新・ユートピア数歩手前からの便り -213ページ目

宣戦布告

「財団法人 新しき村」には年2回(12月・3月)の評議員会があります。

以前の便りでお知らせしたように、私は昨年末の評議員会において、「新生会」の設立というかたちで新しき村の変革を提案しました。それは結果的に認められませんでしたが、来たる3月20日の評議員会でもう一度戦ってみようと思っています。下記の拙文は、機関誌「新しき村 3月号」に掲載された評議員会の案内です。


新しき村会員大会・評議員会
  
  日時 評議員会 三月二十日(日)
  場所 新しき村・公会堂 

 いつも空回りに終始してしまいますが、今度の評議員会こそ「大激論」の場にしたいと思います。新しき村の使命並びにその本来の活動について徹底的に議論したいのです。すなわち、具体的な論点を挙げれば、次のような問題です。

・新しき村はこのまま農業生産を黙々としているだけでいいのか。
・新しき村は公益法人としての使命を果しているのか。
・新しき村に「新体制」が必要だとすれば、それは如何なるものか。

 私は敢えて挑発的に「今の村は新しき村になっていない」と述べていますが、この点に関して未だ有効な議論が一度もなされておりません。「君は君、我は我也」と言って本格的な「対決」を避けていては真に「されど仲よき」と言える境地に達することはできないでしょう。それ故、私は「退場宣告」を覚悟で会に臨みたいと思っています。多くの方が参加され、真剣に話し合えることを心より願っております。

私はこの文章を、「新しきこと」を始めることに抵抗している人達に対する「宣戦布告」のつもりで書きました。おそらく、これが村における私の最後の戦いになると思います。

もし皆さんの中に私の戦いに興味のある方がおられるなら、是非3月20日に御来村下さい。別に村の会員でなくても、参加は自由です。心よりお待ちしております。

自立学校(?)としての新しき村

全ての求道者、すなわち「人間として本当に生きる道」を摸索している全ての人々の集う場――私は新しき村をそのような場にしたいと思っています。それは或る意味で一つの「理想の学校づくり」の試みだと言えるかもしれません。しかし、そこで何を教えるのか。

この点に関しては根源的な発想の転換が必要になってくると思います。すなわち理想の学校は「何かを教える場」ではなく、生徒が主体的に「何かを学ぼうとする場」であるべきだということです。尤も生徒に主体的に学ぶ意志があるならば、もはや学校など必要ないのかもしれません。むしろ、それ以前の段階において主体性や自立する力を育むところにこそ学校の存在理由はあると言えるでしょう。つまり人を真に自立させるための学校――しかし、ここには大きな矛盾があります。

人を自立させるというのは、どう考えてみてもおかしい。人は自立するのであって、自立させられるものではありません。自立を強制することはできないし、またできたとしても、強制された自立は真の自立とは言えないでしょう。従って、「自立(させる)学校」という理念には根源的な矛盾があると思います。

しかし自立できない人間(殊に若者)、もしくは人間としての真の自立を求めて摸索している人がいるというのは厳然たる事実です。そして、そうした人達と「理想の共働態」を形成していくところにこそ新しき村の使命(もしくは存在理由)があると私は思っています。それは広い意味での「教育」と言えますが、決して「自立するノウ・ハウ」を教えるということではないでしょう。おそらくそんなものはないだろうし、また今の新しき村に自立を教えるだけの力などありません。

何れにせよ、私自身が未だ真の自立を求めて苦闘している者に他なりません。そのような私にとって教育は、「共に学ぶこと」に近い。ただ私にもそれなりの経験の蓄積があるので、何らかの「導き」(と言っては、おこがましいですが)は可能でしょう。そこに「学校」というカタチも生れてくるかもしれません。しかし、それは学校と言うよりも、「求道の場=道場」(何かスパルタ式のような感じになってしまいますが)と言った方がいいでしょう。共に「真の自立」という理想を目指して様々な摸索のできる場――それが私の夢見る「新しき村」のヴィジョンです。

人間として本当に生きる

私は思耕する。「人間として本当に生きる」とは如何なることか。

尤も、この問いの立て方には異論があるかもしれません。「人間として」という限定、そして「本当に」という条件。すなわち人間であるからといって他の生物と異なる生き方を求める必要はなく、また生きることに「本当」を求めることは一つの倒錯にすぎない(もしくは、人間は自由だから「本当に生きる」ことさえ強制されることはあり得ない)、と考えることも可能だということです。こうした見解からすれば、「本当の生」は人間が勝手に捏造した観念でしかなく、むしろ「人間として本当に生きる」ことを求めれば求めるほど、生そのものから遠ざかっていくことになるでしょう。

