今日の東京都心は、気温24度。

今日は晴れて晴れ

空調なし」の場所では、

アイスクリーム🍨も美味しく感じます爆  笑

 

今日もお参りのあとは、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、三重県津市存仁寺の山田敎尚師です。

 

 

 

 

青字は山田師の言葉の要約です。

 

 

<ご縁の中で>

 

私の連れ合いは長崎県の諫早の出身なのですが、

お通夜の時にお菓子を飾ったりしてあるんです。

何かな、と思ってよく見ると、

それは「目覚まし」と言うんだそうです。

 

これには、

実は三つの意味があるそうです。

供養のものを通じて

一つ目は、目を閉じた亡き方に「目覚めて」ほしい。

二つ目は、お通夜の大事な日には、残された者は寝ないで「目覚めて」ほしい。

三つ目は、亡き方を「大切なご縁」と感じ、仏法に「目覚めて」ほしい。

 

残った私たちも、

いつか、このようになっていく。

いや、

いつ、こうなるかもわからない。

そういう

「無常のいのち」を感じていって欲しい。

そういうことなんですね。

 

ちなみに

目覚めた方の事を「ブッダ」といます。

ブッダとは、仏さまのことですよ。

 

本当に、死んで終わりの命なのか。

よくよく、

仏法を訪ねていかなければならないでしょう。

 

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世の中に

「死なない方法」があるんですよ。

なんだと思いますか?

それは

「生まれてこないこと」です。

 

言い換えれば、

生まれたからには、死ぬんです。

 

仏教では、「生」と「死」を合わせて「生死(しょうじ)」と言います。

仏教では、「生」と「死」を切り離さないんです。

よく、一枚の紙で表されるんですが、

紙の表と裏。「切り離して」と言われてもできないでしょう。

それと同じようなことで、

「生」と「死」は「二つで一つ」なんです。

 

例えば

生れてくる。

これを原因(仏教では因)と言いましょう。

死んでいく。

これを結果(仏教では果)と言いましょう。

 

老いや病気や事故、災害等で人が亡くなっていきます。

生まれたからは必ず死ぬんですが、

死ぬのに老い、病気、事故、災害。

そういうことが絡んでいく。

この「絡んでいくもの」を仏教では「縁」と言います。

 

よく死亡診断書では、医師が「死因」を書きます。

「老衰」「癌」「大きなケガ」のことが書かれることもあるでしょう。

でも、それは結果(果)じゃない。

そうなる「きかっけ」こそ、「縁」です。

だから、最終的には「死因」と言えば、

死んだ結果は「生まれたから」なんです。

 

言い換えれば、

生まれたから死んでいくんです。

 

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皆さんは車を運転しますか?

例えば、ちょっと急ぐ用事があって、スピードを出したら、

後ろの車がなんと覆面パトカーで、車を止められる。

「はい、スピード違反ですね」と言われたとします。

あの時、10人中ほとんどの方はこう思うでしょう。

「運が悪かったな」

 

あれは、仏教的には、

 車に乗った。

 あの時間に乗った。

 急いでいた。

 その道路を使わないとならなかった。

そこに、

 あの時間にパトロールがあった。

そういう、小さなことの積み重ねでしょう。

これを「縁」というのですが、

縁が絡んで、最後は「つかまった」となったのです。

こういう状況を仏教では

「縁が整った」と言うんですね。

 

「運がいい」とか、「運が悪い」とかよく言いますね。

でも、あとから考えれば「あれがあったから」ってことがあるんです。

この間テレビで「宝くじが当たった方」のその後をやってました。

「宝くじが当たった」

それはもう「運がいい」としか言いようがない。

でも、そのあと、

 宝くじのお金で買った、何台もの大きなテレビで、劇画をたくさん見た。

 働かなくていいから、家にこもって、ステーキやお菓子ばかりたべていた。

 そうしたら、健康的に大きな問題が起こっていた。

そういうんですね。

それ、「運がいい」からのお話ですよね。

 

逆に、「絶対大丈夫」という志望校に落ちちゃった。

それは「運が悪い」ですよね。

でも、違う学校に行ったら、生涯の伴侶と巡り合った。

それ、「運が悪い」からのお話しですよ。

 

結局は

常に移り変わるんです。

人生は無常なんですよね。

 

言い換えれば、

すべては「縁」によって変わっていくのが人生です。

 

 

 

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讃岐に庄松(しょうま)さんという男性がいました。

庄松さんは1799年生まれで、1871年に亡くなっていますが、

生涯独身で、わずかな田を耕したりしながら過ごしていたそうです。

「妙好人(みょうこうにん)」と言うんですが、

この方は熱心に仏法をお聞きになさっていたそうです。

 

ある時、

庄松さんが独身であることを知っている近所の人たちがこう言ったそうです。

「庄松や、お前さんが死んだら、お墓を建ててあげよう」

すると、庄松さんはこう言ったそうです。

「それはそれは・・・。ありがたい話じゃのう。

でも、墓を建てても、わしゃ、墓の下にはおらんぞ。

わしゃ、いのち終わったら、お浄土にいくでのう」

 

今は、「墓じまい」の相談が多くなりました。

ご先祖の御遺骨も「合同墓」に、という話もよく聞きます。

代々継がれてきたことも、独身の方が増えたり、

「若い方の負担になりたくない」とご両親が考えたり、

それは「時代の成せること」なのかもしれませんね。

 

では、お墓のいいところは何でしょう。

まずは、

「手を合わせるご縁」が出来ると言う事です。

お墓が無ければ、どこで手を合わせますか。

家が狭かったり、仏壇は本家が持っているとかで、

お仏壇も置けない方も多いのです。

 

つぎに、

「お参りのご縁」が出来るようになります。

お墓がなければ、お寺にもお墓にも来なければ、

ただ「忙しい日常に終始する」だけの毎日ではないでしょうか。

 

お墓に来たら、

「倶会一処(くえいっしょ)」と彫ってあるお墓もあります。

「倶会一処」とは、

「共にひとつのところで、再会する」ということなんです。

 

へ~、そんなところが、あんの?

お浄土?

誰が言ったの、そんなこと?

 

それを教えてくれたのは

お釈迦様です。

それが確かに書いてあるのが、

「仏説阿弥陀経」と言う、お釈迦様のお経です。

 

その教えに出会わせてもらえるのが

お墓でしょう。

お寺でしょう。

 

手を合わせる。

お参りをする。

亡き方とお話をする。

倶会一処の話しと出会う。

多忙な日常生活ではできないことだと思いますよ。

 

庄松さんは「死んだらお墓にはいない」と言いましたが、

お浄土に往った(行った)のですから、それが正解。

でも、

還相回向(げんそうえこう)のはたらきにより、

また、お浄土からまた、この娑婆に還ってきて、

有縁の方の傍にいるんです。

 

だから、

あなたがお墓に行く時は

仏様もちゃんとそばにいてくれるのです。

 

結局、

そういうことは、

先立った方が

今、ご縁を結んでくれているのです。

 

そういうことを忘れてはなりませんよね。

 

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庄松さんのエピソードでは、このようなものもあります。

昔の方は、義務教育が熟している時代ではないですから、

「文字の読み書き」が出来ない方も多かったそうで、

庄松さんもその一人でした。

 

周囲の方は、庄松さんが文字を読めないのを知っています。

ある時、少し「からかいの気持ち」もあったのでしょう。

こう言ったそうです。

「おい、庄松。

お前はいつも大事そうにお聖教(お経本)を懐(ふところ)に入れているが、

その本にはなんて書いてあるんだ。

いっぺん、聞かせてくれや」

 

文字の読めないことを知っていて、

ちょっと意地悪なことを言われたのですが、

庄松さんは堂々と本を開きました。

 

そして、一枚めくりました。

つぎに、一言言いました。

「庄松をたすくるぞ(庄松を助けるぞ)」

また、一枚めくって言いました。

「庄松をたすくるぞ(庄松を助けるぞ)」

更にもう一枚めくって言いました。

「庄松をたすくるぞ(庄松を助けるぞ)」

 

「たすくる」というのは、

助ける、救うということです。

 

庄松さんは、

普段、お坊さんの御説教を聞きながら、

お経にはこういうことが書いてあると

端的に言い放ったんですね。

 

もちろん、

お経には文字ひとつ一つに意味があります。

でも、

「何がいいたいの?」

「何を伝えたいの?」

そのことを聞く。

しっかりと聞く。

 

そのことが庄松さんには伝わっていたんですね。

 

庄松さんは

伴侶ともご縁がなく、

お金にもご縁がなく、

文字を読むご縁もありませんでした。

 

でも、

仏法に出会うご縁に恵まれた。

仏法と出会えてしあわせだったと思い、

生涯を過ごしていたそうです。

 

私たち、

しあわせになりたいですね。

自分の意のままに過ごせば、

あれもこれも欲しくなります。

嫌いな人とは会わずに、好きな人とすごしていたい。

そういうことが

しあわせと思っているからです。

 

でも、

しあわせは、「つかむもの」じゃないですよね。

しあわせは「気づくもの」

しあわせは「感じるもの」

そのように「目覚めた方(仏さま)」は仰います。

 

ちなみに

しあわせとは漢字で「仕合わせ」と書きますね。

いろいろなものの「巡り合わせ」「ご縁」が

その方の人生を豊かにし、

その方の人生を深めていきます。

 

私たちも

もっともっとご縁の中で

仏法と出会って、

目覚めていきませんか?

