《前編》 より

 

 

【北朝鮮の韓国批判ポイント】
 ソ連と中国への事大主義を「精神的に卒業した」北朝鮮は、そこから事大主義そのものの批判へと転じる。すなわち、アメリカに対する事大主義、とくに韓国のアメリカへの事大主義を根絶の対象としていくのである。(p.106)
 韓国も日本もほぼ完璧にアメリカの属国状態になり果てているから、北朝鮮の批判ポイントは正鵠を射ている。
 それにしても、世界中の諸国家のみならず周辺国からも批判されているのに、ギンギンにいきり立っている北朝鮮のそのアウトローぶりって、なかなかカワイイけれど、本当の事情はなかなか込み入っている。
   《参照》   『大宇宙連合からの啓示』 田村珠芳 (徳間書店) 《1/4》
             【李明博大統領の発言の真意】 ~

 

 

【地方分権の歴史なき朝鮮半島】
 朝鮮半島の歴史には、日本の幕藩体制のような地方分権の経験がない。王朝国家による中央集権の歴史しかもっていない。 ・・・(中略)・・・ 日本は多軸、多元の要素が強い文化を基盤としている。民族的な同質性の点では日本と韓国・北朝鮮はよく似ているが、東京もあれば京都、大阪もある、名古屋もある、札幌、博多もある・・・東京だけが世界ではないといった感覚は、朝鮮半島にはいまだ生まれてきてはいない。(p.124)
 ソウルには韓国の人口の3割が集中している。東京は1割である。
 北朝鮮は社会主義体制を実施しているといっても、ソ連当時のそれとは大きく異なっていた。
 韓国は民主主義を実施しているといっても、日本のそれとは大きく異なっている。
   《参照》   『情報王』 長谷川慶太郎・中谷彰宏 (ビジネス社)
             【韓国に民主主義がない理由】

 結局、北朝鮮と韓国は、李朝統治下の制度で育ってきた国なのであり、同じ民族であり、同じ言語を使っているのだから、表向きの政治体制がどうであろうと、本質はやはり同じなのである。

 

 

【在日の人々は・・・】
 在日韓国人・北朝鮮人の中に、日本人と結婚しているものは多数あり、しかも朝鮮語を話せない者も大勢いる。そういう彼らは、北朝鮮では正当なる朝鮮民族ではない。また、そう考える韓国人も少なくない。そこで南北の両「本国」では、彼らを「パンチョッパリ」(半豚足。豚足とは、日本人が足袋を履いた足を豚の足になぞらえての侮蔑表現)と侮蔑するのである。(p.147)
 いわゆる、地を這う動物でも、空を飛ぶ鳥でもない、コウモリ扱い。
 在日の人々は生きること自体がテーマ性を持つから著作活動をしている人々が多いけれど、直接にコウモリ的存在であることがテーマになっている作品ってあるのだろうか。
   《参照》   『GO』 金城一紀 講談社
             【こうもり野郎】

 

 

【漢字を捨てた韓国】
 ハングルは、・・・(中略)・・・ 朝鮮語の音を完璧に表記するために人工的に作られた純粋な表音文字で、漢字からはまったく独立した文字である。
 そのため、ハングルを作り出しても、ハングルをもって漢字の訓とする発想が生まれることがなかった。あくまで漢字は漢字、ハングルはハングルという、互いに自立した別個の文字としたことが、日本語の漢字と仮名の関係とは根本的に異なっている。(p.200)
 こういう発想によって使われていたハングルだったから、エスノセントリズム(自民族優越主義)による主張に乗って漢字廃止を実行することになったのだろう。結果を待つまでもなく、表意文字(漢字)を捨てた韓国人の知的能力は悲惨なことになるはずである。
   《参照》   『「反日」を捨てる韓国』 呉善花 (PHP)
             【漢字を廃止して、民族文化の根を絶った韓国】

 

 

