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TITLE:
シン・エヴァンゲリオン劇場版を観る。
Written by BlueCat
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::宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた。ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界に映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫(えいごう)はこれただ瞬時 ── 涅槃(ねはん)はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存するという道教の考えが彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。
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210814
たまたまAmazonでカートの定期整理をしていたら、ヱヴァンゲリヲン新劇場版の最新作(シン・エヴァンゲリオン劇場版)がリリースされていたので見る。
シリーズなのにタイトルが違うのは、青猫工場みたいな酔狂だからだろうか。
酔狂とは傍目には理解しがたいものなのだと理解する。
ちなみに僕は基本的に、急ぎの買い物をAmazonではしない。
欲しいかなぁ、と思ったものを額も関係なくカートに放り込んで気が向くまで寝かせ、ひと月に一度くらい観察して、本当に必要なものは気が向いたら買うという程度である。
なので「なんとかセール」も基本的に無視。
何かを買い叩くとき、何かを踏みにじるとき、それは翻って自身にそうすることと等しいからだ。
会社員をしていたときの仕事もそうだったし、無職になった今もその哲学は変わらない。
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僕はどういうわけか昔から「エヴァンゲリオン好きそう」という評価を受けるのだけれど、実のところまったく興味がない。
そもそもロボット(ヒト型を含む)は好きなのに、ロボットアニメに興味がないようだ(今知った)。
「好きなロボットアニメは」と尋ねられたとして、回答に窮する。そもそもろくに見たことがないので好きも何もない。
いや「宇宙戦艦ティラミス」とか「シドニアの騎士」あたりは(最近暇つぶしに)見たから、いやでもしかし「好きで他の人におすすめしたいか」と問われると困るのではある。
ロボットアニメというのはいずれも外連味が効いているとは思うが、どちらかといえばファンタジィに近いと認識している。
だからゲームとしてのヒト型ロボは好きだけれど、物語として楽しめる気がしないし、SFの括りにされるのはちょっと心外な気さえしてしまう(笑)。
TV版のエヴァンゲリオンもWebで少し見たことがある(どうやらいつも途中で他の作業をしてしまうらしく、あまり記憶にない)。SFとして斬新な部分はあったようには思うが、結局あの兵器はロボットではなくクリーチャだし、カミサマ ── の遺したテクノロジィではなく、カミサマそのものやその能力 ── がSFに出てきてしまうとあってはデウスエクスマキナの再来でしかない。(FSSも結局よく分からない産物になっちゃったしなぁ)
「何でもあり」になってしまうから、僕にとってのエヴァンゲリオンシリーズは、ロボットアニメではないしSFとしても「ちょっと斬新な切り口だった」というだけの、ただの青春アニメに近い。
だからシリーズを通してどうしてあんなに話題になったのか、あまりよく分からない。
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ちょっと余談になるが、僕にとってヒト型ロボット兵器の醍醐味と思うものがあるとすれば、それはメカとしての損傷と能力の発揮にあるのだ。
だから繊細な5本指のマニピュレータはすぐに破損するものだと思うし、関節は装甲による保護をしづらく、電気的損傷によってたとえば肩から先が動かなくなるとか、そういう状況が発生して然るべきだと思っている。
「肩を斬られました」→「はい爆発四散しましたー」という図式は、ちょっとどうなんでしょう、と思うのである。
確かガンダムだったか、頭部を失った機体が、それでも稼働して戦闘を続行するという描写があったと聞く(見たことがないので知らない)。そのくらいが楽しいと思う。ロボットがロボットであることの利ではないか。
電力、弾薬をはじめとするリソース管理があり、破損や欠損、熱による機能障害があり、壊れながらも動くから機械は楽しいのである。
肩の関節が動かなくなった機体が、肘から先だけで射撃をしたり、質量ありきで落下を含む体当たりをしたり、手頃な武器がなくなったので落ちている車両や機体パーツ(腕なんかよいではないか)を鈍器に使ったり、動力系をオーバーロードさせた攻撃や機動をしたり。そういった「機械ならでは」という使い方をしてほしいのである。
でもだいたいのロボット物語は「主人公の成長」がテーマだから、かすかに足先を斬られた機体も爆発してしまうし、主人公機には弾がかすりもしないし、火器は動作不良を起こさないし、弾薬は潤沢で誘爆もしないし、動力炉が熱暴走したりしないし、レーザー兵器を受けて装甲と関節が癒着して機動能力や精度が落ちたり、伝達系が損傷して特定の機能が使用不能になるとかそういうこともない。
恋愛だの葛藤だの確執だの愛憎だのといった、人間くさいドラマに終始する。
(たぶんそれでいいのだろうけれど)
(伝達ケーブルが断線してしまったからどうしよう、とか、クーラントが漏れたけれどどうしよう、とか、サーボに誤差が発生したけれど手動でどうにかしよう、とか、そういうのは求められていないのだと思う)
その点、ゲームはかなり技術的になる。
ステータスがどうだのスキルがどうだの、残弾がどうだの、中には部位破壊のシステムがあるものもある。
シミュレーションになればもっと複雑なものもあるから、それであれば楽しい。
物語でも、バトルテックシリーズは、まぁ楽しめた方かもしれない。
さて話を戻そう。
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輪廻のように繰り返される物語は確かに斬新だと思う。
その場その場で明確にされない固有名詞や意味深な言い回し(俗に「伏線」として認識されているもの)が多かったから、あれこれ言い合うのが話題性そのものになったのかもしれない。
登場人物も、テンプレートのようなツンデレキャラであるとか愚図な主人公であるとか人形のようなヒロインであるとかが受けたのかもしれない。そもそも日本はキャラ萌え文化の人が多いという ── フィクションは単発よりも続きものが受けるらしい ── から、そう考えれば納得か。
