新・ユートピア数歩手前からの便り
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生活苦と人生苦(8)

魂の糧とは何か。ビオスの充実に必要不可欠なものと理解はしているが、ビオスそのものが曖昧になっている。単純に「パン以上の何か」だけでは済まされない。先述したように、肉体の糧もまた「パン以上の何か」であり得るからだ。例えば、詩。詩は明らかに魂の糧だと考えてきたが、生活のための詩、あるいは生活から生まれてくる詩もある。つまり、魂の糧としての詩もあれば、肉体の糧としての詩もある、ということだ。二つの詩をどう見極めればいいのか。アガンベンの次のような考えが参考になるかもしれない。

 

われわれにとってなぜ詩が重要なのだろうか。この問いが瑣末なものではないどころか、絶対的な規準をもつことは、その疑問の答えがどのように提示されているかを見れば、よくわかる。なぜなら、それに答える者たちの立場は、詩を生と完全に一体化するという条件でのみその重要性を主張する人々と、詩の重要性は、逆に生からの孤立という機能だけにあるとする人々のあいだで、きれいに分かれるからである。しかし、どちらの立場も、一見したところの意図を裏切っている。前者の場合、彼らは、生のために詩を犠牲にしてしまい、詩を生に解消してしまうからであり、後者の場合は、結局のところ、生に対する詩の無力を承認しているからである。ロマン主義と審美主義は、あらゆる点で詩と生を混同しているが、それらと同じく根拠がないのは、晴れ晴れとした古典主義と世俗主義である。これらは、詩と生をあらゆる点で区別し、過去の遺産を後生大事に伝えることが人間の使命だとみなす。しかし、そうした遺産は、どんな場合でも決め手となろうとするその要求ゆえに、まさしく無益なものなのである。(ジョルジョ・アガンベン「脱-我有化されたマニエラ」)

 

失恋、受験や事業の失敗、その他様々な挫折――そうした人生の苦境に立たされた時、生きていく力となる詩がある。相田みつを氏の詩がその典型だが、それは魂の糧と言うよりも、やはり肉体の糧であろう。その生命讃歌はゾーエーの充足の一環を成している。もしこの理解が正しいのなら、世の中の殆どの詩は肉体の糧ということになる。これは宗教についても言えることだ。一般的に宗教と言えば魂の糧と見做されるが、「本当」に魂の糧となる宗教は極めて稀だと言わざるを得ない。むしろ、宗教であることを否定する「非-宗教」が魂の糧に値する。どうも歯切れの悪い表現しかできないが、詩にせよ宗教にせよ、肉体の糧と魂の糧との間には質的な断絶がある。肉体の糧は水平の次元で生活していく力となる。それで幸福な生活が築ければ、ゾーエーの円環は閉じる。ところが、その円環を突き破ろうとする力がある。垂直に生きんとするビオスの次元を切り拓く力だ。それが魂の糧に結実する。生活苦が肉体の糧を求めるとすれば、魂の糧を求めるのは人生苦だ。人生苦を特権化するつもりなど全くないが、生活苦を超越しているのは間違いない。余人は知らず。私の究極的関心は人生苦にある。

生活苦と人生苦(7)

「イノチを懸ける」は陳腐なものとなった。かつて祖国にイノチを懸けた英雄は気の毒な洗脳被害者に変わり果てた。もはや「身捨つるほどの祖国」は何処にもない。そんなものなどなくても生きていける。いや、そんなものなどない社会の方がいい。生命尊重。健康第一。「イノチを懸ける」生き方(もしくは死に方)はダサい。時代遅れの愚か者だけがイノチを懸ける。それが常識になった。人生は楽しむためにある。それ故、ひたすらゾーエーの充足に心を砕く。結果、問題の焦点は生活苦に絞られる。健康で経済的にも余裕のある幸福な生活。皆、それを目指す。勿論、世界には未だ至る所に生活苦がある。自分だけ生活苦から脱け出せて喜んでいるようでは駄目だ。世界から生活苦が一掃されないうちは個人の幸福はあり得ない。そう肝に銘じるべきだ。しかし、やがて誰もが生活苦から解放される輝かしい未来が訪れるとして、その幸福な生活にもはや苦悩はないのだろうか。ゾーエーを充足させる肉体の糧だけで人は「本当」に生きていけるのか。私は敢えて生活苦とは次元を異にする人生苦を問題にしたい。それはゾーエーの充足(肉体の糧)を超越するビオスの充実(魂の糧)を要請する。おそらく、こうした人生苦の問題は一般的には理解し難いものだろう。生活苦が克服された幸福な生活から始まる人生苦など虚妄の問題にすぎない。そう思われても仕方がない。加えて「身捨つるべき祖国」のような怪物をまたぞろ復活させる危険性も孕んでいる。それにも拘らず、私はビオスの次元と魂の糧を問題にしたい。殆ど誰にも歓迎されぬ思耕なれど、垂直的な何かが私を駆り立てる。

