// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210816
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
生者の国。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210816
 
 お盆というものがどういうものなのか、知ってはいる。
 しかし長い間(およそ40年。生まれてからほとんどの時間である)お盆という行事をしないで生きてきたので、どういうものなのか、感覚としてはよく分からない。
 帰省する故郷を持たないし、帰るべき実家というものもない。
 
 前者は、僕が「今いる場所」を遠く離れる必要を感じたことがない帰結である。
 数年前、就職で京都に行くことになりかけたが、地元のかつての取引先に勤めることになったので結局群馬にいる。
 栃木県(の群馬県との境寄り)で暮らしたことが20年近くあったが、近所の川を越えると、もう群馬県だった。
 群馬県は、火山(温泉)が多いわりに、地震による被害が少ない。地盤が固いのだろうか。
 台風もまともに直撃することがほとんどない。平野部の土砂災害も少ない。これは山に囲まれているせいだろう。
 知名度がひどく低いのは僕には好都合だ。
 地方都市化が進めば、僕はもっと山奥に逃げることを考えなくてはならない。
 だから自慢できるような名物名所が何もないことが、そのまま優位性を持つ。
 落雷による被害はこの10年ほどで大きく減った。ただし夏の気温はかなり高い場所になったと思う。
 
 学生時代、東京に憧れる友人や恋人もいたが、僕にはぴんとこなかった。
 どこに行っても、結局何も変わらないと思っていたし、何より僕は人混み恐怖症だった。
 都会への憧れが皆無で、むしろどこまで辺鄙な場所に行けるかを夢想していた。
 結局のところ、その「憧れのどこか」が遠ければ遠いほど、掛かるリソース(お金や時間やコネクションや準備)が大きくなることは変わりなく、そのときは良いと思っていた場所が、棲んだら思ったより良い場所ではなかった、なんてこともあるような気がする。
 
 たとえば子供が成人する前なら、学校や買い物をする場所、公共交通機関の近くが住みやすいだろう。
 しかし子供が独り立ちしたら、夫婦でなのか独りでなのか、過ごす場所がそこになる。
 子供の身体が未成熟だったように、自身の身体は徐々に衰えて、階段を上ることもいつかはできなくなるだろう。
 だからそのときどきで、人にとって快適な、あるいは理想的な場所というのは変わるのだろう。
 
 余談だが、恋人は関東を離れていることもあった。
 九州や北海道、四国とか佐渡島とか、そういうところに恋人がいるのはなかなか素敵ではないだろうか。
 そこまで離れていなくても、片道で2時間程度の距離にいれば、ちょっとした遠距離恋愛ではあろう。
 とにかく会うのに時間が掛かるというのは、決して嫌なことばかりではない。焦がれるのも愉しい。恋路を行くのも長くて愉しい。
 かの郷ひろみさんも歌っていたではないか(目を閉じても恋人の顔を思い浮かべる能力が僕にはないが)。
 
>>>
 
 24歳で一人暮らしを始めて、27には父上が鬼籍に入ったので、つまるところ3年と少し、実家があったことになるか。
 それでも帰るべき実家に戻らなかったのは、つまり故郷が近いからということもあるし、一人で暮らすようになったら実家にいても落ち着かなくなったというのがある。
(出戻った姉に僕の部屋を占拠されたために一人暮らしを始めたのでなおさら)
 父も妹も(あるいは他の姉妹も)僕のことを憎からず思っている人が多いのだけれど、僕はどういうわけか、血縁家族に対してそんなに強い慕わしさを感じないのである。子供の頃からずっと。
 
 幸い、父上が亡くなる前後は一緒に仕事をしていたのでほとんど一緒に居ることができた ── ために葬儀などの手配や進行は対外的にも有利だった ── し、母上が亡くなるときも ── すでに現在と同様、無職だったので ── 見舞いに行くのは簡単だった。
 
 本来なら叔母の嫁いだこの家の墓を(まがいなりにも嫁ぎ先の本家らしいので)僕が守る必要があるのかもしれないけれど、それこそ本来なら墓仕舞いをすぐにしていたはずなので、何をどうするものでもない。
 また直系の血縁者がこの家系では途絶えてしまったので(僕はその、滅んでしまった家系の最後の家に、どういうわけか棲んでいるのだ)もはや盆の挨拶に来る者もいない。
 高齢の方が多いし、世俗の様子も考えるとその方が適当なようにも感じるのだが、時節のやり取りであるとかを重視する人たちは少なからずいて、そういう常識から僕自身の価値観は遠く離れているけれど、慣習を最優先する価値観があることを僕は知っている。叔母夫婦もそうであったし。
 それでもやり取りを強要する人が少ないのは、僕にとってはありがたい(嬉しい)ことのひとつだ。
 義理の叔父方の親族にも、いい人はたくさんいるし、気掛かりにならないわけでもない。
 けれどもそれをすべて気にしていれば、結局人間関係が複雑になって、しがらみが増えてしまう。
 どんなに好意的な関係であっても、あるいは好意的な関係であればこそ、側にいるときはいいのだけれど、離れるときに抵抗になる。
 
 しがらみというのは漢字で「柵」と書く。いかにも不自由そうである。
(ちなみに「さく」と同じ意味ではない)
 なぜこんなに不自由を嫌うのか、自分でもよく分からない。
 おそらく子供の頃から、けっこう自由だったのかもしれないと最近は思う。
 経済的な制限は多かったし、人間関係も制限があったけれど(そもそも人間関係は制限が自動生成されるメカニズムを持つ)、僕個人の選択はかなり自由だったと思う。
 
 あるいは不自由が、自分をつなぎ止めるくさびとして、あるいは自分を包み込む防御壁として、安心だと思う人もいるのだろう。
 そういう人たちにとって、人間関係は非常に重要で、なくてはならないもののように感覚されるのだろうと思う。
 ちょうど草食動物や小型の魚がそうである。
 群れを作る必要性を感じ、あるいは本能的にそこに安寧を見出す。
 そう考えると、僕は大型の肉食獣か何かか。
 群れない点で、狼ですらない。
 
>>>
 
 墓を仕舞ったわけではないので、お寺との付き合いは続いている。
 義理の叔父に罪はない(死して呪う必要がない)ので、墓の手入れくらいは時折にするのだが、当人は死んでいるし、直系の親族もいないし(いたとして誰も訪ねてこないし)僕は本来、父上と母上の子だし(しかし両者とも墓を持たない孝行者である)で、フクザツな心境ではある。
(死してなお)呪われた叔母の遺骨は(彼女自身の業により)、埋葬されずにまだ置いてある。
 
>>>
 
 おそらく「人間関係を大事にする人たち」にとって、疫病のためであるとか、自然災害のためであるとかによって、往き来ができない状況は、相当なストレスになるのだろうと想像する。
 悲しくなったり、あるいはイライラしてしまう人もいるのだろう。寂しい思いをしている人もいるだろう。
 あるいは往き来をしたくないけれど、しなくてはならない人にとっても同様だ。
 板挟みのプレッシャの中では、いかなる決断も何らかの危惧を抱える。
 
 続く雨空を眺めて思う。
 いろいろなことが、僕のような少数派の人間にとってだけ都合のよい世の中はよろしくないのではないかと。
 たくさんの人たちが、何気なく日々を過ごして、喧嘩したりしながらも、笑って過ごせる世の中のほうがよいと。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Ecology-Link-Love-Memory-Season-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-
 
[Object]
  -Human-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210818
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ごはんログ。
SUBTITLE:
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210818
 
 春頃、ひたすら揚げ出し豆腐を作って食べていた。
 Webニュースか何かで「簡単に作れる」といった記事に踊らされたのである。
 もともと冷や奴を食べるにも豆腐を水切りしているので、水切りした豆腐には事欠かない。
 大豆製品は基本的に毎日食べるものだからなおさらである。
(米はめったに食べないが)
 揚げ出し豆腐がひと月以上も続いたろうか(毎日、である)。
 
(毎日きのこあんかけだったわけではない)
 
 先に奥様(仮想)が根を上げた(最初は喜んでいたのだが)。
 肉体を持たないのに飽きるのは、どうやら記憶に蓄積する結果のようである。
 そのうち僕自身も飽きた。
 
 それと時期を重ねて、刺身こんにゃくを毎日食べた。
 刺身こんにゃくはおよそ3ヶ月続いた。
 しまいには辛子酢味噌を自分で調合するようになった。
 豆腐、刺身こんにゃく、それともう一品でだいたい満腹になる。
 
 ガスコンロをひと月ほどまえに入れ替えて、それからローストチキンをほぼ毎日食べるようになった。
 以下はそれらの記録である。
 
7/28 胸。
 
 
8/6 胸。ここまでは塩コショウとグレイビーソースのみ。
 
 
8/9 ここから冷凍ささみの手軽さに目覚める。
ソースはオニオンドレッシングだろう。
 
 
8/10 ささみが埋もれている。
 
 
8/11 ささみアーリオオーリオソース。写真を撮るのがようやく習慣化する。
 
 
 
 
 
