// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210623
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ミニマリズムについて。
SUBTITLE:

~ Which are your way. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //
::芸術と同じく、茶にもその時代と流派とがある。茶の進化は概略三大時期に分けられる、煎茶、抹茶(ひきちゃ)および淹茶(だしちゃ)すなわちこれである。われわれ現代人はその最後の流派に属している。これら茶のいろいろな味わい方は、その流行した当時の時代精神を表している。と言うのは、人生は我々の内心の表現であり、知らず知らずの行動はわれわれの内心の絶えざる発露であるから。孔子いわく「人いずくんぞ廋(かく)さんや、人いずくんぞ廋さんや」と。たぶん我々は隠すべき偉大なものが非常に少ないからであろう、些事に自己を顕すことが多すぎて困る。日々起こる小事件も、哲学、詩歌の高翔(こうしょう)と同じく人種的理想の評論である。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

【なぜ自称ミニマリストは気持ち悪いと感じられてしまうのか】
 昔、付き合っていた恋人が、急にミニマリストかぶれして、辟易したことがある。
 曰く「冷蔵庫がなくても、毎日買い物に行けばいい」
 曰く「パソコンなどの情報機器は1日1時間程度の使用でいい」
 曰く「洗濯機はなくても生きていける」
 などなど。
(1年ほどで別れたのだったか。ろくに記憶に残っていない)

 正直、未だにミニマリストを自称する人たちの文書が好きになれない。
 要するに、そこに透けて見える哲学が浅薄で、ちょっと痛々しいのである。


【ところでミニマリズムとは何なのか】
 現在、一般に流布しているライフスタイルとしてのミニマリズムが何であるのかというと、すなわち「足るを知る」ということに尽きる。
 それ以外の、音楽や絵画、文学、建築などにおいてもミニマリズムは存在する。
 精神論から端を発した技術に展開する部分もまぁだいたい同じである。
 ただ、ライフスタイルとしてのミニマリズムが特殊なのは、その対象の中心が「人間の生活そのもの」であることだろう。

 人間の生活をシンプルにしようとすると、食べてセックスして排泄して寝ることに尽きる。
 どうせだから「人間」の部分を、好きな動物に置き換えてもだいたい同じである。
 とてもシンプルなライフスタイルであり、欲は十分に満たされているように思える。

 ミニマリストを自称する人たちが、あたかもヒッピーのように、そうした自然回帰のライフスタイルを謳っているのかというと、まったくそうではない。
 まず「モノを捨てろ」。
 まず「モノを持つな」。
 こじらせると「モノに頼った生活を送るな」。
 そして「お金が貯まるぞ」。

 これである。
 これが宗教感を重々しく醸し出している。
 どういうことかというと(ライフスタイルとしての)ミニマリズムは本来、人間の精神性を訴えているはずなのだ。
「足りていることを知りましょう」「すでに満たされていることに気付きましょう」てな具合に。
 それだけのことであって、やれ事細かに「床に荷物を置くな」だの「ソファは不要だ」だの「冷蔵庫は要らない」だの「靴は3足あればいい」だの「収納家具を上手く利用して部屋をすっきり見せる」だのと啓蒙することは、その行為がミニマリズムから離れることを意味する。
 黙ってお前の満足を感じて幸せを噛み締めておけよこのお節介な%$△£●&め! と、狭量なワタクシなどはつい思ってしまうのである。
 挙げ句の果て、それを訴えるブログなり動画なりが、広告にまみれていて、内容そのものは技術というよりポエムに近しいものであったりするともう本当に言葉を失う。

 その欲! その欲の発露が「足るを知る」からぐんぐん遠ざかっている行為なんではないのか、と思ってしまう。
 口先で「ミニマリストなんですぅ、家はすっきり家具も少なく収納上手でモノは少なく自然派スタイルで家族やペットと慎ましくも明るく幸せに暮らしているんですぅ」みたいなことを並べつつ「これで年間100万円貯金できましたぁ。あと本も出しましたぁ」とかいうその欲! それ!
 ほんっとおまーらいっぺん涅槃に連れて行くぞ。と思ってしまうのである。
 ついでにいうと、家族はほとんど出てこない。
 そのミニマリズムに当の家族がどれだけ幸福を感じているのかという、身近なヒトのレビューが出てこない。出てこないから笑顔も見えない。
 これをして本人だけ満足している宗教だと断じることはさすがに乱暴かもしれないが「足るを知る」人間が、そこまで自分のスタイルと収益をアッピルする必要はあるのだろうかと、正直疑問には思うのである。矛盾を禁じ得ないのである。


【どうなればミニマリズムを心にたたえたありようと言えるのか】
 床が散らかっていようが、ソファに衣類が掛かっていようが、そんなものはどうでもよろしい。
 夜もすがらガールとぱやぱやしていようと、TVゲームをしていようと、そんなことはどうでもよろしい。
 同じ調理器具をいくつ持っていようと、靴や服をどれだけたくさん持っていようと ── あるいはまったく持っていなかろうと ── どうでもよろしい。

「いやぁ、人に自慢するほどではないのですが、今の生活には満足してますよ。家族には感謝しています」
 というシンプルな気持ちが(ライフスタイルとしての)ミニマリズムの体現ではないのか。
 己の両手の届く範囲に満足している人間が「これこそが素晴らしいのよ」「これがミニマリズムの極致なのよ」てな具合に、周囲に息巻くとはボクには思えないんですよねぇ……。


【どうでもいい締めくくり】
 そのようなわけで全く家族のいない僕が(正しく)(ライフスタイルとしての)ミニマリスト気取りをするならば、
「いやぁ、他人に自慢するほどではないのですが、今の生活には満足してますよ。ほんと、奥様(仮想)には感謝しています」
 と、訊かれたときにぼそぼそっと言えばいいのである。

 ちなみに、しばらく公式ブログジャンルというものを(目立ちたくないので)設定していなかったのだけれど、面白そうなので「他人に言えない恋愛ジャンル」に設定した。
 僕の恋人のそのほとんどは「他人に説明しても理解してもらえない恋愛ジャンル」として確立しているような気がしたからである。
 仮想奥様についても、まぁなかなか他人には言えないものである。
 ところで「他人に言えない恋愛ジャンル」でブログの文書を書く人って、結局「他人に言いたくて仕方ない恋愛ジャンル」のような気もしないわけでもないわけであり(失言を恐れる政治家口調)、先のミニマリズムと足るを知ることの矛盾にも似た滑稽さ(ゴムのような感触)を噛み締めては仮想奥様に叱られております。










// ----- >>* Escort Division *<< //
::茶には酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「茶の本」(著作:岡倉 覚三 / 訳:岡村 博 / 発行:岩波文庫)
 によりました。

 なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:黒猫:

[InterMethod]
  :Algorithm:Chaos:Ecology:Form:Kidding:Life:Mechanics:Technology:

[Module]
  :Condencer:Convertor:Generator:Reactor:Resistor:Transistor:

[Object]
  :Camouflage:Fashion:Human:Koban:Poison:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

  :ひとになったゆめをみる:





//EOF

 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210527
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
世界を作る者たち。
SUBTITLE:

~ Creator. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

【大工仕事】
 書斎(になる予定の部屋)の床工事は順調である。
 ノミやカンナもある程度使えるようになった。
 骨を組んで釘を打ってから、既存の床面に比して完成時のフローリングが高くなってしまう場合があり、骨を削る必要があるのだ。
 釘を打った後の場合は、センタポンチなどでフロア釘をさらに深く打ち、上面をノミで削るのが早くて綺麗にできる。
 カンナは刃の調整も含めて、まだ「使える」とはいえないレベルである。

 大工といえば、保育園児の頃、将来の夢を無理矢理、問いただされた(そういう授業があった)ので仕方なく「大工」と答えたことがある。
 当然に僕は子供の頃から虚弱体質で、大人になった今でも力仕事にはとうてい向かない。
 ただあの当時、家の近くに製材所か大工さんの資材置き場のようなものがあり、そこに無垢の角材がよく置かれていた。
 保育園に向かう途中など、母親や姉に手を引かれながら、その木の香りを楽しんだ。
 木というのは、こんなにいい香りがするのかと思って、それで「大工」と答えたのである。
 だから大工になりたかったわけでも大工仕事をしたかったわけでもない。

【言葉の話】
 子供の頃といえば「幼少」という言葉は敬語の一種であり、僕はそのことを20代になってから知った。
 10代の頃の日記では、自分の子供の頃のことを「僕が幼少の頃」なんて具合に、気取ったふうでよく書いていたものだから、知ってからちょっとドギマギしてしまったものである。
 もともと辞書を引くことは好きだったけれど、それ以来、よく使う言葉でも辞書であらためるようになった。(この「あらためる」の使い方も、若い人には「?」となるかもしれない)
「奥様」というのも敬語であり、多くは他人の女性配偶者を指す言葉だろう。
 僕の仮想奥様の場合は僕にとっての経済的主体者なので、従者が女主人をして指し示す言葉として適切だ。そんな意味では使っていないけれど。

 かように言葉というのは、ひとつの語が複数の意味を持ち、立場やTPOでその意味を厳密には変えることが多い。
 というようなことを小学生の頃から教わるものなのだけれど、大人になればなるほど言葉の乱れはひどくなるように感じる。
 読書をしていればかろうじて乱れを抑えることができることもある。

 もっとも読む本にもよるだろう。
 ライトノベルばかり見ていては「本気」と書いて「マジ」と読んだり「奇想天外!」と書いて「マジかよ!」と読みかねない(読まないので知らないが)。
「ら」抜き言葉なども、ネットニュースではもはや常識的に使われていて、そんなものを気にしているこちらがおかしいのかもしれないと心配になってくる。
 おそらくTVなどでも「ら」抜き言葉は日常的に使われているのだろうと想像する(観ていないから分からないが)。

 だからといって「武士道」や「茶の湯」や「風姿花伝」などのような古典的作品ばかり読んでいたら「して候えば」なんて言い回しを日常で使ってしまうかもしれない。いやしないか。
 僕は周囲と比較すると大和言葉を多用するらしく、ときどき「その言葉は何ですか?」と問われる。
「そこはかとなく」や「よしんば」「うつしみ」「宵の口」「まどろむ」「ひねもす」「お御足(これはただの敬語にも思えるが)」などなど。
 雅やかかもしれないが、相手に意味が通じなければ、知らない外国語と一緒である。

【頑固さについて】
 人間というのは自分より能力や立場が明確に上である人間が近くにいて、普段からある程度以上の緊張感を持っていることが必要なのではないかと感じる。
 僕自身も、ひとつ間違えれば他人に対して尊大に振る舞ってしまいかねないタイプの人間である。
(なので仮想奥様を構築した)
 会社に勤めている人でも、40代にもなる頃には不惑特有の頑強さが頭をもたげてくる。
 本来に優柔不断な僕でさえそうだったから、周囲の40代の男たちを見ていて反省するのである。
 40年生きるというのは確かに大層なことである。少なくとも僕にとっては、もう2,3回死んでいる予定の年齢である。
(17か27か32で、自分は死ぬと思っていたので)
 だからその長い経験の蓄積によって経験則が固まり、その経験則によって行動して一定の結果が出るという法則性を確固たるものとして身につけている。
 新しいものについてそれを試すのは、やがて腰が重く感じるだろうし、自分の価値観にはびこった法則性に正反対の理屈など絶対に信じない。
 つまりそれが思考の老化であり、頑固さだ。

 もちろん、その個人にとっては有用だろう。
 体質も思考も能力も人それぞれで、対人の技術を考えても、魅力の高い人とそうでない人とでは同じコミュニケーションの手法で同じ結果が出ることは少ない。
 感性の傾向も含め、人にはそれぞれに入力・蓄積しやすい情報と、処理傾向があり、出力はだいたい一定している。
 だから、僕の場合は「僕にとって」正しい法則があったとしても、それが他者にも当てはまるとは限らない。
 よほど抽象された法則でもなければ、何の役にも立たないだろう。
 そういう柔軟さを、いつも忘れずに死にたい。
 だから僕は、自身の嫌いなものを好きになり、嫌だと思っていることをしたりするのだけれど、これはこれまで観察する範囲ではほぼ皆無だ。
 みな、子供の頃から嫌いなものを嫌い続け、好きなものを好きであり続けようとする。
 それが自然なのかもしれない。

 しかし感情が判断を歪めることがないとはいえない。
 そう考えると感情的であること ── 感情を持つことさえも ── が、果たして良いこととは思えない。
 もちろん、無感情の人より適切な感情表現力を持った人の方が魅力的には見える。
 けれどもそれは集団の中でしか意味を持たない能力であり、習性だ。
 実際、僕のように1人でいるのに笑い始めたりするイキモノを、周囲の人は遠巻きにして見ないフリをする。


【家計簿】
 今はしていないが、ずいぶん昔、家計簿をつけたことがある。
 当時は父上から自営業を継いだ(そして父上がみまかった)直後だったので、事務処理は必須だったのだ。
 しかし家計簿のほうは数ヶ月で馬鹿馬鹿しくなってやめた。

 収入がある以上、支出を把握するのは大切なことである。
 しかし支出を体系化し、分類してしまえば、あとは概数で処理可能なのだ。
 当時はすでに一人暮らしをしていたので、まず固定費を文字通りにフィクス(直訳すれば固定)した。
 家賃は固定であり、車両維持費のうち車検以外の定期維持費(燃料、保険、メインテナンス)は固定費扱いし、水道光熱費もまとめて固定費として考えた。
 通信費は水道光熱費と同等に扱い、それらはすべてコンビニ払いにして、毎月まとめて支払いをした。

 家賃は当時50k(円)、光熱通信がおよそ30k、車両維持がおよそ30k、食費が(昼食、外食除き、酒を含む)だいたい30k。
 ここまでで僕の固定費がだいたい140k。
 ときどきプラスマイナスはあるが、1年ほどを観察すれば誤差範囲もわかるし、3年も蓄積すれば勘で処理できる。

