新・ユートピア数歩手前からの便り
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補足:ヤクザとカタギ

久し振りに高倉健主演の任侠映画を観た。『昭和残侠伝 破れ傘』。シリーズ最終作とのことだが、それに恥じぬ見事なマンネリ振りだった。それにしても私はどうして任侠映画に魅せられるのか。尤も、任侠映画はやがて廃れて実録路線に取って代わられた。私はそこに義理人情を重んじる理想主義から仁義なき現実主義への転換を見る。所詮、人は色と欲。社会で成功するためには敵対者に勝たねばならぬ。それ故、平気で敵対者を殺す。その剥き出しの欲望に多くの人は共感した。それが人の「本当」の姿だ。義理人情に縛られて生きるのは噓っ八だ。とは言え、その共感はあくまでもスクリーンの中だけに限られる。実際、ヤクザの「仁義なき戦い」にリアリティを感じたとしても、殆ど誰もヤクザになりたいなどとは思わない。むしろ、反社会的な暴力の横行に怯えて、社会的な秩序の中に逃げ込もうとする。そして、ヤクザの現実はケダモノの「本当」にすぎず、カタギの穏やかな生活にこそ人の「本当」があると思う。この感覚を任侠映画は共有している。花田秀次郎も風間重吉もカタギとして暮らすのが「本当」だと信じている。それにも拘らず、彼等はカタギとして生きられない。義理人情に生きる渡世人になってしまう。考えてみれば奇妙なことだ。義理人情のために憎んでもいない人と殺し合いをする。実に不自然だ。故郷でカタギとして幸福に暮らしたいのに旅に出ざるを得ない。任侠映画の渡世人は全て故郷喪失者だ。その異郷を目指すことを余儀なくされる生き方に私は深く共鳴する。

補足:実存と構造

実存は本質に先立つ。実存の本質(あるべき自己)は歴史の中で自由につくられる。そう言われても途方に暮れるばかりだ。設計図なしで自分の家を建てよと言われるに等しい。神の設計した本質から逃走した実存主義は根無草となった。されど生きていくのに根は不可欠だ。そこで構造という根が求められた。実存主義は構造主義に接続する。実存主義が否定した本質を構造として受け取り直す。では、本質と構造はどう違うのか。どちらも根源的なBildであることに変わりはない。ただ、本質がUrbildとして実存を規定し続けるのに対し、構造はUrbildであると同時にVorbildを求めて絶えず発展していく。従って、本質主義は自同律に安住できるが、実存主義を核とする構造主義は常に自同律の不快を胚胎している。私はその発展する構造を元型と称して本質と区別したい。厳密に言えば、本質も単なる固定した設計図ではなく言わば動的平衡を維持するものだが、元型は更にその平衡をディコンストラクトして不断に型破りするものと理解できる。元型は故郷喪失者の居場所であり、そこが異郷の起点となる。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(10)

誰もが都会に憧れるわけではない。田舎暮らしを愛するものの、田舎では食っていけないから嫌々都会に出ている人もいるだろう。経済的な問題さえ解消すれば、あるいは田舎暮らしを望む人の方が多くなるかもしれない。そこには自然に即した人本来の生活のカタチ(元型)がある。例えば、宮澤賢治が「雨ニモマケズ風ニモマケズ」と歌ったデクノボウの生活。しかし、現実にはデクノボウとして生活するのはほぼ不可能だ。食っていけない。そもそも田舎暮らし自体、今や金持か潤沢な年金生活者にしか許されないものと化している。別に農業で食っていく必要はない。投資などで金を稼いで、その余暇に自分たちの食べる分程度の米や野菜づくりを楽しめればいい。言わば土に親しむ娯楽としての農作業。さぞ楽しいことだろうが、そんなところにアルカディアはない。むしろ、それはパラダイスだ。場所は田舎でも、そこは都会の延長にすぎない。と言うより、田舎暮らしを満喫する富裕層は決して「便利で豊かな生活」を棄てることなく農村と都会の往還を楽しんでいる。実に羨ましい悠々自適の生活だが、これを一般化することはできるだろうか。できなければ、農都往還のパラダイスは一部の富裕層にのみ許された特権的な理想に堕していく。当然、私は特権的なパラダイスなど容認しないが、パラダイスの追求そのものは否定しない。さりとてアルカディアに徹するデクノボウの生活も否定しない。愚直に元型に忠実であろうとする生活は実に尊い。とは言え、元型は人の在り方のUrbildではあるけれども、それに基づいてVorbildを求める可能性も棄て切れない。単純に、Urbildに生きるアルカディアとVorbildを求めるパラダイスという対比で考えてもいい。世界を腐敗させるパラダイスの危険性を考慮すれば、アルカディアに徹するデクノボウの生活を持続可能なものにする道を摸索する方が賢明かもしれない。されど、その道を切り拓くためにも、アルカディアに閉塞すべきではないと私は思う。デクノボウにとっても故郷喪失は不可避となる。故郷のアルカディアは都会のパラダイスに接続しなければならない。ただし、それは故郷の都会化でもなければ都会の故郷化でもない。単なる農都往還のグリーンツーリズムを超える全く新しい場所の実現!それは異郷のユートピア、すなわち人が人間として生きる祝祭共働態に他ならない。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(9)

