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2017-09-13 17:35:52

アルカディアからパラダイスへ

テーマ:ユートピア

次善の選択とは言え、菜食主義が不殺生の理想の断念から始まっていることは明白です。従って諄いようですが、我々は不殺生の理想の原理的な不可能性をきっぱりと自覚しなければなりません。そもそも人類の歴史において、我々が不殺生であり得た状態など一瞬たりともなかったのです。我々はイキモノとして他のイキモノを殺し食べ続けることで生き永らえてきました。これからも、そうしたイキモノの宿命から自由になることはないでしょう。しかし、だからと言って、その宿命に開き直って際限のない殺生に身をゆだねていいわけではありません。人間のみが殺生に疑念を抱き、不殺生という不可能な理想に思い至ったことにはそれなりの意味があると思われます。それは(煎じ詰めれば)アルカディアへの郷愁ではないかと私は考えています。

言うまでもなく、アルカディアにおいても殺生(狩猟採集)はありました。しかし、それは自然と調和のとれた必要最小限の殺生だったでしょう。私はそこに人間の欲望が暴走し始める以前の、言わば始源の欲望が自然と調和的に満たされている安定状態を見出します。その理想的な状態をアルカディアと称するならば、それは今や「永久に失われた楽園」に他なりません。農耕や畜産の発展とともに人間の欲望に歯止めが効かなくなり、人間はもはや「単なるイキモノ」として生きることなどできなくなったからです。もっと多く、もっと美味しく、もっと速く――人間の欲望は必要以上の最大限を目指していきます。それが人間社会をパラダイスにしてきたわけですが、その反面、人間以外のイキモノにとってはこの地球を地獄にすることでした。いや、今や人間自身にとっても地球は地獄と化しつつあります。様々な資源の涸渇に環境破壊、限りなく肥大し続ける欲望をこのまま野放しにすれば、早晩危機的な苦境に陥ることは必定です。それ故、ほぼ必然的に欲望の抑制が要請されるわけですが、その一つの象徴が菜食主義だと言えます。

周知のように、一口に菜食主義と言っても、ヴィーガンと称されるような完全菜食主義者から卵や乳製品は許容する緩やかな菜食主義者まで実に様々ですが、原理原則の徹底が現実生活を歪めてしまうことは歴史が証明しています。或る程度の欲望の抑制(節食、節電、節水など)は必要だとしても、禁欲の強制は我々の日常生活を極めて窮屈なものにし、延いては世界の暗黒化をもたらす結果になるでしょう。すなわち、欲望を野放しにしても、禁欲を強制しても、世界のディストピア化は避け得ない、ということです。では、どうすべきか。結局、「中庸が肝要」ということになると思われますが、これが最も難しい問題ではないでしょうか。欲望の充足がパラダイスを形成すると考えれば、「中庸のパラダイス」とは何か。

 

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2017-09-12 17:07:59

不殺生の理想(3)

テーマ:ユートピア

どうも最近は食べることに少し神経質になっているせいか、テレビのグルメ番組などでアイドルの女の子がキャーキャー大騒ぎしながらイカやタコの踊り食いをしている場面に遭遇すると、人間のあまりの残忍性に絶望的な気分になります。とは言え、私自身もその残忍性に関して無罪である道理がなく、むしろアイドルの可愛らしい食べっぷりに「実に美味しそうだなあ・・・」と感じ、その踊り食いを糾弾する気になど到底なれません。実際、人間の「食への欲望」には限りがなく、あらゆるものを様々な趣向を凝らして食べ尽くそうとします。それは一つの文化を形成し、場合によっては芸術の閾にまで達しますが、見方を変えれば「殺害の芸術」に他なりません。屠殺者と料理人は表裏一体であり、前者が残酷で後者が洗練などという区別はできないでしょう。屠殺が残酷なら料理も残酷であり、料理が芸術なら屠殺もまた芸術なのです。

