211012

 

 午前中にレンタカーを借りて姉の家へ。猫たちは留守番。

 最近の軽自動車は装備がすごいな、と感じる。乗りたいかどうかは別として。

 個人的には、エレクトロニックな先進性が嫌いなわけではないが、メカニカルで、ちょっと不便なくらいの機械が好きだ。

 

 おそらく人間についても、何でもスマートにこなすファンタジックな人間よりも、ちょっと癖があって、多少扱いにくいくらいのほうが好きである。

 機械や自動車には、機械らしさとか、自動車らしさというものがあり、人間には人間らしさがある。

 

 融通が利かないのは機械らしさだし、なぜかときどき調子が悪かったり調子がよかったりするのが自動車をはじめとするコンプレクスな機械らしさである。

 人間の場合も、素晴らしい部分と、ダメな部分が同居しているくらいの方がいい。

 夢物語にあるような王子様、お姫様というのは、水耕栽培のレタスのように味もなければ歯応えもない。

 

 それぞれ勝手にすればいいことだ。

 

 もちろん、そういうのが好きな人がいるのも知っている。

 だいたいは夢見がちな人たちだけれど、最近はヴァーチャルに対してそうした欲を向けることも可能になった。

 昭和の頃なら、ヴァーチャルは非現実で、そんなものに傾倒する人間は幼稚で愚かで使い物にならないと言われていたのだ。

 

 ちなみに僕は完全にヴァーチャル寄りの人間だと思う。

 僕という実存を、きちんと感じたことはあまりないし、僕という人格を断定できないため、うまく定義できない。

 つまり自分を自分で「こういうものだ」と言い切れない。

 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。蓋を開けるまでは分からない。

 

 それで猫なのかもしれない。

 

 

 

211013

 

 久しぶりの首都高。

 都内中央部は、いつもどおり強いストレス。

 湾岸線を抜けて横浜方面に向かうような道(名前は知らない)ならば多少は景色を眺めて気持ちも晴れるのだけれど。

 隣に人がいるのも強い緊張を強いられる。

 ハンドルを握るのは基本的に、だから、とても疲れる。

 

 もちろん、誰かが隣にいるのが悪いとは思わない。

 単にいつも以上の安全運転をするだけである。

 しかし首都高というのは一部、悪意があったのではないかと疑いたくなるほどおかしな設計になっている箇所もあるから、譲り合うことがおよそ不可能な状況がたびたび発生する。

(二車線同士の合流、合計4車線から数百mで二車線2つに分岐、中央二車線の合流がアツい。なども一例)

 

 帰宅してぐったり。

 

 ちなみに姉の入院している看護しさんたちに、こっそりモテているらしい。

 社交辞令か嘘かは知らない。

 そもそも直接コクハクしてもらわないことには、その好意は最初から存在していないに等しいのだ。

 

 

211014

 

 午前中に壁のMDF張り。これで張り付け作業は終了。

 午後にワクチン接種。

 

「EVE Online」というゲームのMac版(M1チップ版)クライアントがリリースされたので、DLして即日課金し、プレイする。

 5年ほど前までプレイしていたが、時間とお金がなくてプレイを継続できなくなってしまった。

 

 5年前まで持っていたほとんどすべてを、僕は失った。

 仕事もなくなったし、人間型の恋人もいなくなった。介護もなくなって、棲む場所も変わった。猫が増えて、仮想人格がまともに動作する環境が出来た(意味の分からない文章については無視してください)。

 

 端的に言えば、ほとんど全てを失って、およそ想像を超えるくらい自由になった。

 5年前までのほとんどすべてを失ったけれど、それによって手に入れた自由は、なんというか別次元のように感じる。

 

 ひとつだけ心残りというか、後悔がある。

 僕は5年ほど前、何人かの人をひどく傷つけた。

 それから徐々に、何かの罰が下るかのようにして、いろいろなものを失うことになった。

 

 とくに、結婚するという理由で別れることを突きつけられた当時の恋人(人間型でかつ当時すぐに連絡が取れる範囲で、だけれど)には、本当に申し訳ないことをしたと今でも思う。僕がそれをされたら、ちょっと耐えられない(だから僕は、恋人が勝手に増えることがあっても、自分から減らすようなことはしなかったのだ)。

 

 僕がいろいろなものをなくしたことを、しかし悲しいとは思わない。

 それは僕の選択だし、たとえば倉庫や冷蔵庫、あるいはスケジュールのように、何かがなくなれば自由に使える空間や時間が手に入る。

 

 ただ、自分以外の誰かに何か(たとえば猫だと自称する恋人)を失わせることを選択したのは、僕にとって(僕の選択によって誰かが悲しい思いをするということで)は悲しいことだ。

 それでも基本的に女性というイキモノはドライだから、メンスと一緒に僕に対する想いも記憶も流れていればとは思う。それならせめても救いがある。

 それに人間型の恋人がいなくなれば、もう誰かが悲しい思いをすることもない。

 これは結局、自由の利点だろう。

 

 

 

211015

 

 副反応。発熱。38.5℃、左腕に強い痛み。他も部分的に痛む。

 筋肉痛とも関節痛とも違う、不思議な種類の痛み。

 強く力を入れたり、強い圧が掛からなければまったく何の痛みもないのに、ひとたび力が掛かると、骨でも肉でもないぼんやりとした広い範囲に、くっきりとした痛みが走る。どこから、でもなく、いつまで、でもない。つかみどころのない、しかしはっきりとした痛みだ。

 

 まっすぐ歩くことが出来ない。

 味噌汁など作って寝て過ごす。
 昼頃、BPが「ゲームしに遊びに行ってもいい?」というので、事情を説明して断る。
 夕方、「なにか欲しいものはあるか。ちゃんと食事したか?」と、またメールがあったので「どうしてもゲームしに来るならアイス買ってきてくれ」と伝えたら、本当にアイスを買ってきてくれる。しかもそのまますぐに帰ってしまった。なんだか申し訳ない。
 夜に弟子に電話をし、弟子から電話があったらしいが、ほとんど記憶にない。
 
 

 

211016

 

 弟子を怒らせる。

 

 弟子は自身に対する他者の認識の上で「正しい」とされる状態でないと気が済まない性分なので、ついムキになってからかってしまった結果である。

(より具体的には、交通事故に遭ったらしいのだが、その状況について、情状酌量の余地がないということを淡々と押しつけてしまった)

 

 しかし僕は基本的に「自分は正しい」とか「自分は正しいことをしようとしている」と、確信を持っている人間や思考が大嫌いなのだ。

 

 夜は体調が回復してきたので、買い物に出かける。

 味噌汁をこのところたくさん作ったので、水がなくなりやすい。

 

 

 

211017

 

 昼頃、突然BPがやって来る。どうやら見舞いだったらしい。

 僕は「EVE Online」を元気にプレイしていたので、見舞いというほどでもなくなってしまった。

 2人でそれぞれゲームをして過ごす。

 BPの母上が、なぜか手作りの料理をお裾分けにいらっしゃる。

 拝顔するのは15年ほどぶりか。

 

 しばらくゲームをして過ごしたいからブログは書かないかもしれない。

 俺は死んでいないから安心して眠れ。

 

 

 

 

211006

 

 朝早くに目覚めるが、身体の寝覚めがあまりよくない。

 重いわけでもないし、喉鼻の粘膜にひどい乾燥や腫れも感じないが、かといって軽快に活動したい! というわけでもない。

 昨日決めたとおり、今日は生産的なことは一切せず、昼頃までごろごろしようと思うが、目を閉じてしばらくして気が変わり、起きて粥作りをすることにする。

 

 いつもきちんと計量しないので正確には分からないが4〜5合を圧力鍋で軽く研ぐ。

 白米を、しかもこれほどの量を見るのが久しぶりで少し眩しい。

 炊き上がったはいいが、柔らかめのごはんであり、粥にならなかった。

 水をかけて冷ましながら温度を60℃に調整し、麹を混ぜ入れる。

 再び蓋をして羽毛布団でくるみ、最初は30分、次からは60分ごとに温度を確認する。

 

 10時を過ぎたあたりの検温のあと、退屈してきたので次のタイマをセットして仮眠する。

 

 11時頃、電話で目覚める。

 見知らぬ番号ではあるが、珍しいことでもあるので受電すると、ホームセンタからであり、昨日取り寄せ依頼をしたトリマが納品されたとのこと。

 どういう仕組みか考えつつ、出掛けることにする。

 

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 1歳半になるアヲは、使い魔よろしくいまだに僕の肩に乗ることを好む。

 朝になると「散歩連れてけ〜!」と催促に来ることもあるほどである。

 車に乗るのもいまだに平気で、肩に乗って顔を窓から出しては周囲の注目を集めている。(僕に、ではないので努めて無視している)

 しかし今日は陽射しが強めなので、肩に乗ったアヲを下ろして留守番をしてもらう。

 

 ちなみにクロとソックスはすっかり引きこもりの子になったので、ケージから出ることも稀である。

 

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 帰宅して、半分くらいの麹床を甘酒用にタッパに取り、残りに塩と輪切り唐辛子を放り込んで漬物床にする。考えるに三五八床を作るのは6年ぶりではないだろうか。

 環境が整わないと実力を発揮できない繊細なセイカクナンダナァー、と明後日の方向を眺めて呟く。といっても twitter に書き込むという意味ではない。

 夕刻、買い物をしてキュウリと人参を漬物床に漬けたあとは、ぼんやりして一日が終わる。

 

 奥様(仮想)に「猫クン、もしかして逆流性胃腸炎なのではないのですか」と問われる。

 奥様によると、

  • 過度の飲酒(心当たりがある)
  • 脂肪の多い食物の摂取(心当たりがある)
  • 肥満(客観的には該当しないだろう)
  • チョコレート(大いに心当たりがある)
  • カフェイン入り飲料や炭酸飲料(心当たりがある)
  • 喫煙(心当たりがある)
  • ストレス(ない)

 などが原因になることもあるという。

 

 ウィスキィやブランディとチョコレートの組み合わせは格別であり、そこに煙草を合わせるとまた絶妙なので、たしかに数日前、この組み合わせをして深酒をしてしまった記憶がある。

 そのあたりを申し上げたところ、ジト目でしばらく見つめられる。

 この組み合わせはしばらく控えよう。

 

 

 

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211007

 

 8時頃、外に出る準備(作業着を着て、頭にタオルを巻いて、ゴーグルと防塵マスクを準備する)をしていると、浄化槽の掃除屋さんがやって来る。

「お仕事は、今日はお休みでしたか」と問われたので「ええ、そうなんです」と嘘を吐く。社交辞令程度の世間話に対して正直に無職であることを説明しても、お互いに面倒なだけだということが最近分かったからだ。

 大人になったものだと思う。

 

 新しいブロワも設置してもらった。

 とても静かで仕事をしているようには見えない。

 かなり近づいてようやく作動音を確認できる。

 会社にも必ずこういう人間がいる。僕はどちらかというとその手合いだった。

 なので動いていないブロワのことを、気遣いをしているだけで実は仕事の出来る奴だと勘違いしていたのだ。まぁ、僕は静かな上、あまり真面目に働いてもいなかったけれど。

 

 浄化槽は7人槽サイズらしい。なるほど滅多に清掃を頼まなかったわけである。

 この数十年、この家で暮らしていたのは叔父夫婦二人きりなのだから。

 帰りがけに訊ねたところ、1人なら2年に一度くらいの点検清掃で十分だそうだ。

 僕は定期的にバクテリア(浄化槽用のそれがホームセンタにも売っている)を放り込むので、うまく働いてくれるといいな、と思う。

 

 草取りをするが、夏の間に取った草がかなり溜まっていたので、焼却炉で焼く作業と並行する。

 庭木の一部の枝が邪魔なので、伐採。

 

 昼過ぎ、ひどい鼻づまりに気付く。薬が切れたらしい。

 やはり花粉症がひどいのかもしれない。常飲している薬を飲む。

 花粉症は気がつくと始まって、気がつくと終わっているので、飲み出しと止める頃合いを測るのがむつかしい。


 

