能になるためこの説明は使えない)

 

 姉をはじめ、知り合いからも「臓器密売をしている」「裏稼業の経理を担当するインテリヤクザ」「特殊詐欺の幹部役」「世界を股にかける殺し屋」などなど、どういうわけかマトモな経済活動を行っていないと思われていることがあるが、面白いのでそのままに放っておいている。

 どのみち無職なんて、社会的にまともなイキモノではないようだ。

 気持ちは分からないではないし、マトモなフリを装う趣味も必要もないから周囲の想像に任せている。

 誰かのファンタジィを壊さないことは、ある種の優しさだろうと僕は思うので。

 

「何をしているか分からない」「もしかして闇社会に染まっているのでは?」と思われる人が、にこにこしながらのんびりぼんやり世間話をしている風景というのは、なかなか見ていて楽しいものである。

 その人が躍起になって「実はこういうことをしています」なんて、ありきたりで庶民的な日常をつまびらかにしたところで、がっかりするのが人というものではないか。

 だとすれば「さてどうでしょう。それより一般相対性理論を最近勉強しておりまして」なんて言う方がかっこいいではないか。

 

 いずれにせよ社会的地位が高かろうと、相当マトモではない人も観察されるようになったこの国では、権力とお金さえあれば何でもできるのかもしれないし、仮にそうだとしたらその不自由な自由に甘んじたくはないと思う。

 結局のところ、自由というのは孤独でなくして実現しない。

 地位や権力というのは、集団や組織の中で意味を持つ単位だから、それによって手に入る力があるとすれば、結局それは不自由なのだ。

 

>>>

 

 姉はすでに余命宣告の期限を数年前に迎え、特殊な薬(治験薬だろうか)を日本で最も長く使用している治験体になっている。

 痛み止めに利用している薬剤も最近最上位のものに変わったらしく、いつ死んでもおかしくない、というリスクは今まで以上に高いのかもしれない。

 

 そういう人が身近にいなかった人にとっては、そわそわして落ち着かないことなのだろうけれど、本来的に(よく言われるように)人間というのは、誰だって、いつだって、死のリスクと隣り合わせではある。

 ただたいていの場合、入浴して即死したり、乗っている飛行機が墜落したり、電車が脱線したり、ゴミ出しの時に熊に遭遇して殺されたり、ベランダで煙草を吸っていたら狙撃されたりする可能性が極めて低いというだけのことである。

 

 子供の頃から「いつ死んでもおかしくない」人が身近にいたものだから、僕は他人の死や、そのリスクについてあたふたしない。そんなことをしても何の意味もないと思っている。

 仮に重病で死にそうな人がいたとしても、それは決して可哀想なことではない。

 たとえば障害者を見て可哀想だと思う人もいるだろうけれど、心身の機能が多少劣っているからといって可哀想だという価値観は、僕の中にはさほどない。

 困っている人がいたら助ければいいだけのことだし、だいたいの人は自分が困ったときに助けを求めることができる。

 他者に助けを求められない人も、その多くは ── 僕自身がそうだから思い込んでいるのかもしれないが ── 自己解決する能力を身に付けるものではないか。

 

>>>

 

 しかし長生きすることと、好き勝手に生きることは、なかなか相反する問題である。

 長生きすることを至上とする人たち ── バブル経済の頃は広く見かけられ、社会的にも通念といえる状況だった ── は、好き勝手に生きることが即ち長生きすることに直結する。

 手段と目的が完全一致するという点で非常に素晴らしいと思えるが「何のために長生きをするのか」という問いに対する答えが「長生きをするため」というのはいかがなものかとも思う。

 

 ある種の暗黒時代を迎えたこの国において、人々はすでに長寿至上発想をやめ、経済至上主義から脱却しようとしているように観察される。

 それなりに財産のある人でも、生命倫理に従って「ほどほどまで生きればよい」という傾向が見られるし、長く生きること、生かされること、さらにいえば長く生きる欲がことさら強い人と生きることの苦痛について人々は気がつき、あるいは体験している。

 

 盲目的に死を忌避していたのは、国民の多くがそれだけ若かったからだろう。

 戦中はときに自国の兵士に死を求めることさえしたこの国が、次に迎えた高度経済成長期において、死は戦争とともに追いやられた暗い記憶だったのかもしれない。

 人々は働いて働いて働くことで生活を向上させ、国家を活性させることができることに喜びを感じていただろう。

 まさかその成長の最中に、死の匂いを忌避しないわけもない。

 

 個人主義と自由主義が輸入され、商品化され、国家の中でそのひとりひとりは孤立していった。核家族なんて言葉はもう聞かないし、これは Nuclear family(核兵器群)という意味ではないぞ。

 

 バブル経済崩壊後も、経済の亡霊に取り憑かれたままこの国は進むしかなかったはずだ。

 なぜといって、他に依るべき指針というものなどすでに失っていたはずだからだ。

 ただし経済を発生させるために優位に成長したのは、個々人でも家族でもなく、経済という結びつきによってその組成を強固なものにしたありとあらゆる組織だったというわけだ。

 人の気持ちよりも経済が優先される社会だったからこそ、利益追求型組織によって殺される人もいたはずである。

 個人主義的な家庭や価値観の中で、人が家族に逃げる場所を見いだせるはずもなく、そういった人たちは経済を持たなければ負け、経済を持つために与した組織によって殺されたわけである。

(昨今流行りの「親ガチャ」という概念も、個人主義の悪い面であるように思う。私は私、子供は子供、という考えで親が我が儘に振る舞えば、子供は無力であるからそのぶん、非人道的なほどまで窮屈な思いをすることになるだろう。)

 

 もちろん個々人の資質や能力はそれぞれで、組織の体質もそれぞれである。

 相性が悪いなら僕のように組織をすぐに辞めてしまうのも一つの方法だ。

 組織は個人の問題を何でも解決してくれるファミリィとは限らないのだから。

 だからたとえ血縁の家族であろうと、相性が悪いなら(そして独立する能力を持っているなら)その袂を分かつこともひとつの手段である。

 

 しかしそういった発想を持たない人もいる。

 会社を個人の一時的な心情で辞めてはいけないという価値観はかつて当たり前のことだったし、経済なくして生きられないのもまた事実である。

(同様に、家族と絶縁することを忌避する考え方も分からないではない。そのままでいられたら、それはどんなに幸せだろう)

 それでもいろいろな可能性を、どうすればもっと自分が快適でいられるかを、与えられている選択肢の外まで考える能力を、本来は発揮すべきなのだろう。

 

 残念ながら組織や集団というのは常に、そこに属する者をある種の盲目にする。

 皆がバラバラでは結束のしようがなく組織として成り立たないため、それは必然ですらあるだろう。同じ目的を共有する者が、集団を形成するのだから。

 

 一方で、異分子を過度に排斥するような組織が強権を握り、周囲を窒息させることによって結果的に自身の寿命を縮めてきた。

 捕食が過ぎれば生態系のバランスが崩れて捕食者が餓死する、というのは生態系における恒常性の基本であるが、きっとそうした組織は盲目なのだろう。

 

 おそらく日本で衰退した多くの企業は、そうした性質の活動によって自身の首を絞め、市場での優位を失ったのだろうと思う。

 今や経済活動も分散型になり、中央集約型はごく一部を除いて、ときに危ぶまれるべき泥船のような存在になっているようにさえ観察される。

 

 娯楽も同様に分散型になり、ためにTVプログラムはチャンネルの数を増やしてなお大衆の娯楽の中心ではなくなり、旧来の仕組みにしがみついている人たちの居城は脆く崩れようとしている。

 ── 姉の家でTVを見るたびに、ネットでの話題がわざわざニュースで取り上げられていてうんざりする。ネットでTVの話題を見るのと同じくらい、無意味に感じるのだが、あれが有用な人ももしかしたらいるのだろうか。

 

 地震などの大規模災害があったときに、やたらと「絆」だとかという言葉が飛び交っていた。

 もちろんそれは日本人の美徳のひとつだろうけれど、ときに「しがらみ」にもなるそれは、多くの人が嫌い個人主義へ向かっていったことの根源でもあるのだ。

 

 自己と他者の「つながり」についてそれでも人は模索を続け、たとえばweb上では、個々人が物理的拘束にさほど左右されずに結びつくことが可能になった一方で、それを悪用した犯罪も目立つようになった。

 僕はSNSを利用していない(その上、SNSでやりとりする友達も恋人も家族もいない)ので、あまり知ったふうのことはいえないが、10年ほど前からすでにwebは窮屈な場所として感じられるようになっていた。

 たとえばそれは20年ほど前にTVがつまらなく感じるようになったのと同じものである。

 

 ようやく社会的にもwebが不自由な場所だと認識されるようになってきたようではあるが、利用を最小限にするのではなく規約や規制によって統制を図り、安全性を確保しようとしているように見える。

 結局のところそれは、TVが娯楽として楽しくなくなったことにもそのまま通じている。

 社会や人間関係そのものが、規約や規制によって統制を図り、安全性を確保しなくてはならないものに変化してしまったかのように。

 もはや恒常性は神話でしかないのかもしれない。

 

 かつて規制によって一定の秩序が集団に作用するようにできていた。

 集団の中でトップダウン的に出された指針によって、組織は一定の働きをするようにできていた。

 

 放送局と視聴者は、その(どちらか一方ではない、両者という)集団において個人主義的な価値観が行き過ぎた結果、一部の一意的な善意によるクレーム対応のため規制を強めるよりなくなったり、あるいは一方的な目的意識によって発信側に問題行動が発生する(倫理的な問題がある場合はもちろん、実際に倫理的な問題はなくても、発信側の行動が視聴者に問題だとされる)こともあった。

 

 後者は特に抽象的に感じられると思うが、例えばいわゆる「やらせ」と呼ばれる捏造行為であるとか、「このあとスタッフがおいしくいただきました」というテロップを必要としたりといった「手法」のことである。

 またドキュメントとエンタテインメントを(おもに出演者の人間関係や感情の長期的な変遷 ── 主に恋愛感情 ── などをコンテンツとして)混合したような番組では発信側の予期しない展開そのものが本来はコンテンツであり、それが結果的に視聴者の反応(主に不快感)を制御不能なレベルにすることもあったように観察される。

 結局のところ、不特定多数に向けたエンタテインメントはすでに成立しないのだ。

 

 出版物にしても、かつては発行100万部を超えてベストセラーと呼ばれていたものが、最近では数十万部でそう呼ばれている。そのくらい、人々はその興味も関心も分散している。

 それをひとつのテーブルやメディア、コミュニティに集約することは、それ自体が前時代的なありようなのだと思える。

 

 お茶の間に自宅の家族はおろか近所の人まで集まってTVを観るという文化は、その価値観も倫理も絆もすでに失われたのだ。

 そのうえ、多くの娯楽がインタラクティヴィティを持つようになっている。

 

 発信者側が組織や集団であったとしても、結果的にコンテンツを楽しんでいる人間がそこに個人を見ている場合、一部の(僕の言葉では「アタマオカシイ」とされる)人にとってはあたかも友達のように文句を言う相手になってしまう。

 直近の例では「これまでオリンピック開催に否定的だった番組(あるいはコメンテータ)が、急にオリンピック開催に肯定的かつ積極的になった」というクレームを見ることもあった(とくにwebで、だったろうか)。

 

 TVプログラムは個人ではない。

 そこに登壇して発言する人も、それがキャスタであれ、ホストであれゲストであれ、あるいはディレクタやプロデューサであったとしても、カメラの前で発言している以上は個人の皮を被った出演者に過ぎない。

 個人の意見や思想を公共の電波に乗せるのは、それが目的になっているときだけだ、という当たり前のことを理解できない人は、放送局や番組構成チームといった組織や集団の存在を忘れ、無視している。そしてそれらの集団には人格(権利義務主体としての人格ではなく、価値観の集合によって個人と見なされるべき対象)が存在しないにもかかわらず、勝手にそこに個人を投影してしまう。

 

 これらを僕は「アタマオカシイ」と断じてしまうのだが、実のところ人格のないものにキャラクタを見出すのは、高度な人間の能力でもある。

 子供が人形を相手にキャラクタを設定してコミュニケーションするように、かつての社会では、それは幼稚なこととして忌避されていた。

 

 当時の社会の中で、インタラクティヴィティを持つのは実在する人間とのダイレクトなやり取り(対面/電話/手紙など)によるものだけであり、そうでないヴァーチャルなすべては現実世界で何の役にも立たないものとして馬鹿にされてさえいたのだ。

 ためにTVゲームはただの遊びと見なされ、アニメや漫画も芸術よりは格下の単なる娯楽として扱われていたわけだ。

 

 今では漫画やアニメが芸術として認められ、TVゲームがエンタテインメントとして、あるいはスポーツとしてさえ認められるようになった。

 