確かに「人間として本当に生きる」ことは一つの虚構かもしれません。しかし、だからと言って、人間は生そのものに即して生きられるでしょうか。たといできたとしても、生そのものに即して生きる者はもはや人間ではないと私は思います。言い換えれば、生そのものに即して生きる自然のイキモノが「本当に生きる」という観念を抱く時、幸か不幸かそのイキモノは人間になるのです。

人間の生は生そのもの=自然ではないと思います。勿論、自然を拒絶して生きられないことは言うまでもありません。人間は自然に根ざして思耕し、「本当の生」を結実させるのです。それは虚構と言うよりも、一つのドラマだと言うべきでしょう。

自他共生

新しき村の理念の一つに自他共生がありますが、その本質は祝祭にあると私は考えています。一般的に自他共生と言うと、何か他者を生かす、もしくは他者のために奉仕するといった倫理的なもののように理解されがちですが、それは明らかに誤解です。

自他共生は「他者のために生きること」が目的ではありません。共生である以上、それは当然のことと思われるかもしれませんが、真の共生は自己と他者を平均的(もしくは平等)に生かすことではないのです。むしろ、その目的はあくまでも「自己を生かす」ことにあると言うべきでしょう。

勿論、自己だけを生かそうとするエゴイズムでは自己を真に生かすことはできません。「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福もあり得ない」という宮澤賢治の言葉のように、他者を含む世界全体が生きなければ自己もまた生きることはないでしょう。すなわち自己を真に生かすことにおいて、他者を生かすことは必要条件になるということです。そして自己が生き、他者も生きるという理想は祝祭においてこそ実現するでしょう。そこでは自己と他者が一つの全体を形成しますが、さりとてその全体において自己と他者の区別がなくなってしまうわけではありません。祝祭は自己と他者が共にその生を輝かせる饗宴なのです。

「楽しいこと」と「楽なこと」

理想の生活とは如何なるものか。或る人は一生遊んで暮らすことのできる生活だと言うかもしれません。しかし一般的には不可能です。また、たとい可能だとしても、遊びで生が輝き続けるとは思えません。少なくとも私は遊んで暮らせることを自らの理想の生活とは見做せないと思います。おそらく私の場合、楽なことでは理想の生活を実現できないでしょう。とは言え、別に殊更苦しみたいわけではありません。

問題は苦楽ではなく、あくまでも「如何にして生を輝かせるか」ということです。そして、もし遊びを純粋な消費活動だとするならば、それだけで生を輝かせることは不可能だと思います。私はむしろ生産(創造)活動を中心に生きていきたい。更に言えば、肉体の糧を生産する労働もさること乍ら、できれば魂の糧を創造する仕事に集中したいと思っています。従って私の理想とする生活は、仕事によって生を輝かせることだと言えるでしょう。遊びも必要ですが、それは所詮息抜きにすぎません。それは決して生の目的にはならないと思います。

何れにせよ、真に楽しいことは楽なことではありません。楽しいことと楽なこと、それらは或る程度重なる部分もありますが、究極的には質を異にしています。むしろ真に楽しいことを実現するためには苦しいことを余儀なくされるのが現実でしょう。また苦しいことがそのまま楽しいことになる場合もあります。例えば一般的に嫌なこととされているトイレ掃除でも、自分が苦労して開いた店のトイレ掃除なら苦しくても楽しいことになるのではないでしょうか。

逆に言えば、何もしないでいることは楽なことではありますが、長くその状態が続けばやがて苦痛に変わるでしょう。すなわち肉体的に楽なことでも精神的には苦しいこともあるということです。従って真に楽しいことを求めるならば、肉体的にも精神的にも楽な状態を脱し、敢えてプレッシャーがかかるような状態に自分を追いこむ必要があります。気楽な傍観者は生きることの真の楽しさを味わうことができないと思います。

カイラクとケラク

この便りを読んで戴いている皆さんは、「人間として本当に生きる」ことを熾烈に求めている私を非常にストイックな人間だと思われているかもしれません。しかし、それは誤解です。むしろ私はエピキュリアンだと自認しています。と言うのも、「人間として本当に生きる」ことが私にとって最高の快楽だからです。しかし一口に快楽と言っても、武田泰淳の言葉を借りれば、カイラクとケラクの二種類があるでしょう。

