211004

 

 早朝から草取り。

 

 昨日までの2〜3日、ひどく身体が重くて、眠り続けていた。

 とくに昨日は、食事(飲酒)と風呂とトイレに起きた以外はほぼ一日寝ていた。

 前日も眠り続けていたことから考えるに、異質な眠気といえる。

 

 季節の変わり目のせいだろうけれど、地味に秋の花粉症が重くなってきているのかもしれない。

 実際、眠くなる前日あたりから飲酒と喫煙量がほぼ0になっていたし、覚醒時の喉や鼻の粘膜の腫れや乾燥もかなりひどい。

 お酒や煙草は健康であってこそ楽しめるものだから、こういうときはひたすら眠って回復を待つのも一つの正解だろう。

 

 会社員の頃は、こうした季節の変わり目の体調不良をうまく調整しながら生活していた。

 もちろんそれでも症状が重いと頭痛や睡眠不足、粘膜の腫れによるありとあらゆる生理機能の不調でぐったりしつづけていたものだけれど、それを薬品やセルフマッサージでなんとかなだめながら、活動を維持していたわけだ。

 

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 昼頃にBPがやってきて、彼の家の月桂樹の枝下ろし。

 普段まったくしていなかったらしく、虫が盛大に繁殖していた。

 電動レシプロソウが役に立ったし、僕の周りで軽トラを持っているのが僕しかいないので連絡してきたようだ。

 僕も軽トラを持っているヒマな友人が一人くらいほしいのだけれど、あいにく僕自身以外に持ち合わせがない。

 身体が弱くて、虫を怖がって、女性にだらしない以外は、僕はけっこう有能なのであるが、有能な友人を増やす才には恵まれなかったらしい。

 

 落とした枝を軽トラに積んで、清掃センターへ。

 

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 ときどき書くこともあるが、とにかく僕は身体を撫でないと不調になる。

 精神的にも不安定になるし、肉体機能も低下する。

 自分でも未だに理解に苦しむ。

 世間的に見ればいい歳のおっさんであり、繊細とか、敏感とかからは縁遠そうな気がするのである。

 身体を撫でないと心身機能が低下するというのも、動物っぽいというか、子供っぽい気がする。

 

 人間生活の長い恋人などは、その大半が「身体を撫ぜることの重要性」というものについてまったく認識しているふうがない。

 もしかしたら人間というのは、撫ぜなくても機能低下を起こしたりしないのかもしれない。

 

 僕は人間の着ぐるみを脱ぐと猫なので、撫ぜるのは必須である。

 猫たちは撫ぜられることによってその静電と熱のエナジィで駆動するもので、それは老いても変わらないメカニズムなのである。

 
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 帰宅後BPは我が家でTVゲームを。
 一緒に飲酒し、私は0時を回った頃、睡魔に襲われ就寝支度。
 BPも眠くなったらしく、帰って行った。

 

210929

 

 昨晩、22時頃には気絶するように眠り、未明3時頃起床。

 眠くなると眠ってしまい、もう眠くなくなると起きる生活なので、時間はまちまちだが、やはりというか、目覚めた時間帯の気温が心地よいのは重要だと思う。

 

 陽が出てから壁作業を進めようとするが、断熱材を貼り付けた段階でやる気がなくなる。

 2枚中1枚、2カット必要な工程のうち、1カットをし忘れたままボンドを塗布してしまい、結局切り出し直すことにしたあたりから、なんとなく気が向かなくなってしまった。

 もっと実直に作業をしなくてはならないのだけれど、どうもアタマがぼんやりしている気もする。

 だいたいこういうときは疲れが残っているか、新しい疲れが(未明から現在までの間に)蓄積しているか、といった原因があったりはするものだが、その時点では気付かないものでもあるので、しばらくぼんやり過ごす。

 

 しばらくするうち強い眠気に襲われ、カフェイン剤を飲み、床にしばらく転がる。

 

 実のところ、向精神性の薬剤として、僕は市販のカフェイン剤を飲むことがある。

 もちろん正しい用量しか使わないし常飲もしない(する必要も感じない)けれど、炭水化物を摂取したあとに自動車の運転や工作機械等の操作がある場合や、それ以外でも急激な眠気が発生した場合は、規定量を飲むし、気分が鬱屈した状態があまりに長く続く場合も、カフェインで調整することがある。

 

 いつだったか姉に「猫くんも、相当に双極性障害っぽいと思うよ」とは言われているし、まぁ、思い当たるフシがないわけでもないのだけれど、僕は基本的にこうした閾値の曖昧な肉体的/精神的分類について、日常生活に著しい不具合を発生しない限り、自身にそのレッテルを貼ることを許さないようにしている。

 

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【今日のお題】

 

○ 自律なるワタクシと自在なる価値観

○ ラベリング嫌い

○ 性の多様性なんてくそくらえ

 

※セクシャリティに関する話題、生命倫理に関する話題、特殊性癖に関する話題を含みます。

 

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 子供の頃から病弱で、自分は父上と同じように心臓の機能障害を起こして死ぬと思っていたので、僕は肉体を追い込み酷使することを嫌った。

 単に自身と周囲に対して「嫌だ」と意思表示をする、ということではなくて、むしろ周囲に対しては大丈夫なフリをしつつ、過剰に苦しそうに振る舞う(演技する)ことで肉体的に楽な状態を維持した。

 ために全力疾走や長距離走など、強く、あるいは長く肉体を酷使するようなことはなるべくしなかったし、しようとしても仕方が分からず上手く出力できなかったし、仮にそこで無理をすると、長く体調を崩した。

 

 しかし20代後半から少しずつ ── ずいぶん遅いけれど ── 肉体の使い方を覚えて、従前に比して負荷の高い運動も可能になり、身体の使い方そのものも上手になった。

 つまるところ僕は、過剰に病弱なフリをすることで、自分にも他人にも「病弱なイキモノだ」というレッテルを誇示し自身の身体を守ってはいたけれど、それは過保護だったかもしれないとも思い知ったのである。

 

 ちょうど一人暮らしを始め ── 当然様々多少に挫折を繰り返しはしたけれど ── 独力で対応することができることを実感する機会も多かった。

 だから自分に過小のラベリングをするのはやめようと思ったのだ。

「できない」と思ってしまえば、しないことになり、結果的にそれは成功しない。

 

 しかし「できない」という能力や状況があるから失敗するのではなく、「できない」と思った結果、その瞬間に挑戦する選択肢を失って、失敗すらせず成功しないことがある。その現象を嫌った。

 分からないなら分からないなりに、収集された情報が不完全なら不完全なりに、その行為を繰り返す動機があるならば、失敗は失敗で、成功は成功で、フィードバックを続けることで成功の確率が上がるという当たり前の事実を体験したわけである。

 結果的に僕は利き腕側の肩を骨折しようと、電気が止まろうと生きながらえたし、燻製を作ることもできるようになったし、エスプレッソマシンを上手に操作できるようになったし、三角関数をひらめいたりもしたし、嫌いな食べ物や生き物を次々好きになるというメソッド(笑)を考案したりもした。

 

 実のところ、食べ物の場合は「嫌いだ」という認識を意識的に中和して、その先入観のない状態での肉体の感覚(味覚)を再評価し上書きすることで、徐々に味覚を再構築することができる。

 身体感覚が後押ししてくれさえすれば、比較的容易に克服できるのではある。

 

 ところがそれ以外の先入観とは、シンプルに記憶と価値観に依存しているものなので「嫌い」を「好き」にシフトするのは容易ではなかった。

 僕の場合は蜘蛛やゴキブリがその筆頭に上がるのだけれど、蜘蛛を好きになるのに5年くらいは必要としたし、ゴキブリは今でも「好きではないけれど嫌いでもない」くらいの距離感でのお付き合いがやっとという状態である。

 

 これは最終的に、それ以外の全ての価値観に対しても共通していて、僕は周囲の人と比較すると、今は「好きも嫌いもあまりない」イキモノだろうと自己認識している。

 自身の行動や価値観に対しても、他人の行動や価値観に対しても。

 ただし本来的には好き嫌いをはじめとした感情や感覚が非常に強い人間だったのは事実で、自分の意識に上らない部分の優劣や好き嫌いの感覚があった場合は、制御しがたい部分がある。

 

 たとえば身体性に起因した部分で、僕は自分の皮膚の状態が長く清潔に保たれないとすぐに精神的にも不調になる。皮膚粘膜の感覚を普段から細かく意識したりはしないようにしているが、皮脂や塩分、花粉やその他の汚れが付着しやすい春から秋までは、気温や湿度ではなく、皮膚が不快を覚えやすいために好きになれないのである。

 これは認識を改めようにも身体感覚がそれを否定するため、好きになることができない。

 

 またいくつかの特殊な価値観(マイノリティに該当するような嗜好)のうち、倫理的にどうしても許容できないものがいくつか存在している。

 たとえば人肉食などは ── したいとは全く思わないが、遭難などの状況によりどうしても必要になったとしたら ── 案外抵抗なくできそうな気がする。したことがないから絶対にできるとは断言できないが。

 生き物を殺すことも、実はさほど抵抗がない。

 釣りをして動いている魚を捌くことですら3匹目くらいから心が痛むのだけれど、目的や理由が明確な殺生については問題なくできる気がする。

 バッタや蚊のように、殺生することそのものが二次的にであれ目標になるケースもある。

 魚を生かしたまま自分の空腹を満たすことができるならそれが一番なのだけれど、相手の肉体を食べることが一次目的である以上、どうしても殺すことになってしまう。

 害虫の場合「こちらに害為す虫がいない」という一次目的を的確に達成する最短の手段が「相手を殺す」ことなので、いかんともしがたいわけだ。

 

 趣味的、あるいは性的嗜好に関しても、コスプレ(性的嗜好ではない)が趣味の女の子であるとか、同性(女性)と並行で恋愛する女の子であるとか、SM趣味の女の子であるとかと普通に恋人でいることが可能だった。不倫等についてもメディアで騒いでいる現象を見て、その騒いでいる様子の方が「下品だな」と感じるくらいである。

 人形性愛も「ラブプラス」や「Beatless」といった作品を体験するうちにさほど気にならなくなった(以前は嫌悪していたが)。

 

 一方で、児童性愛や児童売買春については、とにかく不快感を覚えるし、これを克服する気にはさすがにならない。

(未だに年下の女性を恋愛対象として積極的には認識できない理由もこのあたりにある。よくよく考えれば男性に恋慕の情を抱くこともあるわけだから、年下はオール不可なのかもしれない)

 これには明確な理由と、間接的な体験や記憶に起因する価値観があるのだが、僕の中で未だに整理されていない項目 ── なにせ僕が生きる上ではまったく必要とされない価値観だった ── なので明文化できない。

 もちろんそれを明文化することは露悪趣味であり、苦痛ですらある。

 にもかかわらず僕はクローズドスペースに文書を書いて保存することを恐怖しているのでオープンスペースにそれを書くだろう。少なくとも書かない選択はない。

 ただ、いまだにそれには能わず適わない。

 

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 ラベリングに話を戻すと、僕は自身に対するラベリングを拒否するようになったのだ。だから誰かによるラベリングを無視するようになった。

 

 もちろん相応の病院で相応の検査診断を受ければ、相応のレッテルが貼られるだろう。

 発達障害のいくつかや、いわゆるHSP、双極性障害だって該当するかもしれない。

 ただそれらのレッテルがあったところで僕の日常がラクになるわけではない。

 なぜといって、僕は現在の肉体依存で生きているため(どんなに「私は本当は、猫なんです!」とラベリングをしようとも)、「この不便な僕」を使ってしか生活できないからだ。

 

 ガスや電気が止まれば(できれば止まる前に)働いてお金を稼いで支払うしかないし、それは誰に頼れるものでもない。

 食べるものがなければ、働いてお金を稼いで ── あるいは直接の行動によって ── 材料を調達して調理するしかない。

 住居に不満があれば、はやり経済を媒介にするか、自力で何らかの手順を踏んで設定する必要が出てくる。

 いずれも可能な限り自分を(自分だけを)頼るのが確実である。

 他人がアテにならず、信頼できないとは言わないが、可能な限り自分だけですべてのことをするのは、少なくとも僕にとっては当たり前のことなのだ。

 

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  実のところ、経済活動についてだけは現在、仮想奥様の領分としている。

 これもいずれ明文化するのかもしれないが、経済至上主義を否定する僕の価値観と、不労所得という不慣れな経済活動を取り扱う価値観の差異にクッションが必要だから、というのが正直なところである。