 

 

 

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ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

ちなみにお話に出てきた「運」と「縁」について、

AIの回答を要約するとこのような言葉がありました。

 

運は、出てきた結果。

運は、結果としてのめぐり合わせ。

運は、コントロール不可能な事。

「自分の意思や努力では変えにくい巡り合わせ」そのものを指し、

人の力を超えた幸・不幸のめぐり合わせ。

 

「縁」は、「人や物事とのつながりや関係性、巡り合わせ」を指す。

「縁」は、その結果をもたらす人間関係や条件・きっかけ。

「ご縁」「良縁」「親子の縁」など、関係性やきっかけを表す。

 

ちなみに、なるほどと思ったのは、この記述でした。

  • 「運」は選べないが、「縁」は自分の姿勢で広げられる。
  • 「縁」が重なることで、良い「運」をつかむ機会が増える。
  • 「縁」は行動次第で、増やしたり深めたりしやすい
  • 行動や感謝の姿勢で「縁」を大切にすると、その結果として「運」が巡る。

 

縁を大事にすると「運命がかわる」かも、でしょうか・・・。

 

いや、

運が良くても悪くても、

縁に恵まれても恵まれなくても、

仏さまは「それはどうでもいい事」と言っています。

(無分別智・・・都合でものごとを分けない。分けるのは意味のないこと)

 

運が良かろうが、運が悪かろうが、

縁が薄いだろうが、縁が濃いだろうが、

そんなことはどうでもよくて、

そのままの私。

そのままのあなた。

を仏さまは救うそうです。

ありがたいですね。

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心の気温は23度。

半袖でも充分な陽気晴れです。

 

さて、今日は第二土曜日です。

東京都調布市西照寺にお参りに行ってきましたニコニコ

 

お参りのあとは、法話を聞きましょうウインク

今日のご講師は、東京都小平市照恩寺の山本豊師です。

 

 

 

 

 

 

青字は山本師の言葉の要約です。

 

<灯火>

 

仏教では、よく「生老病死」を四苦と言います。

四つの苦しみ。

苦しみとは、「思い通りにならない」ということですが、

「老」と「病」は、そのあとに「死」に繋がっていくんです。

だから、それを突き詰めていくと「四苦」は

「生」と「死」にの二つに集約されていくんですね。

 

そして、その「生」と「死」について、

お寺ではお坊さんが色々なことをお話をするのですが、

最近は「お寺離れ」もあって、

たまに話しをしても、どうも「上(うわ)の空」っぽいんです。

それって、

「我が事」と聞いてないからなんですね。

 

生きていくのに、「苦」はいやですね。

でも、

その「苦」がないと、

大事なものが生まれてこないんです。

それが

「問い」です。

 

なぜ、私がこうなるのか?

私はどうしたらいいのか?

生きていく意味は何なのか?

死んだらどうなるのか?

 

それについて、

世の中の説明はあいまいです。

不確かなものだと思います。

 

ですが、

その答えに

「救い」を示してくれることがある。

それが、宗教というものであり、

それを聞けるのがお寺だと思います。

 

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今日は鈴木章子(すずきあきこ)さんのお話をしていきましょう。

鈴木章子さんは、北海道の東端、知床半島の付け根に近い斜里町の

真宗大谷派西念寺の坊守(住職の奥様)で、

斜里大谷幼稚園の園長をつとめておられました。

また、四人の子どものお母さんでもありました。

 

章子さんは毎日園児が通園すると、

腰を落とし、しゃがみ込む姿勢をしていました。

「○○ちゃん!おはよう!」

その声に、園児たちは園長先生の胸に飛び込んできます。

すると章子さんは、思いっきり「ハグ」をして出迎えたそうです。

 

そうして、ある日、いつものように園児にハグをしたところ、

胸に激痛が走ったのだそうです。

「いくら何でも、この痛みはおかしい」

すぐに病院に行って検査をすると、

かなり進行した「乳がん」の診断を受けます。

 

その時、章子さんは42歳です。

自分はお寺の坊守。

自分は園長。

自分は四人の子のお母さん。

 

章子さんはすぐに手術を希望します。

すると、手術は成功し、元気を取り戻していきました。

 

ところが、しばらくして、今度は反対側の胸に癌ができていきます。

今度は2度目の手術になるのです。

「今度はどうなるかわからない」

 

章子さんの実家はお寺で、当時ご両親はまだ健在でしたが、

相当の覚悟を持って里帰りをし、「最後のお別れの挨拶」をしていきます。

「今度は、ダメかもしれない」

そう言うと、

その時、お母さんは

「どうなるかわからないけれど、今度はお浄土で会おうね」

そう言ってくれたそうです。

 

そして、手術はまた成功します。

二度目の手術のあと、

しばらくして相次いで、お父さん、お母さんが亡くなっていきます。

「自分が先だと思っていたのに・・・」

 

これまでを見れば、世間の方は、

「不幸続き」と見ていったことでしょう。

でも章子さんにとっては、

「悲しさ」とは別に、

充足感があったそうです。

 

北海道の田舎町。

鉄道に乗り、ひとたび駅に降りれば、

日が落ちる頃にはあたりは真っ暗です。

その中を歩いて、自分の家であるお寺を目指して歩くのです。

「こっちだよね」

「大丈夫だよね」

そんなことを思っているうちに、

ひとつの明かりを見つけるんです。

 

「ああ、あの灯火(ともしび)が家だ」

「私が帰る場所は、あの灯火のところだ」

 

帰るべき場所では

「待っていてくれる人がいる」

 

だから、

「私は安心して帰れるんだ」

 

章子さんは、

「死もまた同じ」だと思ったのです。

 

お父さん、

お母さんには、

往ったところがある。

 

そこに往ったおかげで、

今、お浄土に明かりが灯り、

私のいくべきところに

「灯火」がはっきりと見えている。

 

思えば、

私は色々なものに護られているのを知った。

だから、

もう私は怖くない。

だから、

もう私は安心できるんだ。

 

それから、

今度は肺に癌が転移したことがわかりました。

そして、転移した癌のために肺を切除していきます。

その時に感じたことは、こういうことでした。

 

肺一葉 捨てて 

はじめて 空気の存在を 実感しました
無形の存在を たしかに 受容できました 

             (「無形の存在」 鈴木章子)

 

死と向かい合う苦しい闘病生活の中、

常に念仏の教えを聴聞し、

「いのち」とは?

人間としての生き方とは?

を問い続けられました。

 

健康なときは気にも留めなかったけれど、

空気のような「形がないもの」の存在を実感し、

見えなくても「いのち」を生かすものがあることを

受け止めることができたと

目覚められたのです。

 

その後、5年間の闘病生活の後、

章子さんは昭和63年に47歳で往生されます。

 

章子さんは闘病中に

四人の子供達へ詩を残されていますが、

今日はこの言葉を紹介致します。

 

死にむかって進んでいるのではない
今をもらって生きているのだ
今ゼロであって当然な私が
今生きている
ひき算から足し算の変換
誰が教えてくれたのでしょう
新しい生命
嬉しくて 踊っています
“いのち 日々あらたなり”
うーん 分かります

 

私たちは

「死に向かって進んでいる」と思っています。

でも、

「死にむかって進んでいるのではない」

とはっきり仰っているのです。

 

「今をもらって生きている」のでした。

「今ゼロであって当然な私が今生きている」とありますが、

私達は両親を縁としていのちを賜り、

この世界に生まれました。

そして育てて貰い、

教えて貰い、

又、大地大海の恵みを貰うなど多くのご恩を貰っています。

このご恩を、「お陰さま」と言います。

 

そして章子さんは、

「ひき算から足し算の変換」と喜びました。

「今を貰っている」からこその

「ひき算から足し算の変換」なのでしょう。

 

人生は苦です。

思い通りにならないことがありますね。

でも

「問い」があるから、

「救い」が見つけられるんです。

 

それが、

宗教と出会う

喜びではないでしょうか。

 

 

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ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

 

すでに、亡くなったあの方はどこに行ったのか。

もうすぐ、亡くなる私はどこに行くのか。

やがて、亡くなる我が子はどこに行くのか。

 

その「問い」に

灯火を持って答えてくれるものがある。

これが「宗教」であり、

「救い」なのだと思います。

 

そして、

その灯火があれば、

私たちは「安心」できるのだと思います。

 

 

今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

今日の東京都心は1日曇りくもりでした。

ゴールデンウィークも今日で最後ですが、

私は今日もお寺参りです爆  笑

 

お参りのあとは、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、神奈川県横須賀市専福寺の照本さおり師です。

 

 

 

 

青字は照本師の言葉の要約です。

 

<今日のご讃題:テーマ>

 

