今日の東京都心は、気温24度。
今日は晴れて
、
「空調なし」の場所では、
アイスクリーム🍨も美味しく感じます![]()
今日もお参りのあとは、法話を聞きましょう![]()
今日のご講師は、三重県津市存仁寺の山田敎尚師です。
※青字は山田師の言葉の要約です。
<ご縁の中で>
私の連れ合いは長崎県の諫早の出身なのですが、
お通夜の時にお菓子を飾ったりしてあるんです。
何かな、と思ってよく見ると、
それは「目覚まし」と言うんだそうです。
これには、
実は三つの意味があるそうです。
供養のものを通じて
一つ目は、目を閉じた亡き方に「目覚めて」ほしい。
二つ目は、お通夜の大事な日には、残された者は寝ないで「目覚めて」ほしい。
三つ目は、亡き方を「大切なご縁」と感じ、仏法に「目覚めて」ほしい。
残った私たちも、
いつか、このようになっていく。
いや、
いつ、こうなるかもわからない。
そういう
「無常のいのち」を感じていって欲しい。
そういうことなんですね。
ちなみに
目覚めた方の事を「ブッダ」といます。
ブッダとは、仏さまのことですよ。
本当に、死んで終わりの命なのか。
よくよく、
仏法を訪ねていかなければならないでしょう。
世の中に
「死なない方法」があるんですよ。
なんだと思いますか?
それは
「生まれてこないこと」です。
言い換えれば、
生まれたからには、死ぬんです。
仏教では、「生」と「死」を合わせて「生死(しょうじ)」と言います。
仏教では、「生」と「死」を切り離さないんです。
よく、一枚の紙で表されるんですが、
紙の表と裏。「切り離して」と言われてもできないでしょう。
それと同じようなことで、
「生」と「死」は「二つで一つ」なんです。
例えば
生れてくる。
これを原因(仏教では因)と言いましょう。
死んでいく。
これを結果(仏教では果)と言いましょう。
老いや病気や事故、災害等で人が亡くなっていきます。
生まれたからは必ず死ぬんですが、
死ぬのに老い、病気、事故、災害。
そういうことが絡んでいく。
この「絡んでいくもの」を仏教では「縁」と言います。
よく死亡診断書では、医師が「死因」を書きます。
「老衰」「癌」「大きなケガ」のことが書かれることもあるでしょう。
でも、それは結果(果)じゃない。
そうなる「きかっけ」こそ、「縁」です。
だから、最終的には「死因」と言えば、
死んだ結果は「生まれたから」なんです。
言い換えれば、
生まれたから死んでいくんです。
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皆さんは車を運転しますか?
例えば、ちょっと急ぐ用事があって、スピードを出したら、
後ろの車がなんと覆面パトカーで、車を止められる。
「はい、スピード違反ですね」と言われたとします。
あの時、10人中ほとんどの方はこう思うでしょう。
「運が悪かったな」
あれは、仏教的には、
車に乗った。
あの時間に乗った。
急いでいた。
その道路を使わないとならなかった。
そこに、
あの時間にパトロールがあった。
そういう、小さなことの積み重ねでしょう。
これを「縁」というのですが、
縁が絡んで、最後は「つかまった」となったのです。
こういう状況を仏教では
「縁が整った」と言うんですね。
「運がいい」とか、「運が悪い」とかよく言いますね。
でも、あとから考えれば「あれがあったから」ってことがあるんです。
この間テレビで「宝くじが当たった方」のその後をやってました。
「宝くじが当たった」
それはもう「運がいい」としか言いようがない。
でも、そのあと、
宝くじのお金で買った、何台もの大きなテレビで、劇画をたくさん見た。
働かなくていいから、家にこもって、ステーキやお菓子ばかりたべていた。
そうしたら、健康的に大きな問題が起こっていた。
そういうんですね。
それ、「運がいい」からのお話ですよね。
逆に、「絶対大丈夫」という志望校に落ちちゃった。
それは「運が悪い」ですよね。
でも、違う学校に行ったら、生涯の伴侶と巡り合った。
それ、「運が悪い」からのお話しですよ。
結局は
常に移り変わるんです。
人生は無常なんですよね。
言い換えれば、
すべては「縁」によって変わっていくのが人生です。
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讃岐に庄松(しょうま)さんという男性がいました。
庄松さんは1799年生まれで、1871年に亡くなっていますが、
生涯独身で、わずかな田を耕したりしながら過ごしていたそうです。
「妙好人(みょうこうにん)」と言うんですが、
この方は熱心に仏法をお聞きになさっていたそうです。
ある時、
庄松さんが独身であることを知っている近所の人たちがこう言ったそうです。
「庄松や、お前さんが死んだら、お墓を建ててあげよう」
すると、庄松さんはこう言ったそうです。
「それはそれは・・・。ありがたい話じゃのう。
でも、墓を建てても、わしゃ、墓の下にはおらんぞ。
わしゃ、いのち終わったら、お浄土にいくでのう」
今は、「墓じまい」の相談が多くなりました。
ご先祖の御遺骨も「合同墓」に、という話もよく聞きます。
代々継がれてきたことも、独身の方が増えたり、
「若い方の負担になりたくない」とご両親が考えたり、
それは「時代の成せること」なのかもしれませんね。
では、お墓のいいところは何でしょう。
まずは、
「手を合わせるご縁」が出来ると言う事です。
お墓が無ければ、どこで手を合わせますか。
家が狭かったり、仏壇は本家が持っているとかで、
お仏壇も置けない方も多いのです。
つぎに、
「お参りのご縁」が出来るようになります。
お墓がなければ、お寺にもお墓にも来なければ、
ただ「忙しい日常に終始する」だけの毎日ではないでしょうか。
お墓に来たら、
「倶会一処(くえいっしょ)」と彫ってあるお墓もあります。
「倶会一処」とは、
「共にひとつのところで、再会する」ということなんです。
へ~、そんなところが、あんの?
