新・ユートピア数歩手前からの便り
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蓼食う虫の懸念(3)

蓼食う虫は病んでいる。その好みが病んでいるのではない。自分の好みと他人の好みとの差異に執著し過ぎる点において病んでいる。健康であれば、そんなことには悩まない。好みの違いは当然のこととして受け容れられる。同一性と差異性。寂しがり屋の蓼食う虫は皆と同一になりたいのか。そういうわけではないだろう。他人の好みや平均的な好みに迎合するつもりはないと明言している。また自分の好みはオンリーワンだと自負してもいる。問題はやはり、このオンリーワンという意識にあるに違いない。かつて「ナンバーワンにならなくてもいい。元々特別なオンリーワン」と凡人を励ますヒット曲があったが、「本当」にそうか。ナンバーワンは比較の地平を前提にしている。例えば、様々な色がある中で、どれがナンバーワンの色か決めようとする。これまでそうした比較=競争の生き方に駆り立てられてきた多くの人は疲れ果て、今やその虚しさに気づいている。ナンバーワンの色なんてない。それぞれの好みの色があるだけだ。かくしてナンバーワンの色は否定され、それぞれの好みの色がオンリーワンとして肯定されるようになった。多様性の時代の到来。それはあらゆるものが相対化される時代でもある。ところが、現実には未だナンバーワンの追求は死んでいない。色に関しても、金色が依然としてナンバーワンに君臨しており、次いで銀色、銅色とランク付けされている。あるいは白を特別視する伝統も否定できない。所詮、オンリーワンの色など単なる凡人の気休めにすぎない。それに厳密に言えば、「特別なオンリーワン」という言葉は矛盾している。それは「それぞれが自分にとってはナンバーワンだ」と言っているに等しい。未だナンバーワンに囚われている。少なくとも「元々特別なオンリーワン」」などと言われて慰められているような意識に「本当」のオンリーワンはない。そこに孤独な蓼食う虫の懸念がある。

蓼食う虫の懸念(2)

蓼食う虫は自分の好みがナンバーワンだとは思っていない。でも、オンリーワンだと自負している。彼は呟く――「たとい大半の人には不味くても、私は蓼を美味しく食べている。蓼ほど美味しいものはない。どうしてその美味しさを理解してもらえないのか。もとより私は自分の好みを他人に強要するつもりはない。しかし、寂しくてたまらない。私はオンリーワンであることにおいて孤立を余儀なくされている。私は例外者なのか。蓼食う好みによって私は明らかに社会から疎外されている。変わり者だの捻くれ者だのと罵られている。尤も最近は多様性を尊重する風潮が力を得てきて、以前ほどの酷い差別はなくなってきた。蓼食う好みも私の個性だと一応は認められている。とは言うものの、私の好みが本当に理解されたわけではない。蓼は相変わらず不味いものと見做されている。私は孤立したままだ。心から人と食事を共に楽しむことができない。さりとて他人の好みに迎合するつもりはない。皆が等しく美味しく感じられる共通の好みはあるだろう。そうした平均的な好みであれば、あるいは私の寂しさは解消するかもしれない。されど、それはやはり妥協だ。私はあくまでも、人それぞれのオンリーワンの好みを相互承認する地平を求めたい。その地平は多様性の尊重などということでは得られないと私は思う。人の好みは十人十色。それでいいと言う人が大半だろうが、私は納得がいかない。やはり病んでいるのだろうか…」蓼食う虫の苦悩は支離滅裂で、私にはよくわからない。自分の好みを貫くことで孤立するのが怖いだけではないのか。因みに、アーレントは孤立(isolation)や孤独(loneliness)と単独(solitude)を区別している。蓼食う虫のオンリーワンとしての自負は単独に徹することに活路を見出すべきだ。