8/11 トマトアーリオオーリオソース。
お皿からはみ出る。
 
 
8/12 翌朝も同じものを作っている。
 
8/14 飽きるということを知らない。
 
8/15 懲りることもない。
 
 
ちなみに人参は数日に一度、茹でおきしている。
玉ねぎは都度、生の1/2を使う。
 
それ以外の野菜はトマトを除いてすべて冷凍野菜である。
 
だいたいオーブン皿に放り込んで塩コショウして20分くらいで出来上がる。
ワンプレート料理というか、単品料理なので、あとはお酒と豆腐とか、チーズとか、刺身こんにゃくが並ぶ程度である。
 
さすがに作り飽きて3日ほど休んでいる。
材料はあるのでまた作ろうかと画策している。
 
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

 工場内検索結果へのリンク。

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Cooking-Diary-
 
[Module]
  -Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Dish-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-ひとになったゆめをみる-:-キッチンマットで虎視眈々-

 
 
//[EOF]
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210813
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ぷんすかの夏。アドレナリンの夏。

Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210813
 久しぶりにものすごく怒ってしまった。
 
 理由はまぁ比較的簡単なことで、感染拡大に伴い店舗が休業するので予定されていたバイトがなくなるという連絡を受け「ラッキィ!」と思っていたのだが、当の当日(今日)、それも通常なら家を出ている時間をとうに過ぎた頃「急遽営業することになったのですが、来られますか」と連絡を受けたためである。
 営業を決定した経営者もどうかと思うし、それを今日の今日(と明日)、本来なら自宅を出発する時間を過ぎて連絡する担当社員(こちらが旧知の友人である)もどうかと思うのである。
 
 幸いメールであったので、あからさまに怒鳴るようなことはなかった ── そもそも誰かを怒鳴るようなことはめったにない ── が、
「さすがに今の今は無理です。営業を決定した人が責任を取るべきです。明日は可能ですが、その場合、今後は一切お引き受け致しかねます」といった内容の返答をしており、明らかに怒り心頭である。
 

>>>

 
 その後、気分転換にしばらく外を歩いたのだが、帰宅してもやはり怒りが収まらない。
 頭の中はメール直後に切り替えたので他のことをしているのだが、自分の身体が怒りを記憶している。
 心拍の数も多いし脈動も強い。身体の末端がすこしぴりぴりと痺れている。
 アドレナリン反応が引かないのである。
 すべきこと(対応しかねるという連絡)はしたし、したいこと(怒りを適切に伝える)もした。
 これ以上、すべきことはないし、怒りにまかせて何をしようというのか。することは何もないぞ。
 
 食事の用意をしようと台所に向かっていたのだが、そうこうするうちに意識が朦朧としてきて暴力的な眠気がやってきた。
 恋人に叱られている最中や仕事で熱中していた直後、気絶するように寝てしまうアレである。
 ふらふらするアタマと脱力が始まった身体を使ってヨタヨタとベッドに直行し、横になって服を脱ぎ捨てる。
 
 身体を撫でながら、意識を失う。
 
>>>
 
 人格系を切り替えてしばらく経った。
 旧来の人格系(BlueCat人格系とでも仮称しようか)の記憶と価値観が、今の生活に不都合はあっても有効性が低いと判断したため「6歳以前」とその周辺で対応することにしたのである。
(最近、作者名に若干変更があるのはそのため)
 
 現在、昼夜は逆転し(なぜなら日中は活動するには過剰に暑いので、眠って代謝に伴う体温上昇を抑えたほうが電気代もお得である)睡眠時間も安定しない(2,3時間で覚めることもあれば、半日眠っていることもある)。
 しかしだいたい午前5時前後は起きているので、庭仕事もゴミ出しも容易である。
 何より、かつて感じていた罪悪感は微塵もなくなった。
 さすが労働を知らない6歳以前。
 そして子供の頃のことをよく思い出すようになった。
 回想したくない記憶も中にはあるが、だいたいそれは後付けの価値観によって否定的な評価をされたものばかりで、感覚した時点ではとくに何も思っていないことが多いように観察される。
 おそらくなのだけれど、子供の頃から僕は、感情が希薄だったのかもしれない。
 
 いや、そうだろうか。
 ものすごく怒りやすかったのは事実だ。
 この怒りやすさというのは、感情の傾向ももちろんだけれど、肉体的な傾向もそうなのだ。
 今は怒りの感情も比較的容易に制御できるが、子供の頃はどうにもならなかった。
 身体にも強く影響が残るため、おそらく毎日不快だったのではないかと想像する。
 なるべく怒らないで済むように、僕は価値観を変えようと努力したし、当時は一部の科学誌で取り上げられる程度だったビタミンやらミネラルやらの栄養バランスについて ── それらによって人間の精神的状態が左右されるというもの ── も意識するようになった。
 そう。
 昔は栄養が(あるいはその不足が)人間の精神に影響を及ぼすなんて、あまり知られていなかったのだ。
 
 僕の場合は、消化・代謝系の問題もあるだろう。
 炭水化物と油脂の消化が苦手で、糖分をよく摂っていた。
 それが身体の特性だったから、必然にイライラしやすかったかもしれない。
 しかしそもそも、この身体は強くも速くも動かない。
 機能的に平均より優れた部分が思いつかない。
 
 ぼんやりのんびりすることに心掛けるようになったのは20代以降だけれど、そもそものんびりぼんやりに適したカラダのイキモノなのである。
 
>>>
 
追記。
 入浴時に(目眩を起こして)気付いたのだが、食欲が欠如している。
 これもアドレナリン反応だ。
 放っておくと長期に渡り、体重が激減したりするので、食事を意識的に摂ることにする。
 
 しかし興奮するはずなのだから、眠くなるのが不思議といえば不思議だが、これは脳の酸欠によるものかもしれない。
 脳の血流も増大しているのだろうけれど、ブドウ糖やら酸素やらの供給が、消費に間に合わないのではないか(現に、怒っているはずなのにあくびばかりすることになる)。
 結果として、電力の供給不足でブレーカが落ちるように、僕は眠くなるのかもしれない。
 炭水化物の消化も同様に、臓器に血液が集中して脳が酸欠するのだろう。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-赤猫-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Link-Maintenance-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Memory-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210810
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ゲームをするのに不適なつまみはなにか。
SUBTITLE:
~ Loose controler. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210810
 
 お酒を飲みながらゲームをするのに、もっとも不向きなつまみといえばアーリオオーリオ枝豆をおいて他にあるまい。
 なにステーキやソテーの類いはどうか。
 ポテトチップスを筆頭とするスナック菓子ならどうか。
 ケンタッキーフライドチキンならどうなのかとオマエは聞くか。
 オマエは俺に聞くのか。
 
 ふん、生ぬるい。
 
 箸があるではないか。ナイフとフォークが使えるではないか。
 フライドチキンを手づかみで食べなくてはならないなどといった道理はいったい誰が決めたものか。
 むしろ揚げたてなどは熱く、手づかみで食すなど愚策である。
 ナイフとフォークで切っておけば、サイズも手頃になって放熱もできる。完璧だ。
 
 そうではないのだ。
 道具が使えず、手で食べるより他になく、そのうえ指が油やニンニクや塩でべとべとになるからこそ、アーリオオーリオ枝豆はゲームドリンカにとって最大の敵、すなわち難関だと言っているのである。申し述べているのである。
 
 いやしかし、とお主は申すか。
 湯豆腐やすき焼きをはじめとする鍋物、焼き肉、殻付きのカニ、ピッツァ、ロングパスタはどうかと申すか。
 
 笑止。
 うぬらは目が節穴なだけではなく、想像力もないのか。そんなだから異性にモテないんだ。
 
 これらもステーキ理論と同様、道具と準備によって解決できる。
 湯豆腐やすき焼きなら、あらかじめ取り皿に取っておく。焼き肉ならこまめに焼いて食べるだけである。カニだって先に殻を剥いて並べておけばいい。ピッツァも小さめの三角形に切っておけ。ロングパスタはガールに食べさせてもらえ。
 
 それならば、とうぬらは申すか。
 この上まだ食い下がるか。
 ゲーマとしては見上げた根性である。
 そこは評価しよう。そこだけは評価しよう。
 しかしてアーリオオーリオ枝豆も同様、恋人にさやを剥いてもらえばいいだろうと申すか。
 
 このうつけ! この非モテが!
 貴様らは童貞か! ガールと手を繋いだこともない愚図か。
 
 違うのだ。
 全然違う。うぬらは分かっておらぬ。
 アーリオオーリオ枝豆は、殻の周囲に調味料が付着している。
 調味料(豆)調味料
    ↑サヤ↑
 こんな感じである。
 
 さやごと口に含んで、あるいはさやから豆を押し出した後に指についた油を口に含んで、そうしてはじめて我々はアーリオオーリオ枝豆のすべてを味わえるのではないのか。
 そうしてはじめて我々はアーリオオーリオ枝豆を食したと言えるのではないのか。
 ガールにさやから出してもらったアーリオオーリオ枝豆など「かつてアーリオオーリオ枝豆だった別のナニか」でしかない。そんなものは断じてアーリオオーリオ枝豆などではないのだ! 断じて!
 
