今日もお暑うございます。
今日は第四日曜日ですね。
今日は東京都豊島区誓願寺にお参りと法話会に行ってきました
われも
ひかりの
うちに
あり
ひかりとは、仏さまの事です
今日の御講師は大阪府 明教寺の不死川昌史(しなずがわまさし)師です。
※青字が不死川師の言葉の要約です。
<苦悩の有情>
仏さまから見れば、私たちは「苦悩の有情」なんです。
有情とは、情の有る者、つまり、私たちです。
苦悩とは、四苦八苦の事です。
つまり、
情ある故に、色々な縁で苦しむ私たちです。
では、
改めて、四苦八苦を簡単に説明していきましょう。
四苦とは、
「生・老・病・死」のことです。
生まれてくる苦しみ
老いていく苦しみ
病気になる苦しみ
死んでいく苦しみ
その他、もう四つあります。
愛別離苦(あいべつりく)
愛する者と別れていく苦しみです
怨憎会苦(おんぞうえく)
憎らしい人、苦手な人、
嫌な人とも会っていかなければならない苦しみです。
求不得苦(ぐふとっく)
求めても手に入らない苦しみです。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)
ちょっとこれは一言では終わらないので、詳しくお話します。
五蘊とは、
まずは、色(しき)です。
形あるもの、ですから、肉体の事です。
次に、受(じゅ)です。
痛いとか、冷たいとか、感覚的なものです。
次に、想(そう)です。
こころに想う事です。想う事での苦しみです。
次に、行(ぎょう)です。
行うことですが、特に過去の記憶の中での苦しみです。
今は何もしてなくても、”過去の自分の行い”で苦しむのです。
次に、識(しき)です。
識別することです。分別をつけることでの苦しみです。
この五つは、
色は肉体ですが、
受・想・行・識の四つは精神的なことでもあるので、
五つ合わせて「心身」と解釈できます。
つまり、
五蘊盛苦とは、
心身の盛んな活動のゆえに起こる、
”身体と心が思うようにならない苦しみ”の事です。
生きていれば、”ストレスがない”なんてことはないですよね。
みんな、なんらかの苦しみが、場面を変えて人生に起こってきます。
苦しんだり
泣き叫んだり、
逆にただただ、じっと辛さに耐えていたり・・・。
その私たちを見てはおれないと、
立ち上がってくれたのが仏さまです。
よく、
大慈悲というのですが、
大慈悲とは、仏さまのお慈悲で、
人の痛みが、我が痛み
人の苦しみが、我が苦しみ
人の悲しみが、我が悲しみ
そういう心です。
それに対して、
小慈悲というのですが、
小慈悲とは、私たち人間のお慈悲の事を言います。
私たちは、仏さまのようなお慈悲を徹底できません。
自分と他人を区別したり、
自分の好みで区別したり、はじいたりしますし、
それをずっと続けることができないので、
「大慈悲」ではなく、「小慈悲」なのです。
私は、養子で今のお寺に迎えてもらったんですが、
最初は肩身が狭くて、リビングのソファーも端に座っていました。
そうしたら、それを見た妻が(妻から見れば実家のお寺ですが)
このようにいいました。
「あんたはこのお寺の跡継ぎなんやから、もっと堂々としていいんよ。
もっとソファーの真ん中に座って、ビールでも飲んでいていいのよ」
私は、妻の気遣いに感謝しましたが、
それから時は流れて、現在です。
私が帰宅後ソファーでゆっくりしようとしたら、妻が言いました。
「あんた、外を見たでしょ。
雲行きが怪しいんだから、
座ってないで洗濯物を取り込んでよ」
洗濯物を取り込めば、
次は畳んで、
仕舞うところまでがセットメニューでもれなくついてきます。
新婚当時の妻の気遣いが懐かしいです。
私たちの「気遣い」「小慈悲」はずっとは続かないんですよ。
梯實圓(かけはしじつえん)和上のお話です。
梯和上は「人の痛みを我が痛みとするというお慈悲は、
直感的に響いてくるものなんだよ」と言います。
あるとき、梯和上がお孫さんの運動会に行きました。
梯和上はカメラがお好きでお孫さんから
「写真を撮りに来て」と頼まれたのだそうです。
運動会の定番と言えば、「徒競走」ですが、
梯和上いわく
「運動会は、よう、コケはりますなぁ・・・」とのことです。
確かに小さな子ほど、よく転びますよね。
それで、他人の子供がコケれば、
大丈夫かなと思いながらも、みなクスクス笑いですが、
自分のところの子供がコケればどうですか。
膝を擦りむいただけであっても、
親や祖父母は
自分の膝を抱えて、痛そうな顔をするんです。
自分の子には我がことのように痛がり、
他人の子には失笑とはいいませんが、大きな感情は起こりません。
人の小慈悲とは、このようなものなのですね。
仏さまは
そのようは私たちの有りようをみて、
誰もを平等に
人の痛みが、我が痛み
人の苦しみが、我が苦しみ
人の悲しみが、我が悲しみ
そう感じて救うと誓ってくれたのですね。
ありがたく
嬉しいことだと思います。
<わしも一緒に
行ってやるから>
有名人で、浄土真宗本願寺派の方は結構多くいるんです。
松下幸之助さん、高倉健さん、竹下昇さん、つんくさん・・・。
そして、うつみ宮土理さんも浄土真宗本願寺派のご門徒です。
そんなご縁もあって、うつみさんが本願寺で講演をしたことがあり、
それが「大乗」という雑誌に掲載されたことがありました。
今からそのお話をしていきます。
うつみさんと言えば、
私たちのイメージは、お話好きで活発で明るいイメージがありますが、
小さい時はほとんど話さない子供だったそうです。
しかも、あまり話さないから、
周囲の人が「発達に問題があるのではないか」と
心配をしたくらいだったそうです。
お母さんはというと、病気がちで、