同様に、我々日本人は犬や猫を食べる民族を野蛮で残酷だと思いがちですが、これもまた根拠のない思い込みにすぎません。尤も、我々が犬や猫を食べる文化を共有することはないでしょうが、食文化は変遷します。獣肉食がタブーであった時代も文明開化とともに一変しました。鯨肉、牛肉、豚肉・・・「食べていい肉」と「食べてはいけない肉」は宗教や文化によって区別されますが、それは基本的に善悪の彼岸の問題でしょう。牛肉や豚肉をバカスカ食い散らしながら犬猫食文化を非難するなど笑止千万、極端な話、カニバリズムさえ原則としては許容すべきものと考えられます。実におぞましい原則ですが、これを断固として拒絶せんとするならば、我々は不殺生の理想を貫いて、あらゆる食文化を根柢から否定しなければなりません。勿論、先述したように、そんなことは原理的に不可能であり、「不殺生=食の否定」は自らの実存をも無に帰します。しかし、やや詭弁的ながら、不殺生の次善の理想として菜食主義を考えることは可能です。すなわち、菜食を人間が許容できる唯一の食文化と見做し、それ以外の肉食文化を全否定するのです。では、このように禁欲的な、あまりに禁欲的な菜食主義をこそ我々の理想とすべきでしょうか。確かに、殺生を極限まで抑制した菜食主義社会は人工的に再構築されたアルカディアだと言えます。そこではもはや「殺す」ということ自体が普遍的なタブーと化し、従って人々が殺し合うこともなくなり、極めて平和な雰囲気に満たされることでしょう。それは殺し合う獣のような人間が平穏無事な植物人間へと「進化」する世界でもあります。果たして、これが我々の究極的な理想でしょうか。

 

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2017-08-22 17:13:31

不殺生の理想(2)

テーマ:ユートピア

草にせよ肉にせよ、食うことは自分以外の生命を戴くことであり、露骨に言えば殺生です。「殺生なくして生はなし」というのが人間の原事実であり、宗教的には原罪と言ってもいいでしょう。この原罪に関して、植物のみが完全無罪だと言い切れるのかどうか(食虫植物などは例外と見做すとしても)定かではありませんが、植物の生の存在形式が一つの理想になることは間違いありません。しかし、だからと言って植物人間になることが我々の真の理想足り得るでしょうか。誤解を恐れずに言えば、現代医学は様々な生命維持装置によって人間を限りなく植物状態に近づけることを可能にしましたが、それが人間の究極的な生の在り方だと言えるでしょうか。確かに植物人間は食うことから解放され、その意味において完璧に殺生なしの状態で生き続けています。もし宗教で言う「無になる」という悟りの境地があるとすれば、植物人間こそが最終解脱者に他なりません。しかし、一体誰が植物人間になることなど現実に望むでしょうか。大半の人にとって、それは仮死状態であり、健康な人間の在り方とは正反対の絶望を意味します。やはり我々は普通に食って、排泄して、様々な活動をしていく人生をこそ望むでしょう。たといそれが殺生のスパイラルに巻き込まれることであったとしても、その原事実において人生の理想を求めていくしかないと思われます。