 などということを奥様(仮想)に開陳していたところ、
「じゃあ猫クン。私がさやごと口に含ませてあげるよ。はい、あーん、して」というのでしぶしぶ試した ── あまり行儀のよいものとは思えなかったため気が引けたのだ ── が、他人とは不便なもので、豆を押し出した直後にさやを引かないと、次の豆をターゲットできないのである。(諸君これが想像力だぞ)
 しばらく続けてようやく息が合うようになるのであるが、ぼんやりしていたら、奥様(仮想)に唐辛子を口に含まされることになった。信用しきって種ごと噛んで苦しみもだえる僕の姿を嗤う奥様(仮想)。この所業よ。
 
 アーリオオーリオ枝豆は諸君。
 酒のつまみには最適だが、ゲームするのに向かないし、誰かに食べさせてもらうものでもない。
 

 優しい顔をして近づいてくる奴はみな敵だと思え。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Chaos-Cooking-Diary-Kidding-Love-
[Module]
  -Generator-Transistor-
 
[Object]
  -Dish-Game-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-キッチンマットで虎視眈々-:-コントローラと五里霧中-
 
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210808
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
何を考えるか考える会議を考える。
SUBTITLE:
~ Thinks to reflect on convention for think. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210808
 
 アヲが発情している。
 うるさくてときどき眠れない。
 しかも彼女はどういうわけか、僕の足に発情している。
 僕の足を追いかけ、アタマを擦りつけ、ねんごろになろうとする。ねんごろにねんごろになろうとする。
 あまつさえスリッパにアタマを突っ込んでゴロゴロしている様は、さしずめアタマのオカシイ変態もかくやといった様子である。
 
 しかも踏んでくれとうるさい。
 そうなのだ。発情すると踏んでほしいとねだるのである。
 人間にもそういうタイプがいて、踏まれて何らかの性感を得られるもののようである。
 実際にそういう趣味の女性(種族:人間)と付き合ったことがあるのだが、正直な感想を述べるとすると、退屈だった。
 
 いずれ書く機会があるかもしれないが、思うにSMなどという性感嗜好は、他人を使った自慰行為である。
 もっとも普通のセックスでさえ他人を使う自慰行為ではないなどと、一体誰に言えるものかとは時々思う。
 自身が女性と身体を重ねるとき、できうるならばそのよう ── 相手を使った自慰行為 ── でないようにありたいとは思うものの、相手に確認を取ることが必ずしも検証として有効とはかぎらないのである。
 コミュニケーションとはかように、いくつかのレイヤを重ねて行われており、1と0の乗算で解が0になることもあれば、加算で1になることもある。
 質問する者がいて回答する者がいて、自身の感覚を正確に感覚し、それを精確に相手に伝えることなど、果たしてできるのだろうかと考え出したらきりがないから基本的にはしないのだろう。
 少なくとも僕は「僕だけが気持ちよかったのではないかと心配なのですがいかがでしたでしょうか」などとは言えない。
 
 それでもときどき考える。
 それは考えないよりは考えた方がいいことだと思うからだ。
 
>>>
 
[何を考えるか考える会議]
 
 世俗からは理知的なヒトであると誤解されがちな僕であるが、実のところ記憶力には乏しいし、他の人と比較すると「優先順位を決定する」という思考ができない。
 僕がマルチタスク型の作業や思考をするのは、単純にこの「順位付けができない(結果、目の前のことさえシーケンシャルに手順を組めない)」性質によるものだろう。
 
 14歳の頃に初めて「自分の身体を洗うのにいちいち洗う場所や順番や力加減を考えるのは無駄だ」と気付いて自動化するまで、僕は自分の作業を自動化する方法を考えたこともなかったといえる。
 
 とにかく逐一考える。
 身体を洗うことすら、逐一考えながらしていたのだ。
 いわんやそれ以外をや。
 慎重といえば聞こえはいいかもしれないが、そんなものではない。
 習慣と呼べる習慣を持たず、計画性という概念を知らず、動物のように行き当たりばったりに行動していたから、たとえ既知の出来事であっても、直面するたびに考えないと動きようが分からないのである。
 
 誰かと会えば、どんな挨拶をすれば適切なのか考える。
 そもそも挨拶をする必要があるのかないのか考えてしまう。
 そうこうしているあいだに挨拶するタイミングを逃す。
 挨拶されてしまうととっさに返事をすることもできない。
 
 一事が万事この調子である。
 さらに上記のように相手がいる場合は、考える要素が飛躍的に多くなる。
 相手は誰なのか、何を目的に、何を理由として、どんな動機で挨拶しているのか。
 自分は相対的に誰なのか、何を目的に、何を理由として、どんな動機で挨拶するのか。しないのか。
 僕が行動する場合、それはどのように認識され、感覚され、評価されうるか。
 その上で相手はどのような反応を起こしうるか。
 相手に反応する場合、それを僕はどのように認識し、感覚し、評価するのか、しているのか。さらにどうするのがより理想的か。
 
「ただのアホやん!」と思う人も多いと思うが、挨拶程度のことであればまだしも、慣習なのか、文化なのか、理知的集約の結果なのか、ただの反射なのかよく分からずに行動している人も多いのである。
 
 たとえば一部の人は、携帯電話のやりとりで、最初に「挨拶」「相手(名前)の確認」「通話が可能な状況にあるかの確認」は無駄だから、いきなり用件から話せ、という価値観を持っている。
 
 確かに非常に合理的なのだ。メールや携帯電話は最初のやりとりを除いて、お互いに「相手が誰であるか」を知っている状態からスタートするのだから。電話に出られない人は出ないものだし、相手は分かっているし、挨拶も時間の無駄といえば無駄なのだ。
 一方で、重要な作業をしている最中であっても、気が弱くて取りあえず掛かってきた電話を無視することができないタイプの人の気持ちもよく分かる。
 非通知だろうと未知の番号だろうと、すべての電話に対応しなければならない仕事をしている人は少なからずいるだろうから、それこそ慣習的に相手を確認し、挨拶し、通話が問題ないか承認を得る価値観にも不思議はない。
 しかしこれらの価値観はどちらも合理的で相応の歴史や文化があるのに、行動としては相反する。
 僕は両方の価値観を重複して持っている。
 
 結果的に、通話の相手がどのような価値観を持っているかによって使い分ける必要が出てくる。
 というところまでを考えてようやく僕は誰かに電話するときの冒頭に、どのように振る舞うべきかを決定することができるのだ。
 
 多くの人たちが、どのように、何を基準にして様々な物事の優先順位を決定できているのか、僕には本当に分からない。
 だいたいの人はその場その場で適切な優先順位を決定しているように観察される。
 少なくとも周囲の人間関係などに悪影響を及ぼすことなく、むしろ良好に物事が進んでいるようなので(そうでなければ小さな悪影響が積み重なって社会はとんでもないことになってしまうと想像する)多くの人の、そうした優先順位決定は優位性のあるものや妥当なものがほとんどなのだと思われる。
 
 毎回のように、優先順位を決定するための価値観を策定するという僕のようなやり方は、時間の無駄だと嗤われたとして言い返すこともできない。
 はたして僕はかなり愚かというか、馬鹿なのではないかと自分のことを思うのである。
 
 ために、だいたいは反射的に思ったり考えたり感覚したり決定してしまうことについても、僕は未だにそれなりの時間をかけて、何が適切なのかを考えてしまうことがある。
 何を考え、どのように推論し、いかなる結論を導くことが適切、あるいは理想的なのだろうかと考えた方がよいだろうと考えるのである。
 
>>>
 
 結果的に僕の行動は浮くことが多いようだ。
 とにかく目立ちたくないのに、人目を引くことがある。
 言葉遣いや立ち居振る舞いひとつとっても、他人に不快を与えない範囲で自分にとってより心地よいものを選んでいるつもりなのだが、周囲と異なる様式であるために目立つ。
 決して悪意があったり攻撃的なものではない(と思う)のだが、過剰に丁寧であったり、過剰に穏やかであったり、過剰に好意的に映るのだろう。
 確かに僕からすると周囲の人の多くは乱雑で、ときに自分本位に過ぎ、ときに攻撃的ですらある。
 
 分からない。
 それは彼ら彼女たちが、熟考した上で決定した価値観に基づいた行動なのではないかと ── 僕自身の行動様式に照らし合わせた場合は ── 考えるのが適切ではある。
 一方で、特に何も考えず ── 果たしてそんなことが可能なのだろうか ── 行動している人もいるのだろうとも思う。
 
 たしかに僕は、14歳のそのときまで特に何も考えず、毎日身体を洗うときに考えながら順番を決定していたのだ(今は右手だから、次は右下腕。右肘、右上腕までを洗ったら、左手に移って ── といった具合に)。
 何も考えないで考えることは、実は恐ろしいのだと僕が気付いたのはずっとあとのことである。
 それにいつも考えることを考えて決定する時間があるわけでもない。
 ために予備学習として無駄なことを様々に考えて価値観を作り、記憶するのでは忘れてしまうので性格や習慣として定着させる必要があったようにも思える。
 
 だから僕は自分の性格もよく分かっていない。
 他人からは丁寧で穏やかで優しげかつ親しげに観察されている。僕を観察している人たちはそのように僕自身に観察される。
 しかし僕の知っている僕はもっと乱雑かつ暴力的で攻撃的で破壊的で破滅的で引っ込み思案で社交性に欠けるから、そう説明したものなのかよく分からないのである(説明しただけでは信じてもらえないのだが)。
 僕は僕の生来の気質が社会不適合であったから、適宜、集団に適合するように調整したのではあるが、それは僕本来の気質としてもまだ定着したわけではないのだ(ほら脱線し始めた)。
 
