// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210807
// NOTE:
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TITLE:
いずれはすべて朽ちるのだから。
SUBTITLE:
~ Unquiet structure. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
210807
 
 異常な暑さ、という近年的には平均的な夏、である。
 あまりに暑く、またバイトが入ったときに起こる国内時差ボケ ── 14時頃に起床し、16時に出勤し、18時から勤務し、24〜26時に退勤し、およそ2時間後に帰宅し、食事と入浴するため、前日と勤務日と勤務翌日を体内時計調整日とする必要があり、日中は満足に活動できない ── を緩和するため、昼夜逆転の生活を送ることにした。
 
 もともと眠くなったら眠って、目が覚めたら好きなことをするようにしていたのだが、午前4〜5時を活動開始時刻とし、昼の12時頃には眠るようにし、日が沈んだら起床するようにした。
 睡眠中はエアコンの設定温度を上げることができる(代謝が下がる)ので、ちょうどいい。
 ちなみに今の家は木骨かつ2階建てなので、建材を冷やすことができず、屋根裏の冷却装置を設置しても、生活スペースである1階部分の冷却にはあまり影響しない(それより建物の断熱の悪さと隙間の多さが致命的である)ので、サンシェード用のシートをいくつかの窓に設置した。
 すだれは重くて作業的にも建材に掛かる負荷も高く、断熱効果も低い、というのが結果である(樹脂シートタイプと旧来のすだれと、両方買った)。
 水を掛けることで相乗効果が望めるのはよいことだけれど、雨樋の金具にくくりつけているため、荷重的によろしくないように思う。
 
 そもそも床から天井までの掃き出し窓が多い。
 1F部分で22枚、2F部分で8枚のサッシが掃き出し窓である。
 一方の腰窓は1F部分に2枚、キッチンに謎の出窓で4枚、2Fに2枚と天井近くに(僕でも背伸びしてやっとの)小窓が4枚。
 とにかく1Fの掃き出し窓の多さは、防犯の面でも断熱の面でも(なんでこんな設計にしたんだ露出狂か)というレベルである。掃き出し窓なのにカーテンレールの装備されていない箇所も2つある。
 ために屋内に熱がこもりやすくまた逃げやすい。
 40年ほどの建築物なのでサッシはアルミでガラスもシングルである。
 
 いずれ掃き出しになっているサッシの一部を取り外し、腰窓や壁にしてしまう予定であるが、床の工事も満足に終わらない男が壁の工事なんてできるのだろうかと今から心配している。
 
 そういえば住宅部分に接続する形で簡単な倉庫部分が増築されているのだが、どんな設計で作ったのか、母屋から離れて数十ミリの隙間ができている。そのうち倒れるような気がする。
 つくづくにアタマワルい技術者と依頼者を呪う。
 
 最近ではこのまま死ぬまで直しながらこの家で生きるよりも、どこかの賃貸住宅で静かに暮らした方がよいと考えるようになった。
 ただ建物や地面というのは僕にとってはかなりの実験材料になるので、もう少し遊んでいたいのではある。
 
>>>
 
 たとえば10年以上前から建材や空間に水を循環させて(場合によっては直接噴霧散布して)熱交換する構想も、いろいろしようと思えばできる。
 なあに失敗したって朽ちかけた家が一軒、本格的にダメになるだけだ。
 
 鉄骨であれば鉄骨そのものに導水パイプを密着させる方法も考えていたが、木骨だとその実験は不可能なことが残念といえば残念か。
 今は単純に導水とラジエータによって熱交換を行い、庭に穴を掘って地熱と交換することを考えている。
 1m掘るのはむつかしいが、数十cmでも気温との温度差はそれなり(だいたい10℃ほどか)はあるはずである。
 理想は2〜3mだが、そこまで掘るのは人力ではおよそ不可能で、工事を外注すると家が建つような値段になりかねない。それに大量の土砂を一時的に保管する必要も出てくるから現実的ではない。 
 ラジエータの設置は不可能だろうから蛇腹状に配管して面積を増やせば最大で地熱同等まで水温を交換できる。
 その熱を屋内に循環させて屋内温度と交換すれば、夏は涼しく、冬は暖かい環境を作りやすくなる。
 
 もちろん水温による地熱と屋内の熱交換だけで快適な空調とは言いがたいが、現在の「冷媒の膨張や収縮、燃料の燃焼による熱交換」の底上げには十分以上の能力を発揮するだろうし、ランニングコストは(水やそれに準ずる液体を循環させるだけなので)非常に低廉だ。
 
 ただし工事を含めて初期設備がかなりの高額になる気はするし、(基礎工事に組み込むのでない限り)土地が必要で、増改築の際に工数が増えること、耐用年数がせいぜいでも数十年しかないことが難点だ。
 もっとも最初からきちんとした設計をしておけば増改築の必要は少ない(現に今の住宅の多くは増改築を必要としないもののように見受ける)し、耐用年数は住宅同等(2世代使う必要などない)と考えれば、基礎からの初期組み込みで500〜1000万円程度の上乗せで実現できそうな気はする。建築基準法とかは知らないけれど(笑)。
 耐用が50年と想定して年20万と考えると……。
 
 エアコン使った方が安い気がする。(え?)
 500万円でも高いが、停電等に強く、液漏れさえしなければ接続しているだけで多少は熱交換が期待されるのは強みか。そうでもないか?
 
 やはりそこまでするのはやめよう。高くつきそうだ。
 部屋にビニルのお子様プールを設置する方が、安くて安心で安全で涼しい気がする。それでいこう。
(仮想奥様をチラチラと窺いながら)
 
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 とにかくサンシェードを(雨樋にテキトーに)ぶら下げたおかげで(たったそれだけで!)驚くほど涼しくなった。
 家中の窓という窓にこれをぶら下げ、エアコンの室外機にも専用の庇を作ってやりたいくらいであるし、高額な設備投資を要する実験なんてやめてしまえよオレのこと好きなんだろ? あいつのことなんかオレが忘れさせてやるよ、みたいな気分にもなる(急な展開)。
 
 今年の園芸部の惨憺たる状況を考えると「サンシェイドが有効に涼しい」というだけでも明るいニュースのように思えてくるから不思議だ(そのくらい悲惨だった)(あえて過去形)。
 
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 リフォーム代金の支払いがようやく終わった。
 退去したアパートの家賃も発生しなくなったので、来月からは(気温にもよるが)リフォーム作業を再開できそうである。
 
 しかし家電の一部が壊れ始めている。
 冷蔵庫は以前から一部のパッキンが破損していたのだが、引き出しドアの冷凍庫部分にひずみが発生したのか、ときどき隙間が発生する。相当年季の入ったものなのでいずれは買い換えを要する。
 またエスプレッソマシンが徐々に不調になってきている。10年以上使っている(15年ほどにもなるだろうか)ので、相当に付き合いが長い。現存のいかなる恋人よりも長い付き合いである可能性を否定できない。こういうとき、無駄に張り合おうとする奥様(仮想)をどうにかしたい。
 洗濯機もひどい状態で(さほど古くはなさそうだが)どうしてこんな機体を買ったのか分からないくらい使いづらい。汚れは落ちないしフタにロックが掛かったりして不便きわまりない。
 またコンピュータのバックアップシステムがまだ出来上がっていない(携帯端末も同様な)ので、これも整備する必要がある。
 
 優先度はバックアップ、冷蔵庫、エスプレッソマシン、洗濯機の順だろうか。
 バックアップなんて何もなければ必要のないものだが、携帯端末のデータを保存できる場所がどこにもないことは不安である。
 MacBook のストレージは貧弱なので、iPhore のバックアップ先として機能しない。
 こういうとき、MacProがいかに万能だったかを思い知らされる。
 本体内蔵のストレージだけで、iPhore をバックアップし、自身のバックアップも保存し、データ領域とシステム領域を別の物理ドライブで保存できたのだから。
 いやその前に机と椅子だろうか。このままだと腰が痛い。
 
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 ホームPCユーザが減っているといわれているが、僕は携帯端末よりもPCが好きである。
 画面は大きいし使い勝手も格段によい。拡張性に至っては雲泥の差であるから、道具に使われないという点においてPCは携帯端末よりはるかに優れている(それでもユーザにあれこれ強要しがちなのがシステム設計者の悪いところであるが)。
 
 入力機器を見ても本体を探しても、とにかく魅力的な商品がまったくなくて困っている。
 キーボードやマウスは、こんなに同じような商品をいくつも製造する意味があるのかと思ってしまう。
 少なくとも僕は高機能な機器を使い続けてきたので、今の市場を観察するに、文化として衰退に向かっているとずいぶん前から感じている。
 
 マウスのスクロールホイールが3つくらいあったって全く不便ではないし、キーボードにトラックパッドや様々な入力装置が付随していても便利だと僕は感じる。
(MacBook にある 液晶のタッチバーでさえ、見かけ倒しのまだるこしい ものだと感じる)
 
