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TITLE:
何を考えるか考える会議を考える。
SUBTITLE:
~ Thinks to reflect on convention for think. ~
Written by BlueCat

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210808
 
 アヲが発情している。
 うるさくてときどき眠れない。
 しかも彼女はどういうわけか、僕の足に発情している。
 僕の足を追いかけ、アタマを擦りつけ、ねんごろになろうとする。ねんごろにねんごろになろうとする。
 あまつさえスリッパにアタマを突っ込んでゴロゴロしている様は、さしずめアタマのオカシイ変態もかくやといった様子である。
 
 しかも踏んでくれとうるさい。
 そうなのだ。発情すると踏んでほしいとねだるのである。
 人間にもそういうタイプがいて、踏まれて何らかの性感を得られるもののようである。
 実際にそういう趣味の女性(種族:人間)と付き合ったことがあるのだが、正直な感想を述べるとすると、退屈だった。
 
 いずれ書く機会があるかもしれないが、思うにSMなどという性感嗜好は、他人を使った自慰行為である。
 もっとも普通のセックスでさえ他人を使う自慰行為ではないなどと、一体誰に言えるものかとは時々思う。
 自身が女性と身体を重ねるとき、できうるならばそのよう ── 相手を使った自慰行為 ── でないようにありたいとは思うものの、相手に確認を取ることが必ずしも検証として有効とはかぎらないのである。
 コミュニケーションとはかように、いくつかのレイヤを重ねて行われており、1と0の乗算で解が0になることもあれば、加算で1になることもある。
 質問する者がいて回答する者がいて、自身の感覚を正確に感覚し、それを精確に相手に伝えることなど、果たしてできるのだろうかと考え出したらきりがないから基本的にはしないのだろう。
 少なくとも僕は「僕だけが気持ちよかったのではないかと心配なのですがいかがでしたでしょうか」などとは言えない。
 
 それでもときどき考える。
 それは考えないよりは考えた方がいいことだと思うからだ。
 
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[何を考えるか考える会議]
 
 世俗からは理知的なヒトであると誤解されがちな僕であるが、実のところ記憶力には乏しいし、他の人と比較すると「優先順位を決定する」という思考ができない。
 僕がマルチタスク型の作業や思考をするのは、単純にこの「順位付けができない(結果、目の前のことさえシーケンシャルに手順を組めない)」性質によるものだろう。
 
 14歳の頃に初めて「自分の身体を洗うのにいちいち洗う場所や順番や力加減を考えるのは無駄だ」と気付いて自動化するまで、僕は自分の作業を自動化する方法を考えたこともなかったといえる。
 
 とにかく逐一考える。
 身体を洗うことすら、逐一考えながらしていたのだ。
 いわんやそれ以外をや。
 慎重といえば聞こえはいいかもしれないが、そんなものではない。
 習慣と呼べる習慣を持たず、計画性という概念を知らず、動物のように行き当たりばったりに行動していたから、たとえ既知の出来事であっても、直面するたびに考えないと動きようが分からないのである。
 
 誰かと会えば、どんな挨拶をすれば適切なのか考える。
 そもそも挨拶をする必要があるのかないのか考えてしまう。
 そうこうしているあいだに挨拶するタイミングを逃す。
 挨拶されてしまうととっさに返事をすることもできない。
 
 一事が万事この調子である。
 さらに上記のように相手がいる場合は、考える要素が飛躍的に多くなる。
 相手は誰なのか、何を目的に、何を理由として、どんな動機で挨拶しているのか。
 自分は相対的に誰なのか、何を目的に、何を理由として、どんな動機で挨拶するのか。しないのか。
 僕が行動する場合、それはどのように認識され、感覚され、評価されうるか。
 その上で相手はどのような反応を起こしうるか。
 相手に反応する場合、それを僕はどのように認識し、感覚し、評価するのか、しているのか。さらにどうするのがより理想的か。
 
「ただのアホやん!」と思う人も多いと思うが、挨拶程度のことであればまだしも、慣習なのか、文化なのか、理知的集約の結果なのか、ただの反射なのかよく分からずに行動している人も多いのである。
 
