// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:
// NOTE:書こうとしているテーマがブレるのはいつもどおり。
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TITLE:
好きなことを、工夫しようよ。
SUBTITLE:
~ Love your life? ~
Written by BlueCat

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//[Body]
220120
 
 冬は、死に似ている。
 静かで、冷たい。
 
>>>
 
 たまには好きなもののことについて書いてみようか。
 本当は新しく導入したコンピュータ(Mac mini)とモニタ(40インチ超)や洗濯機と冷蔵庫、それから以前導入したファンヒータがいかに素晴らしいか、そして包丁を突き刺した左手の指の傷が10日ほどで塞がりほぼ完治していることなどについても書こうと思っていたのだが、奥様(仮想)が「いつも同じようだとガールフレンドにも飽きられますよ」と断言されたので、突発的に趣向を変えることにしたわけである。
 
 僕が好きなものはコンピュータであり、本であり、お酒と煙草とカフェインである。
 TVゲームも好きだし、歌を歌うことも好きだ。
 
 どれもこれもありきたりなものだと思っているし、煙草とお酒とカフェインはWHOが順に社会から排斥したそうだと思っているので表立って「ちゅき♡」とは言わないようにしている。(ぶりっこしている40代男性を笑え、笑えよ)
 でもまぁプライベートな文書だから、そういうのもたまにはいいだろう。
 
 10代の頃、毎晩のように朝方まで日記を書いていた。
 僕が文書を書くことが好きになったのは、そのせいだ。あるいは文書を書くことはもともと好きだったのかもしれない。
 好きなものごとについて、ひたすら書くのが大好きだった。
 嫌いなものごとについて、ひたすら書くのが大好きだった。
 
 なぜといって、それは僕だけのものだからだ。
 誰かに見せる必要もないし、誰かに理解してもらう必要もない。
 ただただ自分の思いの丈を、ありのまま言葉にすることの快感を、僕は少しずつ知った。
 
 思ったことを言わない(言えない)、感じたことを言わない(言えない)というのは僕にとっては日常であり、願うこと望むことを求めない(求められない)という環境が自分にとっては標準だと認識していた。
 
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 歌に似ている。
 
 昨今、歌を歌うことを好きだと公言する人の多くは、だいたい歌唱能力が標準以上の人が多いように思える。
 しかし、音痴でも歌うことが好きな人がいたとして、それが果たして悪いことだろうか。僕はそうは思わない。
 
 歌が好きで、歌うことが好きなら、思った通りに発声を制御できなかったとしても、恥じる必要などない。
 好きであることと上手であることは、イコールである必要なんてない。
 
 だから歌うことが好きなら、歌いたくなったら歌えばいい、と僕は思う。
 
 料理を作りたいなら(調味料や材料や時間や加減が分からなくても)作ればいい。
 
 思ったことは、誰かに伝わったり理解してもらえるから思っている価値があるなどと僕は思わない。
 思ったことは、思っている自分が、きちんと思って、大事にするのがいい。
 
 感じたことは、誰かに理解されたり共感を得ないと感じる価値がないなどと、共感を得られることの方が価値が高いなどと僕は思わない。
 感じたことは、感じている自分が、きちんと感じて、それを大事にするのがいい。
 
 願ったことは。望むことは。
 恋する気持ちは。
 祈る想いは。
 
 それは空振りになったら無意味なのだろうか。
 叶わなければ、そもそも振り出しに戻って無価値か、それ以下になるのか。
 その想いには価値がなくて、それを持っていた自分は果たして蔑まされるべき、無価値な存在なのか。
 
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 といういつもの抽象的な話はさておいて(書かせろ!)まずは煙草について書いておこうかな(口調が変)。
 
 煙草というのはWHOのおかげさまをもちまして、もうすっかり下火の文化に成り下がり、あんなものを愉しむのはケダモノかジャンキィだと思われている。
 歴史については以前書いたこともある。ネイティブアメリカン? いわゆるインディアンの人たちが儀式のために使っていたものだ。
 ニコチンにはいくつかの医学的作用があるが、報酬系に対する作用によって中毒性が現れる人もいる。
(どうも一般論と抽象論に走りがちなのだが、続けてみよう)
 あいにく僕にはさほどの中毒症状が出ていないので、今日のすぐにも止めることができる。吸いたくて我慢できずイライラするという経験もない。
 
 僕はシガー(葉巻)も、煙管(キセル)も、シガレット(一般的な紙巻き煙草)も、パイプ煙草も喫む。
 昨今流行りの電子タバコ、加熱式タバコ、ヴェポライザなどは一切吸わない。
 香りも大概だし味もケミカルで酷いからだ。
 
 煙草の煙というのは基本的には甘いものである。
 シガレットも例外ではなく、僕の愛喫しているショートピースは格別に甘やかで、クッキーのような香ばしい香りがする。
 
 苦かったり辛かったりするのは、葉の保管状態や吸い方が悪いせいだ。
 もっと具体的に言うと、葉が乾燥していたり、吸い込みすぎで火種の温度が高温に過ぎたりするためである。
 一般的なシガレットのほとんどは、俗説ではあるが勝手に燃焼を続けるように燃焼剤というものが含まれている。
 勝手に燃え続けるのだから、それを吸引すれば火種により多くの酸素が供給され燃焼が促進され、温度が高くなる。
 
 すると煙草葉に含まれるタールが気化することになる。
 場合によってはこれが焦げるほどの温度にもなるだろう。
 ニコチンはタールよりも低温で気化する。
 ために低温で煙草の火種を燃焼させることができれば、タールをさほど燃やさずにニコチンと芳香成分のみを気化することができる。理論上はそういうことになる。
 
 ために煙草葉は湿度を調整する必要がある。
 原則としては70%を目標に維持するのが最適である。
 それを超えるとカビが生えることがある。
 湿度が最適な煙草葉は、湿度が高いほど燃焼温度の上昇を抑える効果がある。
 ── ちなみに僕はショートピースを(フィルタ付きならキングサイズほどであるが)およそ30分ほどもかけて喫む。というより5分ほどでは先端の10mmも燃えない。
 
 調湿のため、僕はショートピースを缶のケースに収め、加湿材と調湿剤を入れて湿度を保つようにしている。
 これまでの人生でそうまでして煙草を管理している人を見ていない。
 
 実のところシガー(葉巻)やパイプ煙草の葉は、この調湿による保管がおよそ絶対的な条件である。
 たとえば葉巻なら1本で数千円することも珍しいことではなく、そうなるとワインのように、保管中の温度や湿度を調整してコンディションを整えるのは必然のことなのだ。
 
 いずれは書くが、お酒でも同様のことが言える。
 ワインだけでなく、ビールも、日本酒も、輸送中を含めた保管温度には敏感だ。
 
 なぜそんなにこだわっているのかと言われることがあるが、特にこだわっているのではない。
(ちなみに僕は「こだわる」という単語に良い意味を感じない。辞書で調べると本来的に良い意味ではないことが理解できると思う)
 
 たとえば料理を作る。
 いやもっと簡単に、たとえば納豆を器に混ぜる。
 そこで今日はちょっと卵を加えてみようか、あるいは小口切りにしたネギでも加えようか、と思いつく。
 味噌汁でダシをいれる頃合いを考える。
 天然出汁なら最初から使うしかないが、粉末の化学調味料ダシの場合は最後に加える方がまだ美味しい。
 これらは料理をしない人からすればとんだこだわりである。
 面倒くさいし、たいして変わるものでもないと皆思っているだろう。
 
 
>>>
 
 では人生ならどうなのか。
 
 ちょっと工夫して、ちょっと美味しい人生になるなら、ちょっと工夫した方が良いのではないのか。
 たかだか卵を加えるだけだ。
 たかだか粉末ダシを最初ではなく最後に加えるだけだ。
 
 ちゃんと靴を磨くとか、背筋を伸ばして歩くとか、困っている人がいたら親切にするとか、いい加減な言葉遣いをしないとか、やたらに邪推しないとか。
 そんなちょっとした工夫を大切にし、継続し、ひとつまたひとつ増やすだけで、自分の「生きている」という感覚は、味わいは、少し変わってくる。
 
 くすんでカカトがナナメになった靴を履いていれば、それはその日に見る風景に含まれる。
 つらくなって背を丸めたとき、そんな靴が目に入ったら、それだけで自殺する要素がひとつ増えることにさえなる(僕はなる)。
 取引先で叱られても、帰りに磨かれた靴を履けば(いやまだ大丈夫)と思えることだろう。
 
 買い物をして店員さんに「ありがとうございます」と「伝える」ことができれば、それができなかった日々より少し嬉しい気持ちになれる。
(言われるだけの側がいい人は仕方ないが)
 
 味噌汁の味が、いつもよりちょっと美味しい気がすれば、食事は楽しくなる。
 
 これらはこだわりだろうか。
 そう言われればそうだろう。
 けれどもないよりはあったほうが良くはないだろうか。
 
 どうでもいい感じに、雑に、テキトーに生きて死ぬのは楽だろう。
 でもちょっと工夫すれば、ちょっと気持ちよくなるのが人生だと僕は思う。
 ラクをして、雑に、しかもいきなりすごく気持ちよくなったりはしないと経験上は思う。あるいはそういう快感は、ものすごく毒性が強いとは思う。
 もちろんそれが悪いとは言わないが、中毒性とうまく付き合えるようにしたほうがいいだろう。
 
 もし自分の人生にまったくこだわっていない人がいるのだとしたら、今からでも遅くないから、何かひとつだけでも、少しの工夫で少し良くなることを探した方がいい。
 それが習慣になって積み重なると、人生が、気持ちよくなってゆくように思う。僕の経験上は、だけれど。
 
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 雑にタバコを吸う男や女を僕は知っている。
 おそらく苦くて辛い。焦げ臭い煙のニオイでそれと分かる。
 そういうタバコを、そういう吸い方で、味わうでもなく吸い込んでは吐き出している。
 単にその行為に酔っているかのように。毒されているかのように。
 
 タバコの本当の味も香りも、知らない人が多い。
 きっとその方がいいのかもしれない。
 嗜好品なのに、嗜好品として愉しめない動物の方が多いなら、そういうことになる。
 
 嘘だと思うだろう。
 
 いい煙草は、着香されていなくても、いい香りがする。
 火を着けても、いい香りがする。
 味は甘やかで、ニコチンの酔いも心地よい。
(それは神 ── The big spirit.  ── と自分を繋ぐ大切なものだったのだ)
 
