今日の東京都心は、暖かな日和
でした。
今日もお参りのあとは、法話を聞きましょう![]()
今日のご講師は、福岡県嘉穂郡長明寺の花田照夫師です。
※青字が花田師の言葉の要約です。
<いつも一緒だったんだよ>
私の祖父は6年前に102歳で往生しましたが、
祖父の口癖は食事の後の「堪能しました」でした。
祖父の往生後は、私も食事後に真似をした時期がありましたが、
今は命日の日だけは「堪能しました」を使って食事を頂いています。
私はそのことで、往生した祖父を偲んでいるのです。
今日は「偲ぶ」ということをお話していきたいと思います。
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大切な方が亡くなるのはとても悲しいことですが、
仏教ではこれを
「仏縁をいただく」
と言います。
では、何を頂くのでしょう。
これには三つあるのです。
まずは、
姿です。
人は去っても、その人の微笑みは去らないのです。
人は去っても、その人の言葉は去らないのです。
人は去っても、その人のぬくもりは去らないのです。
人は去っても、拝む手の中に帰ってくるのです。
私のお寺で法話会をしたときに、ある布教使さんが、こう言ってました。
「皆さん、ご自分の合掌した姿を写真に撮っておきましょう。
そして、ご自分が往生した時に、お仏壇にその写真を飾ってみませんか」
私たち、写真を撮る時は、
眼を大きく開いて、
顎を引いて、
背筋をピンと伸ばしますよね。
そして、撮った写真を見て、
写りが良ければ「いい写真」と言い、
写りが悪ければ「悪い写真」と言います。
しかし、どんな写真も、
そりゃ、結局は自分のありのままです。
でも、
そのありのままの姿が一番美しいのは、
「合掌の姿」ではないでしょうか。
ご自分の合掌の姿を撮ってもらい、
自分の仏壇に飾ってみれば、
残された方がお参りをするときに、
合掌しているあなたが家族を見ているんです。
何だか、いいと思いませんか。
姿って、
やっぱりその人を偲ぶものだと思うんです。
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二つ目は、
いのちです。
往生した方を通じて、
我がいのちを見つめさせていただく。
私はあなたと同じ、
「限りあるいのち」と気づかせていただく。
誰も代わってくれることがない我がいのち、
それを大切な方を通じて知らされていくんです。
よく、死んだ日の事を「命日」と言いますが、
「いのちの日」と読み替えてもいいでしょう。
ある女性が97歳で往生したんです。
お家に行ってみると、
70歳になる息子さんがいました。
聞くと、女性は昨日往生したのですが、
その日は息子さんの70歳の誕生日だったそうです。
息子さんはこう言いました。
「普通、この年になれば、誕生日なんて嬉しくもないが、
これからは誕生日が特別な日になっていくんです」
生は必然、死は偶然と、
錯覚している私たちですが、
生は偶然、死は必然と、
気づかせてくれるのも、
往生したあの方なのです。
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三つ目は、
聞(もん)です。
聞いていくんです。
死んで終わりの命ではない
と、聞いていくんです。
私のお寺のご門徒さんに
「お寺参りをしませんか」と誘います。
すると、こういう返事が返ってきます。
「いや、もう少し歳を取ってからいくよ」
そういう男性は80歳です。
別の方に同じことを言います。
すると、
「いや、うちはこの間、主人が死んでバタバタしてるから今は無理」
すると、別の方がこう言います。
「いや、うちは主人がまだ生きていて、バタバタしてるから今は無理」
皆さんは、
いつ大切な方の行き先を、
いつ自分の行き先を聞きますか?
ある御住職のもとに、
90歳の女性から法事をしたいと連絡がありました。
聞くと100回忌とのことです。
あまり珍しいから聞いてみると、
「姉です」と言います。
お姉さんはこの女性が生まれる前に、
幼くして亡くなったんだそうです。
ですから、この90歳の女性は、
お姉さんに会ったことがないのです。
それでも、
お母さんから何かあるたびにお姉さんの事を聞かされ、
そのたびに涙するお母さんを何度も見てきたのだそうです。
そして、姉の死を境に、
お姉さんを通じてお母さんは、
「仏様のお話」を聞くようになっていきます。
今回は姉の100回忌を通じて、
お母さんにも届くように、
また、自分が亡くなった後も、
家族にこのご縁が届くように
100回忌をしたいとのことでした。
電話が終えた後、
その御住職は深々と頭を下げて、
電話の向こうの女性に合掌をしたそうです。
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では、何を聞くのでしょう?