ところで先日、私は友人に誘われて劇団銅鑼の新人さんたちの演劇を観てきました。どんな内容なのか事前に知ることなく上板橋のアトリエに赴いたのですが、図らずもそのテーマは生命でした。題名は「いのちの花」、東北の農業高校の生徒たちがその実習を通じて生命の意味について深く思耕していく姿が描かれました。例えば、入学当初から「コッコちゃん」などと呼んで世話をしてきたニワトリをやがて自分たちの手で絞めて解体処理しなければならぬ葛藤の姿です。生徒たちは涙ながらに「コッコちゃん」の唐揚を美味しく食べて「戴きます」の意味を実感するわけですが、これを人間の殺生の自己正当化とするのは野暮の骨頂でしょう。ドラマのクライマックスは、捨てられた犬や猫が大量に殺処分されている現実、特にその骨がゴミとして処理されている現実を知って驚愕、と同時に深く傷ついた生徒たちがその悲惨な現実と格闘しながら辿り着く行動です。彼女たちは殺処分された犬猫の骨を細かく砕いて肥料にして、それによって花を栽培するという「いのちの花」プロジェクトを始めるのです。その過程で「なぜ犬や猫の骨だけ特別扱いするのか。牛や豚など、他の家畜の骨だって同じじゃないか」という疑問が出されたりしますが、その点は深く掘り下げられることはなく、人間の犠牲にされた動物の生命が植物に転生して花を咲かせていくことに焦点は絞られました。実際、ペットと家畜では意味が大きく異なるものの、その根柢に人間のエゴイズムが渦巻いていることに違いはありません。もとよりこのドラマによって我々の殺生のアポリアに決定的な答えが得られるわけではありませんが、殺生の原事実に直面した若者たちの悪戦苦闘からは何かが生まれてくるような気がします。それは一体何か。

 

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2017-08-18 18:57:58

不殺生の理想

テーマ:ユートピア

弱肉強食が自然の理であり、「食うか、食われるか」という関係は永久になくならないでしょう。小学三年生の女の子は「食べられる動物がいなくなる世界」を夢見ているようですが、草食、すなわち「植物が食べられること」は問題ではなく、「食う-食われる」関係の否定までは望んでいません。それは極めて当然のことであり、その否定の徹底は「食うこと」そのものの否定になってしまうからです。ジャイナ教のように不殺生の理想を極限まで追い求める試みはあるものの、それが原理的に不可能な理想であることは明白です。しかし草食を問題外として不殺生の対象を動物だけに限定すれば、小学三年生の求める「食べられる動物がいなくなる世界」は一応不可能な理想ではなくなります。それは「肉食の完全なる否定」に他なりませんが、その理想の実現は自然界と人間社会という二つの次元に分けて考えるべきでしょう。

先ず、自然界における「肉食の完全なる否定」についてですが、これは基本的に大きなお世話かもしれません。NHKの「ダーウィンが来た!」というテレビ番組を時々観ますが、例えば可愛いライオンの赤ちゃんが成長して自立する過程が映し出されたりします。自立とは自分で狩りができるようになることに他ならず、それはそれで感動的なドキュメントですが、狩られて食われる動物からすれば実に悲惨な光景でもあります。これを目にした小学生が「食べられる動物がいなくなる世界になればいいなぁ・・・」と思うのも当然です。しかし、食われる動物が可哀相だからと言って助けたりすると、今度はライオンが飢えてしまいます。このディレンマの打開策は小学生が望んでいるように「全ての動物が草食になる」ということでしょう。とは言うものの、ライオンが草食動物への転向を潔しとするかどうかは定かではありませんし、有無を言わさずそれを実行する技術の行使が人間に可能だとしても、全ての動物を草食にすることは自然界の理(生態系)を狂わす結果になります。その狂いが延いては我々人間自身の首を絞めることになるのは必定です。結局、ライオンとシマウマの抱擁は童話の世界では望まれても、自然界には決してあってはならぬ光景だと言わざるを得ません。では、人間社会における「肉食の完全なる否定」はどうでしょうか。

 

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2017-08-08 18:42:31

小学三年生の理想

テーマ:ユートピア

朝はいつもNHKラジオを聴きながら出勤の準備をしていますが、夏休みに入ると毎年「子ども電話相談」が始まります。「むずかしいことをやさしく・・・」とは井上ひさしのモットーですが、子どもたちの無邪気な問いかけに対して偉い先生方が何とかやさしく答えようと汗だくで悪戦苦闘している様子が目に浮かぶようで私は毎回楽しく拝聴しています。先日も何気なく聞き流していましたが、或る小学三年生の女の子の質問に思わず耳をそばだてました。「動物にはどうして草食と肉食がいるんですか」司会の女性アナウンサーが「どうしてそういう質問を思いついたの?」と尋ねると、その女の子は「みんな草食なら、食べられる動物がいなくなるからです」と応えました。実に興味深い発想です。かつてパチンコ屋のテレビCMの中でライオンとシマウマが涙を流して抱き合っていましたが、これこそ小学三年生の女の子の思い描く理想世界に他なりません。