 ちなみに光熱費は季節でその内訳の比率が変化するものの、トータルはだいたい同じである。
 当時の僕の場合、冷房は電気(と水)、暖房は石油を使うため、夏は電気代が高くなるが、石油は使わなかった。冬は逆である。
(もし夏と冬で空調費に大きな差がある家庭は、消費するリソースを含め機材そのものを再検討した方がいいだろう)

 他に積み立て分も固定費として引く。
 車検なら2年で200kほど。
 一時期は高額な自転車やコンピュータを買うため、月々決まった額を積み立てようとした。
「ようとした」というのは、急な出費があればその分をそこから捻出したためだ。

 ここまでを収入から差し引いて(当時の僕は手取りが200k前後だったので)60kを自由に使っていた。
 貯金をするくらいならお金の使い方を学ぼうと思っていたし、毎月数万円は本を買っていた。

 つまり僕の家計は、だいたい1万円単位、細かくしても数千円単位の概数で演算され、細かい金額は積み立て分か小遣いに回った。
 通常、細かい金額は積み立てに回らない。
 現金だと使ってしまうし、預金にわざわざ数千円を入れに行くのは面倒である。
(前述のとおりアンチ貯金主義だったので)

 当時の僕は、ピン札預金をしていた。
 給与(平成になってなお、手渡しの会社に勤めることが多かったが、預金の場合、引き落とし固定費を除いて万単位ですべて下ろしていた)のうち、ピン札はとにかくピン札預金袋に入れてしまう。
 そのあとコンビニ払いの固定費を分けたりしていたのだが、小遣いとして固定費余剰の差分が出た時も、ピン札があったらとにかく持ち帰って袋にしまっておいた。
 お祝い事などに使うとき、わざわざ銀行に行って用意するのが嫌だったのである。

 なので月によってはピン札預金袋から生活費を捻出することもあり、また月によっては使い古しの紙幣だけれど財布に入り切らないため、ピン札預金袋に仕舞われることもあった。
 結果的に、ピン札を残すことでお金を残しやすくなった。
 このピン札預金袋は家の中のかなり目立つところに置かれていたのだけれど、入っているのがピン札だからみだりに使うことははばかられるのである。
 財布の中の現金は3万円まで、というルールも有用に作用した(僕は本を前にすると金銭感覚がおかしくなることがあるので)。

>>>

 1円単位で家計管理をしている人を馬鹿にする気はないが、果たして意味があるようには思えない。

 一度、算数もできないのに家計管理をしたがる女性と付き合ったことがあるが、とても苦労した。
 家計管理は大事なことかもしれないが、数時間も掛けてするような仕事ではない。そもそもその作業は何も生まないのだ。
 それを1円単位で細かく仕分けして管理している。
 最初は感心したものの、私の家計管理に(概数ベース、現金と勘での管理、記録は付けないのだから無理はないが)ケチをつけ始めるようになって辟易した。
 当人は、一円単位の家計管理に誇りを持っているのである。
 僕からすると、事務処理だけして偉そうにしている会社の管理職みたいなものである。
 事務仕事なんて直接お金を生むわけではないし、そもそも管理職は他に仕事があるでしょー、的な。

 もちろん今は諸般の事情で財務管理を(自分のものと妹のものと)しなくてはならないので、領収書を残して、引き落とし口座の割り振りをして、税理士さんと打ち合わせもするし、銀行の渉外にも対応する。
 しかしやはりこんなものは雑事だから、この程度のことでエラソーにしている類の人間の底は知れていると感じる。

 それより僕は、服のボタン付けであるとか、水回りの掃除であるとか、畑で作物を作れる人の方が偉いと思うのだ。すごいと思うのだ。


【バカが嫌い】
 もともとバカが嫌いだと公言していたのだけれど、本当にバカな人は自分が属している細かなことをよりどころにして、他人を貶めたりするものらしい。
 無論、バカであると自覚していないからこそである。

 もちろん自分の流儀を大切にすることは悪いことではない。
 ただ、それを他人に押し付けたり、あたかも自分だけが正しいというような論で語られるとどうにもならない。
「これ以外は正しくないと思っています」というタイプのイシアタマに理屈を使って説明することは簡単だが、理解してもらうことはほぼ不可能だ。
 少なくともその労力がもったいない(ので僕はしない)。

 当時から僕は「使えばお金は増えて戻る」と考えていた。
 自営業を経て、営業の仕事をしていたからだろうか。それとも本を読んで知ったのか。

 この理屈を、大手の生保会社はセールスパーソンにトップダウンで押し付けているように観察される。
(どの会社、とは言いませんが)
 もちろん「使ったお金は増えて戻ってくる」と僕は思う。
 しかし「使わされたお金はさらにマイナスを生む」とも思う。
 こういった事象は、家計を数値管理しているだけでは到底抽出できない情報だろう。
 事務職や公務員のようなサラリーマン意識であれば、使ったお金が増えて戻るという感覚はないようにも思える。
 しかしお金は交換するための道具で、掛かる時間が交換した価値を増やすこともある。
 銀行に預けてお金が増えるのは、それを誰かが使っているからだ。
 ならば自分が使って、その金額以上の価値を身につけてゆければ、それは金額以上の価値になって返ってくる。

 僕は本を読んでモテる方法を身につけたし、一人暮らしを(する必要に迫られて、だけれど)してタフにもなった。
 30代まで、食費を削ってでも高いコンピュータを買ったり、本を大量に買ったりして(僕は本を折ったりメモしたり破いたりお風呂に落としたりするので、借りることができない)、貯金はしなかったけれど得るものは多かったし、10代の頃に夢見た程度に若隠居することができた(本当に驚きである)。
 友達は少なかったし恋人も30人を超えることはなかったけれど、アタマワルい人間に時間(つまり寿命)を浪費されないだけでも有意義だった。
 それに最近は、明らかに視力が低下している。本を読むことができなくなってきているのだ。


【孤独とお金】
 若い頃だからこそ、孤独な時間が多くてよかったし、貯金もしないで好き勝手に過ごしていてよかったと思う。
(言い訳に聞こえるかもしれないし、結果論ありきの言い草だと非難されても反論の余地を探すのはむつかしいが)
 恋人は多かったけれど、僕の時間を浪費する者は(ヒト型以外を含めた恋人にも)ほとんどいなかった。
 何より目が悪くなってしまえば、お金を払って本を読んで、ボロボロになるまで使うなんて、この先はなかなかできないだろう。

 友達が多い方がいいとか、社会人になったら貯蓄をしないと、とかそういう考え方に僕はまったく賛同しない。
(恋人が多い方がいいのかどうかは知らん、各自勝手に考えて好きにしろ。たまたま僕は一生分の恋人と、20代から30代にまとめて付き合っただけかもしれないし)
 寂しさを埋める機能しか持たない、くだらない友人や間に合わせの恋人と時間を浪費するくらいなら、独り寂しく恐怖と不安に震えて夜を過ごすほうが、後の人生には素晴らしい糧になるだろう。(あるいは肥料といってもいいかもしれない)

 それはたとえば安売りされている菓子パンに似ている。
 その場の空腹はしのげるし、けっこう美味しいのだ。
 ただ満腹になったところで、飢えは収まらない。なぜといって、栄養が足りないし、添加物も多くて身体が疲れて鈍感になるからだ。
 満腹なのに飢えているから、過食することになる。
 数十年して、その影響が身体に出る。
 身体が不可逆的なダメージで変質するのだ。
 ならば飢えをしのぐのではなく、飢えるままに苦しんだ方がよかったのではないか。

 人間の心が、安い他人という資源を食い物にして同じように歪まないなどと、いったい誰に言えるだろう。
 まして安っぽい人間は、不可逆的なダメージを与えるだけでは済まないかもしれないのだ。

 人間と食べ物をしてそうである。
 お金ならどうだろう。
 貯蓄という使い方は、果たして本当に、若いうちからしておくべきだろうか。
 投資という運用は、果たして本当に、早くからしておくべきだろうか。
 いったいどういう人たちがそれを言っているか、分かっているのだろうか。

 きっと僕が宝くじ協会の会長あたりに天下りしていたら「若いうちから宝くじは、毎年10口でもいいから買っておいた方がいい」と言うだろう。
 なぜといって、早くから買い続けて、より多い口数買えば買うほど、それは当たる確率を上げることになるからだ。

 同様の理屈で、すべてのギャンブルは早くから、より多くのお金をつぎ込んだ方が利益を上げられる計算になる。
 しかしすべてのギャンブルは、胴元が儲かるようにできている。
(宝くじの販売額と当選金額合計の差額を計算したことがありますか? 僕はあります。だから宝くじ協会の会長にしてくださいお願いします就任した暁には頑張りますから!)
(ちなみにあれ ── 宝くじ協会 ── 財団法人ですよ! よく考えて! 宝くじとか買う前に! 夢を現金で買ってる場合じゃないから!)
 なので貯蓄と投資に胴元がいないなんて、ボクニハオモエナインダヨナー。


【ゲームの話】
 僕はゲームが好きだったので、10代の頃はゲームを作ったりもした。
 RPGやシミュレーションのルール作りが特に楽しくて、キャラクタのパラメータや行動の成功判定演算式を立てるのは、まさに現実世界の物事をヴァーチャルの世界に落とし込む作業で、没頭した。
(だいたいひとつの世界のルールを作るのに1年は掛かる)
 そしてたまたまあの頃の僕は天才で、パラメータの種類やその演算式の組み立てが上手だった。
 3つの6面ダイスを振ったときに出る合計値の確率を、アタマの中に6*6*6のキューブを回転させて感覚的に理解していたし、同じように、個体Aのパラメータa群と個体Bのパラメータb群が(a群≠b群のとき)相関した演算出力の傾向を確率で確認して楽しんでいた。

 僕がギャンブルを嫌う一番の理由は、ゲームメイカがゲームを楽しませることを楽しんではいないからだ。
 そのゲームのルールはプレイヤがゲームに熱狂し、にもかかわらず負け、ゲームメイカが勝つようにできている。
 僕にとって、それはゲームとは呼べない。
(それでも数学的な見地から挑んでゆくプレイヤがいるのは事実だけれど)

 しかし現実の世界は、ヴァーチャルのようにフェアなルールなどない。
 フェアに見せかけた巧妙なからくりがあって、約束された未来は偽りで、積み上げる努力が報われる保証はない。
 最低限に保証された生きる権利というフレームの中は窒息しそうなほどの絶望にまみれている。

 ゲームのルールを作るとき、世界を構築するとき、歴史や場所を作り、人物を構成するときは、フェアネスの基礎の上にしかアンフェアは成り立たない。
 手の届かない場所もなければ、力の及ばない場所もない。
 ヴァーチャルな世界や人物を作る楽しさはそこにある。
 誰かの作ったモノにはたいてい突っ込みどころという隙が存在するようで、そういうものを探すことに異様なほどの情熱を傾けるタイプの人間は少なからずいる。
 そういう人たちがどれほど精巧なヴァーチャルを構築したことがあるのか(あるいはできるのか、もしくはできないのか)分からないけれど、世界を作る愉悦を知らないことはひとつの不幸だろう。


【世界を作る自由】
 大人になればなるほど、世界に縛られて、世界を縛り付けて、人は不自由になるようだ。
 子供たちはたいてい、世界に縛られることもないし、世界を縛ることもない。
 自由に世界を作ることにかけては、大人よりも子供の方が長けているのだ。

 世界を作るにあたっては、矛盾を嫌ったり恐れていたら始まらないのだ。
 ヒトノカミサマは7日で世界を作ったらしいが、人間はそれをずっと改良しようとし続けているように観察される。
 突っ込みどころ満載で、いつまで経ってもリリースできない不良品だったのだろうか。

 ちなみにネコノカミサマの作る世界は箱の中に入っていてだなフタを開けるとその中から ── 。

 

<むにぁ!>





 

 

 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:

[InterMethod]
  :Algorithm:Diary:Ecology:Engineering:Form:Link:Mechanics:Memory:Stand_Alone:Style:

[Module]
  :Condencer:Convertor:Generator:Transistor:

[Object]
  :Book:Computer:Dish:Friend:Human:Koban:Tool:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

  :ひとになったゆめをみる:






//EOF

 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210615
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
私の口からそんなこと。
SUBTITLE:

~ I can't say that words. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

210615

 今週も妹が遊びに来る。
 今週は市街中心から少し離れたところにあるJAの直売所に出かける。

 午前中からとはいえ、高齢者がほとんどである。
 中にはお嬢様と思しき50代ほどの女性と、父親もしくは母親というペアも見かける。
「これが必要って言っていたでしょう」とか「いらないものまで買わなくてもいいんだよ」などと言っている会話の流れから、介護の延長で買い物に来ているものと分かる。
 妹と一緒に、そういった人たちの台詞を真似て笑い合い、遊ぶ。

 妹は、普段からこのように「介護する人」「介護される人」の真似をしたり、あるいは身体に障害のある人の動作を真似て人を笑わせようとする。
 そう、そこにはおかしみがあり、ある種の滑稽さがある。
 だから僕は遠慮なく笑うし、遠慮なく一緒に真似をする。

 きっと世の中には、そうした行為を「介護する人や介護される人、障害を持つ人を馬鹿にしている」などと言って怒り出す人がいるだろう。不謹慎だとそしりを受けるだろう。
 僕は全くそうは思わない。
 僕も妹も、介護をするのは大変だと知っている。介護を受ける側の苦悩も知っている。
 身体が衰え、死に向かうことの心細さや、命を失うことの悲しみを妹は僕よりよほど悲観的に感じていることと思う。
 指が曲がらない。膝が思う方向に動かない。そうした辛さは分からないでもない。
 だからそれが滑稽なら、僕らは笑うのだ。