率直に言って、私はアルカディアを究極的な理想とは考えていない。されどアルカディアを消滅させてはならぬと思っている。故郷のアルカディアから都会のパラダイスへ。これはほぼ不可避の流れであるものの、パラダイスは深刻な問題を孕んでいる。現代社会の腐敗はパラダイスの果てなき追求に起因していると言ってもいい。もし人が自然に即した生活を理想とするアルカディアに安住できたなら、世界は楽園のままだっただろう。しかし、楽園は失われた。人はそれを「自然に縛られた生活」と見做し、自然を改作することによってより豊かで自由な生活を求めたからだ。自然の改作とは何か。それは神が創造した自然の元型を人の手によって組み替えることだ。例えば、作物や家畜の品種改良によって生産性を向上させたり、川の流れを変えて災害を防いだりする。今後も遺伝子組み換えやAIの技術の発展などで世界は益々人が快適に暮らせる場所になっていくに違いない。悪いウィルスや害虫は完全に遮断され、夏は涼しく、冬は暖かい、人に都合のいい自然環境がつくられる。ところが、現実は理想通りにはいかない。人工楽園は逆に環境破壊をもたらしている。やはりパラダイスの追求には致命的な無理があるのだろうか。実際、従来通りの「便利で豊かな生活」の発展を求め続けることに危機感を懐いている人たちは脱成長を唱えている。それは或る程度、自然楽園としてのアルカディアへの回帰を意味する。腐敗し続ける世界を救う道はそれしかないのか。確かに、パラダイスの魔力に対抗し得るのはアルカディアの理想しかない。ただし、アルカディアが今や失楽園であることも厳然たる事実だ。もはや後向きの運動はあり得ない。あるとすれば、前向きの運動だ。回帰ではなく再生。それは前向きの反復に等しいが、単なる自然楽園を超えている。いや、むしろ人工楽園に近いと言うべきかもしれない。アルカディアの尾をパラダイスが噛み、パラダイスの尾をアルカディアが嚙んでいる。その奇妙な円環がユートピアの理想に転化していく。故郷のアルカディアと都会のパラダイスとの対立は意味を失い、全世界が異郷となる。異郷としてのユートピア、それは現実にどのように機能するのか。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(8)

サルトルが「実存は本質に先立つ」と述べた時、自由の風が吹いた。本質主義は人を束縛する。男はかくあるべし。女はかくあるべし。日本人はかくあるべし。「べし」の設定に反抗する無神論的実存主義は人を自由にする。男は女のように生きていいし、女も男のように生きていい。日本人も西洋人のように生きていい。されど、何をしてもいい世界はニヒリズムを生む。人は自由に溺れ、再び「べし」を求め始める。さりとて、またぞろ本質主義の故郷に戻るわけにはいかない。確かに、故郷には自然に育まれた本来のカタチがある。それを本質とする生活は幸福でもあるだろう。しかし、その幸福は「本当」だろうか。私は苦悩する。余談ながら、過疎の村の厳しい生活を描くドキュメンタリイを観たが、どうして村の人口は減少し続けるのか。都会の派手な生活への憧れもあるだろうが、村の自然に即した生活を愛している人も少なくない。村の生活と都会の生活。どちらが「本当」なのか。これはアルカディアとパラダイスという二つ理想の葛藤でもあるが、ここではアルカディアの消滅を問題にしたい。村の生活を愛しているのに、できればずっと生まれ故郷の村で暮らしていきたいと思っているのに、どうして村を棄てねばならぬのか。経済的に村では食っていけないからだ。そこで企業誘致やら観光化などの新しい産業が検討されたりするが、それは言わば村の都会化であり、本末転倒だと言わざるを得ない。村は村本来の生活を維持したままで活性化すべきだ。とは言うものの、そんなことが可能だろうか。故郷のアルカディアは都会のパラダイスに圧迫され続けている。この窮地は如何にして打開されるのか。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(7)