 たとえば一部の人は、携帯電話のやりとりで、最初に「挨拶」「相手(名前)の確認」「通話が可能な状況にあるかの確認」は無駄だから、いきなり用件から話せ、という価値観を持っている。
 
 確かに非常に合理的なのだ。メールや携帯電話は最初のやりとりを除いて、お互いに「相手が誰であるか」を知っている状態からスタートするのだから。電話に出られない人は出ないものだし、相手は分かっているし、挨拶も時間の無駄といえば無駄なのだ。
 一方で、重要な作業をしている最中であっても、気が弱くて取りあえず掛かってきた電話を無視することができないタイプの人の気持ちもよく分かる。
 非通知だろうと未知の番号だろうと、すべての電話に対応しなければならない仕事をしている人は少なからずいるだろうから、それこそ慣習的に相手を確認し、挨拶し、通話が問題ないか承認を得る価値観にも不思議はない。
 しかしこれらの価値観はどちらも合理的で相応の歴史や文化があるのに、行動としては相反する。
 僕は両方の価値観を重複して持っている。
 
 結果的に、通話の相手がどのような価値観を持っているかによって使い分ける必要が出てくる。
 というところまでを考えてようやく僕は誰かに電話するときの冒頭に、どのように振る舞うべきかを決定することができるのだ。
 
 多くの人たちが、どのように、何を基準にして様々な物事の優先順位を決定できているのか、僕には本当に分からない。
 だいたいの人はその場その場で適切な優先順位を決定しているように観察される。
 少なくとも周囲の人間関係などに悪影響を及ぼすことなく、むしろ良好に物事が進んでいるようなので(そうでなければ小さな悪影響が積み重なって社会はとんでもないことになってしまうと想像する)多くの人の、そうした優先順位決定は優位性のあるものや妥当なものがほとんどなのだと思われる。
 
 毎回のように、優先順位を決定するための価値観を策定するという僕のようなやり方は、時間の無駄だと嗤われたとして言い返すこともできない。
 はたして僕はかなり愚かというか、馬鹿なのではないかと自分のことを思うのである。
 
 ために、だいたいは反射的に思ったり考えたり感覚したり決定してしまうことについても、僕は未だにそれなりの時間をかけて、何が適切なのかを考えてしまうことがある。
 何を考え、どのように推論し、いかなる結論を導くことが適切、あるいは理想的なのだろうかと考えた方がよいだろうと考えるのである。
 
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 結果的に僕の行動は浮くことが多いようだ。
 とにかく目立ちたくないのに、人目を引くことがある。
 言葉遣いや立ち居振る舞いひとつとっても、他人に不快を与えない範囲で自分にとってより心地よいものを選んでいるつもりなのだが、周囲と異なる様式であるために目立つ。
 決して悪意があったり攻撃的なものではない(と思う)のだが、過剰に丁寧であったり、過剰に穏やかであったり、過剰に好意的に映るのだろう。
 確かに僕からすると周囲の人の多くは乱雑で、ときに自分本位に過ぎ、ときに攻撃的ですらある。
 
 分からない。
 それは彼ら彼女たちが、熟考した上で決定した価値観に基づいた行動なのではないかと ── 僕自身の行動様式に照らし合わせた場合は ── 考えるのが適切ではある。
 一方で、特に何も考えず ── 果たしてそんなことが可能なのだろうか ── 行動している人もいるのだろうとも思う。
 
 たしかに僕は、14歳のそのときまで特に何も考えず、毎日身体を洗うときに考えながら順番を決定していたのだ(今は右手だから、次は右下腕。右肘、右上腕までを洗ったら、左手に移って ── といった具合に)。
 何も考えないで考えることは、実は恐ろしいのだと僕が気付いたのはずっとあとのことである。
 それにいつも考えることを考えて決定する時間があるわけでもない。
 ために予備学習として無駄なことを様々に考えて価値観を作り、記憶するのでは忘れてしまうので性格や習慣として定着させる必要があったようにも思える。
 