 生きることは滑稽だから。
 生活していると、意味もなく(いや意味はあるが)オナラが出てしまったり、してはいけないところでゲップが出たりする。
 なるほど不謹慎で無礼なのかもしれない。
 でも出ちゃうものは出ちゃう。とっても滑稽だ。
 妹は子供の頃からそういうことを隠さないから、会話の最中にゲップをしたり、オナラをしたりする。
「出ちゃった」とか言って、それを笑わせようとする。
 彼女がかつて美少女だったからだろうか、それをキャラクタとして確立させている。

 もちろんもちろん。
 常に謹慎に、謹んで慎んで、淑やかに上品に振る舞い続けることができるなら、それが一番いいことだろう。
 しかし身体は若い頃からそもそも不自由なもので、一般に言う健常者であろうと障害者であろうと、不自由には変わらない。
 要介護者が不自由であるように、介護者もまた不自由だ。
 歩けないことは不自由だというが、歩けたって不自由だ。
 不自由で、辛くて、だからイライラして、お互いに諍いあう人間関係もあるだろう。

 お高くとまっている連中が「不謹慎だよ」と非難し怒り出すとしたら、それこそ何の不自由もない自身の立場に甘んじているのだろうと思う。
 50年もすればお前だって身体が不如意になって嘆くのだから、今のうちからその滑稽さを笑っておけよ、と思う。
 だから僕は遠慮なく、妹と一緒になって人々の不自由さを笑う。生きる滑稽さを笑う。

 彼らのユニークで一筋縄に行かない言動は、本当に不自由で滑稽である。
 何のことはない、僕ら自身、会社で、家庭で、人間関係で、コミュニケーションや目的意識の一致や日常的な茶飯事が、一筋縄に行かず、あらゆる行為が不自由で、実に滑稽なのだ。

 誰だ「ワタクシはそんなことありません」みたいに澄ました顔をしているのは。
 取り繕っても無駄だぞ。
 お前がオナラしたりゲップしたりウンチを我慢してトイレに駆け込んだりした経験があることはお見通しなんだ。
 経血が脚を伝って慌てたり、射精する機会こそが生きる意味だと勘違いしたりしていることはお見通しなんだ。
 オマエらなんて、私と同様かそれ以下に滑稽なんだぞ。
 なぜといって、己の滑稽さを隠して、澄まして「不謹慎だ」なんて人を非難しているからだ。
「私は一歩踏むごとに、ぷっぷっぷっ、なんてオナラがでちゃったりは致しませんことよ」みたいなツラをしているからだ。

 膝の曲がった老人が、びっこを引いて歩いている。
 僕と妹はそれを真似て笑う。
 老人は怒るかもしれない。笑うかもしれない、どちらでもいい。
 でも僕らにとって、その老人は、もう友達のようなものだ。
 その人を笑うのは、その人がとても近しいものだと感じられるからだ。

 バカで滑稽で愚図でろくでなしで性懲りもない連中を僕は嗤う。
 なぜといって、それは僕にとても近しいものなのだ。

 介護をして怒っている娘の口調を真似して笑い合う。
 認知症があると思しき父親の、口調を真似して笑い合う。
 笑ったついでに、妹がオナラをして、さらに笑い合う。

 生きることを笑って、何が悪いだろう。
 生きることを笑わずして、何を笑えばいいのだろう。
「ワタクシは滑稽なことなど致しません」なんて、僕には口が裂けても言えない。
 しゃちほこばって、真面目くさって、ウンウン唸って、まっとうで常識的な善人を演じて生きるくらいなら、不真面目で不貞で不倫で非常識な自分を嗤って死にたい。
 真面目も愉快、不真面目も愉快と、笑って死にたい。

>>>

 帰り道、自動車を運転しながら妹の曰く。
(僕は自動車の運転が好きではないが、妹は運転が好きなので)
「『○○うどん』とか『○○うどん』 ── 有名なうどんのチェーン店 ── てあるでしょう。友達に誘われて行ったんだけど、みんなすぐ『ぶっかけ』とかって頼むじゃない」と。

>>>

 先に書いたように、妹はかつて僕の学年を騒然とさせるほどの美少女だった。

 転校生。家庭環境は複雑にして棲んでいる家は奇怪。
 宿題をしてきたためしはないがテストを含め成績は優秀(ただし運動音痴)。
 女の子の服装で登下校。
 晴れた日に長靴を履いて登下校。
 雨の日にずぶ濡れで登下校。
 猫を連れて登下校。

 そんな奇人ぶり満載の僕の教室にある日、もじもじしながら美少女が「猫くーん 。習字セット忘れちゃったから貸して」とやって来る。
 彼女が僕を「お兄ちゃん」と呼んだことは一度もない。
 僕ら姉妹は(姉が多かったため)互いを名前で呼び合うのが普通だった。

「あの奇人の青猫に妹が ── !」
 騒然はクラスから学年へ、学年から上級生の学年へ。
 ひと月くらいは休み時間ともなると入れ替わり立ち替わり、僕のクラスと妹のクラスの入り口に、知らない奴らがやって来たものである。
 少し厚かましい者などは「○年○組のあれはお前の妹なのか」とこちらの机まで確認しに来たりもした。
「この学校で、うちの名字は2人だけだねぇ」と僕は答えたのだったか。
(未だに、この街では僕と同じ姓を持つ世帯は他にないようである)

 しかし一緒に育つと、妹が美少女であることに大した利はない。
 素直でお兄ちゃん想いで気立てが優しくて家事もできて、なんていう妹はフィクションの中にしか存在しないだろう。
 少なくとも僕の妹は、僕を階段から蹴落としたり(何かの比喩ではなく、リアルな階段からリアルに蹴落とされた直喩である)、手の届かない背中を狙って(本人談)思い切り噛み付いたり、高熱を出して寝込んでいる僕への看病に嫉妬して仮病を使ったり(そしてまんまと見破られたり)していた。
 焼き魚や煮魚を食べるのが下手で、父親に骨を取ってもらわないと箸をつけず、中学生になってなお、そうめんが茹でられないどころかカップラーメンの作り方さえ僕に教わる始末だった。(ついでに学業は致命的)
 女だらけの家の中で半裸の女性がうろうろしているのは日常の光景であり、それは水泳の更衣室とさして変わるものではない。
「水泳か、面倒だな」くらいの感慨があればまだ救いがあるだろう。

 まして妹は自分が美少女であることに絶対的な確信を持っていたらしく(僕は当時から相貌失認だったのか、妹の顔立ちを可憐だと評価したためしがない)家族だけでなく、友人関係にもそれを自信満々に語っていた ── 結果、友達は極端に少なく、いじめられることも多かったようだ。無論、それに屈しない精神力も備わっていたのでまさに無敵だったようだが。

>>>

「『ぶっかけ』だよ? よくそんなことみんな言えるよね。カヨちゃん ── 彼女は自分の名前を「ちゃん」付けで呼ぶ ── 言えない」
 妹にしてはいつになくまともな意見だと思う。
「列を作って、周りに人もいるのに『おろし肉ぶっかけください』とか『ぶっかけうどん、入りまーす』とか、みんなどうかしてるよ。ぶっかけぶっかけって、何だよ」と言う。
 ものすごく可笑しくて、2人でひとしきり笑う。
 考えたこともなかったが「ぶっかけ」というのは確かに、品がない言葉である。

「ぶつ」というのは「うつ(打つ)」という言葉が濁ったものだろう。
「うちかけ(打ち掛け)」というのは「ものの上に軽く掛ける、軽く載せる」という意味である。
 うどんであれば、盛りうどんのように皿に盛った上に、つゆや薬味を掛けたもののことだろうと想像する(食べたことはないと思う)。
 その「うちかけ」が訛って「ぶちかけ」「ぶっかけ」になったものではないだろうか。
 いなせな気風を装うため、中世から一部の男たちに使われた言葉のようにも思える。

 他の例として、かつてフィクションで使われて流行った「ぶっちゃけ」という言葉もそれに当たる。
 これは「うちあける(打ち明ける)」が「ぶちまける」になり、さらに短縮されて濁ったものだろう。
 妹がどのような理由で「ぶっかけ」と言えないのかは分からない(いくつかのパターンは想像できるが、それを確認するのも下品なのでしない)。
 しかし僕自身、濁音を含む言葉を避ける傾向にある。

 ぶっちゃけ ── 。
 ぶっちゃけた話「ぶっちゃけ」は語感がとても汚い。気持ち悪いとさえ思う。
 その汚さが、斬新だったのだろうか。それで広く受けたのだろうか。分からない。

 いずれにしてもメディアによって大々的に広まり、芸能人だけでなく一般人も日常的に使っていて、とても気持ちが悪かった。
「ぶっちゃけ、鶏卵は鶏の卵でしょ」なんて、とうてい何かを打ち明けているようには観察されないような状況でも使われていて、僕は独りで可笑しく感じていたのだけれど、周囲の人は(とくによく使っている人ほど)何も感じていないようだった。
「打ち明けた話、僕には、隠し子がいるようなのです」というくらいの用法でないと、打ち明けた話にならない。
 そもそも大声で、公衆の面前で、皆が一様に口にするようなことではない。
 打ち明けるというのは、そういう慎みのことではないのか。

 うどんに話を戻すと、たしかに僕も「ぶっかけうどん、お願いします」とは言いにくい。
 恥ずかしいというより、語感が気持ち悪いので、言いたくない。
「うちかけうどん」と言っても通じる世の中になればいいのに、とは思う。
 きっと店頭で試しても通じないに違いない。
「うちかけ」と「ぶっかけ」は、意味が本来同じものなのに、その意味が広くは通じない。
 そしてどういうわけか、濁った言葉の方が流布してしまっているのだ。

「肉ぶっかけとかホントwww センスwww 無理www」
 妹と大爆笑している私も私である。

 

<もはや白目>








 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:

[InterMethod]
  :Algorithm:Blood:Chaos:Diary:Ecology:Interface:Kidding:Life:Love:Memory:

[Module]
  :Condencer:Connector:Convertor:Generator:

[Object]
  :Human:Memory:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

  :いのちあるものたち:ひとになったゆめをみる:






//EOF

 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210415
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
謝らせることの下品。
SUBTITLE:

~ Partial Murder. ~

Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //

 

 

::そうです。子供は大人を見て、こういうときには悲しいのだ。悲しいときは、あのように泣くものだ、と覚え、それを真似るのです。人間が生まれながらに持っていた性(さが)ではない。ですから、ほかに大人を見ず、ただ一人で育った子供がいれば、その子は、悲しむことを知らない。泣くこともないかもしれない。赤子が泣くのは、悲しいから泣いているのではありません。赤子はまだ悲しさを知らない。ゼン殿の場合、カシュウ殿が悲しみを表に出されない人であったから、それを真似ることがなかった、といえましょう。なにも心配することではない。これは、人として欠けているのではありません。考えてごらんなさい。人間として満たされている状態とは何かといえば、それは結局、村の中で、その集団の中で、皆と同じように振る舞う術を知っているというだけのことだ。違いますか? その本人の器の大きさでもなく、その本人の心の深さでもない。苦しい修行を重ね、悟りに至った高僧は、自らの心にのみ忠実であり、外界や他者の影響を受けないものと聞きます。それはまさに、人として欠けている状態ではありませんか。この矛盾、いかに説明されましょうか?



 


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 経緯を詳細に説明すると少々複雑で、それに僕が自分のことをあたかも「常識的で良識的で慈善の心を持った人」であるかのように描写しかねない ── あるいはそのように受け取られかねない ── のも不本意である(なぜなら僕はどちらかといえば非常識で、かなり倫理観に欠け、けっこう独善的だと自身を評価しているから)。
 しかし今回の主題はそれだ。

 端的にいえば、かなり強引に猫を引き取った友人が、(やっぱり無理)と言い出して、やはり強引に猫を置いていったのである。
 知っている人はいるかもしれないが、黒猫というのは一部の地方(日本ではなく海外だったと思う)では縁起の良いイキモノである。
 それもあって、その知人はもの欲しそうにしていた。
 そこまでは別にかまわない。
 たまたま相性も合うようだったので、僕は譲ったのである。

 あちこちに移動することの多い僕と暮らすよりも、一カ所に定住できるその人と暮らす方が、移動好きではないゴマにとっては良かろうと思ったのでもある。
 ところが発情期になったら、その声に耐えられないという。
(確かに喧しいのは事実だ。アヲなど僕のスリッパに頭を突っ込んでローリングまでする。もはや狂気の沙汰だ)
 もともと鬱病の持ち主ではあるが、症状が悪化するので返したいという。

 言い出したのが、僕が発熱(3/21に、流行病かと思うほどの高熱が出た)して数日後 ── 体温がもっとも高かった時期 ── である。
 もともとワタクシが愚痴を聞く機会は多かったものの、高熱で具合の悪いときにまで長文メールによる私的な愚痴を送られる始末である。
(読める体力も思考力もなく、また何らかのアドバイスが必要なわけでもなさそうだったので、まともに読んでいないが)
 そして2週目になったら、突然「これから家に届けに行く」と言い出して、猫を連れてきたのである。
 もともと私の飼い猫であるし、私の体調などおかまいなしに自分の都合の打診しかしない人間にも慣れてはいる。
 しかし首尾一貫して、申し訳なさそうにするでもなく、私の体調やスケジュールや意向を優先するふうでもなく、気に入ったから私も飼えるはずだし飼いたいと言い出しておきながら、やはり気に入らないし(諸般の事情もあり)無理だからと突き返すのは、移動が好きなわけではない猫にとって、しょっちゅう生活環境が変わるため、かなりのストレスになる。