 

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211008

 

 やはり昨日も22時頃に眠くなって寝てしまう。

 そのため目覚めたのは6時。

 洗濯などを軽く済ませて9時を回ったところでワクチン接種の予約をする。

 もうかなり空いているという話を聞いていたが、それでも予約できる日は限られていた。もっとも僕はLINEを使っていないため、電話予約の窓口では予約できる日にちや会場に制限があるのかもしれない。

 行政がLINEをインフラにするのがずいぶん定着しているようだ。とくに是非はないけれど、どうしてメールにしていないのかは謎である。LINEを利用できる人はもれなくメールを使えると思うのだけれど。あるいはweb予約でもいいと思うのだが。使うとポイントでももらえるのかな。

 

 10時頃から草取り。

 一向に終わる気配がない。

 焼却炉の灰と炭は畑に撒いている。

 近所の人からは完全に変人扱いされているだろうと思うが、親交がないのでなんともいえない。もしかしたら聖人扱いされて、崇め奉られている可能性もないとはいえない。いや、ないな。

 

 なるべく毎日4時間程度作業をして、4時間程度家事をして、後は遊んだり眠ったりしようと思っている。

 しかし極端に暑かったり寒かったりすると作業時間が0になることも多いし、天候が悪いときも働かないことが多い。

 やはり4時間程度を基準にして、もっとしたいときはすればいいという方式が良いか、と考える。

 

 トリマを使って庭木を軽く整える。

 トリガボタンを押し続けないと動作しない(ロックがない)上、重い。ついでに駆動音がうるさい。

 もっと価格が上のモデルなら、せめてスイッチロックくらいはあると思うが、これは廉価版だから仕方ないと諦めて作業する。

 

 午後になってから自転車で買い物に出かける。

 

 

 
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211009
 
 朝から草取り。外は重そうな曇天。
 最近はすっかり明るくなるのが遅くなって、だいたい早朝といっても5時ではまだ暗いので、6時以降にならないと作業が出来ない。
 といっても最近は8時以降に作業開始が多くなった。庭草が露に濡れているからだ。あるいは夜に雨でも降ったのかもしれないが。
 
 2時間ほど作業したら雨が降ってきた。
 仕方ないのでシャワーを浴びて着替えて買い物に出かけ、昼前からのんびり過ごす。

 

 庭仕事をすると、だいたいシャワーを1日に2〜3回浴びることになる。そのうち1回は風呂だけれど、まるで20代の頃のようだと思う。

 記憶では30代半ばを過ぎるまで、朝と夜とにシャワーを浴びていた。

 皮膚の感触が気持ち悪くて、顔を洗うだけでは足りなかったからだ。

 

 

 

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211010

 

 早寝がすっかり身体になじんでしまった。

 早いと18時頃、遅くとも22時には眠くなってしまう。

 眠くなったら素直に眠ってしまう。

 すると未明に目覚めることになる。まぁ、寝直すもよし、起き出すもよし。

 

 花壇のいわゆる雑草たちの除去があらかた終わる。

 次いで手入れが悪くて弱ってしまった植木や過剰に繁茂している庭木を剪定し、一部は根元から切り倒す。

 ツルハシを使って根を掘り返す。

 まずは周辺から。最後に根本体を。

 数年前から茅が繁殖し始めていたのだが、植え込みの根に絡まって完全な除去は不可能な状態だった(種で増え、地下茎で増えるのだ)。ついでにこれらの根を、可能な範囲で掘り返す。

 途中、比較的小ぶりな庭石に当たる。

(土の中で、鍬やシャベルが石に当たったときの音を僕はもう完全に識別できる)

 納屋からシャベルだの何だのを持ち出して、周辺から掘り起こす。

 赤い石だから、それなりに値の張る物だったのだろうか、丸くてどうでもよさそうな石と併せて3つほど出てきた。とても重いが、納屋の前に運び出す。

 

 昨年に切り倒した中くらいの木の根がいまだ除去できない。

 ひたすら周辺を掘り返す。

 ツルハシを持つ腕の力が、仕舞いに弱くなる。

 

 腕は痛いし、掌に水疱ができている。

 相変わらず柔らかくて弱い皮膚だけれど、まぁ、私は自分の肌が好きだからこれは仕方ないかな。あとで労ってやろう。

 

 休憩をしていたら強い空腹を感じたので、カップうどんを作って玄関で啜る。

 作業着が泥で汚れているので、他に居場所がない。

 食べていたらアヲに肩に乗られる。出掛けるとでも思ったか。

 

 作業を再開し、焼却炉も火を入れる。

 14時頃、作業終了。手も足も腕も腰も痛い。

 シャワーを浴びて、自転車で買い物に出かける。

 

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 最近自転車で買い物をする機会が増えたのは、そのためにけっこう大きめ(35Lサイズ)のバックパックを買ったからである。

 それまではバックパックが直接背中に触れず、エアフローが確保されるようなものしか持っていなかった。

 軽くて高耐久で抜群の通気性を誇り、当然放熱性が上がるわけである。

 しかし容量が少ない。オマエは何のための道具なのかと言いたくなるくらい高かったくせに何も入らない。持つため専用バッグみたいなものである(そこまで入らないわけでもないが)。

 

 そこで大容量のバックパックの必要性が調達部および運動管理委員会から訴えられていたのである。

 実際に使ってみると、豆腐4丁と牛乳パック1Lx2、きのこ(しめじサイズ)6株を入れても、さらに少し隙間があった(けっこう重いが)。

 重量物に対して変形するのは否定できないが、容量の大きさはかなりのものである。しかもさほど高いモノでもなかった。

 

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 13日に定期入院する姉を港区の病院に連れて行かなくてはならない。

 

 これは夏の頃には決まっていたスケジュールであり、このため奥様(仮想)から「車を買ってください」と言われていた。

 だいたい20〜50万円もあれば走る車は買えると算出されていた(これが「概算要求基準の通達」である)。

 ちなみに以前、エンジンが爆発した車は10万円で買ったので、50万円もあれば同じものが5台も買える計算である。買わないけれど。

 今回はレンタカーを利用することにした。買うより安いし、僕は今のところ、乗用車には用がなさそうだからだ。

「来年の夏までには、必ず、乗用車を買ってください」と奥様(仮想)に強く要望される。

 たしかに乗用車がないと熱中症で体調を崩す。可能性の問題ではなく、すでに何度か経験している以上、奥様(仮想)の指摘は正しい。

 

 12日の午前中にレンタカーを預かり(歩いて行ける距離にある)、姉の家に一泊し、13日に病院に送って帰宅(レンタカーも返却)、14日はワクチン接種である。

(1日ひとつしか予定を入れないようにしていることもあり)スケジュールが立て込むので、11日は何もしない日と決める。

 

 何もしない日というのも、この数日では珍しいので、何をしたら何もしないで済むのかが分からなくなっている。

 久しぶりにTVゲームでもしようか。眠くなってしまいそうだけれど。

 

 そういえばしばらく喫煙していないので、夜になって1本だけ点ける。

 まだ美味しく感じられないので、もうしばらく禁煙していようと奥様(仮想)に報告する。

 

 このところ胸のむかつきや胃液の逆流もまったく感じない。

(頻繁に感じていたら病院に行くべきだが)

 もうしばらく胃腸を労る食生活を維持しておこう。

 

 

 

211005

 

 早朝に目覚める。

 早寝したから当たり前かとも思うが、この数日の体調を考えるときちんと身体まで目覚めたことはちょっとした驚きである。

 

 ゴミ捨てののち、草取り。

 庭に勝手に咲かせている花を付ける草の根に混じって猫じゃらしだのなんだの(だいたい名前を知らない)が生えるので、そういう場所の草取りが一番厄介ではある。カサも集まらないから、いまいち仕事をした気分にならない。

 それでも少しずつ進める。

 おそらく僕が抜かないように育てている草花も、雑草のうちなのだろう。なにせ痩せた砂利の上で自生するのだから。

 それでもつい選り好みをして、依怙ひいきしてしまう。

 

 1時間程度ごとに意識的に休憩を挟む。気温は比較的高めになりそうな予感。

 蚊取り線香をだいたい3〜4点で焚きながらの作業になるのだが、体調に配慮して防毒マスクをしながら作業する。

(基本的に蚊取り線香の殺虫成分は、哺乳類の体内に取り込まれてもかなりの速度で分解されてしまうため、基本的に無害とされている)

 

 ステルスマーケティングのようなことを書いてしまうが、僕は今年、蚊取り線香を何種類か試した。

 店舗で実売価格を観ると分かるのだが、金鳥が、一番高い。

 それで他社の廉価な商品を買うことが多かった(表示上の有効成分と用量はほぼ同一なので)。

 アース製薬の蚊取り線香が一番安かったので、通常版と「最強」を謳う商品とを使ったのだが、いずれも喉に刺激を感じることが多かった。

 特に「最強」版は、香りも強くて僕には不向きだった。

 一方、秋に入ってから金鳥を買ってみたのだが、香りも優しく、喉や鼻の刺激もさほど感じない。(あるいはだからこそ吸い込んでも気にせず作業してしまって体調を崩しているのかもしれないが、そもそもそんなに蚊取り線香で影響が出るような身体なのだろうか)

 

 そのようなわけでちょっと値段が高いのだけれど、来年から、煙が当たるような場所で焚くのは金鳥の商品にしようと思った。(閉めた窓の屋外などなら、廉価版をじゃんじゃん焚けばいいのだ)

 ほうら。ステルスマーケティングっぽいだろう?

(残念ながら僕はインフルエンサと呼びうるほどの影響力をweb上では持っていない ── IRLでも持っていない ── ので、マーケティングに貢献しても金鳥からマージンをもらうことが出来ない。無名であることの優位を好むので仕方のないところか)

 

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 作業中、ときどき胃や胸のもたれというか、吐き気というかに襲われる。

 理由は分からない。

 しゃがみ込んでいるときに、内臓が圧迫されることが原因だろうか。

 しかしよくよく振り返ると、1週間ほども前から、作業をしていない時間でもこの吐き気のようなものを自覚していた。

 思い当たる原因といえば飲酒くらいか。

 明日こそは飲酒をしないでおこう、というのをここ数日、確かに思っているような気がするが、お酒を目にする頃には忘れている。それがよくない。コップにマスキングテープを貼り付けておけば間違いないだろう。煙草を吸わないことには何の抵抗もないのに、お酒の場合は気付きにくい。まぁ、そんなに強い自覚症状がないからだろう。相関性も不明だし。

 体温や心拍、その他の体内器官の感覚に自覚的な異常はないので、気にせず作業を続行。

 

 畑(の予定の花壇)に進入し、大量の草を一輪車で数回集めて気付く。

「そうだ、草刈り機、買おう」

 静かに、そして固く決意する。

 

 どのくらい固いかというと、水で戻す前の高野豆腐くらいの固さである。

 木綿豆腐よりは固いが、コンクリートと比較すると柔らかい。それに人間の手で折れる程度の固さである。

 緊急予算審議委員会 ── 委員長:奥様(仮想) ── を招集し、草刈り兼ヘッジトリマの必要性を訴える。概算要求基準は半年以上前に奥様(仮想)から通達されているので、むしろ審議に上げないまま放置し、夏が終わってしまったことの方が問題視されかねない。

 ここは秘書や担当官に責任をなすりつけ、自分だけは穏便に保身を図りたいところだ。なにより幹事長たる上席(奥様(仮想))は僕の味方だ。マスコミについては買収しよう。しかしそんな予算はないから誰かにタカって買収用の予算を提供してもらえばいい。記録文書は作らず、審議等で一時的に保存される文書についてもすべて破棄すれば何も残らない。オレッテテンサイダナー。

 