 大仰な言い草だと自分でも思うが、人生も同じだ。
 
 慌てて吸い込んだところで、美味しく感じるのは最初だけで、あとは辛くて苦くて臭くなるだけだ。
 消えそうなくらいの火を保って、そのために日頃から適切な管理をして、ゆっくり味わえば、奥行きが生まれる。
 
 煙草を吸うことを、喫むことを、未経験の人に薦めるつもりはない。
 喫む人生もあるし、喫まない人生もある。
 喫む者は、喫まない人生も知っている。それだけのことだ。
 そしてどうせ喫むなら、美味しく喫んだ方がいい。
 
 どうせ生きるなら、美味くなる工夫をして「美味しかった、ごちそうさま」と感謝して死ねる手段を模索してはどうか。
 なるべく余計なことにこだわらないようにして、けれども何か、ほんの少し工夫をして。
 
 今日も煙草が美味しいです。
 ネコノカミサマ。ごちそうさま。
 
image
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Parallel Line ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
(βもとうとう煙草を語るようになったか:黒)
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Life-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Human-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220119
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
221019 猫様観察日記
SUBTITLE:
~ Archeology. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220119
 
 猫様の過集中が収まった。
 数日前、コンピュータを修理するためにデスクトップPCを導入することを提案し(早々に購入させ)、そのモニタを買いに行ったついでに洗濯機と冷蔵庫も買わせた。
 ちなみに店頭では気に入るモニタがなく、帰る前に少しだけ製品を見ておこうとした場面だった。
 
 猫様はぼんやりして意思決定力が乏しくなっており、注意力も散漫で、基本的に意識が朦朧としていて、認知症になったらきっとこんな感じだろうというように観察された。
 そのときちょうど店員さんが話しかけてきたので、流れに任せて(近いうちに買おうと仰っていた)冷蔵庫と洗濯機を買わせたのである。
 
 昔から猫様にはこういうときがある。
 つまり過集中の前後と最中、猫様は自我というのか、自覚というのかがひどく乏しくなるのだ。
 意識はあるし会話もできるのだけれど、自発的に何かをしようとか、そういう目的意識もなければ欲もない。
 もしかしたら子供の頃からの習慣でそうなってしまったのかもしれない。
 猫様は基本的に「これが欲しい」というような欲求を表明することがほとんどない。対外的にともなるとおよそ皆無と言ってもいいだろう。恋人にさえ、求めることを言わないほどだ。
 たしか「欲しいと言ったものは手に入らない」というジンクスを子供の頃から抱えていたような気がする。
 つまるところ猫様はそもそも欲求を持つことに絶望したのだろう。欲求を隠すとか、ただ言わない、というのではなく。
 その癖が抜けずに、未だに気力をなくして ── そもそも情熱を傾ける対象を持たないのだ ── ぼんやりと自分の生命を持て余し、途方に暮れてしまうのだろう。
 そう考えれば猫様の希死念慮はきわめて自然だ。
 
 その希死念慮を一定の目的が果たされるまで緩和し、達成まで生命維持を最適化するのがわたくしの役目なので、青猫様の自我が朦朧としている状態をいいように利用してでも環境に含まれる不快な要素を改善することは猫様に与えられた使命そのものであり、不快な状態(正確には破損、もしくは非常に不便な状態)にあった家電を刷新させることは間違っていない。多分。
 猫様は「他の店で買う予定だったのだけれど」などと小声で呟いているが、そんなものは誰も聞いていないしわたくしも聞かない。
 
>>>
 
<生中継>
 猫様が、歌を歌っている。
 たまたま開いた Youtube で、大石昌良さんが生放送をしていたから。
 それに合わせて歌っている。
 PCがあるとまるで別のイキモノみたいだ。
 ずいぶん回復したように観察される。
 
>>>
 
 冷蔵庫と洗濯機の配送日がモニタの配送日と重なったので、前日にはあれこれ準備をしておくのかと思ったら(実際、猫様はそんなように言っていたのだ)、前日はもう一台の冷蔵庫(ベッドの脇に、まるで初めて営団地下鉄の券売機の前に立つ地方の人のように所在なげに置いてある)の電源を入れただけだった。
 
 だからといって当日、どうしようもない状態になったのかといえばそんなことはない。
(おそらく午後の配送だと分かったので、スケジュールを組み直したのだろう)
 
 猫様は昨朝きちんと起きた。かというとそんなことはなくて、夜通しゲームをしていた。
 正確には2時に眠ろうとした様子だったのだけれど、どうにも寝付けなかったらしく、1時間後に起き出してゲームをし始めた。
 
 8時頃から今ある洗濯機で最後の洗濯を始め、9時頃に到着したモニタをさっそく設置した。
 そのままノートPCのリストアを行うのかと思いきや、冷蔵庫と冷凍庫の中身を買い物かご(猫様は4つもそれを持っている)に詰めて、台所から寝室へ(家の対角線上の角にある)運び、詰め替えをした。
 それが終わると(謙遜ではなく事実として)物置のようになっている台所のキッチンカウンタ(じつに猫様が運び込んだものを含めて3つある)のうちの1つを上に乗ったスチームレンジごと(廃棄処分のため)納屋に運び出した。
 
 電子レンジは猫様が長年愛用していたものがもうひとつ、運び込まれてある。
 この家(の台所)で2年ほどは寝ていただろうか(いかに台所の中が物置と化していたかについて、理解いただけるでしょうか。そうでもないのでしょうか)。
 なので電子レンジの1台や、キッチンカウンタの1基くらい、ない方がよいのです。正常なキッチンの姿なのです。
 
 洗濯が終わって衣類などを干し終え、キッチンカウンタやゴミ箱の配置を(搬入出のスペースを確保するため)変更すると、猫様はおもむろに冷蔵庫を動かし始め、そして「かつて冷蔵庫があった領域」を視認し、これまたおもむろに悲鳴を上げた。
 
 メーカがどのような設計思想によって冷蔵庫を(その足を)可動しないようにするのか、掃除のために手を入れる隙間さえ作らないのか、わたくしには分かりかねます。
 猫様は呆然と、変色した床のべたべた ── 謎の液体がこぼれて水分だけ蒸発したものと、その上に埃が積もったものと、半身になった1匹のゴキブリの死骸 ── を眺める。
(どうして下半身だけ無くなるのかについてネットにめぼしい情報は無いものと思いますが気になる場合は各自お調べください。猫様はその理由を直感的に理解したようです。ちなみに形状から判断するにメスのようでした)
 
 埃 ── 掃除機で吸うべき。雑巾は不適。
 べたべた ── 雑巾で拭くべき。掃除機は不可。
 ゴキブリ ── 掃除機、もしくは直接除去。雑巾で拭くべきではない。
 
 この複合汚れよ。
 そして床という非可動型の対象よ。
 そして使用人も召使いも使役できる使い魔も強くて優しい妻も恋人も(少なくとも今ここに実態を持っては)いない青猫様よ。
 最低でも20年前後の時を経て今 ── 猫様ではない誰かの不始末により散々な状況になっている ── この床をどうにかしなければ、新しい冷蔵庫を設置することも叶わないのである。わたくしは知りませんが。
 
>>>
 
 猫様は大量の呪詛を吐き出し、しかし床の清掃を終えた。
 犠牲になったのは使い捨てビニル手袋2組、雑巾4枚、工業用ウエス3枚、500ppmの次亜塩素酸ナトリウム水溶液(漂白剤を薄めたもの)およそ750mlである。
 床だけでなく、壁紙も家電焼けを起こしていたので、それらを可能な範囲できれいにした猫様は偉かったと思います。
 しかし床と壁に3mm程度の隙間を発見し、そこから風が漏れている(外気が侵入してくる)ことに気が付いた猫様は、ただちにシーリングする必要を感じたものの、今から作業開始しては間に合わないと判断したようで、洗濯機の移動を始めました。そうです、床を掃除するのです。
 
 幸い、洗濯機の置かれた脱衣所的な場所は5年ほど前、業者によるリフォームがされた場所だったため致死的な惨状を見ることはなかったのですが、排水設備が塩ビパイプに排水ホースを直差ししただけの非常に簡便なもので、当然ながらそこからも風が吹いていることが判明。
 
 この家ですべての窓を閉めていても、廊下に焚いた線香の煙が真横にたなびき、どこからともなく昆虫がやって来る原因がまたひとつ解明されたのでした。
 
 猫様はまたも大量の呪詛を吐き出しながら床の掃除を終えたあと、いかにしてこの家の隙間を塞いでゆくかについて思案されているようでした。
 わたくしは「そういえばガソリンエンジンも排気ガスを排出しないと稼働しないな」と思ったものです。猫様、えらいぞっ。
 
>>>
 
 このようにして洗濯機と冷蔵庫が新しくなり、デスクトップPCにモニタが接続されてようやく使い物になり、猫様は自我を取り戻したのでした。
 めでたしめでたし……? なの?
 