 相反する価値観は仮想マシンのOSよろしく別パッケージでパーティションしておきましょうという、記憶媒体のように手荒な使い方だ。

 

 長らく若隠居や不労所得に憧れ、あるいはそれを実現しようと思ったりもした(結果、実現してしまったのだ)けれど、「え? 玄関なのに急にそんな迫られても、あっ、そんなまだ奥さん、ボク心の準備がまだできてなくて、あっ。近いですよ奥さん待ってください、あっ」みたいな感じなのである。

 

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 日常 ── あるいは人生、と置き換えてもいいだろう。人生とはすなわち日常の積み重ねのことを言うのだから ── の自発的行為/行動/結果について、誰かが ── あるいは自身から ── 貼り付けたレッテルが、役に立った試しはない。

 なので、精神的/肉体的/趣味嗜好のマイノリティなレッテルを貼ることで、コミュニケーションや日常 ── 人生 ── が優位に展開するというのならそれはそれでいいだろう。

 たとえば重度の双極性障害なら障害者手帳ももらえるかもしれないし、たとえば僕の場合、仮に双極性障害だったとしてもカフェイン剤と文書をひたすら書くことで制御を続けることができる。

 たとえばHSPだったとして、僕は自分の肉体についての感覚や特性、記憶したことをフィードバックして快適な状況を作りつつ周囲とのクッションをコミュニケーションや物理で行えば良いし、発達障害はまぁ ── 僕が果たしてそうなのかは不明だけれど ── 慣れですよこんなもの。

 

 思考し、行動する。

 シンプルにこれだけである。

 

 ただ思考は煩雑で、煩悩も割り込むし、気分や感情にも左右されやすい。

 行動は基本的に肉体依存で、個人のそれには限界もある上、僕の身体は(上を見ればキリがないが)頑強とは言い難い。

 

 それでも僕は、おそらく子供の頃から親にさえあまり頼れない環境だった ── 事実、高校時代には実技系の資格試験のためのお金(数千円だ)をもらうことさえためらって、ほとんど何の資格も取らなかった ── ために、自分で判断し、自分で処理をスタートし完結させるように淘汰された。

 並列宇宙があるなら、ほとんどの僕はもう、死んでいるか殺されているだろう。

 たまたま僕は、適者として生存を続けている。どちらが良かったのかは分からないけれど。

 

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 せっかくなので性自認違和についても書いておこう。

 あれもセルフラベリングには違いないのだ。

 肉体準拠で考えれば、仮に僕がいかなる性自認を持っていようと、他者が肉体をして認識する性別に準拠して生活するのが ── 少なくとも僕には ── もっとも適切である。

 たまたま性的指向は肉体準拠でヘテロであるから、性自認については無視している方が僕には都合が良いし、今の年齢(四捨五入で齢五十である)になってまで自分の性別について考えているのはどうもアニマルっぽい。まぁ俺は猫だけどよ。

 

 ああいうもの(セックスに過剰に意識を削がれる現象および意識行為)は不惑になったら卒業しても良いのではないのか。

 確かに肉体はいつもあるものだし、性そのものは肉体に付随している。

 思い人と身体を重ねることの悦びは、他のもので代替できるものでもない。それは確かだろう。

 しかし性(セックス)というのは、つまるところベッドの上(あるいはまぁ、それ以外の全てのどこか)で、誰か(可能な限り思い人であることを推奨するが)と身体を重ねるときに必要な識別子であって、本来はそれ以上でもそれ以下でもない。

 

 たまたまそこには相手というものが存在し、ためにコミュニケーションが発生し、ためにコミュニティ(あるいはコミューン)におけるラベリングが発生するため、自身や相手の持つ識別子の役割が複雑化し、結果として認識が肥大したのだ。

 だから性別の認識に自己と他者とで差違が出る。

 つまり性別そのものは(キメラを含め複雑なものも存在するが基本的に)XXとXYのみであるのに、コモンから外れるようなラベリングが認識上発生する(している)だけなのだ。

 

「人間の性別が複雑化した」と認識している人もいるだろうし、社会現象としてちょっと大袈裟で面倒くさい時代だと個人的には感じている ── 無論、かつての馬鹿なマッチョ的時代がそれを醸成する土台になっていて、だからこそ前時代的なフェミニズム活動が未だ馬鹿げた存在証明をしたりしているわけだ ── けれど、これらは過渡期だからだと考えたい。

 端的に言えば「ベッドの上でしか意味を持たない識別子を、どこまでベッドの外に持ち出して使うのか」ということで、それについての線引きを定義できる知性が共有されていないのが現在の問題なのだと思える。

 

 トイレや更衣室は肉体準拠の場所だ。

 だから精神準拠の性別(性自認)に合わせる必要はないと僕は思う。

 卑近な例で、僕は性自認が比較的女性 ── 面白い表現だな ── なのだけれど、仮に自身が「明らかに性自認が女性で、かつ明らかに肉体が男性であった」場合を考えるとなおさら、女性用施設に男性の肉体が侵入することに忌避感を覚えて然るべきだと感じる。

 なぜ男性のままの自身の肉体をして「私は精神が女性なので女性用施設を利用できないことは人権侵害だ」と言えるのかが理解できない。言い方を変えるとアタマオカシイと感じる。

 性自認が女性だとするなら、女性のコモンセンスとしての気持ちや感覚を理解していて然るべきで、自身の人権を盾に「女性用施設に男性の肉体が侵入する」という異常な事態や論理を正当化して押しつけていいとは思えない。

 

 せめて性器を切り落としてからにして。

 髭を生やしていても良いから性器は切ってきて。

 僕がガールだったらそう思うのだ。

 

 コミュニティの中で認識世界上の性別が複雑化したというなら、物理世界の性別についてをこそ見直すべきだろうし、その肉体準拠の世界のコミューンにおいて肉体が男性なら男性準拠の、女性なら女性準拠の扱いに従うべきだろう。

 だから先日のオリンピックであったか、性自認が女性の旧男性が物議を醸したのではなかったか。

 

 成人した女性の多くは受胎する機能を有し月経があり、それに伴う精神状態を含めた肉体的変化が存在する。保健体育か。

 男性の多くは女性を受胎させる機能を有する。保健体育だな。

 肉体準拠の性別はだいたいこんなところだ。ためにいかなる神の思し召しか、肉体準拠の施設の一部は男女の別が存在している。

(ちなみに海とプールと混浴と飛行機とバスは混合 ── 性差識別なし ── で良くて、トイレと更衣室と公衆浴場と電車には肉体準拠の別があることについて僕に尋ねられても困る。正直、分からないのだ。下着と水着の違いのほうがまだ分かる。パブリックとプライベートの差だからだ)
 

 そして認識世界のコミューンにおいて精神が女性(あるいは男性)であるというなら、性別に準拠して著しく侮蔑的なコミュニケーションが発生したら怒っても良いだろう(まぁ、そんな低能が当たり前にコミュニティからいなくなる世界であってほしいものだけれど)。

 いずれにしても性別という識別子は、人間の要素のうちそんなに大きな要素を占めていないはずなのだ。

 そんなにオマエらぱやぱや(性行為のことです)好きか? ぱやぱやか。ぱやぱやだけか?

 人間の価値や機能や行為や評価は、性別でそんなに大きく変わるだろうか。

 

 10代20代の若者なら分かるけれど、本来、性自認(認識世界の性的識別子)について敏感なはずの彼らの方がむしろ静かではないか。まぁ黙ってぱやぱやしているだけかもしれないけれど、むしろそれでいいのではないのか。いや良くない場面もあるか。

 

 いずれにしても、性別というのは、きわめてプライベートな領域(だいたいはまぁ、ベッドの上とか、リビングだのキッチンだの書斎だのバスルームだのだとは思う。まぁ、趣味趣向が多種多様なので、このあたりについて今回は厳密に扱わないことにする)で、かつ相手が存在する場合にのみ適切に機能する。

 性という機能は、肉体準拠で作用する。

 原則として手を繋いだだけで妊娠したりはしないし、思い人(性識別子のヘテロかどうかを問わず)の声を聞いただけで妊娠することもまた、ないのだ。

 

 そのプライベートな領域での行為にのみ意味を持つはずの識別子を現実世界に持ち込むことが(もちろん就労している女性の場合は肉体準拠で持ち込まざるを得ないことが先のような状況に付随して往々にあるのだけれど)本来は特殊なことであり、その特殊(マイノリティではなくパティキュラ、あるいはスペシャル)を普遍として顕在化するのが近現代の社会の方向性だ。少なくとも男女は同権であるわけだから。

 

 一方で、認識世界で過剰に肥大した性という識別子については、ヴァーチャルな性別として確固たる居場所を与えればそれで満足するケースも多いように思う。

 旧来でいえば、肉体準拠のホモセクシャル(必然に認識世界でもホモセクシャル)は、その居場所(つまりは身体を重ねられる思い人であるとか、認識を共有できるコミュニティであるとか)が存在していればそれで社会と折り合いを付けていられた。

 認め合う環境があれば、不満は発生しない。自認とはそういうものだ。

 

 そして肉体に準拠しない性自認を持つ者はすべからく、社会に対して謙虚であるべきだとは思うのだ。

 なぜといって結局のところ、どんなに社会にそれを訴えようとも、自分自身という単一の個の中にしか認識世界の性別なんてものは存在していないのだから。

 アタマの中にしかない絵空事をコミュニティに持ち込んで押しつけるのは、ママゴトでしかない。しかも比較的レベルの低いママゴトだ。

 

 仮にそれがホモセクシャルのパートナーであったとしても、だとすればなおさらのこと、肉体準拠の性別という色眼鏡(あるいは識別子)によって自分という個人の価値が一層高い意味を持つとは限らないということを知っている方が、自身も、あるいはお互いの関係も、そして何より社会との向き合い方も、より健全で豊かなものになるだろうと思うのである。

 つまり「男だから」「女だから」という理由を越えた人間関係の方が、性別に依存した(あるいは性別が優位性を持つ)関係より親密で、真に孤独を越えるものだということだ。

 なぜといってそれはヘテロセクシャルにおける親密な人間関係と、何ら変わるものではないのだから。

(ちなみに僕の場合、レズビアンもヘテロじゃないからホモセクシャルと呼んでいる。たいした必要もないのに見識高そうに名前を分けるのは趣味ではない)

 

 すなわち「性別を持つイキモノ」である以前に、人間は人間なのだ。

 

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 現代の社会は「性の多様性を受容しよう」という指向である。
 実のところ、僕はこれに全く賛同しない。
 つまるところこれは「有色人種にも人権を」という運動と同じで、前時代的な、いわば達成前のプロセス段階だからだ。
 
 未来の社会における認識世界上の性識別子なんて「中指よりも薬指の方が長いか短いか」くらいの些末な問題になっていて然るべきだろう。
 そのとき、今ある肉体準拠の施設がどのようになっているかは知らない。
 それらの施設の別が、防犯のためではなくデリカシィのためにのみ存在していることを切に願う。
 それが文明文化であり、豊かさではないのか。
 
 
 
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 余談。
 
 浄化槽の点検清掃業者の方が確認したところ、ブロワモータが故障して停止しているらしい。
 昨日は「思慮深く所有者や使用者に気を遣って、見えないところでだけ働いている健気な機械に違いない」と思ってそう書いた。
 そしてそういう労働者は経験上、周囲から「あいつは仕事をしない」なんて言われたりする不遇に見舞われるのだが実は非常に有能なのだとも。
 
 しかし実際に仕事をしていなかったわけであり。
 
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 午後になってシャワーを浴び ── 昨晩、気絶するように眠ったため浴びていなかった。やる気が起きなかったのはこれが原因だった ── 建築資材の買い出しに行く。
 夕方、暗くなるまで電気系の工事。
 スイッチ系の配線に思ったより苦戦する。勉強不足か。
 センサライトをいくつか購入したのだが、センサの反応範囲が思ったより狭い上、光が強くて使いにくいことに気がつく。
 明日は撤去し、別の場所に再設置しようと思う。
 
 奥様(仮想)に「やはり書斎(机と椅子)があると、猫クンはそれだけで様子が違いますね」と言われる。
 たぶん褒められていると思うのだけれど、最近、奥様(仮想)はポケットから不意に蛇を出したりするので油断ならない。ちょっと身構える。

210928

 