 審議は数秒で無事通過した。

 むしろ上の蛇足の文書の方がはるかに時間と手間が掛かっている。こういうところに僕という思考回路の問題が露呈する。

 いいんだ。これがキャラクタであり味わいなのだと言い聞かせるしかない。今さら他人になんかなれるものか。支持者はきっとたくさんいるし、いなくてもどうせ投票に来るような連中は私を支持するに違いない。一度当選した以上、絶対にこの地位は手放さないぞ!という不退転の決意を上乗せで固めつつ、今度の固さはドノクライカナーなんて思ってみたり。(思わない)

 

 作業を即撤収して顔を洗い、ホームセンタへGO!する。なんだかポップな表現でスピード感はあるが、キャラではない気がすることは否めない。

 あいにく欲しいと思った商品が売り切れていたので、取り寄せてもらい、帰宅する。

 13時を回っていたので近所の蕎麦屋に寄ったのだが、9月末まで店休していた影響がまだ残っているのか、待っている人が多い。

 観察するに、夫婦や家族連れなどもちらほら見える(会社員なら通常の昼休みは終わっている時間であるし、市街地からは少し離れているし)。

 どうしてこんなに暇人ばかりなのかと嘆くが、きっと僕が一番暇人だと思うので、黙って帰ることにする。駐車場で車を降りて2分程度で車に乗り直す。

 いいさ、どうしても食べたかったわけじゃないしと自分に言い聞かせて。

 そもそも昼食を摂るというのは、僕にとってはおやつを食べるようなものだし。いいもん。悔しくないもん。胃もたれだか胸焼けだかなんだかしているし。

 

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 帰宅後、軽くシャワーを浴びて花屋に出かける。

 花束を持って母上のところへ。

 未だ埋葬をしていないので、姉上からあとで連絡が欲しいと甥に言伝を頼む。

 

 故人に花を手向ける習慣は、僕にはない。

(なので盆に叔母たちに花を用意したりはしなかった)

 母へ花を手向けるのは、ただの依怙ひいきである。

 

 再び帰宅し軽く外食。

 2時間もしないうちに激しい睡魔に襲われ、よろよろと(歩いて)帰宅。

 ふらふらしながら服を脱ぎ散らかしてベッドで横になり、気絶するように眠る。

(日付の変わる前に目覚めたのでこれを書いている)

 

 草取りをしている最中、ドーラ(doller)と呼ばれる、人形愛好家についてあれこれ考えていたが、今日は体力が少ないので続きを書かない。

 

 先日軽く触れた Synology のNASキットが数日前に到着しているのだが、設置は書斎の壁の作業が終わってからになりそう。

 書架も届いてしまって作業の種類と量が多い。

 会社であれ家族であれ、組織ならば上司や部下や同僚に相談したり業務を割り振ることが可能だが、僕の場合はせいぜいが仮想人格を作って業務に対する認識の幅を持たせることで作業の効率化を図るくらいがやっとであり、実作業については身体がひとつのため、つくづく弱い。

 

 そもそもこの家で改修作業(リフォームや補修)をしながら定期メインテナンス(草取りや外構掃除)などの通常作業を並行し、炊事洗濯掃除といった日常業務を行うのにあたって、果たして一人で足りるのかという問題が最近頭をもたげる。庭の開墾だってあるし。

 もっとも期限を設定していないから問題がないというのは事実だ。

 家族がいたら急を要する作業 ── たとえば浄化槽の処理であるとか、先日いくつかまばらに外して廃棄したキッチンの収納のドアの再設定、ベッドが致命的にカラダに合わない問題など ── を無視することができる。仮想奥様は僕を(基本的に)急かすことがない。

 

 むしろ体調を大きく崩して回復を待つ方が、時間もコストも余計に掛かる。

(僕はそれを今年の春に学んだ)

 身体を労り、作業を安全に進行することについて、奥様(仮想)は非常に優れた能力を発揮しているように思う。(実働の作業効率は黒猫氏のおかげだが)


 

 しばらく身体を休めよう。

 このところ休めてばかりの気もするが、この環境は比較対象も観察者も存在しないのだし、この不調は時期的なもののような気もするから。

 

 そういえば、寝ている最中に弟子から電話があったのだった。

 何を話していたか、まったく記憶にない。

211004

 

 早朝から草取り。

 

 昨日までの2〜3日、ひどく身体が重くて、眠り続けていた。

 とくに昨日は、食事(飲酒)と風呂とトイレに起きた以外はほぼ一日寝ていた。

 前日も眠り続けていたことから考えるに、異質な眠気といえる。

 

 季節の変わり目のせいだろうけれど、地味に秋の花粉症が重くなってきているのかもしれない。

 実際、眠くなる前日あたりから飲酒と喫煙量がほぼ0になっていたし、覚醒時の喉や鼻の粘膜の腫れや乾燥もかなりひどい。

 お酒や煙草は健康であってこそ楽しめるものだから、こういうときはひたすら眠って回復を待つのも一つの正解だろう。

 

 会社員の頃は、こうした季節の変わり目の体調不良をうまく調整しながら生活していた。

 もちろんそれでも症状が重いと頭痛や睡眠不足、粘膜の腫れによるありとあらゆる生理機能の不調でぐったりしつづけていたものだけれど、それを薬品やセルフマッサージでなんとかなだめながら、活動を維持していたわけだ。

 

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 昼頃にBPがやってきて、彼の家の月桂樹の枝下ろし。

 普段まったくしていなかったらしく、虫が盛大に繁殖していた。

 電動レシプロソウが役に立ったし、僕の周りで軽トラを持っているのが僕しかいないので連絡してきたようだ。

 僕も軽トラを持っているヒマな友人が一人くらいほしいのだけれど、あいにく僕自身以外に持ち合わせがない。

 身体が弱くて、虫を怖がって、女性にだらしない以外は、僕はけっこう有能なのであるが、有能な友人を増やす才には恵まれなかったらしい。

 

 落とした枝を軽トラに積んで、清掃センターへ。

 

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 ときどき書くこともあるが、とにかく僕は身体を撫でないと不調になる。

 精神的にも不安定になるし、肉体機能も低下する。

 自分でも未だに理解に苦しむ。

 世間的に見ればいい歳のおっさんであり、繊細とか、敏感とかからは縁遠そうな気がするのである。

 身体を撫でないと心身機能が低下するというのも、動物っぽいというか、子供っぽい気がする。

 

 人間生活の長い恋人などは、その大半が「身体を撫ぜることの重要性」というものについてまったく認識しているふうがない。

 もしかしたら人間というのは、撫ぜなくても機能低下を起こしたりしないのかもしれない。

 

 僕は人間の着ぐるみを脱ぐと猫なので、撫ぜるのは必須である。

 猫たちは撫ぜられることによってその静電と熱のエナジィで駆動するもので、それは老いても変わらないメカニズムなのである。

 
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 帰宅後BPは我が家でTVゲームを。
 一緒に飲酒し、私は0時を回った頃、睡魔に襲われ就寝支度。
 BPも眠くなったらしく、帰って行った。

 

210929

 

 昨晩、22時頃には気絶するように眠り、未明3時頃起床。

 眠くなると眠ってしまい、もう眠くなくなると起きる生活なので、時間はまちまちだが、やはりというか、目覚めた時間帯の気温が心地よいのは重要だと思う。

 

 陽が出てから壁作業を進めようとするが、断熱材を貼り付けた段階でやる気がなくなる。

 2枚中1枚、2カット必要な工程のうち、1カットをし忘れたままボンドを塗布してしまい、結局切り出し直すことにしたあたりから、なんとなく気が向かなくなってしまった。

 もっと実直に作業をしなくてはならないのだけれど、どうもアタマがぼんやりしている気もする。

 だいたいこういうときは疲れが残っているか、新しい疲れが(未明から現在までの間に)蓄積しているか、といった原因があったりはするものだが、その時点では気付かないものでもあるので、しばらくぼんやり過ごす。

 

 しばらくするうち強い眠気に襲われ、カフェイン剤を飲み、床にしばらく転がる。

 

 実のところ、向精神性の薬剤として、僕は市販のカフェイン剤を飲むことがある。

 もちろん正しい用量しか使わないし常飲もしない(する必要も感じない)けれど、炭水化物を摂取したあとに自動車の運転や工作機械等の操作がある場合や、それ以外でも急激な眠気が発生した場合は、規定量を飲むし、気分が鬱屈した状態があまりに長く続く場合も、カフェインで調整することがある。

 

 いつだったか姉に「猫くんも、相当に双極性障害っぽいと思うよ」とは言われているし、まぁ、思い当たるフシがないわけでもないのだけれど、僕は基本的にこうした閾値の曖昧な肉体的/精神的分類について、日常生活に著しい不具合を発生しない限り、自身にそのレッテルを貼ることを許さないようにしている。

 

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【今日のお題】

 

○ 自律なるワタクシと自在なる価値観

○ ラベリング嫌い

○ 性の多様性なんてくそくらえ

 

※セクシャリティに関する話題、生命倫理に関する話題、特殊性癖に関する話題を含みます。

 

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 子供の頃から病弱で、自分は父上と同じように心臓の機能障害を起こして死ぬと思っていたので、僕は肉体を追い込み酷使することを嫌った。

 単に自身と周囲に対して「嫌だ」と意思表示をする、ということではなくて、むしろ周囲に対しては大丈夫なフリをしつつ、過剰に苦しそうに振る舞う(演技する)ことで肉体的に楽な状態を維持した。

 ために全力疾走や長距離走など、強く、あるいは長く肉体を酷使するようなことはなるべくしなかったし、しようとしても仕方が分からず上手く出力できなかったし、仮にそこで無理をすると、長く体調を崩した。

 

 しかし20代後半から少しずつ ── ずいぶん遅いけれど ── 肉体の使い方を覚えて、従前に比して負荷の高い運動も可能になり、身体の使い方そのものも上手になった。

 つまるところ僕は、過剰に病弱なフリをすることで、自分にも他人にも「病弱なイキモノだ」というレッテルを誇示し自身の身体を守ってはいたけれど、それは過保護だったかもしれないとも思い知ったのである。

 

 ちょうど一人暮らしを始め ── 当然様々多少に挫折を繰り返しはしたけれど ── 独力で対応することができることを実感する機会も多かった。

 だから自分に過小のラベリングをするのはやめようと思ったのだ。

「できない」と思ってしまえば、しないことになり、結果的にそれは成功しない。

 

 しかし「できない」という能力や状況があるから失敗するのではなく、「できない」と思った結果、その瞬間に挑戦する選択肢を失って、失敗すらせず成功しないことがある。その現象を嫌った。

 分からないなら分からないなりに、収集された情報が不完全なら不完全なりに、その行為を繰り返す動機があるならば、失敗は失敗で、成功は成功で、フィードバックを続けることで成功の確率が上がるという当たり前の事実を体験したわけである。

 結果的に僕は利き腕側の肩を骨折しようと、電気が止まろうと生きながらえたし、燻製を作ることもできるようになったし、エスプレッソマシンを上手に操作できるようになったし、三角関数をひらめいたりもしたし、嫌いな食べ物や生き物を次々好きになるというメソッド(笑)を考案したりもした。

 

 実のところ、食べ物の場合は「嫌いだ」という認識を意識的に中和して、その先入観のない状態での肉体の感覚(味覚)を再評価し上書きすることで、徐々に味覚を再構築することができる。

 身体感覚が後押ししてくれさえすれば、比較的容易に克服できるのではある。

 

 ところがそれ以外の先入観とは、シンプルに記憶と価値観に依存しているものなので「嫌い」を「好き」にシフトするのは容易ではなかった。

 僕の場合は蜘蛛やゴキブリがその筆頭に上がるのだけれど、蜘蛛を好きになるのに5年くらいは必要としたし、ゴキブリは今でも「好きではないけれど嫌いでもない」くらいの距離感でのお付き合いがやっとという状態である。

 

