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 著者は、暴走族、プロボクサー、衆議員議員秘書、新聞記者、MBAホルダー、会社経営者などをへて、臨済宗の最高位 ”老師” という立場にある方。現実の社会をエネルギッシュに生き抜いてきた上で、年収60万円という僧侶としての生活を選びとっているらしい。社会生活を通じて、明暗、苦楽、喜悲など、あらゆる両面を潜り抜けてきたことが禅師としての気付きと成熟を促進してもいたのだろう。
 禅師は、一般の人々が陥りがちな、心を隘路に追いこむ二項対立の認識方法を越えているから、年収がいくらであるかなど、本来不問なのである。それにしても面白いタイトルと表紙である。2009年8月初版。

 

 

【不安とつき合う方法】
 では、どうしたら 「不安」 という “モンスター” と上手につき合うことができるのか。本書では、皆さんの不安をあおって 「なんとしても経済競争を勝ち抜け!」 と喝を入れるのが目的ではない。むしろ、提案したいのは、表向きの勝ち負けにとらわれてしまう心を見なおしてみることだ。(p.5)
 近年の日本社会は、本当に危うい状況となっていて、多くの人々が人生の先行きを憂え、半ば途方に暮れつつ鈍重な悩みを抱えて生きている。大震災に見舞われなくても、心の中は、だいぶ前からすっかり停電状態になってしまっている人々が少なくないだろう。
 禅宗の道場における修業過程が、最後に30ページほど書かれているけれど、全体の8割以上は、著者の社会体験を通じての記述である。どちらの記述から気付きを得るかは読者それぞれによることだけれど、著者の人生体験を我がこととして読んでみるのが、この本を活かす(執着・不安を離れる)最上の読書方法なのだろう。

 

 

【すべてのものをぶち切る】
 禅とは、すべてのものをぶち切る練習でもあるから、挫折した人間は気付いているはずだ。人間、自分の持ち物をすべて失ったとしても、生きているうちは可能性があるということを。(p.20)
 不思議なもので、持ち物がいっぱいあり貯金も少なからず持っている人の方が、平気で他者を貪り、それでまだ不安を抱えていたりするのである。大震災に見舞われ家族の命や家財を跡形もなく失った人々は、むしろ立ち直りが早いはずである。僅かばかりの智恵があるならば、執着するものとて何ひとつなくなった段階でこそ、心を切り替えやすいのだから。
 心のリセットというのは、人・物・財に執着する心を離れることなのだけれど、それらが僅かでも残っていると、リセットし切れない人々がほとんどである。

 

 

【あなた自身はいま何をやりたいですか?】
 先日、ラジオを聞いていたら、ボランティアに関する同様の相談に対して、回答者は次のように答えた。
「人にしてあげたい、ではなく、あなた自身はいま何をやりたいですか? まず、そのことを紙に書いて、次にその実現のためにはどうすればいいかをまた書いてみてください。その作業を繰り返していくうちに、きっと答えは見つかるでしょう」
 私はこれを聞いて、なかなかうまいことを言うもんだと思った。(p.71)
 してあげられる現場というのも、案外、需要と供給が一致しない。需要があるところには供給が追い付かず、供給があっても現場はそれほど人を必要としないのが普通である。人のために働きたいという人でも、介護は嫌なのである。結局、自分がやりたい範囲内でのボランティアなり人助けなのだから、最初から、それらの視点を外して自分の目的を定めた方が社会貢献につながるのである。利他の心は大切だけれど、自分の目的に則することだって、「急がば回れ」 的な利他になっているのである。
 自分のために戦っていると。それがいつか会社のためにもなってくる。会社のために戦っていると、いつか自分を見失ってしまう。自分を見失ったビジネスマンが、いまどんな境遇にあるか、よーく周りを見渡して欲しい。
 そして、本書の読者には、どうか自分を見失うことのないように願いたい。(p.86)

 

 

【坐禅】
 坐禅こそ安楽の法門だが、 ・・・(中略)・・・ 自らの身体の中に満ち満ちていく気を自分で感じながら、こんなに楽しいことはないというのは、一度も坐ったことのない人にでも理解してもらえると信じる。

 禅は姿勢の問題ではない。頭の解釈抜きに、じかに 「いのち」 を感じること。心中、一点の染みもない ―― その原点に自らがお目にかかることなのだ。(p.94)