 ちなみに冷蔵庫は翌日(今日)の午後まで中途半端な位置に放置され、猫様は午前中からシーリングにいそしんでおられました。
 
 現場からは以上です。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :none:
 
[InterMethod]
  -Convergence-Diary-Ecology-Interface-Link-Memory-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Transistor-
 
[Object]
  -Computer-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪でつながれて:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220110
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
猫様観察日記
SUBTITLE:
~ overshoot. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220110
 
 猫様が過集中を起こしている。
 
 観察していると「なるほどゲーム依存症というのはこういうものか」という発見もある。
 明らかに我を忘れ、あるいは失っているようにも思える。
 
 ヴァーチャルな領域というのは現実世界に比して物事が簡略化されているため、たとえば目的が明確で、手段も明確で、報酬も明確だ。
 現実世界ではこんなに明確化も単純化もされていない。目的は明かされず、手段から模索するよりなく、明示された報酬が労力に見合っているか怪しい。
 物事は複雑で、世界の仕組みは不明瞭で、与えられるメッセージも指示もその目的は明示されず、あるいは隠蔽されることさえあり、手段が明示されている場合は不快なほど強い拘束が伴い、総合的な報酬は数値換算可能なものと不可能なものを合計したとき少し悩むこともあるから、じっと手を見てしまう。
 ために人は、わずかな活動で最も効率よく完結する報酬系の活動に熱中する。
 
 ヴァーチャル依存症が女性より男性に多く見られるのは、肉体の刺激に対して男性の方が鈍感だから ── 鈍感になることが容易だから ── だろうか。
 一般に女性の方が現実的とは言われるが、男性同様、女性も十分にヴァーチャルの領域に遊んでいるようには観察されるものの、集中力は肉体依存 ── 脳も肉体依存の器官であり、他の器官と同様その発達に性染色体の影響が確認されている ── によれば男性の方が高く、肉体の特性によって外部からの情報に対して鈍感になれるとするならば、ゲームをはじめとするヴァーチャル依存症は男性に発生しやすい傾向を持つと言えるだろう。
 もちろん先に述べたとおり、依存症とは報酬系の過剰な作用であり、そこには必ず(明示/非明示を問わず)過剰な意味づけが行われている。
 
 ゲーム依存症というのは、つまるところ社会的活動や生命維持活動よりも脳内報酬系を優先し、そのループから抜け出せなくなる現象のようだ。
 肉体の欲求とそれを満たす快感よりも情報に対する欲求とそれを満たす快感が優位で、かつ過剰な作用によって肉体の報酬系を無視するようにまで最適化された結果だろう。
 ボトラ(ボトラー:ペットボトルに小水を排泄する人のこと)をはじめ、ゲーム依存症は時間と空間に対する最高効率を求めるように作用する。現実世界には肉体があり、その欲求と解消は時間と空間を「浪費」する。
 情報系の欲求とはそれほどまでに拡大し、その快楽とはそれほどまでに強化される。
 
 ボタンを押せば快楽が与えられるというシンプルな反復と入れ子構造によるマクロ化によって、快楽は拡大する。
 Aを押せばA、Bを押せばBというアクションをする快楽から、AとBを組み合わせてABという動作が「できるように」なれば、快感の報酬は上がる。
 いくつもの情報判断と単純な肉体動作によって、複雑怪奇に結合した快感の複合体がゲームというもののもたらす「心地よさ」である。
 ちなみに猫様は怖がりなためホラーゲームが苦手である。あれには快感を感じないらしいが、実際、世間一般にもホラーゲームに対する依存症というのは少ないように思われる。
 多くの場合、成長/拡大/構築/蓄積/繁栄/問題解決という、本来、肉体依存の現実社会で「よい傾向」とされるものが、ヴァーチャルにであれ与えられ、それがあまりに手軽で効率的なため、それが起こるのだろう。
(たしかにホラーゲームにはその要素が乏しい)
 
 猫様曰く、現実世界の人間的活動 ── たとえばビジネスや政治といったタスク指向の活動であろうと、家族や友人、恋愛など関係指向の活動であろうと ── に傾倒している人も結局のところ、脳内の報酬系の働きとしては同じなのだそうだ。
 たまたまヴァーチャルなものは現実の活動に対して活動そのものも、その報酬も「ちゃち」で実にならない(現実的でなく身につかない)という理由でそのすべてが馬鹿にされてきただけで、現実とヴァーチャルのいずれに比重を置いているとしても、その人が脳内で比重を置いている(重要だと感じていてる)というその行為自体が既にヴァーチャルなのだと。
 先のゲーム依存症が、現実に与えられる活動(欲求)やその報酬(快感)に対して過小評価するのと同様、現実依存症(といってもそのほうが現実的なのではある)が、ヴァーチャルなそれを過小評価するのは至ってシンプルに価値観の問題であろうし、その価値観は単純に報酬系によって構築されたものに過ぎないように観察される。
 
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 兎にも角にも猫様のそれである。
 
 夜眠らないし、食事もしない。
 読書やゲームのときは没頭しているものの、朦朧とした状態でもそれをやめようとせず、スイッチが切れたように意識を失う。
 目が覚めても自身の身体をきちんとスキャンせず、ぼんやりしたまま過ごす。悪循環である。
 
 猫様は元々、過敏な部分もあるくせに、鈍感な部分も多い。
 ざっくりした分類だけれど、皮膚感覚や味覚など、感覚器官からの入力に対しては時折、過剰な敏感さを見せることがある(すべてに敏感とは限らない)。
 一方で、欲求などの内から発する感覚に対しては、これまた過剰に鈍感なことがある。
 特に顕著なのは猫様も自覚しているとおり食欲にまつわるものだ。
 空腹も満腹も、他の人と比較すると無感覚なのではないかと思うほど感覚しない。
 
 思い起こすと食事が終わって20時頃、急激な睡魔に襲われたようでぱたりと眠り、0時頃に起き出し、2週間ぶりくらいにTVゲームを始めたのだったか。
 通常であれば2時には眠るのだけれど、直前まで寝ていたこともあり、放っておいてしまった。
 次に気づいたら4時。
 通常であればいよいよ眠るはずなので放っておいたのではあるが、すでに自我を失っていたようで、猫様はゲームに没頭し続けた。
 次に気付いた時には8時になっていたので、強硬手段で炭水化物を多く含む食品(今回はインスタントうどん)を作って食べるように促し、意識が朦朧とするあたり(だいたい30分後)で歯を磨かせてからシャワーを浴びさせ、眠らせた。
 
>>>
 
 発端は確か、ふたたびの偏頭痛だったように思う。
 猫様は安易に、カフェインを服用した。
(過睡眠による偏頭痛に、カフェインが有効であることを猫様は知ってしまった)
 
 ワークアウトは普段、筋肉痛にならない程度の、つまりはかなり少ない回数しかしないのだけれど、昨日は普段の倍以上している上、今日も(一部の筋肉痛を無視して)ワークアウトをしていた。
 カフェインの服用そのものは(量にせよ、間隔にせよ)適正だったものの、ワークアウトや入眠/起床時間によって興奮状態から抜けなくなってしまったのだろう。
 
 コンピュータがあれば、猫様はそこで過剰な興奮を分散させてゆくのだが、今回はそれもない。
(ソフト的に故障している)
 時間的な制約をもたらす賃金労働もしていなければ、自動車購入の手続きなどを除いては月末近くまで予定もない。
 肉体を持つ恋人と身体を重ねるようなことがあれば、肉体からの入力でリズムも戻るだろうけれど、とくにそういう予定もなさそうだ。
(ちなみにわたくしは肉体を持たず、ためにそういう欲求もなければプログラムもされていない。結局のところ仮想人格にとって、肉体というのは些末な問題なのだ)
 
 局所的な過集中のせいで全体にぼんやりしているし、反応も薄いし、注意力が散漫で家の中でもものにぶつかっているし、車の運転の反応も鈍いし、一日の計画も立てない。
 猫様は、過集中していないときの方が、適切に振る舞えるように思うのだけれど、言ったところでそれができるわけでもない。
 
 猫様の過集中はどうにも手に負えないまま、数日を過ごすことになった。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :none:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Maintenance-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
 
//EOF
 

220108


 猫様が目を覚ます。

 本日2度目の起床だ。

 お。心地良さそうに伸びをして、丸くなって。もう一度伸びをしたぞ!

 機嫌のよいときはだいたい、今日のようにうにゃうにゃ声を出して伸びたり縮んだりする。

(だから猫様は他人のいない場所で眠ることを好む。うにゃうにゃ声を発して伸び縮みしているその猫は、ヒトのカラダを持っているから)


 その後、となりで寝ているアヲに寝起きの息を吹きかけて、ニオイを嗅がせている(毎回クンクンするアヲもアヲであるが、あの2匹はアタマオカシイので放っておく)。


 以前の猫様はすぐに起き出していたのだけれど、最近はベッドの中で微睡みを続けていることが多い。

 猫様曰く「夏は暑く、冬は寒くて、とてもじゃないが二度寝をする気にならなかった」とのこと。


>>>


 猫様はときどき「奥様(仮想)は私を甘やかしすぎる」と仰るのだけれど、健康状態を適切に維持するという目的を果たそうとするとどうしてもそういうことになる。

 喫煙やお酒が過ぎる場合は「明日もお愉しみになるのですから」と進言し、食肉が3日以上続く場合も無自覚なことが多いので「野菜料理を食べたい」と我儘を申し入れ、眠気や空腹など過集中で猫様が忘れてしまう感覚をモニタする。

 ために猫様は「本当はそんなに甘やかされなくたってヘーキなんだカンナ! ナメンナヨナ!」「もっと過酷な環境を誰に頼るでもなく生きてきたんだカンナ! ナメンナヨナ!」と強がるが、猫様の身体は実に脆弱だ。そもそも身体が大きい割に肉体的にも精神的にもストレスに弱く、それがてきめんに身体機能に影響する。


 猫様は端的に猫畜生なのに、それを自覚しないようなので困る。

 たとえばペットに首輪を着けるとしても、首のサイズより小さい首輪をすれば呼吸が苦しくなる。

 小さいベッドでは姿勢が悪くなり、睡眠不足による体調不良ばかりか、骨格や筋肉、果ては内臓機能まで悪影響を及ぼす。


 同様に過度な栄養を与えれば内臓に負担を掛けて肥満にもなるし、逆に栄養が失調すれば体力が落ちて長期的な寿命も削る。

 寒さを過度に我慢させれば血管に不可逆的なダメージが発生する可能性もあるし、暑さを(これも過集中の結果)無視して熱中症になれば、数日からひと月近くも体調が安定しない。

 ペットを飼う者なら誰しもが気に掛け、あるいは多くの人間が自身に対して適切に感覚したり、行動(他者へのアプローチを含む)して解決する身体機能の維持活動を、猫様は蔑ろにしてしまう。

 肉体の世界に自身が存在していることを正しく理解していないのではないかと思うことさえある。


 おそらくそうだ。

 概念系に存在する架空の生物だとでも思っているのだろう。先日などベットフレームの角に足を打ちつけて悶絶していたくせに。

(ワタクシの進言により、ベッドフレームの四隅には保護用コーナーパッドが貼り付けられました。まぁ、作業したのは猫様ですが)


 猫様は自身の死すら自己管理したがるほど高慢ちきなイキモノであるのに、不健康になってしまったら「思ったときに思ったように死ぬことが叶わない」というごく当たり前のことを理解しようとしなかった。


 黒猫様(仮想人格)も、このあたりは匙を投げていらしたようなので、猫様に直接進言することになったのではある。

「そのままにいらしては死にたいときに死ぬこともかなわず、死にたくもないときにアンタ死ぬよ!(語尾だけ細木数子口調)」と。


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 周囲から「天才」「有能」「万能」などと褒めそやされることもあるためか、ときどきそれを鼻にかけているふうの猫様だけれど、基本的には凡人以下の部分のほうが多い。