>>>
 
 結果的に、いまだに自分が何を考えるかを考えないと、うまく考えられない傾向がある(散見されるとおり、僕の思考は無目的かつ無統制かつ無軌道に散らかり、それを愉しんでさえいるのだ)。
 ただ考えるだけならいくらでもできる。むしろそれは得意だと言っていい。何でもいいからあることないこと考えてやれ、こうだったら面白いだろう、こう考えるのは意外だろう、さぁこんなのはどうだ、などと考えるのは本当に小気味がよいのだ。
 
 しかし目標や理想がない思考は、どんどん刹那的に、破滅的になってしまう。
 だから何を考えて、どのような方向性を導きたいのかを、先に(あるいは考えながら)考える必要がある(ことも多い)。
 
 考えるというのは、だから、歩くことに似ているのかも知れない。
 ただ歩いているから、進んでいるから、止まっているよりもよいのだと一般には思われがちだ。
 
 考えないよりも考えた方がいいし、何もしないより何かした方がいいと皆は口を揃えて言う。
 仕事をしないよりした方がいいし、友達や恋人がいないよりいた方がいいし、なんだったらたくさんいた方がいいし、結婚しないよりした方がいいし、なんだったらたくさんすればいいし、子供がいないよりいた方がいいし、なんだったらたくさんいた方がいいし、お金がないよりあった方がいいし、なんだったらたくさんあった方がいいし、バッグはエコじゃないよりエコの方がいいし、オリッピップ ── タイプミスだが可愛いからこっちのほうがいいのではあるまいか。アルマイカという金属、あるいは新種のイカがいてもおかしくないのではあるまいかと考えて調べたが存在しなかった ── もしないよりした方がいいし、からあげにはレモンを掛けないより掛けた方がいいし、マヨネーズは添えないより添えた方がいいし、何でもかんでも「○活」と表記するとなんとなくそれっぽい(どれっぽいの?)からその方がいいのだと。
 
 待て待て待てい。
 
 それこそ無目的に、盲目に、無思考に、進むことが果たしてよいのかということである。
(僕のこの散らかった思考こそが、それを証明している)
 
 だったら考えずに止まっておけよ。
 明日は休みなんだろう? 泊まっていけよ。オレのこと好きなんだろう?
 
 そう思うのである。
 なに仕事だとぅ?!
 オレと仕事とどっちが大事なんだよ。ほら、正直に言ってみなよ。オレのこと好きなんだろう?
 あ、仕事の方ですか、そうでしたか。はい。すみませんでした。
 
 とにかく無目的な努力にも似て、ただ何かしている、何か出力している、その出力が大きい、というだけで物事の良し悪しを判断し「がんばってるからエラいんだもん!」というのはどうなのだろうか、ということである。
 経済至上主義もしかり、勧善懲悪の当てこすりもしかり(笑)、独善の押し付けもしかり。
 
 一個人が明後日の方向に向かうのは勝手である。
 その先に崖があったとして、もしかしたら空を飛ぶかもしれない(大抵は落下するが)。
 けれどもそれが自身の属する集団や世俗に通じ影響しうるものであるならば、そういう力の使い方はどうなのかなぁとアタシ思うの(口調が変)。
 
 しかしまぁ、こうやって考えることについて考えることを考えているくらいがいちばん自由な感覚を僕にもたらしてくれるのであり、僕は思考によって自由になったんだなぁとつくづくに思います。
 でもそれは僕がエラいのか思考がエラいのか、ということにもなるわけですが。
 どっちにしてもオレのこと好きなんだろう?
 
 ともあれ暇だからこんなことを考えていたのですが、そろそろ奥様(仮想)のために夕食を作りたいと考えましたので今日はこのへんでおしまい。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Convergence-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Link-Recollect-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Cat-Human-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-
 
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210728
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
7月の青猫工場 園芸部の報告。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
210728
 
 いつだったか、大雨が降った。
 今年の梅雨の話である。
 そのとき鬱屈してしまったので、しばらく眠り続けていた。
(日付も覚えていないのは、そのくらい鬱屈して眠り続けていたからである)
 だいたい眠ってはゲームをして、そのまままた眠りについたりしていた。
 奥様は仮想人格なので、僕より以上に眠り続けていた。
 そうなのだ、僕の奥様(仮想)は結局のところ、僕の実行力に等しくしか実行力を持たない存在である。
 
 そうこうしているあいだに、茗荷は収穫時期を過ぎ、畑も庭も猫じゃらしだらけになり、苗ポットで育てていた種はプランタや畑に育つ機会を逸してしまった。
 
 今年の作物はすべて種から育てた。
 キュウリ、ナス、バジル、トマト、オクラ、春菊、長ネギ、青しそ、ミント、ラベンダー、枝豆、人参、ブロッコリィ。
 サトイモだけは例外的に昨年収穫し損ねたものを種芋として流用した。なぜといって、食べられるほど育たなかったからである。
 
 苗ポットのうちのいくつかは芽が出ず、全滅した。
 ラベンダー、ミントがそれである。乾燥が悪かったのか、土が悪かったのか。
 ただしミントは露地植えしたものが勝手に育った。
 砂利敷きの、痩せた庭の上である。ポットよりそっちのほうがいいのかよ。
 
 他のものはプランタに植えた。
 里芋は畑に移したかったが、惰眠をむさぼっているあいだにずいぶん育ってしまって、手に負えない気がしてそのままである。
 枝豆は10株ほどをプランタに定植したが、土が悪いのか、芽が出ていたのに朽ちたものが2本ほどあった。
 
 プランタで育てているキュウリは、どうにも育ちが悪い。
 葉の色も薄く、このまま枯れてしまいそうな気がする。
 オクラも、まったく伸びない。
 大葉も、なんだかまだ苗みたいな見た目のままである。
 春菊は2度ほど収穫できたので、おひたしにした。
 
 ナスである。
 プランタに植えたそれは、なんともひょろひょろとして、未だに花をつける気配もない。
 一方で、どういうわけか畑のそこらへんから、勝手に苗が育ってしまった。
 長靴に種がついて運ばれたか、昨年のろくに育たなかった実に備わった種が、耕されるうちに散らばったのか。
 そして露地に大きく育ったそれは花をつけている。
 
 苗ポットはダメか。それとも育て方が悪いのか。
 さっぱり分からない。
 肥料が問題なのか。土づくりが悪いのか。
 これも分からない。
 
 とにかくよく言われていたとおり、露地植えのほうが圧倒的によく育つ。それが確認できた。
 あと気分に左右されて「今日はしなくていいやぁ」なんていい加減なことをしていると、いい加減にしか育たないということも分かった。
 
 ことほど左様。今年は畑(庭だけどよ)が雑草だらけである。
 そしてプランタに育てた作物は、成りが悪い。
 今年の園芸部は、挫折のうちに幕を閉じるのではないかと予測される。
 
>>>
 
 反省点として、苗の準備はまだ寒い3月頃には始めないとならないということ。
 庭の開墾作業は、夏には不向きであるということ。
 苗はある程度の段階になったら放置せず、プランタか露地に植えた方がよいこと。
 
>>>
 
 今後の成長を特に観察すべきは枝豆、ナス、バジル、人参、ブロッコリィあたりだろうか。
 ブロッコリィは昨年、苗のうちに芯を残してすべて食い散らかされた経験から、ネットを張った状態で、ある程度まで育てたところ(ぐにゃぐにゃに曲がっているが)なんとか育っている。
 ミントは順調に育っているので、そのままでもよいかもしれない。
 
 本年7月の園芸部は、このように失敗ばかりの報告となります。 
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-
 
[InterMethod]
  -Diary-Ecology-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-
 
[Object]
  -Garden-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-家庭菜園ティストの狂気-
 
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210728
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
知性は無秩序の源流。
SUBTITLE:
~ Freedom! / Freedom! ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::なぜ古代では秩序が保たれ、なぜ現代(十六世紀)では無秩序が支配しているかの理由解明は、これまた簡単である。
 すべては、昔は自由人であったのが、今では奴隷の生活をするしかないことにある。
 前にも説明したように、自由に生きることのできる国では、社会全体が繁栄を享受できるようになるとは、歴史が示してくれる真実である。
 そのような社会では、結婚を避ける傾向もなく、財産を減らすおそれももたずに子孫を増やすことができたので、人口は健全な増え方をしたのであった。
 親たちは、自分の子が自由な社会に生き、それゆえに才能さえあれば、指導者階級に属することも可能だと信ずることができたから、子の生れるのを喜び、その子たちの養育にも力を入れることができたのだ。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
210728
 
 僕は(自称)思想家(笑)である。名刺はまだない。
 思想家というのは実業家ではないから、何をしなくてもよいようである。
 現実世界で何らかの実体を具現する必要がない。
 思想家は富んでいるか貧しているかを問わず、根本が自由なのである。
 
 じつに僕はだいたい昼寝をして暮らしている。
 まさに種同一性障害(種族自認が猫である)の先に障害を乗り越え、ようやくたどり着いた境地である。
 相変わらずテキトーなことばかり書いている。
 