 もともとは「うちに泊まらせたい」ということでときどき貸し出しをしていたのではあるが、行ったり来たりはストレスになる猫のようだし勝手に独自の名前も付けていたので「気に入っていて飼えるなら、きちんと飼ってね」ということで引き取ってもらったのである。
 その挙げ句が(事情はあるにせよ)強引に突き返すという結果である。
 私も気分が悪いが、猫(黒猫のゴマ)も相当に気分が悪いはずである。
 ことほど左様、家に来てから逃げ回っている。名前を呼んでも、あまり理解しているふうではない。

 その人がしたことは、適当に猫を飼い始めて、そのへんに捨てるのと同じ行為である。
 たまたま、もともと私が飼っていた猫で、なおかつ捨てる先として私がいたというだけのことだ。

 確かに猫なんぞ畜生であるから、人間の慰みものとして生かされて捨てられて殺されてもまぁ仕方ないとは思う。
 虐待されることと家畜で喰われることの差違を、僕はあまり気にしない。
 ロブスターに苦痛を与えず殺す法律がどこかの国にあったと思うが、そんなものは人間のエゴだ。
 少なくとも僕は、ペットとして飼われる動物たちについて、ろくな能力もないのに養われるだけの、人間のための慰みものだと思っている(「家族だ」なんて発言は、正直に言えばキモチワルいとさえ思っているし、エゴ丸出しの偽善にさえ感じることもある)
 だから人間と暮らすためにけっこう厳しく躾けているし、変に甘やかしたりもしないし、死んでもさほどに心を痛めることはない。
 ただ飼い始めた以上は、たとえ親が「捨ててきなさい」と言ったとしても、そんな指示などおかまいなしに飼い続けた。
 餌がなければ学校の給食をみんなからもらって、飼う場所が見つからなければ近所の公園だろうが学校の教室だろうが、ともに暮らした。
 幸い、私の父上は(生活保護を受けていた時期であっても)拾った動物を「捨ててきなさい」とは言わなかった。
 テーブルに乗ったり、人間の食べ物を盗むようなことをすればこっぴどく叱る必要があったが、それは猫のためでもあり、僕が猫を飼うことを認めてもらう上で必要なことだった。
 お小遣いをもらえるようになってからは、キャットフードやトイレ用品などをその中から買い続けていたので、一円も父上に請求したことはなかったし、それもあって新しい猫を拾っても文句を言われることはなかった(まぁ、このあたりは余談だが)。

 ただ、捨て猫というのは時に病気で、時に栄養失調で死ぬから、それにも慣れた。
 毎回毎回、病院に連れて行くほどのお小遣いは持っていなかったからだ。
 ために僕自身、猫との関係はドライだ。
「家族なんですぅ」「いたずらしても叱れません〜」なんてことはない。
 畜生だと思っているし、イタズラしたらめちゃくちや叱る。追いかけ回すくらいは平気でする。
 でも人間と共存することを覚えてくれれば叱る必要はなくなるし、寝食に困らないようにするのは共存する上で当たり前のことだと思ってもいる。
 だから「かわいいかわいい」としておきながら、寝食に困るようなことを平気でするような思考が理解できない。
 責任を持って飼って、責任を持って殺せよ、と思う。
 小中学生ならまだしも、僕より年上の大人ともなると、正直言葉を失う。
 まして申し訳なさそうなふうでもなく、首尾一貫して自分の都合で、悪気もなさそうなところが致命的だと思っている。
 僕が腹に据えかねているのは、つまるところそういうことである。

>>>

 しかし僕は、自分が腹に据えかねているからといって、相手に謝罪を求めるような幼稚さを下劣だと感じている。
 世の中には自分の腹が立ったという理由だけで、相手が謝罪するのは当然だと思っている阿呆が若干いるようで、ときどきメディアなどでも報道される。
 僕もそういう人間と接したことはある。若干というよりも多いかもしれない。

 僕は、僕が腹を立てているのは僕の自己都合だと理解している。
 上記に述べた僕の考え方は「猫を畜生として、人間の慰みものとして」完全には思い切れていない、その半端さがある。
 人間の慰みものであるならば、人間の都合で交配させて産み増やして気に入らなくなったらそのへんの川に投げ捨てて溺死させればよいのだ。
 気に入らないことをしたらハンマーか何かで頭を叩いて殺して燃えるゴミに出せば良いのだ。

 そこまで慰みものとしては扱いきれない中途半端な自分本位の考え方をして、僕は腹に据えかねてしまう。
 つまるところ、僕が怒るのは、僕が大事にしてしまう自分本位な価値観のせいであり、価値観を変えられず、にもかかわらずその価値観に従って怒ったり喜んだり悲しんだりするのは、すべて自己責任だと考えることは妥当だと思える。

 自分本位だと他人をあげつらうのは勝手だけれど、自分本位という意味においていえば、独善を振るう自分の拳だって相当に自分本位な道具なのだ。
 だから僕は、いつも自分の怒りが正当なものとは思えない。自分の憎しみも、それが正当なものとは思えない。
 ただそれはそこにあって、かつては(怒りに駆られる自分は身勝手でダメな人間なのだ)といったジレンマに悩まされたりもしていたのだけれど、最近は「腹に据えかねるものはどうしようもないんだもんね」「許せねいものは地の果てまでも追い回してやるからなこのやろー」といった感じで自己肯定はしている。

 ただ自己肯定はしていても、そのまま排出していいものと悪いものがある。
 僕にとって怒りというのは、単純に異なる価値観の高低差によるエネルギーの一形態なのである。
 誰のどんな考え方や行動が気に入らなかろうと、その人にとっては、それが当たり前のことなんていくらでもある。
 恋人が27人いることと1人しかいないこと(あるいはまったくいないこと)の優劣が僕には分からないのだけれど、そこに優劣があると思っている人にとっては、27人恋人がいると「素晴らしい」とか「けしからん」とか思うようなのである。恋人が1人だと素晴らしくて、0人だと「ダメだ」となる理由も不明である。
 では恋人じゃなくて友達だったら多い方がいいのか、それともやはり1人こそ至高なのか。

 それぞれの価値観の落差はそのまま、場のポテンシャルエネルギーとして発生する。
 ために人は、あるいは僕は怒ったりするものの、それは自身の中に価値観があるが故の結果であって、僕に限っていえば相手の価値観がすなわち悪いと断罪するにあたうかどうか自信が持てない。

 もしかしたら、恋人がたくさんいるのはやはりアタマオカシイ価値観の結果なのかもしれないし、猫を畜生と断定するのは間違っているのかもしれない。
 ゆえに猫を畜生と断定しないにもかかわらずとんでもなく自分本位な慰みものとして扱うことそのものは、間違っていないのかもしれない。
 何が正しいかなんて、考えれば考えるほど分からない。

 誰かにとって正しいことは、他の誰かにとって間違っているかもしれない。
 ならば僕にとって正しいことが、果たして他の誰にも正しいなんていえるのか。
 正しくもないことをベースに僕が怒っているとして、その怒りは正当なのか。
 あるいは正しいことをベースに怒っているとして、その怒りを誰かにぶつけることは正当なのか。

 そのように考えてしまうと、誰かに謝罪を求めるなんていうのは、もはや狂気の沙汰である。
 絶対に自分が正しいと思える信念は、僕からすれば無分別な狂気である。

 正しさというのは理屈や論理で説明できるものである。
 猫が人間のための慰みものとしての畜生であるというのは、現実から帰納することもできる。
 交配させて経済で取引して気に入らなければ放り捨てられる猫は実際に存在し、社会はそれを容認している。
 貴方は自身が容認していないと言うかもしれない。
 それならその非容認は行動として社会に還元されているはずだ。
 動物愛護ボランティアに参加するなり寄付するなり、法改正を要求するなりしているはずだ。
 していないならその行為(行動しないで口先で好き勝手に言うだけ言って偉そうにすること)は単純に社会の有り様を容認し、ケチをつけるだけの無力な自身を肯定しているのである。
 気に入らないことに対して、反抗しなければ、それは受け入れていると認識される。
「本当に嫌だったら、どうして抵抗しなかったのですか?」法廷で原告が尋ねられそうなフレーズだ。

 猫に話を戻す。
 もちろん、大切に育てられて人間と暮らしてその安寧に死ぬ猫もいるだろう。
 しかしそのいずれも、人間の慰みものとしての畜生であることには変わらない。
 人間の都合で愛され、生かされ、あるいは捨てられるのだ。そこに殺されることが加わったとして、何の違いがあるだろう。
 生きたまま捨てることは殺して捨てることより果たして優しいだろうか。
 生きたまま捨てた方がいいなんて、公園の段ボールの中で日に日に弱り死んでゆく仔猫を見たことがない人間の偽善ではないかと僕は思う。

 だから僕なら、猫は生きたまま捨てたりせずに殺して捨てる。
 たとえば6匹、生きたまま捨てて、何匹生き残ると思っているのだろう。
 親猫や人間の庇護なしに放り出された猫の生存率は、さほど高いわけではない。
 しかし僕のように殺して捨てるのは、やはり非人道的ではないだろうか。
(念のため断っておくが「僕ならそうする」ということであって「そうしている」わけではない)
 だからわざわざ残酷であっても、自分の手を汚さず、なおかつ生存確率が多少なりともある「生きたまま捨てる」という手段を選ぶのかもしれない。

 猫が畜生であるというのは、論理として正しいように思える。
 猫は人間ではないし、総合的に見れば人間よりも能力で劣っている。
 しかし猫の生かし方や捨て方、殺し方について、何が正しいのかは分からない。
 虐待は良くないというが、病気に罹った家畜や作物は、時に薬漬けにされ、時に殺処分される。
 あれと虐待の違いは何だろう。加害者の慰みものになっているかどうか、だろうか。
 慰みものにしていなければ、加虐行為を愉しんでいないなら、何をしても虐待ではないのか。そういうものでもないだろう。
 自分の気分を害されたら、何をしてもいいのか。
 昆虫類ならどうだろう。
 蚊やゴキブリならば、実際に害を為すことも多いが、単なる心理的不快による不快害虫などを駆除することは「見た目が気に入らないから殺す」という点で、たとえば顔が気に入らないから猫を捨て、あるいは人を殴る行為と何ら変わらない。
 そこにあるのは感情であって、論理ではない。
 正しさにまで正しく考えが至らず、反射的な感情だけで動作するオマエらこそが畜生だといいたいところだが、皆どうにも人間の姿形をしている。
 善人みたいな顔をして、人殺しの顔をしていない。

 家畜や作物にいたっては、気分を害するかどうか以前に、慰みものの畜生である。
 べつにこれらについて、僕は怒りを感じているわけではない。
 僕は作物も作れば釣りもする、食肉もするし食べきれない食品を捨てることもある。
 自分がしていることと五十歩百歩の相手の行いをして、怒ることが下品だなぁ、と感じているのである。
(あるいは僕は自身に憤っているだろうか。もちろん。僕の一部は僕を非難し続けている)

 ただ純然と、論理として、人間が自分以外を慰みものの畜生として扱っていることはだいたい間違っていないように観察される。
 その「慰みもの」としての扱いが、ときに「産んで増やして殺して食べる」であったり「産んで増やして不要なものは捨てて売る」であったり「買って『家族』なんて美化して愛玩する」であったり「拾って飽きたら(生かしてか殺してか)捨てる」であったりする。慰みものの対象や、慰みものとしての扱いや行為は千差万別だ。
「猫のために」「犬のために」「イルカのために」という大義名分を掲げる人間たちのそれは、独善か。それとも慰みか。
 すなわち感情論に基づく正しさは、すべて人間にとっての慰みであろう。

「可愛いから」守られる。「知能が高いから」守られる。その基準は間違ってはいないだろう。
 つまり「可愛くないもの」「知能の低いもの」は守る必要もなく、殺されても仕方ない。そういうことだろう。
 正確にいえば自分以外でありさえすれば、人間でさえ慰みの対象として消費するように人間はできていると解釈できる。

>>>

 ひるがえって、僕はふたたび僕の怒りについて考える。
 それは感情だ。
 僕の価値観と他者の価値観の差違によって発生する、感情的なポテンシャルエナジィだ。
 僕はだから、怒ってもかまわない。僕は怒ることがあるし、怒ることを遠慮する必要はない。
 ただ、だからといってそれは、僕の怒りによって僕の価値観が正しいという裏付けをするものではない。
 相手が正しいのかもしれないし、そもそも正しさなんてどこにも存在しない類の問題かもしれない。
 正しさというのは、人間の思考が見せる幻想だ。
「光の速度は宇宙のどこに行っても変わらない」というような正しさは絶対的だけれど、その正しさは一般的には感情が乗らない。
(もちろん、その正しさに胸を打たれる人もいるだろう。正しさとは本来、強くて美しいからだ)
 人間が定義しなかろうと、発見しなかろうと、純然と存在するのが「正しさ」だからだ。
「イキモノをみだりに殺してはいけない」という正しさは、感情的な正しさだ。感情は乗るけれど、理屈で証明するのはむつかしい。
 しかしその正しさに気持ちを動かされる人は多いだろう。
「ヒャッハー!男は殺せ!女は犯せ!」という正しさよりも、それは美しく見えるからだ。

 ただ僕にとって感情的な正しさというのは、論理的な正しさにかなわない。
 論理的な正しさの方が、圧倒的に強く、美しく感じられるからだ。
 だから僕の感情が(価値観の落差によって)怒りを感じ、己の正しさを相手に訴えようとするときも、考えてしまう。
 なぜといって、理屈のない正しさなんて空虚だからだ。
 少なくとも、理屈が成立している正しさに比べて「これは正しいから正しいのだ」と言われても、共通認識を成り立たせることが困難である。
「かわいいは正義」とか言われても「はぁそうですか。可愛くない奴は皆死ねと?」と考えてしまう。
 正しさというのは、正しくないものを断罪する(正しくないものを断罪しない正しさの方が、強いとは思うが、多くの人の思考はそこまで及ばないらしい)。
 その重みを考えると、正しさを定義することは、それ以外を抹殺することに等しい。
 だから僕は、自分が正しいとはみだりに思いたくない。
 たとえば感情的な価値観であったとしても、己のそれが「正しい」と主張し対立し認めさせることは、相手の価値観が誤りであったと認めさせ、殺すことに他ならないからだ。