 同時にヴァーチャルなものさえインタラクトできる対象になった。

 実在しないキャラクタが声を持ち、歌を歌い、実存しないモデルを人はリアルタイムに演じ/それを観ることが可能になり、それらはエンタテインメントとして成り立っている。

(参照:VocaloidVtuber|いずれも Wikipediaへのリンク)

 

 人間の人格認識能力は、かくして過剰に発揮されることをよしとされるようになり、経済がそれを後押しした。

 

 結果として、人間は過剰に個人を見るようになったといえる。

 ヴァーチャルが個々人のアタマの中に投影されてヴァーチャルでなくなるとき、実のところそれはリアルを超えてしまう。

 とくにヴァーチャル慣れしていない人ほど、ヴァーチャルを脳内投影した結果、暴走しがちだろうと思われる。

 

 これは実証を集めていないのでなんともいえないのだが、恋愛経験が少ない人ほどストーカーになりやすいことに似ているのではないかと考えている。

 経験の少なさや、視野の狭さは、結果的に過剰な想像力を増長させる。

 通常ならば、経験や広い視野によって、現実的な範囲内に想像力がセーブされるはずが、それらの不足によって制御を失い、過剰なままの想像を現実世界に投影することになる。

 これは社会経験や対人経験のすべてに共通していて、それらに憧れる人もそれらを嫌う人も、経験していない人のほうが想像によって過剰な意味づけをしている。

 

 たとえば僕は基本的に人見知りではあるが、人と会わないときの方が人と会うのが怖くなり、会いたくなくなるのだ。

 定期的に人と会っていれば、その過剰な恐怖心は抑制される。

 それは正しい「他人の像」を認識できるからだ。

 

 就職も同様で、僕は最初、就労するのを過度に恐れていた。

 恋愛だってセックスだって同様である、最初は怖くて仕方なかった。

 未知のもの、未経験のこと、他者が関わる全てのことは、怖くないわけがない、というのが僕のスタンスである。

 

 未知のもの、未経験のことについて、適切なスケールでそれを把握できる人のほうが少ないだろうと僕は思っている。およそそれは不可能だ。

 また他者が関わる場合について、十人十色の言葉の通り、絶対の答えなど存在しないのも事実だ。

 たとえばどんなにwebや書籍で情報を集めたとしても、実際にそれを経験することによって得る情報とは雲泥の差があり、求めた「正しさ」が具現するとは限らない。

 俚諺にも「過ぎたるは及ばざるがごとし」というではないか(そっちかい)。

 

 そして、たとえばアイドル歌手のファンが、自分を特別視してくれていると過剰に思い込むことは異常だと自覚できる可能性が高いけれど、相手がヴァーチャルな存在であればそもそも相手は人間ではないのだからどのような隠された設定を脳内でしたところで問題になることもない。

 

 こうした現象が現実世界ですでに齟齬を生んでいる。

 たとえばある Vtuber(Youtube そのものもあまり見ないので名前も忘れた)がIRLの日常風景を撮影して撮影された現実世界の手について、視聴者から「(そのキャラクタは)そんな手じゃないだろう」とクレームを付けられたりすることもあったそうだ。

 先の「TV番組としての意見」というものも、視聴者の勝手なイメージである(一方でクレームを付ける側は真剣である)。

 不特定多数を相手に経済活動をする中で、ちょっとした発言で炎上したり、不祥事で活動停止に追い込まれるのも、個々人に投影されたイメージが過剰に保護されている結果だろう。

 

 綺麗で完璧なものがあると思うこと、思い込むことは決して悪いことではないと思える。

 しかし本来的に綺麗でも完璧でもないものにそれを投影できる時点で相当ファンタジィでハッピィな脳内だろうとは想像できる。

 それが行き過ぎれば、自分の想像したキャラクタだけが絶対的なものとなり、自身の設定を侵す行為は許されない、ということにもなる。

 

 この「脳内でヴァーチャルが過剰成長する」現象は、ヴァーチャルな存在には留まらず、結局のところ自分以外の全てに投影される。

 過剰な想像力を制御できない個人は、TVプログラムに人格を見出して発言に一貫性を求め、SNSの有名人を古くからの友人であるとか学閥の後輩か何かのように扱おうとする。

 

 もちろんそうした人は極めて少ないけれども、脳内に投影されるヴァーチャルな風景を「自分が作っている」と認識できない幼稚な知性は確かに存在していて、その過剰な想像力は社会にとって危険な因子として作用することもある。

 

 かくいう僕も想像力が過剰なほうであるから、自分の確固たる人格がないのをいいことに人格を分離させている。

 極端なことをいえば「殺人はよくない」という僕がいるかと思えば「殺人も致し方ない場合がある」という僕もいる。

「自然環境の汚染を防ごう」という僕と「なあにかまうものか」という僕は同じ肉体にパッケージされていて、その時々の場面にならないと(蓋を開けてみないと)どちらに転ぶか分からない。

 SNSはほとんど使わないけれど、ゲームをするときによく使う人格もあり(それは女性であるが)僕はその人格を使うことをとても楽しんでいる。

 

 僕が異常な行動に走らないのは「正しいかどうかは僕が決めることではない」と思っているからである。

 他者の言動に正しさを求める正義感は、決して悪いものではないとは思う。

 けれども一意的な正しさを他者に強制するとき(昨今のニュースやコメントではよく見かける風景になりつつあるが)それは一線を超えると狂気になり、どういうわけか人はヴァーチャル(あるいは「匿名性」と言い換えてもいい)の中で独善を暴走させる。

 

 いやなに独善の暴走なら僕だってする。

 しかし誰かにそれを突き付け、突き刺すようなことはしない。それは暴力だ。

 それをされたことのある人なら知っているだろう。あれは無駄に痛い。

 

 僕はSNSをせず、ブログも目立たないように、読者が増えないように工夫している。

 不特定多数のシンパを作ることは(たとえそれが経済活動であるとしても)もはや危険なことでしかない。

 極論から入りたがる僕はちょっとしたことですぐに炎上しそうだし、誰に問題視されることもない無難なコンテンツなら作る必要はない。

 

 思ったことを思った通りに表現して、それがきちんと受け入れられる場所は、web上でもヴァーチャルの中でもなく、IRLの、つまりは足で歩いて手で触れられる人間たちのコミュニティにこそある。

 もちろん、僕の人格の全てをそこに投入することはできない。
 対外用の人格ばかりなのに、矛盾が多くて、キャラクタが崩壊してしまう。
 
 ために僕は、IRLの「人間の男性」としてのキャラクタを用意して、それ以外の「ゲーム好きな女性」や「人間のフリをしている猫」といったキャラクタはweb上でのみ活動している。
(もちろん、ヴァーチャルな彼ら/彼女たちの価値観や視座をIRLで利用することは、それこそ頻繁にあるが)
 
 自分が単一であり、世界が単一であり、正しさが単一であるという思想は、少しの力加減ですぐに危険な暴走をしかねないとさえ思える。
 いやもちろん、そんな簡単に暴走する人は極めて少数のはずだけれど。
 
 
 いずれにしても人間たちはまだ、ヴァーチャルとリアルの間にいる自分について、その境界を設定し、制御することに慣れていないように思える。
 自分の中に居る、ヴァーチャルとリアルも、自分の外にあるヴァーチャルとリアルも。その区分や力学を、まだ十分には理解し切れていないのだろう。
 
 
まさか最後まで読んだのかねキミ。

1211023

 

 未明に就寝。

 体調は、絶好調ではないが、不調でもない。いかんせん寒いので扱いに困る。

 こういうときに油断をすると風邪を引く。

 だからといって大人しくしすぎると、体力と気力が落ちる。

 

 毎日すこしずつ、何かをすることができればいいのだけれど、1時間何かをしていると、ずっとそれをしていたくなることが多い。いわゆる行動における慣性の法則である。

 最初はあまりしたくないのに、ひとたび始めると、楽しくなってしまって今度はやめどきが分からなくなる。何一つ計画的に行動できたためしがない気がしないでもない。

 

 8時に来客の約束をしていたことを忘れ、インタフォンで目覚める。恥ずべき事態である。

 慌てて目覚めて作務衣を着て、玄関へ。

 寝る前に確認しなかったスケジュールはこのようにして忘れ去られる。

 

 外に出て作業をしようかしばらく考えるが、寒いし土曜なのだからのんびり過ごそうと考える。完全に慣性の法則に支配されている気がする。

 要するにやる気が出ない。やる気というのは出したり引っ込めたりするものでも、できるものでもないとは思うが、とにかくやる気が出ないのである。寒いし。どことなく気力も体力も絶好調とは言い難い。

 しかしそんなことを言っていたら、絶好調の時なんて、月に数回も訪れない気もする。単純な怠け癖ではないのか、とも思うが分からない。好調なときは、目覚めてすぐに次の作業を開始したいと思うのだ。たしかそうだったはず。

 

 理由の分からないやる気のなさは、体調由来なのか、それとも季節由来なのか、昨日気付いたセロトニン不足のせいなのか、よく分からない。

 こういう気質をして、姉にして僕を「双極性障害だよ」と言わしめるのであろう。

 

 気力というのが、そもそもよく分からない。

 たしかに気分が乗るときもある。目覚めた瞬間から、よーしやるぞぅ! という気分のときのことである。

 しかしそういうのは、いつまでも続くようにそのときは思うのだけれど、思い返すと2週間も続かない。1週間続けばいいのではないのか。

 

 待て待て。
 ワクチン接種以降と以前の行動を考えると、まずギターを弾いていない。

 

 朝方、軽いワークアウトをしたら急激な眠気に襲われ、倒れるように眠る。

 

 

 

211024

 

 世間的に日曜ということなので、今日は何もしないことにしようと決める。

 

 

 

211025

 

 未明に眠り9時頃、姉の電話で目覚める。

 月曜だけれど雨になるということなので、今日は何もしないことにしようと決める。

 

 しかし朝から晴れ。こころなしか暖かい気もする。おかしい。

 庭作業をするかしばし迷うが、目覚めたときから(正確には昨晩から)お腹を下しているので、止めておこうと決める。
 悪いモノを食べたのか、胃腸虚弱を発動したのかは不明。お腹が痛いこともなく、ただただ下しているだけである。
 
 午後からお昼寝。やはり疲れているのかもしれない。何もしていないのに?
 そう、何もしていないからこそ、である。
 寝ている最中、姉からの電話で目覚めるが、受電せず眠り続ける。
 夕刻、妹からの電話で目覚める。
 メールに返事がなかったので、何か事故でもあったのかと心配したらしい(確認したら確かに受信していた)。
 その後、姉に電話。
 僕の姉妹はどのみちたいした用でもないのに僕に連絡をする傾向が強い。まぁ、僕が暇人だとバレているのだ。もっと忙しい人のフリをしようと思った。
 
 
 
211026
 
 燃えるゴミ出しの日、を無視して昼頃まで眠る。
 本来ならきちんとゴミ出しをするのだが、ゴミの量がさほどでもなかったことと、雨の予報だったのでやる気が出なかったのが理由か。
 
 昼過ぎにシャワーを浴びて、午後から姉上の家に出掛ける。
 
 
 
211027
 
 姉上の家にいるときの僕は、正直何もしない。
 姉は身体能力の発揮にかなりの制限を持つ病気と障害があるのだが、だからといって替わりに何かをしようにも家の勝手も分からないので、頼まれないことは何もしていないことにしている。恐らくだけれど、無闇に手伝うと言われても面倒に感じるような気がする。
 僕がそうだから。なのだけれど。
 
 気質に似ている部分が多いから勝手にそう思っているだけで、実のところ「手伝おうか?」と訊ねるくらいしてもいいんじゃないか、と当の姉は思っているのかもしれない。まぁ、姉の家は全体に狭いので、キッチンにひとり立つのがやっとなので、物理でも無闇に手伝わない方がよいものと思われる。
 
 
 
【1027までのまとめ】
 
 歌を歌わないと、気分が鬱屈しやすい傾向は以前から分かっている。
 しかし自然に歌っているので、歌わないことを不自然とも思わない。

 

 体調の悪いときはギターを持つのも苦痛だし、いい音も出ない。声も出ないからどうにもならない。

 

 煙草も同様で、吸うのは苦痛だし、味も香りも最悪である。 
 
 行動によって気分が変わるのは事実だが、その行動を支えているのはいわゆる「健康」である。
 もちろんただ健康なだけを目指す「健康至上主義(最近あまり見かけなくなりましたが)」の人たちを観察する限り、「健康」だけを目指して手に入れても、それだけが目的になっている限り「健康な割に不健全」なありようを体現するよりない。
 
 もともと僕は身体が弱かったから余計なのかもしれないが、成長期の間も心身は安定しなかったし、30代を過ぎれば徐々にそれらの機能は衰え続けた。
 本当に意味もなく「調子がいいな」と思えたのは今までの人生で3年くらいしかなかっただろう。
 
