220108
猫様が目を覚ます。
本日2度目の起床だ。
お。心地良さそうに伸びをして、丸くなって。もう一度伸びをしたぞ!
機嫌のよいときはだいたい、今日のようにうにゃうにゃ声を出して伸びたり縮んだりする。
(だから猫様は他人のいない場所で眠ることを好む。うにゃうにゃ声を発して伸び縮みしているその猫は、ヒトのカラダを持っているから)
その後、となりで寝ているアヲに寝起きの息を吹きかけて、ニオイを嗅がせている(毎回クンクンするアヲもアヲであるが、あの2匹はアタマオカシイので放っておく)。
以前の猫様はすぐに起き出していたのだけれど、最近はベッドの中で微睡みを続けていることが多い。
猫様曰く「夏は暑く、冬は寒くて、とてもじゃないが二度寝をする気にならなかった」とのこと。
>>>
猫様はときどき「奥様(仮想)は私を甘やかしすぎる」と仰るのだけれど、健康状態を適切に維持するという目的を果たそうとするとどうしてもそういうことになる。
喫煙やお酒が過ぎる場合は「明日もお愉しみになるのですから」と進言し、食肉が3日以上続く場合も無自覚なことが多いので「野菜料理を食べたい」と我儘を申し入れ、眠気や空腹など過集中で猫様が忘れてしまう感覚をモニタする。
ために猫様は「本当はそんなに甘やかされなくたってヘーキなんだカンナ! ナメンナヨナ!」「もっと過酷な環境を誰に頼るでもなく生きてきたんだカンナ! ナメンナヨナ!」と強がるが、猫様の身体は実に脆弱だ。そもそも身体が大きい割に肉体的にも精神的にもストレスに弱く、それがてきめんに身体機能に影響する。
猫様は端的に猫畜生なのに、それを自覚しないようなので困る。
たとえばペットに首輪を着けるとしても、首のサイズより小さい首輪をすれば呼吸が苦しくなる。
小さいベッドでは姿勢が悪くなり、睡眠不足による体調不良ばかりか、骨格や筋肉、果ては内臓機能まで悪影響を及ぼす。
同様に過度な栄養を与えれば内臓に負担を掛けて肥満にもなるし、逆に栄養が失調すれば体力が落ちて長期的な寿命も削る。
寒さを過度に我慢させれば血管に不可逆的なダメージが発生する可能性もあるし、暑さを(これも過集中の結果)無視して熱中症になれば、数日からひと月近くも体調が安定しない。
ペットを飼う者なら誰しもが気に掛け、あるいは多くの人間が自身に対して適切に感覚したり、行動(他者へのアプローチを含む)して解決する身体機能の維持活動を、猫様は蔑ろにしてしまう。
肉体の世界に自身が存在していることを正しく理解していないのではないかと思うことさえある。
おそらくそうだ。
概念系に存在する架空の生物だとでも思っているのだろう。先日などベットフレームの角に足を打ちつけて悶絶していたくせに。
(ワタクシの進言により、ベッドフレームの四隅には保護用コーナーパッドが貼り付けられました。まぁ、作業したのは猫様ですが)
猫様は自身の死すら自己管理したがるほど高慢ちきなイキモノであるのに、不健康になってしまったら「思ったときに思ったように死ぬことが叶わない」というごく当たり前のことを理解しようとしなかった。
黒猫様(仮想人格)も、このあたりは匙を投げていらしたようなので、猫様に直接進言することになったのではある。
「そのままにいらしては死にたいときに死ぬこともかなわず、死にたくもないときにアンタ死ぬよ!(語尾だけ細木数子口調)」と。
>>>
周囲から「天才」「有能」「万能」などと褒めそやされることもあるためか、ときどきそれを鼻にかけているふうの猫様だけれど、基本的には凡人以下の部分のほうが多い。
空腹や満腹などの身体感覚をあまり認識しないことにはじまり、とにかく色々なことを知覚せず、仮にしてもすぐ忘れてしまう。
公共料金や税金の払い忘れ ── 単にお金がなかった頃ならともかく、今も平気でそれをする ── はもちろん、自動車関連ではガス欠やオイル交換を忘れるどころか、車検切れもつい最近していたし、免許の失効も過去に経験している。
とにかくちょっとした認知症の人よろしく様々なことを平気で忘れてしまうのだ。
