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TITLE:
謝らせることの下品。
SUBTITLE:

~ Partial Murder. ~

Written by BlueCat


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::そうです。子供は大人を見て、こういうときには悲しいのだ。悲しいときは、あのように泣くものだ、と覚え、それを真似るのです。人間が生まれながらに持っていた性(さが)ではない。ですから、ほかに大人を見ず、ただ一人で育った子供がいれば、その子は、悲しむことを知らない。泣くこともないかもしれない。赤子が泣くのは、悲しいから泣いているのではありません。赤子はまだ悲しさを知らない。ゼン殿の場合、カシュウ殿が悲しみを表に出されない人であったから、それを真似ることがなかった、といえましょう。なにも心配することではない。これは、人として欠けているのではありません。考えてごらんなさい。人間として満たされている状態とは何かといえば、それは結局、村の中で、その集団の中で、皆と同じように振る舞う術を知っているというだけのことだ。違いますか? その本人の器の大きさでもなく、その本人の心の深さでもない。苦しい修行を重ね、悟りに至った高僧は、自らの心にのみ忠実であり、外界や他者の影響を受けないものと聞きます。それはまさに、人として欠けている状態ではありませんか。この矛盾、いかに説明されましょうか?



 


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 経緯を詳細に説明すると少々複雑で、それに僕が自分のことをあたかも「常識的で良識的で慈善の心を持った人」であるかのように描写しかねない ── あるいはそのように受け取られかねない ── のも不本意である(なぜなら僕はどちらかといえば非常識で、かなり倫理観に欠け、けっこう独善的だと自身を評価しているから)。
 しかし今回の主題はそれだ。

 端的にいえば、かなり強引に猫を引き取った友人が、(やっぱり無理)と言い出して、やはり強引に猫を置いていったのである。
 知っている人はいるかもしれないが、黒猫というのは一部の地方(日本ではなく海外だったと思う)では縁起の良いイキモノである。
 それもあって、その知人はもの欲しそうにしていた。
 そこまでは別にかまわない。
 たまたま相性も合うようだったので、僕は譲ったのである。

 あちこちに移動することの多い僕と暮らすよりも、一カ所に定住できるその人と暮らす方が、移動好きではないゴマにとっては良かろうと思ったのでもある。
 ところが発情期になったら、その声に耐えられないという。
(確かに喧しいのは事実だ。アヲなど僕のスリッパに頭を突っ込んでローリングまでする。もはや狂気の沙汰だ)
 もともと鬱病の持ち主ではあるが、症状が悪化するので返したいという。

 言い出したのが、僕が発熱(3/21に、流行病かと思うほどの高熱が出た)して数日後 ── 体温がもっとも高かった時期 ── である。
 もともとワタクシが愚痴を聞く機会は多かったものの、高熱で具合の悪いときにまで長文メールによる私的な愚痴を送られる始末である。
(読める体力も思考力もなく、また何らかのアドバイスが必要なわけでもなさそうだったので、まともに読んでいないが)
 そして2週目になったら、突然「これから家に届けに行く」と言い出して、猫を連れてきたのである。
 もともと私の飼い猫であるし、私の体調などおかまいなしに自分の都合の打診しかしない人間にも慣れてはいる。
 しかし首尾一貫して、申し訳なさそうにするでもなく、私の体調やスケジュールや意向を優先するふうでもなく、気に入ったから私も飼えるはずだし飼いたいと言い出しておきながら、やはり気に入らないし(諸般の事情もあり)無理だからと突き返すのは、移動が好きなわけではない猫にとって、しょっちゅう生活環境が変わるため、かなりのストレスになる。

 もともとは「うちに泊まらせたい」ということでときどき貸し出しをしていたのではあるが、行ったり来たりはストレスになる猫のようだし勝手に独自の名前も付けていたので「気に入っていて飼えるなら、きちんと飼ってね」ということで引き取ってもらったのである。
 その挙げ句が(事情はあるにせよ)強引に突き返すという結果である。
 私も気分が悪いが、猫(黒猫のゴマ)も相当に気分が悪いはずである。
 ことほど左様、家に来てから逃げ回っている。名前を呼んでも、あまり理解しているふうではない。

