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TITLE:
芸術について草取りしながら考える。
SUBTITLE:
~ Sly dogs. ~
Written by BlueCat

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::人間にとって最高に栄誉ある行為は、祖国のために役立つことである。
 具体的に言えば、法律を制定し、制度を整備することによって、国の改革に力をつくす人々のことである。彼らこそ、誰よりも賞賛されてしかるべきだろう。
 なにしろ、少数の人々だけがそれをやれる機会に恵まれ、その中でもさらに少ない数の人間が、その機会を活用できるのであり、そのうえこの中でもほんの数人が、実現させる人になるのだ。
 だからこそ、人の望みうる栄光の内でも最高の栄誉が、この最後の部類に属した人々には与えられるべきである。
 
 
 

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210922
 
 未明に目覚める。
 最近は5時でもまだ暗い。夏は終わったのである(ありがたや)。
 
 明るくなってから草取り。休憩を挟んで10時頃まで。
 花を咲かせるもの(名前を教えてもらったはずだが忘れた)の間から生えるものが多く、また僕の嫌いな西の方角にも背の高いナニカが大量に生えているのでそこに手をつける。
 根元を分けようにも混雑していて、どうにもカサが進まない。
 一日では終わらないなと最初から思っていたが、案の定、終わらない。特に気にしない。
 
 畑(にする予定の花壇)の方も相当に荒れているので、草を取る。
 こちらは片っ端から抜けば良いのでラクである。
 そしてナスが自生してしまっていた。
 昨年は全く(食べられるほどの)実を付けなかった品種が ── 株ごと鍬ですき込んだ結果 ── 堆肥醸成エリアで勝手に育って大きな実を付けている。
 なるほど、このエリアの土づくりには成功したと見てよいのだろうか、だとすれば周囲のいわゆる雑草たちがよく育っているのも頷ける。
 
 先週だったか、ついに耕運機を買ったので、少し耕す。
 エンジン式は結局やめて、廉価なモータ式にした。
 ガソリンは、買うのも保管するのも(以前に比べると)簡単ではない。
 ガソリンエンジンであればオイル交換も必要だろう。
 雑草も断ち切れそうな刃の付いたエンジン式が欲しいといえば欲しいが、そこまで大きな畑ではないのだからと考えた次第。
 
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【芸術というものについて】
 草取りをしていて、芸術についてぼんやり考えていた。
 誰かがどこかですでに語っているものだろう。言語には定義というものがそもそも存在している。
 
○芸術というものは私的なものである。
 
 芸術というのは古くは、貴族たちの慰みのために発展したものと記憶している。
 彼らは専属の音楽家や絵描きを擁し、舞踏会(葡萄買いでも武道会でもない)には演奏をさせ、自身の肖像を描かせては後にまで自身の面影を遺そうとしたことだろう。
 それは生活に追われることのない人間にとっての娯楽であり、生活に追われていても(あるいはだからこそ)そうした分野に才を持つ者の活躍の場であったはずだ。
 すなわち社会がある程度以上豊かでなければ成り立たないし、経済による交換が 適切に働く環境があったことを示している ── 芸術作品を食品などと物々交換するのはなかなかむつかしいだろうから。
 
 しかし基本的に芸術というのは過去も現在も私的なものだと思える。
 つまり個人から発し、個人に受け取られ、そこで伝えられるメッセージは ── 言語によって構成される文学でさえ ── 非言語的であるが故に千差万別になるものだろうということだ。
 
 
○商業的芸術
 
 ある段階で、芸術は商業化したのだろう。
 もともと経済と交換ができるものになっていたし、時価額の変動もある。
 富めるものにとっては ── かつての貴族がそうしたように ── 己の富を示す道具としても使えるし、作品に心奪われてしまった者にとっては、金銭に換えられない価値を持つだろう。
 音楽や映像、文学などの作品に至っては、広く知れ渡り、多くの人に価値を見出されることが商業的成功としてもはや不可欠のステータスになっている。
 ごく少数の人間にのみ高く評価され、高額で取引されることと、広きに高く評価され、にも関わらず廉価に取引されることとは、結果的に同義だと思う。
 