 早朝に眠り9時頃目覚める。

 ゴミ捨てを済ませ、壁のリフォーム作業を継続。

 

 昨日切り出した材料の一部に寸法の誤りがあり、修正。

 MDF材はノコギリで切る必要があるため一畳(1820x910)サイズのものの場合、それなりに作業は大変である(ペラペラであるため、下に当て木をしてもカットするのがむつかしい)。

 ちょうど清掃センタに運び出していない畳がたくさんあるので、それを庭に直置きすることで下敷きにしている。

 

 結果、昨日と同様、まずは畳(そんなに軽いものでもない)を庭に置き、納屋からコードリールとレシプロソウを持ち出して作業することになる。

 昨日は何枚かまとめて切ったので良かったが、今日はたったの1カットするだけのために余計な作業が増えることになった。採寸はきちんとしなくてはと反省する。

 

 採寸といえば、リフォームの場合(これは僕の家に限ったことかも知れないが)最初から柱や梁が傾いていたり ── ひどい場合はひずんでいたり ── するので、カットした結果が方形のことの方が少ない。

 今回も書架スペースの奥と手前で10mmほど高さに差があり、天井部と床部でも10mmほど奥行きに差があった。

 

 最初の頃こそ「ひどい設計だ」「前所有者の性格を反映しているに違いない」などと大量かつ濃厚な呪詛を吐いていたのだが、最近はネタが尽きたのか、奥様(仮想)がリモートワークついでに僕の作業を観察していることがあるためか、はたまた心の中の涅槃のパワーが炸裂して悟りの境地に至ったのか(うん、まぁ、そうだね)くらいの反応しかしなくなった ── それともこれは孤独によって心が錆び付き、反応が低下しているのかもしれない。

 

 老化による感情の起伏の劣化だとしたら、それは脳の活性レベルが低下していることを意味する。仮にそうなら少々考えものではないだろうか。

 しかし奥様の前で「歳だから」「老化」「若い頃より」などという言葉を使うと、ときどき、かつ一瞬、無言で睨まれる。可愛らしく表現するならば「ジト目をされる」といった表現になるだろうか。基本的に無言なのでどちらかといえば無表情のゴルゴ13のように見えなくもない。後ろに立ちたくないけれど正面に立ちたいわけでもない。所在ないとはこういうときに使うのだろうか。僕の棲み家なのに。

 

 白々しく「わらってよぉ〜、僕のために〜」などとマサシ・サダの歌を歌ってみたところで如来像のようなアルカイック・スマイルが待っているだけだ。如来のくせに慈悲はない。

 ひどい場合は鼻を鳴らされることもある。念のため「鼻を鳴らす」を辞書で調べたが、べつに甘えているわけではないと思う。

 

 恋人や奥様よりも年下である場合、往々にしてこのようなことに気遣いをする性格に育つことになる。年下の恋人や配偶者をお持ちの皆様はこういった些細な、かつ無言にして思慮深い気遣いについてもう少し理解して欲しい。そう。愛は無言なのだ(黙れと言われそうだけれど)。

 ちなみに「年上」という言葉を使ったときも、奥様(仮想)は片方の眉だけ動かすことがある。ためしにこっそり真似をしてみたことがあるが、意識的にするにはそれなりの技術力を必要とするように思えるし、無意識だとしたら相当なストレスを与えてしまったことになる。仮想といえども奥様を大切にすることは大事な訓練のひとつでもあるから、このようにして僕の言語感覚が洗練されるのだろうと想像する。いい加減、年下ガールも視野に入れてみてはどうか。

 

 ところで呪詛も魔法の一種と考えれば、言葉のレパートリィが豊かであってこそ気分も晴れるし楽しくもなるし、場合によっては呪詛の効果(?)も高くなろうものなのだが、いかんせん僕は呪いの語彙が豊富なわけではない。これは育ちが良いからではなく、単純に知識や能力がないということだろう。

 ワンパターンな呪詛を聞いていても退屈なだけである。言うことで気分が晴れるという性格のものでもない(愚痴ではないのだから呪詛とはそういうものではないか)。

 低能な魔法を乱発するくらいなら、沈黙していた方がいい。なによりそれだけで賢く見える。気品さえ満ちあふれてしまうかもしれない。少なくともやたらと呪詛を口にするよりは品がある。奥様(仮想)にもこのあたりを理解してもらいたい。いや奥様(仮想)は普段から大変上品でいらっしゃいますけれども。

 

 こうして余談の方が幅を利かせることになる。

 僕が論文やレポートを書いたらおそらくちょっとした惨事になるだろう。

 

 とにかく本題に戻ると、リフォームにおいて直角の部分などほとんどない。

 基点を取って、水平と垂直方向の点をそれぞれ取るわけだけれど、そもそも水平/垂直であるかどうかさえ怪しいのである。結果、採寸や切り出しを正確にしようとすればするほど、ストレスになる。

 だからといって持ち前の高田純次スピリッツを全開にしてこうした精密作業をしようものなら取り返しの付かないことになることが予想される(多分爆発するんじゃないか。いやドリフじゃないからそれはないか)。

 

 とにかく大事なのは、正確に採寸や切り出し作業を心掛けつつ、ズレてもきにしないこと、である。

 自分や他人、道具や環境、材料を呪ったところで、問題が解決するわけではないし、部材がピタリと嵌まるわけでもないし、奥様が褒めてくれるわけでもないし、品位も上がらないし、語彙力も上昇しないし、学校もないし家庭もないし……このネタはこのあいだ使ったばかりだな。

 いずれにしても、仮に飽きてしまっても愚直に、目の前の作業をするしかない。

 また採寸を誤らない一番の方法は、採寸したその場所に寸法を書き込むことだ。

 基点や(「基点や」の入力を誤ると「来てニャ」と誤変換される。猫のコスプレをしたメイド喫茶の営業メールのように見えなくもないが、そもそもメイド喫茶に行ったことのない僕に対する影響は皆無だ)上端なども記載してしまえばいい。

 他人に見せるために作っているわけではないし、あるいは他人が見たとして、ちょっとそれはそれで「あっ。猫様、素敵」と思われるポイントになるかもしれない。いやそんな影響をいちいち考え計算してしまうような下世話なイキモノだと思われるのはちょっと心外である。下心は常に持ちつつも自意識を控えめにしていた方がモテる気がする。気がするだけで何の根拠もないけれど、こういった心の声がダダ漏れのまま記述を続けるのはいかがなものかとときどき反省する。だからといって修正なんかしないからな!

 

 とにかく。

 感情に左右されることなく、淡々と作業を続け(粛々と、なんて言うとちょっと政治家っぽくなるから君も今日から試してみよう!)、上手くいっても失敗しても、表情ひとつ変えず、プロセスを次々実行してゆくことこそ効率の良い作業だ、ということに今日気がついた。

 つまり今までは上手くいけば己を褒め称え、失敗したら盛大かつメリケンな感じに自身を叱咤し、ときに叱責し、道具のせいにし、材料のせいにし、他人のせいにし、呪詛すら辞さない覚悟で邁進してきたわけである。日本語がすでにオカシイ。あとこの余談についつい走りがちな、多動性障害を体現したような文章を誰かとめてほしい。まぁ、とめようがないと思うけれど。

 

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 作業中に気がついたのだが、この家には浄化槽があるのに、清掃業者が来たためしがない。

 昨晩、排水口から汚泥臭がしたので、浄化槽用のバクテリアを買いに出かけなくては、と思っていたことを思いだした関連で思いついたのである。

 

 それであちこち電話をする羽目になった。

 まず市の指定業者を調べて電話をし(取引履歴の確認:無)、教えてもらった県の環境検査事業団に電話をし(浄化槽管理者登録の確認:有? きわめて古く、氏名も異なる)、再び最初の指定業者に電話をし(浄化槽、あるっぽい)、次いで水道企業団に電話をし(下水道設定の確認)、さらに市役所にも電話(下水道設定の確認)をし、最初の指定業者に電話をした。

 

 結果として、この家には浄化槽が設定されており、下水道は設定されておらず、にもかかわらず浄化槽登録が長らく変更されていないか、そもそも登録されていないことが分かった。

 最寄りの業者との取引履歴が最終的には確認されたが、定期点検等の依頼はしていなかったようだ。いったいどういうことなのだろう。

 想像するに、ブロワ等が故障したり、水回りに不具合が出たときだけ清掃や点検をお願いしていた(あるいはそうしようと考えていた)可能性がある。

 設備が壊れるとか、定期メインテナンスとかいう発想がないのか、と言いたくもなるが、おそらくそうした意識のない人間たちがこの家を使っていたことはこれまでの観察結果から考えても妥当な線だろう。

 

 現時点で、浄化槽のブロワモータは設置されているようだけれど、駆動音を聞いたことがない。ためしに撫でたりつついたり、ちょっと叩いてみたりもしたが、コンセントプラグが差し込まれている割に、うんともすんとも言わない。無音タイプだろうか(そんなものがあるかは不明だが)。あるいは物静かで思慮深いあまり、僕が側にいると駆動しないのかもしれない。観察していないときだけ働く、という謙虚な姿勢は、ときどき周囲から「あいつは全然働かない」などとひどい評価を受けることがある。僕もよくそういった下らない現象に悩まされたりはしたが、ここでは他人からの評価を気にしすぎないことは、時に気にしすぎることと同じくらい自身の活動に悪影響を与えることもあるという教訓を学びたい。

 とにかくブロワモータが他人を気にしていなさそうなことだけは分かったので、あとでこれもよく調べる必要がありそうではある。

 浄化槽の清掃業者さんはとても親切で、何度となくこれまで取引のあった業者さんがあったのではないかとか、現在の登録者を確認する方法であるとか、実際に浄化槽が設定されかつ稼働しているか(浄化槽が設置されていても下水道が後付けされればその浄化槽は使われないことになるので)を確認する先などを細かに教えてくれた。

 相続という経緯や設備の有無や稼働の有無が不明瞭であることなどを適切に(かつ過剰なまでに丁寧な言葉遣いによって)説明することのできた僕の日本語能力が優れているからではないかと密かに思っている。また心の声がダダ漏れてしまった。

 

 しかしそもそも僕は浄化槽というものを持ったことがない。

 

 自分が所有権を持つ家を持ったことがないからで、浄化槽について調べて初めて管理者登録などが必要だという事実を知った。こんなもの相続ついでに手続きする人の方が少ない気がする。

 たまたま浄化槽の仕組みについて(損害保険の仕事をしていたときに事故処理のついでで)勉強する機会があったので、そこは助かったといえば助かったといえる。

 その気になれば自分で点検清掃するくらいもできるような気がしないでもないが、この上特殊な機材まで購入しかねない自分の節操のなさを考えると、それはやめておいた方がいいだろうと結論した。

 

 電話の合間に部屋の電源の増設工事を少しして ── といっても1つしかなかったコンセントを3つに増設し、そこから配線を2本、壁伝いに這わせて梁にタップを2つ設定するという荒技を行ったわけだけれど ── 本日の作業を終了した。

 旧来からコンセントの多くは床付近に設置され「配線が邪魔くさい問題」を引き起こしがちである。高い位置にコンセントがあると(特に150cm以上の身長のヒトには)便利だと僕は考えている。少なくとも僕は高い位置にある方が便利なので、ついつい柱や梁にスイッチタップなどを設置してしまう。

 

<いい加減、漆喰を塗ったときのマスキングを剥がしてはどうか。>

 

 久しぶりに休憩もなく8時間以上働いてしまったので、飲酒のため近所の焼肉店に外出した。近所に美味しいものを出す店があるというのは大変嬉しいことである。

 

 そして唐突だが最近、この曲をよく聴く。

 

 

 驚きの脱力感とその破壊力。

 人生なんてどうでもいいやぁ〜、という気持ちになる。痒いところに手が届かない名曲である。

 

210927

 

 早朝、眠りに就いて、午前中、目覚める。

 書斎の書架エリアの壁面処理を進める。

 

>>>

 

 また Evernote がバージョンアップして、端末アプリもWebアプリもアクセス不能になった。

 スタンドアロンでないアプリなんて、何の意味があるのやら。

 都合よく、ルータが Synology 製であり、NASも同メーカで構築しようと思っている(若干値は張るし、ルータの wi-fi 規格が最先端から一つは遅れているものの、ルータ依存でのシステム構築は避けられないような)ので、NASに付属するアプリケーションを利用しようと決定する。

