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 著者の本は初めて読んだけれど、良質な内容である。2,3頁ごとに話がまとまっている。3秒ではなく、3分で “気付き” を得られる読者は多いだろう。
 著者は、文中に 「私は唯物論者であるけれど」 と書いているけれど、記述されている思想や内容は、高度で良質な霊智を持つ人のそれと同じである。

 

 

【許す】
 「許す」 という言葉の語源は 「ゆるます」 です。「許す」 というのは、自分のピンッと張った神経、つまり、 「ああしなければならない」 「こうあるべきだ」 というような価値観を 「ゆるます」 ということ。
 「ゆるます」 ことが 「許す」 ことであり、「許す」 ことはすなわち 「受け入れる」 ことなのです。「許す」 とは 「すべてを受け入れること」。(p.55)
 ならば、中年太りしたお腹に、憎しみと侮蔑を込めて互いを責めることなく、緩めて許してあげましょう。
 それができないなら、川柳でも書いて憂さ晴らし。
  「羞恥心 なくした女房は ポーニョポニョ」 
 旦那がこう言ったら、女房の返歌は多分、以下のようになる。
  「プロポーズ あの日に戻って 断りたい」 

 だったら、お返しはこれ

  「プロポーズ あの日に戻って 取り消したい」

 し~~~らない!

 

 

【宇宙飛行士の条件】
 アメリカのNASAの宇宙飛行士は、毎日2時間ずつの訓練を2年間行うのだそうです。時間にすると、およそ1500時間です。 ・・・(中略)・・・ 。どんなに我慢強い人であっても、1000時間が過ぎたあたりから、その人の本質的な性格が出てくるらしい。元々短気な性格であったり、イライラしがちだったりすると、どんなに我慢していても、1000時間以上になると、その性格が出てきてしまうと言います。
 そして、そういった人たちは、およそ1500時間の訓練を終える前に、「感情的」 な言葉を発してしまう。その言葉を発した瞬間、訓練の指導官は 「あなたはもう帰っていいですよ」 というのだそうです。(p.137-138)
 なるほど、知力だけでは宇宙飛行士にはなれない。感情的に安定していることが必須条件。
 「エモーショナル」 でなければ人間的でない、のではありません。「エモーショナル」 であることが、人間の魅力をつくっているわけでもない。
 「エモーショナル」 を克服することは、自分の魂磨きにとって、とても大切なことなのです。(p.139)
 「エモーショナル」 を克服できていないと、著者の名前である ”正観” には達しない。

 

 

【第3の生き方】
 多くの人は、必ずと言っていいほど 「好き」 か 「嫌い」 かを問いかけます。実は 「好きだからやっている」 「嫌いだからやっていない」 という選択の他に、人生には3つ目の選択があります。
 それは 「淡々と生きる」 ということです。
「好き」 だの 「嫌い」 だの、目の前に起きた現象やものについて、いちいち評価・評論しないで、自分が定めた 「シナリオ」 に沿って起きているのだから、ただ淡々と 「そういうふうになりましたか」 と言いながら生きる、ということです。(p.94-95)
 「シナリオ」 という言葉があるけれど、著者は “人生は、生まれる前から用意されているシナリオに即して営まれている” という観点で話している。つまり、そのシナリオに即して “自らは計らわず” という人生観を第3の生き方と言っている。非常に静的な観点だけれど、日本人本来の “幸福哲学” 的な感じがする。舶来の “成功哲学” に準ずると、意志と意欲が前面に出て、それに合わせるように好き嫌いの選択が割り込んでくる。 “成功哲学” は動的で、日本本来の “幸福哲学” は静的である。
 若者の労働観や仕事観に関わって、ビジネスの先人達が解法として述べている内容は、この 「第3の生き方」を出発点としているのである。
   《参照》   『何のために働くのか』 北尾吉孝  致知出版社
             【仕事】
   《参照》   『「本物」になる仕事のクセづけ』  船井幸雄  海竜社
             【何のために働くのか】
             【天職を求めるなら】
   《参照》   『壁を越える技術』  西谷昇二  サンマーク出版
             【好きなことと嫌いなことを分けてはいけない】
             【長所伸展法】

 好き嫌いという 「エモーショナル」 な判断に人生を委ねている間、人は成長しない。

 「長所伸展法」 という言葉は、安易に誤解されているのである。

 

 

【迷惑をかけて感謝して生きる】
 「迷惑をかけないで生きる」 というのは、一面では正しい考え方なのかもしれません。けれど、それは本質ではないように思います。もう一歩進んで考えてみると、「人間はほかの存在物に対して迷惑をかけない」 ということなどあり得ない、ということに気がつきます。 ・・・(中略)・・・ 。
 「迷惑をかけないで生きていくぞ」 と決意するよりも、「迷惑をかけて生きている存在なのだから、その自分を支えてくれている生きものたちに心から感謝する」 ことのほうが、ずっと前向きで、ラクな生き方だと思います。(p.182)
 いわゆる梵語の 「アヒンサー」 に徹し、蚊も殺さず蟻も踏まずを墨守して生きていていたのでは、何も生産的なことなど出来ない。愚かな仏教の隘路に嵌ってしまう。日本の仏教がそこまで狭量なものにならなかったのは、正邪を合算してトータルがプラスになるよう前向きに生きるという “神道観” が、仏教渡来以前から日本人の精神性に根付いていたからである。
 神道を学び始めたころ、神なるものに通ずる方法として、“我儘な駄々っ子のやり方“ と言われて、しばし思考停止したものであるけれど、(馬鹿)真面目な仏教徒の感覚では、日本の神々の自在性を永遠に理解しえないのだろう。迷惑を掛けまくる駄々っ子の感性は(品性ではない!)神に通ずるのである。
 
<了>