 その人がしたことは、適当に猫を飼い始めて、そのへんに捨てるのと同じ行為である。
 たまたま、もともと私が飼っていた猫で、なおかつ捨てる先として私がいたというだけのことだ。

 確かに猫なんぞ畜生であるから、人間の慰みものとして生かされて捨てられて殺されてもまぁ仕方ないとは思う。
 虐待されることと家畜で喰われることの差違を、僕はあまり気にしない。
 ロブスターに苦痛を与えず殺す法律がどこかの国にあったと思うが、そんなものは人間のエゴだ。
 少なくとも僕は、ペットとして飼われる動物たちについて、ろくな能力もないのに養われるだけの、人間のための慰みものだと思っている(「家族だ」なんて発言は、正直に言えばキモチワルいとさえ思っているし、エゴ丸出しの偽善にさえ感じることもある)
 だから人間と暮らすためにけっこう厳しく躾けているし、変に甘やかしたりもしないし、死んでもさほどに心を痛めることはない。
 ただ飼い始めた以上は、たとえ親が「捨ててきなさい」と言ったとしても、そんな指示などおかまいなしに飼い続けた。
 餌がなければ学校の給食をみんなからもらって、飼う場所が見つからなければ近所の公園だろうが学校の教室だろうが、ともに暮らした。
 幸い、私の父上は(生活保護を受けていた時期であっても)拾った動物を「捨ててきなさい」とは言わなかった。
 テーブルに乗ったり、人間の食べ物を盗むようなことをすればこっぴどく叱る必要があったが、それは猫のためでもあり、僕が猫を飼うことを認めてもらう上で必要なことだった。
 お小遣いをもらえるようになってからは、キャットフードやトイレ用品などをその中から買い続けていたので、一円も父上に請求したことはなかったし、それもあって新しい猫を拾っても文句を言われることはなかった(まぁ、このあたりは余談だが)。

 ただ、捨て猫というのは時に病気で、時に栄養失調で死ぬから、それにも慣れた。
 毎回毎回、病院に連れて行くほどのお小遣いは持っていなかったからだ。
 ために僕自身、猫との関係はドライだ。
「家族なんですぅ」「いたずらしても叱れません〜」なんてことはない。
 畜生だと思っているし、イタズラしたらめちゃくちや叱る。追いかけ回すくらいは平気でする。
 でも人間と共存することを覚えてくれれば叱る必要はなくなるし、寝食に困らないようにするのは共存する上で当たり前のことだと思ってもいる。
 だから「かわいいかわいい」としておきながら、寝食に困るようなことを平気でするような思考が理解できない。
 責任を持って飼って、責任を持って殺せよ、と思う。
 小中学生ならまだしも、僕より年上の大人ともなると、正直言葉を失う。
 まして申し訳なさそうなふうでもなく、首尾一貫して自分の都合で、悪気もなさそうなところが致命的だと思っている。
 僕が腹に据えかねているのは、つまるところそういうことである。

>>>

 しかし僕は、自分が腹に据えかねているからといって、相手に謝罪を求めるような幼稚さを下劣だと感じている。
 世の中には自分の腹が立ったという理由だけで、相手が謝罪するのは当然だと思っている阿呆が若干いるようで、ときどきメディアなどでも報道される。
 僕もそういう人間と接したことはある。若干というよりも多いかもしれない。

 僕は、僕が腹を立てているのは僕の自己都合だと理解している。
 上記に述べた僕の考え方は「猫を畜生として、人間の慰みものとして」完全には思い切れていない、その半端さがある。
 人間の慰みものであるならば、人間の都合で交配させて産み増やして気に入らなくなったらそのへんの川に投げ捨てて溺死させればよいのだ。
 気に入らないことをしたらハンマーか何かで頭を叩いて殺して燃えるゴミに出せば良いのだ。