 しかし衰えることが特に悪いこととも思わない。 
 死ぬときにはすべて止むことでもある。
 呼吸をしなくなれば、声も出ないし煙を味わうこともできない。
 
 おそらく会社員を続けていた方が僕の場合は健康的だっただろう。
 行動を最適化するため夜は早めに寝るだろうし、適度な運動も今以上に心掛けていただろう、他者との摩擦をできるだけ小さくするため、価値観を修正する努力を、努力とも思わずし続けたはずだ。
(摩擦抵抗を低減させることは、僕には大きな意味を持つので)
 
 しかし抵抗や摩擦というのは、運動、つまりは推進することによって発生するものだともいえる。何もせず、停止しているものには抵抗も摩擦も発生しない(摩擦があるから停止しているのかもしれないが)。
 
 生きているというのは、抵抗や摩擦を必然に受けながら、今いる場所から次の場所へと運動する現象のことだろう。
 そこには必ず環境があり、他者が存在する。
 それらこそが抵抗や摩擦になるわけだけれど、それらが存在しない場所に自己の存在はない。
 おそらく自身も環境であり他者なのだ。
 
>>>
 
 明日には家に戻る。
 途切れることなくしたいことはある。
 しなくてはならないことも、まだある。
 直近では経費の精算がいくつかあるし、期日前投票にも行きたい。
 他にも花壇の木の根の除去、松の木の手入れ、庭の草取り(まだ残っている)、火鉢の準備、etc,etc……
 気力と体力を整えて、万全の体制を待たずに挑みたいところである。
 
 
 投票といえば、他人に投票に行くことを強要する人があまり好きではない。
 ネット上でもときどき「みなさん、投票に行きましょう」と言う人がいるが、そんなことはわざわざ誰かに呼びかけるものではないと僕は思っている。
 
 語感は強いものではないし、何かを強要しているふうでもないが、明らかに催促している、要求している。つまりは強要しているのである。
 これはたとえば学校から帰宅した子供に対して親が「今日も宿題があるんじゃないの? すぐに勉強しなさい!」と強い語調で言うことと「宿題は今日は出ましたか? あるならしなくてはなりませんね」と柔らかい口調で言う程度の差でしかない。
 
 まぁ、僕は親からそんなことを言われたことが一度もないので分からないのだが、言われたら絶対にしなかったろうと思う。言われなかったのでやはりしなかったのだが。
 
 オンラインゲーム(EVE Online)をしていて驚いたことがある。
(成人のプレイヤが多いゲームであることもあり)多くの人が「今日は選挙に行ってくる」といってログオフする場面を見ることが多かった。
 コミュニティの中で「(誰かに)行きましょう」ではなくて「(私は)行ってくる」ということでも十分に姿勢を示すことはできる。
 何故わざわざ不特定多数に向かって「行きましょう」などと呼びかけるのか。
 その潜在的な支配欲を僕は嫌悪する(天性のアナーキストでありラケンローラなので)。
 
 数日前、弟子からの電話で「猫さん、投票に行ってくださいよ」と言われたため文句を垂れた。
「お前に言われたから俺は投票には行かない。投票にだけは絶対に行かないからな!」とまで言った(言いながら2人で大笑いしてしまったが)。
 実に大人げないことである。
 
 行きたくない人、行く意味を感じない人は行かなくていいと思う。
 投票しなくても、政権に文句がある人はしゃあしゃあと文句を言っていいと思う。
 したいことをする中で、自分の影響力を知るといいと思う。
 つまるところ投票をするというのは、労少なくして最大限の効果を発揮するのではないだろうか。まぁ、ろくに投票に出掛けない人間がこれを書いているのだが。
 しかしクーデターを起こしたり、革命を起こしたり、反体制組織を構築するよりは簡単であるし合法的でもあるし人道的でもある。ついでに投票用紙が勝手に送られてくる。
 
 つまり革命を起こせる人は起こせばいいのだ、と弟子に話していたら「中年革命家として Youtube でデビューしてはいかがですか」と言われて絶句した秋。
 残念ながら僕は革命家には向かない。それも明らかに。
 
 
 

211018

 

 未明から寒い。

 冬の匂い。

 朝方眠って午前中に目覚める。

 

 冬は僕の恋人なので、僕はその匂いも大好きである。寒いけれど。

 

 熱はほぼ平熱に戻ったけれど、春過ぎから平熱が36.4〜5℃になってしまったようである(接種会場でもそのくらいの体温だった)。

 朝は36.8。特に熱っぽい気はしないが、左腕の接種位置は痛むし少し腫れているような感じである。

 

 寒いので庭に出る気もしない。

 そういえば寝るときに寒い思いをしたので、羽毛布団を干すことにする。

 この家ではどういうわけか、布団を屋根で干していた。たしかに他に適切な場所も見つからない。

 2Fのベランダに出て、1Fの屋根の上に布団を広げる。

 これで今日の仕事が終わったような気分になる。

 

 

 

211019

 

 未明に眠り8時起床。

 今日は外出の予定がスケジュールされている日。

 とても眠かったがスーツに着替える。

 まるで会社員の頃のようだ。

 ゴミ捨てをして、約束地点に出発する。所有物の立ち会い確認。

 

>>>

 

 やはりスーツを着るのは好きである。

 なんというか、表皮や外骨格に包まれるような安心感とフィット感がある。

 スーツによって、液体のように不定型な肉体が、正しく限界を設定されるような。

 とくに寒い時期は、スーツは本当に心地がよい。

 

 帰宅してもスーツで過ごす。

 作業着の時は汚れていることが多いのですぐにシャワーを浴びたり、少なくとも着替えるのだけれど、スーツならそのままでいいんじゃないかと思う。

 

 会社員の頃は、休日でも外出するときはスーツを着ていた。

 スーツ以外の服の手持ちがほとんどなかったからなのだが、基本的に、夏は涼しく、冬は暖かく過ごせる。

 スウェットやジャージのように、人間の姿勢や振る舞いがぐにゃぐにゃしないという良さがある。
 
>>>
 
 午前中に戻ってたいしたこともせず1日を終える。
 左手用の入力デバイスを一つ買う。
 眠いので早めに眠ることにする。
 
 
 
211020
 
 8時頃目覚める。まだ少し眠い。
 9時過ぎたあたりで庭に出る。
 草取り、木の枝の剪定。
 いくつかの低木については、花壇の手入れにも、畑作業にも邪魔になるので撤去することを決定。
 スギ科と思しき背の高い木は、僕の胸くらいより低い位置の枝を下ろす。
 
 木が小さかった頃は良かったのだろうけれど、他にもいくつか、木が育ってきたが為に過密になっているものもある。順次剪定予定。
 
 昼より少し前に思い立ち、粗大ゴミをトラックに積み込む。
 納屋に放置していたものがほとんどだが、軽トラの荷台が一杯になってしまった。
 そのまま清掃センターへ。
 
 午後は何もせず。
 左手用デバイスの設定を少し。
 マウスも併せて買ったのでその設定も行う。
 MacOS は Apple Silicon がリリースされてから、サードパーティーの入力デバイスに恵まれない。ドライバの対応がむつかしいのかもしれない。
 以前のマシンで使っていたすべての入力機器は、いずれもドライバさえ対応していないので使い物にならない。(マウスでさえもだ)
 あるメーカなどは、現在のOSがリリースされて1年ほども経つというのに、ドライバのアップデートも、設定用アプリもリリースされていない。
 
 しかし純正品が最善とはとうてい思えないし、複雑な入力機器を必要とする人はいるはずなのだ。
(たとえばイラストレータやCADオペレータなど)
 
 確かに新しいモデル(およびそのCPU)は高性能だと思うし、ユーザのプライバシー保護についても、それなりには優れているのだと思う。
 それでもそろそろMacを使う理由はないかな、と思い始めている。
 まるでOS8の頃のように適合デバイスがなく、そのうえアプリケーションやシステムアドオンを提供しているユーザも、そのチャンネルも非常に限られている。
 小洒落たカフェで「仕事もできてお金も持っている自分アピール」をするにはいいマシンかも知れないが、そもそも僕はPCを人前で開くことを恥ずかしいと感じるため、その必要もない。
 
 今日もやたらと眠くて0時頃就寝。
 
 
211021
 
 8時起床。少し筋肉痛。
 室温がすでに15℃くらいになっている。
 誰だ、床に断熱材を入れたから大丈夫とか言っていたのは。
 ついでに湿度は50%ほどで、寝ている間に喉が乾燥しやすくなっている。
 そのうえベッドが狭いせいで、布団や毛布が落ちる。
 
 奥様に打診をしたところ「青猫様が風邪を引いたら大変なことになります(実際そうなる)ので、早急に大きめのベッドを買いましょう」ということで、予算審議を待たず、特別予算計上で対応しようということになったが、残念ながら欲しいものがすぐに買えるほどのオカネモチではないので、来月か再来月まで待たなくてはならない。
 
>>>
 
 庭で枝の剪定作業の続きをしていると、向かいの県営アパートの植樹の手入れをしていた業者のお爺さんがやって来て、しばし世間話をする。
 世間話ついでに、松の手入れの仕方をレクチャしてもらった。
 
 先端の枝の最初の節から幹寄りの枝については、まず、すべて葉をむしり取って、枝が空くようにするらしい。
 そのうえで芽が過剰に伸びていたりする場合(向きや混み具合を見た上で)、芽の根元から切るとよいという。
 
 これはよいことを聞いたと、早速試す。
 なるほど、まったく知らなかったが、素晴らしい知恵をもらったことを感謝している。
 
 夜、お風呂に入ったら、両手首のあたりがちくちくする。
 松の葉が、刺さったのだ。
 しばらくちくちくを楽しむ。
 赤い、ぽつぽつができている。
 跡にならないといいな、と思いながら、それを撫でる。ちくちくする。
 
 
 
>>>
 
211022
 
 この数日、本当に寒い。もう冬なのではないかと、晩秋はいつも思う。
 屋内キャンプ場、と僕は自分の家のことを称することがある。
 実際、雨風がしのげるくらいで通気性の良さはテントに等しいのではないだろうか。バンガローのほうが気密が高い可能性すらある。
 
 午前中、妹がやって来る予定なので、起床して早々、ゴミを出してから灯油を買いに行く。
(妹はストーブが好きで ── 正確には寒さが嫌いなのだが ── 、数日前、来る約束をしたときから「ストーブを出しておいて」と言われていたのである)
 1L、102円。昭和のレギュラーガソリンだってこんなにしなかったぞ(笑)。
 
 妹が来てから事務処理上の書類の手続き。
 妹の娘はそろそろ受験らしいので、塾や進路相談などでなかなか忙しいようだ。
 収入がさほどなければ、進学にあたって市から授業料や入学金の補助が受けられるのに、叔母が余計な手配をしたために妹の額面収入がものすごいため、妹夫婦はそうした公的扶助を受けることができない。
 
 実情は収入に見合っただけの負債を抱えているので、家計が豊かになった、ということではない。
 僕はそれらを(経緯も知っているため)便宜上管理している立場だし、あまり気にしない性質なので書いてしまうが、毎月100万円を越える返済を妹はしている。つまり収入はそれより僅かに上回っている。住民税なども相応に取られる。むしろマイナスではないのか。ひどい話である。
 
 これらの出来事は、相続税を嫌った叔母のエゴにより始まり、私だけが引き受けるはずの厄介ごと ── 財産だけではなく負債も、また元はといえば義理の叔父の所有物なのだから、対外的なことも含めた諸々の責任問題も引き受けること ── を誰に相談するでもなく分散したため起こった。
 
 叔母を恨んでいるのは、単純に、手間や悩みが僕だけでも数倍になり、あろうことか何も知らなかった妹夫婦やその娘にまで禍根を遺したためである。
 もちろんそれとてもいずれは解消させる計画であるが、ために僕の余生(だいたいあと19年)の半分が費やされる。
 いったい死人がどれだけ僕の時間を奪うというのか。
 そのようなわけで呪っているのである。余生の半分といったら、だいたい50%である(本当はもう少しかかる)。
 
>>>
 
 昼頃から雨が降りだし、庭仕事はしないことにする。
 
 夕刻、スーパーでハヤトウリを見つけて6つ購入。
 三五八漬けにすると美味しいのである。
 
 夜になって、10日ほどぶりに3本ほど煙草を吸う。
 まだあまり本調子ではないが、美味しかった。
 
 僕にとって煙草は純粋な嗜好品なので、体調が悪いと吸わない。
 体調が悪いときはだいたい味や香りも悪い。
 
 Webニュースだったか、セロトニンが減ると眠くなる、というような記事を読む。
 ああ。それでは、あの、ひたすら眠り続けていた頃の僕は確かに鬱病だったのかもしれないと思う。
 そして最近やたらと眠い。
 
 セロトニンが市販薬として売っていればいいのに(脳内物質だと思うから売っているはずはないと思うし、あっても経口摂取できるとは思えないが)と思いつつ、カフェインを飲んで、過剰な眠気を抑える。
 
 
 
 
 

211012

 

