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 ニューエイジ思想の著作の中に、「ブッダに会ったら、ブッタを殺せ」 というタイトルの著作があったけれど、頭の固い人に誤解されかねないから、こんな穏やかなタイトルにしてあるのだろう。
 正しい宗教的人生観を会得するのに良い著作である。

 

 

【祈りにお金はかからない】
 私は、今までに、大勢の成功した事業家に会いました。そして知ったのは、彼らの中には信仰心を持ったヒトが多いということです。
 それも、大黒天だとか、お不動さまだとか、観音さまや、お稲荷さまなどが多く、もう一つの特徴として、宗教団体には所属していないという点があります。そして、他の人を誘うことなく、自分一人で拝んでいる。だから、その祈りにはカネがかからないのです。
 どうも、カネを貯める人は信仰に無駄遣いはせず、カネを消費する人は宗教団体に大金を使ってしまうようなところがあるようです。(p.45)
 宗教団体を人生に資する宗教的認識や考え方を学ぶ学校として捉え、授業料を払うくらいの気持ちで接するのであるなら比較的ましである。また、本当にやり遂げたいことのある人ならば、宗教団体に入ることで何らかのヒントを掴めることがあるかもしれない。
 御利益信仰を抱いて宗教団体に属している事業家というのは、本当の事業家ではないだろうし、自分探しのために宗教団体に属している一般人というのも、本来あるべき姿ではないように思う。
 世界的に著名な宗祖というのは、答えを出してくれるだろうと頼るべきものではなく、自分で答えを見つける生き方を指南した人々のはずである。
 宗教が個々人によって内的に咀嚼される段階を離れ、布教という名目で団体を構成するようになると、どうしても資金的な必要性から、お金の論理を無視できないというパラドックスの中で活動しなければならなくなる。どれほど教祖の霊力が優れていようと、左前にしてまで宗教団体に入れ込むというような鴨葱信者になってはいけない。それでは明らかに本質から外れてしまっている。

 

 

【祈りのメカニズム】
 祈りとは、望ましいことを繰り返しイメージし、それを願うことです。そして、繰り返しイメージしたことが、疑似体験となり、それは疑似記憶となり、ついで、単なる記憶の集積として貯蔵されて行くのです。
 そして、この集積された記憶こそ、その人の未来の運命を切り開いて行く力の根源となるものです。
 以上が、祈りのメカニズムなのです。(p.51)
 祈りのポイントは、プラスの疑似記憶を集積させること、である。プラスの疑似記憶を集積させるということは、明確なプラスの言葉にして脳に疑似記憶を送り込み集積させるということである。
 暗澹たる未来や心配事を想定して “そうなりませんように” という祈り方をするのであるなら、マイナスの疑似記憶を集積させていることになるのである。人類救済というスローガンを掲げながら、そんな祈りを集積させる人々の集う宗教団体であるならば、それは明らかに邪宗門徒である。

 

 

【「辛抱の期間」】
 人が苦難の中から脱するためには、「神の力」 は一瞬にしてその力を示してくれるのではなく、多くの場合、ごく自然的、かつ平凡にその力が発揮され、そのためには、かなり長い時間が要求されるのです。
 難病を癒すのも、経済的困窮を脱するのも、社会的成功を得るのも、すべて、工夫すること、励むこと、耐えること、そしてそのために費やす時間が必要なのです。そして、それを成し得た者のためにこそ、「神の力」 は働いてくれるのです。したがって、焦る者、特にそのために否定的感情に陥っている者のために、「神の加護」 は行われません。
 時の長さをしのぶ辛抱が大切なのです。しかし、その辛抱も暗い気持ちで耐えるのでは、かえって悪い結果を呼んでしまうかもしれません。「辛抱の期間」 というプロセスを、未来への希望に燃えた喜びと感謝の気分の内に過ごすことが必要なのです。
 このように、肯定的な思いの日々を過ごした者のためこそ、「神の力」 が働き、勝利への栄光が訪れます。(p.131)
 「神の力」 に一発逆転は殆ど無いということである。モーゼが海を裂いてイスラエルの民を導いたというような記述を信じている人々は、シュールに流れ過ぎていることを自覚すべきである。
 このことを良く心得た年配の人々はよく “辛抱” という言葉を使っていたように思う。我慢、忍耐、辛抱という言葉を 「ダサイ」 と捉えるような人なら、人生にたいした稔はもたらされない。大抵の植物は1年に1回の稔のために、寒い冬もじっと耐えて長期に亘る雌伏期間を過ごしている。圧倒的な巨木は、ほとんど過酷な寒冷地方に分布している。ことが成るには、長い時間が必要なのである。
   《参照》   『昨日までの自分に別れを告げる』 中谷彰宏 (ダイヤモンド社)
           【針葉樹林が、広葉樹林より長生きなのは、厳しい環境に育っているから。】