安楽浄土に いたるひと
五濁悪世(ごじょくあくせ)に かへりては
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の ごとくにて
利益衆生(りやくしゅじょう)は きはもなし

 

           親鸞聖人(浄土和讃)

 

(意訳)

 

阿弥陀様の願いに添ってお浄土に往生し、仏さまとなった者は、

大いなる慈悲の心をおこし、再びこの迷いの世界に還(かえ)り来て、

お釈迦さまがなさったように

迷いの中で苦しむ人たちを自在に救うはたらきをしていくのです。

 

 

<還相の菩薩>

 

阿弥陀様というのは、

私へ「二つのはたらき」を示してくれています。

 

ひとつは

往相回向(おうそうえこう)です。

 

往相の往とは、「往く」ということ。

往相の相とは、「姿」ということ。

回向とは、

「自分が手にした功徳を、他の方に回して振り向けて差し出していく」ということ。

 

つまり、

過去の生まれ変わり死に変わりの中で、

仏様などには到底なれなかった、この私が、

阿弥陀様の功徳で、

お浄土と言う「苦の無い」仏さまの世界に往く姿、ということです。

 

そうです。

死んだら無になるとか、

死んだらゴミになるなんてことはないのです。

 

この娑婆の縁尽きても

「死んで終わりの命ではなかった」

そして、その行き先こそ、極楽浄土の世界なんだ。

 

それが阿弥陀様の第一のメッセージです。

 

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私たち、生きていくのは、本当に「四苦八苦」でしょう。

すべてが思い通りになんて、生きられないのです。

「どうして?」

「なんで私が?」

人生には、そういうことが多いと思います。

 

まずは「四苦」

生老病死です。

 

「生」は、

「生きる」ということではなく、「生まれる」と言う事です。

私たち、誰も生まれる条件を選べない。

時代、国、性別、能力、親さえ選ぶことはできません。

その結果、

生まれてから同じスタートラインには立てないのです。

 

「老」は、

年齢を重ねれば重ねるほど、実体験しますよね。

若い時は「他人事」

今は「我が事」

「白髪」が増え、シワも増え、シミが出来、目も見えなくなってきます。

歩くスピードは落ち、夜更かしもできなくなりました。

駅の階段を登れば息があがり、平らな処でつまづく自分がいるのです。

こんなはずじゃなかったのに・・・・。

そう思ったとたん、否定し、抗い、諦めて、苦が始まりました。

 

「病」は、

どうですか。

老眼なら、まだいいでしょう。

生活習慣病、白内障、緑内障、高血圧、

年をとればとるほど、通院は増え、

飲む薬が増えて来るので、支出の医療費は凄いことになっています。

日本は長寿国と自慢できるのはいいことですが、

長寿ゆえに「かなりの確率」で、癌患者、認知症患者が増えてきます。

高齢者社会=癌患者社会=認知症社会なんです。

こんなはずじゃなかったのに・・・・。

そう思ったとたん、否定し、抗い、諦めて、苦が始まりました。

 

「死」は、

どうですか。

生まれたからには死んでいく。

人の致死率は100%と聞いてはいるけれど、

ほとんどの方は他人事です。

「死」は、必ず私の上に訪れるんです。

「死」は、必ず私の大切な人の上に訪れるんです。

そんなに大事なことなのに、

「ああそうですか」なんて簡単に言えないですよね。

こんなはずじゃなかったのに・・・・。

そう思ったとたん、否定し、抗い、諦めて、苦が始まりました。

 

   お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い 

 

「生老病死」四苦の他にも、

もう四つの苦があります。

 

まずは

愛別離苦(あいべつりく)。

愛する者とも、必ず別れていかなければならない苦しみがあります。

 

つぎに

怨憎会苦(おんぞうえく)。

憎い人、嫌いな人とも、会っていかなければならない苦しみがあります。

 

人がいたら、感情が芽生えてきます。

感情を持ち始めると、「執着」が生まれてきます。

その「執着」を中心に、

感情が「好ましいもの」であれば、になります。

感情が「好ましくないもの」であれば、憎悪になります。

そこから、苦が始まっていくんですよね。

 

そして、

求不得苦(ぐふとっく)。

求めても得られない苦しみです。

ほしいものが手に入らないと、モヤモヤします。

では、ほしいものが手に入れば、モヤモヤはなくなるのでしょうか。

残念ながら、

次にもっと欲しくなる。

あるいは、次の何かが欲しくなります。

生きている限り、これが続くのです。

でも、求めているものは、

いつだって手に入る訳ではないですよね。

じゃ、やっぱり死ぬまで苦しみは続くんでしょうか。

 

最後は、

五蘊盛苦(ごうんじょうく)。

五蘊とはいろいろな感覚。

「盛」とは、盛んにということですが、

心身があるということは、

それだけで色々な欲が生まれてきます。

欲が生まれても、思い通りにならないことも多いのですから、

やっぱり「苦」が待っているのです。

 

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そうやって、

色々な苦しみ。

自分の思い通りにいきたいのに、

自分の思い通りにならないという「苦」を抱える。

それでいて、思い通りにならないから、思い通りにしようとして、

周囲を巻き込み、周囲に毒を吐く。

「そういう私」を見ていたのが、阿弥陀様、阿弥陀如来なんです。

 

この者は

自分の力では覚りをひらくことはできないし、仏にもなれない。

覚りを開かぬ者は六道輪廻(天・人間・修羅・餓鬼・畜生・地獄)を

永遠にぐるぐると回っていくしかない。

 

そのように阿弥陀様には「私」という存在が映ったからこそ、

「これではいけない」と立ち上がったのです。

 

その私を目当てとして阿弥陀様は、

死んで、そこで終わりの命になど、させないからね。

また、生まれ変わっても、

六道輪廻の中で同じ苦しみを

味わうことがないように

あなたをお浄土につれて行くからね。

と誓ってくれたのです。

 

それを

往相回向というのです。

 

 

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さて、

阿弥陀様の「私への二つはならき」のふたつめは

還相回向(げんそうえこう)です。

 

還相の還とは、「還る(帰る)」ということ。

往相の相とは、「姿」ということ。

回向とは、

「自分が手にした功徳を、他の方に回して振り向けて差し出していく」ということ。

 

つまり、

阿弥陀様の功徳でさとりを得て、仏と成らせて頂いた「この私」が、

今度はすぐさまこの娑婆に還ってきて有縁の方を導く姿、ということです。

 

そうです。

亡くなった方は

「あちらで待っている」

のではありません。

 

お浄土で仏様になるということは、

自利と利他の方になるんです。

自利とは、自分のさとり、自分で良いことをしていく。

利他とは、自分のさとりを持って、必要な方を救うんです。

 

悟った者は、悟らない者を救うのが仏のはたらきですから、

親鸞聖人は、

あちらに行ったきりじゃない。

還ってきて、苦しむ人を助けること「還相回向」は「必然」

と見たんです。

 

お釈迦様は35歳で悟ったあと、

菩提樹の木の下で風に吹かれて、

優雅に遊んでいたんじゃないんです。

そのあと、

涅槃に入るまで45年、

さとりをもって苦しみ人に法を説いて回っていったのです。

自らのさとりを持って、苦しむ方を救っていったのです。

これを遊行と言います。

 

そして、この還相回向なんですが、

どんな形で私たちの前に現れると思いますか?

実は私たちの前に現れる姿のことを、

還相の菩薩

と言います。

 

菩薩というのは、

よく仮の姿となって現れます。

 

時には人、

時には風、

時には動物、

時には花、

自由自在なんです。

 

苦しむ者にわかりやすい姿になって

苦しむ者を救い、導いていきます。

 

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私のお寺には、「ラテ」という12歳の犬がいます。

保健所で殺処分寸前のところを、ある方をご縁として、うちに来ました。

これがまた、可愛い!

本当に癒されるのです。

 

実はこのラテ、6歳の時に緑内障になりました。

目の調子がどうも良くない。

ネットで調べると「緑内障かもしれない」と出ています。

しかも、「早期に手当をしないと失明する」と書いてあります。

私は急いで動物病院につれて行ったのですが、

いつもとは違う病院だったので、簡易診断で終りました。

 

連れて帰ったものの、やっぱり変です。

今度はいつもの動物病院に行こうとしたけれど、

あいにくの土曜日です。

可愛いラテが苦しんでいるのに、月曜まで待つなんて!

私は泣きながら月曜を待ちました。

 

月曜日、いつもの病院に行きましたが、

「緑内障ではないでしょう」

そう、言われて、やっぱり帰ってきたのです。

でも、その後もラテは痛がり、苦しんでいます。

やっぱり変だってば!

 

また、かかりつけの病院に行くと、今度は病名が付きました、

「緑内障でした」

 

だ・か・ら!

言ったじゃん!!