 午前中にレンタカーを借りて姉の家へ。猫たちは留守番。

 最近の軽自動車は装備がすごいな、と感じる。乗りたいかどうかは別として。

 個人的には、エレクトロニックな先進性が嫌いなわけではないが、メカニカルで、ちょっと不便なくらいの機械が好きだ。

 

 おそらく人間についても、何でもスマートにこなすファンタジックな人間よりも、ちょっと癖があって、多少扱いにくいくらいのほうが好きである。

 機械や自動車には、機械らしさとか、自動車らしさというものがあり、人間には人間らしさがある。

 

 融通が利かないのは機械らしさだし、なぜかときどき調子が悪かったり調子がよかったりするのが自動車をはじめとするコンプレクスな機械らしさである。

 人間の場合も、素晴らしい部分と、ダメな部分が同居しているくらいの方がいい。

 夢物語にあるような王子様、お姫様というのは、水耕栽培のレタスのように味もなければ歯応えもない。

 

 それぞれ勝手にすればいいことだ。

 

 もちろん、そういうのが好きな人がいるのも知っている。

 だいたいは夢見がちな人たちだけれど、最近はヴァーチャルに対してそうした欲を向けることも可能になった。

 昭和の頃なら、ヴァーチャルは非現実で、そんなものに傾倒する人間は幼稚で愚かで使い物にならないと言われていたのだ。

 

 ちなみに僕は完全にヴァーチャル寄りの人間だと思う。

 僕という実存を、きちんと感じたことはあまりないし、僕という人格を断定できないため、うまく定義できない。

 つまり自分を自分で「こういうものだ」と言い切れない。

 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。蓋を開けるまでは分からない。

 

 それで猫なのかもしれない。

 

 

 

211013

 

 久しぶりの首都高。

 都内中央部は、いつもどおり強いストレス。

 湾岸線を抜けて横浜方面に向かうような道(名前は知らない)ならば多少は景色を眺めて気持ちも晴れるのだけれど。

 隣に人がいるのも強い緊張を強いられる。

 ハンドルを握るのは基本的に、だから、とても疲れる。

 

 もちろん、誰かが隣にいるのが悪いとは思わない。

 単にいつも以上の安全運転をするだけである。

 しかし首都高というのは一部、悪意があったのではないかと疑いたくなるほどおかしな設計になっている箇所もあるから、譲り合うことがおよそ不可能な状況がたびたび発生する。

(二車線同士の合流、合計4車線から数百mで二車線2つに分岐、中央二車線の合流がアツい。なども一例)

 

 帰宅してぐったり。

 

 ちなみに姉の入院している看護しさんたちに、こっそりモテているらしい。

 社交辞令か嘘かは知らない。

 そもそも直接コクハクしてもらわないことには、その好意は最初から存在していないに等しいのだ。

 

 

211014

 

 午前中に壁のMDF張り。これで張り付け作業は終了。

 午後にワクチン接種。

 

「EVE Online」というゲームのMac版(M1チップ版)クライアントがリリースされたので、DLして即日課金し、プレイする。

 5年ほど前までプレイしていたが、時間とお金がなくてプレイを継続できなくなってしまった。

 

 5年前まで持っていたほとんどすべてを、僕は失った。

 仕事もなくなったし、人間型の恋人もいなくなった。介護もなくなって、棲む場所も変わった。猫が増えて、仮想人格がまともに動作する環境が出来た(意味の分からない文章については無視してください)。

 

 端的に言えば、ほとんど全てを失って、およそ想像を超えるくらい自由になった。

 5年前までのほとんどすべてを失ったけれど、それによって手に入れた自由は、なんというか別次元のように感じる。

 

 ひとつだけ心残りというか、後悔がある。

 僕は5年ほど前、何人かの人をひどく傷つけた。

 それから徐々に、何かの罰が下るかのようにして、いろいろなものを失うことになった。

 

 とくに、結婚するという理由で別れることを突きつけられた当時の恋人(人間型でかつ当時すぐに連絡が取れる範囲で、だけれど)には、本当に申し訳ないことをしたと今でも思う。僕がそれをされたら、ちょっと耐えられない(だから僕は、恋人が勝手に増えることがあっても、自分から減らすようなことはしなかったのだ)。

 

 僕がいろいろなものをなくしたことを、しかし悲しいとは思わない。

 それは僕の選択だし、たとえば倉庫や冷蔵庫、あるいはスケジュールのように、何かがなくなれば自由に使える空間や時間が手に入る。

 

 ただ、自分以外の誰かに何か(たとえば猫だと自称する恋人)を失わせることを選択したのは、僕にとって(僕の選択によって誰かが悲しい思いをするということで)は悲しいことだ。

 それでも基本的に女性というイキモノはドライだから、メンスと一緒に僕に対する想いも記憶も流れていればとは思う。それならせめても救いがある。

 それに人間型の恋人がいなくなれば、もう誰かが悲しい思いをすることもない。

 これは結局、自由の利点だろう。

 

 

 

211015

 

 副反応。発熱。38.5℃、左腕に強い痛み。他も部分的に痛む。

 筋肉痛とも関節痛とも違う、不思議な種類の痛み。

 強く力を入れたり、強い圧が掛からなければまったく何の痛みもないのに、ひとたび力が掛かると、骨でも肉でもないぼんやりとした広い範囲に、くっきりとした痛みが走る。どこから、でもなく、いつまで、でもない。つかみどころのない、しかしはっきりとした痛みだ。

 

 まっすぐ歩くことが出来ない。

 味噌汁など作って寝て過ごす。
 昼頃、BPが「ゲームしに遊びに行ってもいい?」というので、事情を説明して断る。
 夕方、「なにか欲しいものはあるか。ちゃんと食事したか?」と、またメールがあったので「どうしてもゲームしに来るならアイス買ってきてくれ」と伝えたら、本当にアイスを買ってきてくれる。しかもそのまますぐに帰ってしまった。なんだか申し訳ない。
 夜に弟子に電話をし、弟子から電話があったらしいが、ほとんど記憶にない。
 
 

 

211016

 

 弟子を怒らせる。

 

 弟子は自身に対する他者の認識の上で「正しい」とされる状態でないと気が済まない性分なので、ついムキになってからかってしまった結果である。

(より具体的には、交通事故に遭ったらしいのだが、その状況について、情状酌量の余地がないということを淡々と押しつけてしまった)

 

 しかし僕は基本的に「自分は正しい」とか「自分は正しいことをしようとしている」と、確信を持っている人間や思考が大嫌いなのだ。

 

 夜は体調が回復してきたので、買い物に出かける。

 味噌汁をこのところたくさん作ったので、水がなくなりやすい。

 

 

 

211017

 

 昼頃、突然BPがやって来る。どうやら見舞いだったらしい。

 僕は「EVE Online」を元気にプレイしていたので、見舞いというほどでもなくなってしまった。

 2人でそれぞれゲームをして過ごす。

 BPの母上が、なぜか手作りの料理をお裾分けにいらっしゃる。

 拝顔するのは15年ほどぶりか。

 

 しばらくゲームをして過ごしたいからブログは書かないかもしれない。

 俺は死んでいないから安心して眠れ。

 

 

 

 

211006

 

 朝早くに目覚めるが、身体の寝覚めがあまりよくない。

 重いわけでもないし、喉鼻の粘膜にひどい乾燥や腫れも感じないが、かといって軽快に活動したい! というわけでもない。

 昨日決めたとおり、今日は生産的なことは一切せず、昼頃までごろごろしようと思うが、目を閉じてしばらくして気が変わり、起きて粥作りをすることにする。

 

 いつもきちんと計量しないので正確には分からないが4〜5合を圧力鍋で軽く研ぐ。

 白米を、しかもこれほどの量を見るのが久しぶりで少し眩しい。

 炊き上がったはいいが、柔らかめのごはんであり、粥にならなかった。

 水をかけて冷ましながら温度を60℃に調整し、麹を混ぜ入れる。

 再び蓋をして羽毛布団でくるみ、最初は30分、次からは60分ごとに温度を確認する。

 

 10時を過ぎたあたりの検温のあと、退屈してきたので次のタイマをセットして仮眠する。

 

 11時頃、電話で目覚める。

 見知らぬ番号ではあるが、珍しいことでもあるので受電すると、ホームセンタからであり、昨日取り寄せ依頼をしたトリマが納品されたとのこと。

 どういう仕組みか考えつつ、出掛けることにする。

 

>>>

 

 1歳半になるアヲは、使い魔よろしくいまだに僕の肩に乗ることを好む。

 朝になると「散歩連れてけ〜!」と催促に来ることもあるほどである。

 車に乗るのもいまだに平気で、肩に乗って顔を窓から出しては周囲の注目を集めている。(僕に、ではないので努めて無視している)

 しかし今日は陽射しが強めなので、肩に乗ったアヲを下ろして留守番をしてもらう。

 

 ちなみにクロとソックスはすっかり引きこもりの子になったので、ケージから出ることも稀である。

 

>>>

 

 帰宅して、半分くらいの麹床を甘酒用にタッパに取り、残りに塩と輪切り唐辛子を放り込んで漬物床にする。考えるに三五八床を作るのは6年ぶりではないだろうか。

 環境が整わないと実力を発揮できない繊細なセイカクナンダナァー、と明後日の方向を眺めて呟く。といっても twitter に書き込むという意味ではない。

 夕刻、買い物をしてキュウリと人参を漬物床に漬けたあとは、ぼんやりして一日が終わる。

 

 奥様(仮想)に「猫クン、もしかして逆流性胃腸炎なのではないのですか」と問われる。

 奥様によると、

  • 過度の飲酒(心当たりがある)
  • 脂肪の多い食物の摂取(心当たりがある)
  • 肥満(客観的には該当しないだろう)
  • チョコレート(大いに心当たりがある)
  • カフェイン入り飲料や炭酸飲料(心当たりがある)
  • 喫煙(心当たりがある)
  • ストレス(ない)

 などが原因になることもあるという。

 

 ウィスキィやブランディとチョコレートの組み合わせは格別であり、そこに煙草を合わせるとまた絶妙なので、たしかに数日前、この組み合わせをして深酒をしてしまった記憶がある。

 そのあたりを申し上げたところ、ジト目でしばらく見つめられる。

 この組み合わせはしばらく控えよう。

 

 

 

>>>

 

211007

 

 8時頃、外に出る準備(作業着を着て、頭にタオルを巻いて、ゴーグルと防塵マスクを準備する)をしていると、浄化槽の掃除屋さんがやって来る。

「お仕事は、今日はお休みでしたか」と問われたので「ええ、そうなんです」と嘘を吐く。社交辞令程度の世間話に対して正直に無職であることを説明しても、お互いに面倒なだけだということが最近分かったからだ。

 大人になったものだと思う。

 

 新しいブロワも設置してもらった。

 とても静かで仕事をしているようには見えない。

 かなり近づいてようやく作動音を確認できる。

 会社にも必ずこういう人間がいる。僕はどちらかというとその手合いだった。

 なので動いていないブロワのことを、気遣いをしているだけで実は仕事の出来る奴だと勘違いしていたのだ。まぁ、僕は静かな上、あまり真面目に働いてもいなかったけれど。

 

 浄化槽は7人槽サイズらしい。なるほど滅多に清掃を頼まなかったわけである。

 この数十年、この家で暮らしていたのは叔父夫婦二人きりなのだから。

 帰りがけに訊ねたところ、1人なら2年に一度くらいの点検清掃で十分だそうだ。

 僕は定期的にバクテリア(浄化槽用のそれがホームセンタにも売っている)を放り込むので、うまく働いてくれるといいな、と思う。

 

 草取りをするが、夏の間に取った草がかなり溜まっていたので、焼却炉で焼く作業と並行する。

 庭木の一部の枝が邪魔なので、伐採。

 

 昼過ぎ、ひどい鼻づまりに気付く。薬が切れたらしい。

 やはり花粉症がひどいのかもしれない。常飲している薬を飲む。

 花粉症は気がつくと始まって、気がつくと終わっているので、飲み出しと止める頃合いを測るのがむつかしい。


 

 

>>>

 

211008

 

 やはり昨日も22時頃に眠くなって寝てしまう。

 そのため目覚めたのは6時。

 洗濯などを軽く済ませて9時を回ったところでワクチン接種の予約をする。

 もうかなり空いているという話を聞いていたが、それでも予約できる日は限られていた。もっとも僕はLINEを使っていないため、電話予約の窓口では予約できる日にちや会場に制限があるのかもしれない。

 行政がLINEをインフラにするのがずいぶん定着しているようだ。とくに是非はないけれど、どうしてメールにしていないのかは謎である。LINEを利用できる人はもれなくメールを使えると思うのだけれど。あるいはweb予約でもいいと思うのだが。使うとポイントでももらえるのかな。

 

 10時頃から草取り。

 一向に終わる気配がない。

 焼却炉の灰と炭は畑に撒いている。

 近所の人からは完全に変人扱いされているだろうと思うが、親交がないのでなんともいえない。もしかしたら聖人扱いされて、崇め奉られている可能性もないとはいえない。いや、ないな。