 冒頭の引用は塩野七生さんの「マキアヴェッリ語録」からのものだ。
 古代(おそらくローマ帝国時代だろうか)に秩序があり、十六世紀には秩序がないとは、どういうことなのだろう。
 古代になればなるほど、人間は不自由であったと僕は思っている。
 しかし僕は古代に生きたことがなく、十六世紀に生きているわけでもない。
 まったくいずれも体感として理解しておらず、また不勉強ゆえに知らないことでもある。
 
 奴隷ということで考えれば、いずれの時代にも(もちろん現代の日本にも)奴隷というものは存在している。
 もちろん現代日本は民主主義国家であり法治国家であるから、奴隷という名称こそ冠されていないかもしれないが、意味的奴隷は昔から存在している。
 
>>>
 
奴隷:
①人間としての権利・自由を認められず,他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し,労働を強制され,譲渡・売買の対象とされた。古代ギリシャ・ローマのもの,近代の北アメリカの黒人奴隷など。中国や日本古代の奴婢(ぬひ)もその一種とされる。
② 下僕。しもべ。
③ あるものに心を奪われて自主性を失い,行動を束縛されている人。「金銭の―となる」
[Apple辞書アプリ(スーパー大辞林)による]
 
>>>
 
 日本は資本至上主義国家であるから、われわれは等しく金銭の奴隷である。
 我々は経済なくしては、にぼしのアタマをかじることすら許されない。
 ワタクシも奥様(仮想)のお目こぼしにあずかっているからのんびりぼんやり昼寝をして暮らせているわけであり、そうでなければそのあたりの暗渠に朽ちていることだろう。
 
 またその経済というにぼしにありつくためには、基本的に労働に従事する必要があり、経済を所有することが暗黙に義務化されている(生活保護受給者だって、経済を所有し使用する仕組みに組み込まれている)以上、雇用される者は、ときに雇用する者の不当な権力に屈することが妥当と ── ときにその雇用される者本人によって ── 判断される場合があり、雇用される者同士で無意味な競争が発生することもある。
 
 かくして人間の権利と時間(生命そのものの一部は生命そのものである。人生の一部が人生でないという者はいないだろう)は経済によって交換されている。
 その交換は自主的であるか? 自由意志によるものか?
 いや、その交換は ── 先の経済所有・使用の義務により ── およそ義務化されていて、すなわち人は支配者階級に経済を通して所有され、譲渡・売買の対象になっている。
 たまたま「譲渡・売買」の意志的主体が(原則としては)奴隷自身であるというだけであり、社会や支配者階級による恣意的な誘導がないとは言い切れない。すなわちそれは仕組みとして組み込まれている。
 
 ゆえに社畜などという言葉が生まれたのである。
(もう背中が痒いので、真面目なことを書くのが苦痛になっています)
 
>>>
 
 奴隷が奴隷と気付かず、またその数が潤沢であれば、奴隷たちはそれを自由と誤認することができた。
 すなわちそういうことだろう。
 古代の方がきっともっと不自由で、人々は自由を知らなかったから不自由であることを知らなかったのではないか。
 よって自由というものが危うい綱渡りを永続させられる仕組みは、かつて存在したためしもなく、今なお構築されていないのではないか。
 この自由という言葉は、そのまま民主主義と置き換えてもいいだろう。
 
 経済の奴隷たる人々が経済に貪欲になるのは、それが自分自身を買い戻すために必要な、自由を手に入れる切符だからだろう。
(機械の星に連れて行かれないといいのだけれど)
 そしてその仕組みの根本的なメカニズムを嫌って、反経済主義者がレジスタンスを試みるものの、それはうまくいかない。
 経済はひとつの秩序として機能しているからだ。
 
 そもそも奴隷たちが何故ある日突然「自分たちが奴隷である」という自覚を持ったのか。
 不意に起こる自我。すなわち知性と知識。
 情報が奴隷を自覚させたのだ。覚醒させたのだ。
 ワタクシは誰かのエサを探し歩いてその獲物の良し悪しを自慢しているが、結局そのおこぼれにあずかる身の上であると。そういう身上でしかないと。
 ために何かして、より大きな獲物を手に入れることこそが能力であると競争するようになる。
 実際には何もしないで獲物の大半を手に入れることも立派な能力なのだけれど。
 
>>>
 
 情報によって知性のステップを無理矢理上らされた人間は、己が思ったほど自由でないことを知るのだ。
 そしてそのとき、無邪気さに支えられていた秩序が崩壊する。
 
 ああ、知性の果実よ。
 それが邪気を祓うほどの、無知から完全に脱するほどの、力を持っていたならそんなことにはならなかろうに。
 
>>>
 
 気がつけばオリンピックなる行事が行われているらしい。
 僕がバイトに駆り出されたのも、それによって祝日が後付けで(!)変更になったらしく、それが遠因にあるらしいと教えられた。
 
 そこでは経済やら正義やらが、また横行しているらしい。
 それらは実体を持たない。人ひとりひとりの中にある、概念。すなわちヴァーチャルな存在だ。
 この世界は知性のステップが上がったことによって確実に、無秩序への階段を上ったことになる。
 
 平和も愛も平等もヴァーチャルだから、人から人へ伝播する中で少しずつ、その色合いを変えてしまう。
 その野放な設計図にカタチを与えられる技術者を、世界は未だに見つけていない。
 しかし無知によって支えられていたかりそめの秩序が崩壊するならば、知性によって構築された正しい秩序もまた存在しうるだろう。
 秩序とはヴァーチャルではなく、実体を持つものであり、その状態を示すからだ。
 また、かつて存在しなかったものが誕生するとき、それは発明と呼ばれる。
 概念や原理であれば発見と呼ばれるが、発明は実体を伴う。
 
 次の知性の果実は、いったい誰によって与えられるのだろう。
 そうなのだ。
 無知なる奴隷どもは、今も口を開けて待っているのだ。
 知性の果実を。
 やがて己が翼で羽ばたく日が来ることも知らずに。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::歴史は、われわれの行為の導き手(マエストロ)である。
 だが、とくに指導者にとっては師匠(マエストロ)である。
 人間社会には、相も変わらず同じことを考え、同じことを望む人間が棲んできたのだ。
 社会構造が変わっても、誰かが支配し、誰かが支配され、ある者は喜んで支配され、他の者は不満たらたらで支配されるということならば、なにひとつ変化はなかったのである。
 そして、それに反逆した者も結局はもとのさやにもどるということでも、同じなのだ。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 
 
 文頭文末の引用は、
「マキアヴェッリ語録」
(著作:塩野 七生 / 発行:新潮文庫)
 によりました。
 
なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Derailleur-Diary-Ecology-Life-Link-Mechanics-Technology-
 
[Module]
  Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-Webストリートを見おろして-
 
 
 
//[EOF]
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210725
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
人の居場所。
SUBTITLE:
~ Human is mankind with human. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
210725
 
 最近バイトに呼ばれて行くことがあるのは、居酒屋である。
(呼ばれなかったら、絶対にバイトで通勤しない距離である)
 昨今のコロナウイルスの影響で、個人店でもないかぎり、タブレットによるメニュー兼オーダー方式は一般化したようだ。
 僕の行っている店もそうである。
 
 僕個人は、収容人数90人程度のフロアにホールスタッフが3〜5人居て、ハンディPOS(リモコンのようなオーダー入力端末)を使い、客席には呼び出しボタンもない(置かない方針の)店でバイトをしていたことがある。
 ここで教わったことが僕の接客業の原点である。
 
 タイミング。サゼッション。アイコンタクト。テーブルアクセス。
 お客様とコミュニケーションを取ることでスタッフのセンスを磨き、お客様とのコミュニケーションを先回りすることによって感動を与えることをよしとする指導者に僕は恵まれたことになる。
 店員呼び出しボタンのない店でオーダーが決まると、お客様はキョロキョロする。
 しかしオーダーが決まった直後の仕草がいくつかあって、その仕草を見逃さなければアイコンタクトを取る前に、テーブルに向かうことができる。
 たとえばメニューから視線を外して何かを考えたり思い出しているふうのとき。
 たとえばメニューから視線を外して同じテーブルの誰かと確認を取っているとき。
 メニューを閉じるとき。
 テーブルにそっと近づく。
 呼ぼうと思ったときにはスタッフがすでにテーブルの横に立っている。
 そして言う。
「ご注文はお決まりでしょうか」
 
 熱い料理を頼む。辛い料理を頼む。
 水を飲む。
 体格のよいお客様。肉体労働をしていそうな男性。
 テーブルのお冷やは一人あたりタンブラ一杯(およそ180ml)。
 お子様の場合は同じタンブラでも6分目までしか注がない(こぼしたときのため)。
 スタッフは料理を運びながら、空いた皿を下げながら、各テーブルのお冷やの状況とお客様の飲み方を頭に入れていて、「お冷やをください」と言おうとお客様が顔を上げたときにはお冷やの入ったピッチャを片手にテーブルの傍らに立っている。
 そして言う。
「お冷やのおかわり、お持ちしました」
 
