新・ユートピア数歩手前からの便り
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補助輪の幻

狂っているのかもしれないが、私の目には補助輪が見える。自転車を自由に乗りこなせるようになるまで装着する補助輪だ。神、国家、法律、貨幣……。世界には様々な補助輪がある。自転車の補助輪はやがて邪魔になるが、世界の補助輪はなかなか不要にならない。それどころか益々強固になっていく。誰もそれらが不必要になる日がやって来るなどとは夢にも思わない。むしろ補助輪とは認めず、社会の維持には不可欠だと信じている。神についてはカルトの狂信者に対する嫌悪と憎悪から無神論が一般的になっているが、「本当」の無神論に耐えられる人は殆どいない。神を補助輪と見做すことは言わば「神の前で、神と共に、神なしで生きる」ことに通じているが、その逆説に満ちた真理は容易に理解し難い。国家、法律、貨幣についても然り。それらの死滅を求めることは今のところ荒唐無稽でしかないが、「人が人間になる」ドラマには不可欠だ。私はテロリストであろうか。もはやテロリストになるだけの若さも元気もないが、テロリストの思耕は中途半端な反撥でしかなく、補助輪がなくなる世界のヴィジョンを全く徹底していない。凡百のテロリズムの愚を繰り返さないためにも、せめてそのヴィジョンだけは明確にしておきたいと思う。

曖昧な境界

問題を単純化して言えば、カイラクはゾーエーの充足に、ケラクはビオスの充実に、それぞれ基づいている。ただし、ゾーエーとビオスを二元論的に考えることはできないので、どうしてもカイラクの同心円状にケラクを想定することになる。ゾーエーもビオスもイノチであり、カイラクもケラクも生の輝きであることに違いはない。その境界は何か。空腹を満たすことは明らかにカイラクだが、単なる食欲を超える美食の欲望を満たすことがケラクなのか。余談ながら、『晩酌の流儀』という人気ドラマがあるが、主人公の女性は最高の晩酌を楽しむためにストイックな生活をしている。どんなに美味しそうなものが目の前にあっても間食は控え、勤務後に汗を流して晩酌に備える。日常生活の一切は晩酌の一点に収斂していく。この女性の晩酌の至福は果たしてケラクなのか。質素な生活から贅沢な生活へ。ただ生きて在るギリギリの生活から生きていることを楽しむ余裕のある生活へ。かつて私は後者にケラクがあると思っていたが、今は違う。一口にゾーエーの充足と言っても階層がある。質素な充足もあれば、贅沢な充足もある。しかし、どちらもカイラクの閾を超えるものではない。貧乏人の狭いながらも楽しい我が家の幸福も、金持の豪邸に住む幸福も、共にカイラクだ。尤も、贅沢な充足は必ずしも金で買えるようなものではない。大金を費やしただけの生活は所謂「成金趣味」であり、真の贅沢には程遠いものだ。とは言え、魯山人のような粋人の生活に真の贅沢があるとしても、やはりそれもカイラクだと思われる。率直に言って、贅沢で粋な生活にケラクがあると思ってきたが、それは畢竟「洗練されたカイラク」にすぎない。ケラクは生活を超越している。カイラクとは質的に全く異なるものの、ケラクの本質は未だよくわからない。

通俗的エピキュリアンの主張

「皆さん、皆さんは毎日々々何の為に働いているのですか。私達はこの世に働きに来たと皆云います。馬鹿な人間は。そしてずるい人間も云います。そしてその人はどうかと云うと自分は働きたくないのです。働かないで、女とでも馬鹿騒ぎがしたいのです。しかし自分が働かない為には他人を働かさねばならない。だから働け働けと云うのです。しかし皆さん。我々は働いても、矢張り死ぬのです。いくら苦しんだからと云って、何にも御利益はないのです。正直なことを云うと、我々はよろこんで生きてゆかねば損なのです。どうせ死ぬのです。つまらぬことをくよくよ思っていても、どうせ死ぬのです。いくら汗水たらして働いてもどうせ死ぬのです。死んでしまえばそれでおしまいです。死んでから極楽があるとか、地獄があるとか云うのは噓つきが、皆さんを騙して働かす為です。騙されてはいけません。快楽こそ我々に忠実なものです。……愉快に暮らすと云うことが、我々の与えられた唯一のよろこびです。人々は快楽を卑しみすぎています。……この世に生きている間は短いのです。出来るだけ楽しまないとあとで後悔しても駄目です。思い出してよろこべる種を若いうちに沢山おつくりなさい」

 

