《前編》 より

 

 

【「礼儀三千、威儀八百」 : 性格を変える効果】
 禅寺には「礼儀三千、威儀八百」と言われるほど多くの礼儀作法があります。それに従うだけでも、つまり態度習慣を変えるだけでも、自分の中に変化が生じてきます。さらに考案を工夫していくことによって、知らず知らずものごとの受けとめ方、対処の仕方が変わってきます。自分の内なるものに本質的な変化が生じ、トータルとしての性格の相当な部分に変化が生じるのです。(p.81)
 禅寺修行で、普段の日常生活とは違った行動(正義作法)・考案(脱思考)に徹するのだから性格も変化するだろう。
 ところで、「礼儀三千、威儀八百」のような「型」というのは、「自由度」を増すための工夫なのである。逆説的であるけれど、「型があるからこそ、自由になれるよ」と言うことなのである。
   《参照》  『個性を捨てろ!型にはまれ!』 三田紀房 大和書房
            【まずは 「コード」 を憶えろ!!】
   《参照》  『響きあう脳と身体』 茂木健一郎×甲野善紀 (バジリコ) 《前編》
            【武道における型】

 「考案」とは、日常生活で馴染んでしまった二分法という表面意識による思考法から自分自身を解き放つための訓練であり、これに完全に熟達してしまうと「制限」という枠の外に出てしまうはずである。しかし、そうなると、集団生活・社会生活を維持する規範が崩壊(無意味化)してしまうのである。だから現実世界における「礼儀作法」のような「型」が必要なのである。
 意識の自在性を欲しない人々ほど、「礼儀作法」の重要性を理解しないけれど、それは、地球という惑星生活自体が人間に様々な制限を課していることすら解さず、「考案」の究極がそこから出るための工夫であることを分かっていないからなのだろう。
 一般企業の集団においても、「朝晩の挨拶さえキチンとすれば、あとは全員自由でいいよ」という集団であれば、様々なアイデアが生まれるのである。
   《参照》   『美人の仕事術』 中谷彰宏 (ぜんにち)
             【礼儀正しいことの目的】

 

 

【人間本来無一物】
 人間生まれた時は素っ裸で何も持っていないのだから、そこへ戻るだけだと思えば、こわいものはない。一般にはそういうふうに解釈されます。それもよろしいでしょう。
 禅語としての意味は、「人間の心には、もともと悟りもなければ、苦悩もない。鏡のようなものである」ということです。喜んだり、悲しんだりすることはあっても。鏡に風景がチラッとうつるようなもので、心底から揺らぐようなことはない。そういう人間本来の心に戻って、毎日こだわりなく活き活きと過ごしたいものです。(p.128)
 であるなら、仏教的・密教的な表現でいうところの「大円鏡智」なのだろう。

 

 

【無一物中無尽蔵】
 この句は、 ・・・(中略)・・・ 「本来無一物」という禅語が下敷きになった言葉です。 ・・・(中略)・・・ 。
 したがって、本来無一物であることを悟れば、徳も智恵も尽きることなく湧き出るという教えが無一物中無尽蔵です。(p.218)

 

 

【頓悟と漸悟 (タイトル解題)】
 雲水さんのように、何年も何十年も専門僧堂で修行一筋に集中することのできないサラリーマン大衆にとっては、漸悟のプロセスを歩むほかないように思われます。むろん、禅的に優れた資質に恵まれていて、短期間に頓悟に達せられる人もおられるでしょうが、私はまだそんな例を耳にしたことがありません。やはり、コツコツと一つ一つの考案の工夫を積み重ねていくことで、少しずつ悟りに入っていくということでなければ悟入できません。つまり、漸悟の道を歩むほかないのですが、その道こそ、とりもなおさず心の革新なのです。(p.172)
 日常生活を送りながらでは、確かに漸悟という革新しかないかもしれないけれど、「啐啄(そったく)同時」のタイミングで「喝を入れ」てくれる師匠がいないと頓悟はなかなか起こり得ないだろう。臨済禅の衣鉢は頓悟によって継承されている。
   《参照》   『どこまでも強運』 深見東州 たちばな出版
             【六祖慧能禅師】

 ところで、地球のシューマン共振の数値が上がって一挙にアセンションできたら、人類全体がある程度クォンタムリープ(量子飛躍)的に底上げされるから、誰もが頓悟に近しい向上を得られるかもしれない。期待しよう。
 

 

<了>

 


 禅の実践経験のある人々の著作って面白い。誰が誰の著作を読んでもそのはずである。