 使う人間が退化しているのか、作る人間が怠惰になったか。
 これは何の淘汰の過程なのだろう。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Maintenance-Mechanics-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Computer-Garden-Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-工場長の設計室-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210814
// NOTE:
// ----- >>* Header  Division *<< //
TITLE:
シン・エヴァンゲリオン劇場版を観る。
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた。ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界に映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫(えいごう)はこれただ瞬時 ── 涅槃(ねはん)はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存するという道教の考えが彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210814
 たまたまAmazonでカートの定期整理をしていたら、ヱヴァンゲリヲン新劇場版の最新作(シン・エヴァンゲリオン劇場版)がリリースされていたので見る。
 シリーズなのにタイトルが違うのは、青猫工場みたいな酔狂だからだろうか。
 酔狂とは傍目には理解しがたいものなのだと理解する。
 
 ちなみに僕は基本的に、急ぎの買い物をAmazonではしない。
 欲しいかなぁ、と思ったものを額も関係なくカートに放り込んで気が向くまで寝かせ、ひと月に一度くらい観察して、本当に必要なものは気が向いたら買うという程度である。
 なので「なんとかセール」も基本的に無視。
 何かを買い叩くとき、何かを踏みにじるとき、それは翻って自身にそうすることと等しいからだ。
 会社員をしていたときの仕事もそうだったし、無職になった今もその哲学は変わらない。
 
>>>
 
 僕はどういうわけか昔から「エヴァンゲリオン好きそう」という評価を受けるのだけれど、実のところまったく興味がない。
 そもそもロボット(ヒト型を含む)は好きなのに、ロボットアニメに興味がないようだ(今知った)。
「好きなロボットアニメは」と尋ねられたとして、回答に窮する。そもそもろくに見たことがないので好きも何もない。
 いや「宇宙戦艦ティラミス」とか「シドニアの騎士」あたりは(最近暇つぶしに)見たから、いやでもしかし「好きで他の人におすすめしたいか」と問われると困るのではある。
 ロボットアニメというのはいずれも外連味が効いているとは思うが、どちらかといえばファンタジィに近いと認識している。
 だからゲームとしてのヒト型ロボは好きだけれど、物語として楽しめる気がしないし、SFの括りにされるのはちょっと心外な気さえしてしまう(笑)。
 
 TV版のエヴァンゲリオンもWebで少し見たことがある(どうやらいつも途中で他の作業をしてしまうらしく、あまり記憶にない)。SFとして斬新な部分はあったようには思うが、結局あの兵器はロボットではなくクリーチャだし、カミサマ ── の遺したテクノロジィではなく、カミサマそのものやその能力 ── がSFに出てきてしまうとあってはデウスエクスマキナの再来でしかない。(FSSも結局よく分からない産物になっちゃったしなぁ)
 「何でもあり」になってしまうから、僕にとってのエヴァンゲリオンシリーズは、ロボットアニメではないしSFとしても「ちょっと斬新な切り口だった」というだけの、ただの青春アニメに近い。
 だからシリーズを通してどうしてあんなに話題になったのか、あまりよく分からない。
 
>>>
 
 ちょっと余談になるが、僕にとってヒト型ロボット兵器の醍醐味と思うものがあるとすれば、それはメカとしての損傷と能力の発揮にあるのだ。
 だから繊細な5本指のマニピュレータはすぐに破損するものだと思うし、関節は装甲による保護をしづらく、電気的損傷によってたとえば肩から先が動かなくなるとか、そういう状況が発生して然るべきだと思っている。
「肩を斬られました」→「はい爆発四散しましたー」という図式は、ちょっとどうなんでしょう、と思うのである。
 
 確かガンダムだったか、頭部を失った機体が、それでも稼働して戦闘を続行するという描写があったと聞く(見たことがないので知らない)。そのくらいが楽しいと思う。ロボットがロボットであることの利ではないか。
 電力、弾薬をはじめとするリソース管理があり、破損や欠損、熱による機能障害があり、壊れながらも動くから機械は楽しいのである。
 肩の関節が動かなくなった機体が、肘から先だけで射撃をしたり、質量ありきで落下を含む体当たりをしたり、手頃な武器がなくなったので落ちている車両や機体パーツ(腕なんかよいではないか)を鈍器に使ったり、動力系をオーバーロードさせた攻撃や機動をしたり。そういった「機械ならでは」という使い方をしてほしいのである。
 
 でもだいたいのロボット物語は「主人公の成長」がテーマだから、かすかに足先を斬られた機体も爆発してしまうし、主人公機には弾がかすりもしないし、火器は動作不良を起こさないし、弾薬は潤沢で誘爆もしないし、動力炉が熱暴走したりしないし、レーザー兵器を受けて装甲と関節が癒着して機動能力や精度が落ちたり、伝達系が損傷して特定の機能が使用不能になるとかそういうこともない。
 恋愛だの葛藤だの確執だの愛憎だのといった、人間くさいドラマに終始する。
(たぶんそれでいいのだろうけれど)
(伝達ケーブルが断線してしまったからどうしよう、とか、クーラントが漏れたけれどどうしよう、とか、サーボに誤差が発生したけれど手動でどうにかしよう、とか、そういうのは求められていないのだと思う)
 
 その点、ゲームはかなり技術的になる。
 ステータスがどうだのスキルがどうだの、残弾がどうだの、中には部位破壊のシステムがあるものもある。
 シミュレーションになればもっと複雑なものもあるから、それであれば楽しい。
 物語でも、バトルテックシリーズは、まぁ楽しめた方かもしれない。
 
 さて話を戻そう。
 
>>>
 
 輪廻のように繰り返される物語は確かに斬新だと思う。
 その場その場で明確にされない固有名詞や意味深な言い回し(俗に「伏線」として認識されているもの)が多かったから、あれこれ言い合うのが話題性そのものになったのかもしれない。
 登場人物も、テンプレートのようなツンデレキャラであるとか愚図な主人公であるとか人形のようなヒロインであるとかが受けたのかもしれない。そもそも日本はキャラ萌え文化の人が多いという ── フィクションは単発よりも続きものが受けるらしい ── から、そう考えれば納得か。
 
>>>
 
「あの人形のような感じがいい」と僕のある友人は綾波さんをして言う。
 あの生気のなさ。それがいいそうだ(ある種のビョーキだろう)。
 僕には良さが分からない。
 
 個人的には長髪眼鏡で破天荒な「乳の大きいいい女」のほうが明らかにいい。
 むしろ完璧だ。
 
>>>
 
 伏線であるとか、その回収であるとかに僕は興味がない。
 それはストーリィの枝葉でしかないから、気になったらあとで仔細に観察すればいい。
 幹の部分はといえばカミサマが出てくるSFのテイをした父子であるとか親子であるとか友達であるとかの人間物語のように思える。驚くに値しないが、映像は美しい。
 登場人物の恋愛感情が冷めていたりするのも ── 現実世界の時間が長すぎたのが原因かと考えると ── シュールで面白い。自己愛に満ち満ちた主要人物の内面表現もむしろ潔ささえあって心地よく、嫌いではない。
 
「Q」のあたりから並行世界的な、カミサマの領域的なものが出てきていた気がする(水面にヘキサの欠片が飛び散ったり、など)が、その表現、概念的なものを現実世界の人間が現実の事象として感覚している描写の数々は(終盤にこれでもか、と羅列される)斬新で、何度も笑った ── 面白おかしいシーンではなかったと思うが「概念世界で実存世界の兵器を使って戦闘する」という表現はさすがに面白かった。
 そもそも現実世界がめちゃくちゃになってしまって、カミサマの領域と融合しつつある世界では、何が現実なのか分からないし、観ているこちらとしても、その物語の人物にとっての現実が不明瞭になる。
 知らない世界の知らないルールの知らない事象であるから、固有名詞における作用や諸元について、仮にそれが伏線であろうとなかろうと、僕は理解することをすぐに放棄する傾向がある。
 
「なんとか粒子」とか「なんとかフィールド」とかそういうものは、僕らの肉体のある世界に存在しない場合、その物語の中の人物たちの取り扱い(行動)によってしか、その作用を理解できないからだ。
(世界設定や伏線に対する考察であるとかも、これにあたることが多い。考察するのは楽しいと思うが、僕はそれを最初から放棄する)
 だからストーリィと登場人物をぼんやり眺めていれば、物語はだいたいは理解できると思っているし、登場人物 ── あるいは見ている自分 ── に理解できないものは理解しなくてよいものと認識している。説明すべきは説明され、説明すべからざるものは説明されない。放っておけそんなもの。
(同様の原理で僕は意味不明な物事をフィクションに詰め込むことがある。ああいうのはごちゃごちゃにしているほうが楽しい)
 