 だから僕は自分の性格もよく分かっていない。
 他人からは丁寧で穏やかで優しげかつ親しげに観察されている。僕を観察している人たちはそのように僕自身に観察される。
 しかし僕の知っている僕はもっと乱雑かつ暴力的で攻撃的で破壊的で破滅的で引っ込み思案で社交性に欠けるから、そう説明したものなのかよく分からないのである(説明しただけでは信じてもらえないのだが)。
 僕は僕の生来の気質が社会不適合であったから、適宜、集団に適合するように調整したのではあるが、それは僕本来の気質としてもまだ定着したわけではないのだ(ほら脱線し始めた)。
 
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 結果的に、いまだに自分が何を考えるかを考えないと、うまく考えられない傾向がある(散見されるとおり、僕の思考は無目的かつ無統制かつ無軌道に散らかり、それを愉しんでさえいるのだ)。
 ただ考えるだけならいくらでもできる。むしろそれは得意だと言っていい。何でもいいからあることないこと考えてやれ、こうだったら面白いだろう、こう考えるのは意外だろう、さぁこんなのはどうだ、などと考えるのは本当に小気味がよいのだ。
 
 しかし目標や理想がない思考は、どんどん刹那的に、破滅的になってしまう。
 だから何を考えて、どのような方向性を導きたいのかを、先に(あるいは考えながら)考える必要がある(ことも多い)。
 
 考えるというのは、だから、歩くことに似ているのかも知れない。
 ただ歩いているから、進んでいるから、止まっているよりもよいのだと一般には思われがちだ。
 
 考えないよりも考えた方がいいし、何もしないより何かした方がいいと皆は口を揃えて言う。
 仕事をしないよりした方がいいし、友達や恋人がいないよりいた方がいいし、なんだったらたくさんいた方がいいし、結婚しないよりした方がいいし、なんだったらたくさんすればいいし、子供がいないよりいた方がいいし、なんだったらたくさんいた方がいいし、お金がないよりあった方がいいし、なんだったらたくさんあった方がいいし、バッグはエコじゃないよりエコの方がいいし、オリッピップ ── タイプミスだが可愛いからこっちのほうがいいのではあるまいか。アルマイカという金属、あるいは新種のイカがいてもおかしくないのではあるまいかと考えて調べたが存在しなかった ── もしないよりした方がいいし、からあげにはレモンを掛けないより掛けた方がいいし、マヨネーズは添えないより添えた方がいいし、何でもかんでも「○活」と表記するとなんとなくそれっぽい(どれっぽいの?)からその方がいいのだと。
 
 待て待て待てい。
 
 それこそ無目的に、盲目に、無思考に、進むことが果たしてよいのかということである。
(僕のこの散らかった思考こそが、それを証明している)
 
 だったら考えずに止まっておけよ。
 明日は休みなんだろう? 泊まっていけよ。オレのこと好きなんだろう?
 
 そう思うのである。
 なに仕事だとぅ?!
 オレと仕事とどっちが大事なんだよ。ほら、正直に言ってみなよ。オレのこと好きなんだろう?
 あ、仕事の方ですか、そうでしたか。はい。すみませんでした。
 
 とにかく無目的な努力にも似て、ただ何かしている、何か出力している、その出力が大きい、というだけで物事の良し悪しを判断し「がんばってるからエラいんだもん!」というのはどうなのだろうか、ということである。
 経済至上主義もしかり、勧善懲悪の当てこすりもしかり(笑)、独善の押し付けもしかり。
 
 一個人が明後日の方向に向かうのは勝手である。
 その先に崖があったとして、もしかしたら空を飛ぶかもしれない(大抵は落下するが)。
 けれどもそれが自身の属する集団や世俗に通じ影響しうるものであるならば、そういう力の使い方はどうなのかなぁとアタシ思うの(口調が変)。
 
 しかしまぁ、こうやって考えることについて考えることを考えているくらいがいちばん自由な感覚を僕にもたらしてくれるのであり、僕は思考によって自由になったんだなぁとつくづくに思います。
 でもそれは僕がエラいのか思考がエラいのか、ということにもなるわけですが。
 どっちにしてもオレのこと好きなんだろう?
 
 ともあれ暇だからこんなことを考えていたのですが、そろそろ奥様(仮想)のために夕食を作りたいと考えましたので今日はこのへんでおしまい。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-黒猫-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Convergence-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Link-Recollect-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Cat-Human-Memory-
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[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-
 
 
 
//[EOF]