公益法人としての新しき村
新しき村は公益法人(財団法人)です。そして公益とは公共の利益、すなわち「世のため、人のためになること」でしょう。では、新しき村の目的とすべき公益とは何か。それは「寄付行為」に明記されているように、「理想社会の実現」に他なりません。しかし、今の村の現状において、果してその目的を達成するための活動がなされているでしょうか。私は甚だ疑問に思わざるを得ません。もし今の村は公益活動をしていると言う人がいるなら、それは一体何か。そのことを確かめることが、今度の戦いにおける論点の一つになると思います。
おそらく想定される反応の一つは、「新しき村が理想社会の実現という公益事業を目的としていることについては異論の余地はなく、改めて問う必要はない。しかし一気にそうした観念的もしくは抽象的な目的を成就することなどできない。現実になすべきことは、先ず村を経済的に安定させることだ。その結果、村の経済が磐石なものになって初めて、現実的な公益事業に着手できるだろう」というものだと思われます。しかし、こうした所謂二段階論は正しいでしょうか。
確かに人助けをするためには、先ず人助けができるだけの力をつけなければなりません。人助けする力もないくせに人助けしようとすることは無謀、というより滑稽でしょう。しかし、だからと言って、人助けを棚上げすることは許されるでしょうか。「善きサマリア人の譬え」を引き合いに出すまでもなく、少なくとも人助けを目的(存在理由)とする公益法人にとって、それは致命的なことだと思われます。それは言わば家を建てることを目的とする大工が、今はその能力がないという理由で家を建てないのに等しいでしょう。そもそも未だ家を建てる力のない者を大工と呼ぶことはできません。同様に、もし今の村に未だ人助けをするだけの力がないのなら、それは実質上公益法人の名に値しないと言わざるを得ません。
勿論、今は無力でも、将来その力をつけていくことはできます。現在公益法人としての機能を果していない村であっても、真に公益的な活動をしていく村に生長していくことは可能でしょう。しかし,それは「先ず経済的な力をつけてから」というような二段階論的なことではないと思います。問題は、経済的な発展もさること乍ら、今の村にそうした生長への可能性があるか、ということです。果して今の村に公益法人としての自覚があるか――残念乍ら、それさえ疑わしいのが偽らざる現状です。
おそらく想定される反応の一つは、「新しき村が理想社会の実現という公益事業を目的としていることについては異論の余地はなく、改めて問う必要はない。しかし一気にそうした観念的もしくは抽象的な目的を成就することなどできない。現実になすべきことは、先ず村を経済的に安定させることだ。その結果、村の経済が磐石なものになって初めて、現実的な公益事業に着手できるだろう」というものだと思われます。しかし、こうした所謂二段階論は正しいでしょうか。
確かに人助けをするためには、先ず人助けができるだけの力をつけなければなりません。人助けする力もないくせに人助けしようとすることは無謀、というより滑稽でしょう。しかし、だからと言って、人助けを棚上げすることは許されるでしょうか。「善きサマリア人の譬え」を引き合いに出すまでもなく、少なくとも人助けを目的(存在理由)とする公益法人にとって、それは致命的なことだと思われます。それは言わば家を建てることを目的とする大工が、今はその能力がないという理由で家を建てないのに等しいでしょう。そもそも未だ家を建てる力のない者を大工と呼ぶことはできません。同様に、もし今の村に未だ人助けをするだけの力がないのなら、それは実質上公益法人の名に値しないと言わざるを得ません。
勿論、今は無力でも、将来その力をつけていくことはできます。現在公益法人としての機能を果していない村であっても、真に公益的な活動をしていく村に生長していくことは可能でしょう。しかし,それは「先ず経済的な力をつけてから」というような二段階論的なことではないと思います。問題は、経済的な発展もさること乍ら、今の村にそうした生長への可能性があるか、ということです。果して今の村に公益法人としての自覚があるか――残念乍ら、それさえ疑わしいのが偽らざる現状です。