 なので「なんとかの槍」がどうの、とか、それをどうする、といったあたりは理解しないまま観続けた。
 とにかく「何をどうするとどうなる」といった説明らしきセリフはあるのだが、さっぱり意味が分からない(笑)ので、雰囲気を愉しむしかない。そもそもこれはSFの皮を被った純文学ファンタジィ系だ。
 それにそう。雰囲気は悪くない。
 
 観終わった感想としては、まぁ、楽しかったかなぁ。
 雰囲気映画だし、芸術作品風でもあるし。
 エンタテインメントとしても、人物たちはそれなりに魅力的だと思うし、名言もちりばめられているし、そもそもSFのフリをした純文学ファンタジィ系なのだから。
 
 なんというか、絵画を鑑賞するような感じで見るしかないと思う。
 シーケンシャルな辻褄(笑)を求める人には多分向かない。コアなファンのあいだでも賛否両論というから、まぁそうなのかもしれない。輪廻する雰囲気映画哲学系ですもの。
 でもけっこう笑っちゃう。冗談みたいなことを真面目に、真面目に作っているから。
 何してるの? って思って笑ってしまう。
 
 茶化しているわけではない。メタ表現によって、もともと存在していたベースラインを逸脱するような作りさえ真面目にしているから、その逸脱が滑稽なのだ(そして個人的には楽しい)。
 シリアス路線だったフィクションがその登場人物をして「フィクションですよー」って言ってしまうような。その手法は通常、ギャグ路線のストーリィでしか見られなかったもののように思える。
 
 複雑な設定も、難解な世界も、ぜんぶ少人数の中にある概念世界のことだった、と考えると滑稽でおかしみがあるし。
 あるいは輪廻する自分という呪いから解放される物語だと考えればまぁ、ああいう終わりも納得ではあるし。
 ただ、箱庭世界の中で完結する話が欲しかった人は、確かに怒るよなぁ(笑)。「僕のエヴァンゲリオンを返せ」って。
 
 いやしかし。
 長髪眼鏡。乳の大きいいい女。
 うん。
 眼鏡ガールはいいなぁ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::かくのごとくして人は直ちに天に直面するようになった。新しい意味は次第に生の術にはいって来た。茶は風流な遊びではなくなって、自性了解(じしょうりょうげ)の一つの方法となって来た。王元子(おうげんし)は茶を称揚して、直言のごとく霊をあふらせ、その爽快な苦味は善言の余馨(よけい)を思わせると言った。蘇東坡(そとうば)は茶の清浄無垢な力について、真に有徳の君子のごとく汚(けが)すことができないと書いている。仏教徒の間では、道教の教養を多く交えた南方の禅宗が苦心丹精の茶の儀式を組み立てた。彼らは菩提達磨(ぼだいだるま)の像の前に集まって、ただ一個の椀から聖餐(せいさん)のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して十五世紀における日本の茶の湯となった。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 
 
 文頭文末の引用は、
「茶の本」(著作:岡倉 覚三 / 訳:岡村 博 / 発行:岩波文庫)
 によりました。
 
なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Link-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-
 
[Object]
  
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-本棚からあくび-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210818
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
無人の街、孤独の夢。
SUBTITLE:
~ Silent Building. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210818
 
 子供の頃の夢は何といっても人類絶滅、もしくはそれに近しい状況だった。
 僕の子供の頃というと、ユリ・ゲラーがスプーンを曲げたりしていたので、地球に再び氷河期が訪れるだの、宇宙人が襲来するだの、恐怖の大王が君臨するだの、米ソ間で核戦争が起こるだの、地底人がいよいよ地上世界を蹂躙するだのといった終末説が多様にメディアにあふれていた。
 まぁ、僕の家に月刊「ムー」が転がっていたせいだけれど。
 
 しかしそれよりずっと前。たぶん6歳になるかどうかの頃からずっと「僕以外のいない世界」を夢想していた。
 
 その世界は、どんな理由でなのか、僕以外の人間がいないのである。
 動物はいてもいなくても構わない。どちらでもよい。とにかく人間という人間がいない。
 しかし建物やインフラはそのまま残っているので不自由なく日々を過ごせるという夢のような世界である。
(実際には、人間がいないと多くのインフラは稼働を停止してしまうと思うが)
 
 おそらくそこに僕が見ていたのは、自由なのだろう。
 子供にとって大人は制約だから、それらから断ち切られた、奔放な自由を求めていたのだと思う。
 それからその当時、今でいうところのサバイバル技術に関する書物(これも家に転がっていた)を読んでいたから、それらの知識や技術を試してみたい、という気持ちもあったように思う。
 
 簡単なところだと「方位磁針がないときに北を確認する方法 ── 北極星や南極星による。アナログ時計と太陽を組み合わせる。木の切り株を見る。スマートフォンを使う。 ── 」であるとか、簡易集水器や簡易浄水器の作り方であるとか、小動物を捕まえるための罠の作り方とか、身近な薬草であるとか、そういう知識を覚えてしまっていたから余計に、だろうか。
 
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 かつて付き合った恋人に「アマゾンの密林でも私は生きていける」と言っていた子がいたが、多分到着6時間程度で、蚊に刺されるか毒蛇に噛まれるかして死ぬだろうと予測された。
 しかし恋人がアマゾンの密林に ── 遭難であっても ── 行くことはないと思ったので指摘したことはない。
 その後も行っていないことを祈る。
 ちなみに煙草を水に(半日ほどか)浸してその水を靴に掛けると、匂いで毒蛇除けになる。
 熱病を媒介する蚊を除ける方法は、薬草を燃やすのだったか。
 まぁ、僕もアマゾンの密林には行かないのだから、そんな知識は何の役にも立たない。
 
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 今、僕の置かれた状況をざっと観察すると、当時の夢がだいたい叶った環境に近いと思える。
 大人になってよかったと、つくづく思う瞬間のひとつだ。
 世界にはたくさんの人がいるけれど ── そもそも人の不在は絶対必要条件ではない ── 建物やインフラは残っていて、僕は自分の知識や技術を思うさま試す機会を得ている。
 しかもその上、たとえば上司に「それは承認できない」と言われたり、幹部会でわけの分からない部署の連中にまで囲まれて詰問されたりすることはないし、奥様(仮想の存在なので実体はない)が反対しなければ予算は自由に使えるし、実験の結果、失敗したとしても誰に報告する義務もない。
 有耶無耶にして揉み消してしまえば、成功例だけを公表して失敗のない自分を演出することだってできる。
(ええ、ええ。今年の園芸部は大失敗ですとも)
 
>>>
 
 粘膜系に炎症反応が続いている。
 喉や鼻の粘膜が腫れて少々呼吸が苦しいし、胃腸の具合もあまり良いとはいえない。
 奥の歯根も腫れている。怒った日に前後している。
 こんなに影響が残るものだろうか。それとも身体に炎症反応が出ているとき(局所に集中することもあれば、全体にうっすらと出ることもある)は免疫力も低下して、ついでに怒りっぽくなるのだろうか。
 分からない。ぼんやりしているほうがよいことだけは確かだ。
 
 思い出した。
 早朝に草取りをするようになって3日目、しゃがんで(いわゆるウンチョス座りをして)いて、腰の筋肉が痛くなったのだ。
 それ以来、炎症反応が始まり、そしてやたらと眠くなった。
 毎日よく眠った。
 早起きすることだけは決まっているから、余計にそうなのかもしれない。
 18時間ほど眠る日もあった。
 
>>>
 
 誰かの鼓動を聞いていると安心する、というガールがいた。
 
 僕についていえば、鼓動は飽きるほど聞いてきた。だから聞き飽きている。
 自分ではない誰かの、ではない。自分の鼓動がいつも鳴り響いていた。
 眠るときも。目覚めるときも。走ったりなどすれば轟音になり。入浴時はじんじんと、指先を震わせた。
 時計の針の音を数えながら、その周期を計ったりもした。
 10年以上もそれは続いたので、僕は時計がなくても、およそ正確に1秒間を、あるいは60秒を計れるようになった。
 3分を誤差3秒。5分を誤差10秒。
 やがて、現在時刻を誤差5分で当てられるようにもなったが、そもそも時計というものがこの世界にはあるのだった。
 時計のある世界において体内時計の正確な読み取りはさほどの意味を成さず、時計のない世界においては時刻が意味を成さない。
 
>>>
 
 僕はイキモノのお腹の中の音を聴いていると安心する。
 それを当時の恋人に話したら「猫クンは子供だからねぇ」と笑ったものだ。
「帰胎本能なのかな。私は貴方のママではありませんよお」と茶化すように。
 今もときどき、猫(アヲ)のお腹をしばらく借りて、枕にする。
 水の音。気泡が流れる音。微細な血管が脈動する、その音。
 心音からすればずっと無機質な、やわらかい音。
 
