《前編》 より

 

 

【無形の価値を尊ぶ日本神霊界の奥深さ】
深見  韓国にも儒教が根づいているわけですけれども、これは漢の時代の、儀式化された儒教なんです。 ・・・(中略)・・・。ところが、日本の宋学は ・・・(中略)・・・ 形、形骸よりも、無形の本質を見なきゃいけないという宋学が根づいているんです。朱子学というのはみな宋学からきていますから。宋学の、目に見えない本質を見ていかなきゃならない、形に拘泥しちゃいけないんだというのが、日本にどうしても根づくわけです。
 韓国は、目に見えない本質よりも、形のはっきりしたもののほうが根づきますね。だから論理的だし、明確だし、現実面では強いわけなんだけれども。 ・・・(中略)・・・ 。
 神道は本来偶像崇拝ではなく、隠身(かくりみ)と書いて隠身(カミ)と読ませたりします。
 仏教伝来と共に、仏教が目の前に露骨に現れますが、年月が経つと神道化して、尊い仏様ほど秘仏化して、人の目に触れないようにしてきたのです。
 このようにより微かで繊細なものほど、料理や芸術でも高級なものであり、無形の本質に心を寄せる霊性ほど、奥深い深淵なる霊性であり、それを支える神霊界も奥深い最奥、最高のものであると言わざるを得ません。(p.177-178)
 中韓に残っている儒教と日本が選択した儒教の違いについて、下記リンクに示すように何度もこのブログに書いているけれど、その違いを生む根本は、霊性、即ち神霊界の奥深さに依っているということになる。
   《参照》   『日本人て、なんですか?』 呉善花・竹田恒泰 (李白社) 《前編》
             【日本と中国・韓国の儒教は違う】

 深見先生のいずれかの著作の中に、世界の神霊界をイラスト図形にして描いたものがあったけれど、どれだったかは思いだせない。世界との文化比較をかじったことのある人なら、その図形を見ただけでピンとくるはずである。

 

 

【聖なる数 ―― 八 】
深見  日本では聖なる数 ―― ホーリー・ナンバーというのは八なんです。モンゴルは九、そして中国は一・三・五の奇数なんです。(p.179)
 一般的には、漢字の「八」の形象から「末広がり」と言われているけれど、その本当の根拠の一つは、細胞分裂のように1・2・4・8と増殖していくからである。
   《参照》   日本文化講座⑨ 【 日本神道と剣 】 <前編>
              □■□■□ 日本神道の根源となる 『剣の思想』 □■□■□

 もう一つの根拠は、
深見  ユダヤのカバラで、 ・・・(中略)・・・ 八というものは無限の働きのことだし、それから天上界にある四という完成数を地上の四の完成数に加えたのが八という数字なんです。 ・・・(中略)・・・。 易経で言えば、「地天泰」の象の平らけき安らけき安泰なる世の八という、無限の広がりのある末広がりの大吉数となるのでしょう。だから、究極の究極で、八が一番神なるものなのです。これがカバラの数の解釈です。
 ですから僕は、八を聖数とする日本人の数霊観念というのは、ユダヤのカバラ思想が多く混入していると思うわけですね。(p.189-190)
 大和の作法を伝承しているという 友常貴仁さん は、陰の極を八と書いていたけれど、八を陰の極としないのは、上述したような理由からだろう。
深見  陽の極まりが九で、陰の極まりが六なんです。(p.188)
   《参照》   『大相撲に魅せられて』  赤嶺逸男  国書刊行会
             【双葉山:イマダモッケイニオヨバズ】

 

 

【日本の超古代】
深見  あれだけの(ギリシャ)文化というのができたのは、全部、天成(あまなる)の道ですよ。上から全部教えてもらって、音楽の楽譜もつくり、建築も何もかも、驚くべき文明の力というのは、みんな神人一体となって、直接神様にから全部教えてもらっている。
 神道のもとはそうであって、木造文明だったから残っていないけれども、あれが石器文明だったら残っていたでしょう。日本の超古代は、やはり医学も何も、あらゆるものが発達していたのです。
松本  言葉も同じだったんです。神代文字にしても、あれが消えてしまったんです。(p.204-205)
   《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《前編》
             【 日本 ⇒ シュメール ⇒ 日本 】
             【経度0度と経度135度の文明的特徴】