 これは最終的に、それ以外の全ての価値観に対しても共通していて、僕は周囲の人と比較すると、今は「好きも嫌いもあまりない」イキモノだろうと自己認識している。

 自身の行動や価値観に対しても、他人の行動や価値観に対しても。

 ただし本来的には好き嫌いをはじめとした感情や感覚が非常に強い人間だったのは事実で、自分の意識に上らない部分の優劣や好き嫌いの感覚があった場合は、制御しがたい部分がある。

 

 たとえば身体性に起因した部分で、僕は自分の皮膚の状態が長く清潔に保たれないとすぐに精神的にも不調になる。皮膚粘膜の感覚を普段から細かく意識したりはしないようにしているが、皮脂や塩分、花粉やその他の汚れが付着しやすい春から秋までは、気温や湿度ではなく、皮膚が不快を覚えやすいために好きになれないのである。

 これは認識を改めようにも身体感覚がそれを否定するため、好きになることができない。

 

 またいくつかの特殊な価値観(マイノリティに該当するような嗜好)のうち、倫理的にどうしても許容できないものがいくつか存在している。

 たとえば人肉食などは ── したいとは全く思わないが、遭難などの状況によりどうしても必要になったとしたら ── 案外抵抗なくできそうな気がする。したことがないから絶対にできるとは断言できないが。

 生き物を殺すことも、実はさほど抵抗がない。

 釣りをして動いている魚を捌くことですら3匹目くらいから心が痛むのだけれど、目的や理由が明確な殺生については問題なくできる気がする。

 バッタや蚊のように、殺生することそのものが二次的にであれ目標になるケースもある。

 魚を生かしたまま自分の空腹を満たすことができるならそれが一番なのだけれど、相手の肉体を食べることが一次目的である以上、どうしても殺すことになってしまう。

 害虫の場合「こちらに害為す虫がいない」という一次目的を的確に達成する最短の手段が「相手を殺す」ことなので、いかんともしがたいわけだ。

 

 趣味的、あるいは性的嗜好に関しても、コスプレ(性的嗜好ではない)が趣味の女の子であるとか、同性(女性)と並行で恋愛する女の子であるとか、SM趣味の女の子であるとかと普通に恋人でいることが可能だった。不倫等についてもメディアで騒いでいる現象を見て、その騒いでいる様子の方が「下品だな」と感じるくらいである。

 人形性愛も「ラブプラス」や「Beatless」といった作品を体験するうちにさほど気にならなくなった(以前は嫌悪していたが)。

 

 一方で、児童性愛や児童売買春については、とにかく不快感を覚えるし、これを克服する気にはさすがにならない。

(未だに年下の女性を恋愛対象として積極的には認識できない理由もこのあたりにある。よくよく考えれば男性に恋慕の情を抱くこともあるわけだから、年下はオール不可なのかもしれない)

 これには明確な理由と、間接的な体験や記憶に起因する価値観があるのだが、僕の中で未だに整理されていない項目 ── なにせ僕が生きる上ではまったく必要とされない価値観だった ── なので明文化できない。

 もちろんそれを明文化することは露悪趣味であり、苦痛ですらある。

 にもかかわらず僕はクローズドスペースに文書を書いて保存することを恐怖しているのでオープンスペースにそれを書くだろう。少なくとも書かない選択はない。

 ただ、いまだにそれには能わず適わない。

 

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 ラベリングに話を戻すと、僕は自身に対するラベリングを拒否するようになったのだ。だから誰かによるラベリングを無視するようになった。

 

 もちろん相応の病院で相応の検査診断を受ければ、相応のレッテルが貼られるだろう。

 発達障害のいくつかや、いわゆるHSP、双極性障害だって該当するかもしれない。

 ただそれらのレッテルがあったところで僕の日常がラクになるわけではない。

 なぜといって、僕は現在の肉体依存で生きているため(どんなに「私は本当は、猫なんです!」とラベリングをしようとも)、「この不便な僕」を使ってしか生活できないからだ。

 

 ガスや電気が止まれば(できれば止まる前に)働いてお金を稼いで支払うしかないし、それは誰に頼れるものでもない。

 食べるものがなければ、働いてお金を稼いで ── あるいは直接の行動によって ── 材料を調達して調理するしかない。

 住居に不満があれば、はやり経済を媒介にするか、自力で何らかの手順を踏んで設定する必要が出てくる。

 いずれも可能な限り自分を(自分だけを)頼るのが確実である。

 他人がアテにならず、信頼できないとは言わないが、可能な限り自分だけですべてのことをするのは、少なくとも僕にとっては当たり前のことなのだ。

 

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  実のところ、経済活動についてだけは現在、仮想奥様の領分としている。

 これもいずれ明文化するのかもしれないが、経済至上主義を否定する僕の価値観と、不労所得という不慣れな経済活動を取り扱う価値観の差異にクッションが必要だから、というのが正直なところである。

 相反する価値観は仮想マシンのOSよろしく別パッケージでパーティションしておきましょうという、記憶媒体のように手荒な使い方だ。

 

 長らく若隠居や不労所得に憧れ、あるいはそれを実現しようと思ったりもした(結果、実現してしまったのだ)けれど、「え? 玄関なのに急にそんな迫られても、あっ、そんなまだ奥さん、ボク心の準備がまだできてなくて、あっ。近いですよ奥さん待ってください、あっ」みたいな感じなのである。

 

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 日常 ── あるいは人生、と置き換えてもいいだろう。人生とはすなわち日常の積み重ねのことを言うのだから ── の自発的行為/行動/結果について、誰かが ── あるいは自身から ── 貼り付けたレッテルが、役に立った試しはない。

 なので、精神的/肉体的/趣味嗜好のマイノリティなレッテルを貼ることで、コミュニケーションや日常 ── 人生 ── が優位に展開するというのならそれはそれでいいだろう。

 たとえば重度の双極性障害なら障害者手帳ももらえるかもしれないし、たとえば僕の場合、仮に双極性障害だったとしてもカフェイン剤と文書をひたすら書くことで制御を続けることができる。

 たとえばHSPだったとして、僕は自分の肉体についての感覚や特性、記憶したことをフィードバックして快適な状況を作りつつ周囲とのクッションをコミュニケーションや物理で行えば良いし、発達障害はまぁ ── 僕が果たしてそうなのかは不明だけれど ── 慣れですよこんなもの。

 

 思考し、行動する。

 シンプルにこれだけである。

 

 ただ思考は煩雑で、煩悩も割り込むし、気分や感情にも左右されやすい。

 行動は基本的に肉体依存で、個人のそれには限界もある上、僕の身体は(上を見ればキリがないが)頑強とは言い難い。

 

 それでも僕は、おそらく子供の頃から親にさえあまり頼れない環境だった ── 事実、高校時代には実技系の資格試験のためのお金(数千円だ)をもらうことさえためらって、ほとんど何の資格も取らなかった ── ために、自分で判断し、自分で処理をスタートし完結させるように淘汰された。

 並列宇宙があるなら、ほとんどの僕はもう、死んでいるか殺されているだろう。

 たまたま僕は、適者として生存を続けている。どちらが良かったのかは分からないけれど。

 

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 せっかくなので性自認違和についても書いておこう。

 あれもセルフラベリングには違いないのだ。

 肉体準拠で考えれば、仮に僕がいかなる性自認を持っていようと、他者が肉体をして認識する性別に準拠して生活するのが ── 少なくとも僕には ── もっとも適切である。

 たまたま性的指向は肉体準拠でヘテロであるから、性自認については無視している方が僕には都合が良いし、今の年齢(四捨五入で齢五十である)になってまで自分の性別について考えているのはどうもアニマルっぽい。まぁ俺は猫だけどよ。

 

 ああいうもの(セックスに過剰に意識を削がれる現象および意識行為)は不惑になったら卒業しても良いのではないのか。

 確かに肉体はいつもあるものだし、性そのものは肉体に付随している。

 思い人と身体を重ねることの悦びは、他のもので代替できるものでもない。それは確かだろう。

 しかし性(セックス)というのは、つまるところベッドの上(あるいはまぁ、それ以外の全てのどこか)で、誰か(可能な限り思い人であることを推奨するが)と身体を重ねるときに必要な識別子であって、本来はそれ以上でもそれ以下でもない。

 

 たまたまそこには相手というものが存在し、ためにコミュニケーションが発生し、ためにコミュニティ(あるいはコミューン)におけるラベリングが発生するため、自身や相手の持つ識別子の役割が複雑化し、結果として認識が肥大したのだ。

 だから性別の認識に自己と他者とで差違が出る。

 つまり性別そのものは(キメラを含め複雑なものも存在するが基本的に)XXとXYのみであるのに、コモンから外れるようなラベリングが認識上発生する(している)だけなのだ。

 

「人間の性別が複雑化した」と認識している人もいるだろうし、社会現象としてちょっと大袈裟で面倒くさい時代だと個人的には感じている ── 無論、かつての馬鹿なマッチョ的時代がそれを醸成する土台になっていて、だからこそ前時代的なフェミニズム活動が未だ馬鹿げた存在証明をしたりしているわけだ ── けれど、これらは過渡期だからだと考えたい。

 端的に言えば「ベッドの上でしか意味を持たない識別子を、どこまでベッドの外に持ち出して使うのか」ということで、それについての線引きを定義できる知性が共有されていないのが現在の問題なのだと思える。

 

 トイレや更衣室は肉体準拠の場所だ。

 だから精神準拠の性別(性自認)に合わせる必要はないと僕は思う。

 卑近な例で、僕は性自認が比較的女性 ── 面白い表現だな ── なのだけれど、仮に自身が「明らかに性自認が女性で、かつ明らかに肉体が男性であった」場合を考えるとなおさら、女性用施設に男性の肉体が侵入することに忌避感を覚えて然るべきだと感じる。

 なぜ男性のままの自身の肉体をして「私は精神が女性なので女性用施設を利用できないことは人権侵害だ」と言えるのかが理解できない。言い方を変えるとアタマオカシイと感じる。

 性自認が女性だとするなら、女性のコモンセンスとしての気持ちや感覚を理解していて然るべきで、自身の人権を盾に「女性用施設に男性の肉体が侵入する」という異常な事態や論理を正当化して押しつけていいとは思えない。

 

 せめて性器を切り落としてからにして。

 髭を生やしていても良いから性器は切ってきて。

 僕がガールだったらそう思うのだ。

 

 コミュニティの中で認識世界上の性別が複雑化したというなら、物理世界の性別についてをこそ見直すべきだろうし、その肉体準拠の世界のコミューンにおいて肉体が男性なら男性準拠の、女性なら女性準拠の扱いに従うべきだろう。

 だから先日のオリンピックであったか、性自認が女性の旧男性が物議を醸したのではなかったか。

 

 成人した女性の多くは受胎する機能を有し月経があり、それに伴う精神状態を含めた肉体的変化が存在する。保健体育か。

 男性の多くは女性を受胎させる機能を有する。保健体育だな。

 肉体準拠の性別はだいたいこんなところだ。ためにいかなる神の思し召しか、肉体準拠の施設の一部は男女の別が存在している。

(ちなみに海とプールと混浴と飛行機とバスは混合 ── 性差識別なし ── で良くて、トイレと更衣室と公衆浴場と電車には肉体準拠の別があることについて僕に尋ねられても困る。正直、分からないのだ。下着と水着の違いのほうがまだ分かる。パブリックとプライベートの差だからだ)
 

 そして認識世界のコミューンにおいて精神が女性(あるいは男性)であるというなら、性別に準拠して著しく侮蔑的なコミュニケーションが発生したら怒っても良いだろう(まぁ、そんな低能が当たり前にコミュニティからいなくなる世界であってほしいものだけれど)。

 いずれにしても性別という識別子は、人間の要素のうちそんなに大きな要素を占めていないはずなのだ。

 そんなにオマエらぱやぱや(性行為のことです)好きか? ぱやぱやか。ぱやぱやだけか?