【死を嘆き悲しむか否か】
 韓国の有名な映画監督、金洙容(キムスヨン)さんとの会話。
 「自分の母親が亡くなったのに、どうして悲しくないのか、日本人だって人間でしょう? 私には全く理解できません」
 そういう金監督に私はこういった。
 「日本人はあまり嘆き悲しむと、死者の魂をこの世に引き留めることになり、成仏できなくなるという気持ちから泣くのをこらえ、死という現実をそのまま受け入れようとしているんじゃないでしょうか」
 金監督ははっきりとこういいながら首をふった。
 「もしそれが日本人の情緒の典型だというなら、日本人の気持ちはますます私には理解できません」
 私も来日数年の頃、ある葬儀に参列して金監督とまったく同じように感じ、「日本人はなんて冷たい感情の持ち主なのか」と思ったことがあった。(p.165)
 儒教の考え方は徹底した現世主義である。故に韓国人は、生きていてこそ目的を達成できるのであって、死んでしまうのはこの上なく悲しいことであるという考え方が、文化的に刷り込まれている。
 日本人は、生まれ変わる霊的世界を知っているから、死をそんなに悲しむことはないんだろう。
 情緒の問題ではなく、見えない魂の世界を意識の裡に包含しているかいないかという文化の違いである。
 韓国人に好まれるムクゲと、日本人に好まれるサクラも、違いの基盤は生死にかかわる文化である。
   《参照》   『韓国が日本を哀しむとき』 小板橋二郎 (こう書房)
             【サクラ(桜) と ムクゲ(槿)】

 

 

【美人病】
 韓国や北朝鮮では、社会の表に立ち仕事をする女性には、日本とは比較にならないほど美人優先の考えが徹底している。それを当たり前と受けとめている者が、もし日本の風土に越してきたならば、日本はあたかも「不美人病」にかかっているかのような印象をもつだろう。(p.183)
 以前、日本に来ていた留学生に、「韓国のドラマには美男美女がほとんどなのに、日本のテレビは、ヒドイのが多いよね」って言ったら、殆どが頷いていた。だから、ついでに、「あんまりきれいすぎる人より、隣の家にいそうな人の方が見ていて安心するでしょう。お化粧も、目立つことより場を和ませるためにしている人が多いですよ」と、当時読んでいた資生堂の本の中にあった記述をもとに補足説明したことがあった。
   《参照》   『装いかた上手』 植田いつ子 (海竜社)
             【日本人の衣に寄せる思い】

 韓国や北朝鮮の「美人病」には、儒教の思想が関与しているという。
 朝鮮民族の「身体髪膚を父母に受け」という儒教の伝統が、生来の肉体や才能をきわめて重んじ、それを自らの手で高度に磨き上げる。それこそが、自分の内面を表すものである。形をもって内実を示す形式主義の文化と言えよう。これは韓国・北朝鮮の「美人病」とけっして無関係ではない。(p.182)
 形式主義の文化だから、整形手術で美しくなってもOKである。
 だったら、「試験の合否も、袖の下次第」という形式主義が、遥か以前の士大夫を選抜するための科挙試験の頃から当たり前に横行していたんじゃないだろうかって思ってしまう。
 儒教思想ベースで、現実主義・形式主義が横行すると、必然的に「おカネがモノを言う」ようになってしまう。「韓国の儒教文化って、結局のところ、内実不問のマスカレード文化だよねぇ~」ってチャンちゃんは昔から思い続けている。

 

 

【理念と経験、どっちが大事?】
 日本はどんな宗教性も思想性も掲げない、世界でもめずらしい非イデオロギー国家である。日本人は、理念よりも経験や実際性を重んじる傾向を強く持っているといえるだろう。
 朝鮮半島に理念主義をもたらしたのは、もちろん儒教であり、具体的には朱子学である。北朝鮮の社会主義思想やチュチェ思想に顕著な理念主義は、明らかに李朝以来の朱子学の伝統を継ぐものである。(p.184)
 日本で咀嚼された儒教と、朝鮮半島で用いられた儒教が、同じものではないことは、基本としてキッチリ押さえておきましょう。
   《参照》   『古神道入門』 吾郷清彦・松本道弘・深見東州 (たちばな出版) 《後編》
             【無形の価値を尊ぶ日本神霊界の奥深さ】

 理念(知性)と経験(習慣)の歴史上の現われ方にいては、渡部昇一先生が西欧諸国の対比として教えてくれます。
   《参照》   『日本史の法則』 渡部昇一 (詳伝社)
             【西欧における、  知性万能主義 VS 経験主義 】
             【日本における、 形式主義  VS  習慣主義】

 北朝鮮の国営放送が流す、一糸乱れぬマスゲームのようなスタジアム内イベントも、「形式美」を尊ぶ朝鮮半島的美学では、本当に美しく演じられるべき価値あるものということらしい。

 

 

<了>