私はその区別を、肉体の求めるカイラクと魂の求めるケラクというように理解していますが、「人間として本当に生きる」快楽はカイラクとケラクの矛盾的自己同一にあると思います。それは具体的に如何なるものでしょうか。

先ずカイラクとケラクを二元論的に理解すべきではないと考えます。その差異は生の根源的力の現象面でのことにすぎません。従って或る種の修行者のように、カイラクを滅却することによってケラクを得ようとするのは根本的に間違っています。少なくとも私はカイラクを否定するつもりはありません。すなわち私は如何なる意味においても禁欲主義者ではないということです。

しかし、カイラクのみに溺れるつもりもありません。またカイラクを中途半端に抑制してケラクを得ようとする姑息な道も私の本意ではありません。あくまでもカイラク全開によるケラクの全開をこそ望むのです。こうした私の快楽追求は一種のフーリエ主義だと言えるのかもしれません。

労働・仕事・遊び

労働は義務、仕事は生きる意味。できれば労働はしたくないと思います。しかし通常はその義務を免れることはありません。それは言わば人生への入場券のようなもので、それなくして仕事をする権利は得られないでしょう。私は一応ここで「仕事」という言葉を用いていますが、もし遊ぶことが生きる意味であるならば、「遊び」と言っても構いません。むしろ、楽しく遊ぶために嫌な労働をする――その方が一般的だと言えます。

しかし遊びは純粋な消費活動ですから、一部の特権階級以外は労働せずに遊び続けることはできないでしょう。それ故、嫌な労働も遊ぶための必要条件として受け容れざるを得ない、というのが現実となります。しかし乍ら、それは明らかに理想には程遠い状態です。やはり嫌な労働は、もしなくせるものならなくしたいと思います。

そこで改めて問題となるのは、生きる意味としての仕事です。確かに遊びは楽しい。それは生きる意味にもなるでしょう。しかし、先にも述べたように、消費するだけの遊びは所詮長続きするものではありません。そもそも我々の生は「生産」と「消費」という二つの活動が恰も車の両輪の如く機能して成立するものだと思います。それ故、理想的な生の在り方はそうした二つの活動を楽しく行うことにあると言えます。

問題は、消費が楽しいのは当然なので、生産活動を如何に楽しく行い得るか、ということになるでしょう。この文脈において、私は嫌々する生産活動を労働、楽しく行う生産活動(あるいは、遊びと化した生産活動)を仕事と称したいと思います。では、労働から仕事への移行、もしくは労働の仕事化は如何にして可能になるでしょうか。ここに「ユートピア実現」に向けての根源的な問題があると思います。

農耕と思耕

肉体の糧を生産する「農耕」と魂の糧を生み出す「思耕」――私が新しき村に来たのは、人間として本当に生きるためにはそうした二つの活動が不可欠だと思ったからです。しかし実際にその両立を果たすことは難しい。それに、昨日述べたように、私には農耕に対する根源的な関心が欠けています。できれば思耕のみに没頭したいというのが、やはり偽らざる本音です。ならば何故その本音で生きる道を突き進まないのか。思耕のみで生活していく自信がないということもさること乍ら、農耕を断念することに未だ負い目を感じてしまうからでしょう。果して農耕と思耕の両立を諦めることは自己欺瞞であるか。事は私自身の生き方に関わることです。もし私にとって人間として本当に生きることが農耕と思耕を両立させた生活にあるのなら、私は何としてでもその実現を追求すべきでしょう。果して本当にそうなのか、私は改めて根源的に問い直す必要に駆られています。

農耕と思耕、その両立――しかし両立と言えば格好が良いですが、一つ間違えば中途半端な結果になってしまうでしょう。一人でできることには自ずと限界があります。農耕は半人前、思耕も半人前、ということでは「本当に生きる」どころではありません。そんな醜悪な生活に陥ってしまうくらいなら、自分の本音、すなわち思耕に徹する生活を目指した方がいいでしょう。果たしてそれは私がこれまで批判してきた出家者の生活への転向を意味するでしょうか。もしそうなら、それもまた醜悪なことと言わざるを得ません。とすれば、やはり両立を目指すしかないのでしょうか。

現時点で明らかなことは、両立は平均化ではない、ということです。農耕半分、思耕も半分という「あれも、これも」の生活など、私の望むものではありません。むしろ、「あれか、これか」に徹する生活、私の場合には思耕に徹することによって農耕も活かすということにこそ真の両立があると思っています。勿論、それは逆説の現実に他なりません。農耕が思耕になり、思耕が農耕になるという境地――尤も、それは両立と言うよりも、統合と言うべきでしょう。