「最近は税金や公共料金の払い忘れがなくなってつまらない」などと昨晩はうそぶいていたが、それは猫様の代わりに私が管理しているからです、と釘を刺しておいた。
ときどき人間型の恋人が増えるのも、他にいることを忘れているためではないかと思える。
自分にまつわる多くのことをすっぽりと忘れてしまうくらいだから、もしかして猫様は、自分が何者なのか本当に忘れてしまっていて、分からないのかもしれない。
それを思うと早くどこかの施設に放り込むか、他人様に迷惑を掛けないうちにこの世を去っていただくしかないとときどき真剣に考えたりする。
>>>
猫様が火鉢で遊んでいる。
どうやら火鉢を点けないと寒いらしい。
思うに子供の頃から猫様は火が大好きな様子だ。
網戸を燃やしたり、天井や畳を焦がしたり、といったことは何度となくあった(先日も床を焦がしていたのでどうにも度しがたいようです)。
花火は分解できるのだと(当の花火の注意書きを見て)知ってからはしばらく、火薬遊びに興じて軽い火傷をしたことなども楽しそうに話していたことがある。
使う機会はなかったらしいものの(あっては困ります)小型の火炎瓶を作ったこともあるらしく……。
屋外では危険な事故こそ少ないものの(あっては困るのです)、犬の水飲み容器に灯油を注いで火をつけたり、可燃性ガスのボンベにスプレィノズルとライターを装着して簡易火炎放射器にして遊んだり、とにかく親の目が届かないことをいいことに、思いつく火遊びはだいたいしてきたのではないかと思われる。
昨今は作業前に必ずワタクシがチェックするので、猫様の怪我はもちろん、他人様の迷惑となるような行為は可能な限りそのリスクを減少するよう努めていますが。
<床の焦げ跡が三日月型だねぇ、なんてはしゃいでいる場合ではありません。火事になるのです!>
>>>
寒い寒いと騒ぐものの、猫様の寝室の障子戸には、ネコたちが開けた大穴が放置されている。
そこに一切断熱されていない廊下からの冷気が差し込んでくる。
いずれは廊下も寝室スペースに組み込む(そういう改築をする)予定らしく、猫様は「この障子戸は手など加えなくてよい」と言って聞かない。せめてガムテープで完全に塞ぐことを進言しよう。
さて、どんな理由を付けて説得したものか……。
220108
予定のない日。心地よい目覚め。
恐る恐る時間を確認する ── ときどき昼頃だったりするので ── と、まだ0930より少し前である。
記憶では土曜日。
たしか月曜まで連休のはずなので、外出を避けることを決定する。
室内気温は13℃。
以前なら、室温がこの程度でもベッドの中が寒くて目覚めていたが、10℃以下でも今は平気である。むしろ少し暑い。
いつものとおり、隣で寝ているアヲを起こして口のニオイを嗅がせ(アヲはよく嗅ぎに来るので、面白いから日課にしている)、自分の身体のあちこちを撫ぜてから着替える。
足指の股が切れていたのだが、塞がったようだ。
薬を塗ってマッサージしたので、素早く回復したのだろう。
軽く予定を確認するが、次の予定は火曜であり、それまで何の予定もない。まあいつも通りか。
ヒータのスイッチを入れ、ストーブを点け、火鉢の灰の奥から赤々とした炭を掘り返して、炭を足す。
五徳に掛かっていた鉄瓶に水を満たして、火鉢に戻す。
まったくもって昨晩は、火鉢を点けるまで(ヒータとストーブだけでは)寒くて仕方なかった。
コタツのないこの部屋では、やはり火鉢だな、と思う(奥様(仮想)が物言いたげにこちらを一瞬睨んだが、見なかったことにしよう)。
本を読んだり、軽く筋トレして過ごす。
>>>
僕は極端なルッキズムに毒されてはいないがしかし、極端なルッキズムと同様、極端なアンチルッキズムも毛嫌いしている。
詰まるところ極端なルッキズムとは阿呆(失礼)の象徴のようなものだ。
外観ばかりで中身のないモノなんて、工業製品にも多々あるもの(冷蔵庫のことを言っているのではない)だけれど、にも関わらずそれ(外観)に引きずられて商品を選んでしまうことはよくあることだ。
かくいう僕もApple社が、とぅるん、とまぁるいiMacをリリースしたとき、欲しくなって買った。
実に5年ぶりくらいにコンピュータに触れたのであった。