蓼食う虫の懸念

好みは人それぞれ。時代は正に多様性を尊重している。もはや少数派の好みが虐げられることは(少なくとも建前上は)なくなった。犯罪に繋がる異常な好みでない限り、全ては個性として許容される。このような時代の風潮が悪い道理はない。多様性の尊重は真実だ。それにも拘らず、私には違和感がある。全ては自分の個性だと開き直っている人は「本当」に生きているのか。何か自己欺瞞があるのではないか。多様性は尊重すべきだとは思いながら、それが足枷になって批判を躊躇せざるを得ない社会はやはり何か間違っている。私は自分の好みを他者に強要するつもりなど全くないが、相互に批判すべきだとは思う。多様性を尊重する真実は多様性を超越する真理へと発展すべきだと考えているからだ。「面倒なことを言うなよ。真理なんて疲れるだけだ。本当に生きていなくても、それがオレの本当なのだ。アンタから見ればオレはどう仕様もなくダメなクズだろうが、そこにオレの生き方がある。オレはそれで満足なんだ…」そんな声が何処からともなく聞こえてくる。お互いの生き方を尊重して、決して批判し合わない優しい時代。たとい蓼食う虫の好みを理解(共有)できなくても、それを尊重する優しさは素晴らしい。されど、その優しさで立ち止まるべきではない。優しさはむしろ蓼食う虫を孤立させてしまうのではないか。因みに、ヴォルテールの名言とされている言葉に「私はあなたの意見には反対だ。けれども、あなたがそれを主張する権利は命を懸けて守る」があるが、彼は多様性の尊重という真実に立ち止まってはいない。明らかに、真理への一歩を踏み出している。それは蓼食う虫の連帯への一歩でもある。

夢への闖入者

イマドキの若者風の、顔中にピアスをしたチンピラが私の夢に乗り込んできて、次のように捲し立てた。

「面白ければ、それでいいじゃないか。オレは面白いものが見たい。聞きたい。読みたい。目に見えないもの、耳に聞こえない音、言葉にならない言葉。そんな訳の分からないものに関わっている暇などはない。考えるな、感じろ!そうブルース・リーも言っているじゃないか。オレは感じたいのだ。確かに、人の感覚には限界がある。人には見えない世界を見ている他のイキモノはいる。超音波など、人には聞こえない音を捉えているイキモノだっているだろう。犬の嗅覚は人の一億倍とも言われている。お前はそんな超感覚世界に生きたいのか。それならシュタイナー先生の弟子にでもなればいい。それも面白いが何ら特別なことではない。オレにとってはオカルトも神秘主義もエンタメの一つだ。面白ければ何でもいい。目に見えない美女を追いかけるのもいいが、シェリーのアラスターじゃあるまいし、オレは目に見える美女の方がいい。この世界は目に見えるものから成っている。目に見えるものが現実なのだ。目の不自由な人にとっても、その現実は変わらない。結局、お前もまた目に見えない世界に逃げ込もうとしているだけなのだ。現実を直視せよ。そして、面白くない現実を少しでも面白くせよ。そこにお前の生きる意味もあるだろう」

 

目が覚めて、私は混乱していた。このチンピラの言ったことが私の本心なのか。私は現実逃避しているだけなのか。いや、そんな筈はない。私が求めている「目に見えないもの」は断じて超感覚世界に見出されるようなものではない。それは依然として「水平の現実」にとどまる。私は改めて「垂直の現実」について考えようと思った。

ズレ続ける本心

書けば書くほど何かが違う。ズレる。私は「見世物」を軽視していない。先述したように、私の究極的関心は「目に見えないもの」にあるが、さりとて「目に見えるもの」を蔑ろにしてはいない。少なくとも私にとって、俗なる「目に見えるもの」を聖なる「目に見えないもの」によって浄化するという発想はあり得ない。確かに、目に見える世界は腐敗している。醜悪なものばかり目に入る。しかし、だからと言って、目に見えない世界に逃避しても仕方がない。そこに浄土を期待する心情は理解できる。その期待は苦しみに満ちた現世を生き抜く力にもなるだろう。厭離穢土、欣求浄土。そこにも多くの人を救うドラマがあるが、私は全く別のドラマを求めている。それは穢土そのものを浄土と化すドラマだ。端的に言えば、私はこの世界の中で美しいものを見たい。たとい「本当」に美しいものは目に見えないとしても、私はそれを見たい。矛盾している。不可能な戯言かもしれない。「目に見えないもの」を見るとは如何なることか。醜悪なものが溢れているとは言え、この世界には目に見える美しいものが未だたくさんある。それを発掘して表現する芸術は素晴らしい。しかし、やはり違和感がある。美しい音の根源に聞こえない音(響き)がある。美しい言葉の根源に書き表せない意味がある。同様に、目に見える美しさの根源に目に見えない美しさがある。私は単にイデアに憑かれているだけなのか。聖化のドラマを前にして、私の本心はズレ続ける。