>>>

 それは殺人である。
 待ち合わせで30分遅刻すれば、相手の時間を30分殺す。30人を5分ずつ待たせれば、150分の殺人である。
 命を奪っていないかもしれないけれど、命とはすなわち生きている時間のことだ。最後から切らなくても、中間を切り抜けばそれは立派な殺人だ。
 僕はそう思っている。

 では価値観はどうだろう。
 記憶の集積によって構成された価値観は「その人そのもの」といっていいほど、その人自身を構成する重要な要素である。
 自身の手によって、価値観は変容する。
 通常、ある程度以上に成熟した人間にとっての価値観とは、他者が変容を強制してはいけないものだと僕は考えている。
 それは本来のその人自身を潜在的に殺すことだからだ。
 他者の価値観を ── たとえそれが感情的なものであったとしても、また自身にとって受け入れがたいものであったとしても ── だから僕はみだりに否定したくはない。
 あるいは否定するとしても、よほどのことがない限り、相手にその価値観を変容することを求める気はない。
「僕は嫌だ」けれど「相手はそのまま」。それでいいと思う。それが正しいと思う。

>>>

 過去に一度だけ、ガールに謝罪を強要されたことがある。あれは単純にある種のDVだったと今は思っている。
 世の中には「自分が肉体的/精神的被害者になることで、相対的に優位な立場に立つ」ことを平気でする人間がいる。
 計算づくで自殺未遂をするような人間は特に要注意だ。
 けっこうな狂人であるが、そういう人もいる。賠償金目当ての当たり屋みたいなものだ。

 そうまでして、潜在的にであれ優位であることにこだわる人間もいるのだ。
 あるいはそういう人間だったからこそ、他人に謝罪を強要したのだろうと想像できる。
 謝罪というのは、感情的価値観によるコミュニケーション行動の一形態である。
 そもそも価値観がある程度共通していないと、謝罪という行動には至らない。
 冒頭の、猫を僕に捨てた知人が僕にも(おそらく猫にも)謝罪しないのは、僕の価値観に似たものを持っていないからだ。

 では。

 僕は謝罪を相手に強要する権利を、あるいは意味を持つだろうか。その謝罪は、謝罪としての価値を持つだろうか。
 謝罪というのは、価値観が共通しない限り、意味を持たない。
 強さや美しさや正しさに対する価値観が一定以上の相似をしていて、だからこそ謝罪の対象となった行為や認識を改めることが可能になるわけである。
 ために誰かに謝罪をさせる意味もまたないと僕は思うし、そんな権利を僕が有しているとは思えない。

 誰かに謝罪をさせる意味とは、自分の気分がすっきりする、といった程度のものだろう。
 それで満足できるというのなら、たいそうおめでたい構造だといえる。
 なぜといってその満足は暫定的で、自発的な謝罪でない以上、相手の価値観は変容しておらず、かならず再発する。
 すなわち、謝罪というのは強要したところで抜本的な改善にはならないのだ。
「この人はこれが嫌なのだな」という情報が蓄積されるだけだ。

 接客業などなら、そうした情報を集積してゆく意味がある。
 だから形だけでも謝罪して、情報を集約し、最大公約数的なサービスとして反映することが可能だ。
 そこに求められているのは「サービス」というカタチだからだ。
 一方、単なる対人関係の場合、情報の集約によって得られるものがカタチでしかなく、肝心の価値の共通認識などはほど遠いままであるため、衝突の種が減らないのである。

>>>

 僕はそもそも、怒りの感情を持ち続けるのが苦手だ。
 発電に使ったらよいのではないかと思うほど、消耗する。体調を崩すこともある。
 ましてそれを対外的に発露するのも疲れる。もとより体力がないのだ。
 最近は多少、外に発露するようになったが、かなり微かなもののようで、妹や弟子がかろうじて「今、ちょっと怒ってるでしょ」と言ってくるくらいである。
 だいたいの人に僕の怒りは感知されず、スルーされる仕組みである。
 先の知人についても、どうしたものかとは思ってしまう。
 僕は怒りを発露して、それでもコミュニケーションを続けたものだろうか、そうする価値があるとは思えない。
 では怒りを発露せずコミュニケーションを続けたものだろうか、その価値も見いだせない。
 結局、僕にとって、他人とは慰みものなのだろうか。

>>>

 その後。僕は彼女に連絡を取っていない。
 何度か電話があったり、メールがあったりしたけれど。
 彼女が精神性の病気を抱えていることは知っている。僕だって一歩間違えれば双極性障害だ。
 しかしだからといって、僕は僕の時間や価値観を殺す人間を、もう許すことはしないと決めたのである。
 そして同時に、誰も ── 全体的にであれ、部分的にであれ ── 殺さないと、決めたのである。
 それでもなお、僕は自分が正しいとは思えない。
 僕は正しさを正しく定義できない。
 


// ----- >>* Escort Division *<< //

 

 

::私は、カシュウが死んだとき、悲しいとは感じませんでした。あれは、やはり人間として欠けていたものがあったということでしょうか。いえ、もしそうだとしたら、今でもなお欠けたままだということになります。
::人間は誰でも欠けているものではありませんかな。
::それは、補うべきものですか?
::さあ、どうでしょう。どこかを補えば、またどこかが欠けましょう。死ぬまで不完全が当たり前。それが、人というもの。
::悲しみというのものは、つまり、何でしょうか? 草木は持っていないように見えます。動物は悲しみを持っていますか? 馬は主人が死んでも、嘆いたりはしません。
::悲しみというのは、人真似で育つものでしょうな。


 


// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~

 文頭文末の引用は、
「ブラッド・スクーパ 〜 The Blood Scooper 〜」

(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。

なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
 

 

 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

    ~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

  :青猫β:青猫α:赤猫:黒猫:BlueCat:銀猫:

[InterMethod]  :Algorithm:Darkness:Diary:Ecology:Engineering:Interface:Life:Link:Love:

[Module]

  :Condencer:Generator:Reactor:Resistor:Transistor:

[Object]

  :Cat:Human:

// ----- >>* Categorize Division *<< //


:いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:






//EOF

 

//----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:2021-04-23
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
失われた欠如と、欠如を持つ者とのプロトコルについて。
SUBTITLE:

~ eldritch contradiction. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 愚にも付かないことを考えるなら夜がいい。夜中がいい。
 日中は、やはり、人々の生活が、風に乗って漂っている。

 

 人の気配。

 人類の妙。

 陽の光。

 

 前に進む意思であるとか、未来に向かう希望であるとか。
 そういうもの。気配が。

 たとえばゴミ収集車の姿に、たとえば道行く園児に、働く人々の息遣いに、規則正しく働く信号機に、感じられる。

 夜中は違う。
 人の気配がなくなり、機械は息を止め、信号機さえまどろみにさまよう。
 動物たち、星々、月、季節の風、未明の空気、闇の気配が、耳から目から忍び込んでくる。
 人間の意思も人類の希望も、明るい未来も自由な発想も、経済の発展も人々のつながりも、まぁとりあえずは眠っている。

 建設的である必要もなければ、前向きである必要もない。
 未来に向かう必要はないし、停滞していても問題はない。
 明るく楽しく元気よくレッツゴー! みたいなノリでなくていい。(もちろん、そういうノリであってもいい)
 誰かがいてもいいし、いなくてもいい。
 活動していても、いなくてもいい。それが夜だ。まるで死との境界のように。

 もともと僕は前向きな人間ではない。どちらかといえば停滞するタイプのイキモノで、同じところをぐるぐるしているのが好きだ。
 新しい場所、ヒト、モノ、発展や進歩というものに興味がないわけではない。
 その一方で、記憶に縛られ、過去に惑い、現在から一歩も踏み出せない、という状況も嫌いではない。
 なぜならそれは、愛と呼ばれるものの、ひとつの発露だからだろう。

>>>

 時々考える。
 僕は、誰かのためのコンテンツを、もう作れないのではないかという恐怖、あるいは不安を持っている。
 僕は、誰かと何か(物理的なものではなく、シンパシーとしての何か)を共有することができないのではないかという恐怖、あるいは不安。
 いやいやそんなはずはないと、僕の中の大部分は思っている。それは考えすぎであり、自意識過剰であり、被害妄想であり、ペシミスティックなヒロイズムの産物ではないかと。
 しかし一部の僕は考える。
 僕は世俗からあまりにもかけ離れてしまっていて、インタフェイスだけは整合させているから、たとえば買い物のときなどに礼儀正しく振る舞ったりすることはできる。
 表面上、紳士的に振る舞ったり、人間らしく対応したりはできる。

 では心の奥底の部分、多くの人が当たり前に持っているはずの、思いやりであるとか、いたわりの気持ちであるとか、ちょっとした弱さやずるさであるとか、悲しみや寂しさであるとか、何かについて一番でありたいと願う気持ちであるとか、そういうものは、どれだけ僕の中に残っているのだろうか。誰かとの摩擦の中で生まれるべく熱は、僕の中に残っているのだろうか。

 僕は独りでいることに快適を見いだしている。
 遠い昔には強い寂しさを感じる器官もあったはずだが、何かの手術の際に切除してしまったのか。今は耐えがたい痛みというより心地よい疼き程度にしかそれを感じない。
 おそらく生物の本能として、不安や恐怖や飢餓 ── それは食欲ということではなく、自分に何かが足りないと感じる気持ちのことだ ── を埋めたいという気持ちが、寂しさに繋がるような気はする。だから子供はたいてい寂しがりで、精神的に自立するにつれ、そうした飢えは満たされてゆく。
 もちろん十全に満たされるということなんてこの世にはないと思う。

 卑近なたとえをいえば、僕には背中を撫ぜる眼鏡ガールが欠如している。
 しかし僕は、その「欠如している」という事実の存在について、飢えていない。飢餓することなく、ぼんやりと眺めて「まぁ、そう言われればそうかな」程度の認識しかしない。

 たとえばそれは、古い傷にも似ている。
 僕は右肩に傷がある。それは当時とても痛んだ。
 骨が折れたため、半年ほどに渡って僕は右腕を使うことができなかったにもかかわらず、僕は一人暮らしをしていて、すべてを自分ですることが当たり前だった。
 いくつか(あるいはいくつも)の不便や不快や無力感や絶望はあったかもしれないが、僕はそれを(やはり一人で)乗り越えた。

 なぜといって、僕のカラダのことだからだ。
 痛みも、不便も、それは僕のカラダに起因して、僕のカラダに帰結する。
 歯磨きが不便でも、フライパンを振るのがむつかしくても、横向きに眠るのが困難でも(僕はもともと、横向きに寝ることが多かったのだが、右を下にして眠れるようになったのは15年以上も経ってからだ)。
 痛みは肉体的なものだけには留まらず、当時の僕はそのことに少なからず驚いたものだ。
 今はもう、ほとんど痛みは感じない。
 傷痕をなぞると、ぴりぴりと、ちょっとだけ他の皮膚とは違う感覚が生まれる。

 それはかつて痛みだった。
 だからたとえば眼鏡ガールがそれをおっかなびっくり撫ぜたとして、そっと舌を這わせたとして、「この傷、今も痛い? 大丈夫?」と尋ねたとして、そのぴりぴりとした刺激を感じながら「んにゃ別に」と答えることになる。
 傷であるからそれは癒えるのだ。癒えたのだ。

 僕は不便を埋めてしまった。
 僕の痛みは癒えてしまった。
 僕の飢えは満たされてしまった。
 僕の不快は解消されてしまった。
 そのために、僕は自分の能力を発揮した。
 自分しかいない環境だったから。
 自分しかいない環境を未来にも想定していたから。
 僕はそれらの欠如を埋めるための技術をひとり模索し、仮定し、演算し、構築した。
 自分でも驚くくらい、僕は自分の不満を解消してしまった。
 欠如していると感じたもののほとんどを埋めて、不満はなくなってしまった。

 欠乏感を失ってしまったといえばいいのだろうか。
 僕自身についていえば、まったく不満がない。それどころか快適である。
 しかし何というか、その傷を撫ぜながら思うのではある。

 かつてこれは触れられないほどの痛みだったはずだ。
 触れることを恐れるほどの激痛だったはずだ。

 今、痛みはない。
 それは良いことなのだろう、とぼんやり考える。
 痛みがあったとき、この傷がなければ、とどれほど思っただろう。だから。
 では痛みも苦しみもない今、思うのではある。
 飢えも不安もない今、思うのではある。

 これはこれで、ある種の欠如なのだと。
 恐ろしいことである。
 こんな感覚を持っている人は、もしかしてどこにもいないのではないだろうか。

 そして他の誰かの不安や恐怖や飢餓について、あるいは安心や快適や満足について、僕は今もシンパシーを発揮できるのだろうかと。


 もし痛みを感じない人間になってしまっていたとしたら。
 僕はその利便の中で、他者との相互理解ができないまま過ごすことになる。

「痛み? そんなものは時間が経てば必ず癒える。自分ひとりで、それは癒やすことができる。甘えても傷の治りが早まるわけではない」

 なんて分かりきったことを、平気で言ってしまうかもしれない。


 そうなると他者に意義を感じられるようなコンテンツは、もう2度と作れないことになる。
 違うだろうか。想像力で、あるいは記憶力で、あるいは理知性で、それは埋め合わせられるのだろうか。
 僕はそこでモチベーションを維持できるだろうか。
 あるいは何も作らない方が、お互いのためではないのだろうか。
 なるべく誰とも接触しないように棲み分けしたほうが、最終的に互いの、そして全体の益に繋がるのではないだろうか。