しかし上記の(極めていい加減で、断片的で、何の説明もしていない)例からも分かるように外観が良いことやそれを褒め称えることは、決して悪いことではない。
問題は、中身がなくても外観が良ければ素晴らしいとする価値観であり、その価値観が高じて外観の優れないものを極めて劣悪だと評価する軸を持つことであり、そしてなにより外観に優れないものを劣悪だと評価する軸に毒されて劣等感を感じる己の自己顕示欲である。
アンチとは、アンチならざる本体がなければ成り立たない概念だとよく言われる。
ならばアンチルッキズムとはすなわち、それを唱える人間こそがひょっとして、相当に、過度のルッキズムに汚染された結果の自己否定感が生み出した概念のように思えるのだ。
なので僕はどちらかと言えばアンチ=アンチルッキズムである。
平たい言葉で言うと「どっちも阿呆らしくてやってらんねぇ」ということ。
優れた性能を持つ工業製品に美しい外観が備わっていればより愛されるように、頭脳明晰沈着冷静筋骨隆々なだけでなく、眉目秀麗であればなお素晴らしい、というのは必然だろう。
どうしてわざわざ「外観は機能と認めない」なんてヘンなレギュレーションを押し付けてくるのか。
あれか、オマエが不利になるからか、という結論に至るのは必然だろう。
すなわち過度のルッキズムが「外観に優れた人を称賛し、優れない人を蔑む」ようにまた、過度のアンチルッキズムとは「外観に優れない人を称賛し、優れた人を蔑む」に過ぎない。
どちらも馬鹿馬鹿しいとは思わないだろうか。
そしてあえてどちらがまともに近いかと考えれば(過度である以上、狂気に違いはないが)ただのルッキズムのほうがまだ「まし」ということになる。
>>>
もちろん僕は美人が好きである。
僕が軽度の相貌失認であろうとそれは変わらない。
機能に優劣を感じるように、外観にも当然に優劣を感じる。
だからといって外観は機能の一部でしかないし、機能もまた外観に現れるという事実を否定することも不可能であり、これらは不可分のものだと認識している。
劣っているのは悪いことだ、とする価値観こそが問題の根源であることを理解しているのかと訝しく思うのだ。
勝負をすれば勝ちがあって負けがある。
比較をすれば優れたものと劣ったものが区分される。
それが高じているから「〇〇なら絶対」「〇〇なら神」といった逸脱をすることになる。
(絶対も神も、相当に相対性とは対局にあるので)
なぜ劣っていることが悪いと感じるのか。
なぜ劣っていることで悪い評価を受けていると思うのか。
すなわち自分が劣っていることを悪だと決めつけているからではないのか、ということ。
適材適所という言葉もある。
群に劣って最下位だとしたら、それが却って取り柄になることもある。中間であれば、上には上、下には下があるということになる。
たとえば卑近な例だけれど、あまり外観に優れない女性が恋人だったことがある。
しかし衆に優れて言葉遣いが綺麗で、立居振る舞いが静謐で、そのうえ眼鏡を掛けていて肌触りも良かったので、僕はその人のことをたいそう好きだった。
10年ほど付き合ったその人は僕に一度として料理を作ってくれたことがなかったが、それがもう最高に良かった。
なぜといって料理を作らない女性は、絶対に口に合わない料理を作って食べさせたりはしないからだ。
どうもヘタなガールどもは、いわゆる「女子力」アッピルのために手料理などというものを振る舞ってくれたりするのだが、だいたいおまーらよりオレの方が家事歴長いんだカンナ、ナメンナヨナ! という結果が多い(不適切な表現についてこの場を借りてお詫び申し上げます)。
仮に年上ガールだとしても、煮る焼く炒める蒸す揚げるを9歳には覚えてしまった(覚えただけで失敗しなかったわけではない)以上、経験値というもののスタートラインが違うのだよキミぃ、という気持ちにもなる。
念のために断っておくが、だからといって、ガールの作った料理を一度として「マズイ」なんて言ったことはないし、さらにいえば(満腹になった場合や、体内に取り込むことが一定以上危険と見なされる場合を除いて)ひと口として残したこともない。