 「辛抱の期間」 の過ごし方に関して、神を人格神のように捉えている人は、「辛抱している期間、神はその人の内面を観察しながらそれに応じて成功を与えてくれる」 と考えるのかもしれない。 神を法則として考える人は、祈りのメカニズムに準じて、「辛抱している期間であっても、希望と喜びと感謝」 に則して生きてゆく。

 

 

【玄】
 「玄」 という言葉について、少々考えてみたいと思います。
 ごく簡単に言えば、玄とは、天地万象の発する起点であり、そこは真っ暗だ、ということです。
  ・・・(中略)・・・ あらゆる生命の発生する直前の暗黒状態にもその生命エネルギーが充満しており、それを指して 「玄」 と呼ぶのだ、と私は解釈するのです。
 とすれば、人間の生まれる直前の母親の子宮の中にはこの玄力が充満していた筈であり、その故には、老子は、万物発生の原点を 「玄牝」 と呼んでおります。(p.140-141)
 『老子』 の中には、「谷神を玄牝という」 と記述されていたと記憶している。
 建物の出入口を、この深遠なる 「玄」 の世界への出入り口と見なして 「玄関」 と呼ぶようになったのであろうに、殆どの日本人は、そのことを全く理解していない。
 「玄牝」 という万物発生の原点を、物理的にとらえるならば 「ゼロ」 である。
   《参照》   『新ミレニアムの科学原理』 実藤遠 (東明社) 《前編》
             【形而上とゼロ】 【 「0」 が次元の通過点 】

 

 

【安全の轍】
 人は良い学校へ入り、良い成績をあげ、良い就職先へ身を寄せようとします。「寄らば大樹の陰」 という言葉で示されるように、それまでの努力は、一言でいえば、「安全の先取り」 なのです。
 ずばり言うならば、安全を求めるというこの行為は、マイナス的思考なのです。これに対するのは野心的希望です。それはプラス的思考です。
 無事安全を究極的願望とするのは、他者依存の現れです。本来、希望とはプラス的なものです。明るく、燃え立つような欲望が、それを意味しているではありませんか。
 このプラス的希望であるべき思考が、初めから、安全のみを重視するマイナス的願望になっていることは、その人の運命を混乱させるものとなりがちです。(p.195-196)
   《参照》   『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《中編》
             【自由と安全保障】

 安心と安全は違う。神の力を確信して居る人は、安全に依存して世界や人生の枠を狭めてしまうような愚を犯さない。神の力を確信して安心している人は、勇猛なる心を併せ持っている。神の力を失った近代人は、安全だから安心という。
 近代人のスケールが小さくなっているのは、神の力に対する信頼の喪失(神と自分の分離)と同時進行する形で、財物に依存して安全(保障)を得ようとしてきたからなのだろう。
 外国には、こういう諺があります。
 「船は港に戻れば安全だが、しかし、船はそのために作られたのではない」 (p.197)

 

 

【最後に贈る言葉】
 宗教というのは、心の面における医者に譬えることが出来ると私は考えます。「宗教の教義や儀式が、人の悩みや苦しみを救ってくれるのではない。その人に備わっている神の力が、それを癒してくれるのだ。宗教も教祖も、ただ、その手伝いをするにすぎない」 と。

 どのような宗教にも入らず、しかも神を信仰し、祈り、感謝している人は、世間に居るでしょうか?
 私は、いると信じて居ります。それらの人は、他人にそれを語らないでいるだけなのです。私は、それが優れた科学者、医師、教育者、また芸術家の中に、案外多いのではないか、と推測しております。
 彼らは別に、それを秘密にしている訳ではないでしょう。ただ、名前の付けざる神の存在を信じ、その神の力を求めているのです。
 そして、このような人々は、今、世界中に増えつつあるのだ、と私は思っております。
  ・・・(中略)・・・ 。
 この本を完結するにあたって、次の言葉を、皆さんに贈りましょう。

 独り立ち、神と共に在れ!    (p.212-213)
 独り立ち、神と共に在れ!  
 素晴らしい表現だと思う。
 宗教団体に属していてもいなくても、この言葉に則して生きている人は、正しい認識において人生を歩んでいると言えるだろう。
 
 
<了>