「見世物」を超える

昨日の便りでは結果的に韓流ドラマを貶めるような書き方になってしまったが、それは私の本意ではない。私の違和感は韓流リメイクのドラマに限らないからだ。洋の東西を問わず、大衆的に今人気のある面白さに私は違和感を覚えている。端的に言えば、それは「見世物」の面白さに対する違和感だ。とは言え、私はその面白さを否定するつもりはない。低俗だの悪趣味だのと非難するつもりもない。むしろ、私は「見世物」が大好きだ。見たいものを見る。見てはいけないと禁じられれば、なおさら見たくなる。エロでもグロでも何でも見てやろう。それは人の本能に基づく欲望だ。この世界に生まれてきた以上、見るべきものは全て見尽くしたい。されど私が最も見たいものは「目に見える世界」にはない。金さえあれば、世界中の名所旧跡や人跡未踏の秘境などを見たいとは思うが、それよりも私の究極的関心は「目に見えないもの」にある。鄙見によれば、「目に見えないもの」を見る可能性は芸術創造にしかないが、最近の芸術は「目に見えるもの」に囚われ過ぎているような気がしてならない。それが私の違和感に通じている。ドラマに限って言えば、人はそこに現実(自然)にはないもの、言わば「現実以上の現実」を見ようとする。例えば、映画では生成AIやCGなどの最新技術を駆使して現実にはあり得ない素晴らしい場面を生み出し、観客はそれを見て楽しんでいる。その面白さに難癖をつける気はないが、「目に見えないもの」を見せるという芸術本来の有用性が忘れられているのではないか。もとより視覚芸術に「目に見えないもの」の表現を求めるのは明らかに矛盾している。その可能性は音楽や言語芸術(特に詩)にこそ求めるべきかもしれない。しかし、音であれ、言語であれ、演技であれ、それぞれの芸術としての本質に変わりはない。この点、未だ上手く表現できないが、音楽は「音以上の何か」(聞こえないもの)を、文学は「言葉以上の何か」(書けないもの)をそれぞれ逆説的に表現しようとしている。勿論、音でストレートに表現する音楽、言葉でストレートに表現する文学もあり、その方が人気の上では主流であろう。視覚芸術も同様であり、「目に見えるもの」をストレートに表現することが主流ではあるものの、その本質はやはり「目に見えないもの」の表現に見出されるべきだ。「目に見えるもの」で勝負する広義の「見世物」の直接的な面白さ(魅力)を棄てる必要はないが、私はそれを超える面白さを創り出したい。

秘すれば花

最近の日本のドラマには韓流ドラマのリメイクが目立つ。面白ければリメイクされるのは当然であり、そのこと自体に問題はない。しかし、私はその面白さに違和感を懐く。決して面白くないわけではない。日本にも熱烈な韓流ドラマのファンがいる事実からしても、その面白さを否定することなどできない。それなのに私には違和感がある。韓流ドラマをよく観ていないだけの単なる偏見(食わず嫌い)にすぎないかもしれないが、感情の表現がストレート過ぎるような気がしてならない。例えば、現在放送中の韓流リメイクのドラマに『10回切って倒れない木はない』がある。その題名は韓国の諺とのことで、要するに「ネヴァーギブアップ、絶対に諦めるな」という意味のようだ。同様の諺は日本にも他の国にもあるが、私は最初それを間違って記憶した。ドラマのテーマは「10回切っても倒れない木」にあると思い込んでいたからだ。すなわち、実際のドラマが「木を何とかして倒そうとする」観点から描かれているとすれば、私は無意識の裡に「如何なる暴力にも屈することなく、正しく立ち続ける木」のドラマを期待していたのだ。この差異は何を意味するか。率直に言って、私は未だそれを十分に理解できていないが、取り敢えず韓流ドラマが主に「目に見える敵との戦いをストレートに描いている」のに対し、私の求めているドラマは「目に見えない得体の知れない何かとの闘いを虚実皮膜に描いている」と言っておく。余談ながら、韓流ドラマと同様に目立つのが、マンガを原作にしたドラマだ。韓流ドラマもマンガも「目に見える世界」を中心にしている点で共通しているのではないか。「目に見える世界」のドラマだからこそ、その展開が痛快でストレートに感動できると思われる。それが悪い道理はない。現代人は何かと忙しいので、手っ取り早くストレートに感動できるドラマを渇望しているのであろう。それは「お笑い」についても言える。何事もインスタントが主流になりつつある。この流れに抗することは容易ではないが、私は性懲りもなく「目に見える世界」と「目に見えない世界」とに引き裂かれている。そして、その葛藤を描くドラマを熾烈に求めている。