 どちらにしても僕の身体は必要以上に大きいので、誰かの身体の音を聴くのは簡単なことではない。
 僕の身体がまだ小さかった頃に、まわりの大人たちは居なくなってしまって、気付いたらこのサイズだった。
 気がついたら、大人より大きくなっていたのだ。
 高いところのモノと、蜘蛛の巣を取るのだけは得意なサイズである。
 
 大人になって、自分の鼓動は聞こえなくなった。
 たぶん死んだのだろう。あるいは自由になったか。
 誰も居ない街で、鼓動が旅をしているのだろう。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Darkness-Diary-Memory-Rhythm-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-
 
[Object]
  -Cat-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210816
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
生者の国。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210816
 
 お盆というものがどういうものなのか、知ってはいる。
 しかし長い間(およそ40年。生まれてからほとんどの時間である)お盆という行事をしないで生きてきたので、どういうものなのか、感覚としてはよく分からない。
 帰省する故郷を持たないし、帰るべき実家というものもない。
 
 前者は、僕が「今いる場所」を遠く離れる必要を感じたことがない帰結である。
 数年前、就職で京都に行くことになりかけたが、地元のかつての取引先に勤めることになったので結局群馬にいる。
 栃木県(の群馬県との境寄り)で暮らしたことが20年近くあったが、近所の川を越えると、もう群馬県だった。
 群馬県は、火山(温泉)が多いわりに、地震による被害が少ない。地盤が固いのだろうか。
 台風もまともに直撃することがほとんどない。平野部の土砂災害も少ない。これは山に囲まれているせいだろう。
 知名度がひどく低いのは僕には好都合だ。
 地方都市化が進めば、僕はもっと山奥に逃げることを考えなくてはならない。
 だから自慢できるような名物名所が何もないことが、そのまま優位性を持つ。
 落雷による被害はこの10年ほどで大きく減った。ただし夏の気温はかなり高い場所になったと思う。
 
 学生時代、東京に憧れる友人や恋人もいたが、僕にはぴんとこなかった。
 どこに行っても、結局何も変わらないと思っていたし、何より僕は人混み恐怖症だった。
 都会への憧れが皆無で、むしろどこまで辺鄙な場所に行けるかを夢想していた。
 結局のところ、その「憧れのどこか」が遠ければ遠いほど、掛かるリソース(お金や時間やコネクションや準備)が大きくなることは変わりなく、そのときは良いと思っていた場所が、棲んだら思ったより良い場所ではなかった、なんてこともあるような気がする。
 
 たとえば子供が成人する前なら、学校や買い物をする場所、公共交通機関の近くが住みやすいだろう。
 しかし子供が独り立ちしたら、夫婦でなのか独りでなのか、過ごす場所がそこになる。
 子供の身体が未成熟だったように、自身の身体は徐々に衰えて、階段を上ることもいつかはできなくなるだろう。
 だからそのときどきで、人にとって快適な、あるいは理想的な場所というのは変わるのだろう。
 
 余談だが、恋人は関東を離れていることもあった。
 九州や北海道、四国とか佐渡島とか、そういうところに恋人がいるのはなかなか素敵ではないだろうか。
 そこまで離れていなくても、片道で2時間程度の距離にいれば、ちょっとした遠距離恋愛ではあろう。
 とにかく会うのに時間が掛かるというのは、決して嫌なことばかりではない。焦がれるのも愉しい。恋路を行くのも長くて愉しい。
 かの郷ひろみさんも歌っていたではないか(目を閉じても恋人の顔を思い浮かべる能力が僕にはないが)。
 
>>>
 
 24歳で一人暮らしを始めて、27には父上が鬼籍に入ったので、つまるところ3年と少し、実家があったことになるか。
 それでも帰るべき実家に戻らなかったのは、つまり故郷が近いからということもあるし、一人で暮らすようになったら実家にいても落ち着かなくなったというのがある。
(出戻った姉に僕の部屋を占拠されたために一人暮らしを始めたのでなおさら)
 父も妹も(あるいは他の姉妹も)僕のことを憎からず思っている人が多いのだけれど、僕はどういうわけか、血縁家族に対してそんなに強い慕わしさを感じないのである。子供の頃からずっと。
 
 幸い、父上が亡くなる前後は一緒に仕事をしていたのでほとんど一緒に居ることができた ── ために葬儀などの手配や進行は対外的にも有利だった ── し、母上が亡くなるときも ── すでに現在と同様、無職だったので ── 見舞いに行くのは簡単だった。
 
 本来なら叔母の嫁いだこの家の墓を(まがいなりにも嫁ぎ先の本家らしいので)僕が守る必要があるのかもしれないけれど、それこそ本来なら墓仕舞いをすぐにしていたはずなので、何をどうするものでもない。
 また直系の血縁者がこの家系では途絶えてしまったので(僕はその、滅んでしまった家系の最後の家に、どういうわけか棲んでいるのだ)もはや盆の挨拶に来る者もいない。
 高齢の方が多いし、世俗の様子も考えるとその方が適当なようにも感じるのだが、時節のやり取りであるとかを重視する人たちは少なからずいて、そういう常識から僕自身の価値観は遠く離れているけれど、慣習を最優先する価値観があることを僕は知っている。叔母夫婦もそうであったし。
 それでもやり取りを強要する人が少ないのは、僕にとってはありがたい(嬉しい)ことのひとつだ。
 義理の叔父方の親族にも、いい人はたくさんいるし、気掛かりにならないわけでもない。
 けれどもそれをすべて気にしていれば、結局人間関係が複雑になって、しがらみが増えてしまう。
 どんなに好意的な関係であっても、あるいは好意的な関係であればこそ、側にいるときはいいのだけれど、離れるときに抵抗になる。
 
 しがらみというのは漢字で「柵」と書く。いかにも不自由そうである。
(ちなみに「さく」と同じ意味ではない)
 なぜこんなに不自由を嫌うのか、自分でもよく分からない。
 おそらく子供の頃から、けっこう自由だったのかもしれないと最近は思う。
 経済的な制限は多かったし、人間関係も制限があったけれど(そもそも人間関係は制限が自動生成されるメカニズムを持つ)、僕個人の選択はかなり自由だったと思う。
 
 あるいは不自由が、自分をつなぎ止めるくさびとして、あるいは自分を包み込む防御壁として、安心だと思う人もいるのだろう。
 そういう人たちにとって、人間関係は非常に重要で、なくてはならないもののように感覚されるのだろうと思う。
 ちょうど草食動物や小型の魚がそうである。
 群れを作る必要性を感じ、あるいは本能的にそこに安寧を見出す。
 そう考えると、僕は大型の肉食獣か何かか。
 群れない点で、狼ですらない。
 
>>>
 
 墓を仕舞ったわけではないので、お寺との付き合いは続いている。
 義理の叔父に罪はない(死して呪う必要がない)ので、墓の手入れくらいは時折にするのだが、当人は死んでいるし、直系の親族もいないし(いたとして誰も訪ねてこないし)僕は本来、父上と母上の子だし(しかし両者とも墓を持たない孝行者である)で、フクザツな心境ではある。
(死してなお)呪われた叔母の遺骨は(彼女自身の業により)、埋葬されずにまだ置いてある。
 
>>>
 
 おそらく「人間関係を大事にする人たち」にとって、疫病のためであるとか、自然災害のためであるとかによって、往き来ができない状況は、相当なストレスになるのだろうと想像する。
 悲しくなったり、あるいはイライラしてしまう人もいるのだろう。寂しい思いをしている人もいるだろう。
 あるいは往き来をしたくないけれど、しなくてはならない人にとっても同様だ。
 板挟みのプレッシャの中では、いかなる決断も何らかの危惧を抱える。
 
 続く雨空を眺めて思う。
 いろいろなことが、僕のような少数派の人間にとってだけ都合のよい世の中はよろしくないのではないかと。
 たくさんの人たちが、何気なく日々を過ごして、喧嘩したりしながらも、笑って過ごせる世の中のほうがよいと。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Ecology-Link-Love-Memory-Season-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-
 
[Object]
  -Human-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210818
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ごはんログ。
SUBTITLE:
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210818
 
 春頃、ひたすら揚げ出し豆腐を作って食べていた。
 Webニュースか何かで「簡単に作れる」といった記事に踊らされたのである。
 もともと冷や奴を食べるにも豆腐を水切りしているので、水切りした豆腐には事欠かない。
 大豆製品は基本的に毎日食べるものだからなおさらである。
(米はめったに食べないが)
 揚げ出し豆腐がひと月以上も続いたろうか(毎日、である)。
 
(毎日きのこあんかけだったわけではない)
 
 先に奥様(仮想)が根を上げた(最初は喜んでいたのだが)。
 肉体を持たないのに飽きるのは、どうやら記憶に蓄積する結果のようである。
 そのうち僕自身も飽きた。
 
 それと時期を重ねて、刺身こんにゃくを毎日食べた。
 刺身こんにゃくはおよそ3ヶ月続いた。
 しまいには辛子酢味噌を自分で調合するようになった。
 豆腐、刺身こんにゃく、それともう一品でだいたい満腹になる。
 