型破りの人生に憧れるとしても、自らの元型を知ることが先決問題であろう。元型を無視した人生は形無しになる。では、如何にして元型を知るか。学問的には二つの道が考えられる。精神分析学と民俗学だ。三島由紀夫はそれらに「奥底にあるものをつかみ出す」思考方法を見出している。我々の精神や生活の奥底にあるもの、それが元型だと言ってもいい。元型は「私」の生や存在の在り方を規定する。DNAの情報(ゲノム)なども元型に含まれるだろう。言わば「私」の設計図であり、それに基づく場所が故郷だ。では、故郷に「本当」の生はあるのか。元型がモノの本来のカタチであるならば、当然そう考えることもできる。あらゆるモノは元型が先にあって存在する。人工的なモノなら、職人が元型を構想して、それに基づいて制作される。自然のイキモノなら、神が元型を設定していることになる。周知のように、サルトルはそのような神を否定して「実存は本質に先立つ」と主張したが、私は本質と元型を区別したい。ただし、人以外のイキモノにそのような区別はない。バラの元型、タコの元型、キリンの元型はそれぞれの本質となっている。神話的に言えば、人も始源の楽園においては神の設定した元型を自らの本質として存在していた。しかし、知恵の樹の実を食したことで元型をそのまま本質とすることができなくなり、以後ずっと元型からズレ続けている。とは言え、神が設定したかどうかは別として、「人はかくあるべし」という元型はある。実存は本質に先立つが、元型は実存に先立っている。つまり、人の実存は元型と本質との間にあり、元型からズレながら本質をつくっているのだ。元型の故郷から本質の花咲く異郷へ。故郷に「本当」の生を求める道もさることながら、私は敢えて異郷に「本当」の生を摸索する。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(6)

元型とは、そのモノの力を最大限に発揮できる本来のカタチだ。しかし、生きていると、人はその元型から否応なくズレてしまう。そのズレの程度に応じて、人の力量は決まる。例えば、体格に恵まれても、元型からのズレが大きければ生来の力を発揮することができない。逆に体格に恵まれなくても、自分の元型をフルに活用できれば体格に恵まれた人以上の力を発揮することができる。従って、自然に与えられたそれぞれの元型を見極めることが重要となる。元型を見失った人生は形無しと化す。ただし、元型に拘り過ぎると型崩れを起こす。元型は固定したものではなく、絶えず発展するダイナミックなものと理解すべきだろう。すると、一つの逆説が生じてくる。ダイナミックな元型はそれ自体の型破りを欲するという逆説だ。もし元型を固定したものと理解すれば、それに立脚した人生は極めて安定したものとなる。設計図通りに緻密に建築された家のように。多くの人はそうした安定を歓迎するかもしれないが、固定した元型を束縛と感じる人もいるに違いない。卑近な例として日本人の元型の一つを黒髪に固定すれば、それ以外の髪の色は日本人を形無しにする。確かに、茶髪や金髪の日本人を目にすると「日本人のくせに…」と不快に思うことがある。さりとて「日本人なら黒髪にすべし!」と固定化されるのも不快ではないか。たとい元型が自分本来のカタチだとしても、それに縛られる必要はない。故郷も然り。故郷という場所に自分の元型があり、そこが本来の居場所だとしても、別の場所に自分の新たな可能性を求める自由はある。言うまでもなく、その自由は形無しの人生に転落する危険性を孕んでいる。それでも敢えて型破りの人生を望むべきか。故郷喪失は元型の限界を乗り越える試みでもある。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(5)

