新・ユートピア数歩手前からの便り -212ページ目

評議員会に向けて(1)

この拙い便りをお読み戴いている皆さんは、ユートピアに何らかの関心を抱かれていると思います。しかし、先日戴いたコメントにもありますように、問題は「ユートピアを如何にして実現するか」ということに他なりません。

その点、今私が生活している「新しき村」は大きな可能性をもつ場だと言えるでしょう。尤も残念乍ら、現在その可能性は十分に活かされておらず、むしろそれを閉ざすような力が支配的です。だからこそ私は「新生会」というプロジェクトで村の閉塞状況を打開し、「ユートピアの実現」に向けて真に現実的な一歩を踏み出したいと願っているわけです。

当面の課題は、先の便りでもお知らせしたように、来たる20日に開かれる新しき村の評議員会(会員大会)です。昨年末の会では、「新生会」のプロジェクトをあくまでも村内の活動として提案しました。それは結果的に認められなったわけですが、今回は村外の活動として提案しようと思っています。すなわち村外会員主導で村の変革を行う可能性を問うということです。

何れにせよ、「新生会」の目的は「ユートピアの実現」に関心のある全ての人を結集することにあります。その意味でも、今度の評議員会では「新しき村」をそうした人々の活動拠点にする可能性を切り開きたいと思っています。しかし言うまでもなく、これは皆さんの協力がなければ到底実現できることではありません。

そこで、もし「新しき村」がそういう拠点になったならば、皆さん自身がどういう活動をしたいかというヴィジョンをお知らせ戴きたいのです。皆さんの主体的な関わりを心より願っています。

ユートピアとニヒリズム

ユートピアを切実に求めているのはニヒリストだと思います。「もうこんな社会には生きられない!」――そう叫ぶ者のみが新しき社会を真剣に求めることを余儀なくされるでしょう。しかし、そのような必死のオルタナティヴを求めざるを得ない状況が現代にあるでしょうか。

世の中は総じて豊かになり、もはや十九世紀ほどの貧困状況は殆どなくなったと言えるかもしれません。勿論、そうは言っても未だ貧富の差は激しく、世界各地で悲惨な状況が依然として続いていることに変わりはありません。しかし、せいぜい既存社会の改善程度が求められているにすぎず、全てを一新させる「根源的な変革」を必要とするほどの切迫性はないように見えます。果して本当にそうでしょうか。

言うまでもなく、私はそうは思いません。確かに飢えて死んでいく人は昔に比べれば遥かに少なくなっていることは事実です。その意味では、ユートピアの実現を求める原動力としてのニヒリズムは弱くなりつつあると言えるでしょう。しかし、そうした「欠乏のニヒリズム」の力が弱くなればなるほど、別のニヒリズムが力を増してくると思われます。それは「過剰のニヒリズム」です。

「欠乏のニヒリズム」と「過剰のニヒリズム」――ニヒリズムには、こうした二種類があると私は思っています。端的に言えば、前者はマイナスの絶望であり、食べ物やお金など必要なものの欠乏に起因するニヒリズムです。これに対して後者は豊かさの中での絶望であり、自由の過剰(言わば自由に溺れること)に起因するニヒリズムだと言えます。

更に言えば、こうした二種類のニヒリズムに応じて二つのユートピアのヴィジョンが生れてきます。すなわち、「欠乏のニヒリズム」が求めるユートピアは所謂「ナショナル・ミニマム」が満たされた福祉社会であり、「過剰のニヒリズム」が求めるユートピアは人間の自由が完全に満たされた劇的社会に他なりません。そして後者のユートピアこそ祝祭共働態なのです。

何れにせよ、「欠乏のニヒリズム」もさること乍ら、我々が今切実に「ユートピアの実現」を求めているとすれば、それは他ならぬ「過剰のニヒリズム」においてだと私は考えています。

ユートピアの原点

様々な天意の解釈が渦巻く中で、唯一の「真意」を決定することは不可能です。しかし、そうした状況において、瀧澤克己の言う神と人との「第一義の接触」と「第二義の接触」という区別は一つの道を切り開くものだと思われます。

「第一義の接触」とは人間が神と出会う実存の原点(キリスト者である瀧澤はそれを「インマヌエル=神、我等と共にいます」と称しています)であり、全ての宗教体験に通底するものです。それは言語以前の純粋体験に他ならず、それが実定化されたもの、例えばナザレのイエスの純粋体験に基いて言語化されたものが一つの宗教=キリスト教になるのです。同様に、シッダールタの純粋体験に基いて仏教が生れ、ムハンマドの純粋体験に基いてイスラム教が生れると考えることができます。そして人がそうした純粋体験者の教えを通じて神と出会う時、それが「第二義の接触」なのです。