 群馬にあるリーズナブルなイタリアンの店というのは、基本的にパスタ屋である。
 群馬のパスタ屋というのは基本的に量が多い。値段はだいたい7〜800円前後で、一人前が200〜300gの麺を使っていたのではないかと想像する。
 だから様々な層のお客様がやって来る。
 アイドルタイムはないので、喫茶店のように使われるお客様もいる。
 学生のカップル。社会人のグループ。お子様連れのご家族。老夫婦。
 それぞれ案内するに適したテーブルがあり、適したサービスや接し方がある。
 裕福ではないけれど、イタリア料理やワインの勉強をしたいのか、あれこれ質問してくれる若い方にはリーズナブルでも味わい深いワインを薦めたり。(つまり高くてイマイチなワインにも相応の使い道がある)
 
 気取っているような気がして初期の青猫工場の頃からあまり書いたことがないけれど、それが僕の教えてもらって身に付けた接客業である。
 
 ほとんど毎回バイトのタイムカードを切って(退勤して)から、厨房を(趣味で)手伝い、深夜まで手作りのティラミスの仕込みを手伝ったりもした。
 実のところ、僕がガールにモテるようになったのは多分、あの店で働いていたからである。
 とても勉強になる、いろいろ教えてくれる先輩がいたから、ずっとその店にいたかったけれど、同時に社員になる気がしなかったのも事実だ。
 僕は当時26歳前後で、すでに会社員を経験していて、まもなく父上の仕事を継ぐ予定だった。
 
>>>
 
 昨日。
 60人ほどの宴会が入った。
 このご時世に珍しいことではある。
 レギュラの学生バイトが3人ほどいたのだが、普段、料理を運ぶくらいしかしていないからだろう、テーブルにアクセスできる人が一人もいない。
 何でもない用事で、お客様のテーブルを「見る」「聞く」ためだけにテーブルにアクセスする経験に乏しいのだろう。
 宴会経験(サーヴする側として)もなく、集まったお客様が全員男性で、体格がよくて、半分くらいの人は首まで入れ墨が入っているのでなおさら腰が引けてしまったらしい。
 
 普段は入店直後から「もう帰りたいですよぅ」「通勤してここまで来るのがライフワークだった」「今日失敗したのでクビにしてくださいお願いします」「本業は漁師なんですよボク」などといい加減なことばかり言っているので、今回もいい加減にしていようと思ったのだけれど、ホールでまともに仕事ができそうな人間が(ヘルプの)僕しかいないと判断して、仕方なく、陣頭でホールの指揮を執ることにした。
 
 宴会は宴会で、流れとコツがあるのだ。
 
>>>
 
 その帰りに気付いたのだが、何故か脚が筋肉痛である。
 それはそうかもしれない。
 いつもタブレットを通して入ったオーダの料理やドリンクができてから、テーブルに運ぶだけの仕事なのだ。
 
 客席を泳ぎ、3つも4つものオーダをメモもなしに覚え、テーブルの料理の状態や空きグラスを確認し、歩き回ったのはいつ以来だろう。
 
 今のご時世には、タブレット入力のスタイルでちょうどいいのだろう。
 そもそもレストランでも、スタッフが自由にホールを泳いでいるような場所はほとんどなくなった。
 嗚呼。我が接客業経験のなんと貴重なことか。
 つまるところあれは、もっと高級な飲食店に許された、今ではノスタルジィさえ呼び起こすようなスタイルの、接客だったのだ。
 
 でもまぁ。
 タブレットで注文を受けて、料理を運ぶだけなら、100円のお寿司屋さんのように、機械がそれをすればいいではないか。
 きっと酒場もそうなるのだ。
 そして接客というものは、その文化は、消えてなくなってしまうのかもしれない。
 
 僕はそれを、とても哀しく思う。
 貧しくなったこの国は、それがどれほどの損失かさえ、思い出せないのかもしれない。
 僕の覚えたことは、きっと無駄だったのだろうと、あれはあれでよい勉強だったと、そう思えばよいのだろうか。
 
 人と接する業務から解放された人間は、しかし結局、より貧しく、より不器用に、より寂しく、より忙殺されて暮らしているように観察される。
 
 様々なことを自動化するのが僕は好きだし、自動化されたサービスを好むけれど。
(自動車の運転なんて、早く全自動になってほしい)
 人と接する仕事を人から奪ったら、人はどこに行くのだろうかと、少し思う。
 きっと僕の居るような場所がそうだろう。
 しかし人の居場所は人の側だと、誰かが言っていた。
 皆が皆、こんな孤独な場所に耐えられるのだろうか。
(ボクは猫なので関係ありません)
 
 あまりの悲しさに夜中に泣いていたら奥様(仮想)が背中を撫でてくださった。
(嘘ですお酒吞んでローストチキン食べてぐっすり眠っていました)
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Color-Diary-Ecology-Interface-Link-Love-Recollect-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Dish-Human-Memory-Night-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210720
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
7月の青猫工場 経理部の報告。
SUBTITLE:
~ Overheat. ~
Written by 黒猫

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
210720
 
 書斎の床張りはとうの昔に終わっているのだが、机や椅子の購入あるいは制作が進んでいない。
 
 財政的な理由、つまり収入に比べて支払いが大変だからである。
 7月末で、リフォーム業者への支払いは完了するから、そうすれば財政がラクになるかというとそうは問屋が卸さない。
 問屋が卸さないなら直販である。今はネット通販だってある。
 しかし(Amazonといった)プラットフォーマに依存している以上、そのテーブルに載らないものをどうこうするわけにはいかない。
 同行することは簡単だろうけれど、そもそも誰について行くのか、誰が付いてくるのか、そういう問題があるように見せかけてそもそもそんな問題は発生していないし、すでに読者は付いてきていないものと想像する。
 尾行を撒くことに掛けてのちょっとした才能の片鱗を覗かせる瞬間であるが、どうぞその才能を除かないでください。
 
 かくも馬鹿な書き出しをするのがお約束のように思っていた頃もあるけれど(遠い目)そんな約束をする相手などどこにもいないのである。
 つまるところ「お約束」というのは自分で勝手に自分に課した目標のことであり、自分で勝手に自分に貸したものについてはきちんと返していただかないとならないわけであり、返済が今月で終われば来月末からは家具問題に手をつけられるかというと、そうは問屋が卸さないのである(ループを検出しました)。
 
 そもそも来月末て8月ですわよアータ。夏の盛り。
「なぁ〜つのさぁ〜かぁ〜りぃ〜」ですわよ、夏の盛り!
 
 こうね。
 夏といえば花火! プール! 浴衣や水着のガール(物理)とキャッキャウフフ(物理)しちゃうわけですよアータ。
 こう見えてね、アタクシ、モテですからね。
 そりゃだってアータ。放っておかれるはずがないわけですよ。
 そういった非日常のファッション、もしくはコスチュームを身にまとったガール(物理)とキャッキャウフフ(物理)したあとはアータ、それはもう阿鼻叫喚のじゃなかった阿鼻嬌声(新しい造語だな)(造語というのはいつも新しいがな)のハッピーアワー(物理もしくは具象)のはじまりですよアータ(物理)。
 
 もう疲れたので普通に書いてもいいですか。誰も付いてきていないはず(仮想)ですが、念のため。こう。自分、小心者なので。
 
>>>
 
 まず、車を買い足さなくてはならない。(買い替える気はさらさらない)
 なあにそんな真新しい高級車を買う必要はない。
 エアコンが付いていればそれでいいのだ。
 
 今、乗っているのが、エアコンレスの軽トラであるため、どうにも死にそうである。
 バイトに通勤する2時間のあいだに、熱中症になることが心配されるレベルである。
 なぜそんな軽トラを買ったのか。
 すなわち安かったからである。
 2輪駆動だし、エアコンレスだし、少々悩みはした。悩みはしたよ。
 でも(初度登録は古いが)走行距離が3万kmにも満たなくて、13万円で売っていたから、見つけた翌日に買ってしまったのだ。
 家のリフォーム資材を運ぶために、それは必要であり欲しいものであった。だから買ったのだ。
 その1週間ほどあとに、乗用にしていた軽自動車が爆発したのだが、その乗用車だってエアコンは壊れて使えなかった。
 
 基本的に僕はエアコンの装備されていない自動車に慣れている。
 慣れきっているといってもいい。
 単に高級な自動車を買わないせいである(エアコン装備が高級というこの価値観が相当に昭和である)。
 生まれがオカネモチーではないのに、20代半ばからひとり暮らしをしてカツカツで暮らしていれば、必然である。
 親に新車を買い与えてもらえる人生がよかったなぁ〜、なんて思ったこともないけれど、誰かが新車を買い与えてくれたら嬉しいなぁ、とは思うのである(いいオトナが親に何かを買ってもらうのはオカシイと思う価値観の持ち主であり、友人や恋人に買ってもらうことには抵抗がない価値観の持ち主がこれを書いている)。
 
 そうだ。
 我が家の経済的主体たる奥様(仮想)に相談しよう!
 と思って話しかけようとしたところ「リフォームの代金が払い終わるのでしたら、ちゃんとした自動車を買ってください」と言われた。
「ちゃんとした」のところに、強い含みを感じた。
ちゃんとした」くらいの感じだろうか。
 
 どうだい強い含みだろう?
 