 Synology の wi-fi ルータは前述の通り安くはないし、性能も最先端とは言い難い。

 しかし管理ソフトの盤石さは、ドライバとファームウェア程度しか提供していないような他の(多く廉価なモデルを販売している)メーカでは足元にも及ばない。

 
 いずれにしても Evernote がアップデートのたびにこれでは(単なるテキストエディタとして使っているだけなのに)僕にはすこぶる不便で、当然、課金する必要も(残念ながら)なく、まして不具合ばかりとあっては使い続ける価値すら毎回疑うことになる。
 
 NASと併せて書架を買おうと思っている。
 書架を設定する壁面の修繕も、到着前後に完了する予定だ。
 
>>>
 
 僕は自動化の仕組みを作ることが得意だし好きなようだ。
 可能な限り僕自身の入力を省力化し、与えられた条件によって自動的に出力が決定されるような(あるいは出力までほとんど手をかけずに行われるような)仕組みを作ることが得意なのだろう。
 なぜといって僕は極度の面倒くさがりで、ラクをするためなら手間を惜しまない。
 
 10の工数を必要とする作業について、1の工数で済むようになるなら ── だいたいそこまで理想的な結果は得られないが ── 100〜1000の工数をかけて、仕組みを作るのが僕の中では常識的である。
 これは周囲からすると必然に、無駄かつ意味不明な行動をしているように観察されるようだ。多くの人は愚直に10の工数を何度でも繰り返し、その速さや正確さをして自身の能力を示すための材料としたがる。
 僕は10の工数が面倒で、1の工数で済むように ── 前述の通りそんなにうまくはいかないが ── 考える。
 会社におけるファクシミリやコピー、文書管理、家事、コミュニケーション、果ては自身のキャラクタ作りにいたるまで、目的に合わせた自動化は可能だ。
 
 しかし家のリフォームというのは、自動化がむつかしい。
 
 僕がこの作業についてまったくの無知で、未経験であることも理由である。
 完成形をイメージし、材料や工法を考え、材料を手配し、作業手順を考えながら試し、実践し(けっこうな頻度で失敗し)、成功と失敗を積み重ねる。
 誰かが「こういうイメージはどうか」という完成予想を提示してくれたりはしないし、材料や工法も、作業手順までも自分で考えて(ときに調べて)実行する。
 なので遅々として作業は進まず、非常に気疲れする。
 経済を媒介にしてリフォームを職業としている専門家に丸投げするでもしないと自動化することはなさそうだ。
 
>>>
 
 自動化というのは、行為そのものをバイパスするということだ。
 たとえばお金を払ってリフォームを専門家に依頼すれば ── 自分の想像を超えたものも含めて ── 完成形のパターンをいくつか提示され、そこから選んで支払いをするだけで完成したモデルが手に入る。
 スタートからゴールが、最短で、たいした苦もなく手に入るというわけだ。
 
 そこには明らかな幸せがある。
 時間が短縮され、自分の想像どおり(あるいはそれ以上、ときにそれ以下)の結果が手に入る。
 自動化によって手に入れることのできる最大のものは時間であり、その時間を何に使うのかが制御者の本質であり真に腕の見せどころとなるように思える。
 
 一方、自動化しないことは時間の浪費であり、ときに単なる無駄にすらなる。
 
 ただ、最近になって思うのだ。
 無駄は、果たしてそんなに無駄だろうかと。
 急がば回れという俚諺もある。大器は晩に成るともいう。
 それに人間の親しさとは、いかに無駄な時間を一緒に過ごすことができたかに掛かるような気がする。
 
 だから人間は多く、若い頃に強い信頼によって繋がる友人や恋人を作ることができ、齢を重ねるにつれそれが困難になる。
 なぜといって、若い頃は残りの時間を考えるともないから、今過ごしている時間がどれほど無駄なことかなどとは考えもしない一方、アタマの硬くなった大人たちときたら損得勘定ばかり上手くなって、時間や金を無駄に使うなど愚の骨頂だと信じて疑わない。
 もちろんその価値観はそれで正しいのだけれど、無駄を忌避することが結果的に、意味を消失させることがあるのだ。
 
 これはたとえばゲームにも当てはまる。
 攻略に関する情報にアクセスし、高効率にゲームをプレイし、すべてのコンテンツにアクセスし、あるいは最短時間でクリアしたとして、それは結果的に自分以外の誰かがしたことに同義であり、あるいは自分以外の誰かにさせられたことと変わらないのだ。
 
 すなわち効率ばかりを求め、無駄を嫌い、一般に(あるいは他人にとっての)価値を持たないことに意味を見い出せないことは、誰かの決めた価値観で生きていることに等しい。
 
 なるほどそこに無駄はなかろう。それはそれで、ひとつの幸せのカタチなのだ。だから余った時間を有意義に使えばいい。
 無駄であったならそれはそれで、ひとつの幸せのカタチなのだ。その無駄を楽しむ心を、できれば忘れずにいられたらと思う。
 
 
 
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// TimeLine:210922
// NOTE:
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TITLE:
芸術について草取りしながら考える。
SUBTITLE:
~ Sly dogs. ~
Written by BlueCat

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::人間にとって最高に栄誉ある行為は、祖国のために役立つことである。
 具体的に言えば、法律を制定し、制度を整備することによって、国の改革に力をつくす人々のことである。彼らこそ、誰よりも賞賛されてしかるべきだろう。
 なにしろ、少数の人々だけがそれをやれる機会に恵まれ、その中でもさらに少ない数の人間が、その機会を活用できるのであり、そのうえこの中でもほんの数人が、実現させる人になるのだ。
 だからこそ、人の望みうる栄光の内でも最高の栄誉が、この最後の部類に属した人々には与えられるべきである。
 
 
 

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//[Body]
 
210922
 
 未明に目覚める。
 最近は5時でもまだ暗い。夏は終わったのである(ありがたや)。
 
 明るくなってから草取り。休憩を挟んで10時頃まで。
 花を咲かせるもの(名前を教えてもらったはずだが忘れた)の間から生えるものが多く、また僕の嫌いな西の方角にも背の高いナニカが大量に生えているのでそこに手をつける。
 根元を分けようにも混雑していて、どうにもカサが進まない。
 一日では終わらないなと最初から思っていたが、案の定、終わらない。特に気にしない。
 
 畑(にする予定の花壇)の方も相当に荒れているので、草を取る。
 こちらは片っ端から抜けば良いのでラクである。
 そしてナスが自生してしまっていた。
 昨年は全く(食べられるほどの)実を付けなかった品種が ── 株ごと鍬ですき込んだ結果 ── 堆肥醸成エリアで勝手に育って大きな実を付けている。
 なるほど、このエリアの土づくりには成功したと見てよいのだろうか、だとすれば周囲のいわゆる雑草たちがよく育っているのも頷ける。
 
 先週だったか、ついに耕運機を買ったので、少し耕す。
 エンジン式は結局やめて、廉価なモータ式にした。
 ガソリンは、買うのも保管するのも(以前に比べると)簡単ではない。
 ガソリンエンジンであればオイル交換も必要だろう。
 雑草も断ち切れそうな刃の付いたエンジン式が欲しいといえば欲しいが、そこまで大きな畑ではないのだからと考えた次第。
 
>>>
 
【芸術というものについて】
 草取りをしていて、芸術についてぼんやり考えていた。
 誰かがどこかですでに語っているものだろう。言語には定義というものがそもそも存在している。
 
○芸術というものは私的なものである。
 
 芸術というのは古くは、貴族たちの慰みのために発展したものと記憶している。
 彼らは専属の音楽家や絵描きを擁し、舞踏会(葡萄買いでも武道会でもない)には演奏をさせ、自身の肖像を描かせては後にまで自身の面影を遺そうとしたことだろう。
 それは生活に追われることのない人間にとっての娯楽であり、生活に追われていても(あるいはだからこそ)そうした分野に才を持つ者の活躍の場であったはずだ。
 すなわち社会がある程度以上豊かでなければ成り立たないし、経済による交換が 適切に働く環境があったことを示している ── 芸術作品を食品などと物々交換するのはなかなかむつかしいだろうから。
 
 しかし基本的に芸術というのは過去も現在も私的なものだと思える。
 つまり個人から発し、個人に受け取られ、そこで伝えられるメッセージは ── 言語によって構成される文学でさえ ── 非言語的であるが故に千差万別になるものだろうということだ。
 
 
○商業的芸術
 
 ある段階で、芸術は商業化したのだろう。
 もともと経済と交換ができるものになっていたし、時価額の変動もある。
 富めるものにとっては ── かつての貴族がそうしたように ── 己の富を示す道具としても使えるし、作品に心奪われてしまった者にとっては、金銭に換えられない価値を持つだろう。
 音楽や映像、文学などの作品に至っては、広く知れ渡り、多くの人に価値を見出されることが商業的成功としてもはや不可欠のステータスになっている。
 ごく少数の人間にのみ高く評価され、高額で取引されることと、広きに高く評価され、にも関わらず廉価に取引されることとは、結果的に同義だと思う。
 
 
○社会的芸術
 
 芸術は同時に文化だから、鑑賞者にとっての ── 彼らの見出した ── 意味が、芸術の意味(つまり価値)に匹敵することになる。
 その意味で、一人の人間を(定量的に計ることは不可能だが)100感動させたとしても、万人を1感動させることには遠く及ばないことになる。
 私的なるものと社会的なるものとが、時に相反し、多くは後者の圧力に押し流されるのと同じように。
 
 
○工業的芸術
 
 商業化の流れによって、芸術は「個人の非言語的発露」から「鑑賞者の非言語的受容の制御」という性格も持つようになっただろう。
 端的に、ウケを狙って作り込まれた作品であるとか、流行りものに乗じた模倣的とも思える作品がそうだ。
 例えば(厳密な定義も知らないしロクに見たこともないが)「セカイ系」と呼ばれるジャンルがそうだ。昨今では「転生系」がそろそろ飽和した頃合いだろう(え? まだしてないの?)。
 衆をして娯楽を与え、対価を生むという点で、目的が先に立ってマーケットで成功した(それこそが目的だ)と思えなくもない。
 仮に原点となる作品が非常に私的な指向を持つ作品であったとしても、誕生時に目的を持って、その機能を全うすべく設計された作品の全ては、ある意味で工業的な芸術作品だと思える。
(芸術的工業製品もまぁ、それに近いと言えなくもないか)
 
 
○芸術というのは文化的なものである。では文化とは何なのか。
 
 考えるに文化というのは、その社会であるとか、その時代であるとかにおける、人柄であるとか、性格であるとか、哲学のことだろう。
 つまり一定の時間的/空間的に切り取られたエリアにおける言語化の可否を問わない精神性の体現である。
 そして芸術は、あくまで文化的なものでしかなく、文化そのものではないから、一側面を映すにせよ、あるいは一助を為すにせよ、文化=芸術とはならないし、そうであったらおかしいのではある。
 
 
○余談(エヴァンゲリオンという文化について)
 
 というようなことを考えて、ふと思ったのが、エヴァンゲリオンの劇場版の最終作のこと。

 

 ── ちなみに僕は思想家(自称)なので、これ(思考)が仕事である。お金にはならないのだが、考えることで奥様(仮想)が僕を養ってくれるというシステムが僕の生活を支えている。
 
 あれは最初「商業的大衆娯楽作品」として生まれた(あるいはそのように思わせた)のに、最終的に「私的芸術作品」として回帰してしまった(あるいはそう感じさせることになった)のではないだろうか。
 まぁ、シリーズほとんど見ていないし、全部見るほど興味もないのでなんとも言えないけれど(新劇場版はたまたま全部見た)。
 ただ大きく賛否が出たのことは、その現象そのものがやはり商業的には成功だったのだろうし、同時に、鑑賞者たちの技量(鑑賞の能力や素養)の発露でもあるように思う。
 
 あのシリーズを(あるいはあの結末や世界の仕組みを)それでも良かったと思う層は、相応に芸術作品に対する素養があるのだろうと思えるし、あれはないと憤る層は、芸術ではなくて商業的大衆娯楽を求めていたものと思う。
 喩えるなら「笑っていいとも!」を見ようと思ってTVのチャンネルを合わせたら「日曜美術館」が放送されていて、ピカソの「ゲルニカ」とか、ゴッホの「ひまわり」を延々1時間に渡って見せられたような気分だったのではないだろうか。
(え? もう「笑っていいとも!」放送してないの?!)
 