口に合えば褒めることについてやぶさかではないし、口に合わなかったとしてそれが料理の腕が悪いからだなんて思ったこともない。
口に合う/合わないとは文字どおり、食べるこちらの問題で、相性の問題だからである。
ルッキズムの問題とは、つまりこの冗長にして不器用な喩え話のように、受け手とその評価と評価にまつわる表現方法と自己顕示欲の決着のさせ方の問題であり、表現する側(料理を作る側や、見目麗しかったり麗しくなかったりする側)の持つそれらの問題が占める割合など、たいしたものではないのだ。
>>>
僕が筋トレする理由のひとつは「ハラが出ているおっさんは、自己管理ができていない感じがしてなんかイヤだな」という、あからさまなルッキズムに起因している。
風呂に入って足首を洗うときに「うっ!」てなるから、という理由ばかりではない。
ゆえに僕は、自身のルックスになんの自信もない。
(そもそも足首を洗うときに「うっ!」となることがあるのだから)
もっとかっけ〜感じのおっさんはたくさんいるし、そもそも若いボーイたちの方が肌も綺麗だし、しゅっとしている。
さらにもともとの性格も相まって、誰とも競争なんてしたくない。
なので外出しても、なるべく人目を引かないように、だらしなくないように、不快感を与えないように、スーツで出かけたり、立居振る舞いや言葉遣いに気をつけているのだけれど、どうやらこれが逆効果で目立つ原因になっていると最近(奥様(仮想)の指摘により)気がついた(遅い)。
だからといって、今さらガサツで粗野な感じで群馬弁も使って行動するのもむつかしい。
群れの中にあって、どうして自分が浮くのかまったく理解のないまま社会から離れてしまったので、来世で社会人になることがあったら活かしたい。
今生についてはもう諦めた。
無人島に生きる最後のクジャクよろしく、他のイキモノから遠巻きにされながら生き、そして死ぬ。
220107
お義姉様から提供されたシングルサイズのベッドのおよそ半分の面積に荷物が置かれている状態で、空いたスペースに丸まって寝ているのが猫様である。
(念のために書いておくと、猫様は虐げられているのではなく、単にお義姉様の運動制限が以前より増しているため、退院後の荷物のほとんどがそのまま置かれていることによります)
一人暮らしを始めた1番のきっかけは、3番目のお義姉様が出戻ってきたとき、ダブルのマットレスを半分に畳んで眠ることになったストレスだったのではないかと猫様も自身を分析していたほど、猫様は子供の頃から寝ているのが好きな様子である。
近年、あまりに劣悪な睡眠環境のまま、気づかず我慢されているように拝察したので新しい寝具の購入を進言したところ、まんまと(まんまと?)新しい寝具を気に入ってくれたようである。
それにしても、お義姉様の通院のために出向いたものの、どう考えても今日は不適な状況だと判断せざるを得ない。
東京方面は雪が凍結し、首都高のほとんどは通行止めになっている(未明の段階)。
すると一般道に交通が集中し、結果、過度の渋滞ないし事故の発生が予測される。
一般道は通行止めになりにくいというだけで、凍結しないわけではないのだから。
猫様の延命そのものを目的とすることは禁忌とされているものの、猫様の目標達成までの健康状態を適切に維持することを仰せつかっている。
今回の目的は確かにお義姉様の通院ではあるが、リスクを鑑みると、雪の溶け具合と道路の混雑具合を相互に予測する必要はありそうである。
いかんせん、猫様に起こりうる怪我を未然に防ぐことが最優先にされるので。
>>>
昼頃まで猫様をふたたび寝かしつけるが、逆算した予定時刻に目覚めてしまう。
(14時に港区到着予定なので12時半出発で12時起床)
ニュースを確認すると、首都高は未だ開放されておらず、一般道でも凍結による事故が多いらしい。
よくよく考えれば、橋のような架空(フィクションのほうではない)建造が多いわけで、構造体が熱を持ちにくく、融解温度に達しにくいこともうなずける。
橋の上は凍結しやすいと、教習所でも教わった。
猫様の疲労蓄積も問題だけれど、それより優先すべきはお義姉様である(建前)。