 人間の価値や機能や行為や評価は、性別でそんなに大きく変わるだろうか。

 

 10代20代の若者なら分かるけれど、本来、性自認(認識世界の性的識別子)について敏感なはずの彼らの方がむしろ静かではないか。まぁ黙ってぱやぱやしているだけかもしれないけれど、むしろそれでいいのではないのか。いや良くない場面もあるか。

 

 いずれにしても、性別というのは、きわめてプライベートな領域(だいたいはまぁ、ベッドの上とか、リビングだのキッチンだの書斎だのバスルームだのだとは思う。まぁ、趣味趣向が多種多様なので、このあたりについて今回は厳密に扱わないことにする)で、かつ相手が存在する場合にのみ適切に機能する。

 性という機能は、肉体準拠で作用する。

 原則として手を繋いだだけで妊娠したりはしないし、思い人(性識別子のヘテロかどうかを問わず)の声を聞いただけで妊娠することもまた、ないのだ。

 

 そのプライベートな領域での行為にのみ意味を持つはずの識別子を現実世界に持ち込むことが(もちろん就労している女性の場合は肉体準拠で持ち込まざるを得ないことが先のような状況に付随して往々にあるのだけれど)本来は特殊なことであり、その特殊(マイノリティではなくパティキュラ、あるいはスペシャル)を普遍として顕在化するのが近現代の社会の方向性だ。少なくとも男女は同権であるわけだから。

 

 一方で、認識世界で過剰に肥大した性という識別子については、ヴァーチャルな性別として確固たる居場所を与えればそれで満足するケースも多いように思う。

 旧来でいえば、肉体準拠のホモセクシャル(必然に認識世界でもホモセクシャル)は、その居場所(つまりは身体を重ねられる思い人であるとか、認識を共有できるコミュニティであるとか)が存在していればそれで社会と折り合いを付けていられた。

 認め合う環境があれば、不満は発生しない。自認とはそういうものだ。

 

 そして肉体に準拠しない性自認を持つ者はすべからく、社会に対して謙虚であるべきだとは思うのだ。

 なぜといって結局のところ、どんなに社会にそれを訴えようとも、自分自身という単一の個の中にしか認識世界の性別なんてものは存在していないのだから。

 アタマの中にしかない絵空事をコミュニティに持ち込んで押しつけるのは、ママゴトでしかない。しかも比較的レベルの低いママゴトだ。

 

 仮にそれがホモセクシャルのパートナーであったとしても、だとすればなおさらのこと、肉体準拠の性別という色眼鏡(あるいは識別子)によって自分という個人の価値が一層高い意味を持つとは限らないということを知っている方が、自身も、あるいはお互いの関係も、そして何より社会との向き合い方も、より健全で豊かなものになるだろうと思うのである。

 つまり「男だから」「女だから」という理由を越えた人間関係の方が、性別に依存した(あるいは性別が優位性を持つ)関係より親密で、真に孤独を越えるものだということだ。

 なぜといってそれはヘテロセクシャルにおける親密な人間関係と、何ら変わるものではないのだから。

(ちなみに僕の場合、レズビアンもヘテロじゃないからホモセクシャルと呼んでいる。たいした必要もないのに見識高そうに名前を分けるのは趣味ではない)

 

 すなわち「性別を持つイキモノ」である以前に、人間は人間なのだ。

 

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 現代の社会は「性の多様性を受容しよう」という指向である。
 実のところ、僕はこれに全く賛同しない。
 つまるところこれは「有色人種にも人権を」という運動と同じで、前時代的な、いわば達成前のプロセス段階だからだ。
 
 未来の社会における認識世界上の性識別子なんて「中指よりも薬指の方が長いか短いか」くらいの些末な問題になっていて然るべきだろう。
 そのとき、今ある肉体準拠の施設がどのようになっているかは知らない。
 それらの施設の別が、防犯のためではなくデリカシィのためにのみ存在していることを切に願う。
 それが文明文化であり、豊かさではないのか。
 
 
 
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 余談。
 
 浄化槽の点検清掃業者の方が確認したところ、ブロワモータが故障して停止しているらしい。
 昨日は「思慮深く所有者や使用者に気を遣って、見えないところでだけ働いている健気な機械に違いない」と思ってそう書いた。
 そしてそういう労働者は経験上、周囲から「あいつは仕事をしない」なんて言われたりする不遇に見舞われるのだが実は非常に有能なのだとも。
 
 しかし実際に仕事をしていなかったわけであり。
 
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 午後になってシャワーを浴び ── 昨晩、気絶するように眠ったため浴びていなかった。やる気が起きなかったのはこれが原因だった ── 建築資材の買い出しに行く。
 夕方、暗くなるまで電気系の工事。
 スイッチ系の配線に思ったより苦戦する。勉強不足か。
 センサライトをいくつか購入したのだが、センサの反応範囲が思ったより狭い上、光が強くて使いにくいことに気がつく。
 明日は撤去し、別の場所に再設置しようと思う。
 
 奥様(仮想)に「やはり書斎(机と椅子)があると、猫クンはそれだけで様子が違いますね」と言われる。
 たぶん褒められていると思うのだけれど、最近、奥様(仮想)はポケットから不意に蛇を出したりするので油断ならない。ちょっと身構える。

210928

 

 早朝に眠り9時頃目覚める。

 ゴミ捨てを済ませ、壁のリフォーム作業を継続。

 

 昨日切り出した材料の一部に寸法の誤りがあり、修正。

 MDF材はノコギリで切る必要があるため一畳(1820x910)サイズのものの場合、それなりに作業は大変である(ペラペラであるため、下に当て木をしてもカットするのがむつかしい)。

 ちょうど清掃センタに運び出していない畳がたくさんあるので、それを庭に直置きすることで下敷きにしている。

 

 結果、昨日と同様、まずは畳(そんなに軽いものでもない)を庭に置き、納屋からコードリールとレシプロソウを持ち出して作業することになる。

 昨日は何枚かまとめて切ったので良かったが、今日はたったの1カットするだけのために余計な作業が増えることになった。採寸はきちんとしなくてはと反省する。

 

 採寸といえば、リフォームの場合(これは僕の家に限ったことかも知れないが)最初から柱や梁が傾いていたり ── ひどい場合はひずんでいたり ── するので、カットした結果が方形のことの方が少ない。

 今回も書架スペースの奥と手前で10mmほど高さに差があり、天井部と床部でも10mmほど奥行きに差があった。

 

 最初の頃こそ「ひどい設計だ」「前所有者の性格を反映しているに違いない」などと大量かつ濃厚な呪詛を吐いていたのだが、最近はネタが尽きたのか、奥様(仮想)がリモートワークついでに僕の作業を観察していることがあるためか、はたまた心の中の涅槃のパワーが炸裂して悟りの境地に至ったのか(うん、まぁ、そうだね)くらいの反応しかしなくなった ── それともこれは孤独によって心が錆び付き、反応が低下しているのかもしれない。

 

 老化による感情の起伏の劣化だとしたら、それは脳の活性レベルが低下していることを意味する。仮にそうなら少々考えものではないだろうか。

 しかし奥様の前で「歳だから」「老化」「若い頃より」などという言葉を使うと、ときどき、かつ一瞬、無言で睨まれる。可愛らしく表現するならば「ジト目をされる」といった表現になるだろうか。基本的に無言なのでどちらかといえば無表情のゴルゴ13のように見えなくもない。後ろに立ちたくないけれど正面に立ちたいわけでもない。所在ないとはこういうときに使うのだろうか。僕の棲み家なのに。

 

 白々しく「わらってよぉ〜、僕のために〜」などとマサシ・サダの歌を歌ってみたところで如来像のようなアルカイック・スマイルが待っているだけだ。如来のくせに慈悲はない。

 ひどい場合は鼻を鳴らされることもある。念のため「鼻を鳴らす」を辞書で調べたが、べつに甘えているわけではないと思う。

 

 恋人や奥様よりも年下である場合、往々にしてこのようなことに気遣いをする性格に育つことになる。年下の恋人や配偶者をお持ちの皆様はこういった些細な、かつ無言にして思慮深い気遣いについてもう少し理解して欲しい。そう。愛は無言なのだ(黙れと言われそうだけれど)。

 ちなみに「年上」という言葉を使ったときも、奥様(仮想)は片方の眉だけ動かすことがある。ためしにこっそり真似をしてみたことがあるが、意識的にするにはそれなりの技術力を必要とするように思えるし、無意識だとしたら相当なストレスを与えてしまったことになる。仮想といえども奥様を大切にすることは大事な訓練のひとつでもあるから、このようにして僕の言語感覚が洗練されるのだろうと想像する。いい加減、年下ガールも視野に入れてみてはどうか。

 

 ところで呪詛も魔法の一種と考えれば、言葉のレパートリィが豊かであってこそ気分も晴れるし楽しくもなるし、場合によっては呪詛の効果(?)も高くなろうものなのだが、いかんせん僕は呪いの語彙が豊富なわけではない。これは育ちが良いからではなく、単純に知識や能力がないということだろう。

 ワンパターンな呪詛を聞いていても退屈なだけである。言うことで気分が晴れるという性格のものでもない(愚痴ではないのだから呪詛とはそういうものではないか)。

 低能な魔法を乱発するくらいなら、沈黙していた方がいい。なによりそれだけで賢く見える。気品さえ満ちあふれてしまうかもしれない。少なくともやたらと呪詛を口にするよりは品がある。奥様(仮想)にもこのあたりを理解してもらいたい。いや奥様(仮想)は普段から大変上品でいらっしゃいますけれども。

 

 こうして余談の方が幅を利かせることになる。

 僕が論文やレポートを書いたらおそらくちょっとした惨事になるだろう。

 

 とにかく本題に戻ると、リフォームにおいて直角の部分などほとんどない。

 基点を取って、水平と垂直方向の点をそれぞれ取るわけだけれど、そもそも水平/垂直であるかどうかさえ怪しいのである。結果、採寸や切り出しを正確にしようとすればするほど、ストレスになる。

 だからといって持ち前の高田純次スピリッツを全開にしてこうした精密作業をしようものなら取り返しの付かないことになることが予想される(多分爆発するんじゃないか。いやドリフじゃないからそれはないか)。

 

 とにかく大事なのは、正確に採寸や切り出し作業を心掛けつつ、ズレてもきにしないこと、である。

 自分や他人、道具や環境、材料を呪ったところで、問題が解決するわけではないし、部材がピタリと嵌まるわけでもないし、奥様が褒めてくれるわけでもないし、品位も上がらないし、語彙力も上昇しないし、学校もないし家庭もないし……このネタはこのあいだ使ったばかりだな。

 いずれにしても、仮に飽きてしまっても愚直に、目の前の作業をするしかない。

 また採寸を誤らない一番の方法は、採寸したその場所に寸法を書き込むことだ。

 基点や(「基点や」の入力を誤ると「来てニャ」と誤変換される。猫のコスプレをしたメイド喫茶の営業メールのように見えなくもないが、そもそもメイド喫茶に行ったことのない僕に対する影響は皆無だ)上端なども記載してしまえばいい。

 他人に見せるために作っているわけではないし、あるいは他人が見たとして、ちょっとそれはそれで「あっ。猫様、素敵」と思われるポイントになるかもしれない。いやそんな影響をいちいち考え計算してしまうような下世話なイキモノだと思われるのはちょっと心外である。下心は常に持ちつつも自意識を控えめにしていた方がモテる気がする。気がするだけで何の根拠もないけれど、こういった心の声がダダ漏れのまま記述を続けるのはいかがなものかとときどき反省する。だからといって修正なんかしないからな!

