再録5:私に大きな影響を与えた1冊 | Hiroshiのブログ

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再録5:私に大きな影響を与えた1冊

 

『修道院と農民』

歴史学にも数量的解析が可能だと初めて実感させてもらった本。

 

これも最近、AKさんところでのコメントに関連したもので、西欧中世前期(7世紀頃)と百済の7世紀頃の農民の収穫物取り分が、ある前提を置くと(この前提には問題あり)ほぼ同じになるという偶然に気がついた。AK氏のblogでのコメントは以下の通り。

https://ameblo.jp/xuzhoumeso/entry-12754423212.html#cbox

 

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黄河流域は小麦地帯だと思いますが。それなら西洋経済史の定量的研究が比較参考になるかと思います。佐藤彰一著の『修道院と農民』によれば、7世紀ごろの西欧では1粒の種籾から3粒が収穫されたとか。(これはその後、ロマネスク期に革命的技術革新で10粒まで上昇します)
https://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/83/trackback

だとすると、7世紀ごろの西欧の農民の取り分は、

1>3-0.3-1=1.7と計算されます。
0.3=10分の1税、1=来年の種籾として保管。これは収穫3の半分強(1.7)。

今読んでいる本に、同時期7世紀前半の百済から出土した木簡には貸付種籾の5割が利子だとする記載があるとか。同様な様式は7世紀後半の太宰府出土の木間でも見られるとか。

*もし収穫量が西洋中世並み=1粒の種籾から3粒が収穫されると仮定すると。

1>3-1.5=1.5が農民の取り分。1.5=5割の利子付きの返却。来年用の種籾は再度借り出しとなり、ほぼ同じ程度で収穫量の半分(1.5)。

偶然?に西欧と百済(多分当時の中国)で、農民の取り分はほぼ同じになりました。

但し、《稲と小麦では収穫比率がかなり違う》のではと想像します。つまり稲は小麦類よりも種に比べ収穫量が多かったのでは?

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『修道院と農民』

副題;「修道院と農民―会計文書から見た中世形成期ロワール地方」佐藤彰一(著) 名古屋大学出版会、1997年出版。75年に発見されたサン・マルタン修道院「会計文書」の体系的分析により、この文書がカバーするロワール地方を観察の場とし、史料が語る農村社会の構造と変動の様を介して、古代から中世への移行の様相を具体的に解明した力作。 

この中の「聖餅の神秘論」という同じ史料から出発して、私が計算をしたところでは1モディウスは約18Kg。ところが、歴史家H・ビィットヘフトの計算では104.56Kg。史料というのは9世紀半ばに書かれた文書で以下ちょっと、長くなりますが全て引用します。

『現在の3ヌミは大粒小麦153粒の重量に等しい。この3ヌミは1スタテールに等しく、練り粉状の大聖餅1つの重さである。火を通すことにより、それは全重量の6分の1を失う。小聖餅は1ヌムスを越えない重さである。重量について語ろう。大聖餅より大きくもなく、また小さくもないこの3ヌミ{の聖餅}はもし古よりの習慣にしたがって作られたならば、大粒の小麦153粒と過不足なく等しい重さを示す。そして300ヌミは昔の25ソリドウス・ポンドの重さがある。 その12ポンドはそれゆえ3600ヌミであるが、このは小麦1セクスタリウスに等しく、これから、それを以て1人の人間が1週間生きることが出来る、もしくは7人の人間が1日を生きることが出来る7個のパンが得られる。さらに公正かつ正規の1モディウスは均等なる17セクスタリウスからなり、これを以て神の加護により、食卓に集う119人にパンを購うことができる。』 p370

私は最後の行の「1モディウスは・・・119人にパンを購う」から出発して、1斤半の食パンを作るのに450gの小麦粉が必要であるとし、また1斤半の食パンで2人の1日分の食料と考え、以下のように計算した。1モディウス=119 x 450g / 2 = 26.8kg これは9世紀半ばの史料で、シャルル・マーニュが旧3モディウスを2モディウスに変更したので、これを7世紀の旧モディウスに変換すると新1モディウス= 26.8kg=旧1.5モディウス、すなわち、旧1モディウス=17.9kg。

同じ史料から出発してこれだけの違いが出たのは(勿論、私が何か間違いをしたのでしょうが)H・ビィットヘフトが最初の行の「3ヌミは大粒小麦153粒の重量に等しい」という事を元に計算したからだと思われる。しかし「1モディウスは成人の男子1人が運べる容量」だとするならば104.56Kgは、無理ではないか?私の推理した17.9kgの方が少なくともの史料とは整合性があるように思う。

私の計算の問題点は、現代の方法で作った食パン1斤半が2人分の食料となるという仮定で、これが1人分しかならないとなると、それだけで1モディウスは36kgになってしまう。ただし、それにしても、とても104.56Kgにはならない。何故なら1人で4斤以上食べることになるわけで、現代の飽食の時代でもこれは多すぎ。また当時の収穫量が1粒の種籾あたり3粒程度の時代に、パンばかり食べていたとは到底思えない。それから「1モディウスは・・・119人にパンを購う」という記述を算定に使った点についてはかなり妥当だと思われる。 それは、9世紀のコルビー修道院長アダルハルドウスはスペルト小麦に関して、24新モディウスの麦から製粉後に10新モディウスの小麦粉がもたらされるとしているp384 この記述から著者は9世紀には12新モディウスの小麦の収穫があれば1人の生存を1年間支えることができる計算になるとしている。p384 一方、私の根拠とした記述から計算すると、365 / 119 x 1 = 3.06 約3新モディウスの小麦粉で1人の生存を1年間支えることができ、これを小麦に換算すると 3 x 24 /10 = 7.2新モディウスの小麦となる。これは、著者が別の計算によって得た新12モディウスと大差ない。