お浄土?
誰が言ったの、そんなこと?
それを教えてくれたのは
お釈迦様です。
それが確かに書いてあるのが、
「仏説阿弥陀経」と言う、お釈迦様のお経です。
その教えに出会わせてもらえるのが
お墓でしょう。
お寺でしょう。
手を合わせる。
お参りをする。
亡き方とお話をする。
倶会一処の話しと出会う。
多忙な日常生活ではできないことだと思いますよ。
庄松さんは「死んだらお墓にはいない」と言いましたが、
お浄土に往った(行った)のですから、それが正解。
でも、
還相回向(げんそうえこう)のはたらきにより、
また、お浄土からまた、この娑婆に還ってきて、
有縁の方の傍にいるんです。
だから、
あなたがお墓に行く時は
仏様もちゃんとそばにいてくれるのです。
結局、
そういうことは、
先立った方が
今、ご縁を結んでくれているのです。
そういうことを忘れてはなりませんよね。
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庄松さんのエピソードでは、このようなものもあります。
昔の方は、義務教育が熟している時代ではないですから、
「文字の読み書き」が出来ない方も多かったそうで、
庄松さんもその一人でした。
周囲の方は、庄松さんが文字を読めないのを知っています。
ある時、少し「からかいの気持ち」もあったのでしょう。
こう言ったそうです。
「おい、庄松。
お前はいつも大事そうにお聖教(お経本)を懐(ふところ)に入れているが、
その本にはなんて書いてあるんだ。
いっぺん、聞かせてくれや」
文字の読めないことを知っていて、
ちょっと意地悪なことを言われたのですが、
庄松さんは堂々と本を開きました。
そして、一枚めくりました。
つぎに、一言言いました。
「庄松をたすくるぞ(庄松を助けるぞ)」
また、一枚めくって言いました。
「庄松をたすくるぞ(庄松を助けるぞ)」
更にもう一枚めくって言いました。
「庄松をたすくるぞ(庄松を助けるぞ)」
「たすくる」というのは、
助ける、救うということです。
庄松さんは、
普段、お坊さんの御説教を聞きながら、
お経にはこういうことが書いてあると
端的に言い放ったんですね。
もちろん、
お経には文字ひとつ一つに意味があります。
でも、
「何がいいたいの?」
「何を伝えたいの?」
そのことを聞く。
しっかりと聞く。
そのことが庄松さんには伝わっていたんですね。
庄松さんは
伴侶ともご縁がなく、
お金にもご縁がなく、
文字を読むご縁もありませんでした。
でも、
仏法に出会うご縁に恵まれた。
仏法と出会えてしあわせだったと思い、
生涯を過ごしていたそうです。
私たち、
しあわせになりたいですね。
自分の意のままに過ごせば、
あれもこれも欲しくなります。
嫌いな人とは会わずに、好きな人とすごしていたい。
そういうことが
しあわせと思っているからです。
でも、
しあわせは、「つかむもの」じゃないですよね。
しあわせは「気づくもの」
しあわせは「感じるもの」
そのように「目覚めた方(仏さま)」は仰います。
ちなみに
しあわせとは漢字で「仕合わせ」と書きますね。
いろいろなものの「巡り合わせ」「ご縁」が
その方の人生を豊かにし、
その方の人生を深めていきます。
私たちも
もっともっとご縁の中で
仏法と出会って、
目覚めていきませんか?
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ここからはbonbu-kokiが書いていきます。
ちなみにお話に出てきた「運」と「縁」について、
AIの回答を要約するとこのような言葉がありました。
運は、出てきた結果。
運は、結果としてのめぐり合わせ。
運は、コントロール不可能な事。
「自分の意思や努力では変えにくい巡り合わせ」そのものを指し、
人の力を超えた幸・不幸のめぐり合わせ。
「縁」は、「人や物事とのつながりや関係性、巡り合わせ」を指す。
「縁」は、その結果をもたらす人間関係や条件・きっかけ。
「ご縁」「良縁」「親子の縁」など、関係性やきっかけを表す。
ちなみに、なるほどと思ったのは、この記述でした。
- 「運」は選べないが、「縁」は自分の姿勢で広げられる。
- 「縁」が重なることで、良い「運」をつかむ機会が増える。
- 「縁」は行動次第で、増やしたり深めたりしやすい
- 行動や感謝の姿勢で「縁」を大切にすると、その結果として「運」が巡る。
縁を大事にすると「運命がかわる」かも、でしょうか・・・。
いや、
運が良くても悪くても、
縁に恵まれても恵まれなくても、
仏さまは「それはどうでもいい事」と言っています。
(無分別智・・・都合でものごとを分けない。分けるのは意味のないこと)
運が良かろうが、運が悪かろうが、
縁が薄いだろうが、縁が濃いだろうが、
そんなことはどうでもよくて、
そのままの私。
そのままのあなた。
を仏さまは救うそうです。
ありがたいですね。
今日もようこそのお参りでした。






















