 

 なるべく毎日4時間程度作業をして、4時間程度家事をして、後は遊んだり眠ったりしようと思っている。

 しかし極端に暑かったり寒かったりすると作業時間が0になることも多いし、天候が悪いときも働かないことが多い。

 やはり4時間程度を基準にして、もっとしたいときはすればいいという方式が良いか、と考える。

 

 トリマを使って庭木を軽く整える。

 トリガボタンを押し続けないと動作しない(ロックがない)上、重い。ついでに駆動音がうるさい。

 もっと価格が上のモデルなら、せめてスイッチロックくらいはあると思うが、これは廉価版だから仕方ないと諦めて作業する。

 

 午後になってから自転車で買い物に出かける。

 

 

 
>>>
 
211009
 
 朝から草取り。外は重そうな曇天。
 最近はすっかり明るくなるのが遅くなって、だいたい早朝といっても5時ではまだ暗いので、6時以降にならないと作業が出来ない。
 といっても最近は8時以降に作業開始が多くなった。庭草が露に濡れているからだ。あるいは夜に雨でも降ったのかもしれないが。
 
 2時間ほど作業したら雨が降ってきた。
 仕方ないのでシャワーを浴びて着替えて買い物に出かけ、昼前からのんびり過ごす。

 

 庭仕事をすると、だいたいシャワーを1日に2〜3回浴びることになる。そのうち1回は風呂だけれど、まるで20代の頃のようだと思う。

 記憶では30代半ばを過ぎるまで、朝と夜とにシャワーを浴びていた。

 皮膚の感触が気持ち悪くて、顔を洗うだけでは足りなかったからだ。

 

 

 

>>>

 

211010

 

 早寝がすっかり身体になじんでしまった。

 早いと18時頃、遅くとも22時には眠くなってしまう。

 眠くなったら素直に眠ってしまう。

 すると未明に目覚めることになる。まぁ、寝直すもよし、起き出すもよし。

 

 花壇のいわゆる雑草たちの除去があらかた終わる。

 次いで手入れが悪くて弱ってしまった植木や過剰に繁茂している庭木を剪定し、一部は根元から切り倒す。

 ツルハシを使って根を掘り返す。

 まずは周辺から。最後に根本体を。

 数年前から茅が繁殖し始めていたのだが、植え込みの根に絡まって完全な除去は不可能な状態だった(種で増え、地下茎で増えるのだ)。ついでにこれらの根を、可能な範囲で掘り返す。

 途中、比較的小ぶりな庭石に当たる。

(土の中で、鍬やシャベルが石に当たったときの音を僕はもう完全に識別できる)

 納屋からシャベルだの何だのを持ち出して、周辺から掘り起こす。

 赤い石だから、それなりに値の張る物だったのだろうか、丸くてどうでもよさそうな石と併せて3つほど出てきた。とても重いが、納屋の前に運び出す。

 

 昨年に切り倒した中くらいの木の根がいまだ除去できない。

 ひたすら周辺を掘り返す。

 ツルハシを持つ腕の力が、仕舞いに弱くなる。

 

 腕は痛いし、掌に水疱ができている。

 相変わらず柔らかくて弱い皮膚だけれど、まぁ、私は自分の肌が好きだからこれは仕方ないかな。あとで労ってやろう。

 

 休憩をしていたら強い空腹を感じたので、カップうどんを作って玄関で啜る。

 作業着が泥で汚れているので、他に居場所がない。

 食べていたらアヲに肩に乗られる。出掛けるとでも思ったか。

 

 作業を再開し、焼却炉も火を入れる。

 14時頃、作業終了。手も足も腕も腰も痛い。

 シャワーを浴びて、自転車で買い物に出かける。

 

>>>

 

 最近自転車で買い物をする機会が増えたのは、そのためにけっこう大きめ(35Lサイズ)のバックパックを買ったからである。

 それまではバックパックが直接背中に触れず、エアフローが確保されるようなものしか持っていなかった。

 軽くて高耐久で抜群の通気性を誇り、当然放熱性が上がるわけである。

 しかし容量が少ない。オマエは何のための道具なのかと言いたくなるくらい高かったくせに何も入らない。持つため専用バッグみたいなものである(そこまで入らないわけでもないが)。

 

 そこで大容量のバックパックの必要性が調達部および運動管理委員会から訴えられていたのである。

 実際に使ってみると、豆腐4丁と牛乳パック1Lx2、きのこ(しめじサイズ)6株を入れても、さらに少し隙間があった(けっこう重いが)。

 重量物に対して変形するのは否定できないが、容量の大きさはかなりのものである。しかもさほど高いモノでもなかった。

 

>>>

 

 13日に定期入院する姉を港区の病院に連れて行かなくてはならない。

 

 これは夏の頃には決まっていたスケジュールであり、このため奥様(仮想)から「車を買ってください」と言われていた。

 だいたい20〜50万円もあれば走る車は買えると算出されていた(これが「概算要求基準の通達」である)。

 ちなみに以前、エンジンが爆発した車は10万円で買ったので、50万円もあれば同じものが5台も買える計算である。買わないけれど。

 今回はレンタカーを利用することにした。買うより安いし、僕は今のところ、乗用車には用がなさそうだからだ。

「来年の夏までには、必ず、乗用車を買ってください」と奥様(仮想)に強く要望される。

 たしかに乗用車がないと熱中症で体調を崩す。可能性の問題ではなく、すでに何度か経験している以上、奥様(仮想)の指摘は正しい。

 

 12日の午前中にレンタカーを預かり(歩いて行ける距離にある)、姉の家に一泊し、13日に病院に送って帰宅(レンタカーも返却)、14日はワクチン接種である。

(1日ひとつしか予定を入れないようにしていることもあり)スケジュールが立て込むので、11日は何もしない日と決める。

 

 何もしない日というのも、この数日では珍しいので、何をしたら何もしないで済むのかが分からなくなっている。

 久しぶりにTVゲームでもしようか。眠くなってしまいそうだけれど。

 

 そういえばしばらく喫煙していないので、夜になって1本だけ点ける。

 まだ美味しく感じられないので、もうしばらく禁煙していようと奥様(仮想)に報告する。

 

 このところ胸のむかつきや胃液の逆流もまったく感じない。

(頻繁に感じていたら病院に行くべきだが)

 もうしばらく胃腸を労る食生活を維持しておこう。

 

 

 

211005

 

 早朝に目覚める。

 早寝したから当たり前かとも思うが、この数日の体調を考えるときちんと身体まで目覚めたことはちょっとした驚きである。

 

 ゴミ捨てののち、草取り。

 庭に勝手に咲かせている花を付ける草の根に混じって猫じゃらしだのなんだの(だいたい名前を知らない)が生えるので、そういう場所の草取りが一番厄介ではある。カサも集まらないから、いまいち仕事をした気分にならない。

 それでも少しずつ進める。

 おそらく僕が抜かないように育てている草花も、雑草のうちなのだろう。なにせ痩せた砂利の上で自生するのだから。

 それでもつい選り好みをして、依怙ひいきしてしまう。

 

 1時間程度ごとに意識的に休憩を挟む。気温は比較的高めになりそうな予感。

 蚊取り線香をだいたい3〜4点で焚きながらの作業になるのだが、体調に配慮して防毒マスクをしながら作業する。

(基本的に蚊取り線香の殺虫成分は、哺乳類の体内に取り込まれてもかなりの速度で分解されてしまうため、基本的に無害とされている)

 

 ステルスマーケティングのようなことを書いてしまうが、僕は今年、蚊取り線香を何種類か試した。

 店舗で実売価格を観ると分かるのだが、金鳥が、一番高い。

 それで他社の廉価な商品を買うことが多かった(表示上の有効成分と用量はほぼ同一なので)。

 アース製薬の蚊取り線香が一番安かったので、通常版と「最強」を謳う商品とを使ったのだが、いずれも喉に刺激を感じることが多かった。

 特に「最強」版は、香りも強くて僕には不向きだった。

 一方、秋に入ってから金鳥を買ってみたのだが、香りも優しく、喉や鼻の刺激もさほど感じない。(あるいはだからこそ吸い込んでも気にせず作業してしまって体調を崩しているのかもしれないが、そもそもそんなに蚊取り線香で影響が出るような身体なのだろうか)

 

 そのようなわけでちょっと値段が高いのだけれど、来年から、煙が当たるような場所で焚くのは金鳥の商品にしようと思った。(閉めた窓の屋外などなら、廉価版をじゃんじゃん焚けばいいのだ)

 ほうら。ステルスマーケティングっぽいだろう?

(残念ながら僕はインフルエンサと呼びうるほどの影響力をweb上では持っていない ── IRLでも持っていない ── ので、マーケティングに貢献しても金鳥からマージンをもらうことが出来ない。無名であることの優位を好むので仕方のないところか)

 

>>>

 

 作業中、ときどき胃や胸のもたれというか、吐き気というかに襲われる。

 理由は分からない。

 しゃがみ込んでいるときに、内臓が圧迫されることが原因だろうか。

 しかしよくよく振り返ると、1週間ほども前から、作業をしていない時間でもこの吐き気のようなものを自覚していた。

 思い当たる原因といえば飲酒くらいか。

 明日こそは飲酒をしないでおこう、というのをここ数日、確かに思っているような気がするが、お酒を目にする頃には忘れている。それがよくない。コップにマスキングテープを貼り付けておけば間違いないだろう。煙草を吸わないことには何の抵抗もないのに、お酒の場合は気付きにくい。まぁ、そんなに強い自覚症状がないからだろう。相関性も不明だし。

 体温や心拍、その他の体内器官の感覚に自覚的な異常はないので、気にせず作業を続行。

 

 畑(の予定の花壇)に進入し、大量の草を一輪車で数回集めて気付く。

「そうだ、草刈り機、買おう」

 静かに、そして固く決意する。

 

 どのくらい固いかというと、水で戻す前の高野豆腐くらいの固さである。

 木綿豆腐よりは固いが、コンクリートと比較すると柔らかい。それに人間の手で折れる程度の固さである。

 緊急予算審議委員会 ── 委員長:奥様(仮想) ── を招集し、草刈り兼ヘッジトリマの必要性を訴える。概算要求基準は半年以上前に奥様(仮想)から通達されているので、むしろ審議に上げないまま放置し、夏が終わってしまったことの方が問題視されかねない。

 ここは秘書や担当官に責任をなすりつけ、自分だけは穏便に保身を図りたいところだ。なにより幹事長たる上席(奥様(仮想))は僕の味方だ。マスコミについては買収しよう。しかしそんな予算はないから誰かにタカって買収用の予算を提供してもらえばいい。記録文書は作らず、審議等で一時的に保存される文書についてもすべて破棄すれば何も残らない。オレッテテンサイダナー。

 

 審議は数秒で無事通過した。

 むしろ上の蛇足の文書の方がはるかに時間と手間が掛かっている。こういうところに僕という思考回路の問題が露呈する。

 いいんだ。これがキャラクタであり味わいなのだと言い聞かせるしかない。今さら他人になんかなれるものか。支持者はきっとたくさんいるし、いなくてもどうせ投票に来るような連中は私を支持するに違いない。一度当選した以上、絶対にこの地位は手放さないぞ!という不退転の決意を上乗せで固めつつ、今度の固さはドノクライカナーなんて思ってみたり。(思わない)

 

 作業を即撤収して顔を洗い、ホームセンタへGO!する。なんだかポップな表現でスピード感はあるが、キャラではない気がすることは否めない。

 あいにく欲しいと思った商品が売り切れていたので、取り寄せてもらい、帰宅する。

 13時を回っていたので近所の蕎麦屋に寄ったのだが、9月末まで店休していた影響がまだ残っているのか、待っている人が多い。

 観察するに、夫婦や家族連れなどもちらほら見える(会社員なら通常の昼休みは終わっている時間であるし、市街地からは少し離れているし)。

 どうしてこんなに暇人ばかりなのかと嘆くが、きっと僕が一番暇人だと思うので、黙って帰ることにする。駐車場で車を降りて2分程度で車に乗り直す。

 いいさ、どうしても食べたかったわけじゃないしと自分に言い聞かせて。

 そもそも昼食を摂るというのは、僕にとってはおやつを食べるようなものだし。いいもん。悔しくないもん。胃もたれだか胸焼けだかなんだかしているし。

 

>>>

 

 帰宅後、軽くシャワーを浴びて花屋に出かける。

 花束を持って母上のところへ。

 未だ埋葬をしていないので、姉上からあとで連絡が欲しいと甥に言伝を頼む。

 

 故人に花を手向ける習慣は、僕にはない。

(なので盆に叔母たちに花を用意したりはしなかった)

 母へ花を手向けるのは、ただの依怙ひいきである。

 

 再び帰宅し軽く外食。

 2時間もしないうちに激しい睡魔に襲われ、よろよろと(歩いて)帰宅。

 ふらふらしながら服を脱ぎ散らかしてベッドで横になり、気絶するように眠る。

(日付の変わる前に目覚めたのでこれを書いている)