 

 とにかく。

 感情に左右されることなく、淡々と作業を続け(粛々と、なんて言うとちょっと政治家っぽくなるから君も今日から試してみよう!)、上手くいっても失敗しても、表情ひとつ変えず、プロセスを次々実行してゆくことこそ効率の良い作業だ、ということに今日気がついた。

 つまり今までは上手くいけば己を褒め称え、失敗したら盛大かつメリケンな感じに自身を叱咤し、ときに叱責し、道具のせいにし、材料のせいにし、他人のせいにし、呪詛すら辞さない覚悟で邁進してきたわけである。日本語がすでにオカシイ。あとこの余談についつい走りがちな、多動性障害を体現したような文章を誰かとめてほしい。まぁ、とめようがないと思うけれど。

 

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 作業中に気がついたのだが、この家には浄化槽があるのに、清掃業者が来たためしがない。

 昨晩、排水口から汚泥臭がしたので、浄化槽用のバクテリアを買いに出かけなくては、と思っていたことを思いだした関連で思いついたのである。

 

 それであちこち電話をする羽目になった。

 まず市の指定業者を調べて電話をし(取引履歴の確認:無)、教えてもらった県の環境検査事業団に電話をし(浄化槽管理者登録の確認:有? きわめて古く、氏名も異なる)、再び最初の指定業者に電話をし(浄化槽、あるっぽい)、次いで水道企業団に電話をし(下水道設定の確認)、さらに市役所にも電話(下水道設定の確認)をし、最初の指定業者に電話をした。

 

 結果として、この家には浄化槽が設定されており、下水道は設定されておらず、にもかかわらず浄化槽登録が長らく変更されていないか、そもそも登録されていないことが分かった。

 最寄りの業者との取引履歴が最終的には確認されたが、定期点検等の依頼はしていなかったようだ。いったいどういうことなのだろう。

 想像するに、ブロワ等が故障したり、水回りに不具合が出たときだけ清掃や点検をお願いしていた(あるいはそうしようと考えていた)可能性がある。

 設備が壊れるとか、定期メインテナンスとかいう発想がないのか、と言いたくもなるが、おそらくそうした意識のない人間たちがこの家を使っていたことはこれまでの観察結果から考えても妥当な線だろう。

 

 現時点で、浄化槽のブロワモータは設置されているようだけれど、駆動音を聞いたことがない。ためしに撫でたりつついたり、ちょっと叩いてみたりもしたが、コンセントプラグが差し込まれている割に、うんともすんとも言わない。無音タイプだろうか(そんなものがあるかは不明だが)。あるいは物静かで思慮深いあまり、僕が側にいると駆動しないのかもしれない。観察していないときだけ働く、という謙虚な姿勢は、ときどき周囲から「あいつは全然働かない」などとひどい評価を受けることがある。僕もよくそういった下らない現象に悩まされたりはしたが、ここでは他人からの評価を気にしすぎないことは、時に気にしすぎることと同じくらい自身の活動に悪影響を与えることもあるという教訓を学びたい。

 とにかくブロワモータが他人を気にしていなさそうなことだけは分かったので、あとでこれもよく調べる必要がありそうではある。

 浄化槽の清掃業者さんはとても親切で、何度となくこれまで取引のあった業者さんがあったのではないかとか、現在の登録者を確認する方法であるとか、実際に浄化槽が設定されかつ稼働しているか(浄化槽が設置されていても下水道が後付けされればその浄化槽は使われないことになるので)を確認する先などを細かに教えてくれた。

 相続という経緯や設備の有無や稼働の有無が不明瞭であることなどを適切に(かつ過剰なまでに丁寧な言葉遣いによって)説明することのできた僕の日本語能力が優れているからではないかと密かに思っている。また心の声がダダ漏れてしまった。

 

 しかしそもそも僕は浄化槽というものを持ったことがない。

 

 自分が所有権を持つ家を持ったことがないからで、浄化槽について調べて初めて管理者登録などが必要だという事実を知った。こんなもの相続ついでに手続きする人の方が少ない気がする。

 たまたま浄化槽の仕組みについて(損害保険の仕事をしていたときに事故処理のついでで)勉強する機会があったので、そこは助かったといえば助かったといえる。

 その気になれば自分で点検清掃するくらいもできるような気がしないでもないが、この上特殊な機材まで購入しかねない自分の節操のなさを考えると、それはやめておいた方がいいだろうと結論した。

 

 電話の合間に部屋の電源の増設工事を少しして ── といっても1つしかなかったコンセントを3つに増設し、そこから配線を2本、壁伝いに這わせて梁にタップを2つ設定するという荒技を行ったわけだけれど ── 本日の作業を終了した。

 旧来からコンセントの多くは床付近に設置され「配線が邪魔くさい問題」を引き起こしがちである。高い位置にコンセントがあると(特に150cm以上の身長のヒトには)便利だと僕は考えている。少なくとも僕は高い位置にある方が便利なので、ついつい柱や梁にスイッチタップなどを設置してしまう。

 

<いい加減、漆喰を塗ったときのマスキングを剥がしてはどうか。>

 

 久しぶりに休憩もなく8時間以上働いてしまったので、飲酒のため近所の焼肉店に外出した。近所に美味しいものを出す店があるというのは大変嬉しいことである。

 

 そして唐突だが最近、この曲をよく聴く。

 

 

 驚きの脱力感とその破壊力。

 人生なんてどうでもいいやぁ〜、という気持ちになる。痒いところに手が届かない名曲である。

 

210927

 

 早朝、眠りに就いて、午前中、目覚める。

 書斎の書架エリアの壁面処理を進める。

 

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 また Evernote がバージョンアップして、端末アプリもWebアプリもアクセス不能になった。

 スタンドアロンでないアプリなんて、何の意味があるのやら。

 都合よく、ルータが Synology 製であり、NASも同メーカで構築しようと思っている(若干値は張るし、ルータの wi-fi 規格が最先端から一つは遅れているものの、ルータ依存でのシステム構築は避けられないような)ので、NASに付属するアプリケーションを利用しようと決定する。

 Synology の wi-fi ルータは前述の通り安くはないし、性能も最先端とは言い難い。

 しかし管理ソフトの盤石さは、ドライバとファームウェア程度しか提供していないような他の(多く廉価なモデルを販売している)メーカでは足元にも及ばない。

 
 いずれにしても Evernote がアップデートのたびにこれでは(単なるテキストエディタとして使っているだけなのに)僕にはすこぶる不便で、当然、課金する必要も(残念ながら)なく、まして不具合ばかりとあっては使い続ける価値すら毎回疑うことになる。
 
 NASと併せて書架を買おうと思っている。
 書架を設定する壁面の修繕も、到着前後に完了する予定だ。
 
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 僕は自動化の仕組みを作ることが得意だし好きなようだ。
 可能な限り僕自身の入力を省力化し、与えられた条件によって自動的に出力が決定されるような(あるいは出力までほとんど手をかけずに行われるような)仕組みを作ることが得意なのだろう。
 なぜといって僕は極度の面倒くさがりで、ラクをするためなら手間を惜しまない。
 
 10の工数を必要とする作業について、1の工数で済むようになるなら ── だいたいそこまで理想的な結果は得られないが ── 100〜1000の工数をかけて、仕組みを作るのが僕の中では常識的である。
 これは周囲からすると必然に、無駄かつ意味不明な行動をしているように観察されるようだ。多くの人は愚直に10の工数を何度でも繰り返し、その速さや正確さをして自身の能力を示すための材料としたがる。
 僕は10の工数が面倒で、1の工数で済むように ── 前述の通りそんなにうまくはいかないが ── 考える。
 会社におけるファクシミリやコピー、文書管理、家事、コミュニケーション、果ては自身のキャラクタ作りにいたるまで、目的に合わせた自動化は可能だ。
 
 しかし家のリフォームというのは、自動化がむつかしい。
 
 僕がこの作業についてまったくの無知で、未経験であることも理由である。
 完成形をイメージし、材料や工法を考え、材料を手配し、作業手順を考えながら試し、実践し(けっこうな頻度で失敗し)、成功と失敗を積み重ねる。
 誰かが「こういうイメージはどうか」という完成予想を提示してくれたりはしないし、材料や工法も、作業手順までも自分で考えて(ときに調べて)実行する。
 なので遅々として作業は進まず、非常に気疲れする。
 経済を媒介にしてリフォームを職業としている専門家に丸投げするでもしないと自動化することはなさそうだ。
 
>>>
 
 自動化というのは、行為そのものをバイパスするということだ。
 たとえばお金を払ってリフォームを専門家に依頼すれば ── 自分の想像を超えたものも含めて ── 完成形のパターンをいくつか提示され、そこから選んで支払いをするだけで完成したモデルが手に入る。
 スタートからゴールが、最短で、たいした苦もなく手に入るというわけだ。
 
 そこには明らかな幸せがある。
 時間が短縮され、自分の想像どおり(あるいはそれ以上、ときにそれ以下)の結果が手に入る。
 自動化によって手に入れることのできる最大のものは時間であり、その時間を何に使うのかが制御者の本質であり真に腕の見せどころとなるように思える。
 
 一方、自動化しないことは時間の浪費であり、ときに単なる無駄にすらなる。
 
 ただ、最近になって思うのだ。
 無駄は、果たしてそんなに無駄だろうかと。
 急がば回れという俚諺もある。大器は晩に成るともいう。
 それに人間の親しさとは、いかに無駄な時間を一緒に過ごすことができたかに掛かるような気がする。
 
 だから人間は多く、若い頃に強い信頼によって繋がる友人や恋人を作ることができ、齢を重ねるにつれそれが困難になる。
 なぜといって、若い頃は残りの時間を考えるともないから、今過ごしている時間がどれほど無駄なことかなどとは考えもしない一方、アタマの硬くなった大人たちときたら損得勘定ばかり上手くなって、時間や金を無駄に使うなど愚の骨頂だと信じて疑わない。
 もちろんその価値観はそれで正しいのだけれど、無駄を忌避することが結果的に、意味を消失させることがあるのだ。
 
 これはたとえばゲームにも当てはまる。
 攻略に関する情報にアクセスし、高効率にゲームをプレイし、すべてのコンテンツにアクセスし、あるいは最短時間でクリアしたとして、それは結果的に自分以外の誰かがしたことに同義であり、あるいは自分以外の誰かにさせられたことと変わらないのだ。
 
 すなわち効率ばかりを求め、無駄を嫌い、一般に(あるいは他人にとっての)価値を持たないことに意味を見い出せないことは、誰かの決めた価値観で生きていることに等しい。
 
 なるほどそこに無駄はなかろう。それはそれで、ひとつの幸せのカタチなのだ。だから余った時間を有意義に使えばいい。
 無駄であったならそれはそれで、ひとつの幸せのカタチなのだ。その無駄を楽しむ心を、できれば忘れずにいられたらと思う。
 
 
 
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// TimeLine:210922
// NOTE:
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TITLE:
芸術について草取りしながら考える。
SUBTITLE:
~ Sly dogs. ~
Written by BlueCat

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::人間にとって最高に栄誉ある行為は、祖国のために役立つことである。
 具体的に言えば、法律を制定し、制度を整備することによって、国の改革に力をつくす人々のことである。彼らこそ、誰よりも賞賛されてしかるべきだろう。
 なにしろ、少数の人々だけがそれをやれる機会に恵まれ、その中でもさらに少ない数の人間が、その機会を活用できるのであり、そのうえこの中でもほんの数人が、実現させる人になるのだ。
 だからこそ、人の望みうる栄光の内でも最高の栄誉が、この最後の部類に属した人々には与えられるべきである。
 
 
 

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//[Body]
 
210922
 
 未明に目覚める。
 最近は5時でもまだ暗い。夏は終わったのである(ありがたや)。
 
 明るくなってから草取り。休憩を挟んで10時頃まで。
 花を咲かせるもの(名前を教えてもらったはずだが忘れた)の間から生えるものが多く、また僕の嫌いな西の方角にも背の高いナニカが大量に生えているのでそこに手をつける。
 根元を分けようにも混雑していて、どうにもカサが進まない。
 一日では終わらないなと最初から思っていたが、案の定、終わらない。特に気にしない。
 
