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 ファッションという分野にはあまり興味がないので殆ど知識がない。ゆえに、知識を補うためにあえて読んだのである。ファッションを通じて身体を考える本である。
 所々に際どい写真が掲載されていて、電車の中で読むにはちょっとヤバイ頁がいくつもあった。しかし、まあ、これは学術的な本である。ファッションはボーダレスな領域なので、文化論ではなく記号論みたいな内容に読めた。


【男性の装飾から、女性の装飾へ】
 フリップ・ベローはこの間(フランス革命前後)の事情を次のように描く。「富の記号、あるいは装飾的価値として、女性は結局のところ大革命が男性の服装から追放したレースや宝石に取って代わったのである。したがって、断絶というほどの断絶もなしに貴族の伝統を受け継いだ女性はこれ以後、過剰と無駄を求める浪費家の役割を単独で、だが2人分も果たすことになる」 (p.72)

 もちろん、これは西欧の場合である。日本の場合はどうなのであろうか。


【<性>の外にでる服】
 コム・デ・ギャルソンの服は、からだの外だけではく、<性>の外にも出ようとする。制度化されているといっていいほど意識の奥にまで刷り込まれている性差の概念の外にでる。そういう作業では、三宅一生さんという先輩がいる。彼は、いわゆる女らしさの見慣れたイメージを底の底から覆すような服を作り続けてきた。 (p.104)
 川久保さんの服は、むしろ安っぽかったり、みっともなかったり、ときに打ちひしがれているような感じすらする。それはたぶん生理の哀しさにふれようとしているからだ。 (p.116)

 デザイナーがどのような意匠を凝らして作成するかは自由である。解釈も自由である。しかし、<性>の外にでたいとする、根拠は何なのだろう。時間が十分あるならば、オカマやオナベやホモやレズや女装趣味や男装趣味の世界にドップリ浸って考えてみたい気がしないでもない。
 因みに、チャンちゃんは真性のストレートである、と思っている。


【男女比】
 真性の同性愛者、異性装者、変性者における男性と女性の比率は、およそ3対1、ないし4対1だと言われる。こういう変則的な分布はどうして現れるのか、ということだ。逆にダイエット症候群とか拒食症・過食症のように、女性にばかり現れて男性には殆どあらわれない現象もある。 (p.107)

 おそらく、女性の体が生理的であるのに対して、男性の身体はその度合いが少ないからであろう。それ以外に、現在の社会が、男性の側に重心が偏った社会であることが、この変則的な分布を生じさせているのだろう。
 重心の位置が中央にないから社会が間違っているとはいえない。重心の位置にあわせて人間が社会を作ればいいのである。デザイナーは時代の重心が推移する方向を示す、予言者役なのかもしれない。


【彼の唇には毛がはえている】
 日本語と英語では、唇(lip) の範囲が違う。英語ではありうる表現である。


【和服は?】
 この書籍には、和服に関する考察がない。これは重大な欠陥である。掲載されている写真のファッションは、パリコレに登場したようなものが多く、全く、「結び」のない服ばかりである。日本のファッション界には、日本文化が全く生かされていないのか? チャンちゃんは、和服が日本人の精神形成に一役買っていたと考えている。
 機能的ではないからとか窮屈だからという理由だけで、和服を正式に着用した経験のない人々ばかりがデザイナーなのか? 少々窮屈であっても、ある程度長期間、着続けて見なければ和服の意味は分からないものである。与謝野晶子張りにこの本に苦情を申し上げてみたい。
  「結びたる 和服文化に ふれもみで 淋しからずや 日ノ本の著者」  

 

<了>