幼い頃、近所の世話好きの兄ちゃんが野球を教えてくれた。ボールを渡されて、「思い切り投げ込んで来い!」と言われた。その通りにした。すると思いの外キレのいい速球が投げられた。「ナイスボール!」と兄ちゃんは叫んだ。私は野球に病みつきになった。しかし、それから欲が出た。もっと速い球を投げたい。もっとカッコよく投げたい。結果、私は最初に無心でボールを投げた時のフォームを見失い、自然に投げられなくなった。何事にも本来のカタチがある。それを失えば途方に暮れるしかない。故郷喪失も同様ではないか。人の本来の生活の在り方、それは故郷にある。勿論、幸せな幼年時代ばかりではない。故郷には悲惨な思い出しかない場合もある。しかし、そんな予め失われた楽園としての故郷でも、いや自分には無縁の楽園だからこそ、故郷は特別な場所として理想化される。汚れっちまう前の純白の場所。そこには無為自然の元型(archetype)がある。世界の腐敗とそこで暮らす人の堕落は全て、その元型の喪失に起因するものと考えられる。では、失われた故郷と共に元型を取り戻せば、人の暮らしの本来のカタチも回復できるのか。容易ではないが、決して不可能ではないと思う。実際、故郷回復を求めて地道に運動している人たちがいる。アルカディアの理想を再生しようと頑張っている人たちだ。それに対して、敢えて故郷を超える新天地を求める人たちがいる。故郷に限界を感じ、アルカディアとは別の理想実現に情熱を注ぐ人たちだ。故郷か、新天地か。表層的には、伝統的な古き良き場所とそこを開発・発展させることとの対立のように見えるが、問題の根はもっと深い。深層的には、元型の意味もしくは可能性が問われている。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(4)

「本当」に生きたい。されど、何が「本当」なのか。事実は或る程度わかる。尤も、最近は巧妙なフェイクが溢れているので、何が事実かを見極めるのも容易ではない。過去の歴史的事実も再解釈される。悪と思われていた人が善になり、善と思われていた人が悪になる。ホロコーストの事実を否定する動きさえあるが、そのこと自体が一つの事実となる。組織的な隠蔽や捏造によって一部の人たちにだけ都合のいい社会がつくられる。そして、様々な「都合のいい事実」が世界を腐敗させる。どうすれば世界の腐敗は終わるのか。そこで事実の渦から真実が切望される。たとい自分たちに都合が悪くても、真実は明らかにしなければならない。真実が生を輝かせる。しかし、それは「本当」に生きることではない。真実の生の輝きは言わばゾーエーの輝きではあるものの、「本当」の生はそれに尽きるものではない。例えば、空腹の苦しみと満腹の悦びは真実だが、「本当」の生は常にその真実からズレていく。そのズレは「虚」と言ってもいい。「本当」が「虚」だと言うのは理解し難いことなれど、真実に生きることでは満たされない何かがある。故郷に留まる真実と故郷を出る真実。そうした二つの真実の葛藤から「本当」が生み出される。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(3)

歌島はアルカディアだ。しかし、現実には違う。海の幸に恵まれているとは言え、漁業だけで生活していくのは苦しい。たとい食うに困ることはないとしても、もっと豊かな暮らしは島の外にいくらでもある。だから、大半の若者は大都会に出て行く。そこには様々な欲望を満たす娯楽が渦を巻いている。若者たちにとって都会はパラダイスだ。その刺激的な快楽に生の充実を得る。ただし、パラダイスを享受できるのは金持だけだ。パラダイスは格差を生み出すことで成り立っている。それ故、社会の底辺に転落しないように人は必死に労働することを余儀なくされる。それでも「いつか社会のテッペンに立つ!」という夢のあるうちはいいが、やがて金を齷齪稼ぐだけの生活に疲れて充実感を失っていく。「こんな筈じゃなかった…」と嘆いても、もう遅い。パラダイスの魔力から解放されるのは難しく、絶望的に都会の片隅で生きていくことになる。最悪の場合にはホームレスとなるが、その時、アルカディアの理想が不意に甦るかもしれない。歌島の自然に即した生活。都会のような華やかさはないが、貧しいながらも人間らしい生活があった――そんな気がしてくる。されど、それはパラダイスからの転落者の願望の投影にすぎない。現実の歌島は失楽園であり、帰るところにあるまじや。では、どうするか。パラダイスにしがみついて生きるしかないのか。「生活の天才」である新治には全く無縁の問題がここにある。

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