 

 草取りをしている最中、ドーラ(doller)と呼ばれる、人形愛好家についてあれこれ考えていたが、今日は体力が少ないので続きを書かない。

 

 先日軽く触れた Synology のNASキットが数日前に到着しているのだが、設置は書斎の壁の作業が終わってからになりそう。

 書架も届いてしまって作業の種類と量が多い。

 会社であれ家族であれ、組織ならば上司や部下や同僚に相談したり業務を割り振ることが可能だが、僕の場合はせいぜいが仮想人格を作って業務に対する認識の幅を持たせることで作業の効率化を図るくらいがやっとであり、実作業については身体がひとつのため、つくづく弱い。

 

 そもそもこの家で改修作業(リフォームや補修)をしながら定期メインテナンス(草取りや外構掃除)などの通常作業を並行し、炊事洗濯掃除といった日常業務を行うのにあたって、果たして一人で足りるのかという問題が最近頭をもたげる。庭の開墾だってあるし。

 もっとも期限を設定していないから問題がないというのは事実だ。

 家族がいたら急を要する作業 ── たとえば浄化槽の処理であるとか、先日いくつかまばらに外して廃棄したキッチンの収納のドアの再設定、ベッドが致命的にカラダに合わない問題など ── を無視することができる。仮想奥様は僕を(基本的に)急かすことがない。

 

 むしろ体調を大きく崩して回復を待つ方が、時間もコストも余計に掛かる。

(僕はそれを今年の春に学んだ)

 身体を労り、作業を安全に進行することについて、奥様(仮想)は非常に優れた能力を発揮しているように思う。(実働の作業効率は黒猫氏のおかげだが)


 

 しばらく身体を休めよう。

 このところ休めてばかりの気もするが、この環境は比較対象も観察者も存在しないのだし、この不調は時期的なもののような気もするから。

 

 そういえば、寝ている最中に弟子から電話があったのだった。

 何を話していたか、まったく記憶にない。

211004

 

 早朝から草取り。

 

 昨日までの2〜3日、ひどく身体が重くて、眠り続けていた。

 とくに昨日は、食事(飲酒)と風呂とトイレに起きた以外はほぼ一日寝ていた。

 前日も眠り続けていたことから考えるに、異質な眠気といえる。

 

 季節の変わり目のせいだろうけれど、地味に秋の花粉症が重くなってきているのかもしれない。

 実際、眠くなる前日あたりから飲酒と喫煙量がほぼ0になっていたし、覚醒時の喉や鼻の粘膜の腫れや乾燥もかなりひどい。

 お酒や煙草は健康であってこそ楽しめるものだから、こういうときはひたすら眠って回復を待つのも一つの正解だろう。

 

 会社員の頃は、こうした季節の変わり目の体調不良をうまく調整しながら生活していた。

 もちろんそれでも症状が重いと頭痛や睡眠不足、粘膜の腫れによるありとあらゆる生理機能の不調でぐったりしつづけていたものだけれど、それを薬品やセルフマッサージでなんとかなだめながら、活動を維持していたわけだ。

 

>>>

 

 昼頃にBPがやってきて、彼の家の月桂樹の枝下ろし。

 普段まったくしていなかったらしく、虫が盛大に繁殖していた。

 電動レシプロソウが役に立ったし、僕の周りで軽トラを持っているのが僕しかいないので連絡してきたようだ。

 僕も軽トラを持っているヒマな友人が一人くらいほしいのだけれど、あいにく僕自身以外に持ち合わせがない。

 身体が弱くて、虫を怖がって、女性にだらしない以外は、僕はけっこう有能なのであるが、有能な友人を増やす才には恵まれなかったらしい。

 

 落とした枝を軽トラに積んで、清掃センターへ。

 

>>>

 

 ときどき書くこともあるが、とにかく僕は身体を撫でないと不調になる。

 精神的にも不安定になるし、肉体機能も低下する。

 自分でも未だに理解に苦しむ。

 世間的に見ればいい歳のおっさんであり、繊細とか、敏感とかからは縁遠そうな気がするのである。

 身体を撫でないと心身機能が低下するというのも、動物っぽいというか、子供っぽい気がする。

 

 人間生活の長い恋人などは、その大半が「身体を撫ぜることの重要性」というものについてまったく認識しているふうがない。

 もしかしたら人間というのは、撫ぜなくても機能低下を起こしたりしないのかもしれない。

 

 僕は人間の着ぐるみを脱ぐと猫なので、撫ぜるのは必須である。

 猫たちは撫ぜられることによってその静電と熱のエナジィで駆動するもので、それは老いても変わらないメカニズムなのである。

 
>>>
 
 帰宅後BPは我が家でTVゲームを。
 一緒に飲酒し、私は0時を回った頃、睡魔に襲われ就寝支度。
 BPも眠くなったらしく、帰って行った。

 

210929

 

 昨晩、22時頃には気絶するように眠り、未明3時頃起床。

 眠くなると眠ってしまい、もう眠くなくなると起きる生活なので、時間はまちまちだが、やはりというか、目覚めた時間帯の気温が心地よいのは重要だと思う。

 

 陽が出てから壁作業を進めようとするが、断熱材を貼り付けた段階でやる気がなくなる。

 2枚中1枚、2カット必要な工程のうち、1カットをし忘れたままボンドを塗布してしまい、結局切り出し直すことにしたあたりから、なんとなく気が向かなくなってしまった。

 もっと実直に作業をしなくてはならないのだけれど、どうもアタマがぼんやりしている気もする。

 だいたいこういうときは疲れが残っているか、新しい疲れが(未明から現在までの間に)蓄積しているか、といった原因があったりはするものだが、その時点では気付かないものでもあるので、しばらくぼんやり過ごす。

 

 しばらくするうち強い眠気に襲われ、カフェイン剤を飲み、床にしばらく転がる。

 

 実のところ、向精神性の薬剤として、僕は市販のカフェイン剤を飲むことがある。

 もちろん正しい用量しか使わないし常飲もしない(する必要も感じない)けれど、炭水化物を摂取したあとに自動車の運転や工作機械等の操作がある場合や、それ以外でも急激な眠気が発生した場合は、規定量を飲むし、気分が鬱屈した状態があまりに長く続く場合も、カフェインで調整することがある。

 

 いつだったか姉に「猫くんも、相当に双極性障害っぽいと思うよ」とは言われているし、まぁ、思い当たるフシがないわけでもないのだけれど、僕は基本的にこうした閾値の曖昧な肉体的/精神的分類について、日常生活に著しい不具合を発生しない限り、自身にそのレッテルを貼ることを許さないようにしている。

 

>>>

 

【今日のお題】

 

○ 自律なるワタクシと自在なる価値観

○ ラベリング嫌い

○ 性の多様性なんてくそくらえ

 

※セクシャリティに関する話題、生命倫理に関する話題、特殊性癖に関する話題を含みます。

 

>>>

 

 子供の頃から病弱で、自分は父上と同じように心臓の機能障害を起こして死ぬと思っていたので、僕は肉体を追い込み酷使することを嫌った。

 単に自身と周囲に対して「嫌だ」と意思表示をする、ということではなくて、むしろ周囲に対しては大丈夫なフリをしつつ、過剰に苦しそうに振る舞う(演技する)ことで肉体的に楽な状態を維持した。

 ために全力疾走や長距離走など、強く、あるいは長く肉体を酷使するようなことはなるべくしなかったし、しようとしても仕方が分からず上手く出力できなかったし、仮にそこで無理をすると、長く体調を崩した。

 

 しかし20代後半から少しずつ ── ずいぶん遅いけれど ── 肉体の使い方を覚えて、従前に比して負荷の高い運動も可能になり、身体の使い方そのものも上手になった。

 つまるところ僕は、過剰に病弱なフリをすることで、自分にも他人にも「病弱なイキモノだ」というレッテルを誇示し自身の身体を守ってはいたけれど、それは過保護だったかもしれないとも思い知ったのである。

 

 ちょうど一人暮らしを始め ── 当然様々多少に挫折を繰り返しはしたけれど ── 独力で対応することができることを実感する機会も多かった。

 だから自分に過小のラベリングをするのはやめようと思ったのだ。

「できない」と思ってしまえば、しないことになり、結果的にそれは成功しない。

 

 しかし「できない」という能力や状況があるから失敗するのではなく、「できない」と思った結果、その瞬間に挑戦する選択肢を失って、失敗すらせず成功しないことがある。その現象を嫌った。

 分からないなら分からないなりに、収集された情報が不完全なら不完全なりに、その行為を繰り返す動機があるならば、失敗は失敗で、成功は成功で、フィードバックを続けることで成功の確率が上がるという当たり前の事実を体験したわけである。

 結果的に僕は利き腕側の肩を骨折しようと、電気が止まろうと生きながらえたし、燻製を作ることもできるようになったし、エスプレッソマシンを上手に操作できるようになったし、三角関数をひらめいたりもしたし、嫌いな食べ物や生き物を次々好きになるというメソッド(笑)を考案したりもした。

 

 実のところ、食べ物の場合は「嫌いだ」という認識を意識的に中和して、その先入観のない状態での肉体の感覚(味覚)を再評価し上書きすることで、徐々に味覚を再構築することができる。

 身体感覚が後押ししてくれさえすれば、比較的容易に克服できるのではある。

 

 ところがそれ以外の先入観とは、シンプルに記憶と価値観に依存しているものなので「嫌い」を「好き」にシフトするのは容易ではなかった。

 僕の場合は蜘蛛やゴキブリがその筆頭に上がるのだけれど、蜘蛛を好きになるのに5年くらいは必要としたし、ゴキブリは今でも「好きではないけれど嫌いでもない」くらいの距離感でのお付き合いがやっとという状態である。

 

 これは最終的に、それ以外の全ての価値観に対しても共通していて、僕は周囲の人と比較すると、今は「好きも嫌いもあまりない」イキモノだろうと自己認識している。

 自身の行動や価値観に対しても、他人の行動や価値観に対しても。

 ただし本来的には好き嫌いをはじめとした感情や感覚が非常に強い人間だったのは事実で、自分の意識に上らない部分の優劣や好き嫌いの感覚があった場合は、制御しがたい部分がある。

 

 たとえば身体性に起因した部分で、僕は自分の皮膚の状態が長く清潔に保たれないとすぐに精神的にも不調になる。皮膚粘膜の感覚を普段から細かく意識したりはしないようにしているが、皮脂や塩分、花粉やその他の汚れが付着しやすい春から秋までは、気温や湿度ではなく、皮膚が不快を覚えやすいために好きになれないのである。

 これは認識を改めようにも身体感覚がそれを否定するため、好きになることができない。

 

 またいくつかの特殊な価値観(マイノリティに該当するような嗜好)のうち、倫理的にどうしても許容できないものがいくつか存在している。

 たとえば人肉食などは ── したいとは全く思わないが、遭難などの状況によりどうしても必要になったとしたら ── 案外抵抗なくできそうな気がする。したことがないから絶対にできるとは断言できないが。

 生き物を殺すことも、実はさほど抵抗がない。

 釣りをして動いている魚を捌くことですら3匹目くらいから心が痛むのだけれど、目的や理由が明確な殺生については問題なくできる気がする。

 バッタや蚊のように、殺生することそのものが二次的にであれ目標になるケースもある。

 魚を生かしたまま自分の空腹を満たすことができるならそれが一番なのだけれど、相手の肉体を食べることが一次目的である以上、どうしても殺すことになってしまう。

 害虫の場合「こちらに害為す虫がいない」という一次目的を的確に達成する最短の手段が「相手を殺す」ことなので、いかんともしがたいわけだ。

 

 趣味的、あるいは性的嗜好に関しても、コスプレ(性的嗜好ではない)が趣味の女の子であるとか、同性(女性)と並行で恋愛する女の子であるとか、SM趣味の女の子であるとかと普通に恋人でいることが可能だった。不倫等についてもメディアで騒いでいる現象を見て、その騒いでいる様子の方が「下品だな」と感じるくらいである。

 人形性愛も「ラブプラス」や「Beatless」といった作品を体験するうちにさほど気にならなくなった(以前は嫌悪していたが)。

 

 一方で、児童性愛や児童売買春については、とにかく不快感を覚えるし、これを克服する気にはさすがにならない。

(未だに年下の女性を恋愛対象として積極的には認識できない理由もこのあたりにある。よくよく考えれば男性に恋慕の情を抱くこともあるわけだから、年下はオール不可なのかもしれない)

 これには明確な理由と、間接的な体験や記憶に起因する価値観があるのだが、僕の中で未だに整理されていない項目 ── なにせ僕が生きる上ではまったく必要とされない価値観だった ── なので明文化できない。