 なぜだ。
 
 軽トラはダメか。ダメなのか。
 エアコンレスはダメか、ダメダメなのか。
 なにごともレスはダメなのか。僕たち夫婦(仮想)は(当然に)セックスレス(物理)であるが、ダメなのか。
 明朝体じゃダメなのか。アンダーラインが必要なのか。フォントサイズはそのままじゃダメなのか。
 と、奥様(仮想)に問いただしたところ「そんなに無理に話を広げようとしないでください」と笑われる。笑っているが、あれは明らかに怒られている(敬語)。お怒りになられている(二重敬語)。おこであらせられる。
 要は「そんなに無理に話を広げようとしないでください(おこ)」である。
 
 つまり仮想奥様の曰く「安いけれどすぐに壊れたり、爆発したりするような自動車を買うのは、本来の青猫様のモノ選びの基準からするとオカシイのではありませんか(おこ)」ということらしい。
 たしかに、コンピュータよりも自転車よりも、乗っている自動車がだいたいいつも安い。
 24万円より高い車を買ったことがないのだ(自慢にならない)。
 
 だからここで反論しておきたい。
 物事は値段がすべてではないのだ。少なくとも「高ければいい」ということではない。
 されど奥様の曰く「安くていいものなんて存在しない(物理)と、青猫様がおっしゃっていたではないですか(おこ)」。
 
 はぁ〜〜〜。
(ため息、もしくは印籠を突きつけられてひれ伏す平民の図)
 
 車なんて選ぶの、面倒なんだよなぁという本音が計らずも自分自身に見え隠れしてしまうワタクシである。
 
>>>
 
 そもそも自動車というのは不便な道具である。
 使い方はもちろん、運用方法が決まっている。
 空を飛ぶことはできないし、水平移動も自在ではない。ジャンプもできないし武装もできない。
 信号は守らなくてはならないし、原則として車道しか走ることができず右車線を走ることもできない。
 規則が多いからできないことが多いし、機能的にもできないことが多い。
 そういう不便な道具であることを承知の上でそれを愉しむのはけっこうなことである。
 しかし僕は、不便な道具が好きではないのだ。
 
 なぜといって道具は不便を乗り越えるためのものであって、不便を体感するために道具を使うなんて本末転倒だからだ。
 ために自動車を運転するのは、いつもしぶしぶである。
 いやぁ奥さん、今日のこのお茶、ちょっと苦いですね、ということではない。
 
 嫌々ながら、気乗りしないまま、体だけを乗せてドライビン。
 タマシイが宙をさまよい、たゆたうソウルのグルーヴィン。
 
 なんて適当な歌詞で歌っている場合ではない。
 
 目的があって、そこに到達するために、仕方なく使う道具なのである。
 しかも自分で動かさなくてはならない。この不便よ。
 運転中に車内でガール(物理)とぱやぱやすることは不可能であるし、駐車中でもちょっと考えてしまう。
 そういうシチュエーションを躊躇する、そういうお年頃になった。
(前述のとおり20代から一人暮らしをしているので、まぁその車内でガールとぱやぱやする機会はもとよりさほど多くはなかったというかなんというか(もじもじ))
 
 とにかく細心の注意を払って、緊張状態を維持して目的を達成するのが自動車という道具であって、基本的に楽しいわけではないのである。
 よって「運転が楽しい」という感慨はほとんどないし、「いい車に乗りたい」という願望に至っては全くない。
 運転は苦行であるし、いい車に乗っているからといって、空を飛んだり信号無視が許されるわけではないのだ。
(しかしながら、スポーティな自転車を持っている以上、走ること ── あるいは走らせること ── そのものが嫌いなわけでは、実はないのだが)
 
 ただし奥様のおっしゃっていることは切実である。
 エアコンがない、あるいは壊れている、もしくはすぐに壊れるような車ばかり選ぶのはよろしくないのである。
 だからといって僕としては新車を買う気には全くならない。
 しかし中古車を探すのは、本当にピンキリであり、もう考えるだけで疲れてしまう。
 
 そもそも10月に、姉(肺高血圧症である)を病院に移送するためという理由が大きい。
 エアコンレスの軽トラでは、姿勢も固定されて身体に負荷が大きい。
 予後不良(いつ死んでもおかしくない)病人に、そんな負荷も掛けられない ── 殺すような真似はできない ── から、じゃあエアコンの付いた乗用車を購入しよう、というわけである。
 
 ああ。
 中古車選びって面倒だし、ワカラナイ。
 
 経理部門からは以上です。
 
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 いずれにしても8月末までは作物を育てて、自宅で避暑(秘書ではない)をして、ぼんやり暮らしていよう。
 部屋の中にお子様プールを設置しようかな、今年こそは!(5年前からの夢のひとつ)
 
 あれ。
 奥様(仮想)のため息が今、聞こえたような……。
 
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210722
 バイトに出かけて熱中症を起こす。
 炎天下でエアコンが使えない(温風が出てくる)車で2時間も走行するとさすがにそうなるか。
 
 もともと長風呂をするから、発汗量は多い。
 汗かぶれが起きやすいのも、元はといえば汗が出るからである(出ないよりはいいのだろうが)。
 
 店に着いて、涼しく感じたからなのか汗が引いたものの、その後、汗が出ない。
 めまいというほどでもないが、指先に軽いしびれがあり、首と背中に倦怠感がある。
(バイトに出るときはだいたい通勤が終わった時点で相当に疲れているから、倦怠感どころではないのだけれど(笑))
 
 しばらく氷を舐めたりしてみたのだが、やはり汗が出ない。
 暖かい場所(厨房のフライヤのそばなど)に行くと、熱く感じるのだがやはり汗が出ない。
 その上すこし、視点が揺れる。軽くめまいを起こしている。
 
(自律系が壊れてしまったな)と思って、慌ててグラスに氷水を入れて、首や手首、手のひらを冷やす。
 数年前も別の店でバイトをしていて脱水症状を起こし、ひと月ほど体調不良が続いたことがある。
 僕のカラダは主に、脱水症状が先にあって、発汗しなくなったために過熱してしまうようだ。
 仕事中は(仕事に熱中しているとことさら)この脱水症状に気付きにくい。
 汗が出なくなって快適だな、くらいに思っていると(それどころではないくらい仕事に熱中しているのだけれど)突然脱力してしまうのだ。ひどい場合は気絶する。
 
 今のバイトは基本的に「弱みを握られて頼まれているから嫌々働いている」という体で出勤している。
 実際、働くほど損をしている気がするから間違ってはいない。
 そのおかげで(まだ暇な時間帯であったこともあり)熱中症に気付くことができた。
 
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 帰りの道すがら買い物をして帰宅。
 深夜の入浴後に食事を作る。
 
 最近、ガスコンロを入れ替え(ガス会社と再契約し)たのだが、なんだかガスコンロのくせに無駄にボタンやタイマが多い。またグリルが高機能らしく、上下のバーナが別々に調整できたり、専用のダッチオーブン的な調理器を使うこともできる。
 これが面白くて、最近は鶏のローストばかり作っている。
 頻度としては週5回。もはやこれが仕事なのでは?
 
 塩や胡椒で簡単に下味をつけてから、オーブン的な調理器に放り込み、上からくし切りのジャガイモだの玉ねぎだのを放り込み、フタをしてオーブン的に焼くのである。
 コンロに内蔵されたタイマを使えば、ゲームをしていても勝手に火が消えるので安心である。
 しっかりローストチキンになったそれを皿に盛る。
 
 うちに白ワインなんて小洒落たものはないので、あれば赤ワインとか、ブランデーとか、ウィスキィとか、グラッパとか、ラムとか、日本酒とか、黒酢とかをブラウンに残った肉汁に少量混ぜて軽く火を入れ、グレイビーソースにして上から掛ければ、旨いのなんの。
 胸肉一枚で満腹である。
 
 奥様(仮想)が食事中に曰く。
「青猫様(おこ)。ちゃんとした自動車を購入してください(懇願)」
 
 経理部は、中古車選びを面倒がっている場合ではないらしい。このままだと泣かれるぞ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Color-Diary-Ecology-Kidding-Link-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-JunctionBox-Transistor-
 
[Object]
  -Koban-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-月夜の井戸端会議-
 
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210720
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
陰でひっそり眠るもの。
SUBTITLE:
~ Silent soliciting sleeper. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::「あらまぁ。では名前を売っているのですね」
「名前というのは売れるものですか」
「それはそうでしょう。だからみんな都に集まる。武芸の大会なんてあれば、我こそはと名乗り出る」
「そこで名前を売るわけですね」
「そういうことですよぅ。名前が売れれば偉い人に登用してもらえるかもしれないし」
「どうしてですか」
「そりゃあ名前のない人より、名のある人の方が腕が立つからでしょう」
「名前のない人なんていないと思います」
「ああ。いや。だから。たくさんの人に名前が知れている人の方が強いということですよ」
「なるほど、それなら分かります。しかし名前を売ってしまったら、自分の名前が無くなってはしまいませんか。それに名前が知られていなくとも、もっと強い人がたくさんいるようにも思えます」
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 10年ほど前から、なるべく他人との繋がりを少なくしようと考え始めた。
 当時はさまざまなSNSが勢力を拡大し始め、ブログはその勢いを失いつつあった。
 