一方、歴史家の計算の問題点は小麦の容量(モディウスは葡萄酒にも使う)からパンの原料となる小麦粉の重さを推定する際の誤差。すなわち、容量から重量への変換、さらには脱穀にともなう重量損失を正確に算定するのは難しいと思う。

不思議なことに、著者が特に言及していないことを1つ。世帯の10分の1税の平均額は2.2モディウス、即ち総生産量は22モディウス。p518 これから各世帯が1年間に消費可能な平均穀物量を計算すると。22 - 2.2(税)-7.3(種籾)=12.5モディウス。これは著者の計算による、1人の生存を1年間支えることができる18モディウス(=12新モディウス、私の計算では10.8モディウス)にさえ及ばない。確かに本文中でも「慢性的な飢餓状態」との記載があったが、むしろこのことは、穀物以外のカロリー源が重要であったということではないでしょうか? この時代の農業はかなり初歩的な段階で、かなりのカロリーを動物性食物から穫っていたと考える方が私には納得しやすい。「西欧精神の探求:革新の12世紀」堀米庸三編p41にも豚肉の消費量は12世紀当時でさえ1日平均で1キロとなっている。 これには異論も多いだろうが已然として初歩的農業の時代に穀物以外のカロリー源が重要であったということはあり得るだろう。

 

この本は7世紀に作成された「会計文書」の解析で、主要資料は20数葉の獣皮紙の断片からなるもの。9世紀に作成されたある写本の装丁用の皮材として流用されていたとのこと。 日本だと<襖の裏紙に>に当る。 写本用に自在に寸断された状態から、パズルを解いていくように、はるか昔、メロビング朝の農民生活を描くというのは、まさにロマンそのもの!

因みにこの巻末に会計文書史料、1569人分の農民の名前と、彼らが負担すべき貢租の量を記載したものがそのまま載せてある。 例えば「Col. Monte村の農民Loedoaldは、小麦2、燕麦1モディウスを納める」とか。#98 

全体のほぼ4分の1を占め、3章からなる第1部はいわば総論。 トウール地方の地形や気候の解説にはじまるが、最も重要な部分は、後半の修道院と司教座教会の関係についてでしょう。特に修道院特権。これにより管区司祭からサン・マルタン修道院の自立が保証されたとか。 そしてその物質的基盤となるのが、司教座教会へ修道院が納入すべき貢租の免除。 

第2部ではその実態を示す会計文書の各論的解析ということになる。この2部4章にはこの獣皮紙の表裏における文字の方向性や天地関係、それに覚え書き等から、この文書が貢租徴収人が携えていた単葉形式の実務文書であり、この他に「所領明細書のような台帳形式の文書と、未完納者リストがあったはずだ」とする筆者の推論は推理小説を読むみたいで非常に面白い。ところでこの本、文部省の科研費で刊行されたもの。 こんな本が公立図書館で誰でも自由に借りれるのはすばらしいことではないでしょうか?

7章の「賦役と農民経営」は情報満載。 再三 <収穫の> 10分の1という言葉が出てきました。 つまり、もし1粒の種籾から3粒の小麦が得られるとすると。
10 - 3.3(来年用の種籾)- 1(10分の1税)= 5.7
が農民の取り分となるが、それからさらに領主に納める分があるとするなら収穫の極めて僅かな部分しか農民の手に残らないことになる。

筆者が参考資料とした同時代の「バイエルン部族法典」には10分の1税の他にも、週3回の賦役、麻束1、蜂蜜10壺、鶏4羽、卵15個を納めるような規定があり、農民の負担は相当なものだったことが判る。p329-330 特に直轄地における賦役は大変だったでしょう。その他、場所によっては、豚10分の1税というのもあったようです p337。 さらに、「ル・マン司教事績録」の中に収録されているアイグリベルトウスの文書には、

『…聖母マリア修道院に上記のヴィラ(村)の”すべての”10分の1を…葡萄酒について、乾草について、全ての家畜および薫製肉についての10分の1を、すべて欠けることなく同修道院に納付するよう…』p340とあるそうで、10分の1とは穀物だけでなく”すべての”生産物にかけられていたよう。
 
ところでこの本では、発掘された貨幣の重量の時代別変化をグラフにして議論を進めるところがあり、以前読んだ「死者と生きる中世」のパトリック・ギアリの方法論に通じるものを感じました。 これが現代の史学のスタイルなのでしょうか? 文献考証だけのものよりはるかに私には説得力がありました。

僅かな獣皮史に残された記録を元に、千年以上も前の農民の生活を再現させるという仕事は当にロマンそのもの。 研究は時としてこのような面白さがあると思います。確かに実際の研究では、多くの時間がルーティーンの仕事で潰される地味なものですが、とはいえ、やはり推理や想像が大切。 想像は創造につながる。 例え「独断や偏見」と陰口を叩かれようとも、真実を掴めば「鋭い洞察」に変わる。