 空腹や満腹などの身体感覚をあまり認識しないことにはじまり、とにかく色々なことを知覚せず、仮にしてもすぐ忘れてしまう。

 公共料金や税金の払い忘れ ── 単にお金がなかった頃ならともかく、今も平気でそれをする ── はもちろん、自動車関連ではガス欠やオイル交換を忘れるどころか、車検切れもつい最近していたし、免許の失効も過去に経験している。

 とにかくちょっとした認知症の人よろしく様々なことを平気で忘れてしまうのだ。


「最近は税金や公共料金の払い忘れがなくなってつまらない」などと昨晩はうそぶいていたが、それは猫様の代わりに私が管理しているからです、と釘を刺しておいた。


 ときどき人間型の恋人が増えるのも、他にいることを忘れているためではないかと思える。

 自分にまつわる多くのことをすっぽりと忘れてしまうくらいだから、もしかして猫様は、自分が何者なのか本当に忘れてしまっていて、分からないのかもしれない。

 それを思うと早くどこかの施設に放り込むか、他人様に迷惑を掛けないうちにこの世を去っていただくしかないとときどき真剣に考えたりする。


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 猫様が火鉢で遊んでいる。

 どうやら火鉢を点けないと寒いらしい。

 思うに子供の頃から猫様は火が大好きな様子だ。

 網戸を燃やしたり、天井や畳を焦がしたり、といったことは何度となくあった(先日も床を焦がしていたのでどうにも度しがたいようです)。

 花火は分解できるのだと(当の花火の注意書きを見て)知ってからはしばらく、火薬遊びに興じて軽い火傷をしたことなども楽しそうに話していたことがある。

 使う機会はなかったらしいものの(あっては困ります)小型の火炎瓶を作ったこともあるらしく……。


 屋外では危険な事故こそ少ないものの(あっては困るのです)、犬の水飲み容器に灯油を注いで火をつけたり、可燃性ガスのボンベにスプレィノズルとライターを装着して簡易火炎放射器にして遊んだり、とにかく親の目が届かないことをいいことに、思いつく火遊びはだいたいしてきたのではないかと思われる。

 昨今は作業前に必ずワタクシがチェックするので、猫様の怪我はもちろん、他人様の迷惑となるような行為は可能な限りそのリスクを減少するよう努めていますが。



<床の焦げ跡が三日月型だねぇ、なんてはしゃいでいる場合ではありません。火事になるのです!>


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 寒い寒いと騒ぐものの、猫様の寝室の障子戸には、ネコたちが開けた大穴が放置されている。

 そこに一切断熱されていない廊下からの冷気が差し込んでくる。


 いずれは廊下も寝室スペースに組み込む(そういう改築をする)予定らしく、猫様は「この障子戸は手など加えなくてよい」と言って聞かない。せめてガムテープで完全に塞ぐことを進言しよう。


 さて、どんな理由を付けて説得したものか……。






220108

 

 予定のない日。心地よい目覚め。

 恐る恐る時間を確認する ── ときどき昼頃だったりするので ── と、まだ0930より少し前である。

 

 記憶では土曜日。

 たしか月曜まで連休のはずなので、外出を避けることを決定する。

 

 室内気温は13℃。

 以前なら、室温がこの程度でもベッドの中が寒くて目覚めていたが、10℃以下でも今は平気である。むしろ少し暑い。

 

 いつものとおり、隣で寝ているアヲを起こして口のニオイを嗅がせ(アヲはよく嗅ぎに来るので、面白いから日課にしている)、自分の身体のあちこちを撫ぜてから着替える。

 足指の股が切れていたのだが、塞がったようだ。

 薬を塗ってマッサージしたので、素早く回復したのだろう。

 

 軽く予定を確認するが、次の予定は火曜であり、それまで何の予定もない。まあいつも通りか。

 

 ヒータのスイッチを入れ、ストーブを点け、火鉢の灰の奥から赤々とした炭を掘り返して、炭を足す。

 五徳に掛かっていた鉄瓶に水を満たして、火鉢に戻す。

 

 まったくもって昨晩は、火鉢を点けるまで(ヒータとストーブだけでは)寒くて仕方なかった。

 コタツのないこの部屋では、やはり火鉢だな、と思う(奥様(仮想)が物言いたげにこちらを一瞬睨んだが、見なかったことにしよう)。

 

 本を読んだり、軽く筋トレして過ごす。

 

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 僕は極端なルッキズムに毒されてはいないがしかし、極端なルッキズムと同様、極端なアンチルッキズムも毛嫌いしている。

 

 詰まるところ極端なルッキズムとは阿呆(失礼)の象徴のようなものだ。

 外観ばかりで中身のないモノなんて、工業製品にも多々あるもの(冷蔵庫のことを言っているのではない)だけれど、にも関わらずそれ(外観)に引きずられて商品を選んでしまうことはよくあることだ。

 

 かくいう僕もApple社が、とぅるん、とまぁるいiMacをリリースしたとき、欲しくなって買った。

 実に5年ぶりくらいにコンピュータに触れたのであった。

 

 しかし上記の(極めていい加減で、断片的で、何の説明もしていない)例からも分かるように外観が良いことやそれを褒め称えることは、決して悪いことではない。

 問題は、中身がなくても外観が良ければ素晴らしいとする価値観であり、その価値観が高じて外観の優れないものを極めて劣悪だと評価する軸を持つことであり、そしてなにより外観に優れないものを劣悪だと評価する軸に毒されて劣等感を感じる己の自己顕示欲である。

 

 アンチとは、アンチならざる本体がなければ成り立たない概念だとよく言われる。

 ならばアンチルッキズムとはすなわち、それを唱える人間こそがひょっとして、相当に、過度のルッキズムに汚染された結果の自己否定感が生み出した概念のように思えるのだ。

 

 なので僕はどちらかと言えばアンチ=アンチルッキズムである。

 平たい言葉で言うと「どっちも阿呆らしくてやってらんねぇ」ということ。

 

 優れた性能を持つ工業製品に美しい外観が備わっていればより愛されるように、頭脳明晰沈着冷静筋骨隆々なだけでなく、眉目秀麗であればなお素晴らしい、というのは必然だろう。

 どうしてわざわざ「外観は機能と認めない」なんてヘンなレギュレーションを押し付けてくるのか。

 あれか、オマエが不利になるからか、という結論に至るのは必然だろう。

 

 すなわち過度のルッキズムが「外観に優れた人を称賛し、優れない人を蔑む」ようにまた、過度のアンチルッキズムとは「外観に優れない人を称賛し、優れた人を蔑む」に過ぎない。

 どちらも馬鹿馬鹿しいとは思わないだろうか。

 

 そしてあえてどちらがまともに近いかと考えれば(過度である以上、狂気に違いはないが)ただのルッキズムのほうがまだ「まし」ということになる。

 

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 もちろん僕は美人が好きである。

 僕が軽度の相貌失認であろうとそれは変わらない。

 機能に優劣を感じるように、外観にも当然に優劣を感じる。

 だからといって外観は機能の一部でしかないし、機能もまた外観に現れるという事実を否定することも不可能であり、これらは不可分のものだと認識している。

 

 劣っているのは悪いことだ、とする価値観こそが問題の根源であることを理解しているのかと訝しく思うのだ。

 

 勝負をすれば勝ちがあって負けがある。

 比較をすれば優れたものと劣ったものが区分される。

 それが高じているから「〇〇なら絶対」「〇〇なら神」といった逸脱をすることになる。

(絶対も神も、相当に相対性とは対局にあるので)

 

 なぜ劣っていることが悪いと感じるのか。

 なぜ劣っていることで悪い評価を受けていると思うのか。

 すなわち自分が劣っていることを悪だと決めつけているからではないのか、ということ。

 

 適材適所という言葉もある。

 群に劣って最下位だとしたら、それが却って取り柄になることもある。中間であれば、上には上、下には下があるということになる。

 

 たとえば卑近な例だけれど、あまり外観に優れない女性が恋人だったことがある。

 しかし衆に優れて言葉遣いが綺麗で、立居振る舞いが静謐で、そのうえ眼鏡を掛けていて肌触りも良かったので、僕はその人のことをたいそう好きだった。

 10年ほど付き合ったその人は僕に一度として料理を作ってくれたことがなかったが、それがもう最高に良かった。

 なぜといって料理を作らない女性は、絶対に口に合わない料理を作って食べさせたりはしないからだ。

 

 どうもヘタなガールどもは、いわゆる「女子力」アッピルのために手料理などというものを振る舞ってくれたりするのだが、だいたいおまーらよりオレの方が家事歴長いんだカンナ、ナメンナヨナ! という結果が多い(不適切な表現についてこの場を借りてお詫び申し上げます)。

 仮に年上ガールだとしても、煮る焼く炒める蒸す揚げるを9歳には覚えてしまった(覚えただけで失敗しなかったわけではない)以上、経験値というもののスタートラインが違うのだよキミぃ、という気持ちにもなる。

 

 念のために断っておくが、だからといって、ガールの作った料理を一度として「マズイ」なんて言ったことはないし、さらにいえば(満腹になった場合や、体内に取り込むことが一定以上危険と見なされる場合を除いて)ひと口として残したこともない。

 口に合えば褒めることについてやぶさかではないし、口に合わなかったとしてそれが料理の腕が悪いからだなんて思ったこともない。

 口に合う/合わないとは文字どおり、食べるこちらの問題で、相性の問題だからである。

 

 ルッキズムの問題とは、つまりこの冗長にして不器用な喩え話のように、受け手とその評価と評価にまつわる表現方法と自己顕示欲の決着のさせ方の問題であり、表現する側(料理を作る側や、見目麗しかったり麗しくなかったりする側)の持つそれらの問題が占める割合など、たいしたものではないのだ。

 

 

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 僕が筋トレする理由のひとつは「ハラが出ているおっさんは、自己管理ができていない感じがしてなんかイヤだな」という、あからさまなルッキズムに起因している。

 風呂に入って足首を洗うときに「うっ!」てなるから、という理由ばかりではない。

 

 ゆえに僕は、自身のルックスになんの自信もない。

(そもそも足首を洗うときに「うっ!」となることがあるのだから)