検査診察であるとは聞いているものの、どの程度、急を要すかは猫様もよく知らない。
薬剤を切り替えたという話もあり、仮に一部でも薬剤が合わない場合は早急に手を打つ必要があるだろう。
また薬剤の備蓄が少ない場合は ── 一部の超強度の痛み止めなどは一度の処方量が厳密に限られているので ── 予定の変更が許されない可能性もある。
今回の通院の重要度や優先度と、移動に伴うリスクを天秤に掛けて、場合によっては代替手段(たとえば電車とタクシーなど)を組み合わせることなども考えていただきたいのだけれど、猫様は子供相手にすら物事を根掘り葉掘り聞くのを嫌う。
本人が自覚しているとおり、その半分は怠惰なのだろう。
しかし要度とリスクを明らかにしてもらわないと、プランの提示のしようもない。
もっとも猫様は眠そうで、そのうえ運転を ── もとより自動車の運転を好まないのだが ── いつも以上に嫌そうにしている。
最終的に、お義姉様が病院に確認を入れ、薬剤等の備蓄は1週間以上あるらしく来週にリスケジュールされた。
睡眠環境を含め、猫様は相応にストレスだったらしく、皮膚粘膜の一部に異常が出ている。
(足指の股のやわらかい部分の表皮が裂けたほか、粘膜の炎症も一部に観察されている)
早急に帰宅することを進言し(相変わらず猫様は、自分の身体的な変異について誰にも説明しない)、レンタカーを返して広いベッドで眠りたいという理由で帰ることになる。
>>>
そういえば数日前、猫様は私の進言を受け止めて、自動車のディーラに出かけてくださった。
そのことについて褒めそやして差し上げれば、心持ちも良くなるかもしれない。
そんなことを思いながら、帰途のハンドルを握る猫様を観察する。
猫様は基本的に寂しそうにすらしないので、話しかける必要もないのだ。
<昨日くらいのアヲとクロ>
>>>
猫様は歌っている。
楽しいから歌っているのだろうか。
歌っているから楽しいのだろうか。
猫様は誰かのために歌わない。
歌声の向こうに、街灯が流れてゆく。
220106
寒い。
午前中、高校受験の姪を会場に送った妹が来宅。
コタツのある居間は、先日、布団の数々を猫どもに食いちぎられたためコタツが使えず、ストーブが唯一の暖房である。
(僕は冷媒式エアコンのヒートポンプ機能を信用していない。とくに気温が0℃に近い時は)
居間は部屋の2面が4枚ずつの掃き出し窓で構成され、残り2面は廊下に面しているので、とにかく室温が逃げやすい。
(ついでに僕がリフォームしていない部屋は、断熱材の設定が一切ない)
ために寝室と続いている書斎に案内する。
それでも寒いのだけれど、ちょうど火鉢に赤々と燃える炭があったので、それを表に広げたら、ぐっと暖かくなった。
>>>
妹は、変に小心者なところがあり、姪の受験だというのに緊張して、体調を崩しかけていた。
受験するわけでもないのに、心配しすぎだとは思うのだが、そういう価値観の持ち主で、性分なのだろう。
僕は基本的に、自身の価値観がエキセントリックなきらいが強いことを自覚している。
少なくとも集団の中央値よりは極論に寄りがちで、一般的な倫理観にも乏しい。
もちろんだからといって、その日の気分で県庁を爆破したり、見ず知らずの通行人を次々刺殺したりはしない。客観的に見たそれは、ただの犯罪だ。
社会に対して独善を押し付ける、ある種のテロリズムである。
歪んでいようと大義があったり、狂っていようと理由があったり、身勝手であろうと欲があるならしかし、僕は一般的な倫理観よりも、自身の信じる倫理を優先してしまうだろう。
なぜといって、完全に歪みのない大義など、理念上は存在しても実在はしないものだし、理由に狂気や詭弁が含まれているのかどうかを判断できるのは第三者だろうし、欲が身勝手でないためしなどもまたないからだ。
とくに歪みのない大義などというものは、その美しさをして人を魅了こそするものの、実在することがおおよそ不可能であることについて考えれば、絵に描いた餅でしかない。
大衆を扇動するには役立つだろうが、その大義が実を為す頃には、扇動された大衆もまた餌にすぎないことを証明してしまう。