補足:二つの有用性

私的領域における有用性と公的領域における有用性は全く異なる。一般的に有用性と言えば前者であろう。日常的に生活する上で役に立つことだ。それに対して後者の有用性は、厳密には殆ど消滅している。公的領域そのものが絶滅に瀕しているからだ。勿論、公的に役立つ労働に従事している人たちはたくさんいる。しかし、その有用性は一般市民の私的生活に役立つものに他ならない。つまり、あくまでもそれぞれの私的領域が主であって、公的領域はそれを補完するもの、言わば私的領域に従属するものにすぎない。従って、純粋な意味での公的領域は殆ど失われている。これは世俗化された社会の帰結でもあるが、多くの人はその現実を今や当然のこととして受け容れている。歓迎していると言ってもいい。自分たちの私的領域を超越する公的領域に生きる。例えば、「御国のために生きる」とか「大義に殉じる」ということは極めて陳腐なものとなり、そこにはファシズムの亡霊しか見出さない。皆、自分たちの個人的な生活、せいぜい自分たちの家族の生活を第一に考え、それ以上の幸福はないと思っている。「本当」にそうだろうか。公的領域を重視する滅私奉公的な生き方に批判的でありながら、さりとて私的領域に埋没するエゴイズムにも疑問を懐いているのではないか。そして、心ある人は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福もあり得ない」という賢治の言葉に深く共感していると思われる。果たして、「世界がぜんたい幸福になる」とは如何なることか。それは「個人の幸福の集合体」というような量的なものではない、と私は思う。私的領域とは質的に異なる純粋に公的な次元、その有用性について改めて思耕したい。

補足:道具を超える

サルトルのペーパーナイフのように、道具(モノ)は職人の「こういうモノを作りたい」という構想から生み出される。つまり、道具においては本質が実在に先立つ。ところが、人は違う。人の実存は本質に先立つ。道具の実在が本質という大地にしっかり根付いているのに対し、人の実存は根無し草だ。「かくあるべし」という本質を求めて彷徨っている。勿論、人も道具にとっての職人に相当する存在を神に見出すことができる。神の「人はかくあるべし」という構想の下に人は誕生する、という具合に。しかし、そうしたデミウルゴスの如き神は死んだし、たとい生きているとしても人の本質については沈黙したままだ。人は投企された世界の中で自分の「かくあるべし」を創っていかねばならない。ただし、それは「なりたい者になる」という夢の実現とは質的に異なっている。「かくあるべし」と「かくなりたい」とでは次元が全く違う。私は人それぞれの夢を否定するつもりはないが、そこにはモノの本質はあっても人の本質はない。何故か。夢では私的領域を超えられないからだ。そして、私的領域に留まる限り、人はモノの本質から解放されない。それは「道具として生きる」ことを超えられないことでもある。鄙見によれば、人の本質は公的領域と密接に関係している。人の本質へのアンガジュマンは公的領域なしにはあり得ない。では、公的領域に生きるとは如何なることか。単なる滅私奉公と何が違うのか。道具を超えるのは至難の業だ。

補足:道具として生きる

私は長身ではないが、今は亡き母よりは上背があり、母の手が届かない高いところにある物を取ったりすると、母はいつも「助かるわ」と言って喜んでくれた。単純な私は、母の役に立てたことが素直に嬉しかった。しかし、踏み台を使えば、背の低い母でも高い所にある物を取ることができる。この現実に直面して、私は何だか悲しくて哀しかった。所詮、私の有用性など踏み台程度にすぎないのだ。おそらく、この悲哀は私だけのものではないだろう。人が人の役に立てるようなことの殆どは道具で代用できる。むしろ、道具の方が便利である場合が多い。こうして人の役に立てる機会は少しずつ失われていく。それは生き甲斐の喪失でもある。人の役に立って感謝される。これほど嬉しいことはない。だから、できれば目に見える明確な形で人の役に立てる職業、例えば医師や消防士などになりたいと思う人が多いが、誰もがなれるわけではない。これといった能力のない大半の人は何の役にも立たぬ自分に苛立ち、砂を嚙むような思いで生きることになる。尤も、そんな凡庸な人たちでも、大災害が起きるとボランティアとして役に立つことができる。平時には取るに足りないことでも被災地の人たちに喜んでもらえる。誤解を恐れずに言えば、そこには生の充実がある。無能な自分でも人の役に立てるという生き甲斐がある。しかし、被災地もやがて復興し、ボランティアの必要もなくなっていく。さりとて再び大災害が起きてボランティアの必要が復活するのを望むのは本末転倒だ。人の役に立ちたいという思いは尊いが、一つ間違うと醜悪にもなる。「世の中の傘になれよ」というおふくろさんの教えは間違っていないものの、「道具として生きる」ことによる充実感には限界があることを深く肝に銘じなければならない。

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