 まぁ、芸術というのはくれぐれも(感覚や精神的影響という意味において)非常に私的な存在なので、社会現象(というほど広い範囲とも思えないが)と呼ばれるほどにまで娯楽作品として知名度を上げておいて、それを私的芸術作品として収束させるというのは、ある種の押し売りだと思われても仕方ないだろう。
 そのムーブメントも含めて考えれば、あれはあれをもって文化なのである。
 作品が自分の思うようなものでないと(それを受け取る自身の感性を完全に棚に上げて)憤った観察者が製作者を武力制圧しようとするような。そういう現象も含めて。
 
 そしてこの国の文化は、かくも禽獣に近くなったのかもしれないと思うのではある。
 
 
 
【日本はもとより独裁国家だったのではないか】
 
 法治国家のつもりらしいけれど。
 というのが昨今の感想。え? 封建制なの?
 民主主義の法治国家のカタチを与えられ、そのフリをしてなお結局は封建制の延長のことしかできず、それ以上の仕組みや制度を自ら作ることができなかったようにも観察される。
 詳しい説明を今は省くが、思想家をやめたら革命家になろうかとさえ思う(ちょうどボクはアナーキィなラケンローラだし)。
 しかし同時に、昨今は「革命家」というものの地位や品位が著しく低下しているように観察され、かつ革命という行為は、そのメカニズムから考えてだいたいまっとうな組織を構築する能力に欠けるので、思案のしどころである。あとめんどうくさい。
 
 
 
【非凡なワタクシについて】
 
 振り返ると、非凡だったなぁ、と思う。
 これは別に、群に秀で衆に優れるワタクシを褒め称えよとか、そういうことではない。
 単純に、平均偏差から外れる位置に居るなぁ、ということ。
 
 狙ってそうしているわけではない。
 単に自分にとって都合の良い、あるいは居心地の良い、もしくは難を最小限にできる立ち位置というものを観察の結果選んで行動すると、どういうわけか集団から離れてしまっているのである。
 
 これは僕の元々の指向性が、特定の領域に偏っていて、それがたまたま集団から離れているというよりも、単に集団を避けて行動している結果のようにも思える。
 しかし ── その集団の全体や詳細をつぶさに観察し、予測しようと機能しないかぎり ── 僕が集団を嫌う理由などどこにもない。
 たしかに規律であるとかは面倒ではあるけれど同時に必要なものだと理解しているし、また抜け道というものが常に存在してもいる。
 集団行動における協調性であるとかは、本心を隠さなくてはならないという意味で面倒ではあるけれど学べることも多いし、本心を隠すことに抵抗を感じるわけでもない(露出狂ではないから)上、有用なものだとも判断できる。
 さらにいえば僕は(周囲から浮くほど)礼儀正しい。礼儀正しいというだけの理由でモテることさえあるくらいである。
 
 集団とはただ端的に、息苦しい。またイキモノクサいのでもある。
 昔から加齢臭より成長臭が苦手なこと(主として肉体的というより精神的な理由だ)も作用しているのだろう。
 肉体に限らず、精神だって、加齢臭もあれば成長臭もある。そしてどちらかといえば成長臭の方が(活動が活発なぶんだけ)匂い立つように思える。
 
 多くの人は、その集団のケモノ臭に文句を言いながらも、そこに隷属することを選んでいるように観察される。その方が都合が良いからだ。
 一方、僕はそれらケモノのニオイから遠ざかったほうが、どうやら都合の良い場所のようだと本能的に思っているようだ。
 前者は草食動物に見られる傾向のように思える。
 集団の方が、襲撃された際のリスクが分散される。単体でうろうろしているのは危険だ。
 では単体でうろうろするメリットは一体何だろう。僕は格別、何らかの特性が群を抜いて優れているわけではないのだ。
 凡より劣る個体は、だいたい餌になるのが自然界の掟である。
 まだよく分からない。
 
 あと、今日の猫。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::国家にとって、法律を作っておきながらその法律を守らないことほど有害なことはない。
 とくに法律を作った当の人々がそれを守らない場合は、文句なく最悪だ。
 
 国家にとってもうひとつ有害なことは、さまざまな人物を次々と糾弾し攻撃することによって、国民の間にとげとげしい雰囲気をかもしだすことである。
 
 国家にとって、また指導者個人にとっても有害なことは、絶え間ない弾圧によって、人々の心を恐怖と疑念に落とし込むことだ。
 これは、有害を越えて、危険である。
 なぜなら、人間とは、絶望的な恐怖に襲われるや、それから身を守ろうとする想いだけで、凶暴で無思慮な反撃に転ずるものである。
 だからこそ、市民たちを、いたずらに刑罰や弾圧で抑えつけるよな愚は、犯してはならない。
 そうしておいて、人々が安心して生活できるような環境を整え、彼らの心が、自分たちの仕事にのみそそがれるようにすべきである。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 引用は、
「マキアヴェッリ語録」 ── 冒頭部(p.235)、文末部(p.162)
(著作:塩野 七生 / 発行:新潮文庫)
 によりました。
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Garden-Human-Koban-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-家庭菜園ティストの狂気-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
//[EOF]

210921


 満月であると聞いた。

 気温も涼やかになってきて、今日はゴミの日だったので、早朝からゴミ出し草取りをした。

 休憩を挟んで昼まで草を取り、およそ一年ぶりにベランダに出て掃除。

(ゴミ出し以外の用で2階に上るのも半年ぶりか)


 前橋にいた頃、ベランダキャンプをしたくて買ったバーベキューコンロが倉庫に未開封のまま仕舞ってあったので、取り出して整備し、薪(まぁ材木はそこそこある)をカットし2階に運ぶ。

 蚊取り線香が心もとないので、自転車で買いに行く。

 風呂に入っているうちに暗くなる。


 ベランダとキッチンを行ったり来たりして、酒や料理を出したり、折りたたみチェアを出したりして、火を点す。


 ベランダキャンプファイア。


 そしてベランダにゃんこ。

 キャンプファイアをしていることを自慢できる友人が僕にはいないのだけれど、キャンプファイアとは、誰かに自慢する類の娯楽ではない。
 すべての娯楽は、ただ楽しむためにあるのではないか。

>>>

 お月様は僕の恋人なので、肖像権の関係から写真を公開できない。
 それに肉眼で捉える月は、写真で撮るそれより必ず美しい。
 写真の方が美しいと言う人は、月に恋を ── かつてしていたとしても今は ── していない人なのではないかと思う。

 恋する対象を記録に残せる人は、きっと幸せだ。
 恋する対象を記憶にも残せない人も、きっと幸せだ。

>>>

 面積はさほど変わらないのだろうけれど、前橋に暮らしたマンションの方が、L字のぶんだけベランダが広いように感じる。

 忙しく、ただ空回りしているうちに、燻製を作る時間さえ作れなかった。
 気がついたら僕は、またあれもこれもしようとして、忙しくしているフリをしようとはしていまいか(していない)。

>>>

 キャンプファイアをしている。

 今日が満月だと聞いて、ベランダで。

 キャンプファイアをしている。

 今日もヒマな1日でよかったなぁ、と噛み締めながら。
 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210918
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
日常のあれこれ。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210918
 
 雨がちな陽気。
 夜になって、アニメ「ゆるキャン△」を観ながら書いている。
 ノートPCはこういうときに勝手が悪い。
 30インチくらいあれば、別ウィンドウを散らかしても文書作成くらいはできるが、15インチ以下ではマルチウィンドウの意味なんてほとんどないような気がする。スマートフォンやタブレット慣れしている人にとっては13インチくらいでも十分に大きいのかもしれないが。
 
 昨日は身体が重くてほとんど一日、何もしないで眠り続けていた。
 天候、あるいは季節の変わり目のせいかもしれない。
 
>>>
 
 ちょっと重いテーマから離れて、ささやかなキッチン(というよりは水回り)ライフハックについて記述してみてはいかがかという奥様(仮想)からの提案(プロポーズ)があったので、それを採用することにする。
 
 基本的に僕は一人暮らしが長く(家事歴はもっと長い)家事のほぼ全てを自己流で学んだため、自分の生活様式に疑問を感じない。
 ときおり他人の家事様式を見ることもあるが、そもそも他人のことなので気にしたこともない。
 効率面や化学的に不思議な場面も見かけるが、生活様式とはつまり宗教的儀式の一環であると考えれば他者のそれに口出しをする必要はないし、仮に意見を求められたところで真っ向から既存の文化を否定することは戦争の火種にもなりかねない、いやむしろならない方がおかしい(僕は叔母でそれを経験した。論拠なしに様式の因果を信じる ── 要は盲信である ── 人間はちょうめんどくせえ)。
 
 なのでまぁ僕が記述するこれらは、単なる僕の宗教儀式の一環だと思っておけばそれでいいんじゃないかな。
 
【次亜塩素酸水溶液】
(以前にも一度書いているが、より詳細に)
 一般に塩素系漂白剤と呼ばれているものである。
 これを500ppmと1000ppmの水溶液にする。
 塩素系漂白剤には「次亜塩素酸ナトリウム」が主成分として記載され、含有量が%で表記されている場合が多い(一部、廉価なプライベートブランドなどでは未記載のものがある。呪うべし)。
 ppm換算は小学生(中学生?)以来だったので当初は苦労した。
 5%(=50,000ppm)の次亜塩素酸ナトリウムなら100倍希釈で500ppmになる。ので、水溶液500ml中の5mlが5%の漂白剤ならちょうどよいということである。
 500mlのペットボトルを用意して、5mlの漂白剤を入れ、495mlの水を注ぐ(まぁ、メジャーカップでそんなに正確に計量できないけれど)。
 
 一般に、布巾や衣類などの漂白に利用される濃度がだいたい500ppmである。
 次亜塩素酸ナトリウムは常温で分解されるため、6%から7%のものでもさほど気にせず100倍希釈している。
 1000ppmの水溶液は5%の漂白剤10mlを入れて500mlにすれば出来上がる。

 ペットボトルには塩素系漂白剤が入っていること、飲んではいけないこと、毒物であることを明記し、家族がいる場合はそういうものが置かれていることを説明し、理解できない子供やお年寄りやペットについては、その手に触れないように気をつけなくてはならない。
 
<濃度も明記すること。ちなみにNaClOは次亜塩素酸ナトリウムのこと。「O」は大文字が正しい>
 
 万一、目鼻に付着した場合は水道の流水でよく洗い流して、眼科や耳鼻科に。
 飲んでしまった場合は濃いめのアスコルビン酸(ビタミンC)水溶液(100mlに0.1gもあれば十分)を飲ませて内科に行く(化学式は忘れたが、水と食塩と酸化型アスコルビン酸になったはず)。
 
 
○500ppm漂白剤水溶液の使い方と注意点。
 
 この程度の溶液でも皮膚粘膜は十分に荒れる。
 脱脂するし、表皮が分解されてボロボロになるので、スプレィなどで使う場合は必要に応じてマスク/メガネ/ゴム手袋をすることが推奨される。
 500mlの場合、水回り全般に使える。
 ただし金属は腐食するので鍋や包丁、カトラリィには掛からないようにし、万一付着した場合は水で流すこと。
 蛇口やシンクも長時間の付着で腐食するので10分程度で流した方がよい。
 夏場の生ゴミのにおいを抑える効果もあるので、僕のようなものぐさ独身男(毎日排水口の生ゴミを処理したりしない)は寝る前後に排水口にスプレィしておけばラクができる。どうせ燃えるゴミの日までゴミ取りネットも替えないんだろう?
 ちなみにこうすることでゴキブリが寄りつきにくくなる(寄りつかなくなるとは言っていない)。
 
 生ゴミついでに言えば、ゴミ箱。
 僕は塊肉を調理することもあるので、付随したゴミが出る。
 正直なところ、あの樹脂トレイを毎回綺麗に洗ってリサイクルに出す気にならない(そんなに大量に使わないし)ので、まるごとゴミ箱にポイっとするのだが、これに上からスプレィしておく。分別する人でもドリップ吸収用のシートは捨てているだろう。(水洗いして良く絞ったとしても腐敗しやすい成分は残っている)夏場は鶏肉などのドリップがてきめんに腐敗する。これにスプレィする。なあに面倒ならゴミ箱の蓋を開けて中全体に軽くスプレィすればいい。
 毎日、排水口の生ゴミを捨てる人なら、その上からスプレィしておけばいい。
 