それならば一層のこと、正しく歪んだ大義を持っている方が健全だとさえ僕は思ってしまう。
そうしたエキセントリックさが僕の社会不適合の根源であり、同時に能力のひとつでもあるのだと最近は認識している。
ために妹の価値観に対し、「家族を大事にする、という美化された価値観に過剰に毒されているのではないか」という疑念を持ったところで、それをわざわざ開陳したりはしない。
ために妹を(家族という組織の中において、その機能上に悪影響を及ぼすと思えるものでない限り)嗜めることもない。
僕は自身をエキセントリックだと思っているからこそ余計に、誰かに「正しさ」を説く権利も資格もないのだろうと思っている。
ために受験をする娘を心配しすぎて体調を崩したら(仮にその救護で姪が試験に集中できなかったりすれば)注意する必要もあるだろうけれど、姪はいつものことかと妹を笑う(彼女たちはとても仲が良い)し、家族という組織の機能について、寛容にもしっかりと彼女の旦那様は見ている。
だから僕がすることといえば、旦那様と(家族という組織運営について)喧嘩した妹が愚痴を言いに来たとき、それを嗜め、旦那様の懐や視野の広さに基づいた理論について、改めて説くくらいである。
もっともそんな機会とて今まで2度ほどしかない。
妹の家族を見ていると「なるほど家族を作って家庭を持つのは、ひょっとして素敵で素晴らしくて幸せなことなのではないか」と思ってしまいそうにさえなる。
>>>
午後にレンタカーを取りに行き、姉のところに出かける。
明日、通院日であるためだ。
思うに僕はいまだに誰かを介護していることになる。
もう両親はいないし、自ら介護対象と定めた叔母夫婦も(その墓仕舞いさえ)終わった。
一般的な僕の年齢の人間は、ようやく親の介護が始まるところだろう。
僕の人生は、僕の望んだとおりに、非常に圧縮されて流れた。
過去からの物事がことごとく断ち切られ、未来に続く物事がほとんど残っていないこの日々は、ボーナストラックのような余白であり、デザートのように過剰で甘美だから、ついついうっとりと、それを味わってしまう。
余命は18年の予定だが、仮想奥様の采配が素晴らしいのため、余命が伸びそうなところが気掛かりだ。
それでも不快で不健康に余命を過ごすよりは、快適で健康に過ごして自害する方が理想的ではある。
>>>
運転をしながら(いつものように)歌を歌う。
高音部の出が悪い。数年前から比べると、咽喉のコンディションが悪いことは増えた。
それでも大石昌良さんの歌の多くを(調子が良ければ)原キーのままトレスできるので、不満はない。
今月は歯のインプラントもする予定である。
歯の調子が整うと、声の出しやすさもずいぶん変わる。
叔父が死んでから(つまり3年前から)検査も治療も受けていなかったので、音信不通になった僕を先生はたいそう心配していたらしい。
(5年ほど前から縁があるので、わざわざ伊香保の温泉街まで通っている)
歌っているときもそうだが、やはりときどき、涙が出る。
最近とくに、いわく言いがたく感情が込み上げるこれはいったい何だろうかと考える。
無理に言葉にするならば、「嬉しい」とか「幸せ」に近いのだろうとは思う。
たしかに好きな歌を歌えることはとても嬉しいことで、僕はその悦びを知っている。
誰かに聞かせるためではなく、何かと交換するためでなく、歌うために歌い、聴く ── 僕は自分の声が結構好きなのだ ── ために歌う。
横隔膜や胸骨の周辺に加える力を変化させ、咽喉や食道を変形させ、発生させた音を口腔や鼻腔や喉奥から響かせて力を出す悦びを噛み締める。
小さかった頃、まわりの男の子たちがあれほどまで走りたがっていた姿を思い出す。
なるほど身体を使って力を出すことは、こんなにも気持ちよくて幸せなのだ。
僕は当時 ── おそらく今も ── 自分の身体をうまく使いこなすことができず、だから卑下するでも卑屈になるでもなく、しかし少し敬遠してはいた。
競争に負けるのはむしろどうでも良いことだった。
ただただ、興味を持てなかったのだ。