これは実篤の『第三隠者の運命』という小説に登場する或る男の演説だが、「生命尊重」の世界では大半の人がその主張に賛同するに違いない。言い換えれば、「生命尊重以上の価値」が失われた世界では快楽以外に人生の意味はない。人生は楽しむためにある。苦しむためではない。当然であり、極めて健全な人生観であろう。できるだけ大きな快楽を得るためには健康でなければならない。健康第一。健康を害してまで無理をする必要など全くない。ましてや「イノチを懸ける」ほどのことは皆無だ。それにも拘らず、「生命尊重」の水平的快楽では「本当」に生きる充実が得られない人たちがいる。単なる異常者にすぎないのだろうか。「生命尊重」の水平的快楽と「生命尊重以上の価値」を求める垂直的快楽。私は以前に、前者をカイラク、後者をケラクと区別したが、二つの快楽の間の溝は深まるばかりだ。たとい誰にも支持されなくても、ケラク追求の物語は続く。

誰も支持しない愚痴

「生命尊重」は正しい。「生命尊重」に徹していれば戦争は起きない。「生命尊重以上の価値」がいつも戦争を起こす。天皇陛下にイノチを捧げる。それは今や狂人の世迷言でしかない。かつて神であった天皇には「生命尊重以上の価値」が認められた。今やそれは迷信とされている。つまり特攻隊の若者たちは迷信に惑わされて散華した愚か者だったということになる。全く嗤うに嗤えない話ではないか。何ともやりきれない気分に陥る。などてすめろぎはひととなりたまひし。されど覆水盆に返らず。天皇は人となり、日本国の象徴となった。象徴に「イノチを懸ける」ことができるか。馬鹿馬鹿しい。かくて「イノチを懸ける」こと一切が馬鹿馬鹿しくなった。神は死に、「生命尊重以上の価値」も消え失せた。馬鹿馬鹿しい世の中が続いている。

補足:遠ざかる大調和

私の思耕はどうも時代の流れに逆行しているようだ。孤立が深まる。その卑近な一例として最近の高校野球に対する違和感が挙げられる。すなわち、熱中症対策としてクーリングタイムや炎天下の時間帯を避けた二部制などの導入に対する違和感だ。今の高校野球はかつて私が野球少年だった頃に熱中していた高校野球ではない。明らかに変質している。因みにお笑い芸人の大御所である明石家さんま氏も先日同様の違和感を表明したが、たちまち非難が殺到して大炎上してしまった。大略「さんまは最近の気候変動の深刻さを全く理解していない。今の夏の暑さは昔の夏の暑さとは格段に違う。この殺人的に危険な酷暑の下でプレイする高校球児の健康を考慮すれば、少しでも暑さを凌ぐ対策が行われるのは当たり前だ」という非難。この非難は間違っていない。いや、極めて正当な非難だと言える。高校野球の熱中症対策に違和感を覚える方がどうかしている。それにも拘らず、私には違和感がある。高校野球に限らず、何事も「健康第一」に考える社会の風潮に違和感がある。今や殆ど誰も何かを「死に物狂いでやる」ということがなくなってしまった。常に自らの健康を心配している。当然のことだ。極めて当然のことではあるけれども、私には違和感がある。「イノチを懸ける」ことのない社会に違和感がある。「生命尊重」は健全な社会の証かもしれないが、私は「生命尊重以上の価値」を求める。勿論、たかが野球に「イノチを懸ける」のは馬鹿だ。そこに「生命尊重以上の価値」などはない。だから、私は疾うの昔に熱烈な野球少年ではなくなっている。今の高校野球に対する違和感も当時の野球に懐いていた絶対的な情熱へのノスタルジアによるものにすぎないだろう。しかし、「生命尊重」に終始する社会に対する違和感は否めない。この違和感がある限り、「されど仲良き大調和」は遠ざかるばかりだ。

補足:白無垢のディレンマ

花嫁衣裳の白無垢には「嫁ぎ先の家風に染められます」という意味があるらしい。イマドキの女性にとってはトンデモナイ話だろうが、かつて奥村チヨは「あなた好みのオンナになりたい」と懇願し、テレサ・テンも「あなたの色に染められる幸せ」を歌っていた。それは明らかに男性に都合の良い話だが、男女の別を問わず、「何かの色に染められる幸せ」は今でも生きているのではないか。校風とか社風とか、それぞれに憧れの色がある。とは言え、現実には嫌な色に否応なく染められてしまうことが多い。そもそも「親ガチャ」という言葉があるが、生まれた瞬間から、いや生まれる以前から両親の色(DNA)に染められている。金持の色だったら良いが、貧乏人の色だったら堪らない。他にも生まれた場所や時代の色が付着してくるが、誰にも選ぶ権利はなく、ただ受け容れるしかない。ただし、生来の色を自分の好む色に変えていくことはできる。むしろ、そこに人生の意味があると言ってもいい。問題は、何が自分にとって「本当」の色なのか、ということだ。多くの場合、既存の華やかな色に憧れて、それと同じ色に染まりたいと願うのが一般的だが、そこに「本当」の色はあるのか。幸いにも憧れの色に染まることができたとしても、それが「本当」の色なのか。ましてや憧れの色に染まることに挫折して、意に添わぬ色に染まった場合、色の世界に絶望するに違いない。その時、白無垢が理想として甦る。嫌な色に染められた人生を白無垢にリセットする。余談ながら、最近のドラマではタイムループとかで安易に人生をリセットする設定が目立つが、現実にはあり得ない。それにも拘らず、白無垢の理想は依然として多くの絶望者を魅了し続けている。「白無垢は絶望者の阿片にすぎない」と言い切れるのか。