 洗濯が終わったあとの洗濯機の内部にスプレィしておくことで、カビの繁殖を抑えることもできる。
 ゴミ受け付近や、排水レベルより上、フタの内側など、放っておくと埃が溜まったり、水が触れても流れない場所に使う。腐食するものは少ないが、金属部分には、ある程度気をつけること。心配なら、金属部分の端に噴霧して20分くらい放置すれば確認できる。錆びた場合は水を掛けながらメラミンスポンジなどで錆を落とすこと。
 
 衣類や布巾の浸け置き用漂白液を作るのが面倒な場合、ボトルの中身をそのまま使うこともできるので便利だ。
 
 洗面台にも使えるが、やはり金属部分には気をつけること。
 僕は使い方がたまたまうまくいってなかなかボロボロにならない歯ブラシも、漂白することがある。
 これも500ppmの漂白液である。ただしこれはあまりおすすめしない。
 
 ウェットタイプのシートモップなら、清拭床面に噴霧してもいい。ただしペットのいる場合は換気をして、しばらく部屋には入れないこと。
 
 
○1000ppm水溶液。
 
 主にトイレと風呂場で使う。
 トイレ使用後の消臭(便器内にのみ使用し、室内に噴霧しないこと)や温水洗浄ノズルの掃除に使う(毎日一度、使用後に直截噴霧すればいい) ── 使用前にノズルを自動洗浄するモデルが多いと思うが、この場合すすぐ必要はない。
 便座内側や便器内の奥まった部分にも数日に一度(一人の場合)スプレィすれば、掃除の手間がほとんどなくなる(水で流れる場所は放置してよいが、流れない場所は拭き取ること)。
 
 風呂場用は500ml中、1000ppmの次亜塩素酸ナトリウムの他、油脂溶解クリーナ(マジックリンなど)を少量混ぜている。種類によって配合量は異なるのでなんともいえない。
 浴槽は石けんで洗うことも多いのだが、この水溶液があると浴室のクリーナが不要になる。また入浴後に噴霧すれば、カビなどの繁殖を防ぐこともできる(服着てからにしろよ。肌が荒れるから)。
 ただしこれは上級者向けなので使用を薦めるつもりはない。
 
 
 
【トイレットペーパ】
 先日、奥様(仮想)と話していたところ「キッチンにトイレットペーパは普通、置かないのではないでしょうか」と言われた。
 気になったので姉妹やKさんに訊ねてみたところ、誰も置いていない。
 よくよく振り返ると、僕も40代になるまでは置いていなかった気がする。
 今はペーパータオルの隣に専用のタオルハンガをセットし、トイレットペーパを引っ掛けて使っている。
 どちらかというとペーパータオルよりも使用頻度は高いため、ペーパータオルは年に1度くらいしか買わない。
 なんかイヤだなぁ。こんなことを書いているとミニマリストみたいじゃないか。
 断じて違うのだ。信じてほしい。僕はミニマリストなんかではないのだ(笑)。
 
 トイレットペーパの知られざる特性として「油で溶けない」「アルコールで溶けない」というものがある。
 水によってのみあの繊維はその結合を弱めるらしく、アルコールも含有濃度が60%以上にもなるとほとんど繊維が分解しない(喫煙パイプを清掃しているときに発見した)。
 こっちは塩素系漂白剤と違ってさほど注意も必要ないから、他人にもお勧めしやすい(笑)。
 
 
○油を吸わせる
 バットなどの揚げ物受けの上にトイレットペーパをもしゃっと丸めてから伸ばし置いて、上からペーパータオル(キッチンペーパ)を1枚置く。
 残り油を捨てるときトイレットペーパに吸わせる。
 
 これらはいずれも専用の商品が売っていたりするが、そんなものはスペースの無駄なのでトイレットペーパとペーパータオルで事足りる。
 
 
○予洗に使う
 フライパンで肉を焼いたりすると、表面は肉汁や油で汚れる。
 僕はフライパンを洗ってから食事にするような律儀な男ではないので、食器類を洗うのは最低でも食後(ほとんどは翌日)になる。
 ただし、フライパンはその場でトイレットペーパを使って拭いておけばいい。ソースも油も吸い取れる。
 カレー皿も拭ける。
 サラダボウルのドレッシングも拭ける。
 
 
○レンジ周りの油汚れに使える。
 べっとりと硬くなってしまったような油はちょっと無理だけれど、ちょっと飛び跳ねた油汚れであるとかには、アルコールをスプレィしてそれを拭き取ればいい。
 アルコール濃度は前述の通り60%〜70%もあれば十分である。
(濃度が高すぎるとすぐに揮発して、油脂と融解する暇がない)
 パーツクリーナを浸潤させても大丈夫であるし、食用油も(前述の通り)問題ないので、これらで落としてもいい(食用油を使うのは、メイクを落とすのと同じ原理である)。
 界面活性剤系のもの(一般的な洗剤類ほとんどすべて)では繊維が分解するので使えないので、油汚れを落とすときに「何で落とすか」というのが重要である。
 
 とりあえず、奥様(仮想)の指摘していた「青猫クンの水回りライフハック」はだいたいこんなものだろう。
 
>>>
 
 先日購入した椅子に座っていると、アヲが膝に乗るようになった。
 

 

 鬼のようにダサいパジャマはこの家の備品である。僕の趣味ではない。
 
 追記。
 ところでこんなことを書いて、一体誰の役に立つというのだろう。
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Engineering-Maintenance-Technology-
 
[Module]
  -Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Dish-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-おこと教室-:-キッチンマットで虎視眈々-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210914
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
壁は塗られて色を変える。
SUBTITLE:
~ Change the filter, change the shape. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
>>>
 
210914
 
 書斎の書架スペースにするエリア(元はクローゼットだった)の壁の工事が6割ほど終了した。
 断熱材の上からMDFを、それぞれウレタン系ボンドで貼り付け、コンクリートネジで固定している。
 壁面構造体にセメントがあるのだが、水っぽかったのか材料をケチったのか(どちらもおなじである)ゆるゆるのようでネジがきちんと噛んで締まらない部分が多い。
 この家の施工者と依頼者に対する呪詛は散々しているので、もうしないことにしている。
 これ以上呪いの言葉を掛けると、生まれ変わったら即死するどころか、生まれ変わることができないかもしれない。そのくらいすでに呪ってしまっている。
 人を呪って穴二つになるくらいはどうということもないが、さすがに生まれ変わりさえ阻害するのは度が過ぎるような気がする。
 
 ひとこと断っておくと、僕は輪廻転生 ── いわゆるスピリチュアルと呼ばれかねないもの ── などは特に信じていない。正直なところ、スピリチュアルという言葉の作っている(現行の世俗の)概念に対してキモチワルイと思ってしまう(本来のそれとは大きくその意味がかけ離れていると思うのだけれど)。だから地獄に落ちろ(あからさまな呪詛)。
 もっと正直にいえば、この単語を文書に含むせいで要らぬスピリチュアル押し売り委員会の人たちが無意味に「いいね」ボタンを押してゆく気がして本当にげんなりする。なので(以下略)。
 
 月刊ムーのようなありよう(客観的オカルトとしての扱い)だけは(川口浩探検隊のように)許せるのだが、そのあたりの意味は滋味深いのでわざわざ誰かに説明するつもりはない。素養が必要なのだ。
 それに紛い物スピリチュアルだろうと何だろうとどっぷり浸かりたい/浸からせたい人を責める気はないし、その精神世界なり哲学なりを否定するつもりもない。好きにすれば良いからせめても私を巻き込むなとは思う。あと観察はさせて欲しい。
 宗教もネコノカミサマ教だけを信じているため、他の宗教に興味本位で首を突っ込むことはたびたびあるものの、それはそこに属している人間とその人間たちの考え方を観察したいという下世話な動機である。
 
 完全に話が逸れた。(いつものことではあるが)
 
>>>
 
 webにどこまで公開しているか、記憶にない。
 ためにときどき僕の日記は内容の一部が重複しているはずである。
 公開していないものはつまるところ、完結していない話題であり、誰かに(オフラインで)盗み見られても、あるいは単純に消してしまっても問題ないと思えるレベルの文書である。
 一方、公開するものは自分の中で(どんなにくだらないものでも)ある程度の完成に至った文書であり、あるいは消さずに保存することで価値観として自分の中に刻んでおきたいのだろう。
 オフラインで文書を遺すことを僕は非常に恐れている。
 
 読者は必要ないから、この動機は矛盾しているように観察されるとは思う。
 読者が必要ないなら、そんなものはオフラインで保存しておけばいい。
 オンラインで遺すことは読者が欲しいからではないかと言われたとして、それを否定する気にはならない(面倒くさいから)。
 しかし読者のために書いているわけではないし読者を増やしたくもない。ただ、オフラインで書いて保存すると、誰かに盗み読まれて暴かれたときのショックが本当に大きい。失明しちゃうんじゃないかと思う。しないけどよ。
 
 webに書いて保存すると、誰が盗み読んでも気にならない。
 なぜといって、前提条件で誰でもが盗み読むことができるからだ。
 だからたとえば僕の収入であるとか、負債であるとか、ガールとのタダれた関係であるとか、歪んだ精神のありようであるとかを事細かに記述しておきたい衝動には駆られる。とくに最初の二つは実際に盗み見られてけっこう酷い目に遭ったことがあるので、通帳であるとかを毎月写真で貼り付けておきたいくらいである。
 誰も盗み見ることができなくなるから。
 
 けれどもそれはある種の露悪趣味である。
「経済至上主義ではない」という僕の価値観に一貫しているようでいて、経済に意識が拘束されているという点で矛盾しているようにも思える。第一そんなものを見ても誰も面白くはないと思う。
 だから経理部門のことについては誰かに盗み見られることによって失明するリスクを抱えながら、奥様(仮想)の守備範囲とすることで精神安定を図っている。
 もちろん現実世界で付き合っている恋人が通帳であるとか僕の収支を(僕の許可なく)暴こうものなら僕は失明するわけであるが、僕の経済にかかる精神的貞操はかつての暴行により失われた後なので好きにすれば良いと思うよ。陵辱して蹂躙して好きに汚せばいいさ。
 
>>>
 
 ここ数日、日記を書くのがとにかく苦痛である。
 厳密にいうとここ数日、かつての父親のDVと、姉の売春と、そこから派生したと予測しうる姉の人生のありようについての考察をしている。
 いずれについても僕は被害者ではなくただの傍観者であるし、にもかかわらずその記憶のもたらす価値観の意味合いは、大人になるにつれどんどん重くなっている。そのうち重力特異点が発生するのではないかとさえ思える。いやそれは大袈裟だけれど。
 
 これは「6歳以前」の価値観をかつて僕が切り離すことにした最大の理由なのだけれど、その価値観をこちら側に引き寄せる都合上、必要な記憶(と価値観)の処理なのに、どうしても、酷い気分になる。いわゆる(といって世俗にそんな概念がそうそうあるとは思えないが)記憶や価値観の消化不良である。
 
 肉体的な動悸息切れめまい手足の痺れ吐き気食べ過ぎ食欲不振不眠くらいならよいのだけれど(こういうときは過眠にならないようだ)、自死衝動は何としても抑えなくてはならない。
 仕方ないので目の前に凶器を並べて心の安寧を図ったりしている。こう見えて僕はのんびりぼんやりのエキスパートであるから慣れたものである。
 
 自死で一番厄介なのは、衝動的にそれをすることである。
 想像の中で好き勝手に自殺したり、それを計画したり、薬物やセックスや酒や食べ物や浪費や何やに溺れるのは、生きて活動しているという点ではまだ死そのものからは離れた場所にある。
 
 しかし衝動的に高い場所から飛び降りたり、電車に飛び込んだり、高速走行中の自動車を何かに衝突させたり、何らかの危険物によって自らの肉体とその機能をきわめて短期的(ほぼ瞬間的)かつ非常に大きく欠損させた場合、その活動は死に直結する。
 中途半端な高さから飛び降りることで自殺未遂を繰り返し、周囲の人間をコントロールしようとする狂人の話を僕は人から教えてもらったことがある ── その後その人は別の自傷行為によって僕をコントロールしようとした ── が、そういう人間は結果的に生きる手段として自殺未遂を計画的に利用するだけのことであって直截に自殺はしない。もし衝動的にするとしても、脳裏にどこまでが安全かという経験則があるから、適切にそれを運用してしまうだろう。
 