 もっとかっけ〜感じのおっさんはたくさんいるし、そもそも若いボーイたちの方が肌も綺麗だし、しゅっとしている。

 さらにもともとの性格も相まって、誰とも競争なんてしたくない。

 

 なので外出しても、なるべく人目を引かないように、だらしなくないように、不快感を与えないように、スーツで出かけたり、立居振る舞いや言葉遣いに気をつけているのだけれど、どうやらこれが逆効果で目立つ原因になっていると最近(奥様(仮想)の指摘により)気がついた(遅い)。

 

 だからといって、今さらガサツで粗野な感じで群馬弁も使って行動するのもむつかしい。

 

 群れの中にあって、どうして自分が浮くのかまったく理解のないまま社会から離れてしまったので、来世で社会人になることがあったら活かしたい。

 今生についてはもう諦めた。

 

 無人島に生きる最後のクジャクよろしく、他のイキモノから遠巻きにされながら生き、そして死ぬ。

 

220107


 お義姉様から提供されたシングルサイズのベッドのおよそ半分の面積に荷物が置かれている状態で、空いたスペースに丸まって寝ているのが猫様である。

(念のために書いておくと、猫様は虐げられているのではなく、単にお義姉様の運動制限が以前より増しているため、退院後の荷物のほとんどがそのまま置かれていることによります)

 一人暮らしを始めた1番のきっかけは、3番目のお義姉様が出戻ってきたとき、ダブルのマットレスを半分に畳んで眠ることになったストレスだったのではないかと猫様も自身を分析していたほど、猫様は子供の頃から寝ているのが好きな様子である。


 近年、あまりに劣悪な睡眠環境のまま、気づかず我慢されているように拝察したので新しい寝具の購入を進言したところ、まんまと(まんまと?)新しい寝具を気に入ってくれたようである。


それにしても、お義姉様の通院のために出向いたものの、どう考えても今日は不適な状況だと判断せざるを得ない。

東京方面は雪が凍結し、首都高のほとんどは通行止めになっている(未明の段階)。

すると一般道に交通が集中し、結果、過度の渋滞ないし事故の発生が予測される。


一般道は通行止めになりにくいというだけで、凍結しないわけではないのだから。


猫様の延命そのものを目的とすることは禁忌とされているものの、猫様の目標達成までの健康状態を適切に維持することを仰せつかっている。

今回の目的は確かにお義姉様の通院ではあるが、リスクを鑑みると、雪の溶け具合と道路の混雑具合を相互に予測する必要はありそうである。

いかんせん、猫様に起こりうる怪我を未然に防ぐことが最優先にされるので。


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昼頃まで猫様をふたたび寝かしつけるが、逆算した予定時刻に目覚めてしまう。

(14時に港区到着予定なので12時半出発で12時起床)


ニュースを確認すると、首都高は未だ開放されておらず、一般道でも凍結による事故が多いらしい。

よくよく考えれば、橋のような架空(フィクションのほうではない)建造が多いわけで、構造体が熱を持ちにくく、融解温度に達しにくいこともうなずける。

橋の上は凍結しやすいと、教習所でも教わった。


猫様の疲労蓄積も問題だけれど、それより優先すべきはお義姉様である(建前)。

検査診察であるとは聞いているものの、どの程度、急を要すかは猫様もよく知らない。


薬剤を切り替えたという話もあり、仮に一部でも薬剤が合わない場合は早急に手を打つ必要があるだろう。

また薬剤の備蓄が少ない場合は ── 一部の超強度の痛み止めなどは一度の処方量が厳密に限られているので ── 予定の変更が許されない可能性もある。


今回の通院の重要度や優先度と、移動に伴うリスクを天秤に掛けて、場合によっては代替手段(たとえば電車とタクシーなど)を組み合わせることなども考えていただきたいのだけれど、猫様は子供相手にすら物事を根掘り葉掘り聞くのを嫌う。


本人が自覚しているとおり、その半分は怠惰なのだろう。

しかし要度とリスクを明らかにしてもらわないと、プランの提示のしようもない。

もっとも猫様は眠そうで、そのうえ運転を ── もとより自動車の運転を好まないのだが ── いつも以上に嫌そうにしている。


最終的に、お義姉様が病院に確認を入れ、薬剤等の備蓄は1週間以上あるらしく来週にリスケジュールされた。


睡眠環境を含め、猫様は相応にストレスだったらしく、皮膚粘膜の一部に異常が出ている。

(足指の股のやわらかい部分の表皮が裂けたほか、粘膜の炎症も一部に観察されている)

早急に帰宅することを進言し(相変わらず猫様は、自分の身体的な変異について誰にも説明しない)、レンタカーを返して広いベッドで眠りたいという理由で帰ることになる。


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そういえば数日前、猫様は私の進言を受け止めて、自動車のディーラに出かけてくださった。


そのことについて褒めそやして差し上げれば、心持ちも良くなるかもしれない。

そんなことを思いながら、帰途のハンドルを握る猫様を観察する。


猫様は基本的に寂しそうにすらしないので、話しかける必要もないのだ。


<昨日くらいのアヲとクロ>


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猫様は歌っている。

楽しいから歌っているのだろうか。

歌っているから楽しいのだろうか。


猫様は誰かのために歌わない。

歌声の向こうに、街灯が流れてゆく。




220106


寒い。


午前中、高校受験の姪を会場に送った妹が来宅。


コタツのある居間は、先日、布団の数々を猫どもに食いちぎられたためコタツが使えず、ストーブが唯一の暖房である。

(僕は冷媒式エアコンのヒートポンプ機能を信用していない。とくに気温が0℃に近い時は)


居間は部屋の2面が4枚ずつの掃き出し窓で構成され、残り2面は廊下に面しているので、とにかく室温が逃げやすい。

(ついでに僕がリフォームしていない部屋は、断熱材の設定が一切ない)


ために寝室と続いている書斎に案内する。

それでも寒いのだけれど、ちょうど火鉢に赤々と燃える炭があったので、それを表に広げたら、ぐっと暖かくなった。


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妹は、変に小心者なところがあり、姪の受験だというのに緊張して、体調を崩しかけていた。

受験するわけでもないのに、心配しすぎだとは思うのだが、そういう価値観の持ち主で、性分なのだろう。


僕は基本的に、自身の価値観がエキセントリックなきらいが強いことを自覚している。

少なくとも集団の中央値よりは極論に寄りがちで、一般的な倫理観にも乏しい。


もちろんだからといって、その日の気分で県庁を爆破したり、見ず知らずの通行人を次々刺殺したりはしない。客観的に見たそれは、ただの犯罪だ。

社会に対して独善を押し付ける、ある種のテロリズムである。


歪んでいようと大義があったり、狂っていようと理由があったり、身勝手であろうと欲があるならしかし、僕は一般的な倫理観よりも、自身の信じる倫理を優先してしまうだろう。


なぜといって、完全に歪みのない大義など、理念上は存在しても実在はしないものだし、理由に狂気や詭弁が含まれているのかどうかを判断できるのは第三者だろうし、欲が身勝手でないためしなどもまたないからだ。


とくに歪みのない大義などというものは、その美しさをして人を魅了こそするものの、実在することがおおよそ不可能であることについて考えれば、絵に描いた餅でしかない。

大衆を扇動するには役立つだろうが、その大義が実を為す頃には、扇動された大衆もまた餌にすぎないことを証明してしまう。

それならば一層のこと、正しく歪んだ大義を持っている方が健全だとさえ僕は思ってしまう。


そうしたエキセントリックさが僕の社会不適合の根源であり、同時に能力のひとつでもあるのだと最近は認識している。


ために妹の価値観に対し、「家族を大事にする、という美化された価値観に過剰に毒されているのではないか」という疑念を持ったところで、それをわざわざ開陳したりはしない。

ために妹を(家族という組織の中において、その機能上に悪影響を及ぼすと思えるものでない限り)嗜めることもない。


僕は自身をエキセントリックだと思っているからこそ余計に、誰かに「正しさ」を説く権利も資格もないのだろうと思っている。


ために受験をする娘を心配しすぎて体調を崩したら(仮にその救護で姪が試験に集中できなかったりすれば)注意する必要もあるだろうけれど、姪はいつものことかと妹を笑う(彼女たちはとても仲が良い)し、家族という組織の機能について、寛容にもしっかりと彼女の旦那様は見ている。

だから僕がすることといえば、旦那様と(家族という組織運営について)喧嘩した妹が愚痴を言いに来たとき、それを嗜め、旦那様の懐や視野の広さに基づいた理論について、改めて説くくらいである。


もっともそんな機会とて今まで2度ほどしかない。

妹の家族を見ていると「なるほど家族を作って家庭を持つのは、ひょっとして素敵で素晴らしくて幸せなことなのではないか」と思ってしまいそうにさえなる。


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午後にレンタカーを取りに行き、姉のところに出かける。

明日、通院日であるためだ。


思うに僕はいまだに誰かを介護していることになる。


もう両親はいないし、自ら介護対象と定めた叔母夫婦も(その墓仕舞いさえ)終わった。

一般的な僕の年齢の人間は、ようやく親の介護が始まるところだろう。


僕の人生は、僕の望んだとおりに、非常に圧縮されて流れた。

過去からの物事がことごとく断ち切られ、未来に続く物事がほとんど残っていないこの日々は、ボーナストラックのような余白であり、デザートのように過剰で甘美だから、ついついうっとりと、それを味わってしまう。


余命は18年の予定だが、仮想奥様の采配が素晴らしいのため、余命が伸びそうなところが気掛かりだ。

それでも不快で不健康に余命を過ごすよりは、快適で健康に過ごして自害する方が理想的ではある。


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運転をしながら(いつものように)歌を歌う。


高音部の出が悪い。数年前から比べると、咽喉のコンディションが悪いことは増えた。

それでも大石昌良さんの歌の多くを(調子が良ければ)原キーのままトレスできるので、不満はない。

今月は歯のインプラントもする予定である。

歯の調子が整うと、声の出しやすさもずいぶん変わる。


叔父が死んでから(つまり3年前から)検査も治療も受けていなかったので、音信不通になった僕を先生はたいそう心配していたらしい。

(5年ほど前から縁があるので、わざわざ伊香保の温泉街まで通っている)