補足:「民衆」への超越

毎年八月十五日が近づくと戦争に関するテレビ番組が多くなる。原爆などの悲惨な被害の歴史もさることながら、かつて日本がアジア各地で行ってきた加害の歴史にはより強く目を覆いたくなる。アジアを西欧列強の支配から解放するための戦争がどうして侵略に堕したのか。正義の日本が残虐で非道な蛮行をする筈がない。そう信じたい気持が募って、加害の歴史を何とか正当化しようとする。戦争になればどの国だって非道なことを余儀なくされる。アメリカも中国も例外ではない。日本だけが悪いのではない。悪いのは戦争だ。しかし、こうした正当化の論理はやはり自己欺瞞であろう。戦争が悪いのは当然であり、それぞれの国にそれぞれの加害の歴史があるのも事実だが、そのことによって日本の罪が相殺される道理がない。私が生まれる以前の罪なれど、私はその罪を背負って日本人として生きていかねばならない。では、日本人は永久に罪人として生きていくしかないのか。或る意味そうかもしれないが、中国や韓国の過度な反日教育を見ていると、それも正しいとは思えない。自虐史観に対する違和感も罪の正当化にすぎないのか。殴った人は忘れても、殴られた人は忘れない。私は日本の罪を忘却するつもりなど全くないが、罪の意識から一歩前に踏み出すことが重要だと考えている。「罪からの一歩」は決して「罪の忘却」ではない。君は被害者、我は加害者也。この真実から如何にして「されど仲良き」という真理を生み出せるか。罪を謝罪し続ける加害者と罪を糾弾し続ける被害者との間に真の和解(仲良き関係)はあり得ない。双方共に自らを超越する必要がある。そこで水平先生は「民衆」への超越を説く。日本人は日本人であることを超越して「民衆」になる。同様に、中国人も中国人であることを超越して「民衆」になる。確かに、「民衆」は罪を超越している。しかし、そこに人として生きる「本当」があるだろうか。垂直先生は異議を唱える。

されど仲良き大調和(10)

垂直先生は狂人ではないか。共に食って、飲んで、笑う「民衆」の地平こそ深層であって、その上に築かれる国民性とか宗教性の層は「虚」にすぎない。ユダヤとアラブ、ロシアとウクライナなどの対立も「民衆」の地平に立てば解消する。「民衆」に国境はない。「民衆」の神を信じる心にも壁はない。「民衆」として生きることにこそ人の幸福がある。垂直先生はその幸福を全く理解していない。これは主に水平先生からの批判だが、どうだろうか。国民性や宗教性を色と見做せば、「民衆」は様々な色を超越する純白だと理解できる。確かに、純白の「民衆」に色の対立など原理的にはあり得ない。もはやアラブ人でもユダヤ人でもない「民衆」は人が共に生きる地平だと言える。しかし、我々はそんな何者でもないニュートラルな「民衆」になれるだろうか。たといなれたとしても、言わば無味無臭の「民衆」として生きることにどんな意味があるのか。争いは確実になくなるが、同時に生の輝きも消え失せる。とは言え、「民衆」を水平化の理想として考えることはできる。色即是空。空即是色。一切を放下して「無の境地」に達すること、あるいは未だ主もなく客もない純粋経験、そこに「民衆」の生活がある。おそらく水平先生はそうした「民衆」への横超を目指しているのであろう。垂直先生もその理想を認めないわけではないものの、敢えて「民衆」からの垂直的超越を求める。ただし、それは竪超とも異なり、垂直的超越の真理は未だ明らかにされていない。「民衆」への横超と「民衆」からの垂直的超越との差異は何か。その理解は容易ではないが、垂直先生にとって「民衆」はやはり表層にすぎないようだ。垂直先生の関心は依然としてアラブ人とかユダヤ人といった色の相剋にある。純白の「民衆」に両者の仲良き関係が成立するとしても、垂直先生は色の相剋に執著する。当然、アラブ人とユダヤ人との対立は続く。それにも拘らず、垂直先生は「されど仲良き大調和」の可能性を諦めない。水平先生は「色の相剋を超越するのは純白しかない」と主張する。垂直先生は純白以外の可能性を摸索し続ける。垂直先生はやはり狂っているのだろうか。