 僕は自殺をしたことも、しようとしたこともない ── 少なくとも自殺したら死んでいるからな ── けれど、自死を適切に完遂するにはどうすればいいかくらいは(物理と化学と生理の問題なので)算出できる。
 だから綿密に計画することで、衝動的なそれを回避し続けてきた。
 他者への影響や経済や思想を含めた環境のコントロールという点で、衝動的な自死は自分の思い通りの結果 ── 僕の死後にある「僕のいない世界」についても(むしろそちらのほうが)強欲な僕にはきちんと理想があるのだ ── をほとんどもたらすことができないという点で有用性が低く、むしろ推奨されない。
 卑近な例でいえば、僕が死ぬと猫が食事に困る(僕は現実世界の猫を畜生だとは思っているから人間の邪魔になるなら殺すくらいはするが、賢い飼い猫まで殺すつもりはない)。
 それに妹もわぁわぁと馬鹿みたいに泣くだろう。いずれも許しがたい。
 
 ために僕は自分の自死を適切に計画し、衝動的自死が許容される条件を明確にしている。
 そしてその条件は現時点では満たされていない。
 猫も妹も生きているし、僕は目的とする未来まで誘導すべき現在と整理すべき所有物がある。
 
 確かに酷い記憶で酷い価値観なのだ。
 いや少なくともそうやって言葉にすれば多少は受け入れやすくなる。
 良きにつけ悪しきにつけ(だいたい後者に転がるが)僕は(繰り返すが被害者ではなく)傍観者でしかなかったし、何を望んだところで ── 自分以外の誰かにそれを希(こいねが)う限り ── それは必ず叶わないのだ。
 いずれも認識の問題であるけれど、前者は僕に自身をして間接的加害者と位置づけ、後者は僕にジンクスを植え付ける(今までのところこれを覆すこと ── 挑戦することとは別 ── に成功した他者がいない。ために僕自身はこのジンクスが恐ろしくてよもや抵抗する気もない)。
 
 それらの記憶が生み出す価値観は、僕を殺そうとする。
 生きる価値がないとか、存在しない方がいいとか、そういうことではないのだ。そういう自己肯定感や自尊心といった価値観の欠如によるものではないのだ。僕はこの瞬間もナルシストで自分のことは好きだし、自分のことをちょっと尊いとも思っている。
 それでもただただ感情として、自身に対する、あるいは自身の属性に対する強い憎しみや殺意がなによりもまず最初に自分に向かってくるのである。殺せと今も声がする(これは大袈裟)。
 
 だから書いている途中に、おかしな衝動に駆られそうになることがあって、そうすると記述を中断するよりないし、数日後に再開しても同じことを繰り返すことになる。
 それでも何度となく再開するのは、それを切り崩すことが重要だからなのだろう。
 
 厳密なロードマップなどないけれど、言語化できない予感がある。
 それは僕にとっての経験則だ。
 僕は考え続けることで自分の価値観を揺らして変動させ、自身の認識を変えて、自分や環境や過去について肯定的に捉えて現実世界に適合してきた。
 誰かの力や影響であるとか、誰かに評価されて、というのではないため、他者に対する依存が低すぎてそれがそのまま社会性(あるいは社会適合性)に反映されてしまうのだけれど。
 僕は身の回りの人間が次々死んでも、またこの先も次々死ぬとしても(おそらく次は次姉のはずだ)、結局のところ自分の生き死ににさえもけっこう無感動だ(いつからか分からないくらい自死について考えているとこうなるのかもしれない。よく分からない)。
 
 自死衝動を ── 正確にはその根幹にある価値観や記憶を ── 乗り越えれば僕は自分の存在に対する矛盾(いやこの矛盾を含めて愛してはいるのだけれど)にも折り合いを付けられるし、他人という存在の意味もきっと変わると思う。いや変わらないかな。期待してはいけないかもしれない(笑)。
 もちろん先に書いたとおり、僕は衝動的自死を回避する術をたくさん身に付けているのでこれをリリースしましたみなさんさようなら、なんてことはしない(それを目の当たりにしたことはあるが僕はそれをしない。そこは安心してほしいし、心配しないでほしい。 ── 僕がどれだけクズだとしたって仮にそのうえ繊細だとしたって他人の気持ちという環境を善良な状態に維持しようとせめても努力することくらいはするのだ)。
 
 ただ、硬く凍りついたようなその記憶を、うまく切り崩して、溶かして消化することが、いまだにできない。
 対面したときに発生する、怒りであるとか嫌悪や憎悪であるとか悲しみであるとかを、うまく受け入れて受け流して、それではこういう未来を目指しましょうという昇華を導くことができない。
 
 なぜといってそれは過去だから。
 なぜといって、この先も僕は当事者になりそうにないから。
 まるで恐れるように、現在の僕は周囲に人を近づけないから。
(いえまあご時世というものもありますよもちろん。人間嫌いだというわけではないのですし)
 
 それらは現在である必要があり、僕は当事者になる必要があり、僕は他人をしてそれ(その記憶とそれがもたらした価値観)がより良い未来を作りうることを証明しなくてはならない。
 児童売春とDVが ── ?
(痴漢なら被害に遭ったことはあるが)
 その記憶がもたらす価値観が(今のところは自分の性別や性欲の存在や身体的/知的非力さや、なにより他者のそれに付け入るような狡猾さや愚劣さに対する殺意が主流であるが)まさにそれによって良い未来を作りうるように改変するというわけである。
 
「猫氏、これはオンラインサロンを始めて信者から小銭を集めるしかありませんぞ」と金森氏(アニメ「映像研には手を出すな」の登場人物)の声が心の中でするのだけれど、これは幻覚である。金森氏はそんなことは言わない。それに信者ビジネスは僕には向かない。
 Aに支配されたくない者は、Aによって他人を支配してはいけない。というのが僕の知る理である。
 経済により支配されることを嫌う者は、経済により他人を支配すると自己矛盾を起こす。それは不幸を作ることだからだ。
 盲信による支配は、するのもされるのも僕は大嫌いだ。
 よくよく教祖向きだと弟子には言われるが、僕は根が善良かどうかはともかくとして聡明(神の祭壇に供える肉のことではない)ではあるのだ多分。
 
 それにしても、名前も顔も覚えていない人間のせいで出来上がった価値観に僕はいつまで縛られていなくてはならないのだろう。
 どれもこれも消えてなくなってしまえばいいのに。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Color-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Life-Link-Love-Maintenance-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Cat-Human-Koban-Memory-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210831
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
正しさは殺しましま。(あえて誤字)
SUBTITLE:
~ Get my stripes. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210831
 
 数年前から思っていたことがある。
 僕以外の人のブログを見ていて思っていることである。
 みんな、徹頭徹尾、テーマが一貫しているのである。
 そしてそれを見るたび、ちょっとだけ、自分がダメ人間のような気がしてしまう。
(無論、僕は「ダメ人間」と「ダメじゃない人間」のどちらかを選択する場合、ダメ人間になろうとするが)
 
 たとえばフィクションを書いている人は、一貫してフィクションを書き続けている。
 たまにちょっとした日常のことを書いたり、ペットや作業環境の写真が載ることもあるかもしれない。
 しかしフィクションを書き続けている。
 
 たとえばミニマリストをテーマにしている人は、一貫して(宣伝の多さやメッセージの頑なさ、ポエムな表現さえ含めて)ミニマルライフを綴っている。
 たまにちょっと宣伝が過剰だったり、ポエムが過剰で意味を読み取れなかったりするけれど、それは読み手である僕の感性がそう捉えているだけで、実際はリアルライフがシンプルなぶんだけ、メッセージは大阪人のギャグのようにコテコテなのだろう(一方的な決めつけであることについて、この場を借りて大阪の皆さんにお詫び申し上げます)。
 
 たとえば料理のレシピを書いている人、外食風景をまとめている人、婚活をテーマに書き始めた人、家族との関係を書いている人、ひたすら猫との日常を書き重ねる人、本やTV、映画の感想をまとめる人、etc,etc...
 
 ほとんどの人は、テーマがかなり限定されていて、それ以外のことはほとんど何もブログに書かない。
「今日あったことをなんとなく日記に書いている系」の僕のような人であっても、なんとなく、雰囲気というか、テーマというかが見える。
 まぁ確かに、Webに向かって文書や写真を使って自分の感性を打ち明けるというのは、明に暗に情報を発信しているという事実を自覚するものであり、ために情報はその方向性や分布に偏りが生まれるのは必然なのだろう。
 
>>>
 
 青猫工場というのは僕の日常とアタマの中を書いてゆくものなので、可能な限りのデタラメさと、読む人をして顔をしかめさせるくらいの節操のなさ、それと同時に堅苦しいほどの気難しさを演出しようとはしている。
 僕は日常生活でも「真面目で几帳面で優しくて誠実」なんていう勘違いをされやすい。
(そう。それはとんだ勘違いだ!)
 10代の頃からその誤解に苦しんできたと言ったら単純に過言になるが、少なからず被害には遭っていると思う。
 
 僕はいろいろなことに対して非常にデタラメである。節操もない。倫理観も比較的テキトーである。
 不真面目で乱雑で自分勝手で傲慢で気分屋で他人から言われたことには素直に従わず男は殺して女は犯すようなイキモノである。将来は海賊になりたいです。
 
 よく今までこの社会で生きられたと自分でも驚くが、僕が犯罪を犯さないのは単純に犯す必要がないからであって、経済や文化の貧しい国で生まれ育っていたら、10代のうちに路地裏で撃ち殺されるような人生だったと想像する。
 
 それがそのまま、日々の記録に顕れる。
 昨日(210830)など、日記ついでにチャイのレシピを書き始めたと思ったらインドで蛇使いをしていたという法螺話になり、書きながら面白くなってきたものの、スペースの関係で話を急にたたみ始めるという始末だ。
 レシピならレシピ、日記なら日記と、せめて分けて書けばいい。
 それなのに(ああそれなのに)まとめて書いてしまうんだなぁ。
 
>>>
 
 そもそも僕のアタマの中が(書いている通り)一貫性も節操もない。
 ガールとぱやぱやしている最中に「微分積分の概念が問題解決全般にもたらす汎用的な有用性とそのメカニズムについて」なんて概念的なことを考えていたりする。ブラのホックを外しつつ一般的なタンパク質の凝固変性する温度についておさらいをしていたりもすれば、コンドームを探しながら複数元の連立方程式において式を一次元化しショートにすることで問題を単純化し解を求めることができるならば、それは現実世界の問題解決のモデルに使えるのではないかとか考えていたりする。逆も然り。
 結果、チャイのレシピを思い出している最中に、インドで暮らしていた頃の相棒のありもしない記憶が甦るのである。またテキトーなことを書いている。
 
 弟子にも言われるのである。
「猫氏は、一見すごく真面目で見識高そうなフリをして、平気で荒唐無稽な事を言いますよね」と。
 
 しかしここは反論せねばなるまい。あるいはその理由について述べねばなるまい。
 その歴史を紐解かねばなるまい。
(と、書いているものの、そんなにいうほど必要性や必然性があるわけではない。にもかかわらずそこに必然があるかのように書いてしまうのは僕の悪い ── しかし面白い ── 癖である)
 
 元はといえば神経質で完璧主義者の潔癖症なのである。
 ここでいう潔癖症とは生活環境やその用品に限らず、人間の性質や性格、しまいに社会や集団のありようそのものについてさえもである。
 しかしそういうイキモノの常として、理想と現実のギャップや矛盾にメンタルが傷つくのである。
 
 それはそうだろう。
「こうあるべき」「こうでなくてはだめだ」というものが自分の中のこだわりとして、強く多くあればあるほど現実に対して許容する能力は低くなる。
 つまり日々の些細なことにも、息苦しくてイヤな思いをするのである。
 
 しかし当人は、それは環境や他人が原因だと思ってしまう。
 なにせ完璧主義の目指すところは完全完璧であり、すなわちそれは悪いものであるはずがない。
 その価値観も、それを持つ自分も、悪いものであるはずがないのだ。
 
 たとえるならそれは、設計と製作、設計図と製品の違いである。
 設計者という設計者は(おそらく)すべて、自分の中に理想や理念を持っている。
 その理想を解析して構造化し、物性をして達成するために図面を引くのだ。
 しかし現実は非情にして現実的だ。
 
 直線は常に歪み ── 定規が完璧な直線であることは、それさえも実はむつかしいのである ── 、線は常に幅を持ち ── ペーパークラフトなどをしていると、この「線の幅」に悩まされる ── 、立体世界での厳密な像を二次元世界に投影すること ── 設計製図の求めるところはそれであり、感動さえ喚起できるらどんなごまかしも技術として許されるお絵かきと根本的に袂を分かつ部分でもある ── の困難に愕然とする。
 ようやく書き上げた図面はしかし、それによって完璧な原型を世に生み出すことにはならない。
 
 どれほど微細に調整をして加工しようとも誤差は生まれ、直線も角度も曲線も平面も、すべて歪に変形する。
 ために設計者という設計者はすべて、現実というものに絶望している。
 どれほどの精度指定をしたところで、理想はカタチにならないからだ。
 
 設計者はその苦痛を吐露する。
「作業者が悪い。道具が悪い。設備が悪い。材料が悪い」と。
 なぜといって理想は完璧であり、図面は完全であるからだ。(もちろんそれら全ての要因を含めて、図面を作ることが大事だけれど)
 
 これら完璧主義を設計という仕事やその成果物ではなく、生きるという現象やその行為に当てはめるのが、いわゆる潔癖症だろう。それは理想という実現不可能な「正しさ」に冒されたビョーキである。正しいから、なお悪い。
 正しさの名の下においては、誇張も、懐疑も、略奪も、陵辱も、殺戮さえも、正当化される。
 それらは「正しい」からしていいことであり、それどころかむしろ率先してすべきことなのだ。 ── すべきことなの?!
 