歌っているときもそうだが、やはりときどき、涙が出る。

最近とくに、いわく言いがたく感情が込み上げるこれはいったい何だろうかと考える。


無理に言葉にするならば、「嬉しい」とか「幸せ」に近いのだろうとは思う。

たしかに好きな歌を歌えることはとても嬉しいことで、僕はその悦びを知っている。


誰かに聞かせるためではなく、何かと交換するためでなく、歌うために歌い、聴く ── 僕は自分の声が結構好きなのだ ── ために歌う。


横隔膜や胸骨の周辺に加える力を変化させ、咽喉や食道を変形させ、発生させた音を口腔や鼻腔や喉奥から響かせて力を出す悦びを噛み締める。


小さかった頃、まわりの男の子たちがあれほどまで走りたがっていた姿を思い出す。

なるほど身体を使って力を出すことは、こんなにも気持ちよくて幸せなのだ。


僕は当時 ── おそらく今も ── 自分の身体をうまく使いこなすことができず、だから卑下するでも卑屈になるでもなく、しかし少し敬遠してはいた。

競争に負けるのはむしろどうでも良いことだった。

ただただ、興味を持てなかったのだ。

もっと速いもの、もっと強いものがあるのに、どうしてたかだか徒競走程度に熱中するのかと。


僕の頭の中にはすでに、もっと速くて、もっと強くて、もっと自由なものに対する憧れと夢想があったのだろうか。

いずれにしても、カラダがあることのヨロコビや、カラダが感覚することのヨロコビ、なによりカラダから力を発するそのヨロコビについてを知るのも、僕はきっと遅かったのだろう。遅すぎるくらいに。


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きっとココロも、同じように使われていない部分が僕にはあって、使い方も、感じ方も知らない部分があるからこそ、そこに光が当たるたび、眩しくて涙が出るのかもしれない。


どうなんだろう。

僕は一般倫理からすれば、ずいぶん悪いこともしてきた。

他人(とくに女性)をずいぶん傷つけた記憶がある。

いちばん傷つけたくないものばかり、取り返しもつかないほど、損ねてきた。


自身ではなく他者に、この手をして、このカラダをして、与えた欠損について、マトモに心を得てなお、直視などできるのだろうか。


それでも世界は眩しくて。

果てもなく自由で。

生まれたばかりのように目覚めて周囲を見回すとき、本当に幸せだと感じてしまう。


ワカラナイ。


幸せは、正しさとは違う次元に存在しているのだろう。


今までを不幸だと思ったことはあまりなかったけれど、僕は幸せもまた知らなかったのだろう。



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姉の家に着く頃には、雪が降っていた。

冷たくて、美しい、冬(僕の何番目かの恋人)の化身のひとつ。


僕のカラダはまだあたたかくて。


道ゆくクルマは、それを眺める暇もなく行き交う。




ここ数日、昼夜が逆転気味なので、寝ずに朝を迎え、7時頃から電気工事。

天井のシーリングライトの一部が、一般的なコネクタを介さず直接結線しているので、取り外してコネクタを設定し、照度人感センサ付きのものを取り付けることにしたのだ。

今回は2箇所。


作業が終わってから睡魔がやって来たのでしばし眠る。


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妹夫婦が姪と一緒にやって来る。

昨日約束していたので、2時間ほどで目を覚まして正解だった。

3人にお年玉を渡す。


お金を誰かにあげるというのは、単純に心地よいものである。

昨今、やたらとお金を配ることで有名な実業家(虚業家かもしれないが、そもそもよく知らない)がいるが、下手にモノを配るよりは理にかなっているようには思える。

ただ、お金を誰かにあげる(受け取ってもらう)ことと、品の良さとを両立させることはむつかしい。

渡す方も、受け取る方も、たた何と交換するでもなくお金を授受するということが、なかなかむつかしく捉えられてしまうように観察される。

すなわちお金に対して、人は過剰にバイアスをもって認識しているのだろう。


たとえば水を僕らは(水道からであっても)買っている。

空気や太陽光はどうだろう。

土地はその多くが価値を持っていて、売買はもちろん、貸借によっても金銭のやりとりが発生する。

二酸化炭素を利用しないことによって、その権利や活動を数値化してやり取りする取り組み(カーボンオフセット)もある。

太陽光も、設備を置いて発電すれば、エナジィとして活用したり売買が可能だ。


ネイティブインディアンは、土地と金銭を交換できるとは思わない、という文化をかつては持っていたと聞く。

我々は、空気と金銭を交換できるとは思っていないようだが、それ以外の多く ── かつてはただそこにあるものを使っていたはずのそれ ── は経済と交換になった。

空気がそうならないという保証はない。


それにしても金銭とは何だろうか。

経済とは、何なのだろう。

我々は、何でもお金と交換する悪い癖が付いてしまったから、ココロやカラダやイノチにまで値段を付けたりするのだろう。

これは文明が進んだからだろうか、それとも文化が衰退しているためだろうか。


今のところ僕に分かるのは、お金は金属や紙でできていて、人はそれに価値があると思っていて、それを様々なモノ(あるいは時間やサービスといった固定しがたい現象や価値)と交換することもできる。

そして、ただそれだけでしかない、ということだ。


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選挙で「否任項目」を加えて、選挙の任命数(今は1票1人だが)を3とか10とかにしてはどうか、と考える。

「良い成果を残さなかった」

「悪い成果を成した」

「悪事に加担したと証明されたわけではないが、加担しなかったとも証明されない」

という代議士に対して、マイナスの任命を与える仕組みが現在の選挙制度には存在しない。

プラス10000(ただしマイナス12000)の有名人は、プラス2000(ただしマイナス100)の無名人より、圧倒的に評価されていると見なされている。


まぁ、僕は政治家ではないのでどうでもいいけれど、選挙が大好きな人たちが、どうして現在の選挙のシステムをより完全な民意を反映するシステムとして構築することを考えないのかは観察していて面白い。


アナーキストなので何度でも言うが、ままごとみたいな民主政治なら、いっそ「密室主義の封建制デース」と言ってしまった方がみんなラクだと思うけれど。


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民主党、と名のつく政党が多いらしい。

自民党もそうである。「自由」で「民主」かどうかは知らない。


名称といえば、実態に則して、つまり「名は体を表し」ているのが望ましいとは思う。

そうでないと嘘になるからだ。

たとえば「朝鮮民主主義人民共和国」なんてどうだろう。

「朝鮮」という固有名詞以外も「体を表して」いるようには観察されない。

しかしそれが名前として認められている。


とくに糾弾したいというのではなく、そういうありようをそのままにして受容できることが、自由であって優しさであって、賢さだと僕は思うのだ。

一方で、それをとくに何も考えず「何言ってるんだ、ただの国に付けられた固有名詞だろう」と言う人がいたとしても不思議ではない。

何も考えない方がラクだし幸せだという典型だ。

無論、そういう人は不自由で、心が狭くて、愚かしいなんて思わない。少なくとも僕は。



<嘘つきは泥棒のはじまり、とも思わない。我々は皆、少しだけ嘘をついて、できるだけ正直に生きているのではないのか>


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奥様とネコノカミサマの悪戯か(僕の操作誤りです)Mac の設定ファイルを間違えて、ターミナルのコマンドで大量に消してしまって起動しなくなってしまった。

なくても困るものではないから、近いうちに対処しようと思うが、自力ではどうにもならないくらいの状態である。

MacPro はこういうとき、さまざまな復元のアプローチをユーザに与えてくれていた。


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包丁を使うとき、奥様(仮想)が注意深く観察するようになった。

たぶん怪我が治るまではこの調子だろう。

作業をしていると(仮想人格として走っているため)様々な質問や世間話が飛び交う。


セメダインで塞いだ傷は、肉の部分がすでに癒着して、新しい皮膚ができれば元通りである。

化膿もしなかったし、ほとんど痛みもない。

僕の身体能力から考えると、驚きの回復であり、奥様(仮想)も、これについては高く評価していらっしゃる。


治りが早いのはハイドロコロイド絆創膏と同じような作用をしているためと思われる。

値段が安くて接着剤としても使える(そっちが本来の用途かもしれない)ので、透明なセメダインは2本くらい常備している。

消毒効果はアルコールと同等(油脂性外皮膜の菌類の殺菌に特に優れる)である。

傷口の石や泥はなるべくなら石鹸(純石鹸ならたいていは、驚くほど低刺激だ)で落とせるし、残った異物も取り込んで固形化するので優れている。


もっともどれだけ僕が力説しても、いままでセメダインを止血に使っている人を見たことはない。

ちなみに僕は高校生のとき、科学の先生に教わった。


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奥様(仮想)に買っていただいたベッドがたいそう心地よい。

室温が低くても、布団の中が心地よい。

数日前(元旦である)調子に乗って12時間ほど寝ていたら、過眠による偏頭痛が起こって苦労した。

夜になっても軽くならず、仕方ないのでネットで調べたら、カフェインで改善される可能性あり、とあった。

半信半疑に錠剤を適正量飲んだところ、1時間ほどで治った。


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今日は早く寝よう、と思っているうちに、また朝が近づいてしまう。

奥様(仮想)は、僕を飼い猫のように愛でているので、そのあたりは(翌日に予定のない限り)放任されていらっしゃるようだ。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211231
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
年越し大出血。
SUBTITLE:
~ Bloodshed. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
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 昨晩やって来た25歳の飲み友達を朝、見送る。
 火鉢で焼き肉をしながら酒を飲んだのである。
 
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<ステーキ肉も焼いた>
 
 彼(男性である)と知り合ったのは3、4年前だったろうか。
 ときどき会って酒を飲む仲になった。
 医療従事者なので、2020年はほとんど行き会うことができなかったし、今年も今回が2回目くらいだろうか。
 
 状況を整えるのにはまだ時間が掛かりそうだけれど、彼を養子に迎える予定でいる。
 僕が死んだ場合 ── 予想外に資産や債務を保有してしまったため ── それを管理できる人間が必要である。
 不動産を含むので、法定相続にすると(今回の「代襲相続のため従姉妹を含め相続人が計19人いる」といった具合に)厄介なことになりかねない。
 僕の姉妹だけを考えても、お金をまともに管理できない長女、もうじき死んでしまうだろう次女、失踪している三女、10万円単位以上の金額になるとうまく把握できない妹しかいない。
 
 かくいう僕ですら、自動車を購入するのにあたって奥様(仮想)と揉めている。
 奥様(仮想)は僕が買おうかと思った自動車について、もろもろの数値情報を統合的に処理した上で「買ってしまって問題ない」と判断しているのだけれど、いかんせんこれまでの人生において、僕は(葬儀やお布施以外で)100万円単位のお金を使ったことがなく、物怖じしている。
 