生活苦と人生苦(6)

人は競馬に一喜一憂しているが、当の馬はどうだろう。本能に駆られて疾走していると思われるが、一着になった時「やったー!」という歓喜があるだろうか。それなりの達成感はあっても、それはゾーエーの充足以上のものではない。馬にはビオスの次元がないからだ。尤も、人馬一体という言葉があるくらいだから、もしかしたら馬にも騎乗者のために精一杯頑張ろうという思いがあるのかもしれない。盲導犬や警察犬も然り。御主人様に尽くすという思い、場合によっては与えられた任務を遂行するためにイノチさえ懸けるとしたら、それはもうビオスの次元における魂の糧ではないか。私はこれまで「人以外のイキモノにビオスの次元はない」と言い切ってきたが、訂正すべきだろうか。いや、その必要はないと私は考えている。たとい馬や犬にイノチを懸けているような現象が見られたとしても、それは訓練(調教)によるものにすぎない。ビオスにとって重要なことは単なる滅私奉公ではない。もとより人もまた特異な教育によって滅私奉公に「生きる意味」を見出すことがあるが、それは必ずしもビオスの次元を切り拓くとは限らない。むしろ、強要された滅私奉公は依然としてゾーエーの次元に留まるだろう。この点、ビオスの次元と魂の糧を見極めるのは至難の業だ。「生命尊重」のゾーエーから「生命尊重以上の価値」のビオスへ。そうは言っても事は単純ではない。イノチを懸けることが魂の糧だとしても、問題はイノチの懸け方にある。生活苦はどれも似たようなものだが、人生苦はそれぞれに異なっている。と言うより、人生苦は今や絶滅に等しい。多くの人にとって、ビオスは失われた次元に他ならない。

生活苦と人生苦(5)

私の幼馴染に競馬好きの男がいる。別にギャンブル狂というわけではなく、節度ある賭け事を楽しんでいるようで、毎週土日になると終日あれこれ予想をして一喜一憂している。一体何がそんなに面白いのか、私には全く理解できない。ドストエフスキイの『賭博者』を読むと、賭け事には人を魅了する(あるいは狂わせる)何かがあることは分かる。その何かには「節度ある賭け事」では到底辿り着けないと思われるが、所詮臆病者の私には縁のないことだ。ただし、もしそんな意味のない賭け事に自分のイノチを懸けられるとすれば、それは魂の糧に限りなく接近するような気がする。勿論、そうしたバカなことをする人は滅多にいない。もしいれば、ギャンブル依存症と即座に診断されて「普通の生活」から追放されるだろう。私の幼馴染のように「節度ある賭け事」に留まっていれば、その娯楽は生活を潤す「肉体の糧」であり続ける。しかし、生活を維持する節度の一線を越えると全ては一変する。生活の愉しみである賭け事は娯楽の閾を超え、生活を破壊する凶器と化す。延いては生活苦をもたらす原因にもなる。実に危険なことだ。それにも拘らず、人生には健全な生活の一線を越えねばならぬカイロスがあるのではないか。ゾーエーの充足や生活の愉しみとしての娯楽という肉体の糧では満たされぬ何か、すなわち魂の糧が必要になるのではないか。肉体の糧が常に「生命尊重」を前提としているとすれば、魂の糧は絶えず「生命尊重以上の価値」に駆られている。イノチを懸けるもの、それが魂の糧だと言ってもいい。肉体の糧だけで満足できれば生活苦からはやがて解放されるに違いない。されど、魂の糧がなければ人生苦は続く。果たして、魂の糧は劇薬であろうか。

生活苦と人生苦(4)