よく布団に横になっていることが多かったそうですが、
うつみさんが小学4年生の時のことです。
ある日、うつみさんが学校から帰ってくると、
お母さんの様子がおかしく、身体が熱くなっている事に気づきます。
呼吸も荒くなっていたので、
うつみさんは子供心に
「病院に連絡をしなくちゃ」
そう思い、病院まで走っていきますが、
病院の前までいったものの、病院のドアを開けることができません。
勇気が出ないのです。
仕方がないので、うつみさんは家に戻りますが、
家に帰った時にはお母さんは冷たくなっていたそうです。
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お母さんは小学4年の子を残してお浄土に往ったのですから、
周囲は「それじゃこの子が不憫だろう」と、
すぐに新しいお母さんがやって来ました。
ところが、このお母さんが大変厳しい方でした。
挨拶の声が小さければ、何度も言いなおしをさせます。
テストで30点でも取れば、
そのテストを持って仏壇のところに行きます。
そしてお母さんやご先祖さんに向かって、
この日の出来事を伝えていくのです。
こうなってくると、
うつみさんもちょっとは反抗心が出てきます。
ある日のテストは100点でした。
「おかあさん、はい、これ」
100点のテストを差し出しました。
すると、新しいお母さんは、
そのテストを持って、やっぱり仏壇に行きます。
そして、テストを仏壇に供えていきますが、
この日だけ何だかちょっと違っていました。
「みなさん、聞いて下さい。この子が満点を取りました」
新しいお母さんの肩が小刻みに震えています。
うつみさんが恐る恐る、身を乗り出して、
新しいお母さんの顔を覗き込むと、
お母さんは涙が一杯こぼれていました。
この日から、うつみさんの人生は一変します。
「今があるのは、あのお母さんのお陰。
2番目の母がいたからです」
NHKで「13000人の容疑者」というドキュメントがありました。
実際の出来事を深く掘り下げていくドキュメントなのですが、
その時のテーマは「吉展(よしのぶ)ちゃん、誘拐殺人事件」でした。
1963年3月31日、
東京都台東区入谷町で当時四歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、
身代金五十万円が要求されるという事件が起こりました。
犯人は当初、
身代金が手に入ったら、吉展ちゃんを開放するつもりだったようですが、
一緒にいるうちに自分の特徴を吉展ちゃんがよく見ていることに気づき、
もし開放したら、自分の事を警察に話してしまい、
自分が早く捕まるんじゃないかと考えました。
そのため、吉展ちゃんはその日のうちに殺され、
千住円通寺の墓地に埋められてしまいました。
さて、犯人を一刻も早く捕まえたい。
警察は威信をかけて、13000人の容疑者候補の中から絞り込みます。
この事件の捜査は困難をきわめましたが、
犯人の小原 保(おばら たもつ)が捕まったのは、
二年後、1965年の7月のことでした。
犯人、小原 保の母親トヨさんは、次のような手記を残しています。
「村越様、ゆるしてください。
わしが保を産んだ母親でごぜえます。
保が犯人だというニュースを聞いて、
吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、
あまりの非道に足がすくんでだめです。
ただただ針のむしろに座っている気持ちです。
保よ、だいそれた罪を犯してくれたなあ。
わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、
おまえをかわいがっていたつもりだ。
おまえはそれを考えたことはなかったのか。
保よ、おまえは地獄へ行け。
わしも一緒に行ってやるから。
それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする。
どうか皆様、ゆるしてくださいとは言いません。
ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし」
吉展ちゃんのお母様がどんなに悲しんだか、考えると苦しくなってきますが、
犯人の母親トヨさんもどんなに苦しんだことでしょうか。
トヨさんは、息子に「地獄へ行け」と言います。
しかし、
その後ですぐに「わしも一緒に行ってやるから」と付け加えます。
息子の犯した罪を、まるで自分が犯したもののように引き受け、
できれば息子の身代わりになって自分が罰を受けたい、
それがかなわぬなら、
息子と一緒に刑罰を受けても良いと言っているのです。
このことばに仏さまの大慈悲に似た、
母親の小慈悲を見ることができます。
私たちは
縁に触れれば
どんな人でも
どのような人生になっていくのか
実はわからないのです。
どんな死に様になっていくのかもわかりません。
それでも、
どうなっても、
決して、見捨てはしないと
仏さまは大慈悲を持って、
私たちに仰るのです。
行き先は、
地獄ではありません。
お浄土までご一緒と
聞かせて頂くのです。
うつみ宮土理さん、
吉展ちゃん事件、
お聞きになったりしたことはあるでしょうか。
うつみ宮土理さん。
よく、
産むから親じゃない。
育てるから親なんだ。
と言います。
産んで4歳まで育てたお母さんも立派なら、
二番目のお母さんも相当の覚悟でうつみさんを育てたのでしょうね。
吉展ちゃん事件。
双方の親の無念さが辛いですね。
人生の四苦八苦
その有情を見捨てない。
それが仏さまのハタラキです。
今日もようこそのお参りでした