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「あの人形のような感じがいい」と僕のある友人は綾波さんをして言う。
あの生気のなさ。それがいいそうだ(ある種のビョーキだろう)。
僕には良さが分からない。
個人的には長髪眼鏡で破天荒な「乳の大きいいい女」のほうが明らかにいい。
むしろ完璧だ。
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伏線であるとか、その回収であるとかに僕は興味がない。
それはストーリィの枝葉でしかないから、気になったらあとで仔細に観察すればいい。
幹の部分はといえばカミサマが出てくるSFのテイをした父子であるとか親子であるとか友達であるとかの人間物語のように思える。驚くに値しないが、映像は美しい。
登場人物の恋愛感情が冷めていたりするのも ── 現実世界の時間が長すぎたのが原因かと考えると ── シュールで面白い。自己愛に満ち満ちた主要人物の内面表現もむしろ潔ささえあって心地よく、嫌いではない。
「Q」のあたりから並行世界的な、カミサマの領域的なものが出てきていた気がする(水面にヘキサの欠片が飛び散ったり、など)が、その表現、概念的なものを現実世界の人間が現実の事象として感覚している描写の数々は(終盤にこれでもか、と羅列される)斬新で、何度も笑った ── 面白おかしいシーンではなかったと思うが「概念世界で実存世界の兵器を使って戦闘する」という表現はさすがに面白かった。
そもそも現実世界がめちゃくちゃになってしまって、カミサマの領域と融合しつつある世界では、何が現実なのか分からないし、観ているこちらとしても、その物語の人物にとっての現実が不明瞭になる。
知らない世界の知らないルールの知らない事象であるから、固有名詞における作用や諸元について、仮にそれが伏線であろうとなかろうと、僕は理解することをすぐに放棄する傾向がある。
「なんとか粒子」とか「なんとかフィールド」とかそういうものは、僕らの肉体のある世界に存在しない場合、その物語の中の人物たちの取り扱い(行動)によってしか、その作用を理解できないからだ。
(世界設定や伏線に対する考察であるとかも、これにあたることが多い。考察するのは楽しいと思うが、僕はそれを最初から放棄する)
だからストーリィと登場人物をぼんやり眺めていれば、物語はだいたいは理解できると思っているし、登場人物 ── あるいは見ている自分 ── に理解できないものは理解しなくてよいものと認識している。説明すべきは説明され、説明すべからざるものは説明されない。放っておけそんなもの。
(同様の原理で僕は意味不明な物事をフィクションに詰め込むことがある。ああいうのはごちゃごちゃにしているほうが楽しい)
なので「なんとかの槍」がどうの、とか、それをどうする、といったあたりは理解しないまま観続けた。
とにかく「何をどうするとどうなる」といった説明らしきセリフはあるのだが、さっぱり意味が分からない(笑)ので、雰囲気を愉しむしかない。そもそもこれはSFの皮を被った純文学ファンタジィ系だ。
それにそう。雰囲気は悪くない。
観終わった感想としては、まぁ、楽しかったかなぁ。
雰囲気映画だし、芸術作品風でもあるし。
エンタテインメントとしても、人物たちはそれなりに魅力的だと思うし、名言もちりばめられているし、そもそもSFのフリをした純文学ファンタジィ系なのだから。
なんというか、絵画を鑑賞するような感じで見るしかないと思う。
シーケンシャルな辻褄(笑)を求める人には多分向かない。コアなファンのあいだでも賛否両論というから、まぁそうなのかもしれない。輪廻する雰囲気映画哲学系ですもの。
でもけっこう笑っちゃう。冗談みたいなことを真面目に、真面目に作っているから。
何してるの? って思って笑ってしまう。
茶化しているわけではない。メタ表現によって、もともと存在していたベースラインを逸脱するような作りさえ真面目にしているから、その逸脱が滑稽なのだ(そして個人的には楽しい)。
シリアス路線だったフィクションがその登場人物をして「フィクションですよー」って言ってしまうような。その手法は通常、ギャグ路線のストーリィでしか見られなかったもののように思える。
複雑な設定も、難解な世界も、ぜんぶ少人数の中にある概念世界のことだった、と考えると滑稽でおかしみがあるし。
あるいは輪廻する自分という呪いから解放される物語だと考えればまぁ、ああいう終わりも納得ではあるし。
ただ、箱庭世界の中で完結する話が欲しかった人は、確かに怒るよなぁ(笑)。「僕のエヴァンゲリオンを返せ」って。
いやしかし。
長髪眼鏡。乳の大きいいい女。
うん。
眼鏡ガールはいいなぁ。
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::かくのごとくして人は直ちに天に直面するようになった。新しい意味は次第に生の術にはいって来た。茶は風流な遊びではなくなって、自性了解(じしょうりょうげ)の一つの方法となって来た。王元子(おうげんし)は茶を称揚して、直言のごとく霊をあふらせ、その爽快な苦味は善言の余馨(よけい)を思わせると言った。蘇東坡(そとうば)は茶の清浄無垢な力について、真に有徳の君子のごとく汚(けが)すことができないと書いている。仏教徒の間では、道教の教養を多く交えた南方の禅宗が苦心丹精の茶の儀式を組み立てた。彼らは菩提達磨(ぼだいだるま)の像の前に集まって、ただ一個の椀から聖餐(せいさん)のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して十五世紀における日本の茶の湯となった。
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[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「茶の本」(著作:岡倉 覚三 / 訳:岡村 博 / 発行:岩波文庫)
によりました。
なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
-青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Link-Mechanics-
[Module]
-Condencer-Reactor-
[Object]
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[Cat-Ego-Lies]
-本棚からあくび-
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