それは
阿弥陀様の事を聞くのです。
我にまかせよ
そのまま救う
人生をレコードに例えた方がいました。
レコードはずっと一本の筋で出来ています。
筋とは「道」です。
その道は「山あり」「谷あり」
でも最後はひとつのメロディで曲は完成します。
それと一緒に動くのが「針」です。
針とは、仏様のことですよ。
では、どう聞くのか?
私たちは
「私が」
「私が」と、
「が」が付くのです。
「私がする」
ここには自分中心の価値観や考え方、感じ方があります。
それゆえに「迷い」が出てくるでしょう。
それを
「仏が」
「仏が」と、
「仏がする」
そのことを聞いていくんです。
仏様の考え、
仏様のなさったこと、
仏様のことを聞けば
これは間違いない価値観になっていくんです。
では、聞くとどうなるのか。
私の姿が明らかになっていきます。
私がこのあとどうなるかもわかってきます。
60歳代の男性が私にこのように言いました。
「この間、病院に行ったら、重い病気の宣告を受けた」
いや、「重い病気の宣告」ですよ。
どれだけ不安でしょう。
どれだけショックでしょう。
どれだけ嫌だったでしょう。
でも、男性はこのように言葉を続けました。
「仏様の話しを聞いてきた。
今、その話が私を支えているんだ」
では、聞いたらそこに何があるんでしょう。
それは
浄土があるという
新しい人生の姿があるのです。
それも、
阿弥陀様と言う仏様がご一緒
と聞いていくのです。
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最後のお話を聞いて下さい。
ある男性が50歳で、この娑婆の縁が尽きたのです。
ところが、目を覚ますと、
有る場所に立っていたのです。
気が付くと、そこには足跡があって、
自分の立っている後ろにずっとずっと、
一本の道筋の線が出来上がっていました。
そうです。
これは男性の50年の人生の「歩いてきた足跡」だったのです。
ところが、よく見ると、
自分の足跡の他に、
並行して、寄り添うように
同じ足跡が一本の道筋の線が出来上がっていました。
すると、
遥か上の方から声がしてきました。
「おい、男よ、私はいつもお前と一緒にいた者である。
お前が楽しい時も苦しい時も、
お前と一緒に人生を歩いてきたんだ。
お前の足跡の隣の足跡は私だよ」
それを聞いた男はお礼を言います。
「そうか。それはありがとう!」
あれ?
よく見ると、
自分の足跡の横の足跡、
つまり、声の主の足跡は途中で消えて、
ところどころ、二本のはずが一本になっています。
すかさず、男が言います。
「おい!今まで人生に寄り添って来たって言うけれど、
ところどころ一本じゃないか。
苦しい時も一緒だなんて言ってたけど、
俺が苦しい時、お前はいなかったんじゃないのか?
お前は嘘をついてるんじゃないのか!」
男が怒りました。
すると、声の主がこう言いました。
「お前の人生の所々、消えた足跡。
あれはお前が苦しくて苦しくて、
立ち上がれずにいた時のあとだ。
あの時、立てないお前に代わって、
私が背負って歩いたからだ」
そうです。
声の主が男を背負って歩いたから、
道は時々二本は一本になったのでした。
最後に声の主が言いました。
「いつも一緒だったんだよ」
男とは、
あなた。
声の主とは、
仏様。
そう聞いていくのが
仏様の話しです。
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ここからはbonbu-kokiが書いていきます。
最後のお話。
実は花井先生が、ご門徒さんのお宅でたまたま拝見した
「キリスト教」のお話だそうです。
でも、とても真宗らしいということで、
最後の話しでご紹介がありました。
さて、この我が人生。
私たちは「自分の人生は、自分の足で歩いている」と思っています。
振り返れば、自分の足跡が確かに残っていることでしょう。
ですが、よーく見てみるといいでしょう。
足跡が横に並行して、もう一本あるかもしれないですね。
また、所々で足跡が止まっているところがあるかもしれない。
そして、
足跡が一本になっている場所がところどころあるかもしれない。
そっか。
誰かに背負われたときもあったんだ。
この気づきが
仏教を聞く
ということだと思います。
私の辛かった時期
あなたの辛かった時期
ともに歩んでくれた方がいたのだと
聞いていくのがいいでしょうね。
今日もお育て頂きました。
今日もようこそのお参りでした![]()













































