 

その後、ラテは失明しました。

何日も苦しんで、最後はこれか・・・。

私は何日も泣きました。

なぜもっと早く手を打てなかったのか。

これからラテは幸せに生きられるのか。

 

でも、ですね・・・。

今は失明しましたが、ラテはラテのままでした。

いつものように、無邪気に私に飛びついてきます。

 

このラテの生き様を見てこう思ったんです。

犬は人間の七倍のスピードで年を取っていきます。

でも、それは「生老病死」を

私たちにスピード感を持って、教えてくれているんです。

 

ラテは、過去をかえりみない。過去を考えていないんです。

ラテは、未来を不安に思っていない。未来を考えていないんです。

だから、今日生きる事だけを考えてるから、いつも楽しそうです。

 

ところがこの私、

過去を思って、

あの時こうすれば、こうしてなかったから、と考えて悔やんでばかりです。

未来を思って、

もうこうできないんじゃないか。こうだったらどうしようと不安ばかりです。

ラテのように

「今を受け入れる」

「過去に生きず、未来に生きず、今を生きる」

 

ラテもいづれは死んでいくけれど、

もしかしたら、ラテは私の菩薩なのじゃないだろうか。

 

出会いって、

いい出会い、

悪い出会いもあるけれど、

それ自体が私やあなたを導く菩薩なのかもしれませんね。

 

  お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い

 

今年の1月1日に西本願寺がテレビに出ていましたが、

その中で大阪の本願寺派のお寺の住職が出ていました。

名前は若林住職。

年齢は30歳前後くらいでしょうか。

最後に今日はこのお話をしていきます。

 

まず、若林住職に女性の門徒さんが質問をしていくシーンがありました。

女性が聞きます。

「母はもう亡くなっているのですが、

生前の母は、”神や仏は信じない”という母でした。

そんな母だったから、母が私の事を見守ってくれているなんて思えないんです」

 

その時の若林住職の答えはこうでした。

「そうでしたか。

でも、どこかの誰かがあなたの背中を押してくれたから、

今、あなたはこの場所にいるのではないのでしょうか」

 

その答えの意味がよくわからなかったのか、

女性は無言だったそうです。

 

さて、その若林住職。

30歳前後で住職になったのには訳がありました。

住職にはお父さんがいたのですが、

実は病気が見つかって、その時に余命宣告を受けたそうです。

前住職であるお父さんは、みるみる身体が弱っていきます。

それでも、無理をしてでも、ご門徒さんに法話をしていきます。

 

「人は死んでもおわりじゃないんや。

阿弥陀様に抱かれて、お浄土の蓮の上に生まれさせてもらうんや。

そしたらな、

すぐさまさとりを開いて、またすぐここに帰ってくるんや。

ありがたいやないか・・・」

 

そして、

最後の説法も終り、

お父さんは手すりにつかまりながら、

「ありがとう」

「さようなら」

そのように挨拶をしたそうです。

 

その日。

若林住職はお父さんに聞いたそうです。

「今、どんなや・・・」

 

すると、

お父さんはこう言ったそうです。

「うれしいわ~。

こんなうれしいことはないわ。

こんなワシでも、お浄土に生まれさせてもろうて、

また、この娑婆に還ってきて、あんたらを導けるんや。

うれしいわ~。

こんなうれしいことはないわ!」

 

その三日後、

お父様は往生されたそうです。

 

  お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い

 

私と言う存在は

苦を抱え、

周りに毒を吐く。

なかなか、六道輪廻を抜けられない身分なのです。

 

でも、この度、

阿弥陀様との出会いの中で

仏と成らせてもらい、

名残惜しいと思っていたこの娑婆に再び帰ってきて、

今度は有縁の大切な方を導く役割を担うのです。

 

先に往った大切なあの方は

どこか遠くに往ったんじゃない。

今、私と共にいる。

 

それが、本当の事なんです。

 

こんなことを言えば、

なんじゃそりゃ!

と思う方もいるでしょう。

 

でも、

なんじゃそりゃ!に

救われる世界がある。

 

そのことを忘れないで、

いきたいと思うことであります。

 

 

 お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

よく、浄土真宗は「ご利益」がないでしょ。

そう言われることが多いようです。

 

「私の願い」を聞くのが、

御宗旨ではないからです。

 

お守りもない。

御朱印もない。

病気が治るわけじゃない。

老いが止まるわけじゃない。

長寿が約束されるわけじゃない。

試験に受かるわけじゃない。

お金儲けができるわけじゃない。

 

でも、

浄土真宗のみ教えの中で、

往相回向と還相回向の話しは

私に勇気、希望、安心を与えます。

 

これこそが

御利益なのかもしれません。

 

今日のご法話を読んで頂き、

そのことに共感して頂ければ嬉しく

なんやそりゃ!

に救われる世界がある。

 

そのことを

今日も御伝えできればと思います。


今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでしたニコニコ

 

 

今日の東京都心は、朝はひんやり、

日中は暑くはなく、この季節らしい日和となりましたニコニコ

 

今日の東京都心の空です。

昔は空を見て、色々な姿を見たものです。

最近、空を見てますか?

 

今日は龍。

如何でしょうか爆  笑

 

 

 

お参りのあとは、法話を聞きましょう。

 

 

今日のご講師は、神奈川県横須賀市専福寺の照本さおり師です。

 

 

 

 

青字は照本師の言葉の要約です。

 

 

<母の心は仏の心>

 

私たちが正しくものごとを見ることは「智慧」のはたらきですが、

正しく見るには、まず「誤ったものの見方」を知っておくことが大事です。

 

仏教では、

私たちは四つの「間違ったものの見方」をしていると言います。

この四つを

「常楽我浄」

と言いますが、

常楽我浄は延命十句観音経に出てくる言葉なんですね。

 

では、

まちがった見方の四つを説明していきます。

 

まずは、

一つ目は「常」です。

常とは、「変わらないもの」ということです。

私たちは「変らないことが当たり前」と思ってはいませんか。

 

ところが、

私達の住んでいるこの世の中は、すべて無常です。

変わっていくんですよ。

常ではありません。

絶えず移り変わってゆきます。

いつも同じであってほしいと私達は願いますが、同じではありません。

移り変わります。

 

例えば、

家具でも箪笥だって数年たてば傷んできますね。

どんな建物でもやがては朽ちます。

それもある日突然朽ちた建物になるのではありません。

徐々に朽ちてゆくのです。

一年一年、一月一月、一日一日朽ちていっているのです。

もっというと、一刻一刻朽ちていっているのです。

 

久しぶりにクローゼットから出した洋服のファスナーが

きつかった経験はないですか。

 

人間でいえば「生老病死」という変化は避けられません。

いつまでも若いままであってほしいと思いますが、

残念ながら老いてゆきます。

これもある日突然老いるのではありません。

一瞬一瞬、老いつつあるのです。

 

愛する人には

いつまでも元気でいてほしいと願いますが、

誰しも最後には死を避けることはできません。

いつもいると思ったのに、

突然愛する家族がいなくなるのです。

その時、あまりの悲しみに

「もうこの悲しみがずっと続く」

「もう何もする気力がない」

と思っていたら、

いつの間にか、

ランチに行け、

旅行に行け、

趣味を楽しんでいた自分に気づきます。

 

「常である」と見るのが誤ったものの見方であり、

「無常である」と見るのが本当のことなのです。

 

第二に「楽」です。

「楽」とは、

「思い通りになると思っている」ということ。

そう思ってないですか。

 

私達の生きるこの世の中は「楽」ではありません。

苦しみです。

「思い通りにはならない」と言う事です。

楽とみるのは誤ったものの見方で、

苦であるとみるのが正しいのです。

 

お釈迦様は四苦八苦と説かれました。

生まれる苦しみ、

老いる苦しみ、

病の苦しみ、

死にゆく苦しみ、

そして愛する人と別れる苦しみ、

いやな人と会う苦しみ、

求めても得られない苦しみ、

身も心も様々な苦しみがあります。

 

すべては思い通りにはならなんです。

「そんなことは知っている」と言いますが、

では、

なぜそのご縁で

「慌てたり」

「焦ったり」

「抗おう」とするのでしょうか。

おかしいですよね。

 

 

第三に「我」です。

我とは、

「頼っていない」ということです。

頼らずに、自分で何でもできると思っている。

 

今、アメリカとイランで対立がありますが、

その影響で物の値段が高くなっていると言います。

高くなっても、お金を出せば買えるでしょう。

でも、

更に見ていくと、ある企業がユニットバスの製造を中止したり、

ある製品を注文したら、それは納入ができませんと、

今はお返事が来るそうです。

そうしたら、「お金を出せばなんでも買える」というのは

妄想になっていきますよね。

 

例えば、

ひとつの物が目の前にあるとしますよね。

そうしたら、

これを作ってくれた人がいる。

これを運んでくれた人がある。

これを売ってくれた人がいる。

多くの「縁」で、そこに対価が付いてきたんです。

 

頼ってないと思ってるけれど、

お食事をします。

そのお魚やお肉のいのちのことを考えれば、

栄養だって、「自分で何ともできない」じゃないですか。

そうしたら、もう、みんな「縁」の中で生かされていたんですね。

 

だから、

「無我である」と見るのが正しいのです。

「私のもの」なんてないじゃないんです。

 

第四に「浄」、きよらかです。

自分は「正しい」と思うこと。

 

反対に、

私達の生きる世の中は不浄です。

これを娑婆と言います。

堪忍度(かんにんど)とも言います。

 