しかし問題は「第二義の接触」それ自体が様々な解釈を生むということにあります。そこに宗教対立という実に醜悪なことが生じてくる原因もあるわけですが、このアポリアを打開する道はただ一つ、それぞれの人間が自らの実存において「第一義の接触」を求めていくしかないと思います。そもそも「第一義の接触」という純粋体験はイエスなどの教祖に限定されるものではないでしょう。むしろその限定が宗教の堕落を招くと言えます。彼等を教祖に祭り上げることは、彼等の教えに対する裏切りに他なりません。

勿論、それぞれの人間が「第一義の接触」を求めていくことにも問題があります。おそらく「我こそは過去の教祖達に匹敵する純粋体験者なり!」と叫ぶ「最終解脱者」は今後も出現して来るでしょう。その危険性を断つことはできません。では、我々は如何にして真の「第一義の接触」に至ることができるでしょうか。

「段々降りてゆく」よりほかないのだ。飛躍は主観的には生れない。下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。(谷川雁)

現時点では、これしかありません。そして、こうした「存在の原点」こそユートピアの原点であるべきだと私は思っています。

天意に即した生活

新しき村の精神が求める理想は、「天命を全うすること」と「自我を完全に生長させること」です。これをヒンドゥー教的に解すれば、大我(ブラフマン)と小我(アートマン)の一致、すなわち梵我一如の理想だと言えるでしょう。

天に意志があり、人間にも意志があります。両者は密接に関係しており、ヘーゲル的に言えば神と人間の相互承認が問題になります。すなわち「人間の上り道」(人間が神を知ろうとする過程)と「神の下り道」(神が人間に自己啓示する過程)は相即しているということです。これがマイスター・エックハルトに代表されるような神秘主義(神が私を見る眼は、私が神を見る眼と同一)に基いていることは言うまでもありません。

こうした考えからすれば、天意(神意)に即した生活に人間の理想があり、それを可能にする社会こそユートピアだと言えるでしょう。しかし天意に即した生活とは如何なるものでしょうか。そもそも天意とは何であり、それを我々は如何にして知ることができるのでしょうか。

カール・バルトはキルケゴールの実存弁証法に基いて、神と人との絶対的(質的)断絶を主張しました。すなわちヘーゲルが言うような「人間の上り道」などななく、ただ神の啓示のみがあるということです。そして彼にとっての神の啓示はキリスト教の聖書のみなので、それを正統的に解釈する権威である教会以外に人間の救いはないことになります。

言うまでもなく、キリスト者以外の人はこうした見解を受け容れられないでしょう。おそらく宗教の数だけ天意(神意)の解釈があると思われます。更に言えば、その解釈に応じてユートピアのヴィジョンも異なってきます。こうした状況において、「真のユートピア」を求めることは果して可能でしょうか。皆さんのお考えをお聞かせ下さい。

美しき社会

ユートピアは美しき社会です。しかし、その美しさは単に穢れたものを排除しただけのものではありません。カラマーゾフ的に言えば、マドンナとソドムの統合です。無粋な表現乍ら、聖と俗の弁証法的統合と言ってもいいでしょう。勿論、それはソドムの現実を黙認するものではありません。そこには大いなる逆説があります。

例えばソーニャ・マルメラードヴァは本当に「美しい女」ですが、現実には一人の娼婦にすぎません。ラスコーリニコフは言っています――「この娘には三つの道がある。掘割へ身を投げるか、きちがい病院へ入るか、それとも智をくらまし心を化石にする淫蕩の中へ飛び込むかだ」。しかしソーニャはその何れの道も辿りませんでした。

生きていくためにはもはや身を売るしかないという現実に直面した時、掘割に身を投げれば自らの純潔を守ることができます。それは一つの美しい生き方(死に方)に違いありません。しかし、そこには「真の美しさ」はないと思います。むしろ、たとい身は穢れても、その現実に踏み止まることから「真の美しさ」は生れてくるのではないでしょうか。

少なくともソーニャは掘割に身を投げず、気が狂うこともなく、娼婦として生きるしかない道を決然と選びました。しかし、それは淫蕩に自己を汚すことではなく、むしろ一つの聖化 だと私は思っています。私が熾烈に求めているユートピアもそのように聖化 された社会なのです。

何れにせよ、「美しき社会」としての新しき村は決してマドンナの理想だけを追求するものではありません。それはソドムの現実に徹することを通じて逆説的に聖化 されるものなのです。