 そこまで慰みものとしては扱いきれない中途半端な自分本位の考え方をして、僕は腹に据えかねてしまう。
 つまるところ、僕が怒るのは、僕が大事にしてしまう自分本位な価値観のせいであり、価値観を変えられず、にもかかわらずその価値観に従って怒ったり喜んだり悲しんだりするのは、すべて自己責任だと考えることは妥当だと思える。

 自分本位だと他人をあげつらうのは勝手だけれど、自分本位という意味においていえば、独善を振るう自分の拳だって相当に自分本位な道具なのだ。
 だから僕は、いつも自分の怒りが正当なものとは思えない。自分の憎しみも、それが正当なものとは思えない。
 ただそれはそこにあって、かつては(怒りに駆られる自分は身勝手でダメな人間なのだ)といったジレンマに悩まされたりもしていたのだけれど、最近は「腹に据えかねるものはどうしようもないんだもんね」「許せねいものは地の果てまでも追い回してやるからなこのやろー」といった感じで自己肯定はしている。

 ただ自己肯定はしていても、そのまま排出していいものと悪いものがある。
 僕にとって怒りというのは、単純に異なる価値観の高低差によるエネルギーの一形態なのである。
 誰のどんな考え方や行動が気に入らなかろうと、その人にとっては、それが当たり前のことなんていくらでもある。
 恋人が27人いることと1人しかいないこと(あるいはまったくいないこと)の優劣が僕には分からないのだけれど、そこに優劣があると思っている人にとっては、27人恋人がいると「素晴らしい」とか「けしからん」とか思うようなのである。恋人が1人だと素晴らしくて、0人だと「ダメだ」となる理由も不明である。
 では恋人じゃなくて友達だったら多い方がいいのか、それともやはり1人こそ至高なのか。

 それぞれの価値観の落差はそのまま、場のポテンシャルエネルギーとして発生する。
 ために人は、あるいは僕は怒ったりするものの、それは自身の中に価値観があるが故の結果であって、僕に限っていえば相手の価値観がすなわち悪いと断罪するにあたうかどうか自信が持てない。

 もしかしたら、恋人がたくさんいるのはやはりアタマオカシイ価値観の結果なのかもしれないし、猫を畜生と断定するのは間違っているのかもしれない。
 ゆえに猫を畜生と断定しないにもかかわらずとんでもなく自分本位な慰みものとして扱うことそのものは、間違っていないのかもしれない。
 何が正しいかなんて、考えれば考えるほど分からない。

 誰かにとって正しいことは、他の誰かにとって間違っているかもしれない。
 ならば僕にとって正しいことが、果たして他の誰にも正しいなんていえるのか。
 正しくもないことをベースに僕が怒っているとして、その怒りは正当なのか。
 あるいは正しいことをベースに怒っているとして、その怒りを誰かにぶつけることは正当なのか。

 そのように考えてしまうと、誰かに謝罪を求めるなんていうのは、もはや狂気の沙汰である。
 絶対に自分が正しいと思える信念は、僕からすれば無分別な狂気である。

 正しさというのは理屈や論理で説明できるものである。
 猫が人間のための慰みものとしての畜生であるというのは、現実から帰納することもできる。
 交配させて経済で取引して気に入らなければ放り捨てられる猫は実際に存在し、社会はそれを容認している。
 貴方は自身が容認していないと言うかもしれない。
 それならその非容認は行動として社会に還元されているはずだ。
 動物愛護ボランティアに参加するなり寄付するなり、法改正を要求するなりしているはずだ。
 していないならその行為(行動しないで口先で好き勝手に言うだけ言って偉そうにすること)は単純に社会の有り様を容認し、ケチをつけるだけの無力な自身を肯定しているのである。
 気に入らないことに対して、反抗しなければ、それは受け入れていると認識される。
「本当に嫌だったら、どうして抵抗しなかったのですか?」法廷で原告が尋ねられそうなフレーズだ。

 猫に話を戻す。
 もちろん、大切に育てられて人間と暮らしてその安寧に死ぬ猫もいるだろう。
 しかしそのいずれも、人間の慰みものとしての畜生であることには変わらない。
 人間の都合で愛され、生かされ、あるいは捨てられるのだ。そこに殺されることが加わったとして、何の違いがあるだろう。
 生きたまま捨てることは殺して捨てることより果たして優しいだろうか。
 生きたまま捨てた方がいいなんて、公園の段ボールの中で日に日に弱り死んでゆく仔猫を見たことがない人間の偽善ではないかと僕は思う。