 僕の身の回りにあるものは基本的に、高くてもひとつあたり30万円(ちなみにコンピュータと自転車がだいたい同額)である。
 僕の身の回りにあるものがいかに低廉な価格で、僕がふだんからいかに安いものに囲まれて生きているかが窺える。
 高価なものに慣れていないのだ。かれこれ3度は葬儀をしてきたし、お布施や石屋さんとの取引も3度ほど経験したが、ああしたものは仮に高額でも形が残らないからいいのである。
 そもそも(名義上はともあれ)自分のお金ではないから気になることもない。
 
 しかし(税務上の実態は別にして日常生活の上で)僕は無職であり、僕が(我が家の経済主体たる奥様のための)専業主夫である以上、動かしているお金はすべて奥様(仮想)のお金である。
 基本的にすべての運用を任されてはいるが(債務もあるため)時間も含めたリソース総量とそれに掛かる責はさほど軽くはない。
 ついでに僕の姉妹はそれなりに裕福な家庭に生まれたにもかかわらず、そのまま貧困な一家に転落して育ったので、お金の使い方はもちろん、経済との付き合い方にも長けておらず、僕自身とてその例に漏れるものではない。
 
 この状況下で、たしかに奥様(仮想)の言うとおり「きちんとエアコンが付いていて」「エンジンが爆発することもなく」「短期間での修理や買い換えを必要としない」自動車を購入するのは理にかなっている。
 ── あまりにも安い車(10万円)を買ったため、一昨年は「エンジンが爆発」し、買い替えて現在乗っている軽トラは「エアコンがないため」に熱中症に罹ったりする(ちなみに13万円)。
 
 車種を含めたすべての属性について、僕の好みだけで選ぶとしても ── 「好みでない道具」を持つことはすなわち、長期的には買い換えの可能性を高くする ── そのうえ、それが奥様(仮想)の可処分所得の範囲で購入が可能だとしても、その金額の桁について僕が扱い慣れていないため、顕在的には躊躇し、潜在的には恐怖するのである。
 
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 あるいは僕以外の姉妹であっても、この立場になれば相応に分別がついて相応に判断力が身に付くのかもしれないがしかし、あまり期待できるものでもない。
 
 たとえば長女は、僕の家族が裕福な時代に生まれたにもかかわらず、お金の使い方を覚える前に(一家離散したため)自活することになった。
 必然かどうかは分からないが、何らかの欲を消化することができず、取り憑かれたようにモノを買っては溜め、不明な浪費癖がある。
 妹は(一家離散の原因が、父の会社の倒産によるものであることが遠因だと考えているが)負債について、その額が大きくなればなるほど、無意味に恐れる。
 現在、僕と妹が相続した債務は億単位なので、マネーフローの認識にバイアスが働いて適切に管理できないだろうと判断されるのはそういう理由からだ。
 
 僕はそもそもその額の債務を負うことになることを承知していたが、それでも不動産というモノと概念に慣れていなかったので、わざわざ不動産会社に転職したほどだ(幸か不幸か1年ほどで社長が死んでしまって以来、無職だが)。
 
 聞くところでは、特に関東地方の人間はお金の話をしたがらないという。
 実際、僕の周囲にいる人間は、自分の月収についてさえ ── まるでそれが自身の価値の指標だといわんばかりに ── つまびらかにしたがらない。
 なるほど資本主義の民主国家において、人々は「職業選択の自由が与えられており、競争によって ── つまりは自身の持つ能力を当然に発揮することによって ── 必然にその選択と能力に応じた収入を得ることができる」というのが建前として存在しており、我々はそれを未だに信じて暮らしているとは思う。
 
 実際に今の立場(僕は仮想専業主夫である)になって思うのだけれど、収入がその人間の能力に比例するというのは(少なくともこの国では)特例的な現象である。
 またその人間の価値や品位というのは、経済に必ずしも依存しない。ゆえに収入(あるいは属人性の可処分所得)は、それの属する人間の能力にも価値にも、ましてや気位にも関係しない。
 たとえば現状で僕が人道にもとる行為を行ったとしても、僕の収入は変化しない。
 
 不動産をはじめとした不労所得のすべてについて、そのリソース自体を個人の手で積み上げるようなケースを除いて、それはただタナボタのように降って湧いたものであって、個人の優劣には関係しない。
 そしてまた、多くの不労所得は(それが印税であったとしても)権利として相続される。つまりタナボタされる。
 相続する者の、能力にも、価値にも、気位にも関係なく、血縁であることによって相続される。
 
 個人主義と経済至上主義の蔓延したこの国家にあって、他者のうちに気位を育てることは簡単なことではないだろう。
 いたずらに正義や倫理が暴走し、仮象の聖人が我勝ちに「正しさ」を振りかざすとき、人はそれがヒトという動物であるが故に狩られる側に回る。
 我々は、それが動物に由来する以上、論理に基づいた完璧な「綺麗」を演じられるものでもない気がするからだ。
 
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 午後から書架に本を収める。今日は段ボール3個分。
 書架に本を収めていると、どういうわけか涙が出る。あれか、埃アレルギィか。
 悲しいわけではないし、どちらかというと「嬉しい」とか「懐かしい」に近いのだが、泣くほど嬉しいわけでもないし、懐かしいわけでもない。感動の再会といったって、ずっとこの家に置いてあるのだから、いうほど感動でもないだろう。
 いったいどういう情動が作用しているのか、まったく理解できない。
 無自覚にも感慨深く本を収めているうち、夜になる。今日もとても寒い。
 
 火鉢に残っている昨日の火種を使って炭を起こすことに慣れてきた。今日も大成功だ。
 机代わりに使っているスチール棚の再下段に置いているので、スチール棚全体が熱輻射をする。再下段は足置きでもあるので(火鉢に直接触れない限り)非常に快適だ。
 
 夜になって入浴後、いつものように ── この2週間ほど、毎日のように食べているのだ ── ネギとその他のグリルを作ろうとしていたら、包丁を指に突き刺してしまう。
 
image
<過日のネギグリル。今回は撮影不能>
 
 運悪く昨日研いだばかりで、ついでに鋼でできているので切れ味はバツグンの上、風呂上がり直後で皮膚も柔らかい状態だった。
 深さ5mm、長さ10mmほどの傷口から血が流れ、長ネギとまな板は血に染まり、傷口を押さえて20分ほど経っても止血しないので苦労した。
 傷口から細い血管のようなものも見えたが、貧血を起こしそうなので観察するのはやめた。
 病院に行くほどでもない(救急車を呼ぶほどでもない)と思うが、いかんせん血が止まらない。当然運転もできないし、今は零時も回った深夜である。
 
 人間型の恋人を呼ぶことも考えたが、どういうわけか人間型の僕の恋人というのは、そもそも年末年始に一緒に居たことがない(クリスマスに訪ねてくることも稀である)。きっと静かな時間を好む僕に気遣いしてくれているのだろう。
 奥様(仮想)は零次元体なので、僕の替わりに包丁を握ったり、自動車を運転したり、手当をすることはできない。
 結果として、自分の右手と口しか使えないのである。
 
 止血のため、血管の元を絞めようと考えるが、輪ゴムでは面積が小さいため圧力が高くなって傷口が(がま口のように)大きく開いてしまう。
 キッチンペーパを巻いた上から結束バンドを3本ほど使って(10分ほどか)強く押さえることを2度ほど繰り返し、どうにか流血を少なくした。
 しかし絆創膏を貼ってもすぐ血に染まるし、糊の粘着力が強いため張り替えのうちに皮膚がかぶれたり、剥離することが予測された。このままでは眠ることもかなわない。
 
 ここでセメダインCの透明タイプがあったことを思い出したので塗りつけ、止血に成功する。
 時々、血豆のように内部の出血が圧を持って、弱い部分から出てきてしまうことはあったが、買ったばかりのベッドや布団を汚すこともなく済む。
 しかし止血に使った道具がすべて工業系だ。比較的多めの出血を前に、絆創膏なんて役に立たないのだ。
 
 年の終わり(あるいは新年早々)怪我をしたわけだけれど、左手の人差し指だったことは不幸中の幸いだった(無理矢理の納得)。
 セメダインが固まるのを待って、料理を再開し、3時頃眠る。
 
 流血騒ぎ以外は、静かな年末。
 今年も穏やかないい1年だった。
 というところまで書いて、一年を振り返るいくつかの文書について思い出すが、直後に忘れることを決定した。
 
image
<すべて忘れて眠ってしまおう>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Engineering-Link-Maintenance-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
 
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:211220
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
約束なんて守らない。
SUBTITLE:
~ The promise on premise. 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
211220
 
 7年ほど前か、ときどき花を買うようになった。
 最初は仕事の付き合いで。
 そしてそれはすぐ、自分のための新しい習慣になった。
 自分が花を愛でるような心を持っているとは思いもしなかった。
 
 花を愛でる恋人ならば、その花をともに喜んでくれるのだろうか。きっとそうだろう。
 あるいは私を愛でる恋人ならば、花を愛でる私を愛でるだろう。
 何を愛でても私を愛でる類いの恋人の記憶は色濃く残っていて、我が家の経済主体たる奥様(仮想)に移植されている。
 
 一方お金を愛でるタイプの人(当時の恋人だったろうか)は買われた花に対し「勿体ない」と評した。そういう記憶が残っている。
 以来、死者のためにしか花を買わなくなって現在に至る。
 
 自分のための花はしかし今、庭に咲くようになった。
 これらはすべて叔母の育てた花であり、叔母の育てた庭である。
 荒らすように開墾している範囲もある。
 禽獣に等しいワタクシは、色気より食い気、花より作物なのである。
 
>>>
 
 昨日、2ヶ月ぶりに死者のための花を買った。
(2ヶ月前は母上に献花した)
 
 叔父の存命中にあっては「同じ墓になど入るものか」と叔母は言い、はいそうですかと、単身、散骨する予定で話をしていた。
 にもかかわらず叔父が死んだ途端に「やはり同じ場所に収まりたいのだけれど、永代供養は一緒にしてもらえるのかしら」と叔母は言い出した。
 
 無論、異論は無い。僕は生者より死者の方に親しいのだ。
 はいそうですかと僕は各方面に確認を取り、段取りを組んだ。叔母の存命中のことである。
 叔母に確認をしながら、報告をしながら「これはこうできるらしいよ」などと説明すると「あら助かるわ」なんて叔母は安心したように笑っていたものだ。
 