 畑(にする予定の花壇)の方も相当に荒れているので、草を取る。
 こちらは片っ端から抜けば良いのでラクである。
 そしてナスが自生してしまっていた。
 昨年は全く(食べられるほどの)実を付けなかった品種が ── 株ごと鍬ですき込んだ結果 ── 堆肥醸成エリアで勝手に育って大きな実を付けている。
 なるほど、このエリアの土づくりには成功したと見てよいのだろうか、だとすれば周囲のいわゆる雑草たちがよく育っているのも頷ける。
 
 先週だったか、ついに耕運機を買ったので、少し耕す。
 エンジン式は結局やめて、廉価なモータ式にした。
 ガソリンは、買うのも保管するのも(以前に比べると)簡単ではない。
 ガソリンエンジンであればオイル交換も必要だろう。
 雑草も断ち切れそうな刃の付いたエンジン式が欲しいといえば欲しいが、そこまで大きな畑ではないのだからと考えた次第。
 
>>>
 
【芸術というものについて】
 草取りをしていて、芸術についてぼんやり考えていた。
 誰かがどこかですでに語っているものだろう。言語には定義というものがそもそも存在している。
 
○芸術というものは私的なものである。
 
 芸術というのは古くは、貴族たちの慰みのために発展したものと記憶している。
 彼らは専属の音楽家や絵描きを擁し、舞踏会(葡萄買いでも武道会でもない)には演奏をさせ、自身の肖像を描かせては後にまで自身の面影を遺そうとしたことだろう。
 それは生活に追われることのない人間にとっての娯楽であり、生活に追われていても(あるいはだからこそ)そうした分野に才を持つ者の活躍の場であったはずだ。
 すなわち社会がある程度以上豊かでなければ成り立たないし、経済による交換が 適切に働く環境があったことを示している ── 芸術作品を食品などと物々交換するのはなかなかむつかしいだろうから。
 
 しかし基本的に芸術というのは過去も現在も私的なものだと思える。
 つまり個人から発し、個人に受け取られ、そこで伝えられるメッセージは ── 言語によって構成される文学でさえ ── 非言語的であるが故に千差万別になるものだろうということだ。
 
 
○商業的芸術
 
 ある段階で、芸術は商業化したのだろう。
 もともと経済と交換ができるものになっていたし、時価額の変動もある。
 富めるものにとっては ── かつての貴族がそうしたように ── 己の富を示す道具としても使えるし、作品に心奪われてしまった者にとっては、金銭に換えられない価値を持つだろう。
 音楽や映像、文学などの作品に至っては、広く知れ渡り、多くの人に価値を見出されることが商業的成功としてもはや不可欠のステータスになっている。
 ごく少数の人間にのみ高く評価され、高額で取引されることと、広きに高く評価され、にも関わらず廉価に取引されることとは、結果的に同義だと思う。
 
 
○社会的芸術
 
 芸術は同時に文化だから、鑑賞者にとっての ── 彼らの見出した ── 意味が、芸術の意味(つまり価値)に匹敵することになる。
 その意味で、一人の人間を(定量的に計ることは不可能だが)100感動させたとしても、万人を1感動させることには遠く及ばないことになる。
 私的なるものと社会的なるものとが、時に相反し、多くは後者の圧力に押し流されるのと同じように。
 
 
○工業的芸術
 
 商業化の流れによって、芸術は「個人の非言語的発露」から「鑑賞者の非言語的受容の制御」という性格も持つようになっただろう。
 端的に、ウケを狙って作り込まれた作品であるとか、流行りものに乗じた模倣的とも思える作品がそうだ。
 例えば(厳密な定義も知らないしロクに見たこともないが)「セカイ系」と呼ばれるジャンルがそうだ。昨今では「転生系」がそろそろ飽和した頃合いだろう(え? まだしてないの?)。
 衆をして娯楽を与え、対価を生むという点で、目的が先に立ってマーケットで成功した(それこそが目的だ)と思えなくもない。
 仮に原点となる作品が非常に私的な指向を持つ作品であったとしても、誕生時に目的を持って、その機能を全うすべく設計された作品の全ては、ある意味で工業的な芸術作品だと思える。
(芸術的工業製品もまぁ、それに近いと言えなくもないか)
 
 
○芸術というのは文化的なものである。では文化とは何なのか。
 
 考えるに文化というのは、その社会であるとか、その時代であるとかにおける、人柄であるとか、性格であるとか、哲学のことだろう。
 つまり一定の時間的/空間的に切り取られたエリアにおける言語化の可否を問わない精神性の体現である。
 そして芸術は、あくまで文化的なものでしかなく、文化そのものではないから、一側面を映すにせよ、あるいは一助を為すにせよ、文化=芸術とはならないし、そうであったらおかしいのではある。
 
 
○余談(エヴァンゲリオンという文化について)
 
 というようなことを考えて、ふと思ったのが、エヴァンゲリオンの劇場版の最終作のこと。

 

 ── ちなみに僕は思想家(自称)なので、これ(思考)が仕事である。お金にはならないのだが、考えることで奥様(仮想)が僕を養ってくれるというシステムが僕の生活を支えている。
 
 あれは最初「商業的大衆娯楽作品」として生まれた(あるいはそのように思わせた)のに、最終的に「私的芸術作品」として回帰してしまった(あるいはそう感じさせることになった)のではないだろうか。
 まぁ、シリーズほとんど見ていないし、全部見るほど興味もないのでなんとも言えないけれど(新劇場版はたまたま全部見た)。
 ただ大きく賛否が出たのことは、その現象そのものがやはり商業的には成功だったのだろうし、同時に、鑑賞者たちの技量(鑑賞の能力や素養)の発露でもあるように思う。
 
 あのシリーズを(あるいはあの結末や世界の仕組みを)それでも良かったと思う層は、相応に芸術作品に対する素養があるのだろうと思えるし、あれはないと憤る層は、芸術ではなくて商業的大衆娯楽を求めていたものと思う。
 喩えるなら「笑っていいとも!」を見ようと思ってTVのチャンネルを合わせたら「日曜美術館」が放送されていて、ピカソの「ゲルニカ」とか、ゴッホの「ひまわり」を延々1時間に渡って見せられたような気分だったのではないだろうか。
(え? もう「笑っていいとも!」放送してないの?!)
 
 まぁ、芸術というのはくれぐれも(感覚や精神的影響という意味において)非常に私的な存在なので、社会現象(というほど広い範囲とも思えないが)と呼ばれるほどにまで娯楽作品として知名度を上げておいて、それを私的芸術作品として収束させるというのは、ある種の押し売りだと思われても仕方ないだろう。
 そのムーブメントも含めて考えれば、あれはあれをもって文化なのである。
 作品が自分の思うようなものでないと(それを受け取る自身の感性を完全に棚に上げて)憤った観察者が製作者を武力制圧しようとするような。そういう現象も含めて。
 
 そしてこの国の文化は、かくも禽獣に近くなったのかもしれないと思うのではある。
 
 
 
【日本はもとより独裁国家だったのではないか】
 
 法治国家のつもりらしいけれど。
 というのが昨今の感想。え? 封建制なの?
 民主主義の法治国家のカタチを与えられ、そのフリをしてなお結局は封建制の延長のことしかできず、それ以上の仕組みや制度を自ら作ることができなかったようにも観察される。
 詳しい説明を今は省くが、思想家をやめたら革命家になろうかとさえ思う(ちょうどボクはアナーキィなラケンローラだし)。
 しかし同時に、昨今は「革命家」というものの地位や品位が著しく低下しているように観察され、かつ革命という行為は、そのメカニズムから考えてだいたいまっとうな組織を構築する能力に欠けるので、思案のしどころである。あとめんどうくさい。
 
 
 
【非凡なワタクシについて】
 
 振り返ると、非凡だったなぁ、と思う。
 これは別に、群に秀で衆に優れるワタクシを褒め称えよとか、そういうことではない。
 単純に、平均偏差から外れる位置に居るなぁ、ということ。
 
 狙ってそうしているわけではない。
 単に自分にとって都合の良い、あるいは居心地の良い、もしくは難を最小限にできる立ち位置というものを観察の結果選んで行動すると、どういうわけか集団から離れてしまっているのである。
 
 これは僕の元々の指向性が、特定の領域に偏っていて、それがたまたま集団から離れているというよりも、単に集団を避けて行動している結果のようにも思える。
 しかし ── その集団の全体や詳細をつぶさに観察し、予測しようと機能しないかぎり ── 僕が集団を嫌う理由などどこにもない。
 たしかに規律であるとかは面倒ではあるけれど同時に必要なものだと理解しているし、また抜け道というものが常に存在してもいる。
 集団行動における協調性であるとかは、本心を隠さなくてはならないという意味で面倒ではあるけれど学べることも多いし、本心を隠すことに抵抗を感じるわけでもない(露出狂ではないから)上、有用なものだとも判断できる。
 さらにいえば僕は(周囲から浮くほど)礼儀正しい。礼儀正しいというだけの理由でモテることさえあるくらいである。
 
 集団とはただ端的に、息苦しい。またイキモノクサいのでもある。
 昔から加齢臭より成長臭が苦手なこと(主として肉体的というより精神的な理由だ)も作用しているのだろう。
 肉体に限らず、精神だって、加齢臭もあれば成長臭もある。そしてどちらかといえば成長臭の方が(活動が活発なぶんだけ)匂い立つように思える。
 
 多くの人は、その集団のケモノ臭に文句を言いながらも、そこに隷属することを選んでいるように観察される。その方が都合が良いからだ。
 一方、僕はそれらケモノのニオイから遠ざかったほうが、どうやら都合の良い場所のようだと本能的に思っているようだ。
 前者は草食動物に見られる傾向のように思える。
 集団の方が、襲撃された際のリスクが分散される。単体でうろうろしているのは危険だ。
 では単体でうろうろするメリットは一体何だろう。僕は格別、何らかの特性が群を抜いて優れているわけではないのだ。
 凡より劣る個体は、だいたい餌になるのが自然界の掟である。
 まだよく分からない。
 
 あと、今日の猫。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::国家にとって、法律を作っておきながらその法律を守らないことほど有害なことはない。
 とくに法律を作った当の人々がそれを守らない場合は、文句なく最悪だ。
 
 国家にとってもうひとつ有害なことは、さまざまな人物を次々と糾弾し攻撃することによって、国民の間にとげとげしい雰囲気をかもしだすことである。
 
 国家にとって、また指導者個人にとっても有害なことは、絶え間ない弾圧によって、人々の心を恐怖と疑念に落とし込むことだ。
 これは、有害を越えて、危険である。
 なぜなら、人間とは、絶望的な恐怖に襲われるや、それから身を守ろうとする想いだけで、凶暴で無思慮な反撃に転ずるものである。
 だからこそ、市民たちを、いたずらに刑罰や弾圧で抑えつけるよな愚は、犯してはならない。
 そうしておいて、人々が安心して生活できるような環境を整え、彼らの心が、自分たちの仕事にのみそそがれるようにすべきである。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 引用は、
「マキアヴェッリ語録」 ── 冒頭部(p.235)、文末部(p.162)
(著作:塩野 七生 / 発行:新潮文庫)
 によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Garden-Human-Koban-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-家庭菜園ティストの狂気-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
//[EOF]

210921


 満月であると聞いた。

 気温も涼やかになってきて、今日はゴミの日だったので、早朝からゴミ出し草取りをした。

 休憩を挟んで昼まで草を取り、およそ一年ぶりにベランダに出て掃除。

(ゴミ出し以外の用で2階に上るのも半年ぶりか)


 前橋にいた頃、ベランダキャンプをしたくて買ったバーベキューコンロが倉庫に未開封のまま仕舞ってあったので、取り出して整備し、薪(まぁ材木はそこそこある)をカットし2階に運ぶ。

 蚊取り線香が心もとないので、自転車で買いに行く。

 風呂に入っているうちに暗くなる。


 ベランダとキッチンを行ったり来たりして、酒や料理を出したり、折りたたみチェアを出したりして、火を点す。


 ベランダキャンプファイア。


 そしてベランダにゃんこ。

 キャンプファイアをしていることを自慢できる友人が僕にはいないのだけれど、キャンプファイアとは、誰かに自慢する類の娯楽ではない。
 すべての娯楽は、ただ楽しむためにあるのではないか。