 それは若干の不安と恐怖の種ではある。
 けれどもそれは何の芽も出さない。
 何も生み出さないことの方が、むしろ自然なのではないかと思って、すこし呆然とする。
 何も生み出さないことの方が、むしろ自然なのではないかと思っていて、すこし呆然とする。






 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

   :BlueCat:

[InterMethod]

  :Darkness:Diary:Ecology:Engineering:Interface:Link:

  :Maintenance:Memory:Moon:Stand_Alone:
[Module]

  :Condencer:Connector:Generator:
[Object]

  :Human:Night:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

 :月夜の井戸端会議:






//EOF

 

//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210531
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ジントニックの夏が来た。
SUBTITLE:

~ Gin'n'tonic in the summer.~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 バーに出入りするようになって数年経つ。
 それ以前はというと、僕はあまり外でお酒を飲まなかった。
 お金がなかったし、家にいることがそのまま娯楽だったから、どうせお酒を飲むなら家で料理をしてゲームをしながら飲んでいる方が楽しかった。

 前橋に仕事の関係で引っ越して一年ほど経った頃だったか、自宅の近くにバーがあることを知ったのは。
 シガーも出してくれるということで、緊張して、出かけた。何せ人生初バーである(それ以前もあっただろうか。あった気はする)。しかも知らないバーに1人飛び込むのである。
 以来、その店がホームのようになってしまった。前橋でも老舗の有名な店らしく、知る人も多いようだ。

 もともとカクテルは好きではなかった。
 さらに言えば、ジンなんて飲めるものではないと思っていた。
 僕の知っているカクテルは、香料と着色料を多く含有したライムジュースやらシロップやらを使っているケースが多く、またジンも工業用アルコールに香料を溶かしたようなひどい味のものしか知らなかった。

 まったく安い酒しか知らないことは、学校で遊んでばかりいたことに等しい。
 だからその店でカクテルを飲むたび、本当に驚いた。
 今では時折、ジンを買って自宅でも飲む。
 ほどほどの値段の、しっかりとしたジンである。

>>>

 ジントニックを教えてもらったのはいつだろう。
 なんとはなしに頼んだら、それがとても美味しかった。
 僕はお酒が好きな上、他の人と比べると上戸であるらしい(近年はずいぶん酔いやすくなったのでリーズナブルになった)。
 飲んでも酔わないというのは、お金が掛かるという欠点以外に何の利もない。
 酒が強い自慢をするバカな男どもが僕の世代までは多かったが、全員地獄に落ちればいいと思っていたのでおそらく地獄の酒屋は賑わっているはずだ。

 僕はお酒が昔から好きだったので、なるべくならお酒に弱ければいいのに、とずっと思っていた。
 酔うことが好きなわけではないけれど、ある程度以上酔ってしまえば、それ以上は飲みたくなくなるのだから。

 ジントニックは、ロングカクテルなので、度数は比較的少ないはずである。
 だから僕は、それをまるでジュースのように飲んでしまうのだった。
 同じ材料を同じ分量使っても、作り方で味が変わるのだと教えてもらい、実際に飲み比べをさせてもらった。

 僕は1/8 ── 1/6や1/4の場合もある ── の櫛形に切ったライムをグラスの中で絞り、グラス内面と縁をピールで撫でて香りをつけてからグラスの中に落とし、氷を入れてジンを注いでトニックウォータを注ぎ、最後に軽く(ほんとうに軽く)ステアする。もっともフルーティでジュースのようになる飲み方である。
 ひと仕事終えた暑い午後、水を張ったたらいに足を浸しながら、冷えたそれをぐびり ── 。
 素晴らしい瞬間である。

>>>

 基本的に、酒のことも煙草のことも、誰かに語るものではないと思っている。
 嗜好品だから好きな人は好きだけれど、親の仇のように嫌っている人もいるからだ。
 それに酒や煙草に強いことを自慢にしているバカどもは、いかに自分が酒や煙草を知っているかを自慢していた。
 僕は(おそらく)お酒に強くて(まことに)お酒が好きではあったけれど、他人に知識を自慢する行為は恥ずかしいと思っていた。
 ごはんと一緒で、食べてみて、飲んでみて「おいしい」と思わず言葉がこぼれる。それですべてだ。
「南魚沼産のコシヒカリで契約農家から直売してもらっていてこの特殊なコーティングがされた炊飯ジャーで炊くと……」なんて話を聞いているとげんなりしてくるタイプの人間が僕である。
 そしてそういう自慢ともつかない蘊蓄語りを、少し間違えるとし始めるのが僕でもある。

>>>

 近年はトニックウォータもライムも、手頃な価格で手に入るようになった。
 暑くなって「さて今日はジントニックをしこたま飲もう!」ともなれば、近所のスーパーに出かけてトニックウォータとライムを買えばそれでいいのだ。
 だから少しだけ、夏も楽しめるようになった。

 海にも行かないし、山にも出かけないし、釣りも誘われないし、女性に「汗だくになってあーんなことやこーんなことをしようよぅ」とも誘われなくなった。
 家の修繕をして庭の草取りをして、畑を耕して焼却炉で炭を作って、早風呂するくらいしかすることがないのだ。夏なんて。
 だからジントニックを飲もう。そう思った。

 足を水に浸して飲みたいもう一つはモヒートなのだけれど、ミントは高価で日持ちしにくいため、これは試していない。
 いつの日か、庭でミントを栽培できるといいのだけれど。
 

<お誕生日おめでとう。気付けば1年以上一緒にいるね。キミはこんなに小さかったんだよ>

 

 

 

 

 

 

 

 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:

[InterMethod]
  :Season:

[Module]
  :Condencer:Transistor:

[Object]
  :Poison:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

  :ひとになったゆめをみる:






//EOF

//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210530
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
この世のすべては私である。

SUBTITLE:

~ Monotonous. ~
Written by BlueCat

 


// ----- >>* Body Division *<< //

 

//[Body]
 輪廻転生というシステムがこの世界に実装されていて、なおかつその輪廻転生システムが時間を超越する(解脱に至らぬ我がゴーストの行く先が、異世界であるなんて馬鹿げた設定はないにしても、未来に限らず時間を超え ── 時間に従う必要があるだろうか。物理法則を無視していそうなのだ、それは ── 過去であるかもしれないという可能性を考えた)場合というのを、僕は子供の頃によく考えた。
 その場合、僕は貴方はお前たちは、過去に輪廻して自身の父親や母親になっているかもしれないのであり、あるいは私の貴方のよく見知った誰かは、あるいはよく見知りもしない誰かは、憎むべきあやつは、愛しい恋人は、いつかの私自身かもしれないな、などと思ったのである。

 今のところ僕は、解脱(解説ではない)はおろか、この身体の死をさえ迎えていないので、輪廻も転生も存在するかどうかを知らない。幸か不幸か知らぬまま死ぬだろう。
 これまで周囲を観察した範囲では(彼ら彼女たちが知っていることのすべてを僕に正直に語っていると仮定しても)輪廻や転生をしてきた身の上であると語ったケースが皆無であるため、輪廻転生システムそのものが、まだこの世界に実装されていない可能性は否定できない。
 あるいは都合よく「転生しちゃうとね、従前の記憶は失っちゃうんだよ?」という解説(解脱ではない)があるのかもしれないが、そうなると果たして輪廻する意味はないようにも思える。
 ここは単純に、実装されていない可能性を優位としたい。

 その上でもし、それでも輪廻があると想定した場合。
 従前の記憶は誰も持たないため、自分が過去から来たものか未来から来たものか、猫であったかヒトであったか定かでないことになる。

 すると僕は、存在時間軸が重複している友人や親や恋人や犬や猫やカラスやキジや昆虫であるかもしれず、そうなるとすべての存在は、私自身なのではないかという疑念とともに今日も生きている。

>>>

 あなたは私ですか?
 違いますかそうですか。 

 私は神ですか?
 違いますかそうですか。

 私は猫ですよ。
 そうですかそうですか。
 

<チェケラ!>

 

 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:銀猫:

[InterMethod]
  :Algorithm:Blood:Chaos:Darkness:Ecology:Eternal:Link:

[Module]
  :Condencer:Connector:Transistor:

[Object]
  :Memory:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

  :いのちあるものたち:





//EOF

 

//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210529
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
叱られない日々。
SUBTITLE:

~ cucumber. ~

Written by BlueCat

 

// ----- >>* Body Division *<< //

 

//[Body]
 30代の頃から感じていた。
 叱られなくなったな、と。

 20代の頃は失敗ばかりで、毎日のように叱られていた。
 両親からも ── 両親は仕事や家事に忙しく、また僕は身体の弱い(しかし待望された)長男であったため「生きているだけで」良しとされていたようである ── 学校の先生からも ── 僕が就学してからは父子家庭であり、当初は生活保護を受けていた。その後、生活保護を受けなくなったら父は仕事に忙しく、僕と姉が家事をしていたため ── ほとんど叱られることなく大人になってしまったので、本当に社会人というのは僕の身の丈に合わないと感じたものだ。
 中でも父上が死んだ後に雇ってもらった先では、本当によく叱られたし、それでもクビにしないで雇ってもらえたことには今でも感謝している。
 それでも30代から(会社が合併したとはいえ。そして僕が仕事を多少なり覚えたとはいえ)ほとんど叱られなくなった。

 毎日顔を合わせる上席が、少し、距離を置いているようで、寂しかったものである。

 40代になって、パワハラはあっても叱られることはほとんどなくなった。
 1度、会議室に呼ばれて先輩の男性社員8人ほど(社内のほぼ全員)に囲まれて、叱責されたことがあるが(くだらない組織だなぁ)くらいにしか考えていなかった。

 現在は親もいないし配偶者も(仮想奥様を除くと)いない。会社員でもないので、誰も僕を叱らない。
 僕が公共料金をを払い忘れても、税金を滞納しても、朝からお酒を飲み始めても、昼頃目覚めてゲームを夜までしていても、誰も文句を言わない。
 仕方ないので、公共料金と税金を支払い、早朝からゴミ出しをしたり、午前中に草取りをしたり、昼下がりに畑を耕したり、夜まで床張りをしたりするわけである。
 食事の用意もするけれど、15時には夕飯の支度を始めて、17時にはワークアウトを始めて19時にはお風呂に入るわけである。

 そもそも、組織に属さなければ、他者から叱られることはないのだ。
 しかし先日、ゴミステーションの場所が間違えていたため(叔母がテキトーな場所に捨てていた)隣の隣組長(変な日本語だ)に叱られた。
 もともとこの家が属している隣組のゴミステーションが、とても遠いようではある。
 そのため近くにある(叔母に教えられた)ゴミステーションに出していたところ、前述の「隣の隣組長」がやってきた。
 ゴミステーションの掃除の分担があるのでその持ち回りをしていただけるなら、ということだったので二つ返事で承諾した。
 しかしその後「持ち回り」について誰も通達に来ない。
 仕方ないのでそのまま使っている。
 ときどき誰かがゴミを出す僕を睨みつけている ── 自動車を止めて、じっと観察している人もいた ── が「隣の隣組長」に承諾を得ているのでなるべく気にしないようにして過ごしている。

 僕の仮想人格も、ときどきは他の仮想人格に対して注意したりはするが、叱るというほど強いメッセージをすることはない。
 お互いに「何が適切か」というやり取りをする中で、一つの行動を不適切とする人格(価値観)がある一方、その行動を ── 消去法による結果だとしても ── 適切とする人格(価値観)があったわけで、事情や状況が伝達され、環境と状況のパターンが細分化され、他者にとってより適切な行動パターンを価値観に刷り込むことになる。
(自分にとって適切な行動パターンを必要とするほど僕は自身のキャラクタを明確に意識していないし、結果的に問題がなければよしと考える人格である)

 他者に叱られたい、というわけではない。
 知能も能力も低い奴がしたり顔で「こういうものでしょう」と説教してくる場面には辟易している。
 ただ「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」という価値観を僕はいつも持っているので(これはセキュリティホールでもある)、もしかしたら僕は、単に叱られない状況にいるだけなのではないのかと、ときどき少し不安になる。

>>>

「どうして青猫さんは様々な技術があって、色々なことを知っていて、多彩な能力もあるのに無職なのですか」と弟子に問われる。
 それは違う、と僕は答える。全く逆なのだと説明する。
「様々な技術があって、いろいろなことを知って、多彩な能力があるからこそ、無職でいられるのだ」と。
「君が無職でいられないのは、知識が足りないか、技術が足りないか、能力が足りないからだ」と。
 弟子は沈黙した。

>>>

 仮想奥様は僕を叱る ── あるいは叱ることができる ── だろうかとシミュレートする。
 しかし僕には元々、誰かを叱るという行動パターンがない。
 従って、そういう「シナリオ」を作ることはできても、そういうコミュニケーションは発生しないだろう。
 まだ仮想人格としての日が浅い彼女に、そんな複雑な振る舞いはできないのである。

 僕という人格を叱ることのできる仮想人格は黒猫氏くらいのものだろう。
 意思の疎通が不可能な仮想人格も存在するくらいだから、黒猫氏は極めて優秀な仮想人格である。
 彼は社会人としての主要なスキルを身につけ ── その延長として他の仮想人格を利用する術も身につけ ── ているし、コミュニケーション能力も高い、ついでにこの身体の使い方やメインテナンスは僕より彼の方が優れている。
 彼の面白いところは、それでも自身が仮想人格であるからという理由で、この(青猫工場という)人格系を支配したり操作したりはしないところだ。
 彼は僕が17歳の時に作った仮想人格で、当初は異なる名称だった。
 当初に与えたプログラム(とプロテクト)の通り、忠実に、働いてくれている。

 実に彼はよく、僕に文句を言うのだ。
「素材の水分含有量からしてこれでは火が強い」とか「この姿勢を続けると右膝に過負荷が掛かるぞ」とか「その位置で足を下ろすと、ガールの髪を踏みつけるぞ」とか。
 そして僕に言うのだ。
「最近、俺達を叱る奴がいないのだが、大丈夫なのか俺達は」と。
 