 

 

【神仕組】
深見  ルーツを追うというのは、考証学としては面白いかもしれないけれども、神の道を勉強する人間としては、そういう考証学はナンセンスです。そういうルーツを通して、こういう国柄をつくり、地理をつくり、文化的な歴史の足跡をつくっている神の意図があるわけです。それを神仕組というわけです。(p.221)
 数万年の時を経て、再び日本が中心となって世界を導く時のために、日本に全てが集まるように、神仕組によって準備されていたということになる。
 日本人なのに、いまだに、そんな日本の価値に気づいていない人々が多すぎる。

 

 

【白隠と盤珪】
 なぜ白隠系が今日まで残り、盤珪が一代で終わったかと言うと、盤珪は、儒教の明徳を明らかにするというのを自分なりに考案化して独自に悟り、「不生禅」を作った。大川隆法みたいな感じですね。しかし、白隠は、古典的・伝統的な臨済禅に基づいて、大応、大燈、関山などの室町期の正統臨済禅の原点に戻れ、と教化した。そしてそれを基本に置いて、「隻手の公案」などの独自な公案や、書や絵や親しみやすい文章で多くの民衆を教化したのです。
 そもそも古典的・伝統的なものは何かというと、長い間人々の批判と、人びとの評価の歴史の中を生き抜いてきたものだから、普遍的な価値や真理に根ざしているものが多い。自然淘汰は神の裁きのお働きだから、それを越えたものに根ざしているからこそ、永らえていくわけです。
 下記リンクには、白隠と道元のことが書かれている。
   《参照》   『どこまでも強運』  深見東州  たちばな出版
             【霊層、霊格日本一 ――― 白隠】【道元の悟り】

 

 

【同神異名】
深見  同神異名ということがありますでしょう。猿田彦でも、猿田明神とか白髭明神とか、庚申さん、これみんな猿田彦です。
 同じ神様で名前が違うだけだという同神異名について、どのように先生はお考えですか。
吾郷  これらの神々につき、同神異名だというけれど、それを祭った人によると思います。要するに、いろいろ霊的に感じ取って、猿田彦だとか、庚申さんとかいうように、祭る人によって霊的に受け取り方が違うので、時・処・位に応じて表現したんだと思いますよ。
深見  それなんですよ、僕の言っている論点は。同体神異名というのは、ひとつの、御中主・国常立、『日本書紀』では国常立之神が最初の神で、『古事記』では天之御中主。天之御中主または国常立尊・・・云々と、いろいろな説がありますけれど。(p.281-282)
 文献や神社によって神様の名称が違っているのは、それを感受した人の受け取り方によるのであって、同神異名の場合があるということ。
深見  御中主も、天之常立も、国常立も、常立という働きの、宇宙の中心軸を作っている凝集力と考えて、大宇宙にあるときは天之常立、北極星にあるときは北極老人、地上に降りてきたとき、地球の次元であるときは国常立。 ・・・(中略)・・・。働きと磁場が違うから、たまたま名前が変わるだけで、素(もと)の中心系統の霊統を引く。
 名前が変わると顔も衣装も香りも全部変わりますから、あたかも別神であるかのごとく思うけれども、同神異名というものの実態がわかれば、神の名の使い分けによって、自在にその神の働きを霊力に取り込むことができるのです。・・・(中略)・・・。古代の神道の霊覚者は、神名を使い分けて一つの神の多面的働きを活用し、運用したのです。(p.285-286)

 

 

【大本の真の目的】
深見  王仁三郎が言っています。「大本の真の目的は何か。世界中から宗教というものがなくなったときに、大本の使命が終わる」と。 ・・・(中略)・・・ これには、もっと深い意味があるのですが、ここでは割愛します。
 王仁三郎の言葉を素直に読めば、ジョンレノンの 『イマジン』 の歌詞を思い出す。
   《参照》   『今あなたに知ってもらいたいこと』 オノ・ヨーコ (幻冬舎) 
              【イマジン】

 

<了>