されど仲良き大調和(9)

観光旅行で見知らぬ海外の土地を訪れる。レストランなどで現地の人たちに出遭って仲良くなる。数日間の付き合いで国を超えた相互理解が成立したような気分になる。「何処で生まれ育っても人は同じだ。食って、飲んで、笑えば仲良くなれる」――心からそう思う。そこに「世界の水平化」を見ることができる。善きサマリア人のように、国や宗教の違いに関係なく、困窮している人がいれば躊躇なく助ける。そうした「民衆」のレヴェルで人と人は仲良くなれる。それは「されど」なしの仲良き関係だ。純朴な仲良き関係だと言ってもいい。確かに、それは一つの理想ではある。しかし、垂直先生はそれでは駄目だと言う。そんな表層ではなく深層における仲良き関係を求めるべきだと主張する。もとより表層だから仲良き関係が成立するのであって、深層にまで踏み込めば様々な軋轢が生じるに違いない。せっかくの仲良き関係が崩壊し、喧嘩が始まる。だから賢明な多くの人は互いの深層にまで踏み込むことを忌避し、表層での関係に終始しようとする。その典型がネット上でのSNSの関係であり、そこでは匿名やハンドルネームでの付き合いになる。匿名やハンドルネームは深層にまで踏み込ませないための壁に他ならない。また、最近はAIを最高の友達だと思っている人が増えているそうだが、それもまたAIが表層の友達だからだと思われる。総じて今の若者たちは争いを嫌う余り、結果的に表層の仲良き関係にしがみついているように見受けられる。争いを嫌うのは良い。さりとて少し臆病すぎるのではないか。そこで垂直先生は敢えて「深層に踏み込む勇気を持て!」と叫ぶ。当然、深層に踏み込めば争いになる可能性が高まるが、その軋轢を通じてこそ「されど仲良き関係」が現実のものとなる。実際、喧嘩もしないような相手と「本当」に仲良くなれるだろうか。ただし、喧嘩の後に必ず仲良き関係が成立するとは限らない。表層の仲良き関係に留まっていた方が無難であることは間違いない。この無難な選択を垂直先生は如何にして粉砕するのか。

されど仲良き大調和(8)

図らずも原爆をテーマにしたドラマを観た。マトモに生活する可能性を一瞬に奪われた人たちの悲劇。最近も熊本で大きな地震が起きたが、人災と天災の違いはあれ、何気ない日常をマトモに暮らすことの大切さを痛感させられる。究極的な問題など暇人の戯言にすぎない。そう思われても仕方がない。理不尽なことは色々あるが、とにかくマトモに生活できていることを感謝すべきだ。先ずは自分の生活。それから余裕があれば、周囲の人たちの生活に心を配る。そして、この世界からマトモに生活できない人が全くいなくなるように皆で骨を折る。それが「世界の水平化」であり、それ以上の問題はないように思われる。ところが、垂直先生は敢えて究極的な問題に執著する。この執著は殆ど誰にも理解されない。一般的にはマトモな生活を求める水平的問題以上のものはないからだ。垂直先生は孤立を余儀なくされる。誰よりも人間の連帯を求めている先生が孤立する!どうしてこんなイロニーが生じるのか。垂直先生の孤立は天才数学者の孤立とは違う。天才数学者がどんな問題と格闘しているのか、一般的には殆ど理解されていない。とは言え、凡人の理解を遥かに超えているものの、極めて重要な問題であることは間違いない。その成果が稀に凡人の日常生活に役立つ機器の発明に寄与したりすることもあるが、基本的に日常生活とは絶縁している。天才数学者は非日常的な宇宙の神秘と格闘することにおいて孤立する。それに対して、垂直先生が凡人の日常生活と絶縁することなどあり得ない。そもそも垂直先生は天才ではなく、一介の凡人にすぎない。垂直先生もまた水平的問題と格闘している。ただし、それを垂直の次元において受け取り直す運動に究極的な問題があると確信している。そこに垂直先生の孤立がある。殆ど誰も垂直の次元など必要とはしないからだ。宗教を熱心に信じている人はいるが、凡百の宗教の次元は垂直の次元とは関係がない。垂直先生が執著する垂直の次元とは何か。水平の次元にも仲良き関係はあるが、垂直の次元において受け取り直された仲良き関係は質的に異なっている。もとより「前者が低次で後者が高次」だということではない。究極的な問題は水平的問題を超越するが、超越は優越ではない。垂直先生の孤立を甚だ遺憾に思う。

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