□■□■□ 日本神道の根源となる 『剣の思想』 □■□■□
日本には、「古事記」や 「日本書紀」 などの文献より、遥か昔の古代日本で書かれ、一般に知られることなく、伝統的な神社に保管されていた古代文献が幾つもあります。 「秀真伝」 「宮下文書」 「竹内文書」 「カタカムナ文献」 などです。「秀真伝」 を基に 『剣の思想』 を解釈すると、以下のようになります。
古代のシャーマン(霊能者)は天から地上に降りる “光の柱” を認めて、それを " 神柱 " と呼びました。これを剣に観立て、神が降り下る神籬(ひもろぎ)として、剣を神社の御神体としたのです。 そして、その形状から漢字の " 一 " と解釈し、 同時に根源としての " 太極 " と観ました。 聖書の表現を用いるならば " 天地創造の根元 " に該当します。
また剣には切断するという働きもあります。
即ち、一を断ち(太刀)て二、二を断ちて四、四を断ちて八、というふうに、
『剣』 は、断ち、産み、殖やし、栄える、「性」であり、「生」であり、「正」であり、「誠」であり、「聖」なのです。
それに対し、
『刀』 は、断ち、殺し、滅し、衰亡する、「死」であり、「聖の背理」となるも「聖の負の働き」でもあるのです。
つまり、繁栄・発展を意味する 『剣の思想』 は、神国・日本、国家発祥の原理 だったのです。
□■□■□ 「 剣 と 刀」 そして 「 武道 と 武術 」 □■□■□
古代の日本は " 祭政一致 " の国家でした。この時代の剣は、全て真直ぐでした。しかし、大規模な争い事が頻発し出した平安時代(784~1185)の中期以降に、実践に適するように湾曲した刀が生産されるようになって行きました。そして間も無く、帯刀した武士が政権を担当する鎌倉時代(1185~1333)へと移行して行ったのです。世界中で出土する直剣と曲刀の発掘年代分布を調べてみると、日本以外の国々でも、ほぼ同様な推移が見られます。
日本を含む世界の歴史は、はたして進歩してきたのか後退してきたのか、下の項目対比を見て考えてみて下さい。
剣 : 直剣(真直ぐな心):両刃:活人剣:武道(剣道):創造:神器:真我(神):神霊界:権威:祭主(天皇)
刀 : 曲刀(曲がった心):片刃:殺人刀:武術(剣術):破壊:兵器:小我(人):物質界:権力:政治家(軍人)
武道の目的は、天地の理法を知るためにあるのです。つまり天地自然のリズム=呼吸を知ること、そのための鍛錬こそが武道の目的でした。天地自然と一体となるための方法は、仙道・ヨーガ・禅・密教の修行法の中にもあります。それが武道の中にも託されていたのです。仙道の帰神、ヨーガの梵我一如、禅の悟りである見性成仏、密教の即身成仏、これらが意味することを神道では神人合一といいます。武道は、神人合一を体得するための鍛錬方法だったのです。
○ 「武士道」に生きていた『剣の思想』 ○
「 神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う 」 これは、鎌倉時代にできた武家の根本法である 『貞永式目』 の第1条です。剣ではなく刀を帯びていた武士であっても、「武士道」 精神の中には 『剣の思想』 が生きていました。しかし、時代が進むにつれて、しだいに、" 神への道 " ではなく、" 殺人の術 " へと変容してしまい、武道本来の目的を見失った武道家ならぬ武術家たちが多く跳梁跋扈するようになってしまったのです。
○ 「新撰組」という剣戟集団に見られる“死の美学” ○
「新撰組」は、明治維新(1967)前後、1963から1968までの5年間存在しただけの剣戟職能集団でした。彼等は武士道によって棚上げされていた剣戟(剣術)を復活させ、自滅を厭わぬテロ行為で激動の政局に関わった最も過激な集団でした。
脱藩者や浪人や耕作地を持たぬ農民からなる「新撰組」は、“士農工商” という身分制度外に存在する集団でした。「武士道」 が定着していた江戸時代にあって、“士農工商” の制度枠内にあるならば、剣術は嗜みではあっても職能とは成り得なかったのです。身分制度外にある、いわば無法者とでも謂うべき、そんな彼等が、剣術を恣に振るうことのできた歴史上最後のチャンスが、明治維新前後の動乱の時代だったのです。
刀を手に江戸幕府側に付き戦局に立ち向かった「新撰組」は、近代兵器を持って明治維新を行おうとした「志士達」の前に、当然の如く敗れ去りました。そんな「新撰組」のことを、大衆は共感を持って受け入れてもいたようです。「所詮かなわぬ人生を、花火のように一瞬の輝きと共に終えて行く」 そんな “死の美学” が、江戸時代に流行った荒事歌舞伎のように、大衆から共感を得ていたようです。
しかし、どれほど大衆受けしようとも、「新撰組」の行為に “神への道” は見出せません。「志士達」 の 「 『国を守る』 志」 に比べたら、「新撰組」 の振舞いなど 「自暴自棄な 『傾き者(目立ちたがり屋)の犬死』 に過ぎない」 とまで言ってしまっては言過ぎでしょうか。
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