堪忍度って、

自分も我慢

相手も我慢

ともに我慢をしながら生きていくのです。

 

私、よく、向こうから歩いてくる人と

「お見合い」することが多いんです。

歩いていて、「ああ前から人が来るな」と思うと、

右によけます。

すると相手も右によけたりします。

じゃ、左と思ったら、相手も左によけてきます。

そして、「チっ」とか言われたりします。

そうしたら、私だって「カチン」ときますよ。

こうなると、

お互いに「私が正しい!」と思う同士ですよね。

 

「浄」はお浄土の浄ですから、

この「汚れた娑婆が浄らかだ」と見るのは誤ったものの見方です。

不浄であるとみるのが正しい見方です。

たしかにこの世は醜い争いが絶えないでしょう。

 

結局、

無常であるものを<常>と見て、

苦であるのに<楽>と考えて、

無我であるのに<我>ありと考えて、

不浄なものを<清浄>と見なすこと。

これが、

四つの誤ったものの見方です。

 

それが人間なんだと、

仏さまは見抜いたんですね。

 

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曹洞宗の北野元峰さんのお話です。

北野禅師は、

曹洞宗の大本山、福井の永平寺の第六八世貫主を務め、

曹洞宗の管長もなさった方です。

生まれは江戸時代になりますが、昭和の初期までご活躍されました。

 

元々はお寺の生まれではなく、

お父さん、お母さんもお寺というわけではなかったものの、

お父さん、お母さんが得度をしていたそうです。

 

北野さんは1842年福井県に10人兄弟の一番下に生れましたが、

お母さんはその時47歳です。

今でも47歳であれば高齢出産ですが、

当時の47歳のお産はどれだけ大変だったでしょうね。


上の姉二人が尼僧だったのですが、

上の姉が男の子が生れて出家することを祈願していたと言います。

そして、同郷出身の和尚を頼りに、

姉二人に、9歳にて上州(群馬県)最興寺の哲量和尚の下に連れて行かれます。

しかし、北野さんは、哲量和尚が年寄りだったので、

「こんな、先の短い和尚は嫌だ」と言って姉を驚かしたそうです。

 

そして、10歳で得度しますが、
いたずらが激しく師の手に負えず、

16歳にて武蔵国(東京)の松月院の魯衷和尚に預けらることになります。

 

さて、16歳で上京することになったのですが、

その時お母さんは63歳です。

当時の63歳ですから、かなりの高齢と思っていいでしょう。

事実、床に伏せることも多かったそうです。

 

上京の前になり、北野さんは「行って参ります」の挨拶の為に、

お母さんのところに行きました。

病床ゆえ、お母さんは布団の上に正座で北野さんの言葉を聞いていました。

 

「お母さん、いよいよ武蔵(東京)に行く事になりました。

私の事は心配はしなくても大丈夫です。

たくさん修行をして、たくさん学んで、

やがては大僧正になって帰って参ります。

ですから、それまでは帰っては来ません」

 

すると、

それを聞いていたお母さんはこのように言ったそうです。

 

「そうですか。

その言葉、母は嬉しく思います。

でも、母の心は違います。

もし、あなたが大僧正になったら、

帰ってこなくても大丈夫です。

あなたの力、あなたの施しが

必要な方の傍にいてあげて下さい。

 

でも、

もしあなたが、

悪い因縁に巻き込まれて落ち込んだり、

堕落僧に成り下がってしまったり、

世間からそしられて辛い日を送っていたり、

自分でもどうしようもなくなった時は、

いつでも母のところに帰ってきて下さい。

母はふところを開いて、

あなたを待っています」

 

その後、武蔵に出た北野さんは大変な努力をなさったでしょう。

曹洞宗のトップに上り詰めていったのですが、

その後このように述懐します。

 

「ここまでやってこれたのは

”母の願い”があったからです」

 

  👵    👵    👵    👵    👵    👵

 

さて、

今日のお話をまとめていきましょう。

 

私たち、

無常であるものを<常>と見て、

苦であるのに<楽>と考えて、

無我であるのに<我>ありと考えて、

不浄なものを<清浄>と見なすのです。

 

その結果、

自分の中で苦を作って

もがいています。

 

よく、

「立派になりなさい」と言われると思いますが、

阿弥陀様は

あなたに「立派になりなさい」とは言いません。

 

人の考える平等は「みんな同じ」ですが、

阿弥陀様の考える平等は「必要な人に必要なことをする」ということです。

 

立派な方に

阿弥陀様は必要がありません。

 

色々なことで迷い、

色々なことで悩み、

色々なことで苦しむ。

 

そんな私だからこそ、

救わずにはおれない。

そんなあなただからこそ、

救わずにはおれない。

必ず救うと

誓われたんです。

 

だから、

救いの目当ては

私であり

あなたなんですよ。

 

 

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ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

照本師は法話の中では、「一子地」のお話もされました。

仏さまの平等とは、

例えば子供が3人いたら、

ゲンキな子には「いってらっしゃい」の笑顔でいい。

部活で頑張る子には「お腹いっぱい」食べさせる。

でも、

病気で苦しむ子がいれば、水を与え、薬をあげて、寝ずに看病していく。

 

それは、

苦しむ者ほど、

「一人っ子のように」

手厚くお慈悲を施していく。

 

阿弥陀様とは、

そういう心だと言うのですね。

 

いつでも、

放っていかないのが阿弥陀様ですよ。

ありがたいと思いますニコニコ

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心は、朝方の雨もあがって、青空も見えました。

世間ではゴールデンウィークモードですが、

私は相変わらずお寺参りモードです(笑)爆  笑

 

今月の参拝カードです。

 

 

裏面です。

 

 

お参りのあとは、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、神奈川県横須賀市専福寺の照本さおり師です。

 

 

 

 

青字は照本師の言葉の要約です。

 

 

<仏さまのお話>

 

仏教では、

よく「苦」という言葉を使います。

でも、「苦」と言っても、

私たちが普段使うイメージの「苦」とは違います。

これは、

自分の思い通りにならない。

という意味なんです。

 

お釈迦様は、生老病死を「四苦」と言いましたが、

生まれることも選べず、

老いることも、病と出会うことも、死ぬ事さえ、

私たちは避けられないのです。

 

お釈迦様は、

「苦」に対して、

今ここで出会った出来事が、

「自分の思い」ではない時には、

それを「思い通りにしたい」

と思う心が沸き上がってくる。

だけれど、

「思い通りにしたい」という思いが

強ければ強いほど「苦」が生まれるのだ

と見抜きました。

 

じゃ、

その「苦」を

「苦」じゃなくすには、

どうしたらいいか。

 

目の前の出来事を

そのまま受け取ればいいのです。

 

例えば、

雨が降ってきた。

すると、嫌だなと憂つになる。

これが私たちの「苦」

これをお釈迦様は「第二の矢」と言いました。

「一本目の矢」(雨)だけでなく、

自分で「二本目の矢」(憂つ)を感じて受けてしまう。

 

だけれど、

雨が降ってきた。

ああ、そうなんだね~とそのまま受けとる。

そうしたら、「苦」はないんです。

「一本目の矢」だけで、

「二本目の矢」は受けないんです。

 

でも、

それが徹底出来ないのが人間。

悟れない者。

それが徹底出来るのが仏さま。

悟った方。

 

私にはできないわ~。

だから、

「苦」を抱えちゃうのです。

 

「苦」を抱えたら苦しいですね。

自分じゃ抱えきれなくなれば、

周りにも毒を吐く私なんです。

 

そういう世界から抜け出しませんか?

というのが

「仏道」です。

 

ここに

「仏さまの救い」

というものが出て来るんです。

 

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私、ある時、

大阪の四天王寺というお寺にお参りに行ったんです。

そうです。

聖徳太子がお建てになったお寺です。

 

その中に亀井堂というお堂があります。

亀井堂には、文字通りに石像の亀がいて、

石像の亀の口からは水が出ていて、

その水で池が出来ています。

池は私たちの参拝場所から、

1メートル50センチくらい下にあるのです。

 

そして、希望する参拝者は、

木の板に自分や縁のある方の戒名を書いて、

それをその池に浮かべるんです。(経木流し)

その木は、池に浮かぶでしょう。

浮かんでいて、

それで「極楽浄土行きは間違いなし」、

と言います。

 

それをよく見ていたら、

そこの担当のお坊さんが、網を持ってきました。

そして、1メートル50センチ下にある池に向かって、

上から下に向かって木の板をすくったんです。

 

ああ、

すくった!

すくわれた!

 

しかも、

網だ。

あみだ様だ!