>>>

 お月様は僕の恋人なので、肖像権の関係から写真を公開できない。
 それに肉眼で捉える月は、写真で撮るそれより必ず美しい。
 写真の方が美しいと言う人は、月に恋を ── かつてしていたとしても今は ── していない人なのではないかと思う。

 恋する対象を記録に残せる人は、きっと幸せだ。
 恋する対象を記憶にも残せない人も、きっと幸せだ。

>>>

 面積はさほど変わらないのだろうけれど、前橋に暮らしたマンションの方が、L字のぶんだけベランダが広いように感じる。

 忙しく、ただ空回りしているうちに、燻製を作る時間さえ作れなかった。
 気がついたら僕は、またあれもこれもしようとして、忙しくしているフリをしようとはしていまいか(していない)。

>>>

 キャンプファイアをしている。

 今日が満月だと聞いて、ベランダで。

 キャンプファイアをしている。

 今日もヒマな1日でよかったなぁ、と噛み締めながら。
 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210918
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
日常のあれこれ。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210918
 
 雨がちな陽気。
 夜になって、アニメ「ゆるキャン△」を観ながら書いている。
 ノートPCはこういうときに勝手が悪い。
 30インチくらいあれば、別ウィンドウを散らかしても文書作成くらいはできるが、15インチ以下ではマルチウィンドウの意味なんてほとんどないような気がする。スマートフォンやタブレット慣れしている人にとっては13インチくらいでも十分に大きいのかもしれないが。
 
 昨日は身体が重くてほとんど一日、何もしないで眠り続けていた。
 天候、あるいは季節の変わり目のせいかもしれない。
 
>>>
 
 ちょっと重いテーマから離れて、ささやかなキッチン(というよりは水回り)ライフハックについて記述してみてはいかがかという奥様(仮想)からの提案(プロポーズ)があったので、それを採用することにする。
 
 基本的に僕は一人暮らしが長く(家事歴はもっと長い)家事のほぼ全てを自己流で学んだため、自分の生活様式に疑問を感じない。
 ときおり他人の家事様式を見ることもあるが、そもそも他人のことなので気にしたこともない。
 効率面や化学的に不思議な場面も見かけるが、生活様式とはつまり宗教的儀式の一環であると考えれば他者のそれに口出しをする必要はないし、仮に意見を求められたところで真っ向から既存の文化を否定することは戦争の火種にもなりかねない、いやむしろならない方がおかしい(僕は叔母でそれを経験した。論拠なしに様式の因果を信じる ── 要は盲信である ── 人間はちょうめんどくせえ)。
 
 なのでまぁ僕が記述するこれらは、単なる僕の宗教儀式の一環だと思っておけばそれでいいんじゃないかな。
 
【次亜塩素酸水溶液】
(以前にも一度書いているが、より詳細に)
 一般に塩素系漂白剤と呼ばれているものである。
 これを500ppmと1000ppmの水溶液にする。
 塩素系漂白剤には「次亜塩素酸ナトリウム」が主成分として記載され、含有量が%で表記されている場合が多い(一部、廉価なプライベートブランドなどでは未記載のものがある。呪うべし)。
 ppm換算は小学生(中学生?)以来だったので当初は苦労した。
 5%(=50,000ppm)の次亜塩素酸ナトリウムなら100倍希釈で500ppmになる。ので、水溶液500ml中の5mlが5%の漂白剤ならちょうどよいということである。
 500mlのペットボトルを用意して、5mlの漂白剤を入れ、495mlの水を注ぐ(まぁ、メジャーカップでそんなに正確に計量できないけれど)。
 
 一般に、布巾や衣類などの漂白に利用される濃度がだいたい500ppmである。
 次亜塩素酸ナトリウムは常温で分解されるため、6%から7%のものでもさほど気にせず100倍希釈している。
 1000ppmの水溶液は5%の漂白剤10mlを入れて500mlにすれば出来上がる。

 ペットボトルには塩素系漂白剤が入っていること、飲んではいけないこと、毒物であることを明記し、家族がいる場合はそういうものが置かれていることを説明し、理解できない子供やお年寄りやペットについては、その手に触れないように気をつけなくてはならない。
 
<濃度も明記すること。ちなみにNaClOは次亜塩素酸ナトリウムのこと。「O」は大文字が正しい>
 
 万一、目鼻に付着した場合は水道の流水でよく洗い流して、眼科や耳鼻科に。
 飲んでしまった場合は濃いめのアスコルビン酸(ビタミンC)水溶液(100mlに0.1gもあれば十分)を飲ませて内科に行く(化学式は忘れたが、水と食塩と酸化型アスコルビン酸になったはず)。
 
 
○500ppm漂白剤水溶液の使い方と注意点。
 
 この程度の溶液でも皮膚粘膜は十分に荒れる。
 脱脂するし、表皮が分解されてボロボロになるので、スプレィなどで使う場合は必要に応じてマスク/メガネ/ゴム手袋をすることが推奨される。
 500mlの場合、水回り全般に使える。
 ただし金属は腐食するので鍋や包丁、カトラリィには掛からないようにし、万一付着した場合は水で流すこと。
 蛇口やシンクも長時間の付着で腐食するので10分程度で流した方がよい。
 夏場の生ゴミのにおいを抑える効果もあるので、僕のようなものぐさ独身男(毎日排水口の生ゴミを処理したりしない)は寝る前後に排水口にスプレィしておけばラクができる。どうせ燃えるゴミの日までゴミ取りネットも替えないんだろう?
 ちなみにこうすることでゴキブリが寄りつきにくくなる(寄りつかなくなるとは言っていない)。
 
 生ゴミついでに言えば、ゴミ箱。
 僕は塊肉を調理することもあるので、付随したゴミが出る。
 正直なところ、あの樹脂トレイを毎回綺麗に洗ってリサイクルに出す気にならない(そんなに大量に使わないし)ので、まるごとゴミ箱にポイっとするのだが、これに上からスプレィしておく。分別する人でもドリップ吸収用のシートは捨てているだろう。(水洗いして良く絞ったとしても腐敗しやすい成分は残っている)夏場は鶏肉などのドリップがてきめんに腐敗する。これにスプレィする。なあに面倒ならゴミ箱の蓋を開けて中全体に軽くスプレィすればいい。
 毎日、排水口の生ゴミを捨てる人なら、その上からスプレィしておけばいい。
 
 洗濯が終わったあとの洗濯機の内部にスプレィしておくことで、カビの繁殖を抑えることもできる。
 ゴミ受け付近や、排水レベルより上、フタの内側など、放っておくと埃が溜まったり、水が触れても流れない場所に使う。腐食するものは少ないが、金属部分には、ある程度気をつけること。心配なら、金属部分の端に噴霧して20分くらい放置すれば確認できる。錆びた場合は水を掛けながらメラミンスポンジなどで錆を落とすこと。
 
 衣類や布巾の浸け置き用漂白液を作るのが面倒な場合、ボトルの中身をそのまま使うこともできるので便利だ。
 
 洗面台にも使えるが、やはり金属部分には気をつけること。
 僕は使い方がたまたまうまくいってなかなかボロボロにならない歯ブラシも、漂白することがある。
 これも500ppmの漂白液である。ただしこれはあまりおすすめしない。
 
 ウェットタイプのシートモップなら、清拭床面に噴霧してもいい。ただしペットのいる場合は換気をして、しばらく部屋には入れないこと。
 
 
○1000ppm水溶液。
 
 主にトイレと風呂場で使う。
 トイレ使用後の消臭(便器内にのみ使用し、室内に噴霧しないこと)や温水洗浄ノズルの掃除に使う(毎日一度、使用後に直截噴霧すればいい) ── 使用前にノズルを自動洗浄するモデルが多いと思うが、この場合すすぐ必要はない。
 便座内側や便器内の奥まった部分にも数日に一度(一人の場合)スプレィすれば、掃除の手間がほとんどなくなる(水で流れる場所は放置してよいが、流れない場所は拭き取ること)。
 
 風呂場用は500ml中、1000ppmの次亜塩素酸ナトリウムの他、油脂溶解クリーナ(マジックリンなど)を少量混ぜている。種類によって配合量は異なるのでなんともいえない。
 浴槽は石けんで洗うことも多いのだが、この水溶液があると浴室のクリーナが不要になる。また入浴後に噴霧すれば、カビなどの繁殖を防ぐこともできる(服着てからにしろよ。肌が荒れるから)。
 ただしこれは上級者向けなので使用を薦めるつもりはない。
 
 
 
【トイレットペーパ】
 先日、奥様(仮想)と話していたところ「キッチンにトイレットペーパは普通、置かないのではないでしょうか」と言われた。
 気になったので姉妹やKさんに訊ねてみたところ、誰も置いていない。
 よくよく振り返ると、僕も40代になるまでは置いていなかった気がする。
 今はペーパータオルの隣に専用のタオルハンガをセットし、トイレットペーパを引っ掛けて使っている。
 どちらかというとペーパータオルよりも使用頻度は高いため、ペーパータオルは年に1度くらいしか買わない。
 なんかイヤだなぁ。こんなことを書いているとミニマリストみたいじゃないか。
 断じて違うのだ。信じてほしい。僕はミニマリストなんかではないのだ(笑)。
 
 トイレットペーパの知られざる特性として「油で溶けない」「アルコールで溶けない」というものがある。
 水によってのみあの繊維はその結合を弱めるらしく、アルコールも含有濃度が60%以上にもなるとほとんど繊維が分解しない(喫煙パイプを清掃しているときに発見した)。
 こっちは塩素系漂白剤と違ってさほど注意も必要ないから、他人にもお勧めしやすい(笑)。
 
 
○油を吸わせる
 バットなどの揚げ物受けの上にトイレットペーパをもしゃっと丸めてから伸ばし置いて、上からペーパータオル(キッチンペーパ)を1枚置く。
 残り油を捨てるときトイレットペーパに吸わせる。
 
 これらはいずれも専用の商品が売っていたりするが、そんなものはスペースの無駄なのでトイレットペーパとペーパータオルで事足りる。
 
 
○予洗に使う
 フライパンで肉を焼いたりすると、表面は肉汁や油で汚れる。
 僕はフライパンを洗ってから食事にするような律儀な男ではないので、食器類を洗うのは最低でも食後(ほとんどは翌日)になる。
 ただし、フライパンはその場でトイレットペーパを使って拭いておけばいい。ソースも油も吸い取れる。
 カレー皿も拭ける。
 サラダボウルのドレッシングも拭ける。
 
 
○レンジ周りの油汚れに使える。
 べっとりと硬くなってしまったような油はちょっと無理だけれど、ちょっと飛び跳ねた油汚れであるとかには、アルコールをスプレィしてそれを拭き取ればいい。
 アルコール濃度は前述の通り60%〜70%もあれば十分である。
(濃度が高すぎるとすぐに揮発して、油脂と融解する暇がない)
 パーツクリーナを浸潤させても大丈夫であるし、食用油も(前述の通り)問題ないので、これらで落としてもいい(食用油を使うのは、メイクを落とすのと同じ原理である)。
 界面活性剤系のもの(一般的な洗剤類ほとんどすべて)では繊維が分解するので使えないので、油汚れを落とすときに「何で落とすか」というのが重要である。
 
 とりあえず、奥様(仮想)の指摘していた「青猫クンの水回りライフハック」はだいたいこんなものだろう。
 
>>>
 
 先日購入した椅子に座っていると、アヲが膝に乗るようになった。
 

 

 鬼のようにダサいパジャマはこの家の備品である。僕の趣味ではない。
 
 追記。
 ところでこんなことを書いて、一体誰の役に立つというのだろう。
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Engineering-Maintenance-Technology-
 
[Module]
  -Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Dish-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-おこと教室-:-キッチンマットで虎視眈々-
 
 
//[EOF]