 もちろんそれを明文化することは露悪趣味であり、苦痛ですらある。

 にもかかわらず僕はクローズドスペースに文書を書いて保存することを恐怖しているのでオープンスペースにそれを書くだろう。少なくとも書かない選択はない。

 ただ、いまだにそれには能わず適わない。

 

>>>

 

 ラベリングに話を戻すと、僕は自身に対するラベリングを拒否するようになったのだ。だから誰かによるラベリングを無視するようになった。

 

 もちろん相応の病院で相応の検査診断を受ければ、相応のレッテルが貼られるだろう。

 発達障害のいくつかや、いわゆるHSP、双極性障害だって該当するかもしれない。

 ただそれらのレッテルがあったところで僕の日常がラクになるわけではない。

 なぜといって、僕は現在の肉体依存で生きているため(どんなに「私は本当は、猫なんです!」とラベリングをしようとも)、「この不便な僕」を使ってしか生活できないからだ。

 

 ガスや電気が止まれば(できれば止まる前に)働いてお金を稼いで支払うしかないし、それは誰に頼れるものでもない。

 食べるものがなければ、働いてお金を稼いで ── あるいは直接の行動によって ── 材料を調達して調理するしかない。

 住居に不満があれば、はやり経済を媒介にするか、自力で何らかの手順を踏んで設定する必要が出てくる。

 いずれも可能な限り自分を(自分だけを)頼るのが確実である。

 他人がアテにならず、信頼できないとは言わないが、可能な限り自分だけですべてのことをするのは、少なくとも僕にとっては当たり前のことなのだ。

 

<<<

 

  実のところ、経済活動についてだけは現在、仮想奥様の領分としている。

 これもいずれ明文化するのかもしれないが、経済至上主義を否定する僕の価値観と、不労所得という不慣れな経済活動を取り扱う価値観の差異にクッションが必要だから、というのが正直なところである。

 相反する価値観は仮想マシンのOSよろしく別パッケージでパーティションしておきましょうという、記憶媒体のように手荒な使い方だ。

 

 長らく若隠居や不労所得に憧れ、あるいはそれを実現しようと思ったりもした(結果、実現してしまったのだ)けれど、「え? 玄関なのに急にそんな迫られても、あっ、そんなまだ奥さん、ボク心の準備がまだできてなくて、あっ。近いですよ奥さん待ってください、あっ」みたいな感じなのである。

 

<<<

 

 日常 ── あるいは人生、と置き換えてもいいだろう。人生とはすなわち日常の積み重ねのことを言うのだから ── の自発的行為/行動/結果について、誰かが ── あるいは自身から ── 貼り付けたレッテルが、役に立った試しはない。

 なので、精神的/肉体的/趣味嗜好のマイノリティなレッテルを貼ることで、コミュニケーションや日常 ── 人生 ── が優位に展開するというのならそれはそれでいいだろう。

 たとえば重度の双極性障害なら障害者手帳ももらえるかもしれないし、たとえば僕の場合、仮に双極性障害だったとしてもカフェイン剤と文書をひたすら書くことで制御を続けることができる。

 たとえばHSPだったとして、僕は自分の肉体についての感覚や特性、記憶したことをフィードバックして快適な状況を作りつつ周囲とのクッションをコミュニケーションや物理で行えば良いし、発達障害はまぁ ── 僕が果たしてそうなのかは不明だけれど ── 慣れですよこんなもの。

 

 思考し、行動する。

 シンプルにこれだけである。

 

 ただ思考は煩雑で、煩悩も割り込むし、気分や感情にも左右されやすい。

 行動は基本的に肉体依存で、個人のそれには限界もある上、僕の身体は(上を見ればキリがないが)頑強とは言い難い。

 

 それでも僕は、おそらく子供の頃から親にさえあまり頼れない環境だった ── 事実、高校時代には実技系の資格試験のためのお金(数千円だ)をもらうことさえためらって、ほとんど何の資格も取らなかった ── ために、自分で判断し、自分で処理をスタートし完結させるように淘汰された。

 並列宇宙があるなら、ほとんどの僕はもう、死んでいるか殺されているだろう。

 たまたま僕は、適者として生存を続けている。どちらが良かったのかは分からないけれど。

 

>>>

 

 せっかくなので性自認違和についても書いておこう。

 あれもセルフラベリングには違いないのだ。

 肉体準拠で考えれば、仮に僕がいかなる性自認を持っていようと、他者が肉体をして認識する性別に準拠して生活するのが ── 少なくとも僕には ── もっとも適切である。

 たまたま性的指向は肉体準拠でヘテロであるから、性自認については無視している方が僕には都合が良いし、今の年齢(四捨五入で齢五十である)になってまで自分の性別について考えているのはどうもアニマルっぽい。まぁ俺は猫だけどよ。

 

 ああいうもの(セックスに過剰に意識を削がれる現象および意識行為)は不惑になったら卒業しても良いのではないのか。

 確かに肉体はいつもあるものだし、性そのものは肉体に付随している。

 思い人と身体を重ねることの悦びは、他のもので代替できるものでもない。それは確かだろう。

 しかし性(セックス)というのは、つまるところベッドの上(あるいはまぁ、それ以外の全てのどこか)で、誰か(可能な限り思い人であることを推奨するが)と身体を重ねるときに必要な識別子であって、本来はそれ以上でもそれ以下でもない。

 

 たまたまそこには相手というものが存在し、ためにコミュニケーションが発生し、ためにコミュニティ(あるいはコミューン)におけるラベリングが発生するため、自身や相手の持つ識別子の役割が複雑化し、結果として認識が肥大したのだ。

 だから性別の認識に自己と他者とで差違が出る。

 つまり性別そのものは(キメラを含め複雑なものも存在するが基本的に)XXとXYのみであるのに、コモンから外れるようなラベリングが認識上発生する(している)だけなのだ。

 

「人間の性別が複雑化した」と認識している人もいるだろうし、社会現象としてちょっと大袈裟で面倒くさい時代だと個人的には感じている ── 無論、かつての馬鹿なマッチョ的時代がそれを醸成する土台になっていて、だからこそ前時代的なフェミニズム活動が未だ馬鹿げた存在証明をしたりしているわけだ ── けれど、これらは過渡期だからだと考えたい。

 端的に言えば「ベッドの上でしか意味を持たない識別子を、どこまでベッドの外に持ち出して使うのか」ということで、それについての線引きを定義できる知性が共有されていないのが現在の問題なのだと思える。

 

 トイレや更衣室は肉体準拠の場所だ。

 だから精神準拠の性別(性自認)に合わせる必要はないと僕は思う。

 卑近な例で、僕は性自認が比較的女性 ── 面白い表現だな ── なのだけれど、仮に自身が「明らかに性自認が女性で、かつ明らかに肉体が男性であった」場合を考えるとなおさら、女性用施設に男性の肉体が侵入することに忌避感を覚えて然るべきだと感じる。

 なぜ男性のままの自身の肉体をして「私は精神が女性なので女性用施設を利用できないことは人権侵害だ」と言えるのかが理解できない。言い方を変えるとアタマオカシイと感じる。

 性自認が女性だとするなら、女性のコモンセンスとしての気持ちや感覚を理解していて然るべきで、自身の人権を盾に「女性用施設に男性の肉体が侵入する」という異常な事態や論理を正当化して押しつけていいとは思えない。

 

 せめて性器を切り落としてからにして。

 髭を生やしていても良いから性器は切ってきて。

 僕がガールだったらそう思うのだ。

 

 コミュニティの中で認識世界上の性別が複雑化したというなら、物理世界の性別についてをこそ見直すべきだろうし、その肉体準拠の世界のコミューンにおいて肉体が男性なら男性準拠の、女性なら女性準拠の扱いに従うべきだろう。

 だから先日のオリンピックであったか、性自認が女性の旧男性が物議を醸したのではなかったか。

 

 成人した女性の多くは受胎する機能を有し月経があり、それに伴う精神状態を含めた肉体的変化が存在する。保健体育か。

 男性の多くは女性を受胎させる機能を有する。保健体育だな。

 肉体準拠の性別はだいたいこんなところだ。ためにいかなる神の思し召しか、肉体準拠の施設の一部は男女の別が存在している。

(ちなみに海とプールと混浴と飛行機とバスは混合 ── 性差識別なし ── で良くて、トイレと更衣室と公衆浴場と電車には肉体準拠の別があることについて僕に尋ねられても困る。正直、分からないのだ。下着と水着の違いのほうがまだ分かる。パブリックとプライベートの差だからだ)
 

 そして認識世界のコミューンにおいて精神が女性(あるいは男性)であるというなら、性別に準拠して著しく侮蔑的なコミュニケーションが発生したら怒っても良いだろう(まぁ、そんな低能が当たり前にコミュニティからいなくなる世界であってほしいものだけれど)。

 いずれにしても性別という識別子は、人間の要素のうちそんなに大きな要素を占めていないはずなのだ。

 そんなにオマエらぱやぱや(性行為のことです)好きか? ぱやぱやか。ぱやぱやだけか?

 人間の価値や機能や行為や評価は、性別でそんなに大きく変わるだろうか。

 

 10代20代の若者なら分かるけれど、本来、性自認(認識世界の性的識別子)について敏感なはずの彼らの方がむしろ静かではないか。まぁ黙ってぱやぱやしているだけかもしれないけれど、むしろそれでいいのではないのか。いや良くない場面もあるか。

 

 いずれにしても、性別というのは、きわめてプライベートな領域(だいたいはまぁ、ベッドの上とか、リビングだのキッチンだの書斎だのバスルームだのだとは思う。まぁ、趣味趣向が多種多様なので、このあたりについて今回は厳密に扱わないことにする)で、かつ相手が存在する場合にのみ適切に機能する。

 性という機能は、肉体準拠で作用する。

 原則として手を繋いだだけで妊娠したりはしないし、思い人(性識別子のヘテロかどうかを問わず)の声を聞いただけで妊娠することもまた、ないのだ。

 

 そのプライベートな領域での行為にのみ意味を持つはずの識別子を現実世界に持ち込むことが(もちろん就労している女性の場合は肉体準拠で持ち込まざるを得ないことが先のような状況に付随して往々にあるのだけれど)本来は特殊なことであり、その特殊(マイノリティではなくパティキュラ、あるいはスペシャル)を普遍として顕在化するのが近現代の社会の方向性だ。少なくとも男女は同権であるわけだから。

 

 一方で、認識世界で過剰に肥大した性という識別子については、ヴァーチャルな性別として確固たる居場所を与えればそれで満足するケースも多いように思う。

 旧来でいえば、肉体準拠のホモセクシャル(必然に認識世界でもホモセクシャル)は、その居場所(つまりは身体を重ねられる思い人であるとか、認識を共有できるコミュニティであるとか)が存在していればそれで社会と折り合いを付けていられた。

 認め合う環境があれば、不満は発生しない。自認とはそういうものだ。

 

 そして肉体に準拠しない性自認を持つ者はすべからく、社会に対して謙虚であるべきだとは思うのだ。

 なぜといって結局のところ、どんなに社会にそれを訴えようとも、自分自身という単一の個の中にしか認識世界の性別なんてものは存在していないのだから。

 アタマの中にしかない絵空事をコミュニティに持ち込んで押しつけるのは、ママゴトでしかない。しかも比較的レベルの低いママゴトだ。

 

 仮にそれがホモセクシャルのパートナーであったとしても、だとすればなおさらのこと、肉体準拠の性別という色眼鏡(あるいは識別子)によって自分という個人の価値が一層高い意味を持つとは限らないということを知っている方が、自身も、あるいはお互いの関係も、そして何より社会との向き合い方も、より健全で豊かなものになるだろうと思うのである。

 つまり「男だから」「女だから」という理由を越えた人間関係の方が、性別に依存した(あるいは性別が優位性を持つ)関係より親密で、真に孤独を越えるものだということだ。

 なぜといってそれはヘテロセクシャルにおける親密な人間関係と、何ら変わるものではないのだから。

(ちなみに僕の場合、レズビアンもヘテロじゃないからホモセクシャルと呼んでいる。たいした必要もないのに見識高そうに名前を分けるのは趣味ではない)

 

 すなわち「性別を持つイキモノ」である以前に、人間は人間なのだ。

 

>>>

 

 現代の社会は「性の多様性を受容しよう」という指向である。
 実のところ、僕はこれに全く賛同しない。
 つまるところこれは「有色人種にも人権を」という運動と同じで、前時代的な、いわば達成前のプロセス段階だからだ。
 
 未来の社会における認識世界上の性識別子なんて「中指よりも薬指の方が長いか短いか」くらいの些末な問題になっていて然るべきだろう。
 そのとき、今ある肉体準拠の施設がどのようになっているかは知らない。
 それらの施設の別が、防犯のためではなくデリカシィのためにのみ存在していることを切に願う。
 それが文明文化であり、豊かさではないのか。
 
 
 