 

こんなシーンを見させてもらいながら、

私は浄土真宗の梯實圓(かけはしじつえん)和上の言葉を思い出していました。

 

「阿弥陀様が、すくう、すくうと言うても、

金魚すくいと違いまっせ」

 

私たち、仏さまにすくわれるって、よく聞くんですが、

高い上から、

下にいる私に向かって、

金魚をすくうように網ではすくわないと言うのです。

 

阿弥陀様は、

池に飛び込んで、おぼれるような私を

身体ごと抱いてすくってくれる。

それが、数ある仏さまの中の

阿弥陀様という仏さまだと聞いていきます。

 

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よく、

「平等」

っていいますよね。

例えば国が支給する給付金。

全員に〇〇万円支給しますと言ったら、

若い人も高齢者も

お金持ちもお金がない人も

すべてが同じ金額です。

 

大抵はこれを「平等」と言っています。

 

ところが、

仏さまの平等は違います。

必要度が低い方には少しでいい。

必要度が高い方にはたくさんの必要なものを。

 

これが、

仏さまのお考えになることです。

 

2011年3月11日。

東日本大震災がありました。

築地本願寺は、参拝客の避難所として仮本堂と斎場を一晩開放したんです。

築地本願寺の僧侶が午後5時半過ぎにツイッターを通じて知らせると、

交通機関がストップしたために

帰宅が困難となったサラリーマンや家族連れが続々と集まり始め、

午後8時ごろには200人を超えたそうです。

用意したおにぎり10皿も2時間ほどでなくなったそうです。

避難所として一般に施設を開放したのは、

1995年3月の地下鉄サリン事件以来だったとのことです。

 

3月と言えば、まだ寒い時期です。

避難をしてきた方の為に、そこではスープが配られたそうです。

後に、そのスープを頂いた方がこんな言葉を残しています。

「こんなおいしいオニオンスープを初めて頂いたけれど、

本当に嬉しかった」

 

これが週刊誌にも取り上げられ、

「絶品オニオンスープ」と報道したので、

外部から「ぜひレシピを教えて下さい」と問い合わせがあったそうなんです。

ところが、築地本願寺の職員は困りました。

あのスープは、

「できるだけ多くの方に温かい飲み物を施したい」

ということで、

「コンソメスープの素をお湯で薄めたもの」だったのです。

それも、多く作りたいがために、「薄目」になったそうです。

それでも、「絶品オニオンスープ」と思わせたもの。

それは何だと思いますか?

 

あの状況。

つらい状況。

まさしく「苦」の中で頂く、

温かな「施し」

それを頂いたから「絶品」だったのではないでしょうか。

 

必要な方に必要な慈悲を。

それが仏さまの「平等」です。

 

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「聞く」

ということを考えていきましょう。

私のお寺は神奈川県の三浦半島にあるのですが、

ウグイスがたくさんいるのです。

 

みなさん、ウグイスはなんて鳴きますか?

多くの方には

「ホー、ホケキョ」

という音に馴染みがありますよね。

ところが、私には、

「ホー、ホッカイドー」って聞こえるんですよ。

 

最近、ネットで大きくバズッた動画がありまして、

柴犬が出て来るんです。

飼い主さんが「たべる?」って聞くと、

柴犬が「たべる」って答えるんです。

いや、正確には

「そう聞こえる」ということです。

 

私ですね。

「家で庭に勝手に育った葉っぱをゆでて食べてるんですよ」

今、私が言ったこと。

皆さんは、「この人、雑草を食べてるのかしら?」

と思ったでしょうか。

いや、実はそれは「春菊」の葉なんですよ。

 

そういうのを並べて考えていくと、

私たちは

「耳で聞いたことは、そのままを聞いてはいない」

そう言えると思うんです。

 

言葉って、

聞いた途端に、

自分のフィルターに通して、

それからイメージが広がりますよね。

これは「知覚心理学」という分野らしいのですが、

結局は、正しく聞けてないことも多いのです。

これを仏教では

「不如意(ふにょい)」

と言います。

 

私の耳って、

そのまま聞けない。

そのままに受けてれないのが

実態のようです。

 

また、

見た目ってありますね。

 

先日うちのお寺に

坊主頭に、腕念珠をして作務衣を着てる男性が尋ねてきました。

もう、私はてっきりお寺の関係者かと思っていたら、

まったく違う一般の方でした。

 

私たちって、

「自分は正しい」

という見方をしてますものね。

 

こんなこともありました。

実家である兄のお寺で法要をしていた時の事。

私の隣には、私の母が、

私の前には、兄の娘が座っていました。

そこで、「正信偈」のお勤めをしていたんです。

ところが、うちの母は「音をとっていくのが苦手」です。

「正信偈」の節がどんどん外れていきます。

実はこうなると、隣の私にも影響があって、つられてしまうのです。

そのため、母に合図を送りながら、お勤めをしたんです。

やっと終わって、私は母に言いました。

「今日のお勤め、音が外れってたよ」

そうしたら、兄の娘がこう言いました。

「うん、今日は、ふたりとも違ってたよ」

 

いや、兄の娘はピアノを習っています。

絶対音感がありますから、

私も恥ずかしくなった次第です。

 

やっぱりですね。

「私は正しい」と思ってますからね。

その私が見る世界は、

きっと間違ったモノの見方を

するんじゃないでしょうか。

 

こうなりますと、

正しく、ありのままを見れませんから、

あの人はいい人。

あの人は悪い人。

そうやって、心で人を殺めていくことってあると思うんです。

 

自分の都合の中で生きていくのですから、

「苦しみ」の中で生きていくのは

やっぱり当然なのかもしれません。

 

そういう姿を見て、

放ってはおけないと

立ち上がったのが

阿弥陀様という仏様です。

 

言っておきますが、

仏さまは「ひとりひとりのお願いを

聞くためにいる」のではありません。

「ひとりひとりの悲しみに寄り添うため」に

あなたの傍にいるのです。

 

今日もここで出会う仏様に

ありがとうの言葉、

ありがとうのお念仏を、

申して参りましょうか。

 

 

お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

今日も仏さまのことを書かせて頂きました。

ゴールデンウィークのお寺ってどんなかなと思いましたが、

東京都心ということもあり、

外国人の参拝者さんが多かったですね。

 

それでも、

外国の方が手を合わせる姿と言うのは、

「目には見えない神聖なもの」

そういうことが伝わっていくのでしょうね。

 

ゴールデンウィークは、

皆様はあっちこっちの旅行中でしょうか?

 

皆様がどこに行こうと、

仏さまがご一緒されていますので、

どうぞご安心くださいニコニコ

 

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

 

「煤払い(すすはらい)」と言うのを

お聞きになったことがあると思います。

 

良く聞くのは、ご自宅の年末の大掃除や、

お寺ではご門徒さんたちが集まって

御内陣のお飾りや香炉を磨いたりします。

 

さて、その煤払い。

俳人の飯田蛇笏(いいだだこつ)さんは、

煤払いをこのように詠みました。

 

煤払い

終えて山河の

澄みにけり

 

一生懸命に、

あるいは無心に、

煤払いを終えたら、

どんな気分になるでしょう。

 

飯田蛇笏さんは、

煤払いを終えたら、

清々しかった。

そうしたら、

山や川といった、

目に映る外の世界が

澄んで見えてきた。

というんですね。

 

いやいや、

でもですね。

煤払いをしたら、

なんで急に山や川が澄んでいったのでしょうか。

 

そうですね。

実際には「外の世界」が

変わったわけじゃないんですよね。

 

掃除によって

自らの心が澄み、

その目を通して

外の世界が新鮮に

輝いて映ったのでした。

 

 🗻   🗻   🗻   🗻   🗻   🗻   🗻   🗻


さて、

今日の東京都心は午前中が雨雨でしたが、

4月は結構雨雨が多かったと思います。

 

そうした時、

我が心はどうしたものだっだでしょうか。

 

「今日は雨かぁ~」

「天気が悪いから、やる気がでないなぁ・・」

 

なんてことは、なかったでしょうか。

 

そもそも、

「天気」と言えば、

酷暑や台風などの特別な場合を除いては、

基本的には「いい」「悪い」なんてないと言います。

雨であれば、

雨が降らないと困るのは自分なのに、

自分の都合で「悪い天気」とか、「恵みの雨」になり、

時には「やる気でないなぁ・・」と、

ぼやく私なのです。

 

どうも、

そうしたことを考えていくと、

自分の心の中に、

煩悩という煤があって、

貪欲(とんよく)・・・もっともっと! のむさぼりの心

瞋恚(しんに)・・・・まったくもう! の怒る心

愚痴(ぐち)・・・・・本当のことをしらない 愚かな心

 

そういうものが積もっていくと、

きっと

目が、

心が、

濁っていくのでしょうね。

 

であれば、

何かをきっかけに

「心の煤払い」をしないと

自分の目や心は

いつまでも周りの景色の美しさに気が付かない。

そんなことはないでしょうか。

 

さあ、

どうしましょう?