 だから僕なら、猫は生きたまま捨てたりせずに殺して捨てる。
 たとえば6匹、生きたまま捨てて、何匹生き残ると思っているのだろう。
 親猫や人間の庇護なしに放り出された猫の生存率は、さほど高いわけではない。
 しかし僕のように殺して捨てるのは、やはり非人道的ではないだろうか。
(念のため断っておくが「僕ならそうする」ということであって「そうしている」わけではない)
 だからわざわざ残酷であっても、自分の手を汚さず、なおかつ生存確率が多少なりともある「生きたまま捨てる」という手段を選ぶのかもしれない。

 猫が畜生であるというのは、論理として正しいように思える。
 猫は人間ではないし、総合的に見れば人間よりも能力で劣っている。
 しかし猫の生かし方や捨て方、殺し方について、何が正しいのかは分からない。
 虐待は良くないというが、病気に罹った家畜や作物は、時に薬漬けにされ、時に殺処分される。
 あれと虐待の違いは何だろう。加害者の慰みものになっているかどうか、だろうか。
 慰みものにしていなければ、加虐行為を愉しんでいないなら、何をしても虐待ではないのか。そういうものでもないだろう。
 自分の気分を害されたら、何をしてもいいのか。
 昆虫類ならどうだろう。
 蚊やゴキブリならば、実際に害を為すことも多いが、単なる心理的不快による不快害虫などを駆除することは「見た目が気に入らないから殺す」という点で、たとえば顔が気に入らないから猫を捨て、あるいは人を殴る行為と何ら変わらない。
 そこにあるのは感情であって、論理ではない。
 正しさにまで正しく考えが至らず、反射的な感情だけで動作するオマエらこそが畜生だといいたいところだが、皆どうにも人間の姿形をしている。
 善人みたいな顔をして、人殺しの顔をしていない。

 家畜や作物にいたっては、気分を害するかどうか以前に、慰みものの畜生である。
 べつにこれらについて、僕は怒りを感じているわけではない。
 僕は作物も作れば釣りもする、食肉もするし食べきれない食品を捨てることもある。
 自分がしていることと五十歩百歩の相手の行いをして、怒ることが下品だなぁ、と感じているのである。
(あるいは僕は自身に憤っているだろうか。もちろん。僕の一部は僕を非難し続けている)

 ただ純然と、論理として、人間が自分以外を慰みものの畜生として扱っていることはだいたい間違っていないように観察される。
 その「慰みもの」としての扱いが、ときに「産んで増やして殺して食べる」であったり「産んで増やして不要なものは捨てて売る」であったり「買って『家族』なんて美化して愛玩する」であったり「拾って飽きたら(生かしてか殺してか)捨てる」であったりする。慰みものの対象や、慰みものとしての扱いや行為は千差万別だ。
「猫のために」「犬のために」「イルカのために」という大義名分を掲げる人間たちのそれは、独善か。それとも慰みか。
 すなわち感情論に基づく正しさは、すべて人間にとっての慰みであろう。

「可愛いから」守られる。「知能が高いから」守られる。その基準は間違ってはいないだろう。
 つまり「可愛くないもの」「知能の低いもの」は守る必要もなく、殺されても仕方ない。そういうことだろう。
 正確にいえば自分以外でありさえすれば、人間でさえ慰みの対象として消費するように人間はできていると解釈できる。