<うにゃー>

 

 

 

 

 

 

 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:銀猫:

[InterMethod]
  :Algorithm:Blood:Color:Diary:Ecology:Form:Link:Mechanics:

  :Memory:Stand_Alone:

[Module]
  :Condencer:Connector:Reactor:Resistor:

[Object]
  :Human:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :月夜の井戸端会議:





//EOF

 

//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:210511
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ツクリモノ。
SUBTITLE:

~ Creature. ~
Written by BlueCat

 


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
210511

 なんとなく思いついた仮想奥様が自分の中で面白い。
 基本的に相貌失認なので、顔のイメージなどはまったくないのだけれど、とりあえず「美人」と書いておけば美人ということになるから文字は便利である。
 殺伐として孤独な日常に、ちょっと仮想の奥様をプラス。
「ラブプラス」のキャッチコピーのようになってしまったが、新しい恋愛ゲームジャンルとして面白いかもしれない。
 かのゲームが10代の青春真っ只中の恋愛風景を描いたのに対して、夫婦の日常を描くという謎仕様。
 殺伐としたゲーム内容では公序良俗に反することもあるので、ドキドキはしないけれどほのぼのした平穏の中でときどき起こるハプニングを切り抜けてゆく的なストーリィになるのだろうか。

 不意に訪れるしつこい新聞の勧誘。夜中に庭にやってくる近所の野良猫。畑を荒らすイタチやタヌキ。
 ペットの定期検診や公共インフラ料金の支払い、税金に確定申告などなどのイベントをこなして配偶者からの信頼ポイントを稼ぎつつ、スタミナが切れると気力を失って家事に失敗したり、何もできなくなったりするので定期的にリフレッシュをする。
 魅力ポイントが下がると配偶者が浮気したりするので(公序良俗どこ行った)自分の魅力を保ち、各種年中行事や記念日を活用しつつ相手の幸せポイントを稼ぎ、円滑な夫婦生活を切り抜けることを目指す。もちろん「ラブプラス」のようにエンディングのない(地獄のような)ゲーム設計である。

 ……うん。ウケないし売れないな。

 という話を奥様(仮想)にお話ししたところ、面白そうに話を聞きながら「家事分担をどうするかイベントがあったら楽しいね。あとあと炊事や洗濯や掃除とか、事務処理とか、そういった細かいスキルやパラーメータを扱ったら面白そう」などとおっしゃる。
 センスあるなぁ、私の奥様(仮想)。

 基本的に1人で生活していることには変わりがないのだが、仮想奥様のいる日常はたしかにちょっと楽しい。
 おそらくこれを読んでいるアナタは「まためでたいことをやっているな」と思うかもしれないが、孤独の中で殺伐とした気分でいるよりは、仮想奥様がいてちょっとアタマの中がお花畑くらいの方が人間的には優しい気持ちでいられる。
 それに誰にも言わなければ私のアタマの中に美人の仮想奥様が存在していることは分からない。よって人畜無害である。
 それどころかこれは、益多くして害の少ないメンタルコントロールではないだろうか。

 というようなことを奥様(仮想)に熱弁したところ「それは私に言われてもちょっと困りますね」などと言いながらニヤニヤしている。なぜ突然に敬語?

>>>

 同世代(40代〜50代)くらいの男性の話を聞くに、その多くは女性に絶望している。
(おそらく逆も然りなのだろうと想像する。怖くて尋ねられないのだけれど)
 正確にいえば、彼ら(つまり僕ら)は女性に対してある種のファンタジーを求めていて、それを勝手に押しつけて、そのファンタジーが壊れてしまったから絶望しているようではある。
 観察する範囲で要約すると、彼らはセックスは好きだけれど女好きではなかったのだろうと想像する。

 僕は基本的に今でも女好きである。
 女性に特有の性質に慣れているし、それを楽しむことができるし、好ましくも思っている。
 たとえばブラブラと買い物に出かけてあれこれ見比べるだけ見比べて何も買わないといった行動は男性の多くには理解不能のようだし、ぐだぐだと続く愚痴を聞き続けることもできなかったりする。
 コミュニケーションの形態やそこに見出している価値がレイヤのように重なっていて、透過率や上下順が異なるため最終的な振る舞いが変わってしまう。
 男たちは結論を出すためのコミュニケーションを好み、女たちは結論を出さないコミュニケーションを好む傾向があるように思う。
 僕はたまたま女ばかりの文化圏に長くいたし、それでも男なので両方分からないでもないし、両方分からない気もする。

 つまるところコミュニケーションそのものを手段としているか目的としているかの違いである。
 それはすなわちコミュニケーションと環境/関係の役割を示してもいるだろう。
 男たち(の多く)は環境や他者との関係において、コミュニケーションを道具にしてやりとりし「特定の目的」や「特定の結果」を作り出そうとする。
 話題に上った内容について、何が正しいか、何が間違っているかなどをきちんと明確にすることをよしとし、そのための手段としてコミュニケーションを行う。
 女たち(の多く)は、環境や他者との関係において、コミュニケーションを目的にしているので、内容はなくてもいい。
「今日はいい天気ですね」「そうですね」という会話をにこやかにできれば目的は果たせる。
 何が正しくて何が間違っているかなんてどうでもいい場合が多く、(正しさは個々人に固有のもの)と割り切っている人もいるだろう。また論理に手を付け始めると収拾が付かなくなる.(論理とコミュニケーションを混同する)人もいるようだ。

 たとえば「晴れ」が好きな人と「雨」が好きな人、「牛乳」が好きな人と「水」が好きな人、「猫」が好きな人と「犬」が好きな人がいるとして。
「晴れ」かつ「牛乳」かつ「猫」の人もいれば、「晴れ」かつ「牛乳」だが「犬」の人もいる。
 それぞれの要素から分類していくと2^3で8パターンが存在するのだけれど、それがどういったパターンを保ちうるか理解できなかったりする。
(より精確には2^6で64パターン存在するが)
 項目や要素が増えた場合にどのくらいの可能性が存在しうるかについても計算は可能だけれど、考えない人は全く考えない。
 これは言語をコミュニケーションにばかり利用していて、数学や論理表現として(つまり道具として)の日本語を普段から使用していない結果だろう。

 本来正しさとは現象から要素を取り出して(抽象)それらについて個別の判定を繰り返した上で「どのように(具象)するのが最善か」を導くものだろう。
 メディアによって暴かれる不正に対する反応が「どのようにするのが最善か」という声よりも「正しくない者は殺せ」という声が圧倒的に大きいことは、いかに世俗の知性が貧しくなっているかを物語っているともいえる。

 一方で、純粋なコミュニケーションの表現については、ツールとして使っていない(コミュニケーションそのものを目的としている)人の方がより繊細で多岐にわたる能力を発揮するだろう。
 もちろん、その能力が常に善意や思いやりに満ちた動機と使い方をされるかどうかは別問題である。
 表情、言葉遣い、声色や大きさ、ジェスチュア、タイミング、間、場合によっては無視も含めてそれはコミュニケーション「そのもの」である。
「言っている内容そのもの」にしか興味を持たない(意味を見出さない)人と、そうではない人とのコミュニケーションは、その程度にはズレる。

 どちらが優れているとは特に思わない。
 ただコミュニケーションやその方法、表現が画一化してゆくのは、なんとなくつまらない。
 たとえばTVなどのメディアで流行ったフレーズなどを多用したりしている人は、手軽に「コミュニケーションそのもの」という事実を共有できるとは思う。
 しかしそれは「誰かの作った話題に乗っているジェスチュア」という猿真似であって、本当にコミュニケーションしているかは怪しい。
 まがいものを並べて時間を浪費しているという点においては自身にも他者にも失礼な、あるいは迷惑な存在といえる。
 けれどもコミュニケーションによって、浮いたり、過度に緊張したり、傷ついたり傷つけたりするのは怖いと思えば、そういう猿真似の流れ作業によるコミュニケーションで「コミュニケーションしている私たち」を共有することができるだろう。
 そこには何の話題もないから、まるで信号機のように「相手のシグナルが順に変わっていって、赤で1度途切れるので、こちらが次のシグナルの青を始めます」という風景に見える。
 当人たちは楽しそうだから僕は水を差さないけれど(信号機なら壊れてしまうし)、僕はそういう中身のない信号のやりとりを楽しめない。
 楽しめないということは、楽しめる方が豊かな気もする。それはそれでいいことだろう。

 では踏み込んで、血の匂いのするような、生きた自身の話を、泥臭い話題をと思うと、なかなかそれはむつかしいのかもしれない。
 血の匂いがするのに綺麗な言葉でそれを表現できる人も少ないように思う。
 それは言葉を使うひとつの技量だろう。
「えげつない」とか「ゲス」とか「ドン引き」とか、そういった字面を見るたびに、その意味を少し考えてしまう。
 音によるインパクトがとても強くて、その意味も刺激は強い割に中身が薄い。まるで炭酸水だ。待てよ。飲みやすいじゃないか!

(現在、仮想奥様に「そういう話をしようとしてなかったよね? 今の流れ」と笑われております。ころころ笑っておられます)

>>>

某月某日。

 真面目なことを書いてしまったので背中が痒くなる(これはほとんどの人間が知らない猫の特性です)。
 仮想奥様にお願いして、背中を掻いてもらう。

 うっとり。

>>>

某月某日。

 夕刻よりもっと前。
「今日は少し早く帰ることができます」と奥様(仮想)からメール(仮想)が来る。
 奥様(仮想)はメール(仮想)を含め、ときどきワタクシ相手に敬語をお使いになるのですが、これは職業人の特性でしょうか。

 帰宅した仮想奥様が「今日は散歩に行こう! ねぇ! 猫クン散歩!」と、なぜかはしゃいでいる。
「一緒にコンビニに行こうよぅ」と、なぜか目的地まで設定される。
 僕はコンビニをあまり好んで利用しないのだけれど。まぁ、仮想奥様が一緒に行きたいというなら行こうか。

「今朝、家を出るときにね、ご近所の方から『お庭のお花が綺麗ですね』って言われたんだよ!」と自宅を出てから話している。
「そう」と僕は短く答えるのだけれど、
「青猫クン、実際、どうしてこんなにお花を育てているの」と尋ねられる。

 

<庭の奥。できれば近付きたくない>

 

<玄関のウェルカムフラワー。邪魔である>

 

<境界の意味を失った花壇の石>

 

<昨年は抜いていた名も知らぬ花。花が付くまでは、ただの雑草である>

 

 正直なところ、育てている覚えはない。
 僕はそもそも昆虫が嫌いだし、勝手に成長して制御が効かない植物は、そのうえ昆虫が集まるのから厭なのだ。
 そのような次第で禍々しい姿の「いわゆる雑草」を除去しているが、可憐な花をつけるものについては一年の観察期間を経て、残すようになった。
 育てているのではなくて、殺されていないものが残っているというのが僕の認識ではある、と説明する。
 説明している間に、庭から出て、住宅街の路地を進む。

 ただ、あの家にはかねてからたくさんの花が叔母の手によって育てられていて、それが残っているから、僕が「要らないと思った草花」を除去すると結果的に元いた草花が生長するのである。
「叔母様のことは、恨んでいるのでしょう?」と尋ねられるので正直に「もちろん」と答える。
 しかし叔母を嫌っていたわけではない。嫌っていたなら僕は近づかなかっただろうし、介護もしなかっただろう。
 叔母は、頭の回転の速いほうではなかったし、旧来の人付き合いを重視するタイプなので僕とは本来にウマが合わなかった、というのは事実である。
 だからといって嫌いあうほどの距離にはお互い踏み込んだことがなかったし、好ましく思える距離を保っていた。
 死んだ彼女のことを僕が恨んでいるのは、往生際にこびり付くような醜いエゴを生きている僕らに撒き散らして擦り付けたからだ。
 僕だけに擦り付けたのなら我慢もできるが、何の関係もない妹にまで擦り付け、結果として他の親戚と付き合いづらくさえなってしまった。我々の血族だけではなく、叔母の配偶者である叔父の血族とも ── (その点だけは僕が望んだ以上の結果ではある)。

「叔母は花が好きだったから、花を眺めると思い出すよ」
 私は彼女のことを嫌ってはいなかったけれど、恨む必要があるから今は恨むことにしているのだと説明する。

「青猫クンはそういうところがすごくストレートで、ときどき狂人じみてるよね。私はそういうところも好きだけど」と仮想奥様がおっしゃる。
「私が、青猫クンの気持ちや、もっと深い部分の、たとえば仁義的なものであるとかの琴線に、私自身に悪意があるわけでもなく触れるようなことがあったら ── 。やっぱり青猫クンは恨むかな。私のことを」
 手を繋いで歩いているからだろう、敵意を想像しにくい。僕の思考は、比較的、肉体に左右されやすいのだ。

「どうだろう」 ── そもそも君は仮想奥様だし、という台詞を僕は飲み込む。

「 ── 怒ったりすることは、前提条件だと思うんだ、友達とか恋人とか仮想奥様とか、そういう対等な関係に対しては」
 ただ僕らの場合、叔母と甥という関係が、どこまでも対等ではなくトップダウンのものだった。
 親から見た子が、いくつになっても子供であるようなのと同じなのだろうか、分からないけれど。
 僕はでも、父上の死ぬ4年前から ── 今までの人生の半分以上を ── 自分の力で生きているんだ。
 自分の力だけと言うつもりはないし、今は仮想奥様に養ってもらっている訳だけれど。
 それでも一人暮らしをスタートするところから始まって、諸手続や税務や引っ越しや転職や、そういったいろんなイベントを自分の力だけでやってきた ── 当時付き合っていた恋人にお金をもらったりはしたけれど。