生活苦はゾーエーの病、人生苦はビオスの病。そう理解することができる。その場合、生活苦の薬は肉体の糧、人生苦の薬は魂の糧、とそれぞれ考えられる。肉体の糧は食物に限らず、ゾーエーの充足に関するあらゆるものを含む。私はこれまで「肉体の糧=パン、魂の糧=パン以上の何か」と単純に区別していたが、どうもそれだけでは済まないようだ。肉体の糧にも或る程度「パン以上の何か」が含まれる。人はただ食うに困らぬ生活だけでは満たされない。狭苦しいボロアパートではなく、もっと広々とした快適な家で暮らしたい。そんな上昇志向がなくても、食って働いて寝ることを繰り返す「perfect life」にも居酒屋に行ったり読書や音楽を楽しんだりすることが必要になる。そうした娯楽や趣味は明らかに「パン以上の何か」だ。されど魂の糧ではない。おそらく、一般的に人が「生き甲斐」としているモノの殆どは肉体の糧の閾を超えていないだろう。つまり、食欲以外の大半の欲望もゾーエーの充足に含まれる、ということだ。とすれば、肉体の糧と魂の糧を分けるものは何か。次元の違い、だと私は考えている。肉体の糧は水平の次元における「生きる意味」だ。富と名声がその典型だが、総じて幸福が人々の肉体の糧となる。そして、上流、中流、下流と幸福のカタチは様々なれど、そこにはそれぞれの身の丈に合った「生きる意味」が見出され、生活苦はそれに応じて克服されるに違いない。実際、現代人は依然として酷い格差社会に生活しているものの、その中でも社会は生活苦を徐々に一掃する方向に「進化」していると期待することができる。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という水平革命の理想を絶やしてはならない。果たして、その理想はアルカディアとして実現するのか、それともパラダイスの理想が根強く生き続けるのか。それは未だ大いに議論の余地がある。問題は結局、どちらにしても水平革命の後、すなわち肉体の糧が満たされた生活苦の克服後に生じてくる。人は「本当」に垂直の次元における魂の糧を必要とするだろうか。

生活苦と人生苦(3)

ゾーエーの充足と同様に、生活苦の克服が最優先される。ゾーエーの充足なくしてビオスの充実はあり得ない。問題は「生活苦の克服がビオスの充実になるか」にある。この点、ゾーエーとビオスの区別は依然として説得力を欠いているだろう。「ゾーエーは肉体の糧によって充足し、ビオスは魂の糧によって充実する」と言っても、私は決してその関係を二元論的に理解していない。ゾーエーもビオスも「生の次元」であることに変わりはないが、二つの次元は質的に異なっている。便宜的に、ゾーエーを水平の次元、ビオスを垂直の次元、とそれぞれ表現しているが、両者の関係は「不可分・不可同・不可逆」だ。従って、生活苦の克服は多分にゾーエーの充足に関わっているものの、それに尽きるものではない。「人はパンのみにて生くるにあらず」と言われるが、生活はパン(肉体の糧)では満たされず、生活苦は「パン以上の問題」でもある。実際、福祉が充実して幸福度が高い北欧の国々は自殺率も高いと言われている。勿論、「生活苦が克服された幸福な生活ではビオスは充実しない」と一概には言えないが、食うに困らぬ安定した生活に絶望の影が忍び寄ってくるのは事実ではないか。この事実、すなわち幸福な生活の裂け目から分泌する絶望こそ生活苦と区別される人生苦に他ならない。

生活苦と人生苦(2)

生活苦の一掃で十分ではないか。多くの人はそう思うに違いない。生活苦からの解放は人を確実に幸福にする。生活苦こそ人生の苦しみであって、それ以外は枝葉末節の苦しみにすぎない。「生命尊重」は当然だが、いくら健康でもお金がなければ生活は維持できない。だから健康的にも経済的にも安定した生活の実現が求められる。それなりの格差は仕方がないとしても、誰一人として食うに困らぬ社会の実現!それを水平革命と称するならば、生活苦の克服以上に何を望むことがあるのか。あるとしても、それは個人の私的領域の問題であろう。公的に生活の安定が保障されて、それぞれの生き甲斐となる私的な趣味や娯楽を見つける。それ以上の幸福はない。されど、人生は幸福な生活以上の何かではないか。「生活?そんなものは召使に任せておけ」とはアクセルの言葉だが、幸福もまた召使に任せておけばいいだろう。それに生活苦から解放されて幸福になることだけが目的なら、それはハクスリーの「素晴らしき新世界」で果たされている。生命尊重、生活苦からの解放、そして幸福の実現――一般的には薔薇色に見える人生が私には新たな苦しみの始まりでしかない。もとよりそれは生活苦とは次元を異にする苦しみなれど、「人が人間になる」理想には欠かせないものだ。生活苦は幸福を願い、人生苦は理想を求める。決して不幸を望むわけではないが、理想を求める人は往々にして不幸に見えるかもしれない。理想は幸福を超越する。さりとて生活苦を一掃する水平革命を蔑ろにはできない。それは必ず成就しなければならない。重要なことはそこで立ち止まらず、更に前に進むこと。立ち止まれば、せっかくの幸福な生活も忽ちディストピアと化す。