>>>
 
 余談。
 
 浄化槽の点検清掃業者の方が確認したところ、ブロワモータが故障して停止しているらしい。
 昨日は「思慮深く所有者や使用者に気を遣って、見えないところでだけ働いている健気な機械に違いない」と思ってそう書いた。
 そしてそういう労働者は経験上、周囲から「あいつは仕事をしない」なんて言われたりする不遇に見舞われるのだが実は非常に有能なのだとも。
 
 しかし実際に仕事をしていなかったわけであり。
 
>>>
 
 午後になってシャワーを浴び ── 昨晩、気絶するように眠ったため浴びていなかった。やる気が起きなかったのはこれが原因だった ── 建築資材の買い出しに行く。
 夕方、暗くなるまで電気系の工事。
 スイッチ系の配線に思ったより苦戦する。勉強不足か。
 センサライトをいくつか購入したのだが、センサの反応範囲が思ったより狭い上、光が強くて使いにくいことに気がつく。
 明日は撤去し、別の場所に再設置しようと思う。
 
 奥様(仮想)に「やはり書斎(机と椅子)があると、猫クンはそれだけで様子が違いますね」と言われる。
 たぶん褒められていると思うのだけれど、最近、奥様(仮想)はポケットから不意に蛇を出したりするので油断ならない。ちょっと身構える。

210928

 

 早朝に眠り9時頃目覚める。

 ゴミ捨てを済ませ、壁のリフォーム作業を継続。

 

 昨日切り出した材料の一部に寸法の誤りがあり、修正。

 MDF材はノコギリで切る必要があるため一畳(1820x910)サイズのものの場合、それなりに作業は大変である(ペラペラであるため、下に当て木をしてもカットするのがむつかしい)。

 ちょうど清掃センタに運び出していない畳がたくさんあるので、それを庭に直置きすることで下敷きにしている。

 

 結果、昨日と同様、まずは畳(そんなに軽いものでもない)を庭に置き、納屋からコードリールとレシプロソウを持ち出して作業することになる。

 昨日は何枚かまとめて切ったので良かったが、今日はたったの1カットするだけのために余計な作業が増えることになった。採寸はきちんとしなくてはと反省する。

 

 採寸といえば、リフォームの場合(これは僕の家に限ったことかも知れないが)最初から柱や梁が傾いていたり ── ひどい場合はひずんでいたり ── するので、カットした結果が方形のことの方が少ない。

 今回も書架スペースの奥と手前で10mmほど高さに差があり、天井部と床部でも10mmほど奥行きに差があった。

 

 最初の頃こそ「ひどい設計だ」「前所有者の性格を反映しているに違いない」などと大量かつ濃厚な呪詛を吐いていたのだが、最近はネタが尽きたのか、奥様(仮想)がリモートワークついでに僕の作業を観察していることがあるためか、はたまた心の中の涅槃のパワーが炸裂して悟りの境地に至ったのか(うん、まぁ、そうだね)くらいの反応しかしなくなった ── それともこれは孤独によって心が錆び付き、反応が低下しているのかもしれない。

 

 老化による感情の起伏の劣化だとしたら、それは脳の活性レベルが低下していることを意味する。仮にそうなら少々考えものではないだろうか。

 しかし奥様の前で「歳だから」「老化」「若い頃より」などという言葉を使うと、ときどき、かつ一瞬、無言で睨まれる。可愛らしく表現するならば「ジト目をされる」といった表現になるだろうか。基本的に無言なのでどちらかといえば無表情のゴルゴ13のように見えなくもない。後ろに立ちたくないけれど正面に立ちたいわけでもない。所在ないとはこういうときに使うのだろうか。僕の棲み家なのに。

 

 白々しく「わらってよぉ〜、僕のために〜」などとマサシ・サダの歌を歌ってみたところで如来像のようなアルカイック・スマイルが待っているだけだ。如来のくせに慈悲はない。

 ひどい場合は鼻を鳴らされることもある。念のため「鼻を鳴らす」を辞書で調べたが、べつに甘えているわけではないと思う。

 

 恋人や奥様よりも年下である場合、往々にしてこのようなことに気遣いをする性格に育つことになる。年下の恋人や配偶者をお持ちの皆様はこういった些細な、かつ無言にして思慮深い気遣いについてもう少し理解して欲しい。そう。愛は無言なのだ(黙れと言われそうだけれど)。

 ちなみに「年上」という言葉を使ったときも、奥様(仮想)は片方の眉だけ動かすことがある。ためしにこっそり真似をしてみたことがあるが、意識的にするにはそれなりの技術力を必要とするように思えるし、無意識だとしたら相当なストレスを与えてしまったことになる。仮想といえども奥様を大切にすることは大事な訓練のひとつでもあるから、このようにして僕の言語感覚が洗練されるのだろうと想像する。いい加減、年下ガールも視野に入れてみてはどうか。

 

 ところで呪詛も魔法の一種と考えれば、言葉のレパートリィが豊かであってこそ気分も晴れるし楽しくもなるし、場合によっては呪詛の効果(?)も高くなろうものなのだが、いかんせん僕は呪いの語彙が豊富なわけではない。これは育ちが良いからではなく、単純に知識や能力がないということだろう。

 ワンパターンな呪詛を聞いていても退屈なだけである。言うことで気分が晴れるという性格のものでもない(愚痴ではないのだから呪詛とはそういうものではないか)。

 低能な魔法を乱発するくらいなら、沈黙していた方がいい。なによりそれだけで賢く見える。気品さえ満ちあふれてしまうかもしれない。少なくともやたらと呪詛を口にするよりは品がある。奥様(仮想)にもこのあたりを理解してもらいたい。いや奥様(仮想)は普段から大変上品でいらっしゃいますけれども。

 

 こうして余談の方が幅を利かせることになる。

 僕が論文やレポートを書いたらおそらくちょっとした惨事になるだろう。

 

 とにかく本題に戻ると、リフォームにおいて直角の部分などほとんどない。

 基点を取って、水平と垂直方向の点をそれぞれ取るわけだけれど、そもそも水平/垂直であるかどうかさえ怪しいのである。結果、採寸や切り出しを正確にしようとすればするほど、ストレスになる。

 だからといって持ち前の高田純次スピリッツを全開にしてこうした精密作業をしようものなら取り返しの付かないことになることが予想される(多分爆発するんじゃないか。いやドリフじゃないからそれはないか)。

 

 とにかく大事なのは、正確に採寸や切り出し作業を心掛けつつ、ズレてもきにしないこと、である。

 自分や他人、道具や環境、材料を呪ったところで、問題が解決するわけではないし、部材がピタリと嵌まるわけでもないし、奥様が褒めてくれるわけでもないし、品位も上がらないし、語彙力も上昇しないし、学校もないし家庭もないし……このネタはこのあいだ使ったばかりだな。

 いずれにしても、仮に飽きてしまっても愚直に、目の前の作業をするしかない。

 また採寸を誤らない一番の方法は、採寸したその場所に寸法を書き込むことだ。

 基点や(「基点や」の入力を誤ると「来てニャ」と誤変換される。猫のコスプレをしたメイド喫茶の営業メールのように見えなくもないが、そもそもメイド喫茶に行ったことのない僕に対する影響は皆無だ)上端なども記載してしまえばいい。

 他人に見せるために作っているわけではないし、あるいは他人が見たとして、ちょっとそれはそれで「あっ。猫様、素敵」と思われるポイントになるかもしれない。いやそんな影響をいちいち考え計算してしまうような下世話なイキモノだと思われるのはちょっと心外である。下心は常に持ちつつも自意識を控えめにしていた方がモテる気がする。気がするだけで何の根拠もないけれど、こういった心の声がダダ漏れのまま記述を続けるのはいかがなものかとときどき反省する。だからといって修正なんかしないからな!

 

 とにかく。

 感情に左右されることなく、淡々と作業を続け(粛々と、なんて言うとちょっと政治家っぽくなるから君も今日から試してみよう!)、上手くいっても失敗しても、表情ひとつ変えず、プロセスを次々実行してゆくことこそ効率の良い作業だ、ということに今日気がついた。

 つまり今までは上手くいけば己を褒め称え、失敗したら盛大かつメリケンな感じに自身を叱咤し、ときに叱責し、道具のせいにし、材料のせいにし、他人のせいにし、呪詛すら辞さない覚悟で邁進してきたわけである。日本語がすでにオカシイ。あとこの余談についつい走りがちな、多動性障害を体現したような文章を誰かとめてほしい。まぁ、とめようがないと思うけれど。

 

>>>

 

 作業中に気がついたのだが、この家には浄化槽があるのに、清掃業者が来たためしがない。

 昨晩、排水口から汚泥臭がしたので、浄化槽用のバクテリアを買いに出かけなくては、と思っていたことを思いだした関連で思いついたのである。

 

 それであちこち電話をする羽目になった。

 まず市の指定業者を調べて電話をし(取引履歴の確認:無)、教えてもらった県の環境検査事業団に電話をし(浄化槽管理者登録の確認:有? きわめて古く、氏名も異なる)、再び最初の指定業者に電話をし(浄化槽、あるっぽい)、次いで水道企業団に電話をし(下水道設定の確認)、さらに市役所にも電話(下水道設定の確認)をし、最初の指定業者に電話をした。

 

 結果として、この家には浄化槽が設定されており、下水道は設定されておらず、にもかかわらず浄化槽登録が長らく変更されていないか、そもそも登録されていないことが分かった。

 最寄りの業者との取引履歴が最終的には確認されたが、定期点検等の依頼はしていなかったようだ。いったいどういうことなのだろう。

 想像するに、ブロワ等が故障したり、水回りに不具合が出たときだけ清掃や点検をお願いしていた(あるいはそうしようと考えていた)可能性がある。

 設備が壊れるとか、定期メインテナンスとかいう発想がないのか、と言いたくもなるが、おそらくそうした意識のない人間たちがこの家を使っていたことはこれまでの観察結果から考えても妥当な線だろう。

 

 現時点で、浄化槽のブロワモータは設置されているようだけれど、駆動音を聞いたことがない。ためしに撫でたりつついたり、ちょっと叩いてみたりもしたが、コンセントプラグが差し込まれている割に、うんともすんとも言わない。無音タイプだろうか(そんなものがあるかは不明だが)。あるいは物静かで思慮深いあまり、僕が側にいると駆動しないのかもしれない。観察していないときだけ働く、という謙虚な姿勢は、ときどき周囲から「あいつは全然働かない」などとひどい評価を受けることがある。僕もよくそういった下らない現象に悩まされたりはしたが、ここでは他人からの評価を気にしすぎないことは、時に気にしすぎることと同じくらい自身の活動に悪影響を与えることもあるという教訓を学びたい。

 とにかくブロワモータが他人を気にしていなさそうなことだけは分かったので、あとでこれもよく調べる必要がありそうではある。

 浄化槽の清掃業者さんはとても親切で、何度となくこれまで取引のあった業者さんがあったのではないかとか、現在の登録者を確認する方法であるとか、実際に浄化槽が設定されかつ稼働しているか(浄化槽が設置されていても下水道が後付けされればその浄化槽は使われないことになるので)を確認する先などを細かに教えてくれた。

 相続という経緯や設備の有無や稼働の有無が不明瞭であることなどを適切に(かつ過剰なまでに丁寧な言葉遣いによって)説明することのできた僕の日本語能力が優れているからではないかと密かに思っている。また心の声がダダ漏れてしまった。

 

 しかしそもそも僕は浄化槽というものを持ったことがない。

 

 自分が所有権を持つ家を持ったことがないからで、浄化槽について調べて初めて管理者登録などが必要だという事実を知った。こんなもの相続ついでに手続きする人の方が少ない気がする。

 たまたま浄化槽の仕組みについて(損害保険の仕事をしていたときに事故処理のついでで)勉強する機会があったので、そこは助かったといえば助かったといえる。

 その気になれば自分で点検清掃するくらいもできるような気がしないでもないが、この上特殊な機材まで購入しかねない自分の節操のなさを考えると、それはやめておいた方がいいだろうと結論した。

 

 電話の合間に部屋の電源の増設工事を少しして ── といっても1つしかなかったコンセントを3つに増設し、そこから配線を2本、壁伝いに這わせて梁にタップを2つ設定するという荒技を行ったわけだけれど ── 本日の作業を終了した。

 旧来からコンセントの多くは床付近に設置され「配線が邪魔くさい問題」を引き起こしがちである。高い位置にコンセントがあると(特に150cm以上の身長のヒトには)便利だと僕は考えている。少なくとも僕は高い位置にある方が便利なので、ついつい柱や梁にスイッチタップなどを設置してしまう。

 

<いい加減、漆喰を塗ったときのマスキングを剥がしてはどうか。>

 

 久しぶりに休憩もなく8時間以上働いてしまったので、飲酒のため近所の焼肉店に外出した。近所に美味しいものを出す店があるというのは大変嬉しいことである。

 

 そして唐突だが最近、この曲をよく聴く。

 

 

 驚きの脱力感とその破壊力。

 人生なんてどうでもいいやぁ〜、という気持ちになる。痒いところに手が届かない名曲である。