 ガスコンロをひと月ほどまえに入れ替えて、それからローストチキンをほぼ毎日食べるようになった。
 以下はそれらの記録である。
 
7/28 胸。
 
 
8/6 胸。ここまでは塩コショウとグレイビーソースのみ。
 
 
8/9 ここから冷凍ささみの手軽さに目覚める。
ソースはオニオンドレッシングだろう。
 
 
8/10 ささみが埋もれている。
 
 
8/11 ささみアーリオオーリオソース。写真を撮るのがようやく習慣化する。
 
 
 
 
 
8/11 トマトアーリオオーリオソース。
お皿からはみ出る。
 
 
8/12 翌朝も同じものを作っている。
 
8/14 飽きるということを知らない。
 
8/15 懲りることもない。
 
 
ちなみに人参は数日に一度、茹でおきしている。
玉ねぎは都度、生の1/2を使う。
 
それ以外の野菜はトマトを除いてすべて冷凍野菜である。
 
だいたいオーブン皿に放り込んで塩コショウして20分くらいで出来上がる。
ワンプレート料理というか、単品料理なので、あとはお酒と豆腐とか、チーズとか、刺身こんにゃくが並ぶ程度である。
 
さすがに作り飽きて3日ほど休んでいる。
材料はあるのでまた作ろうかと画策している。
 
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

 工場内検索結果へのリンク。

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Cooking-Diary-
 
[Module]
  -Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Dish-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-ひとになったゆめをみる-:-キッチンマットで虎視眈々-

 
 
//[EOF]
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210813
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ぷんすかの夏。アドレナリンの夏。

Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210813
 久しぶりにものすごく怒ってしまった。
 
 理由はまぁ比較的簡単なことで、感染拡大に伴い店舗が休業するので予定されていたバイトがなくなるという連絡を受け「ラッキィ!」と思っていたのだが、当の当日(今日)、それも通常なら家を出ている時間をとうに過ぎた頃「急遽営業することになったのですが、来られますか」と連絡を受けたためである。
 営業を決定した経営者もどうかと思うし、それを今日の今日(と明日)、本来なら自宅を出発する時間を過ぎて連絡する担当社員(こちらが旧知の友人である)もどうかと思うのである。
 
 幸いメールであったので、あからさまに怒鳴るようなことはなかった ── そもそも誰かを怒鳴るようなことはめったにない ── が、
「さすがに今の今は無理です。営業を決定した人が責任を取るべきです。明日は可能ですが、その場合、今後は一切お引き受け致しかねます」といった内容の返答をしており、明らかに怒り心頭である。
 

>>>

 
 その後、気分転換にしばらく外を歩いたのだが、帰宅してもやはり怒りが収まらない。
 頭の中はメール直後に切り替えたので他のことをしているのだが、自分の身体が怒りを記憶している。
 心拍の数も多いし脈動も強い。身体の末端がすこしぴりぴりと痺れている。
 アドレナリン反応が引かないのである。
 すべきこと(対応しかねるという連絡)はしたし、したいこと(怒りを適切に伝える)もした。
 これ以上、すべきことはないし、怒りにまかせて何をしようというのか。することは何もないぞ。
 
 食事の用意をしようと台所に向かっていたのだが、そうこうするうちに意識が朦朧としてきて暴力的な眠気がやってきた。
 恋人に叱られている最中や仕事で熱中していた直後、気絶するように寝てしまうアレである。
 ふらふらするアタマと脱力が始まった身体を使ってヨタヨタとベッドに直行し、横になって服を脱ぎ捨てる。
 
 身体を撫でながら、意識を失う。
 
>>>
 
 人格系を切り替えてしばらく経った。
 旧来の人格系(BlueCat人格系とでも仮称しようか)の記憶と価値観が、今の生活に不都合はあっても有効性が低いと判断したため「6歳以前」とその周辺で対応することにしたのである。
(最近、作者名に若干変更があるのはそのため)
 
 現在、昼夜は逆転し(なぜなら日中は活動するには過剰に暑いので、眠って代謝に伴う体温上昇を抑えたほうが電気代もお得である)睡眠時間も安定しない(2,3時間で覚めることもあれば、半日眠っていることもある)。
 しかしだいたい午前5時前後は起きているので、庭仕事もゴミ出しも容易である。
 何より、かつて感じていた罪悪感は微塵もなくなった。
 さすが労働を知らない6歳以前。
 そして子供の頃のことをよく思い出すようになった。
 回想したくない記憶も中にはあるが、だいたいそれは後付けの価値観によって否定的な評価をされたものばかりで、感覚した時点ではとくに何も思っていないことが多いように観察される。
 おそらくなのだけれど、子供の頃から僕は、感情が希薄だったのかもしれない。
 
 いや、そうだろうか。
 ものすごく怒りやすかったのは事実だ。
 この怒りやすさというのは、感情の傾向ももちろんだけれど、肉体的な傾向もそうなのだ。
 今は怒りの感情も比較的容易に制御できるが、子供の頃はどうにもならなかった。
 身体にも強く影響が残るため、おそらく毎日不快だったのではないかと想像する。
 なるべく怒らないで済むように、僕は価値観を変えようと努力したし、当時は一部の科学誌で取り上げられる程度だったビタミンやらミネラルやらの栄養バランスについて ── それらによって人間の精神的状態が左右されるというもの ── も意識するようになった。
 そう。
 昔は栄養が(あるいはその不足が)人間の精神に影響を及ぼすなんて、あまり知られていなかったのだ。
 
 僕の場合は、消化・代謝系の問題もあるだろう。
 炭水化物と油脂の消化が苦手で、糖分をよく摂っていた。
 それが身体の特性だったから、必然にイライラしやすかったかもしれない。
 しかしそもそも、この身体は強くも速くも動かない。
 機能的に平均より優れた部分が思いつかない。
 
 ぼんやりのんびりすることに心掛けるようになったのは20代以降だけれど、そもそものんびりぼんやりに適したカラダのイキモノなのである。
 
>>>
 
追記。
 入浴時に(目眩を起こして)気付いたのだが、食欲が欠如している。
 これもアドレナリン反応だ。
 放っておくと長期に渡り、体重が激減したりするので、食事を意識的に摂ることにする。
 
 しかし興奮するはずなのだから、眠くなるのが不思議といえば不思議だが、これは脳の酸欠によるものかもしれない。
 脳の血流も増大しているのだろうけれど、ブドウ糖やら酸素やらの供給が、消費に間に合わないのではないか(現に、怒っているはずなのにあくびばかりすることになる)。
 結果として、電力の供給不足でブレーカが落ちるように、僕は眠くなるのかもしれない。
 炭水化物の消化も同様に、臓器に血液が集中して脳が酸欠するのだろう。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-赤猫-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Link-Maintenance-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Memory-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210810
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ゲームをするのに不適なつまみはなにか。
SUBTITLE:
~ Loose controler. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210810
 
 お酒を飲みながらゲームをするのに、もっとも不向きなつまみといえばアーリオオーリオ枝豆をおいて他にあるまい。
 なにステーキやソテーの類いはどうか。
 ポテトチップスを筆頭とするスナック菓子ならどうか。
 ケンタッキーフライドチキンならどうなのかとオマエは聞くか。
 オマエは俺に聞くのか。
 
 ふん、生ぬるい。
 
 箸があるではないか。ナイフとフォークが使えるではないか。
 フライドチキンを手づかみで食べなくてはならないなどといった道理はいったい誰が決めたものか。
 むしろ揚げたてなどは熱く、手づかみで食すなど愚策である。
 ナイフとフォークで切っておけば、サイズも手頃になって放熱もできる。完璧だ。
 
 そうではないのだ。
 道具が使えず、手で食べるより他になく、そのうえ指が油やニンニクや塩でべとべとになるからこそ、アーリオオーリオ枝豆はゲームドリンカにとって最大の敵、すなわち難関だと言っているのである。申し述べているのである。
 
 いやしかし、とお主は申すか。
 湯豆腐やすき焼きをはじめとする鍋物、焼き肉、殻付きのカニ、ピッツァ、ロングパスタはどうかと申すか。
 
 笑止。
 うぬらは目が節穴なだけではなく、想像力もないのか。そんなだから異性にモテないんだ。
 
 これらもステーキ理論と同様、道具と準備によって解決できる。
 湯豆腐やすき焼きなら、あらかじめ取り皿に取っておく。焼き肉ならこまめに焼いて食べるだけである。カニだって先に殻を剥いて並べておけばいい。ピッツァも小さめの三角形に切っておけ。ロングパスタはガールに食べさせてもらえ。
 
 それならば、とうぬらは申すか。
 この上まだ食い下がるか。
 ゲーマとしては見上げた根性である。
 そこは評価しよう。そこだけは評価しよう。
 しかしてアーリオオーリオ枝豆も同様、恋人にさやを剥いてもらえばいいだろうと申すか。
 
 このうつけ! この非モテが!
 貴様らは童貞か! ガールと手を繋いだこともない愚図か。
 
 違うのだ。
 全然違う。うぬらは分かっておらぬ。
 アーリオオーリオ枝豆は、殻の周囲に調味料が付着している。
 調味料(豆)調味料
    ↑サヤ↑
 こんな感じである。
 
 さやごと口に含んで、あるいはさやから豆を押し出した後に指についた油を口に含んで、そうしてはじめて我々はアーリオオーリオ枝豆のすべてを味わえるのではないのか。
 そうしてはじめて我々はアーリオオーリオ枝豆を食したと言えるのではないのか。
 ガールにさやから出してもらったアーリオオーリオ枝豆など「かつてアーリオオーリオ枝豆だった別のナニか」でしかない。そんなものは断じてアーリオオーリオ枝豆などではないのだ! 断じて!
 