>>>

 ひるがえって、僕はふたたび僕の怒りについて考える。
 それは感情だ。
 僕の価値観と他者の価値観の差違によって発生する、感情的なポテンシャルエナジィだ。
 僕はだから、怒ってもかまわない。僕は怒ることがあるし、怒ることを遠慮する必要はない。
 ただ、だからといってそれは、僕の怒りによって僕の価値観が正しいという裏付けをするものではない。
 相手が正しいのかもしれないし、そもそも正しさなんてどこにも存在しない類の問題かもしれない。
 正しさというのは、人間の思考が見せる幻想だ。
「光の速度は宇宙のどこに行っても変わらない」というような正しさは絶対的だけれど、その正しさは一般的には感情が乗らない。
(もちろん、その正しさに胸を打たれる人もいるだろう。正しさとは本来、強くて美しいからだ)
 人間が定義しなかろうと、発見しなかろうと、純然と存在するのが「正しさ」だからだ。
「イキモノをみだりに殺してはいけない」という正しさは、感情的な正しさだ。感情は乗るけれど、理屈で証明するのはむつかしい。
 しかしその正しさに気持ちを動かされる人は多いだろう。
「ヒャッハー!男は殺せ!女は犯せ!」という正しさよりも、それは美しく見えるからだ。

 ただ僕にとって感情的な正しさというのは、論理的な正しさにかなわない。
 論理的な正しさの方が、圧倒的に強く、美しく感じられるからだ。
 だから僕の感情が(価値観の落差によって)怒りを感じ、己の正しさを相手に訴えようとするときも、考えてしまう。
 なぜといって、理屈のない正しさなんて空虚だからだ。
 少なくとも、理屈が成立している正しさに比べて「これは正しいから正しいのだ」と言われても、共通認識を成り立たせることが困難である。
「かわいいは正義」とか言われても「はぁそうですか。可愛くない奴は皆死ねと?」と考えてしまう。
 正しさというのは、正しくないものを断罪する(正しくないものを断罪しない正しさの方が、強いとは思うが、多くの人の思考はそこまで及ばないらしい)。
 その重みを考えると、正しさを定義することは、それ以外を抹殺することに等しい。
 だから僕は、自分が正しいとはみだりに思いたくない。
 たとえば感情的な価値観であったとしても、己のそれが「正しい」と主張し対立し認めさせることは、相手の価値観が誤りであったと認めさせ、殺すことに他ならないからだ。

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 それは殺人である。
 待ち合わせで30分遅刻すれば、相手の時間を30分殺す。30人を5分ずつ待たせれば、150分の殺人である。
 命を奪っていないかもしれないけれど、命とはすなわち生きている時間のことだ。最後から切らなくても、中間を切り抜けばそれは立派な殺人だ。
 僕はそう思っている。

 では価値観はどうだろう。
 記憶の集積によって構成された価値観は「その人そのもの」といっていいほど、その人自身を構成する重要な要素である。
 自身の手によって、価値観は変容する。
 通常、ある程度以上に成熟した人間にとっての価値観とは、他者が変容を強制してはいけないものだと僕は考えている。
 それは本来のその人自身を潜在的に殺すことだからだ。
 他者の価値観を ── たとえそれが感情的なものであったとしても、また自身にとって受け入れがたいものであったとしても ── だから僕はみだりに否定したくはない。
 あるいは否定するとしても、よほどのことがない限り、相手にその価値観を変容することを求める気はない。
「僕は嫌だ」けれど「相手はそのまま」。それでいいと思う。それが正しいと思う。

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 過去に一度だけ、ガールに謝罪を強要されたことがある。あれは単純にある種のDVだったと今は思っている。
 世の中には「自分が肉体的/精神的被害者になることで、相対的に優位な立場に立つ」ことを平気でする人間がいる。
 計算づくで自殺未遂をするような人間は特に要注意だ。
 けっこうな狂人であるが、そういう人もいる。賠償金目当ての当たり屋みたいなものだ。

 そうまでして、潜在的にであれ優位であることにこだわる人間もいるのだ。
 あるいはそういう人間だったからこそ、他人に謝罪を強要したのだろうと想像できる。
 謝罪というのは、感情的価値観によるコミュニケーション行動の一形態である。
 そもそも価値観がある程度共通していないと、謝罪という行動には至らない。
 冒頭の、猫を僕に捨てた知人が僕にも(おそらく猫にも)謝罪しないのは、僕の価値観に似たものを持っていないからだ。