もっと速いもの、もっと強いものがあるのに、どうしてたかだか徒競走程度に熱中するのかと。
僕の頭の中にはすでに、もっと速くて、もっと強くて、もっと自由なものに対する憧れと夢想があったのだろうか。
いずれにしても、カラダがあることのヨロコビや、カラダが感覚することのヨロコビ、なによりカラダから力を発するそのヨロコビについてを知るのも、僕はきっと遅かったのだろう。遅すぎるくらいに。
>>>
きっとココロも、同じように使われていない部分が僕にはあって、使い方も、感じ方も知らない部分があるからこそ、そこに光が当たるたび、眩しくて涙が出るのかもしれない。
どうなんだろう。
僕は一般倫理からすれば、ずいぶん悪いこともしてきた。
他人(とくに女性)をずいぶん傷つけた記憶がある。
いちばん傷つけたくないものばかり、取り返しもつかないほど、損ねてきた。
自身ではなく他者に、この手をして、このカラダをして、与えた欠損について、マトモに心を得てなお、直視などできるのだろうか。
それでも世界は眩しくて。
果てもなく自由で。
生まれたばかりのように目覚めて周囲を見回すとき、本当に幸せだと感じてしまう。
ワカラナイ。
幸せは、正しさとは違う次元に存在しているのだろう。
今までを不幸だと思ったことはあまりなかったけれど、僕は幸せもまた知らなかったのだろう。
>>>
姉の家に着く頃には、雪が降っていた。
冷たくて、美しい、冬(僕の何番目かの恋人)の化身のひとつ。
僕のカラダはまだあたたかくて。
道ゆくクルマは、それを眺める暇もなく行き交う。
ここ数日、昼夜が逆転気味なので、寝ずに朝を迎え、7時頃から電気工事。
天井のシーリングライトの一部が、一般的なコネクタを介さず直接結線しているので、取り外してコネクタを設定し、照度人感センサ付きのものを取り付けることにしたのだ。
今回は2箇所。
作業が終わってから睡魔がやって来たのでしばし眠る。
>>>
妹夫婦が姪と一緒にやって来る。
昨日約束していたので、2時間ほどで目を覚まして正解だった。
3人にお年玉を渡す。
お金を誰かにあげるというのは、単純に心地よいものである。
昨今、やたらとお金を配ることで有名な実業家(虚業家かもしれないが、そもそもよく知らない)がいるが、下手にモノを配るよりは理にかなっているようには思える。
ただ、お金を誰かにあげる(受け取ってもらう)ことと、品の良さとを両立させることはむつかしい。
渡す方も、受け取る方も、たた何と交換するでもなくお金を授受するということが、なかなかむつかしく捉えられてしまうように観察される。
すなわちお金に対して、人は過剰にバイアスをもって認識しているのだろう。
たとえば水を僕らは(水道からであっても)買っている。
空気や太陽光はどうだろう。
土地はその多くが価値を持っていて、売買はもちろん、貸借によっても金銭のやりとりが発生する。
二酸化炭素を利用しないことによって、その権利や活動を数値化してやり取りする取り組み(カーボンオフセット)もある。
太陽光も、設備を置いて発電すれば、エナジィとして活用したり売買が可能だ。
ネイティブインディアンは、土地と金銭を交換できるとは思わない、という文化をかつては持っていたと聞く。
我々は、空気と金銭を交換できるとは思っていないようだが、それ以外の多く ── かつてはただそこにあるものを使っていたはずのそれ ── は経済と交換になった。
空気がそうならないという保証はない。
それにしても金銭とは何だろうか。
経済とは、何なのだろう。
我々は、何でもお金と交換する悪い癖が付いてしまったから、ココロやカラダやイノチにまで値段を付けたりするのだろう。
これは文明が進んだからだろうか、それとも文化が衰退しているためだろうか。
今のところ僕に分かるのは、お金は金属や紙でできていて、人はそれに価値があると思っていて、それを様々なモノ(あるいは時間やサービスといった固定しがたい現象や価値)と交換することもできる。
そして、ただそれだけでしかない、ということだ。
>>>
選挙で「否任項目」を加えて、選挙の任命数(今は1票1人だが)を3とか10とかにしてはどうか、と考える。