 などということを奥様(仮想)に開陳していたところ、
「じゃあ猫クン。私がさやごと口に含ませてあげるよ。はい、あーん、して」というのでしぶしぶ試した ── あまり行儀のよいものとは思えなかったため気が引けたのだ ── が、他人とは不便なもので、豆を押し出した直後にさやを引かないと、次の豆をターゲットできないのである。(諸君これが想像力だぞ)
 しばらく続けてようやく息が合うようになるのであるが、ぼんやりしていたら、奥様(仮想)に唐辛子を口に含まされることになった。信用しきって種ごと噛んで苦しみもだえる僕の姿を嗤う奥様(仮想)。この所業よ。
 
 アーリオオーリオ枝豆は諸君。
 酒のつまみには最適だが、ゲームするのに向かないし、誰かに食べさせてもらうものでもない。
 

 優しい顔をして近づいてくる奴はみな敵だと思え。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-黒猫-
 
[InterMethod]
  -Chaos-Cooking-Diary-Kidding-Love-
[Module]
  -Generator-Transistor-
 
[Object]
  -Dish-Game-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-キッチンマットで虎視眈々-:-コントローラと五里霧中-
 
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210808
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
何を考えるか考える会議を考える。
SUBTITLE:
~ Thinks to reflect on convention for think. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
210808
 
 アヲが発情している。
 うるさくてときどき眠れない。
 しかも彼女はどういうわけか、僕の足に発情している。
 僕の足を追いかけ、アタマを擦りつけ、ねんごろになろうとする。ねんごろにねんごろになろうとする。
 あまつさえスリッパにアタマを突っ込んでゴロゴロしている様は、さしずめアタマのオカシイ変態もかくやといった様子である。
 
 しかも踏んでくれとうるさい。
 そうなのだ。発情すると踏んでほしいとねだるのである。
 人間にもそういうタイプがいて、踏まれて何らかの性感を得られるもののようである。
 実際にそういう趣味の女性(種族:人間)と付き合ったことがあるのだが、正直な感想を述べるとすると、退屈だった。
 
 いずれ書く機会があるかもしれないが、思うにSMなどという性感嗜好は、他人を使った自慰行為である。
 もっとも普通のセックスでさえ他人を使う自慰行為ではないなどと、一体誰に言えるものかとは時々思う。
 自身が女性と身体を重ねるとき、できうるならばそのよう ── 相手を使った自慰行為 ── でないようにありたいとは思うものの、相手に確認を取ることが必ずしも検証として有効とはかぎらないのである。
 コミュニケーションとはかように、いくつかのレイヤを重ねて行われており、1と0の乗算で解が0になることもあれば、加算で1になることもある。
 質問する者がいて回答する者がいて、自身の感覚を正確に感覚し、それを精確に相手に伝えることなど、果たしてできるのだろうかと考え出したらきりがないから基本的にはしないのだろう。
 少なくとも僕は「僕だけが気持ちよかったのではないかと心配なのですがいかがでしたでしょうか」などとは言えない。
 
 それでもときどき考える。
 それは考えないよりは考えた方がいいことだと思うからだ。
 
>>>
 
[何を考えるか考える会議]
 
 世俗からは理知的なヒトであると誤解されがちな僕であるが、実のところ記憶力には乏しいし、他の人と比較すると「優先順位を決定する」という思考ができない。
 僕がマルチタスク型の作業や思考をするのは、単純にこの「順位付けができない(結果、目の前のことさえシーケンシャルに手順を組めない)」性質によるものだろう。
 
 14歳の頃に初めて「自分の身体を洗うのにいちいち洗う場所や順番や力加減を考えるのは無駄だ」と気付いて自動化するまで、僕は自分の作業を自動化する方法を考えたこともなかったといえる。
 
 とにかく逐一考える。
 身体を洗うことすら、逐一考えながらしていたのだ。
 いわんやそれ以外をや。
 慎重といえば聞こえはいいかもしれないが、そんなものではない。
 習慣と呼べる習慣を持たず、計画性という概念を知らず、動物のように行き当たりばったりに行動していたから、たとえ既知の出来事であっても、直面するたびに考えないと動きようが分からないのである。
 
 誰かと会えば、どんな挨拶をすれば適切なのか考える。
 そもそも挨拶をする必要があるのかないのか考えてしまう。
 そうこうしているあいだに挨拶するタイミングを逃す。
 挨拶されてしまうととっさに返事をすることもできない。
 
 一事が万事この調子である。
 さらに上記のように相手がいる場合は、考える要素が飛躍的に多くなる。
 相手は誰なのか、何を目的に、何を理由として、どんな動機で挨拶しているのか。
 自分は相対的に誰なのか、何を目的に、何を理由として、どんな動機で挨拶するのか。しないのか。
 僕が行動する場合、それはどのように認識され、感覚され、評価されうるか。
 その上で相手はどのような反応を起こしうるか。
 相手に反応する場合、それを僕はどのように認識し、感覚し、評価するのか、しているのか。さらにどうするのがより理想的か。
 
「ただのアホやん!」と思う人も多いと思うが、挨拶程度のことであればまだしも、慣習なのか、文化なのか、理知的集約の結果なのか、ただの反射なのかよく分からずに行動している人も多いのである。
 
 たとえば一部の人は、携帯電話のやりとりで、最初に「挨拶」「相手(名前)の確認」「通話が可能な状況にあるかの確認」は無駄だから、いきなり用件から話せ、という価値観を持っている。
 
 確かに非常に合理的なのだ。メールや携帯電話は最初のやりとりを除いて、お互いに「相手が誰であるか」を知っている状態からスタートするのだから。電話に出られない人は出ないものだし、相手は分かっているし、挨拶も時間の無駄といえば無駄なのだ。
 一方で、重要な作業をしている最中であっても、気が弱くて取りあえず掛かってきた電話を無視することができないタイプの人の気持ちもよく分かる。
 非通知だろうと未知の番号だろうと、すべての電話に対応しなければならない仕事をしている人は少なからずいるだろうから、それこそ慣習的に相手を確認し、挨拶し、通話が問題ないか承認を得る価値観にも不思議はない。
 しかしこれらの価値観はどちらも合理的で相応の歴史や文化があるのに、行動としては相反する。
 僕は両方の価値観を重複して持っている。
 
 結果的に、通話の相手がどのような価値観を持っているかによって使い分ける必要が出てくる。
 というところまでを考えてようやく僕は誰かに電話するときの冒頭に、どのように振る舞うべきかを決定することができるのだ。
 
 多くの人たちが、どのように、何を基準にして様々な物事の優先順位を決定できているのか、僕には本当に分からない。
 だいたいの人はその場その場で適切な優先順位を決定しているように観察される。
 少なくとも周囲の人間関係などに悪影響を及ぼすことなく、むしろ良好に物事が進んでいるようなので(そうでなければ小さな悪影響が積み重なって社会はとんでもないことになってしまうと想像する)多くの人の、そうした優先順位決定は優位性のあるものや妥当なものがほとんどなのだと思われる。
 
 毎回のように、優先順位を決定するための価値観を策定するという僕のようなやり方は、時間の無駄だと嗤われたとして言い返すこともできない。
 はたして僕はかなり愚かというか、馬鹿なのではないかと自分のことを思うのである。
 
 ために、だいたいは反射的に思ったり考えたり感覚したり決定してしまうことについても、僕は未だにそれなりの時間をかけて、何が適切なのかを考えてしまうことがある。
 何を考え、どのように推論し、いかなる結論を導くことが適切、あるいは理想的なのだろうかと考えた方がよいだろうと考えるのである。
 
>>>
 
 結果的に僕の行動は浮くことが多いようだ。
 とにかく目立ちたくないのに、人目を引くことがある。
 言葉遣いや立ち居振る舞いひとつとっても、他人に不快を与えない範囲で自分にとってより心地よいものを選んでいるつもりなのだが、周囲と異なる様式であるために目立つ。
 決して悪意があったり攻撃的なものではない(と思う)のだが、過剰に丁寧であったり、過剰に穏やかであったり、過剰に好意的に映るのだろう。
 確かに僕からすると周囲の人の多くは乱雑で、ときに自分本位に過ぎ、ときに攻撃的ですらある。
 