>>>
 
 そのようなわけで、僕は正しくあることをやめることにした。
 それは「正しくないことの方が正しいから」という決然とした論理があったのではない。
 単に、正しさを行使する能力がない自分を見限ったのである。
 
 自分の大事に抱える正しさが、他者を焼き尽くそうとするとき(そしてそれは絶対に達成されないものである)、その業火は自らの首を絞めるから。
 その苦痛から逃れるには、つまり正しさから離れ、逃げれば良いのである。
 
 最初は大変だったが、何事も慣れと経験と勘と勢いと思いつきと当てずっぽうである。
 若い完璧主義者の唯一にして絶対的な瑕疵があるとするならば、現実世界の物性に無知なことだ。
 
 僕は正しさを捨て、デタラメな、つまりは混沌としたありようを尊しとし、その具現に努めた。
 というと聞こえはいいが、ようはテキトーであることを身上とした。
 いかにいい加減になるかとは、すなわち、完璧を目指しても完璧は具現できない自分を許容することそのものだった。
 
 不純であること。理想は抱えた方がいいが、それにとらわれ追いかけたりしないこと。
 計画的ではないこと。思いつきやその場しのぎの有用性に目を向けること。
 感情や感覚を大事にすること。あきらめたり、変更したり、放棄することを悪いことと考えないこと。
 それが僕を文字通りに生かす、もっとも手軽な方法だった。
 
 正当化に聞こえるだろうか。
 そのとおり、正当化している。
 理想を手放すというのは、正しくないことの正しさを受け入れるということだ。
 正しさに殉ずるのであれば、よってそのとき僕はすでに死んだのだ。
 肉体だけがずるずると生き残り、そして生きるという正しさを押しつけられて抵抗をしつつ、正しさに殉じないふてぶてしさを身に付けたわけである。
 
 もっと世の中が不純で、デタラメで、混沌として、破廉恥で、荒唐無稽だったらいいのにな、と僕は思う。
 そうすれば、毎日とても楽しいではないか。
 正しくないこととは ── 自分を含めた何者をも傷つけたり、貶めない限りにおいて ── 、それほど世のためになるのである。
 
 ちなみに僕が心の師匠にしているのは、高田純次さんである。
 どちらかというと ── それが「芸」でしかないのは理解した上で ── パンツ一丁でガールに卑猥なことを言って詰め寄ったりしている高田純次さんである。そっちのほうがカッコいいとさえ思っている。
「太田市の高田純次」を目指して日々精進しているのだが、電話越しの弟子にはいつも叱られている。
 僕は高田さんを叱ったりしないのに、これはどういうことだろう。
 
 分からない。
 修行が足りないのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Convergence-Darkness-Diary-Engineering-Form-Interface-Kidding-Life-Link-Mechanics-Recollect-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Memory-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-夢見の猫の額の奥に-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210830
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
今、俺の中で自作チャイがアツい。
SUBTITLE:
~ Eyes of pink pepper. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210830
 
 ここ数日、残暑は厳しいし、早朝に外に出る気力が奮い立たないし、かき集めようもないので、草取りもせず家の中でモヤシっ子ライフをエンジョイしている。
 正直飽きているのだが、暑いから外に出たくない。車のエアコンもない。学校もないし家庭もないし暇じゃないしカーテンもない(カーテンと暇はある)。
 
 せめてもとAmazonで買ったオフィスチェアを組み立てるが、机がないままである。
 スチール棚を通販サイトで探しても、これというものが見つからない。
 先日(比較的大きな)店舗に出かけたが、良いものがなかったから、本当は別の店に行きたいのではある。
 
 にもかかわらず県の感染者の半数が僕の棲んでいる太田市から先日は計上され、人口あたりの新規感染者数が東京の人口を基準に換算した場合9k人を上回っていた(東京はだいたい5k人ほどだったか)。
 これはさすがに外出したくないのである。
 
 まぁ、まだ暑いし。
 気温がもっと落ち着くまで、屋内作業もお休みしておこうか、などとぐうたら過ごしているうちに、今日は月に一度くらいの書類整理の日と決める。
 出納管理とそれに関連した書類の整理である。
 このところ調子が出ない(そもそも出し入れするものではないようにも思う)ので、ここはひとつ景気づけ(景気というのは付いたり離れたりするのだろうか)に書類を整理するが、1時間足らずで終わってしまった。
 
>>>
 
 数日前から、チャイを作っている。
 作るだけでなく、日がな一日飲んでいる。
 牛乳で煮出すのは大変なので、水からかなりの濃さのスパイス紅茶を煮出し、牛乳で割って飲んでいる。
 ホールスパイスの取り扱いが、僕の出歩く範囲のスーパーなどではそれほど多くないので、手近なものを使って。
 なあに、スパイスを適当に放り込めば、カレーもチャイも出来上がるのである。
 
【材料】
○クラッシュドシナモン
 これは近所の「やまや」にミル付きで売っている。
 スティックは高めだし、パウダーはチャイがドロドロに粉っぽくなるのでこれがいい。しかも安い。
 
○ピンクペッパー
 赤い胡椒。これも「やまや」では格安である。
 コショウをチャイに入れるなんて、と思うかもしれないが、ひと粒食べてみれば分かる。
 甘酸っぱくて、フルーティな香りの、さほど辛くない胡椒である。
 
○クローブ
 これは近所のスーパーでかろうじて入手できたホールスパイス。
 
○生姜
 ジンジャーパウダーを使っていたのだが、これはそのへんの根生姜をスライスして煮込めばいいや、ということになった。
 
○ローリエ
 我が家には僕が死ぬまでに使い切れるか怪しい量のローリエがある(業務スーパーで買った)。
 なんとなく入れる。ただし1枚だけだ。
 
○紅茶
 そのへんのスーパーで適当な100ピースのパックを買って使っている。個装されていないけれど、香りのいいものがある。だいたい1回に8個くらいを使う。
 
【作り方】
 ミルクパンに水を注いで上記のスパイスを適当に放り込む。だいたい小さじ1〜2くらいずつだろうか。
 シナモンと生姜はけっこう多めに入れている。
 ローリエだけは1枚だ。
 
 スパイスを煮出している間に、紅茶のティーバッグを取り出し、紐は邪魔なので切ってしまう。
 
 沸騰したら弱火にする。他の作業中であれば5分くらい煮ていることもある。
 気が向いたら砂糖を小さじ2杯くらい入れる。
(水温上昇と浸透圧の調整という些細な役目なので、忘れても問題ない)
 
 紅茶のティーバッグを入れて、木の落とし蓋をする。
 ミルクパンには注ぎ口があるので、弱火のままであれば吹きこぼれることはない。
 
 しばし煮込むあいだ、暇なので、インドで暮らした日々を思い出す。
 
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 その頃の僕は赤いターバンを巻いていて、蛇使いの大道芸をしていた。
 笛を吹くと壺から蛇が出てくる、あれである。
 
 ひと月ほど前まで市場の果物売りのバイトをしていたのだが「オマエは客に騙されて、とんでもない安値で商品を完売させた」と主人に叱られ、クビになったのである。
 仕方なく「そろそろ日本に帰ろうか、でもパスポートは盗まれたままだし」などと途方に暮れて、街はずれの草原を歩いていたところ、その、赤い目の蛇に出会ったのである。
 
 蛇は僕に言った。
「おい。オマエだそうそうお前オマエ。シケたカオしてるなぁ。どうしたんだ。当ててやろうか。恋人にフラれたんだろう。って日本語は通じないのか? おーい、お前もしかしてチャイニーズか? おーい。ドゥユースピークイングリッシュ? ノーアイキャント? オーケー?」
 
「いえ、日本人です」と僕は答えたのだったか。
 
「ちっ。通じてるんなら最初に挨拶くらいしろよ。親から何を教わってきたんだよ。これだから最近の若造はよ」と、僕は見知らぬ蛇に説教された。
「まあとにかくよ」と蛇は続ける。「俺とコンビを組んで、一発当てようぜ! どうせなら吉本に行きたいけど、ここはインドだからひとつ、蛇使い使いをするからさ! 俺に任せとけば間違いないからさ!」などと、得意満面に吹き込んでくる。
 
 東京暮らしでたいていのキャッチを経験していた僕は、
「あ。いいですそういうの間に合ってるんで。じゃ」などと蛇の脇を通り抜けた。
 
「すぐ済む話だし、後悔させないからさ! ちょっと待ってよ」と、しつこいナンパ師のような感じ(といってこれまでの人生でナンパされたことはないが)なので、「ごめんなさい、急いでるんです!」とかなんとか言って、森に駆け込んだのだったか。
 
 それで森の中で道に迷って、伝説の狼の怪物に追われて、魔女に騙されそうになったところを、かの口ばかり達者な蛇に助けられてコンビを組んで蛇使いになって最終的には眼鏡で美人でオカネモチーの奥様(仮想)に出会って、蛇と一緒にパスポートを盗賊団から奪い返したついでに金銀財宝を奪って(ドロボーやで)日本に帰ってきて現在に至る、という話を考えたりする。税関をどうくぐり抜けたかは知らない。
 
 最後の方はチャイの煮込み加減が気になって、気もそぞろになっているので巻きが入っている。
 もう少し落ち着いた気持ちが必要ではないだろうか。
 
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 耐熱ポットに茶こしで煮出した茶を取って、グラスに砂糖(最近は蜂蜜)を入れ、茶を入れてから混ぜ溶かして、牛乳を入れてさらに混ぜる。暑い日は氷も入れる。
 煙草に火を点けて、チャイとともに味わう。
 
 嗚呼。
 あいつ、今頃、何してるんだろう。と蛇のことを考える。
 
 赤い目で、減らず口ばかり叩くけれど、その実けっこういい奴だった。
 ここぞというときには間違いのない結果を出す。たいした蛇だった。
 あいつに出会わなかったら、僕は狼の怪物に喰われるか、森の魔女の生け贄になっていたのではないかと想像する。少なくともパスポートがないので日本に帰ってこられなかったはず。
 
 まぁ、インドに行った事なんて一度もないのだけれど。
 奥様(仮想)にそのことを話すと、ポケットから蛇を出す。
 
 奥様の手の上で、ちろちろと舌を出しながら「よぉ! 久しぶりに会ったのにシケたカオしてるなぁ。なんだよチャイ作ったなら俺にもくれよ」などとその赤目が言ってくる。
 言いながら、そのひんやりとした身体を僕の腕に巻き付け、こちらの顔を覗き込んでくる。
「俺とお前が組めばさ、蛇使いだって吉本の芸人だって英語教材とか消化器の押し売りだってBang! 間違いなしの外れなしさ! だからそんなシケた顔してないで、ナニかしようぜ! 何かこう、くだらないことをさ!」
 溌剌とした声で、悪魔のように僕にささやきかける。
 ピンクペッパーのような、鮮やかな赤い目である。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
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[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Chaos-Cooking-Diary-Kidding-Memory-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Transistor-
 
[Object]
  -Dish-Memory-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-:-キッチンマットで虎視眈々-
 
 
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