 京都・建仁寺で坐禅中、池の鯉の水面でのなんとも名状しがたい軽やかなうちしぶきを聞き、「春が来た!」 と確認したのだった。三月の早朝のことだ。いまでも鮮明に記憶していることなので、この音はよほど心地よく響き、琴線に触れたのだろう。
 ・・・・さらに円山公園で托鉢の帰りのこと。ヒラヒラと落ちていく枯葉の中で、私がその枯葉と一体になった悟りを得たことがある。

 禅とは、天地と、そして自分が単(ひとつ)になる境地を目指すことであり、「天地と一体、万物、我と同根」 と説いている。(p.156)
 禅では、意識を内側に向けて安楽を体感する。昔は、現在のように五感を満たす刺激に満ちた社会状況ではなかったから、誰もが、自然に囲まれて心を身体意識に傾注する禅のような修業に親しむことが出来た。現代人は常に外側から刺激されてばかりいるから、意識は外側にばかり向いてしまう。
 禅宗の修行にしても密教の修行にしても、一度は環境を切り替えて実践してみないことには、その素晴らしさはなかなか体験できない。これが体験できれば、実生活を生きる上でも意識の切り替えは容易だろう。
 一度、意識の根を断ち切って死ぬのである。
 坐禅とは、また 「死ぬ練習」 でもある。昔の人は、死ぬことは訳なかった。一人で断命根(意識の根を断ち切る)をやらかした。 (p.95)

「捨てて、捨てて、捨て切って」 こそ、いわゆる 「これを放てば、手に満てり」 だ。 (p.98)

 

 

【じきに死ぬ】
 あえて 「じきに死ぬ。もう間もなく死ぬ」 と唱えてみる。すると、心はどう変わるだろうか?
 私は、これをやってみたとき、目の前にある瞬間がとても大事なものに思えてきた。その貴重な時間を悩んだり苦しんだりするために使うのは、もったいないと感じたものだ。(p.169)
 “中今の思想” とか “唯今の思想” といわれる考え方は、未来や過去にとらわれることなく、 “今・現在” に意識を集中して生きる方法をいっているのだけれど、 「じきに死ぬ」 ことを意識すれば、 “今・現在” をさらに強く生きる気持ちになれるはずである。
 働く意志もなく、親の金でノウノウと生きている人間達、俗に言うお気楽な “ひきこもり” たちは、じきに死ぬことを想定して生きようとはしないだろうし、今・現在、生きてもいない。輝いて生きている人々が、そんな連中の不安や悩みに、真剣に対応しようとすること自体、愚かなことである。死にながら生き続けたところで、何になるのか? そんな連中の無駄な人生に付き合うのは、もっと無駄である。
 禅のお勧めは、いずれじきに死ぬのだから、一層のこと、自らさっさと死んで、自ら生き還れということである。

 

 

【諸縁を切ってこそ】
 私たちは自分中心に世の中を見ているため、自他を分別するし、「増えて減りもしない」 などとは到底思えない。それで自分のおカネの増減ということに固執し、これによって不安になるわけだ。
 僧堂での修業時代、私は最低限のモノしか持たず、おカネも持たず、なんの生産もしないという生活を体験した。
 多くの人は 「おカネもモノも増やしたい」 という方向で動いているが、修業ではそれと逆行した生き方をするわけだ。
 小遣いなし。ビタ一文なし。何かを得ようともしない。
 そんな生活の中で、執着という衣を一枚一枚脱ぎ去って、所有欲から離れた自分を見つめていくのだ。「諸縁を切ってこそ本当に自分が見えてくる」 とは、当時の雲水の先輩から言われた言葉だ。 (p.176)
 失業中の人は、おカネも持たず、なんの生産もしていない状態なのだから、諸縁の主要な部分は切れている。故に、僧堂での生活と基本的には一緒なのである。ならば一層のこと、自分自身を見つめる視点を積極的に逆転させてしまえば、雲水と同じことが可能なのである。失業を期に、執着の根源となる身の回りのモノからどんどん整理してしまえばいい。徹底的に。
 人間、本来は無一物。
 何も持たずに生まれてきて、何も持たずにあの世に旅立って行く。 (p.176)

 

 

【・・・であれば】
 実際、生きているのか、死んでいるのか分からない状態まで追い詰めたとき、有無の境界を越えた答えが出てきた。昔から、禅の祖師たちは、身命を投げうってこの境界に達していった。
 無は有無の無でもない。
 有に対する無でもない。
 つまり有無を超越した境界なのだという 「無」 の一字を体得することは、ホトケの教えの “基本のキ” を知ることと同じだ。

 ――― であれば、たとえ年収60万円でも、心は億万長者そのものなのである。(p.219)

 

 

 

 

<了>