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 著者は、『ドラゴン桜』 という偏差値30の学生たちが東大入学を目指すというマンガの作者だという。
 タイトルは著者の主旨を端的に表している。やや極端と思われやすいタイトルであろうけれど、内容を読めば、整然とした記述で一貫していて気持ちのいい著書である。個性だの子供の自主性だのと戯けた空論に迎合する「友達のような教師」、「友達のような親子」 は、この本を読んでその弊害をよく認識すべきだろう。

 

 

【まずは 「コード」 を憶えろ!!】
 自由の象徴のような即興演奏でさえ、コードという 『型』 によってつくられているのだ。

 この事実はなかなか示唆に富んだものではないだろうか。
 たとえば、学生時代にギターを買って、3ヶ月もしないうちに挫折したという人は多い。
 彼らにどうして挫折したのかと聞いてみると、大半が「Fのコードが押さえられなかった」といった理由のようだ。
 きっとコードを憶えられるかどうか、ギター習得の第一関門なのだろう。
 その単純な理屈がわからない人に限って、コードも憶えようとせず
「そのうちキターの神様が降りてこないかな」
 といった夢をみる。
 あるいは反対に
「俺には才能がないんだ」
 とあきらめる。
 はっきり言って、コードも弾けないようなギタリスリなんてどこにもいない。リフティングができないサッカー選手がいないように、そんなものは当然クリアしておくべきステップで、才能以前の問題だ。
 物事には順序というものがある。まずはコードを憶えること。個性だの才能だのを考えるのは、その後だ。
 これは音楽に限らず、たとえば自分の仕事における「コード」はなんなのか、ジックリと考えてみるがいい。意外とその部分をおろそかにしているかもしれないのだ。 (p.53-54)

 

 

【「自由」を掲げたジーコ監督】
 チームの指針として 「自由」 を掲げたジーコ監督は、ほとんど戦術らしい戦術を持たないまま本大会に突入し、選手自身の対応力、イマジネーション能力に全てを託した。きっとこの才能あふれる選手たちなら、それが可能だと思ったのだろう。
 しかし、ジーコ監督の 「自由」 は選手たちに困惑と迷いを引き起こしただけだった。
 特に戦術を与えられなかったディフェンス陣の崩壊ぶりは、目を覆いたくなるほど悲惨なものだった。
 ジーコ監督の 「自由」 は、完全に失敗だったのだ。 (p.106)
 組織力のヨーロッパ、個人技の南米と言われているサーカーの2大戦術。社会学的に個人主義社会といわれているヨーロッパが組織力を基本とし、個人技といわれる南米のチームですら、コーチやトレーナーがいて、選手全員に指示を送り、みんなで同じ練習をこなす。あくまでも全体練習なのである。ところが、ジーコ指揮下の日本チームは、練習であってすら完全な自由だったという。
 英雄ナポレオンを撃破するために編み出されたクラウゼヴィッツの戦争論を知っている人ならば、戦を遂行するのに 「自由」 という選択肢などありえないことは、前提以前のことであって想像すらできないものである。スポーツの戦術も、企業経営のノウハウも、縦の指揮系統下にある組織力によって遂行されるものである。チームや企業が、苛烈な上下関係を経験してきた体育会系人材を好み、自由や個性を主張する輩を敬遠している事実を、一方的に看過し続けている教育界が、実社会に合わない間抜けな学生を育てているのである。だから、フリーターやニートが増えてしまう。

 

 

【自主性を重んじるという責任逃れ】
 たとえば、選手をオリンピックに導くような名コーチたちは、みな 「こうやれば強くなれる」 という指導の 『型』 を持っている。
 一方、ダメなコーチはそのような 『型』 を持っていない。
 そして 「こうやれば強くなれる」 と言えないため、選手たちの自主性を重んじるようになってしまう。これでは完全な丸投げだ。ただ責任逃れをしているだけである。 (p.115-116)
 『型』 を持たない白痴級の父兄と、『型』 を持たない日教組系の教師が、学生に対しては自主性という言葉を掲げて、自らは責任逃れの場所を確保した上で、全うな 『型』 を持つ教師を譴責し管理し評価することに専念するのである。

 

 

【子どもを叱れるのは親と教師だけ】
 子供たちに率先して真似をさせるには、親や教師が尊敬やあこがれ、あるいは畏怖すべき対象でなければならない。
 その意味で、僕は最近の 「友達みたいな親」 や 「友達感覚の先生」 が気に食わないのである。テレビで「今日は娘とデートなんです。さっきもお店で姉妹と間違えられて」 なんて言っている母親を見ると、虫唾が走る思いがする。 (p.145)
 同感であるけれど、私は虫唾が走るというよりは、無表情の下でお寒い笑いを笑っている。

 

 

【日本の 『型』 を教育せよ】
 元旦には 『お正月』 を歌い、春になれば 『花』 や 『春の小川』 を歌う。夏になれば 『茶摘み』 を、秋が来れば 『夕焼け小焼け』 や 『荒城の月』 を歌い、冬には 『蛍の光』 を歌う。
 いったいなんの意味があるんだと言われそうだが、唱歌を歌うのに意味なんかいらないのである。
 ただ、これら唱歌に触れることで、七五調の歌詞が持つ不思議な心地よさを知り、日本語の美しさを感じながら、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に歌えるようになる。
 世代間の断絶がなくなる。
 そうしたら、もうそれで立派な目的達成だ。
 時代のヒットソングなんか黙っていても耳にはいるのだから、学校の音楽の授業で教える必要はない。少なくともヒットソングを憶えるよりも何倍も人生を豊かなものにしてくれるはずだ。 (p.151)
 この記述は、重要な意味を持つ立派な文章である。唱歌を歌う意味が、ピンポイントで説明されているではないか。日本語の美しさと、七五調のリズムが持つ不思議な心地よさ、これらは正に日本の 『型』 そのものである。
 最近の曲に大ヒットはないと言われている。それは、感覚的な曲だけで作られ、歌詞が軽視されているからであろう。「なぜロックなのか?」 と訊かれたロックンローラーが、「最後にバラードを歌いたいから」 と答えていたのを聞いて唖然としたことがあるけれど、現在の若者達であっても、心中では静寂な世界に響く珠玉の言の葉に包まれたいのである。穏やかな大和言葉でつむがれた美しい歌詞に心を打たれるのである。それこそが日本人に共有されている日本語の妙味である。日本語として美しい歌詞と、それを活かす曲調でつくられた歌謡曲ならば、かならずやロングセラーとして残るはずである。
 なにはともあれ、日本語の型を七五調にのせた唱歌は、小学校において復活されるべきであろう。
 そこには日本の 『型』 が、日本人の 『心』 が、厳然と息づいているからである。

 

 下記リンクに、『赤とんぼ』 に関する興味深いエピソードが記述されている。 

            【著者の台湾研究】 
              
<了>