私はお寺で煤払いです。

煤払いしても、

そのお寺の帰り道で、

また少しづつ煤が積もる私です(笑)

だから、やっぱり、

また来なくちゃなと、

思うわけです。

 

皆様も、

ご自分にふさわしいものを通して、

心の煤払いをして、

外の景色を

澄んだものにしていきましょうニコニコ

 

                                (妙香さん作)

 

 

今日は曹洞宗常楽寺の砂越聰志住職とお話をしていて、

砂越住職の「説法」がすっと耳に入ってきたので、

今日は私の備忘録として書き記していきたいと思います。

 

以下、砂越住職の言葉の要約です。

 

よく、「猫に小判」って言うじゃないですか。

あれは、

「小判は大切なものだけれど、猫には価値のあるものはわからない」

と言う事と皆さん思っていますよね。

実はもうひとつの見方があって、

じゃあ、猫にとって「小判」って何かというと、

「腹の足しにもならない、自分には必要がないもの」ってことなんですよ。

だから無関心なだけ。

猫は「愚か者」じゃないんです。

もしかしたら、人間より賢く生きているんですよ。

 

ところが、人間はどうでしょう。

確かにお金は生活の上では大切ですが、

では、いくらあればいいんでしょうか。

10万円あったら、

次は20万円欲しくなります。

20万円あったら、

今度は30万円が欲しくなります。

そうしたら、そのために人より得をしようと

いろんなことを考え始めますね。

 

お金だけじゃないでしょう。

ひとつ握りしめたら、

もっともっと欲しくなる。(貪欲)

 

ところがいくつも握りしめると、

手のひらには限界があって、

もう持てなくなっていきます。

今度は握りしめたものを離さない、

いや、離せない苦しみがやってきます。(執着)

 

もう、そうなると、

ちっともホッとする時間がないじゃないですか。

 

じゃあ、どうしたらいいですか?

手放せばいいんです。

放せば手に満たり

になります。

 

握りしめたものを手放せば、

また色々なものが入ってきますよ。

 

結局、

ものごと、

ほどほどが、

一番いいんじゃないんでしょうか。

 

「猫に小判」って、

お金が真の豊かさにつながらないって、

そういうことを教えてくれているんです。

 

賢い猫の生き方。

参考にしたいものです。

 

  🐱   🐱   🐱   🐱   🐱   🐱   🐱   🐱

 

猫は悩まニャい

 

曹洞宗御誕生寺の板橋興宗禅師の名言です。

 

猫は過去にとらわれない。

猫は明日の心配をしない。

今日、それも「たった今」という時を

思うがままに生きています。

 

だから、

悩みはないのだとか・・・。

 

人は悩みます。

過去に拘り、くよくよして、後悔します。

未来を妄想して、憂い、不安になっていきます。

 

だから、

悩みばかりです。

 

私たちは

猫に

人生の生き方を

学んでいきたいものですね🐱

 

 

今日の東京都心は晴れて晴れ

気温も暑くもなく、寒くもなく。

いきなり暑くなるのではなく、

もうしばらく「春らしさ」を味わいたいものですよねニコニコ

 

さて、私の地元には寺町があります。

一定のスペース内に、26ヶ寺が集まって街を形成しているのです。

 

 

今日はその26ヶ寺の中で、

真宗大谷派西蓮寺の寺報から

法話をご一緒に味わって参りましょう。

 

以下の青字が寺報の言葉です(白山勝久副住職)

 

 

きっとこういうところだ

私が

ムカつく奴の名前を

ふたつ覚えている間に

岩倉さんは

親切にしてくれた

人の名前をひとつ

覚えるんだろう

『スキップとローファー』

 

 泣き笑い   泣き笑い   泣き笑い   泣き笑い   泣き笑い   泣き笑い   泣き笑い   泣き笑い  

 

西蓮寺の今月の寺報です。

 

 

 

 

以下、白山副住職の法話を転記してみましょう。

 

   『スキップとローファー』

 

高松美咲さん原作のマンガ『スキップとローファー』

今月の言葉に出て来る「岩倉さん」が主人公です。

 

岩倉美津未(いわくら・みつみ)は、石川県のはしっこから上京してきた高校生。

地元では神童と呼ばれ、東京の高偏差値高校に入学してきました。

過疎化が深刻な問題となっている地元のために、将来は官僚となり

過疎対策に取り組むという完璧な人生設計をしています。

でも、入学式に大遅刻・やつあたり、おう吐をするなど、必死さが空回り。

東京育ちの同級生たちとも、うまくコミュニケーションがとれません。

でも、彼女の純粋で表裏のない性格は、周囲の人を前向きな気持ちにしていきます。

 

今月のことばを発した「私」は、

「岩倉さん」とクラスメイトの江頭ミカ(えがしら・みか)。

小学生の頃、容姿のことでいじめられたこともあり、自分に劣等感を抱いています。

他人からの目を気にし、「食べたいものを我慢して、キラキラした部活に入って」

地味な努力をしてきました。

劣等感や嫉妬心から、自分が「嫌な奴」になっていることも自覚しています。

 

高校生活の始め、美津未のことを気にも留めていなかったし、

むしろ見下す感じもありました。

でも、やがて美津未のまっすぐな気持ちに惹かれていき、

お互いに大切な友達になっていきます。

 

今月のことばにまつわるふたりの紹介でした。

さて、今月のことばが発せられたきっかけは・・・。

 

高校のクラス対抗が近づいてきました。

バレーボールの代表となったふたりは、昼休みに自主練習を始めます。

学校の体育館に行くと、1年生が使う曜日であるにもかかわらず、

3年生がふたり、バスケットをしていました。

離れたスペースで練習を始めましたが、

ボールを追ってきた3年生がミカにぶつかりました。

美津未は勇気を振り絞って「今日は1年生が使う日ですがっ」と注意しますが、

ぶつかってきた3年生は何事もなかったかのように仲間のもとへ戻ろうとします。

 

そのとき、「白井! 柴本!」と注意する声が!

声の主は同じ3年生の男子でした。

「1年生女子相手に恥ずかしくねーんか」

「はよ出ろ ホラ」と言い、体育館の外に連れて行きました。

 

その様子を見て、ホッとしながらもミカの心の許さじノートに、

絶対に許すことができない人として「白井 柴本」の名前が刻まれました。

 

そんなとき、美津未は言います。

「福田さんって先輩はかっこよかったね バシッと注意してくれて」と。

ミカが「知ってる人だったの?」と尋ねると、

「ううん 靴に名前があったから」と美津未が答えます。

美津未の一言に、ミカは自分と美津未との違いを痛感します。

「きっとこういうところだ」と。

 

  🏀    🏀    🏀    🏀    🏀    🏀    🏀

 

     ミカの姿は私の姿

 

ここまでのあらすじだけだと美津未は前向きな生き方をしていて、

ミカはしんどい生き方をしている。

そのようなキャラクター設定と思われてしまうかもしれません。

でも、美津未もまた、人間関係のこと、成績のこと、自分のすべきことなど、

大いに悩みもがいています。

ミカも悩みながら、しんどい思いをしながら初めは自ら壁を作っていたけれど、

自分のことをそのまま受け入れてくれる友人たちとの出会い、変化が見られます。

もちろん、他の登場人物たちも、それぞれ悩みもがきながら10代を生きています。

 

考え方も生き方も、ひとり一人違ってあたりまえ。

こういう生き方・考え方は前向きに生きられる、成功する。

こういう生き方・考え方は損をする、

つまらない人生になる。

なんて、どんな生き方が正解で、

どんな生き方が不正解かなんて、

はっきりとあるわけがありません。

どのような考え方・生き方をしようとも、

誰もがみんな悩んで苦しんで、

もがきながら生きているのですから。

 

  🏀    🏀    🏀    🏀    🏀    🏀    🏀

 

     「ふたつ」と「ひとつ」

 

「正解不正解なんてあるわけない」と言いつつも、

「ふたつ」と「ひとつ」という表現が、大切なことを表しているように思いました。

 

ムカつく奴の名前をふたつ

親切にしてくれた人の名前をひとつ

 

「ふたつ」なのは、ムカつく奴。

「ひとつ」なのは、親切にしてくれた人。

 

つまり、私に嫌な思いをさせた人って、親切な人の倍はいるということ。

実際に倍ということではなくて、

不快な人間や出来事の方が、

優しい人や嬉しい出来事を感じる以上に、

私の心に強く訴えかけてきます。

嫌なことつらいことの方が衝撃も大きいし、

記憶にも残るし、

時折ふと思い出したりしてしまう。

親切にされた感動や感謝よりも、

ムカつく思いをさせられた事実の方が、

私の心に強く深く刻まれてしまいます。

 

「ふたつ」と「ひとつ」って、

そんなことを表しているんじゃないかなぁって思います。

だから、「ひとつ」って、

少ないってことではなくて見つけにくいということ。

「ふたつ」に立ちすくむより、

「ひとつ」を感じる心を大切にしたい。

 

『スキップとローファー』の登場人物たちは、

人間関係に戸惑いながらも、将来のことに悩み焦りながらも、

孤独ではない環境に生きていることに気づきながら高校生活を送っています。

 

人と人が生きる世は、

ひとつの事柄に幾つもの事由や見え方があるものです。

若いときって、

ひとつの事柄の、

ほんのちょっとの部分しか見えていなくても、

大きな壁に見えてしまう(若いときにかぎらないか)。

ちょっと横を見れば、

ちょっと時間をおけば、

まったく違う事由や見え方があって、

自分以外に壁に直面している人がいることがわかって・・。

今、私が直面しているしんどいことは

「ふたつ」も「みっつ」もあるように見えてしまって、

嬉しいことは「ひとつ」しか(「ひとつ」も)無いように

見えるかもしれない。

 

でも、

「大丈夫だよ」

「自分以外の何者かに

なろうとしなくていいんだよ」

「あなたを生きていていいんだよ」

って思います。

 

高校時代、親に迷惑・心配をかけながら過ごしていた私も

55歳まで生きてこれたから。

あのときがあってこその私です。

 

                    南無阿弥陀仏

 

 お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

 

「このような生き方は損です」

「人生はこのように生きましょう」

そういう本もたくさん出ています。

 

そういう本を読んで、

すべてを実行出来たら、

みんなが幸せになれるのかもしれませんね。

 

でも、実際は誰もが、

悩み、もがき、しんどい時間を過ごしていくのが「人生」ですよね。

本のようにはなれませんし、

本のようにはできません。

 

その結果、

白山師の書いているように、

自分にとって都合のいいことより、

自分にとって都合の悪いことのほうが、

やっぱりよく覚えているのかもしれません。

 

そこに、

老いも来ます。

病も来ます。

死も来ます。

 

まさに人生は苦なり。

思い通りにはならないなぁ・・・。

 

それでも、

「ふたつ」より「ひとつ」を見るようにしたらいいんじゃない?