生活苦と人生苦

遠藤周作は生活の次元と人生の次元を区別して、大略「現代人は生活の次元に囚われていて、人生の次元に無関心過ぎる」と嘆いている。この嘆きは文学者の共通の地平であろう。とは言え、通俗小説家は生活の次元を描く。生活に苦しみ、そこから這い上がろうとする人の葛藤が主題となる。読者はその葛藤を追体験して生きる勇気を得る。自分も頑張って生きようと思う。結果、幸福な人生が実現する。メデタシメデタシ。実際、現代人の生活は総じて便利で豊かなものになった。世界には未だ至る所に悲惨な現実が渦を巻いているものの、生活苦はもはや文学の主流ではなくなった。生活苦ではなく、生活を楽しむこと、すなわち娯楽(エンターテインメント)が今や文学の主流となっている。ただし、文学よりも面白い娯楽は他にもたくさんあるので、本を読む人は激減し、街から書店が消滅した。これは現代人が幸福になった証であろうか。多くの人は書店の消滅を気に掛けない。本を読む必要がなくなったからだ。書を捨てよ、街で遊ぼう。つまり、現代人の生活は文学を不必要とするほど幸福になった、というわけだ。勿論、先述したように、生活苦は未だ完全には克服されていない。従って、この世界から生活苦を一掃する水平革命(世界の水平化)が要請されている。しかし、生活苦の完全な克服を以て革命は完結するのであろうか。「そうだ!」と言う人が大半かもしれないが、私は違うと思う。生活苦の克服から正に人生苦が始まると考えている。杞憂であろうか。

「不揃いの林檎たち」の真理

私の思耕は根源的に間違っているのかもしれない。そんな思いが始終胸の奥底で燻っている。ゾーエーの真実とビオスの真理。私はその対比で思耕しているが、「自分は生きている、生かされている」というゾーエーの真実に徹して生きるのがやはり「本当」なのか。たといそうであっても、人はその真実を超えて「生きる意味」という真理を求める。ただ生きて在るだけでは満足できず、ゾーエーの充足以上のビオスの充実を求める。では、ビオスの充実とは何か。先述したように、それは一般的に「夢が叶うこと」だと思われている。大それた夢である必要はない。自分の身の丈に合ったささやかな夢でいい。傲慢な人は「テッペン」にしか「生きる意味」はないと思いがちだが、思い上がりも甚だしい。そもそも人の社会の「テッペン」など所詮相対的なものにすぎぬ。夢は「テッペン」だけではなく、至る所にある。更に言えば、一つの夢に挫折しても、また別の夢に向かって生きればいい。それが挫折した夢の自己正当化であっても構わない。重要なことは決して夢を失わないことだ。人生には様々な災いが生じるが、夢さえ失わなければ楽しく生きられる。幸福な人生に恵まれる。誰もが自由にそれぞれの夢を追求できる社会の実現!私はそこに「世界の水平化」を見出す。果たして、それがビオスの充実なのだろうか。私は疑念を懐かざるを得ない。ビオスは夢では「本当」に充実しない。「世界の水平化」はビオスが望む真実ではあっても真理ではない。夢は重要であり、「世界の水平化」も必要な運動だが、ビオスの充実にはそれとは質的に全く異なる次元が要請される。それは垂直の次元であり、人はそこで「人間になる」という理想に覚醒する。「不揃いの林檎たち」は「世界の水平化」という真実を超えて、「世界の垂直化」という真理に辿り着くべきだ。そうした私の思耕はやはり間違っているのだろうか。

意に沿わぬ真実に生きる

「東大生になる」という下らない夢に憑かれた高校生が受験に失敗する。結果、三流大学生になる。何処に言っても「三流大学の学生」という目で見られる。それが自分の真実だから仕方がない。「自分は東大の学生」という真実なら胸を張って生きられるが、「自分は三流大学の学生」という真実は耐え難い。これからずっと死ぬまでこの真実に生きなければならないかと思うと気が滅入る。死にたくなる。されど自らゾーエーを停止させる勇気もない。かくして意に沿わぬ真実にダラダラと生き続けることになる。実に醜悪だ。勿論、「東大生になる」という夢が叶わないことが醜悪なのではない。それが自分にとって「本当」の夢であれば、何度失敗しても受験し続ければいい。いつか必ず夢は叶うだろう。しかし、そんなことをして何の意味があるのか。醜悪なのは夢に執著し続けることだ。誤解を恐れずに言えば、夢が叶って「自分は東大生だ」という真実を誇って生きることも醜悪極まりない。通常、「東大生になる」という夢に限らず、夢が叶えばビオスは充実すると思われている。幻想にすぎない。人にはそれぞれ夢がある。夢が叶っても挫折しても人生は続く。夢が叶えば意に沿う真実が、夢に挫折すれば意に沿わぬ真実が、それぞれの人生を支配する。当然、意に沿わぬ真実を余儀なくされる人はルサンチマンを懐く。何に対してか。夢が叶って意に沿う真実に生きる「勝ち組」に対してか。私はそこに大きな問題を見出す。「不揃いの林檎たち」は真理への道を切り拓かねばならぬ。

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