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 著者のプロフィールには、1928年熊本県生まれで、1976年から皇太子妃殿下美智子様(現皇后陛下)のデザイナーを拝命して現在に至る、と書かれている。そんな方の、装いに関する考え方が、エッセイ風に記述されている。

 

 

【語りすぎない装い】
 日本人の伝統的な美意識は、内包する心に重きを置くものです。花の活けかた、飾りかたにしても、欧米のように盛り上げるような足し算の美ではなく、いかに削り取って、シンプルに花のいのちを生かすかという、引き算の美のとらえかたを大切にしてきました。
 この抑制の美学ということが、今、日本人の生き方からも、装うことからも、失われつつあるのではないでしょうか。
 精いっぱい外に表すこと(主張すること)のみをよしとした戦後の風潮のせいでしょうか。外来文化の表面的な受け入れ方の結果でしょうか。
 服飾デザイナーの個性は、主張することと抑制のバランスのとりかたにあると私は思います。(p.27-28)
 ”主張すること” と “抑制すること” の相関について、能を援用して以下のように書かれている。
 私はしばしば能の舞台を見ますが、そのたびに、いつも、その見事な抑えかた、誇張と抑制の微妙なバランスに感動します。豪華な衣装の演者が、簡素な舞台の上で、動きも声も極端に抑えて舞う・・・・。なんと見事な線の引き方でしょうか。なんとすばらしい表現方法でしょうか。
 欧米風な、声高らかな誇張や強調は、日本人の志した美とは質を異にしているようです。内奥の凛冽なる気が充溢してこそ、抑えたものの強さが表れるのです。(p.28)
 戦後の日本人は、欧米風に声高に主張(言挙げ)するようになったから、抑制がはらむ 「充溢した気」 を失ってしまったのである。そして、「充溢した気」 を失ってしまったからこそ、それを補うために華美な装飾に依存するようになったのであろう。
 装いの美学の根源をもっとハッキリ言ってしまえば、それはオーラの源となる精気=「充溢した気」であり、精気はセックス過剰によって甚だしく散逸してしまう。そんな状態でいくら着飾りいくらメイクを完璧にしてもオーラはスカスカなのだから、美を看ることのできる高貴な人など決して寄ってこないのである。
   《参照》  『タオ・コード』 千賀一生 (徳間書店) 《後編》
            【精気とオーラ】

 日本人が言う 「美」 の根源は 「充溢した気」 そのものなのであり、 「充溢した気」 を散逸させてしまう欧米文化自体が、 「ダメンズウォーカー」 を生み出すフィールドなのである。
   《参照》  『美的のルール』 加藤ゑみ子 DISCOVER
            【日本人の美意識】 【外見と中身】

 抑制を効果的に用いる日本の伝統芸能である 「能」 については、
   《参照》  『萬斎でござる』 野村萬斎 (朝日新聞社)
           【 能楽の 「型」 】

 

 

【究極の教養と知性、そして、エレガンス】
 現代は、自己表現というと、いたずらに自分を表に出していくことが個性だと勘違いされがちです。
 大事なことは、自分が生きていく上で、羞恥心をどこに置くか・・・ということ。それが究極の教養と知性であり、エレガンスだということではないでしょうか。(p.59)
『幻をなぐる』 瀬戸良枝 (集英社) の著者に読んでほしい文言である。

 

 

【勝負服(仕事着)】
 作家の向田邦子さんの仕事着にも関わっていたという。
 向田さんの仕事着を 「勝負服」 と私たちは呼んでいました。 ・・・(中略)・・・ 。私のつくった勝負服たちが、向田さんの真剣勝負に立ち合えて、本当に幸せでした。
 また、和服の勝負服といえば、歌舞伎の世界の松本幸四郎夫人の紀子さんです。 ・・・(中略)・・・ 。
 自分の置かれている立場や、今どういう役目であるか、外出先の場をよく読みとり、出処進退をよく知り、心配りされてのちの着こなしかたに、いつも感服しています。(p.103-105)
 この記述を読んで、とても印象的だった本を思い出した。
日本の美を継承する方々の精神世界は、本当に ”清らか” である。

 

 

【難しい単語】
 黒のスリップドレスに、オーガンジーやシフォンといったグレード感のある・・・(p.113)
 こういう単語ってムチャクチャ苦手。多分直ぐに忘れてしまうだろうけれど、パスしてしまわなかった証拠を残すために調べて書いておこう。
 オーガンジー:薄くて半透明の、張りのある綿・絹などの織物。
 シフォン:ごく薄い平織りの絹織物で精練を施さないもの。ブラウス、スカーフ、ベールなどに用いられる。絹モスリン。
 この説明文を記憶したからといって、2つ並べられたら、どっちがどっちなのか判別はできないだろう。ややこしい世界である。

 

 

【子どもの国・日本】
 日本人は昔から、もののよさや美しさを表現するのに、魅力的な言葉をたくさんもっていました。ところが、今では、若い女性のほめ言葉は 「かわいい!」 が圧倒的。何を見ても 「かわいい」 ですませてしまうようです。
 服飾評論家の石津謙介さんも嘆いていらっしゃいました。これは日本全体が子どもの国になってきた証拠ではないか、と。
 つまり、自分の装いを自分の頭で考えて決める大人がいなくなってきたということです。 (p.149)
 語彙の貧困は、直ちに教養と文化の衰退へと直結する。美を表現するのに 「かわいい」 だけしか言えないのなら、もう日本人とはいえないだろう。いくら明るく元気に育ったって、文化的教養がないまま自分で何も判断できない大人ばかりになってしまったら、国はたちまち滅ぶのである。

 

 

【時時の花】
 女性は、どの年代においても、その年齢ならではのよさ、美しさがあります。私はその魅力を世阿弥の 『風姿花伝』 にいう、「時分の花」 に始まる年齢に応じた時時の花だと思っています。
  ・・・(中略)・・・ 。
「時分の花を大切になさい」
 若い人にそう言いますと、
「どんなふうにすればいいんですか」
 という問いが返ってきます。それは、自分自身で見つけるもの。自分自身の確かな目や心を持てば、自然にものが見えてくるものなのです。しっかりとした足どりで、一歩一歩品性や教養を積み重ねていくことが、「時分の花」 に始まる時時の花を美しく開花させていくことにつながっていくと思うのです。(p.150-152)
『風姿花伝』 にいう、「時分の花」 とは、「若さという好条件によって現われる一時的な面白さ」 を言う。
 著者が言っている 「時時の花」 とは、「年齢に応じた面白さ、美しさ」 ということ。
 「かわいい」 ばっかり言っていると、「時分の花」 だけで終わっちゃう。

 

 

【日本人の衣に寄せる思い】
 欧米人の生み出した服は、乾いた合理性のもと、自然や他に向かって挑む精神のようなものがあります。その外に向かって挑む強さ、激しさを持つ服、内にこもるエネルギーなしには着こなせないものです。
 一方、日本人の衣に寄せる思いは、外に向かって和の心と申しますか、むしろ調和しようとする独特の美意識で受け継がれてきました。(p.202-203)
 欧米は、 “個を屹立させるための美学” であり、日本は、 “場を和(なご)ませる美学“ といえるだろう。装いに限らず、お化粧の場合も当然のことながら同じである。
   《参照》     『共に輝く 21世紀と資生堂』 弦間明 求龍堂
               【自分のための化粧、他人のための化粧】

 

 

 

 

<了>