 分からない。
 それは彼ら彼女たちが、熟考した上で決定した価値観に基づいた行動なのではないかと ── 僕自身の行動様式に照らし合わせた場合は ── 考えるのが適切ではある。
 一方で、特に何も考えず ── 果たしてそんなことが可能なのだろうか ── 行動している人もいるのだろうとも思う。
 
 たしかに僕は、14歳のそのときまで特に何も考えず、毎日身体を洗うときに考えながら順番を決定していたのだ(今は右手だから、次は右下腕。右肘、右上腕までを洗ったら、左手に移って ── といった具合に)。
 何も考えないで考えることは、実は恐ろしいのだと僕が気付いたのはずっとあとのことである。
 それにいつも考えることを考えて決定する時間があるわけでもない。
 ために予備学習として無駄なことを様々に考えて価値観を作り、記憶するのでは忘れてしまうので性格や習慣として定着させる必要があったようにも思える。
 
 だから僕は自分の性格もよく分かっていない。
 他人からは丁寧で穏やかで優しげかつ親しげに観察されている。僕を観察している人たちはそのように僕自身に観察される。
 しかし僕の知っている僕はもっと乱雑かつ暴力的で攻撃的で破壊的で破滅的で引っ込み思案で社交性に欠けるから、そう説明したものなのかよく分からないのである(説明しただけでは信じてもらえないのだが)。
 僕は僕の生来の気質が社会不適合であったから、適宜、集団に適合するように調整したのではあるが、それは僕本来の気質としてもまだ定着したわけではないのだ(ほら脱線し始めた)。
 
>>>
 
 結果的に、いまだに自分が何を考えるかを考えないと、うまく考えられない傾向がある(散見されるとおり、僕の思考は無目的かつ無統制かつ無軌道に散らかり、それを愉しんでさえいるのだ)。
 ただ考えるだけならいくらでもできる。むしろそれは得意だと言っていい。何でもいいからあることないこと考えてやれ、こうだったら面白いだろう、こう考えるのは意外だろう、さぁこんなのはどうだ、などと考えるのは本当に小気味がよいのだ。
 
 しかし目標や理想がない思考は、どんどん刹那的に、破滅的になってしまう。
 だから何を考えて、どのような方向性を導きたいのかを、先に(あるいは考えながら)考える必要がある(ことも多い)。
 
 考えるというのは、だから、歩くことに似ているのかも知れない。
 ただ歩いているから、進んでいるから、止まっているよりもよいのだと一般には思われがちだ。
 
 考えないよりも考えた方がいいし、何もしないより何かした方がいいと皆は口を揃えて言う。
 仕事をしないよりした方がいいし、友達や恋人がいないよりいた方がいいし、なんだったらたくさんいた方がいいし、結婚しないよりした方がいいし、なんだったらたくさんすればいいし、子供がいないよりいた方がいいし、なんだったらたくさんいた方がいいし、お金がないよりあった方がいいし、なんだったらたくさんあった方がいいし、バッグはエコじゃないよりエコの方がいいし、オリッピップ ── タイプミスだが可愛いからこっちのほうがいいのではあるまいか。アルマイカという金属、あるいは新種のイカがいてもおかしくないのではあるまいかと考えて調べたが存在しなかった ── もしないよりした方がいいし、からあげにはレモンを掛けないより掛けた方がいいし、マヨネーズは添えないより添えた方がいいし、何でもかんでも「○活」と表記するとなんとなくそれっぽい(どれっぽいの?)からその方がいいのだと。
 
 待て待て待てい。
 
 それこそ無目的に、盲目に、無思考に、進むことが果たしてよいのかということである。
(僕のこの散らかった思考こそが、それを証明している)
 
 だったら考えずに止まっておけよ。
 明日は休みなんだろう? 泊まっていけよ。オレのこと好きなんだろう?
 
 そう思うのである。
 なに仕事だとぅ?!
 オレと仕事とどっちが大事なんだよ。ほら、正直に言ってみなよ。オレのこと好きなんだろう?
 あ、仕事の方ですか、そうでしたか。はい。すみませんでした。
 
 とにかく無目的な努力にも似て、ただ何かしている、何か出力している、その出力が大きい、というだけで物事の良し悪しを判断し「がんばってるからエラいんだもん!」というのはどうなのだろうか、ということである。
 経済至上主義もしかり、勧善懲悪の当てこすりもしかり(笑)、独善の押し付けもしかり。
 
 一個人が明後日の方向に向かうのは勝手である。
 その先に崖があったとして、もしかしたら空を飛ぶかもしれない(大抵は落下するが)。
 けれどもそれが自身の属する集団や世俗に通じ影響しうるものであるならば、そういう力の使い方はどうなのかなぁとアタシ思うの(口調が変)。
 
 しかしまぁ、こうやって考えることについて考えることを考えているくらいがいちばん自由な感覚を僕にもたらしてくれるのであり、僕は思考によって自由になったんだなぁとつくづくに思います。
 でもそれは僕がエラいのか思考がエラいのか、ということにもなるわけですが。
 どっちにしてもオレのこと好きなんだろう?
 
 ともあれ暇だからこんなことを考えていたのですが、そろそろ奥様(仮想)のために夕食を作りたいと考えましたので今日はこのへんでおしまい。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Convergence-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Link-Recollect-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Cat-Human-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-
 
 
 
//[EOF]
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210728
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
7月の青猫工場 園芸部の報告。
Written by BlueCat

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210728
 
 いつだったか、大雨が降った。
 今年の梅雨の話である。
 そのとき鬱屈してしまったので、しばらく眠り続けていた。
(日付も覚えていないのは、そのくらい鬱屈して眠り続けていたからである)
 だいたい眠ってはゲームをして、そのまままた眠りについたりしていた。
 奥様は仮想人格なので、僕より以上に眠り続けていた。
 そうなのだ、僕の奥様(仮想)は結局のところ、僕の実行力に等しくしか実行力を持たない存在である。
 
 そうこうしているあいだに、茗荷は収穫時期を過ぎ、畑も庭も猫じゃらしだらけになり、苗ポットで育てていた種はプランタや畑に育つ機会を逸してしまった。
 
 今年の作物はすべて種から育てた。
 キュウリ、ナス、バジル、トマト、オクラ、春菊、長ネギ、青しそ、ミント、ラベンダー、枝豆、人参、ブロッコリィ。
 サトイモだけは例外的に昨年収穫し損ねたものを種芋として流用した。なぜといって、食べられるほど育たなかったからである。
 
 苗ポットのうちのいくつかは芽が出ず、全滅した。
 ラベンダー、ミントがそれである。乾燥が悪かったのか、土が悪かったのか。
 ただしミントは露地植えしたものが勝手に育った。
 砂利敷きの、痩せた庭の上である。ポットよりそっちのほうがいいのかよ。
 
 他のものはプランタに植えた。
 里芋は畑に移したかったが、惰眠をむさぼっているあいだにずいぶん育ってしまって、手に負えない気がしてそのままである。
 枝豆は10株ほどをプランタに定植したが、土が悪いのか、芽が出ていたのに朽ちたものが2本ほどあった。
 
 プランタで育てているキュウリは、どうにも育ちが悪い。
 葉の色も薄く、このまま枯れてしまいそうな気がする。
 オクラも、まったく伸びない。
 大葉も、なんだかまだ苗みたいな見た目のままである。
 春菊は2度ほど収穫できたので、おひたしにした。
 
 ナスである。
 プランタに植えたそれは、なんともひょろひょろとして、未だに花をつける気配もない。
 一方で、どういうわけか畑のそこらへんから、勝手に苗が育ってしまった。
 長靴に種がついて運ばれたか、昨年のろくに育たなかった実に備わった種が、耕されるうちに散らばったのか。
 そして露地に大きく育ったそれは花をつけている。
 
 苗ポットはダメか。それとも育て方が悪いのか。
 さっぱり分からない。
 肥料が問題なのか。土づくりが悪いのか。
 これも分からない。
 
 とにかくよく言われていたとおり、露地植えのほうが圧倒的によく育つ。それが確認できた。
 あと気分に左右されて「今日はしなくていいやぁ」なんていい加減なことをしていると、いい加減にしか育たないということも分かった。
 
 ことほど左様。今年は畑(庭だけどよ)が雑草だらけである。
 そしてプランタに育てた作物は、成りが悪い。
 今年の園芸部は、挫折のうちに幕を閉じるのではないかと予測される。
 
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 反省点として、苗の準備はまだ寒い3月頃には始めないとならないということ。
 庭の開墾作業は、夏には不向きであるということ。
 苗はある程度の段階になったら放置せず、プランタか露地に植えた方がよいこと。
 