ユートピアは時代錯誤か

憂鬱な日々が続いています。結局、ユートピアを求めることは時代錯誤なのでしょうか。私自身はこれほど面白いプロジェクトはないと思っていますが、そういう感覚はもう時代遅れなのかもしれません。やはり殆どの人はユートピアづくりよりもディズニー・ランドで遊ぶことの方を選ぶでしょう。そうだとすれば、もはや私の出る幕はありません。

すでに神は死に、弁証法も息絶えた時代では、祝祭共働態も所詮私の夢想にすぎないのでしょうか。私は全く遅れている。さもなければ遥かに時代に先行していることになりますが、それは自惚れが過ぎるというものでしょう。ただ自分は孤立無援のAusnahmeであるという意識だけが深まっていきます。

束縛されて
手も足も出ない空虚(うつろ)な青春
こまかい気遣い故に僕は
自分の生涯をだいなしにした
       アルチュール・ランボー(金子光晴・訳)

ユートピアの実現! この祝祭的プロジェクトに多くの人が結集・連帯するヴィジョンを私は未だ断念しきれないでいます。これは未練にすぎないのでしょうか。

新しき村の魅力

曲がりなりにも村で生活している私が言うのも変ですが、現在の新しき村には魅力がありません。おそらく長い失業状態に疲れ果て「とにかく最低限安定した生活がしたい」という人以外は今の村で暮らしたいなどと思わないでしょう。

村の農業労働は必ずしも楽ではありませんが、さりとて重労働というほどでもなく、規定の時間内の労働さえ果せば「食うに困らぬ生活」を確保することができます。敢えて今の村に魅力を探せば、その程度のことしか見当たらないのが現状です。これは実に情けないことだと思います。言うまでもなく、こんなものが新しき村本来の魅力である道理がありません。

新しき村の精神、もしくはその理念は人間(特に若者)の根源的情熱を鼓舞するものであり、そこにこそ新しき村本来の魅力があると私は思っています。何故、今の村ではその魅力が失われてしまったのか。その原因を過去に遡って詳細に分析することも必要ですが、今の私はむしろ前向きに新しき村本来の魅力を取り戻すことに力を注ぎたい。すなわち全ての人間が「そこで生活したい!」と心から思うような村づくりです。

これが極めて困難なプロジェクトであることは言うまでもありません。しかし決して不可能だとは思いません。確かに今の村は閉塞的で活気がありませんが、情熱溢れる人々が結集すれば必ず道は開けます。私はその道を「新生会」の活動によって切り開こうと思っているわけですが、「一から新しき村をつくってやろう!」という気概のある人はいないでしょうか。「きっといる!」と私は信じています。

祝祭というドラマについて

人間が生きる。それは他の生物が生きるのと全く質を異にしています。言うまでもなく、優劣の差ではありません。端的に次元が違うのです。

人間が生きる。するとそこにドラマが生れます。言い換えれば、人間として生きる限り、その生がドラマと化すことから逃れることはできないのです。勿論、地味で平凡なドラマもあれば、多くの人達に注目される華やかなドラマもあります。しかし、誰からも注目されなくても、それが一つのドラマであることに変わりはありません。そして人生がドラマであるならば、世界は一つの劇場と化すでしょう。

私にとって、その自覚が生の出発点になります。それは言わばフォーマットです。すなわち生そのもの=自然を劇場にフォーマットして初めて、人はそこにドラマとしての生を書きこむことができるのです。

ただし、ここで留意すべきことは、「世界=劇場」という自覚を個人に限定することは面白くないということです。尤も、個々の小劇場でも素晴らしいドラマは可能でしょう。しかし私はむしろ、個々のドラマが統合されていく大劇場を望みます。そこにおいてこそ、本当に面白いドラマが実現されると思うからです。一人芝居も面白いですが、多くの人間が渦巻くドラマの方が遥かに面白いのではないでしょうか。それは全ての人間が出演者であると同時に観客でもあるような祝祭のドラマに他なりません。

祝祭共働態とエリート主義

先日或る女性から、「新しき村でない人々は本当の人間として生きていない」と言っているような感じがする、という批判的意見を戴きました。言うまでもなく、それは誤解であり、私は以下のような弁明をしました。

私は「新しき村」を決して閉鎖的に考えておらず、「人間として本当に生きる」ことを求める全ての人達に開かれた場にしたいと思っています。ですから、「新しき村でない人々の生き方を否定する」というようなことは決してありません。…新しき村の外でも人間として本当に生きようと懸命に頑張っている人はたくさんいるでしょう。私はそれを認めます。ただ、もしそうした人達が一つの連帯の輪を築くならば、そこが「新しき村」になると思っています。つまり、「新しき村」とは埼玉の村に限定されるものではないのです。勿論、世界各地に生れるであろう連帯の輪を「新しき村」と名付ける必要はありません。私にとって「新しき村」とは、「人間として本当に生きることを求める人達が連帯する場」の一つの象徴にすぎません。