 
○社会的芸術
 
 芸術は同時に文化だから、鑑賞者にとっての ── 彼らの見出した ── 意味が、芸術の意味(つまり価値)に匹敵することになる。
 その意味で、一人の人間を(定量的に計ることは不可能だが)100感動させたとしても、万人を1感動させることには遠く及ばないことになる。
 私的なるものと社会的なるものとが、時に相反し、多くは後者の圧力に押し流されるのと同じように。
 
 
○工業的芸術
 
 商業化の流れによって、芸術は「個人の非言語的発露」から「鑑賞者の非言語的受容の制御」という性格も持つようになっただろう。
 端的に、ウケを狙って作り込まれた作品であるとか、流行りものに乗じた模倣的とも思える作品がそうだ。
 例えば(厳密な定義も知らないしロクに見たこともないが)「セカイ系」と呼ばれるジャンルがそうだ。昨今では「転生系」がそろそろ飽和した頃合いだろう(え? まだしてないの?)。
 衆をして娯楽を与え、対価を生むという点で、目的が先に立ってマーケットで成功した(それこそが目的だ)と思えなくもない。
 仮に原点となる作品が非常に私的な指向を持つ作品であったとしても、誕生時に目的を持って、その機能を全うすべく設計された作品の全ては、ある意味で工業的な芸術作品だと思える。
(芸術的工業製品もまぁ、それに近いと言えなくもないか)
 
 
○芸術というのは文化的なものである。では文化とは何なのか。
 
 考えるに文化というのは、その社会であるとか、その時代であるとかにおける、人柄であるとか、性格であるとか、哲学のことだろう。
 つまり一定の時間的/空間的に切り取られたエリアにおける言語化の可否を問わない精神性の体現である。
 そして芸術は、あくまで文化的なものでしかなく、文化そのものではないから、一側面を映すにせよ、あるいは一助を為すにせよ、文化=芸術とはならないし、そうであったらおかしいのではある。
 
 
○余談(エヴァンゲリオンという文化について)
 
 というようなことを考えて、ふと思ったのが、エヴァンゲリオンの劇場版の最終作のこと。

 

 ── ちなみに僕は思想家(自称)なので、これ(思考)が仕事である。お金にはならないのだが、考えることで奥様(仮想)が僕を養ってくれるというシステムが僕の生活を支えている。
 
 あれは最初「商業的大衆娯楽作品」として生まれた(あるいはそのように思わせた)のに、最終的に「私的芸術作品」として回帰してしまった(あるいはそう感じさせることになった)のではないだろうか。
 まぁ、シリーズほとんど見ていないし、全部見るほど興味もないのでなんとも言えないけれど(新劇場版はたまたま全部見た)。
 ただ大きく賛否が出たのことは、その現象そのものがやはり商業的には成功だったのだろうし、同時に、鑑賞者たちの技量(鑑賞の能力や素養)の発露でもあるように思う。
 
 あのシリーズを(あるいはあの結末や世界の仕組みを)それでも良かったと思う層は、相応に芸術作品に対する素養があるのだろうと思えるし、あれはないと憤る層は、芸術ではなくて商業的大衆娯楽を求めていたものと思う。
 喩えるなら「笑っていいとも!」を見ようと思ってTVのチャンネルを合わせたら「日曜美術館」が放送されていて、ピカソの「ゲルニカ」とか、ゴッホの「ひまわり」を延々1時間に渡って見せられたような気分だったのではないだろうか。
(え? もう「笑っていいとも!」放送してないの?!)
 
 まぁ、芸術というのはくれぐれも(感覚や精神的影響という意味において)非常に私的な存在なので、社会現象(というほど広い範囲とも思えないが)と呼ばれるほどにまで娯楽作品として知名度を上げておいて、それを私的芸術作品として収束させるというのは、ある種の押し売りだと思われても仕方ないだろう。
 そのムーブメントも含めて考えれば、あれはあれをもって文化なのである。
 作品が自分の思うようなものでないと(それを受け取る自身の感性を完全に棚に上げて)憤った観察者が製作者を武力制圧しようとするような。そういう現象も含めて。
 
 そしてこの国の文化は、かくも禽獣に近くなったのかもしれないと思うのではある。
 
 
 