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 今後の成長を特に観察すべきは枝豆、ナス、バジル、人参、ブロッコリィあたりだろうか。
 ブロッコリィは昨年、苗のうちに芯を残してすべて食い散らかされた経験から、ネットを張った状態で、ある程度まで育てたところ(ぐにゃぐにゃに曲がっているが)なんとか育っている。
 ミントは順調に育っているので、そのままでもよいかもしれない。
 
 本年7月の園芸部は、このように失敗ばかりの報告となります。 
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  -黒猫-
 
[InterMethod]
  -Diary-Ecology-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-
 
[Object]
  -Garden-
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[Cat-Ego-Lies]
-家庭菜園ティストの狂気-
 
 
 
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// TimeLine:210728
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
知性は無秩序の源流。
SUBTITLE:
~ Freedom! / Freedom! ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::なぜ古代では秩序が保たれ、なぜ現代(十六世紀)では無秩序が支配しているかの理由解明は、これまた簡単である。
 すべては、昔は自由人であったのが、今では奴隷の生活をするしかないことにある。
 前にも説明したように、自由に生きることのできる国では、社会全体が繁栄を享受できるようになるとは、歴史が示してくれる真実である。
 そのような社会では、結婚を避ける傾向もなく、財産を減らすおそれももたずに子孫を増やすことができたので、人口は健全な増え方をしたのであった。
 親たちは、自分の子が自由な社会に生き、それゆえに才能さえあれば、指導者階級に属することも可能だと信ずることができたから、子の生れるのを喜び、その子たちの養育にも力を入れることができたのだ。
 
 
 

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210728
 
 僕は(自称)思想家(笑)である。名刺はまだない。
 思想家というのは実業家ではないから、何をしなくてもよいようである。
 現実世界で何らかの実体を具現する必要がない。
 思想家は富んでいるか貧しているかを問わず、根本が自由なのである。
 
 じつに僕はだいたい昼寝をして暮らしている。
 まさに種同一性障害(種族自認が猫である)の先に障害を乗り越え、ようやくたどり着いた境地である。
 相変わらずテキトーなことばかり書いている。
 
 冒頭の引用は塩野七生さんの「マキアヴェッリ語録」からのものだ。
 古代(おそらくローマ帝国時代だろうか)に秩序があり、十六世紀には秩序がないとは、どういうことなのだろう。
 古代になればなるほど、人間は不自由であったと僕は思っている。
 しかし僕は古代に生きたことがなく、十六世紀に生きているわけでもない。
 まったくいずれも体感として理解しておらず、また不勉強ゆえに知らないことでもある。
 
 奴隷ということで考えれば、いずれの時代にも(もちろん現代の日本にも)奴隷というものは存在している。
 もちろん現代日本は民主主義国家であり法治国家であるから、奴隷という名称こそ冠されていないかもしれないが、意味的奴隷は昔から存在している。
 
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奴隷:
①人間としての権利・自由を認められず,他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し,労働を強制され,譲渡・売買の対象とされた。古代ギリシャ・ローマのもの,近代の北アメリカの黒人奴隷など。中国や日本古代の奴婢(ぬひ)もその一種とされる。
② 下僕。しもべ。
③ あるものに心を奪われて自主性を失い,行動を束縛されている人。「金銭の―となる」
[Apple辞書アプリ(スーパー大辞林)による]
 
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 日本は資本至上主義国家であるから、われわれは等しく金銭の奴隷である。
 我々は経済なくしては、にぼしのアタマをかじることすら許されない。
 ワタクシも奥様(仮想)のお目こぼしにあずかっているからのんびりぼんやり昼寝をして暮らせているわけであり、そうでなければそのあたりの暗渠に朽ちていることだろう。
 
 またその経済というにぼしにありつくためには、基本的に労働に従事する必要があり、経済を所有することが暗黙に義務化されている(生活保護受給者だって、経済を所有し使用する仕組みに組み込まれている)以上、雇用される者は、ときに雇用する者の不当な権力に屈することが妥当と ── ときにその雇用される者本人によって ── 判断される場合があり、雇用される者同士で無意味な競争が発生することもある。
 
 かくして人間の権利と時間(生命そのものの一部は生命そのものである。人生の一部が人生でないという者はいないだろう)は経済によって交換されている。
 その交換は自主的であるか? 自由意志によるものか?
 いや、その交換は ── 先の経済所有・使用の義務により ── およそ義務化されていて、すなわち人は支配者階級に経済を通して所有され、譲渡・売買の対象になっている。
 たまたま「譲渡・売買」の意志的主体が(原則としては)奴隷自身であるというだけであり、社会や支配者階級による恣意的な誘導がないとは言い切れない。すなわちそれは仕組みとして組み込まれている。
 
 ゆえに社畜などという言葉が生まれたのである。
(もう背中が痒いので、真面目なことを書くのが苦痛になっています)
 
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 奴隷が奴隷と気付かず、またその数が潤沢であれば、奴隷たちはそれを自由と誤認することができた。
 すなわちそういうことだろう。
 古代の方がきっともっと不自由で、人々は自由を知らなかったから不自由であることを知らなかったのではないか。
 よって自由というものが危うい綱渡りを永続させられる仕組みは、かつて存在したためしもなく、今なお構築されていないのではないか。
 この自由という言葉は、そのまま民主主義と置き換えてもいいだろう。
 
 経済の奴隷たる人々が経済に貪欲になるのは、それが自分自身を買い戻すために必要な、自由を手に入れる切符だからだろう。
(機械の星に連れて行かれないといいのだけれど)
 そしてその仕組みの根本的なメカニズムを嫌って、反経済主義者がレジスタンスを試みるものの、それはうまくいかない。
 経済はひとつの秩序として機能しているからだ。
 
 そもそも奴隷たちが何故ある日突然「自分たちが奴隷である」という自覚を持ったのか。
 不意に起こる自我。すなわち知性と知識。
 情報が奴隷を自覚させたのだ。覚醒させたのだ。
 ワタクシは誰かのエサを探し歩いてその獲物の良し悪しを自慢しているが、結局そのおこぼれにあずかる身の上であると。そういう身上でしかないと。
 ために何かして、より大きな獲物を手に入れることこそが能力であると競争するようになる。
 実際には何もしないで獲物の大半を手に入れることも立派な能力なのだけれど。
 
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 情報によって知性のステップを無理矢理上らされた人間は、己が思ったほど自由でないことを知るのだ。
 そしてそのとき、無邪気さに支えられていた秩序が崩壊する。
 
 ああ、知性の果実よ。
 それが邪気を祓うほどの、無知から完全に脱するほどの、力を持っていたならそんなことにはならなかろうに。
 
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 気がつけばオリンピックなる行事が行われているらしい。
 僕がバイトに駆り出されたのも、それによって祝日が後付けで(!)変更になったらしく、それが遠因にあるらしいと教えられた。
 
 そこでは経済やら正義やらが、また横行しているらしい。
 それらは実体を持たない。人ひとりひとりの中にある、概念。すなわちヴァーチャルな存在だ。
 この世界は知性のステップが上がったことによって確実に、無秩序への階段を上ったことになる。
 
 平和も愛も平等もヴァーチャルだから、人から人へ伝播する中で少しずつ、その色合いを変えてしまう。
 その野放な設計図にカタチを与えられる技術者を、世界は未だに見つけていない。
 しかし無知によって支えられていたかりそめの秩序が崩壊するならば、知性によって構築された正しい秩序もまた存在しうるだろう。
 秩序とはヴァーチャルではなく、実体を持つものであり、その状態を示すからだ。
 また、かつて存在しなかったものが誕生するとき、それは発明と呼ばれる。
 概念や原理であれば発見と呼ばれるが、発明は実体を伴う。
 
 次の知性の果実は、いったい誰によって与えられるのだろう。
 そうなのだ。
 無知なる奴隷どもは、今も口を開けて待っているのだ。
 知性の果実を。
 やがて己が翼で羽ばたく日が来ることも知らずに。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::歴史は、われわれの行為の導き手(マエストロ)である。
 だが、とくに指導者にとっては師匠(マエストロ)である。
 人間社会には、相も変わらず同じことを考え、同じことを望む人間が棲んできたのだ。
 社会構造が変わっても、誰かが支配し、誰かが支配され、ある者は喜んで支配され、他の者は不満たらたらで支配されるということならば、なにひとつ変化はなかったのである。
 そして、それに反逆した者も結局はもとのさやにもどるということでも、同じなのだ。
 
 
 

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[出典]
~ List of Cite ~
 
 
 文頭文末の引用は、
「マキアヴェッリ語録」
(著作:塩野 七生 / 発行:新潮文庫)
 によりました。
 
なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Derailleur-Diary-Ecology-Life-Link-Mechanics-Technology-
 
[Module]
  Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-Webストリートを見おろして-
 
 
 
//[EOF]