そのように、白山師は語りかけてくれます。

 

ちなみに、

緑のラインの言葉。

阿弥陀如来の言葉ですから

それこそ安心をして下さい✨

 

何があっても、

私もあなたも、

見捨てられることは絶対にありません。

 

今日も必要な方に

必要な言葉が届けばいいなと思い、

ブログを書きましたニコニコ

 

今日もお育て頂きましたお願い

 

 

今日の我が家の日めくりカレンダーです。

鮮度のあるうちに、

今日も有縁の皆様と共有して参りましょうニコニコ

 

 

空気って、

本当はこんなに

おいしいものだったんだね

 

 

大学生になった息子が

初めて帰省したときに、

家の前で発した言葉。

田舎暮らしから一転、

東京へ行った息子は、

今まで当たり前にあると思っていたものが

ないことに気付き、

驚いたようです。

ほっとした顔が

忘れられません。

 

            北海道 続橋貞子 無職

 

 

 👦  👦  👦  👦  👦  👦  👦  👦

 

 

法語ではこのような言葉もあります。

 

        <真宗大谷派 東京都台東区通入寺の掲示板> 

 

 

不幸は

すぐわかる

幸せは

なくしてから

わかる

 

 

「当たり前だと思っていたことは

実は当たり前ではなかった」

と気が付く時に

見える世界が

変わってきます。

 

今あるもの

今いる人

 

本当に大切なもの

本当に大切な人

 

全てが

「有り難し」です。

 

どうぞ

どうぞ

大切になさって下さいね✨

 

 

今日の東京都心は晴れて晴れ、日中は25℃を超えたとか。

暑い陽気でしたが、日陰はひんやりとしていましたから、

本当に体調管理が難しい季節ですね。

 

今日は第三日曜日ですね。

東京都港区安楽寺にお参りに行ってきましたニコニコ

 

 

参道です。

 

 

本堂と玄関です。

 

 

お参りのあとは、法話を聞きましょう。

今日のご講師は、安楽寺住職の藤澤克己師です。

 

 

青字は藤澤師の言葉の要約です。

 

 

<泣きたい時は>

 

 

毎月、お寺の掲示板の言葉をもとに、お話を進めていますが、

今月はこの言葉です。

 

泣きたい時は

泣けばいい

そうしないと

笑えなく

なるから

  (二宮和也)

 

 

二宮和也さんと言えば、嵐のメンバーで有名ですが、

嵐は来月で解散との事。

とても残念ですが、

この言葉は二宮さんがファンへの

ビデオメッセージとして送った言葉の中の一つです。

 

私たちの人生は山あり谷あり。

その中では普段、

泣きたいようなことも、

必ず起こってくるものです。

 

でも、

「ポジティブシンキング」と言って、

前向きの生き方をしましょうと、

勧められます。

そして、

「弱音を吐いてはいけませんよ」と、

たしなめられます。

 

では、

前向きになれるときは、いいですよ。

我慢できるときがあれば、いいですよ。

でも、

そうじゃない時ってないですか?

 

そういう時は結局、

自分の感情を抑え込むしかなくなるんです。

 

心の中はどんなに厳しくなっていても、

自分の感情に蓋をする。

これでは、心に「捨てるべきゴミ」が、

溜まっていくようなものなんです。

 

例えば、

普段、皆さんのお部屋って、

多少のゴミがあったり、

散らかっていたりするでしょう。

でも、人が来るとしたら、

掃除をしていくことになりますよね。

でも、急には片付かないから、

クローゼットに押し込んじゃうかもしれません。

 

それで、

人が尋ねてきた時は

綺麗な部屋、つまり綺麗なよそ向きの顔を他人に見せていく。

でも、自分のクローゼットは、

無理やりに押し込んだゴミばかりじゃないですか。

人にはいい顔を見せても、本当のゴミを見せていないだけ。

 

部屋を「自分」

ゴミを「悩み」「苦しみ」「辛さ」「泣きたい気持ち」

クローゼットを「自分の心」

そう言う風に置き換えてみて下さい。

 

綺麗に装って、

作り笑いをしても、

本当は汚れている

本当はつらいんです。

 

こういうのを

泣きたい時っていうんじゃないんですか。

 

心のゴミは、捨てないと溜まる一方です。

こうなると、クローゼットはもう、

本来のクローゼットの機能はしなくなります。

 

この状態になると、

いよいよ、

楽しい事にも感情が反応しなくなります。

楽しい事にも笑えなくなっていきます。

 

じゃ、どうしますか?

そうです。

心のクローゼットに溜まったゴミを

捨てればいいんですよね。

 

負の感情に蓋をしないで、

蓋を開けていくことが大切になっていきます。

 

もちろん、

自分の力でなんとか克服をしたいけれど、

自分の力ではどうすることもできない事って、

やっぱりあるんです。

「自力」の限界です。

 

その時、

「泣いていいんだよ」と

言っている仏さまがいらっしゃいます。

それは阿弥陀如来と言う仏様だよと

お釈迦さまは教えて下さいました。

 

阿弥陀様は

こう言っているのです。

我慢をしなくていいんだよ。

辛いね

悲しいね

切ないね。

 

その気持ち

ちゃんと私、阿弥陀にはお見通しだよ。

大丈夫。

絶対に大丈夫。

そのあなたを見捨てないからね。

 

どうしても泣きたいときは

話せる人、泣ける人の前で泣いて大丈夫。

そして、

話せる仏、泣ける仏の前で泣いて大丈夫だからね。

 

そう聞いていくと、

そう気づいていくと、

人生はきっと、楽になっていくことでしょう。

 

実は、私は僧侶と言う職業柄、

たくさんの方のお悩みを聞かせて頂きました。

 

もちろん、

立ち直れた方、

時間が掛かった方、

すぐには立ち直れなかった方、

様々な方がいました。

 

でも、

立ち直った方、

立ち直りが早かった方には

共通のことが見受けられました。

それは何かといえば、

「本音を言える方」

と言う事です。

 

泣きたいときは

泣いていい。

本音を言っていい。

恥ずかしくなんてないですから。

 

人が生きていくのは

大変なことなんです。

いろんなことが起こるのが人生です。

 

大丈夫です

大丈夫ですからね。

 

 

 お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

実は私は

電話相談の相談員をしているのですが、

相談者さんの悩みは本当に切実です。

 

愛する方とのお別れが辛い方。

完治の難しい病で辛い方。

ご家族の関係で悩む方。

社会の人間関係で悩む方。

 

時には、

「電話での解決」など出来ない方も当然いる訳です。

それでも、相談員としては、ひらすら傾聴していきます。

 

相談できる方は、本当にお辛い中で話を告白して下さいます。

きっと「顔の見えない、匿名の関係性だから」ということもあるでしょう。

 

でも、お話をお伺いしていくと、

最後に

「お話を聞いてくれてありがとう」

「今日、電話して本当に良かった」

「少しだけ気持ちが楽になった」

と仰る方も多いのです。

 

言っておきますが、

悩みの解決はしていません。

 

それでも、

話す方の気持ちが変わっていくことがあるのです。

 

私は

「悩みを手のひら一杯握りしめていたら、

他の幸せが入ってくる隙間がなくなるから、

人に話すことで、

人に放す(手放す)ことで、

手のひらに隙間を作って下さい」

というのですが、

きっと、

相談者さんにとって

「本音を言う」ということは

自分と対峙し、

問題を整理して

自分と少しでも折り合いを付けて行く。

そういう時間に成り得るのでしょうね。

 

皆さんも

どうぞ、

気持ちが煮詰まった時は、

泣いていいんです。

 

話せる方の前で

話せる仏さまの前で

泣いて、

本音を仰って下さいね。

 

そうして

手放すことで、

きっと笑える日がくると思います。

 

 

今日もお育て頂きましたお願い

今日もようこそのお参りでしたニコニコ