 今ほど大きなメディアとして機能していなかった Twitter や Facebook も試してみたが、すぐに興味を失った。
 誰かと繋がることに興味がないわけではないが、Webで誰かと繋がっていて得られる情報は多くの場合、無価値か、あるいはそれ以下だった。
 
 ここでいう価値とは、普遍的、あるいは科学的だということ。
 場所や時間や立場や発信者や受信者が変わっても、情報の内容や意味が変わらない、ということ。
 同時にその情報が他のほとんどのメディアで取り上げられていないならば、その情報は極めて有用で高価値だと僕は思っている。
 ちなみにここでいう「科学的」とは、検証の可否を問わず、時間や場所や観察者に左右されないという ── 上記の説明のとおりの ── 意味なので、個人の日記であろうと普遍的と思われる概念や哲学が記されていれば、それは科学的だと判断できる。
 
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 はたして直感は正しかった。
 今だに僕は多数の人間と関わりあうことに向いていない。
 互いに影響を与え合うのが人間関係であるし、そこで発生する影響というものは、その動機や作用や結果が善良で、有意義で、高い価値や相乗効果を生むとは限らず、むしろそうしたものは稀だからである。
 
 多くの場合、僕は誰かを困惑させ、動揺させ、驚かせ、ときに傷つけ、ひどい場合は再起不能に打ちのめしさえする。
 同様に僕は誰かに困惑させられ、動揺させられ、驚かせられ、ときに傷つけられ、稀に回復不能なダメージを負う。
 比較するに僕は多数派には位置できない思考を持っており、他の概念系に表面上馴染むことができたとしても、長期的には齟齬をきたす。
 やがて相互に価値観の汚染を起こすことは忌避すべきだと思うようになった。
 一見無価値な価値観であっても、そこには歴史があり、少数派でも論理が通るからといって、あるいは多数派だからといって無思慮に、他者に対して自身の価値観を押し付けることは侵略であり暴力であり陵辱である。
 価値観のレイプは未だにどの場所にも存在している。往々にして人は、自身の正義を疑わない。
 
 思考や解釈の段差が精神的苦痛になっているだけなら何とでもなるが、精神的苦痛が肉体的なダメージとして顕れると、もうどうしようもない。
 それまで思考や価値観(つまりは記憶だ)を変容させていたとしても、すべてが白紙に戻ってしまう。
 
 だから、自分の身体の安全のためにも、なるべく無理をしないようにし始めた。
 向かない肉体労働のたびに、身体の機能や外観を損ねたので、できるだけ頭脳労働に切り替えたのも同様の原理である。
 
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 実力のあるものは、必然に名が知れるようになる。
 それが人間であれモノであれ、優れたものが広く知れ渡るのは社会本来のよい働きだったはずである。
 しかしある時期から逆説的に、名前が広く知れ渡れば、それが実力のある証だと見なされるようになる。
 
 古くは広告/宣伝がそうである。
 広く知られれば、それが経済を作った。
 実際は、無名の同等品がたくさんあったはずである。
 わずかに抜きん出ていても、あるいは仮に劣っていたとしても、誰もが知っているものの方が確実で優れているという信用の性質が社会にはあったから、その機能を逆手に取った情報戦略ともいえる。
 
 その延長線上で、未だに社会は名と実の誤差を埋めないままに進んでいる。
 だから僕は、有名にならないようにしようと思ったのである。
 
 名だけ広まって、実のないまま経済を作ってしまった人たちが、世を賑わせている。
 SNSにおけるインフルエンサや動画配信事業者は、ただ「不特定多数の注意を引く」という理由によって、最終的にはその「注目している不特定多数」から小銭を集めているわけである。
 
 すでに名と実は、全く異なるパラメータになっていて、かつて社会が機能として持っていたはずの「名のあるものは実力が備わっている」訳ではなくなっている。
 観察する範囲では、炎上をする方もさせるほうも、相当に下らないことをしているなと思ったのである。
 
 匿名による掲示板的なサービスは未だに存在していて、そこでも同様に不特定多数の耳目を集める書き込みがあるようだけれど、基本的にもう、有名になったら負けではないかとすら思っている。
 
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 そもそも僕の求めているものは、経済的な観点を除けば有名になる必要のないものだった。
 社会に訴えたいこと、あるいは引き寄せたい未来は確かにあったけれど、それは無名のまま、経済を介することなく実現が可能だった。
 
 たとえば20年以上前は、まだ安楽死(尊厳死)を求める声は少なかったし、家族葬なんて言葉もなかった。
 しかし家族葬どころか個葬(造語。自分で自分の葬儀をアウトソースで自動化する手続きをする。葬儀の自動化は進んでいるし、僕はこれを実行しようとしている。葬儀に特段ゲストがほしいとか要らないとか、そんなことはどうでもいい)もますます一般化するだろうし、安楽死もバブル経済の頃よりはそれを求める声が大きくなったのでいずれ実現するだろう。綺麗事だけでは経済も社会も動かなくなってきているのだから。
 
 もちろん僕が「家族葬」という言葉や概念、サービスを作ったわけではないし、安楽死を社会に導入しようと広く強く働きかけたこともない。。
 ただ、葬儀でいえばそうした「より小さな葬儀」の方が自然だな、とはずっと感じていたし、自死選択の必要性について僕はかなり頻繁に考えていた。
 社会が、より自然だろうと思えるフォルムに対して不自然なカタチをしているから、それが気になっていただけである。
 
 近年は「会社の飲み会に出たくない人は出なくてもよい」という風潮になった。これも20年以上前から僕が言っていたことである。
 僕はお酒が好きだし、アルコール分解能にも優れているようだけれど、無理に人を集めてお酒が好きでもない人に飲ませたり、女性や立場の低いものに給仕を強要したり、酒豪自慢をしたりする人間は下品で嫌いだった。
 ために会社の飲み会などはその存在についてさえ否定的だった(実際、乾杯が終わるとよく姿を消した)。
 
 名もなく、正体も不明なまま「その無駄な出っ張りが不自然だ」と僕はコソコソとあちこちで吹聴する。
 たとえば会社の取引先で、たとえば同窓会で、たとえば恋人との睦言の合間に。
 それはとても小さな力だ。
 だから僕は何もしていないのに等しい。
 未来を予測しているわけですらない。
 けれども誰もそれをしなかったら、誰一人としてその不自然さを不自然だと思わなくなってしまう。
 
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 もはや有名であることは、実が伴っていないことがほとんどであると認知されつつある。
 少なくとも僕は感じている。
 最近、ニュースにすら興味を失いつつあるのはそのためだ。
 多くの人の注目を集めていることが、どれほどの意味を持った情報か。
 政、芸術、芸能に「秀でている」と名を知られた人のどれだけに、どれほどの実力があるか。
 
 実がないから広まった名のぶんだけ叩かれるのである。
 それでもその有名性にしがみつくのは、意地か経済のためではないだろうか。
 少なくとも僕は無気力なので、他人に叩かれるのはストレスである。
 それが仕事で経済を生むなら我慢すると思うが、わざわざタダでストレスを増やしたところでいいことはない。
 あるいは叩く側が衆愚であるというのなら、その衆愚を衆愚のままにしておいた方が都合のよいシステムで社会が回り続けている証左だろう。
 愚民しかいない国家なら、やがて滅ぶのは必然だ。
 しかし社会という複雑系が、それをたやすく実現するとも思えない。
 
 もちろんこれは揺り戻しのフェイズが始まるだろうというだけのことで、最終的にはやはり、実力の備わった人間やモノが、広く世に名を知らしめるとは思う。
 ただその機能が今はまともに役割を果たしておらず、社会のひずみの原因のひとつになっていて、ために社会は一度、名と実の誤差を生む仕組みについて見直す必要を迫られているのではある。
 おそらくこれも、僕が何をするでもなく、勝手に淘汰されるはずだ。
 
 だから僕は、電信柱の陰からひっそりコッソリ、想いを寄せているガールの部屋を覗くがごとく(ストーカ行為は犯罪です)静かに暮らしておればよいのである。
 
 実を見ず、上辺だけで経済を動かしたから、実に見合う経済が動かず、上滑りした安物が市場を席巻し、結果として安物が人気を集め、日本のメーカは空荷の重たいコンテナに成り果てた。
 多くの人が、名ではなく、正しく実から価値を判断できるだけの価値観を手に入れられるなら。
 経済は経済として、正しくその力を発揮するだろう。
 すなわち人が、正しくその力を発揮するのだから。
 
わたしはここにいないのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::「それにしても不思議に思うのです。名前が売れている人は売る必要がなくて、名前が売れていない人が売るのですよね」
「そうそう。そういうことですよぅ。分かっているじゃないですか」
「どうして売れないものを売る人がいて、しかもそれを買う人がいるのでしょう。手に入るわけでもない名前を買ったところで、その人は何も得られないように思うのですが」
「はぁ〜あ。面倒な人だねぇ」
「すみません」
「いえいえ、いいんですよ。それに私は、貴方のことを買っています」
「本当ですか。やめてください。売った覚えはありません」
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
生きる気力について。
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Color-Diary-Ecology-Engineering-Form-Link-Mechanics-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
//[EOF]