イメージ 1

 いくつかの禅問(考案)を元に、これに対する考え方や関連する禅語が書かれている。「禅って何だか分からない」という初心者でも、この本に書かれているいくつかの事例を読んでゆけば、何となく分かってくるだろう。

 

 

【無念無想で、間髪を容れずに対処する】
 外出から戻られた老師が、私の坐っている単(席)まで来られて、「いま何時だ」と尋ねられました。
 ・・・(中略)・・・ 。
 私は「ここは無念無想で」と決め込んで、知らぬふりをしていました。次の瞬間、老師の鋭いお声です。「眠っているのか!」。無念無想という四字にこだわった上に、一瞬ながら下手な考えをめぐらせたのを叱られたのです。 ・・・(中略)・・・ 。
 その時その場の状況に応じて、間髪を容れずに対処する。それが禅者の行動です。(p.13)
 無念無想とは表面意識を働かさないことだけれど、それだけでは意味がない。常に潜在意識が励起状態であれば間髪を容れずに行動できるのである。
 なお、「間髪を容れず」に関して、沢庵禅士が徳川将軍の指南役であった柳生宗矩に与えた剣道の心得書『不動智神妙録』の中では、以下のように述べられているという。
 人が打ち込んできた太刀に自分の心が止まってしまうと、間ができて、その間に自分の働きが抜けてしまう。向こうが打ち込んでくる太刀と、自分の動きとの間へは髪一筋も入らないようであれば、相手の太刀が、まるで自分の太刀のような作用までする。「間髪を容れず」とはこのようなことを言う。禅の問答にもそのような心の動きが必要である。(p.17)

   《参照》  『日本辺境論』 内田樹 (新潮社) 《後編》

           【武道における「隙がない」】

 

 

【随所作主(ずいしょさしゅ)】
 「随所に主と作(な)る」とも読みます。臨在禅師の語録である「臨在録」にでてくる言葉で、「随所に主と作れば、立所みな真なり」とあります。
 自分が置かれた立場で、真に主体的に行動するならば、常に人間本来のあり方に合致しているはずである、という意味です。自分の勝手放題ということではありません。
 妄想も執着もなく、その場、その時のあるべきようになりきって、自在無碍に心の機能を生かしきることです。(p.35)
 最近の若い経営者はどうか知らないけれど、年配の企業家の中には禅語を経営の指針としていた方々が少なくない。そんな経営者の著作を読めば、何かしらそれらしい記述に出会うもの。
   《参照》   『「随所に主となる」人間経営学』 浜田広 (講談社)
             【随所に主となる】

 

 

【日本臨済宗の基礎をつくった栄西:お茶もね・・・】
 中国から日本に禅を伝えた人として、中学、高校で学んだのは、明菴栄西(1141~1215)です。二度にわたって中国、当時の宋の国で勉強し、帰国後は京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺、博多に聖福寺を開き、日本臨済宗の基礎をつくりました。栄西については、もうひとつ、お茶の栽培を奨励したことで知られています。・・・(中略)・・・。栄西は「喫茶養生記」を著わし、お茶の効能や飲み方を説き、日本の茶道の先駆者にもなっています。(p.43)
   《参照》   『茶の本』 岡倉天心 (淡交社)
             【茶の発達の三段階】

 

 

【日本文化と禅、されど・・・】
 茶道に限らず、禅と日本文化のつながりは一般に認識されているよりも遥かに深いものがあります。建築、庭園、絵画、書道、俳句、能、尺八。さらには剣道、槍術、弓道、拳法、礼法など枚挙にいとまがありません。日本人の精神形成にも、わび、さび、勤勉、死生観、礼儀作法など、禅が大きな影響を与えています。(p.71)
 そうなったのは、禅が「中今の思想」を持っていたから。すなわち日本文化の基礎である神道の中核思想を持っていたからである。
 なぜ、神道より禅の方が際立ったのかというと、日本古来の神道は余り言葉を用いない伝承であったが故に、用語の豊富な禅宗は、言語表現という点で日本文化への確かな影響力をもち、現実的に役立ってきたからと言えるだろう。
   《参照》   『どこまでも強運』 深見東州 たちばな出版
             【神道の風土】
             【芸術と禅と神道】

 

 

【禅語に由来する日常語】
 今日われわれが日常生活で使っている言葉にも、禅語に由来するものが数えきれません。単(畳一枚の雲水席)の順位からきた単位。雲水の指導責任者の呼称の直日(じきじつ)からきた日直、宿直。師家が使う竹箟(しっぺい)を修行者が取り上げて叩き返すことからきたしっぺがえし。玄妙の真理に入ることから玄関。禅寺の食堂(じきどう)に由来する食堂。便所掃除で陰徳をつんだ中国唐代の雪隠寺の和尚の名からきた雪隠(せっちん=便所)。臨済禅師が折にふれて使った「喝!」という言葉からきた一喝する、喝を入れる。面白いものでは、臨済宗を臨済正宗(しょうじゅう)とも呼ぶその正宗を「桜正宗(まさむね)」のように酒の名前に使っているというのまであります。(p.71)
 「喝!」の話になると、いつも下記のコメントに書いた爆笑話しのことを思い出してしまう。
   《参照》   『天皇』 三浦朱門 海竜社
             【 「啉」 「飲」 「喫」 「喝」 】

 

 

【和敬静寂(わぎょうせいじゃく)】
 千利休の言葉。茶室の掛け軸によく見られます。茶室という世界のなかに自分自身が一体化し〔和〕、すべての人、すべての物に敬いの心をもち〔敬〕、こだわりやとらわれなく清々しい気持ちで〔清〕、生死を超越し、煩悩を去った心境〔寂〕になることです。
 「茶の湯とは、ただ湯をわかし茶をたてて飲むばかりなることと知るべし」(千利休)という境涯です。(p.74)
   《参照》   『ブッタとシッタカブッタ2』 小泉吉宏 (メディアファクトリー)
             【幸せ】