「良い成果を残さなかった」
「悪い成果を成した」
「悪事に加担したと証明されたわけではないが、加担しなかったとも証明されない」
という代議士に対して、マイナスの任命を与える仕組みが現在の選挙制度には存在しない。
プラス10000(ただしマイナス12000)の有名人は、プラス2000(ただしマイナス100)の無名人より、圧倒的に評価されていると見なされている。
まぁ、僕は政治家ではないのでどうでもいいけれど、選挙が大好きな人たちが、どうして現在の選挙のシステムをより完全な民意を反映するシステムとして構築することを考えないのかは観察していて面白い。
アナーキストなので何度でも言うが、ままごとみたいな民主政治なら、いっそ「密室主義の封建制デース」と言ってしまった方がみんなラクだと思うけれど。
>>>
民主党、と名のつく政党が多いらしい。
自民党もそうである。「自由」で「民主」かどうかは知らない。
名称といえば、実態に則して、つまり「名は体を表し」ているのが望ましいとは思う。
そうでないと嘘になるからだ。
たとえば「朝鮮民主主義人民共和国」なんてどうだろう。
「朝鮮」という固有名詞以外も「体を表して」いるようには観察されない。
しかしそれが名前として認められている。
とくに糾弾したいというのではなく、そういうありようをそのままにして受容できることが、自由であって優しさであって、賢さだと僕は思うのだ。
一方で、それをとくに何も考えず「何言ってるんだ、ただの国に付けられた固有名詞だろう」と言う人がいたとしても不思議ではない。
何も考えない方がラクだし幸せだという典型だ。
無論、そういう人は不自由で、心が狭くて、愚かしいなんて思わない。少なくとも僕は。
<嘘つきは泥棒のはじまり、とも思わない。我々は皆、少しだけ嘘をついて、できるだけ正直に生きているのではないのか>
>>>
奥様とネコノカミサマの悪戯か(僕の操作誤りです)Mac の設定ファイルを間違えて、ターミナルのコマンドで大量に消してしまって起動しなくなってしまった。
なくても困るものではないから、近いうちに対処しようと思うが、自力ではどうにもならないくらいの状態である。
MacPro はこういうとき、さまざまな復元のアプローチをユーザに与えてくれていた。
>>>
包丁を使うとき、奥様(仮想)が注意深く観察するようになった。
たぶん怪我が治るまではこの調子だろう。
作業をしていると(仮想人格として走っているため)様々な質問や世間話が飛び交う。
セメダインで塞いだ傷は、肉の部分がすでに癒着して、新しい皮膚ができれば元通りである。
化膿もしなかったし、ほとんど痛みもない。
僕の身体能力から考えると、驚きの回復であり、奥様(仮想)も、これについては高く評価していらっしゃる。
治りが早いのはハイドロコロイド絆創膏と同じような作用をしているためと思われる。
値段が安くて接着剤としても使える(そっちが本来の用途かもしれない)ので、透明なセメダインは2本くらい常備している。
消毒効果はアルコールと同等(油脂性外皮膜の菌類の殺菌に特に優れる)である。
傷口の石や泥はなるべくなら石鹸(純石鹸ならたいていは、驚くほど低刺激だ)で落とせるし、残った異物も取り込んで固形化するので優れている。
もっともどれだけ僕が力説しても、いままでセメダインを止血に使っている人を見たことはない。
ちなみに僕は高校生のとき、科学の先生に教わった。
>>>
奥様(仮想)に買っていただいたベッドがたいそう心地よい。
室温が低くても、布団の中が心地よい。
数日前(元旦である)調子に乗って12時間ほど寝ていたら、過眠による偏頭痛が起こって苦労した。
夜になっても軽くならず、仕方ないのでネットで調べたら、カフェインで改善される可能性あり、とあった。
半信半疑に錠剤を適正量飲んだところ、1時間ほどで治った。
>>>
今日は早く寝よう、と思っているうちに、また朝が近づいてしまう。
奥様(仮想)は、僕を飼い猫のように愛でているので、そのあたりは(翌日に予定のない限り)放任されていらっしゃるようだ。