 では。

 僕は謝罪を相手に強要する権利を、あるいは意味を持つだろうか。その謝罪は、謝罪としての価値を持つだろうか。
 謝罪というのは、価値観が共通しない限り、意味を持たない。
 強さや美しさや正しさに対する価値観が一定以上の相似をしていて、だからこそ謝罪の対象となった行為や認識を改めることが可能になるわけである。
 ために誰かに謝罪をさせる意味もまたないと僕は思うし、そんな権利を僕が有しているとは思えない。

 誰かに謝罪をさせる意味とは、自分の気分がすっきりする、といった程度のものだろう。
 それで満足できるというのなら、たいそうおめでたい構造だといえる。
 なぜといってその満足は暫定的で、自発的な謝罪でない以上、相手の価値観は変容しておらず、かならず再発する。
 すなわち、謝罪というのは強要したところで抜本的な改善にはならないのだ。
「この人はこれが嫌なのだな」という情報が蓄積されるだけだ。

 接客業などなら、そうした情報を集積してゆく意味がある。
 だから形だけでも謝罪して、情報を集約し、最大公約数的なサービスとして反映することが可能だ。
 そこに求められているのは「サービス」というカタチだからだ。
 一方、単なる対人関係の場合、情報の集約によって得られるものがカタチでしかなく、肝心の価値の共通認識などはほど遠いままであるため、衝突の種が減らないのである。

>>>

 僕はそもそも、怒りの感情を持ち続けるのが苦手だ。
 発電に使ったらよいのではないかと思うほど、消耗する。体調を崩すこともある。
 ましてそれを対外的に発露するのも疲れる。もとより体力がないのだ。
 最近は多少、外に発露するようになったが、かなり微かなもののようで、妹や弟子がかろうじて「今、ちょっと怒ってるでしょ」と言ってくるくらいである。
 だいたいの人に僕の怒りは感知されず、スルーされる仕組みである。
 先の知人についても、どうしたものかとは思ってしまう。
 僕は怒りを発露して、それでもコミュニケーションを続けたものだろうか、そうする価値があるとは思えない。
 では怒りを発露せずコミュニケーションを続けたものだろうか、その価値も見いだせない。
 結局、僕にとって、他人とは慰みものなのだろうか。

>>>

 その後。僕は彼女に連絡を取っていない。
 何度か電話があったり、メールがあったりしたけれど。
 彼女が精神性の病気を抱えていることは知っている。僕だって一歩間違えれば双極性障害だ。
 しかしだからといって、僕は僕の時間や価値観を殺す人間を、もう許すことはしないと決めたのである。
 そして同時に、誰も ── 全体的にであれ、部分的にであれ ── 殺さないと、決めたのである。
 それでもなお、僕は自分が正しいとは思えない。
 僕は正しさを正しく定義できない。
 


// ----- >>* Escort Division *<< //

 

 

::私は、カシュウが死んだとき、悲しいとは感じませんでした。あれは、やはり人間として欠けていたものがあったということでしょうか。いえ、もしそうだとしたら、今でもなお欠けたままだということになります。
::人間は誰でも欠けているものではありませんかな。
::それは、補うべきものですか?
::さあ、どうでしょう。どこかを補えば、またどこかが欠けましょう。死ぬまで不完全が当たり前。それが、人というもの。
::悲しみというのものは、つまり、何でしょうか? 草木は持っていないように見えます。動物は悲しみを持っていますか? 馬は主人が死んでも、嘆いたりはしません。
::悲しみというのは、人真似で育つものでしょうな。


 


// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~

 文頭文末の引用は、
「ブラッド・スクーパ 〜 The Blood Scooper 〜」

(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 によりました。

なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
 

 

 


// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

    ~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

  :青猫β:青猫α:赤猫:黒猫:BlueCat:銀猫:

[InterMethod]  :Algorithm:Darkness:Diary:Ecology:Engineering:Interface:Life:Link:Love:

[Module]

  :Condencer:Generator:Reactor:Resistor:Transistor:

[Object]

  :Cat:Human:

// ----- >>* Categorize Division *<< //


:いのちあるものたち:夢見の猫の額の奥に:






//EOF