【日本はもとより独裁国家だったのではないか】
 
 法治国家のつもりらしいけれど。
 というのが昨今の感想。え? 封建制なの?
 民主主義の法治国家のカタチを与えられ、そのフリをしてなお結局は封建制の延長のことしかできず、それ以上の仕組みや制度を自ら作ることができなかったようにも観察される。
 詳しい説明を今は省くが、思想家をやめたら革命家になろうかとさえ思う(ちょうどボクはアナーキィなラケンローラだし)。
 しかし同時に、昨今は「革命家」というものの地位や品位が著しく低下しているように観察され、かつ革命という行為は、そのメカニズムから考えてだいたいまっとうな組織を構築する能力に欠けるので、思案のしどころである。あとめんどうくさい。
 
 
 
【非凡なワタクシについて】
 
 振り返ると、非凡だったなぁ、と思う。
 これは別に、群に秀で衆に優れるワタクシを褒め称えよとか、そういうことではない。
 単純に、平均偏差から外れる位置に居るなぁ、ということ。
 
 狙ってそうしているわけではない。
 単に自分にとって都合の良い、あるいは居心地の良い、もしくは難を最小限にできる立ち位置というものを観察の結果選んで行動すると、どういうわけか集団から離れてしまっているのである。
 
 これは僕の元々の指向性が、特定の領域に偏っていて、それがたまたま集団から離れているというよりも、単に集団を避けて行動している結果のようにも思える。
 しかし ── その集団の全体や詳細をつぶさに観察し、予測しようと機能しないかぎり ── 僕が集団を嫌う理由などどこにもない。
 たしかに規律であるとかは面倒ではあるけれど同時に必要なものだと理解しているし、また抜け道というものが常に存在してもいる。
 集団行動における協調性であるとかは、本心を隠さなくてはならないという意味で面倒ではあるけれど学べることも多いし、本心を隠すことに抵抗を感じるわけでもない(露出狂ではないから)上、有用なものだとも判断できる。
 さらにいえば僕は(周囲から浮くほど)礼儀正しい。礼儀正しいというだけの理由でモテることさえあるくらいである。
 
 集団とはただ端的に、息苦しい。またイキモノクサいのでもある。
 昔から加齢臭より成長臭が苦手なこと(主として肉体的というより精神的な理由だ)も作用しているのだろう。
 肉体に限らず、精神だって、加齢臭もあれば成長臭もある。そしてどちらかといえば成長臭の方が(活動が活発なぶんだけ)匂い立つように思える。
 
 多くの人は、その集団のケモノ臭に文句を言いながらも、そこに隷属することを選んでいるように観察される。その方が都合が良いからだ。
 一方、僕はそれらケモノのニオイから遠ざかったほうが、どうやら都合の良い場所のようだと本能的に思っているようだ。
 前者は草食動物に見られる傾向のように思える。
 集団の方が、襲撃された際のリスクが分散される。単体でうろうろしているのは危険だ。
 では単体でうろうろするメリットは一体何だろう。僕は格別、何らかの特性が群を抜いて優れているわけではないのだ。
 凡より劣る個体は、だいたい餌になるのが自然界の掟である。
 まだよく分からない。
 
 あと、今日の猫。
 
 
 
 
 
 
 

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::国家にとって、法律を作っておきながらその法律を守らないことほど有害なことはない。
 とくに法律を作った当の人々がそれを守らない場合は、文句なく最悪だ。
 
 国家にとってもうひとつ有害なことは、さまざまな人物を次々と糾弾し攻撃することによって、国民の間にとげとげしい雰囲気をかもしだすことである。
 
 国家にとって、また指導者個人にとっても有害なことは、絶え間ない弾圧によって、人々の心を恐怖と疑念に落とし込むことだ。
 これは、有害を越えて、危険である。
 なぜなら、人間とは、絶望的な恐怖に襲われるや、それから身を守ろうとする想いだけで、凶暴で無思慮な反撃に転ずるものである。
 だからこそ、市民たちを、いたずらに刑罰や弾圧で抑えつけるよな愚は、犯してはならない。
 そうしておいて、人々が安心して生活できるような環境を整え、彼らの心が、自分たちの仕事にのみそそがれるようにすべきである。
 
 
 

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[出典]
~ List of Cite ~
 引用は、
「マキアヴェッリ語録」 ── 冒頭部(p.235)、文末部(p.162)
(著作:塩野 七生 / 発行:新潮文庫)
 によりました。
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Garden-Human-Koban-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-家庭菜園ティストの狂気-:-ひとになったゆめをみる-
 
 
//[EOF]