何れにせよ、農耕と思耕を二元論的に捉えている限り、その両立はどうしても中途半端な「つまみ食い」にしかならないと思います。そして本来両立し得ぬものの両立を求める時、そこには絶対的な逆説が要請されるでしょう。すなわち、二元論を超え、両立を止揚し、或る矛盾的同一(統一ではなく、統合)を実現するということです。

肉体の糧と魂の糧

肉体の糧(生の維持に必要なもの=主に食物)と魂の糧(生の充実もしくは輝きに必要なもの)を分離することには問題があるかもしれません。そもそも生の維持なくして生の充実もあり得ないでしょう。そして生を維持するための活動(肉体の糧の生産を目的とする労働)によって生の充実も得られるのなら、それはそれでいいと思われます。例えば、大地にしっかり根を下ろした篤農家の生活――それは一つの理想的生活であることは間違いないでしょう。しかし乍ら、その点において私の生き方は未だ揺れている面があります。安藤昌益の言うような直耕生活への憧れがある一方、それでは満足しきれない思いもあります。

果して私は篤農家のような生活で生の充実を得ることができるのか。率直に言って、私は生の維持に不可欠な労働である「農」の営みは重要だと思いながら、それに没頭する自分を思い描くことができません。そして、その事実は私にとって一つの負い目になっています。自分は農業のみに生きることはできない――自己欺瞞かもしれませんが、それが私の本音です。

尤も、私は未だ農本主義的な考え方に囚われているだけのことかもしれません。少し開き直って言えば、野球に集中しているイチローを非農業者である(つまり食物を生産していない)ことを以て非難できるでしょうか。野球をすることによってこそ生の充実を得ることのできるイチローは、そのことによって肉体の糧も得ていることにおいて、一つの理想を生きていると言えるでしょう。

言うまでもなく、篤農家の生活とイチローの生活を比較すること自体には無理があります。結局、人はそれぞれ生の充実を得る道は異なる、という単純なことにすぎません。おそらく「農」が基本であることは間違いないと思われますが、それ以外に自らの生を充実させる道のある人はそれに集中すべきでしょう。それで所謂「食っていくことができる」のなら、それがその人にとって肉体の糧であると同時に魂の糧になり、そこに「理想的生活」があると言えます。肉体の糧と魂の糧を分離する必要はありません。むしろ、その一致を目指すところにこそ「新しき生活」があると私は思っています。

新生会の理念について

そろそろ理念的な便りから実践的な便りに徐々に移行していきたいとは思っていますが、本日も「ユートピア実現」に向けての理念についてです。

率直に言って、新しき村はこのままでは駄目だと私は思っています。所謂「食うための労働」に追われて村本来の活動が疎かになっている現在の体制では新しき村の将来を切り開くことは望めません。それ故、新しき体制を実現していくことがどうしても必要になってきます。そのために「新生会」というものを準備しているわけですが、果して新しき体制とは如何なるものでしょうか。

それは「新しきこと」への挑戦を可能にする体制に他なりません。具体的に言えば、人間として本当に生きることの意味を問う人達が集い、それぞれの究極的関心に基いて、その意味を表現(創造)していく場を実現することです。例えば、農(もしくは食)に関心のある者は安心、安全、しかも美味しいものをつくることに喜びを見出し、教育に関心のある者は生きることに躓いた若者たちと共に苦しんでいくことに自らの使命を見出していく――そこに「新しきこと」があると私は思っています。それは人間として本当に生きることの自己表現でもあります。そうした様々な自己表現の共働こそ「新しき村」本来の活動だと信じています。

勿論、個人的な自己表現というものもあるでしょう。義務労働(食うための労働)を果した後、自分だけの世界で自己表現を楽しむ――私はそれを無下に否定するつもりはありません。しかし少なくとも「新しき村」の生活に関して言えば、孤立した自己表現は、たといどんなに純粋なものであっても、村本来の生き方ではないと思います。そもそも共働の次元が開かれなければ、「村」とは言えないでしょう。

確かに今の体制においても、義務労働の範囲内では共働はあると言えるかもしれません。しかし労働を超えて、それぞれの仕事の次元においても共働がなければ、「新しき村」の名に値しないと思います。肉体の糧を目的とする水平の次元のみならず、魂の糧を目的とする垂直の次元においても共働する生活の実現――それが「新生会」の理念に他なりません。