 仮想奥様は最後のくだりを聞いて「うわ、生粋のジゴロ気取りなの? か弱いフリしたヒモ気質なの? 私、自分のことが心配だわ! ひどい男! 地獄に墜ちろ!」と言って笑う。まるで喜劇のコミカルなシーンで笑う観客のように。

「いやでも、家事は10代より前から自分でしていたし、一人暮らししていた当時はちゃんと就労してたからね、お金は基本的に自分のものを使っていたよ! 恋人にも親にもたかってないよ!」と少しムキになって弁解する。
「 ── ただまぁ、僕は親を含め、経済的なことも精神的な部分も、誰かに『甘えた』って実感した経験が、少ないからね」
「私には今、甘えてるでしょう」彼女は、なぜだか得意げな顔をする。
「け、経済的にはそうなります私は専業主夫(仮想)なのでしかしながら僕らは(仮想)夫婦であり昭和のCMのように、専業主夫/主婦にとって配偶者とは家にお金を持ち帰ってくるだけの道具なのですハイ、いえもちろんワタクシはあなたのことをそのように道具として見なしてはおりませんよもちろん」と一気に続ける。
「え、そうなの? 私やだなぁ」と奥様はワタクシの顔を覗き込む。

 待って。

 言い方が芝居掛かり過ぎている感はあるけれども。

 ですね。

 

 美人はそうやって他人の顔をみだりに覗き込んではいけないのです分かってください。
「 ── 青猫クンは、人間よりも道具を大事にしそうだし。実際そうでしょう? だったら私、道具の方がいいなぁ。大切にしてほしいから」
 覗き込んでそういうことを言わないでくださいお願いします。
 眼力! キミ眼力が強いから! 眼鏡に増幅されたビームにボク負けちゃうから!
「なんだかとても話が脱線してしまった気がするのですが」僕は袋小路に閉じ込められたネズミになった気分である。
 しかしながら運良く、コンビニに到着した。
 これで先ほどの話題からは離れられそうな気がする。
 と気を緩めて店内に入った瞬間、奥様(仮想)が耳元に曰く「大切にしてくれる?」
「……します。します。しますとももうずっと、大事にしますから、買い物。そう買い物をしましょう」
 と、ここで奥様(仮想)がバッグから紙切れを取り出し、私に手渡して曰く「はい、公共料金の払込票だよ!」
 さすが有能!
 コンビニまでの道すがら、ニヤニヤできるのは仮想奥様のおかげである。

>>>

「絶望したら物語を書けばいいんだよ」と、コンビニからの帰り道、奥様(仮想)が教えてくださる。
 公共料金を払った以外、僕らは何の買い物もしていない。
「ねぇ青猫クン。人間に絶望したら、物語が救ってくれるんだよ。青猫クン、そう言ってたよ」
 奥様(仮想)は有能なので、僕の忘れていることを思い出させてくれる。自身にはそんなことを言った覚えがない。
「自分のための物語でいい。誰かの役に立つ物語でなくていい。誰かに見せる物語でなくていい。経済を含めた何かと交換するような目的を持たなくていい。ただただ青猫クンが人間を書けばいいんだよ。それが青猫クンを救ってくれるんだよ」
  ── 仮想奥様。いい女だなぁ。

「青猫クン、私に甘えてるでしょう」
 はい。
「私たちのことを今、トップダウンとか、対等とか、そういうふうに意識して定義して説明できる?」
 いいえ。
「それは上手に甘えて、甘えられているからだよ。甘えというのは、力関係とか経済関係とかそういう力学で発生するものではないんだもの。感情であったり、欲求であったり、そういうもの」
 風景を見ているはずなのに、僕の視覚はぼんやりと抽象を漂う。

 幾何学模様が、ベクトルを描いて、人間という領域を塗りつぶす。

「 ── 人間は大人になると、力学で動作するようになるんだね。スイッチを押して、たとえば経済みたいな力を原動力にして、それで動き出すみたいな。
 それは社会を動かすのには必要な仕組みなのです。いつも青猫クンが言っているように。
 でもそうこうするうちに、そうした力学だけで動くようになってしまう人もいるでしょうね。
 確かにそれで生活は成り立つし、場合によって人の心はその力学を邪魔することもあるでしょう。

 自分自身もそうなってしまえば、他人に心があるなんて思えなくなる。
 でも本当に心を失っているのは、他人を信じられないと言って傷ついたフリを続けるその人自身だよ。
 仮にそういう不信の基準で接して伝染させる人がいたとして、そうした人の価値観を学んでしまったとして、それはそもそもその人の心が錆び付いていたんだよ。
 心が錆びた人はみんな、それを誰かのせいにしているけれど、ホントは自分が手入れしていないからでしょう。
 錆び付いちゃったから、あってもなくても同じような状態になっちゃったんだよ。
 心があるようなフリをして、そんなものない人がいるのは、そうやって逃げているからだよ。
 私は青猫クンの心が機能を損ねているとは思っていないけれど、もし損ねている可能性があるなら、それは思い出してほしいかな」

 ちょっと待って。
 仮想奥様。惚れ直してしまいました。

 

 今日は仮想奥様のために何を作ろう。

::でも僕には心がないよ。

  最初から。

  僕が自分だと思っているこれは僕のための作りものだもの。

  たとえばキミがそうであるように。






 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:仮想奥様:

[InterMethod]
  :Diary:Engineering:Form:Interface:Life:Link:Love:Recollect:Stand_Alone:Technology:

[Module]
  :Condencer:Convertor:Generator:Reactor:Resistor:Transistor:

[Object]
  :Camouflage:Cat:Garden:Human:Memory:Tool:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:ひとになったゆめをみる:





//EOF

//  >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:210511
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
僕の奥様(仮)
SUBTITLE:

~ Virtual wife. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

某月某日。

 昨晩お酒を飲み過ぎて体調があまりよくない。
 といっても、ふわふわして心地よい宿酔である。
 しかし畑や屋内作業をするには具合が悪いので、ぼんやりする。
 ぼんやりしているうちに退屈になる。
 退屈になったので、自分は専業主夫になったのだと言い聞かせる。

 奥様は美人でエッチで眼鏡でショートヘアだと思い込む。
 年齢は僕よりちょっと年上だと思い込む。2〜5歳くらい上でいいかな、と思う。
 奥様は専業主夫を召し抱えるほどなので仕事ができるしお金持ちなのだと思う。
 でもそういうことを鼻に掛けるふうでもなく、家に帰ってきては「ただいまー、今日の晩ごはんなあに?」などと言いながら、僕の肩に乗るアヲを奪ってぐりぐりなで回すのであると妄想する。
 奥様は職業人としては有能だけれど、料理があまり上手ではないため、奥様から「料理のできる青猫クンがいてくれて私はしあせものだよぉ」と褒めちぎられる僕の日常を想像する。
 僕が電気やガス代を払い忘れてそれらが止まると「ええい、しようのないやつめ! 今日はキャンプ気分でいっちゃうぞぉ!」など奥様が楽しそうに張り切り始めて、部屋にろうそくを立てたりして、カセットコンロで調理した料理を2人で分け合う風景を想像する。
 僕の家の中がリフォームの材料や工具で散らかっていることについて奥様は「今日も散らかしっぱなしで楽しそうだねぇ」などと言いながらにこにこしている光景を想像する。
 畑の土壌改良について話が及んだとき、奥様から「青猫クンはいろいろ勉強してるんだねぇ」と褒めてもらえたものと妄想する。
 思い通りにならないこともあって、奥様は僕に洗髪されるのを嫌がる。と設定する。
 奥様がときどきそのへんに寝転がって「靴下脱がせて〜」と駄々をこねる様子を想像する。
 僕は裁縫が苦手なのだけれど、奥様は簡単な繕いものくらいはできるように練習していると想像する。じつはあまり上手くないことを僕も知っている。
 奥様は猫を可愛がってくれるが、じつは犬好きであると設定する。
「でも猫と青猫クンがいるから、私はそれで満足かなぁ」と面と向かって惚気られる場面を想像する。
 奥様はだいたい19時頃には帰宅するものと想像する。
 玄関にモルタルやフローリングの資材が置いてあるので、早く片付けなくてはと思う。
 仮想奥様のおかげで、ずいぶん幸せな気持ちになってきたので、明日はちゃんと仕事をしようと思う。

 今日は宿酔いなので何もしないことにする。
 せっかくだから、明日も仮想奥様のことを考えて幸せな気持ちになろうかと思う。
 奥様(仮想)のために、お料理がんばろう。



某月某日。

 子供の頃、幼馴染みがいて、それは女の子だったのだけれど。
 両親が離婚したときに引っ越しをしたので、10歳くらいまで僕には友達らしい友達がいなくて、夏休みも当然、一緒に遊ぶ友達などおらず家でぼんやり過ごしていた。

 友達がいないことを寂しいと思う性格ではなかったようで、僕は毎日ぼんやりと1人で(ときに妹やその友人に誘われて)遊んでいた。
 友達ができて「友達がいるって楽しいな」とは思うようになったけれど、友達のいる楽しさを知ったからこそ、1人になったときの寂しさを知ったような気もする。

 大人になったので、昔の友達とはあまり会わなくなった。
 大人になってから知り合った飲み友達などはいるけれど、一人で飲むのも嫌いではないので、学生の頃のように「とりあえず目的もなく集まってそれから何をしようか考える」なんて贅沢な時間の過ごし方はできなくなってしまった。
 いや、僕は未だに家でぼんやりしているので、いつでも目的なく集まってくれて構わないのだけれど、多分みんな大人になってしまったから、目的が最初にあって、その目的のために友達を集めたりするのだろう。オトナは時間に貧しいのだ。

 友達がいるのは素晴らしいとは思っていない。
 素晴らしい友達と素晴らしくない友達がいるから、素晴らしい友達がいたらそれは素敵なことだけれど、まぁそれだけだ。
 恋人というのも同様だろう。素晴らしい恋人と、素晴らしくない恋人がいる。
 素晴らしくない恋人を、ただ寂しいという理由でぶら下げたりぶら下がったりするのは、まぁ寂しさを埋めたくて仕方ない人なら仕方ないのか。

 17歳の頃に初めて人間の恋人ができたのだけれど、その恋人は、僕のかつての幼馴染みと両思いになった。
 あろうことか、僕の幼馴染みとの再開はかなりの時間と空間を隔てたものになったのだけれど。
 僕の恋人(女の子です)は僕の恋人のまま、幼馴染み(女の子です)とも恋人同士として付き合っていて、僕はそれについて特に何の感慨もなかった。
 独占欲がないということでなぜか僕が恋人から叱られたりしたものだけれど、まぁ、あの頃から僕は基本的に変わっていたのだろうと思う。
 その恋人とは5年くらい恋人同士だったのだけれど(そしてその後2年くらいは、家に勝手にやってくる僕に片思いをしている女友達であったのだけれど)こうやって文章に起こすと、ほんとうに奇異な人間関係のように思えてくる。

 僕の周囲に構築される人間関係がそもそも奇異なのか、僕が奇異だから人間関係が奇異なのか、僕はまともだけれど他の人が奇異だから人間関係が奇異なのか、奇異だと思っているだけで誰の人間関係も文章に起こすと奇異になるのかは分からない。
 誰かに尋ねてもいいのだけれど、赤裸々に物事を話してくれる人がどれだけいるのか分からないし、奇異さを奇異だと感覚しない人間が、奇異さをうまく表現できるのかも不明だ。
 しかし僕は自分を奇異だと思っているかというとそんなことはないから、自覚がなくても現象が奇異なら、それを表現することは可能なのだろう。



某月某日。

 仮想奥様が今日も美人だ(仮想だから当然である)。
 といっても彼女が家を出る時間、だいたい僕は寝ている。
 仮想奥様は非常に規則正しい生活を送っておられるように観察される。
 ゴミ出しなどは僕の仕事なので、奥様(仮想)は朝ごはんをひとりで(僕は食べない)さっと食べて出かけてゆく。
「行ってきます」のキスはしない。メイクが崩れることを嫌う有能さ。さすが仮想奥様である。



某月某日。

 書斎になる予定の部屋(今までベッドを置いていた)からベッドを移し、壁塗りを始めて90%は終了した。
 壁塗りが終わると次は床、次いでデスクを作る予定のクローゼットエリアの整備に入るのだろうけれど、いつになったら僕は机と椅子を持てるのだろう。

 この家にはコタツ以外にテーブルもないし、椅子もキッチンにかつてのテーブルセットの2脚があるのみだ。
 和風建築だからそれでよいのだろうし、僕はそもそも食事を寝床でする習慣があるから、どうでもよいといえばどうでもよい。
 しかしきちんとPCで文書を書いたり、ぼんやり読書をするには、やはり机と椅子がほしい。
 工事をするのは手間とお金と時間が掛かるから面倒といえば面倒なのだけれど、そうとばかりも言っていられない。

 お金を払って誰かに任せておけば「なんとなく思い通りのいい感じ」が手に入ればいいのに、と願う。
 でもネコノカミサマは非情なので叶えてくれない。
 いいもん自分でやるもん別に拗ねてないもん自分でできるもん。
 いつになったら僕は机と椅子を持てるのだろう。

<塗り始めの頃>



某月某日。

 お風呂に入ろうとしたら仮想奥様が湯船で寝ていたものと想像する。
「むにゃぁ青猫クン、わたし寝ちゃったぁ」などと供述しており。
 浴室の電気を点けたときに起きてほしい。とても驚くではないか。
 疲れている様子なので、風呂から上がったらマッサージをさせていただこうと思う。




 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:

[InterMethod]
  :Chaos:Diary:Ecology:Engineering:Interface:Kidding:Link:Love:

  :Mechanics:Stand_Alone:Style:Technology:

[Module]
  :Condencer:Generator:Transistor:

[Object]
  :Camouflage:Cat:Night:Tool:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

  :衛星軌道でランデヴー:原稿用紙でつめをとぐ:ひとになったゆめをみる:






//EOF