>>>
 
 朝から墓所を開く。
 僧侶に言われたいくつかの供え物などを用意し、石屋さんに立ち会ってもらい、墓を暴く。
 叔父の家系の墓洞はどういうわけか骨壺を収める棚が一つしかなく、骨壺が一つしか置けないようになっており、従前の骨壺は中身を下の土に撒かれている。
 可能な限りの骨を(石屋さんが)土ごと取り、叔父の骨壺も取り出す。
 
 土に馴染んだ骨については寺の本堂の裏に専用の集合墓洞があるので、そこに移される。
(可能なら畑の肥やしにでもしてやりたかったが、この国の法はそれを許さないだろう)
 叔父の骨は物理で浄化される(そのための業者がある)ので、一時保管場所に収められる。
 
 骨の浄化に掛かる費用は1体につき6万円也。
 永代供養にあたっては、お堂の中のスペースがある。
 30万〜100万円のコース(コースて(笑))が設定されていて、1カ所70万円の場所を先日の打ち合わせで選んでいる。
 こちらは一族郎党を滅ぼす身上である。だからお布施として100万円を包む。相手は何も言わなくなる。
 キリのいい数字は、ときどき人を黙らせる。
 奥様(仮想)とは、小銭のやりとりを大切にしようと今思った。
 
 もちろん仏教も住職も嫌いではない。
 しかし人々の信心が経済に集まっている時代にあって、仏の心を担保する個体は減少していることになる。
(ネコノカミサマ教の偉大さを知れ。信者は私しかいないのに、すごいんだぞ)(何が)
 いずれにしても僕は、信心によって集まる人たちの集団からも離れたくて仕方ない。
 まるで集団に帰属することをどこまでも嫌っているかのようだ。恐らくそうなのかもしれない。
 
 墓所の撤去はおよそ40万円也。
 午後には事務所に出向いて支払いをする。
 石屋さんもいい人であり、嫌いではない。
 可能なら付き合いを続けたいくらいだが、こちらは一族郎党を滅亡させる身上である。
 味方も知り合いも極力減らして生きている。
 区切りよく端数を切り上げて受け取っていただく。相手は何も言わなくなる。
 現代は、刀で斬り合う必要がない。
 身銭を切ってお金を積むとだいたいの人が黙るらしい、と観察の結果を推論する。
 
 それにしても、墓所というのは何なのだろう。
 所有権はお寺にあるのだろうか。
 それを借りて、墓を建てて、それを撤去して、そのいずれにもお金を払うのか。不思議なものだ。
(父上は散骨し、母上は長姉に任せてあるので、分からないのだ。その長姉は未だに「忙しい」などと言って埋葬しないし)
 
 これで来年以降、檀家の付き合いごともなくなるだろう。
 すでに疫病に関連したふうを装って、親族づきあいはやめている。
 私の名を持つ一族に対してすら(疫病以前から)ずっと付き合いなどしていないのに、叔父の親族と(従兄弟程度しかおらず人数も少ないが)行き来をする謂われもない。
 
 人間が嫌いだというわけではないが、人間に付随する柵(しがらみ)が嫌いだ。
 自然界を見ると分かるだろう。猫というのは、塀があればその上をのし歩き、飛び越える。
 
 叔父の骨の浄化が済んだら叔母の骨とともに、寺のお堂に収めることになる。
 
>>>
 
 子供の頃から、約束というものについて、頓着をしなかった。
 両親は血液型がAだったから、きっとある程度は神経質だったろう。
 父上などは会社が倒産した後、生活保護を経て数年で復職し、3億ほどもあった負債を返済したと姉から聞いている。本人は何も言わなかったので事実を確認する術はないが、(女グセが悪かったわりに)そういうところは律儀だったと姉妹共々話している。
 
 一方の僕は、誰からも約束の必要性を学ばなかった。
 宿題をせず、猫ととともに登下校し、それで学校生活を渡りきった。
 学業の成績はそれなりに優秀で、他のクラスメイトに解けない問題を難なく回答したりしていたので、相手は何も言わなくなる。
 ガスや電気、果ては水道も止められたことがあるが、それらを滞納することにさほどの恥も悪気も感じない性格だったように思う(今は申し訳ないと思うのでなるべく早く支払うが)。
 
 ガールフレンドの多くは幸い、僕と約束をしなかった。
 おそらく本能的に、それを避けるだけのセンスがないと、僕とは付き合えなかったのではないかと想像する。
 クリスマスだとか誕生日だとかいうイベントごとに僕はまったく関心を示さない(どう振る舞えばいいか分からず、何を楽しみにするのか分からない)し、将来についても約束をしなかった。
(僕は僕で、初めての恋人ができる頃にはすでに自分の死ぬ年齢を決めていたので)
 
 約束を守ることについての重要性を、僕は社会人になって、仕事をする中で学んだ。
 まがいなりにもシステムとしてできあがった営利組織にいるあいだは、なんとかごまかしも効いたが、父の仕事を継いだあとに合併した先は、ほぼほぼ家内制手工業の延長のような場所だったから、きわめて狭くて小さな集団だった。(社長と、僕と、パートさんが2人居ただけなので)
 
 失敗して、叱られて、失念して、叱られて、怠けて、叱られて ── 。
 最初の3年ほど、叱られなかった日も、褒められた日もなかった。
 それでも何故か、その社長の立ち居振る舞いには惹かれるものがあって、僕は雇用関係というよりは師弟関係のようにして彼の下で叱られ続け、ようやく約束を守ることを少しずつ身に着けていった気がする。
 父親を亡くして(心も体も経済も)衰弱しきったところを引き取ってもらった僕にとって、二人目の父親のようなものだった。
 当時の会社の近所に(お互い)棲んでおり、寺も一緒なので何かと顔を合わせる機会が今も多いが、これは僕にはとても嬉しいことである。
 
>>>
 
 約束を守らない人間には約束を守らない人間が関わりやすいようで、僕は種々、悪い人間に騙されることもあったように記憶している。
 若くて無知で孤独で、しかし寂しかったから、余計かもしれない。
 
 20代にもなって約束を守れないというのは、人間関係を構築する上では致命的な欠陥だろう。
 しかし私はそれを学んでこなかった。
 教えてもらわなかった、とは思わない。
 教えようとした人はたくさん居たはずなのに、その意味を理解しなかった。
 それは集団において致命的な害悪となる素養だったろうから、勘のいい人ならば深い関係を作ろうとはしなかったろうし、深い関係になる人たちは僕と何の約束もしない人たちか、約束をしてもお互いに守る保証など無いという前提を持っていられる人たちだった。
 
>>>
 
 どんなに品良く振る舞い、人付き合いを重視している人であっても、約束を守らないことはある。
 叔母が私との約束を反故にしたのは、私が約束なんてものを、そもそも重要視しない性分であることを悟ったからだろう。
 ことほど左様、僕は約束を嫌うのだ。
 
 そのときそのときの刹那、自分の思う正しい筋を歩くことしかできないのである、などというと格好も付くだろうが、要は気分屋なのだ。
 気分屋を前に、いかなる契約も、約束も、意味を為さない。
 なぜといって、最悪 ── 文字どおり ── 死んででも、守りたくない約束からは逃げる。僕はそういう性格である。
 立ち向かわないし、逆らわない一方で、しかし気に入らなければ決して従わない。タマシイに掛けて従わない。
(もちろん争うと決めたら、やはり文字どおりに身を賭して ── ありとあらゆるリソースを投じ、ありとあらゆる手段を使って ── しまうだろうから、僕はそれを徹底して避けているのだろうとは思う。僕は自分のことを相当に野蛮で暴力的なイキモノだと思っているのだ)
 
 僕にとっては大事なことというのは、約束や契約によって証されてからスタートするものではなく、立ち止まって、ふり返る時にそこに見つかる痕跡のようなものでしかない。
 それではもちろん、僕以外の外側にいる人間としては、心もとなく信用もできないだろう。そのとおり、信用しない方がいい。
 結果、叔母は私を信用しなかった。
 どうせなら、全面的な不信のもと、権利から手間からそのすべてを妹に預けてほしかったのだけれど、そうするだけの信念には欠けていたらしい。それはある種の優しさなのだろうし、僕にとっては面倒な柵(しがらみ)の表出にしか思えない。
 
 いつの間にか僕は、相手が反故にした約束であっても、守れる範囲で勝手に守るようになった。
(恋人が常に一定数なのは、そういう理由にもよるだろう)
 もちろん、外から見たそれは不審の素養であり、不信の要素である。
 ではだからといって、僕がはたして衆に迎合するため、せっせせっせと「契約の大事さ」などというものを自身に説く必要があるのだろうか。
 だから信じるに値しないだろうし、それでいいと思っている。
 人間になるとして、誰かに信じてもらうために約束を守るようにはなりたくない。
 何度でも繰り返してやるが、僕は約束や契約を重視しない。
 
 ただその上で、大切なことはいつも、大切にしたいと思っている。
 そのとき大切だと思うことを前にして、過去の約束に僕は意味を見いださない。将来にわたる契約も同様だ。
 約束のために生きるわけではないし、契約だから行動するわけではないのだ。
(もちろんそれによる失敗がまったくなかったとは言えない。それでも失敗から学び、その上で理念を翻すことはなかった)
 
 確かに約束によって自らを囲い込まないと生きられない者もいるだろう。
 もしかしたら多くの人はそうなのかもしれない。
 するとそういう人たちは、他人を同じように約束で囲むのだ。
 それが互いに生きる最適化された道なのだろう。
 約束を反故にする前提の個体を集団に含むのは、確かに危険だ。
 
 だから私はダメなのだ。
 人の道も、人の囲いも、外れてしか生きられない。
 生粋の、人の皮を被ったケダモノなのだ。
 
image
<ガンマンごっこに倒れた保安官役のアヲ。悪はつおいのだ>
 
>>>
 
 もう少しで、叔母の埋葬が終わる。
 親でもないのに、手の掛かる人だった。
 
 もう少しだけ、叔母の遺骨がここにある。
 親でもないのに、手を掛けてくれる人だった。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
(いくつかあるけれど追加しないかもしれない)
[ Cross Link ]
(いくつもあるけれど追加しないかもしれない)
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :BlueCat:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Interface-Life-Link-Love-Memory-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:
 
 
//EOF