実際、私の夢見るユートピアとしての祝祭共働態は全ての人間の生が輝く連帯の輪に他なりません。しかし生の輝きは人それぞれです。それは主観的なものですから、客観的にその優劣を比較することには意味がないでしょう。とは言え、例えば「草野球を楽しんでいる人の生の輝き」と「プロ野球選手の生の輝き」には明らかに質的な違いがあります。私はこの差異を「全ての人がナンバー・ワンの輝きを求めなくてもいい。それぞれの生の輝きがオンリー・ワンなのだ」と言うことで御茶を濁したくありません。むしろ私は敢えて「祝祭共働態では全ての人間がナンバー・ワンの生の輝きを求めるべきだ」と主張したいと思います。そもそもそれぞれの人間がオンリー・ワンであることは当然のことであり、そんな次元に安住していては到底生を輝かせることなどできないでしょう。勿論、全ての人間がナンバー・ワンになれる道理はありません。勝者がいれば必ず敗者がいます。しかし、そこにそれぞれのオンリー・ワンのドラマが生れてくるのではないでしょうか。私はナンバー・ワンを求めることなくしてオンリー・ワンはあり得ないと思っています。

何れにせよ、私は全ての人間が「最高の生の輝き」を求めることを期待しています。ただ先述したように、「何が最高の生の輝きか」ということは客観的に決められる(優劣の)問題ではありません。しかし、それぞれの人間が「最高の生の輝き」を主体的に求めるということは祝祭共働態に不可欠です。少なくとも「最高の生の輝き」を断念し、中途半端な次元で妥協している人達との連帯はあり得ないでしょう。その点、祝祭共働態はエリート主義に基くものだと誤解される可能性があります。弱者切捨のようなことは決して本意ではありませんが、やはりそれぞれの人間の求める「生の輝き」には質的な差異があることは認めざるを得ないと思います。祝祭共働態は全ての人間に開かれていますが、それを本当に求める人は自ずと限られてくるでしょう。

公益法人としての新しき村

新しき村は公益法人(財団法人)です。そして公益とは公共の利益、すなわち「世のため、人のためになること」でしょう。では、新しき村の目的とすべき公益とは何か。それは「寄付行為」に明記されているように、「理想社会の実現」に他なりません。しかし、今の村の現状において、果してその目的を達成するための活動がなされているでしょうか。私は甚だ疑問に思わざるを得ません。もし今の村は公益活動をしていると言う人がいるなら、それは一体何か。そのことを確かめることが、今度の戦いにおける論点の一つになると思います。

おそらく想定される反応の一つは、「新しき村が理想社会の実現という公益事業を目的としていることについては異論の余地はなく、改めて問う必要はない。しかし一気にそうした観念的もしくは抽象的な目的を成就することなどできない。現実になすべきことは、先ず村を経済的に安定させることだ。その結果、村の経済が磐石なものになって初めて、現実的な公益事業に着手できるだろう」というものだと思われます。しかし、こうした所謂二段階論は正しいでしょうか。

確かに人助けをするためには、先ず人助けができるだけの力をつけなければなりません。人助けする力もないくせに人助けしようとすることは無謀、というより滑稽でしょう。しかし、だからと言って、人助けを棚上げすることは許されるでしょうか。「善きサマリア人の譬え」を引き合いに出すまでもなく、少なくとも人助けを目的(存在理由)とする公益法人にとって、それは致命的なことだと思われます。それは言わば家を建てることを目的とする大工が、今はその能力がないという理由で家を建てないのに等しいでしょう。そもそも未だ家を建てる力のない者を大工と呼ぶことはできません。同様に、もし今の村に未だ人助けをするだけの力がないのなら、それは実質上公益法人の名に値しないと言わざるを得ません。

勿論、今は無力でも、将来その力をつけていくことはできます。現在公益法人としての機能を果していない村であっても、真に公益的な活動をしていく村に生長していくことは可能でしょう。しかし,それは「先ず経済的な力をつけてから」というような二段階論的なことではないと思います。問題は、経済的な発展もさること乍ら、今の村にそうした生長への可能性があるか、ということです。果して今の村に公益法人としての自覚があるか――残念乍ら、それさえ疑わしいのが偽らざる現状です。