さて、この幼き理想主義者の質問に偉い先生は如何に答えたか。先ず肉食の発生について、先生は「草よりも肉の方が消化にいいんだよ」という指摘から始めました。つまり、肉を食べた方が手っ取り早く血肉(エネルギー)になるということでしょう。これに加えて肉の方が草よりも美味であると言えるかもしれませんが、このような観点だけでは到底女の子が納得できないのは当然です。そこで先生は概略次のような説明をしました。「もし草食動物だけだったら、そこに恐ろしい伝染病が発生した時に動物は全滅してしまうでしょう。伝染病に罹った草食動物を食う肉食動物がいる御蔭で、その伝染病が動物全体に拡がっていかないようにできるんだ。こんな具合に自然界はとてもバランスよくできているんだよ」バランスよく! 先生はここでは食物連鎖の話はされませんでしたが、結局のところ、ピラミッドの下位のものが上位のものに食われることは自然界のバランスにとって望ましいことなのでしょう。これは最低限「自然界に草食動物と肉食動物が存在する理由」にはなるわけで、女の子も「よくわかりました。ありがとうございました」と感謝の言葉を述べていましたが、果たして「バランスのいい自然界」を小学三年生の女の子は理想世界と認めることができるでしょうか。限られた電話相談の時間内では詮無きことながら、私は小さな胸の内を忖度せずにはいられませんでした。

 

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2017-08-07 17:35:42

白樺派馬鹿らし

テーマ:ユートピア

先日、横山秀夫の小説を読んでいたら、或る登場人物が「白樺派馬鹿らし」と呟く場面に遭遇しました。尤も、そこには白樺派を誹謗中傷せんとする意図などはなく、それは単にシベリアに抑留された日本兵の一人が、過酷な強制労働の末に日々亡くなっていく戦友たちを白樺林の中に埋葬していく際に何気なく呟く戯言の回文にすぎません。とは言え、少し穿った読み方をすれば、その回文を呟く男とそれを呟かせる作者の脳裡に、絶望的なシベリア抑留生活の現実に対して白樺派が謳い上げるような理想主義は全く無力だ・・・という思いが潜在的にあったと思われます。実際、理不尽な理由で人が人を虐待し続ける腐敗した世界において、理想主義は今や賞味期限はおろか消費期限さえ切れかかっています。「新しき村」の理想も然り。実篤が始めた村も来年で百周年を迎えるとのことですが、今の村の一体どこに理想主義があるのでしょう。こんな愚痴を繰り返していても埒が明きませんが、「白樺派馬鹿らし」と呟かざるを得ない現実においてこそ真の理想主義に関する新たな思耕が要請されるに違いありません。では、真の理想主義とは何か。

 

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2017-06-07 18:32:10

時代おくれ(10)

テーマ:ユートピア

スマホが登場してガラケーは時代おくれになりました。未だにガラケーを使用している私などは明らかに時代おくれの男ですが、特に不便は感じません。幸か不幸か、スマホの便利さをそれほど必要とはしていないからです。しかし、今後時代の流れがスマホの便利さを前提にするようになれば、私もスマホを否応なく持たざるを得なくなるでしょう。そもそも私が今ガラケーを持っているのでさえ、時代が携帯電話なしの生活を許さなくなったからです。街角から公衆電話が姿を消し、いつでもどこでも誰とでも連絡できる便利さは今や社会の常識になりました。尤も、その便利さが逆に人間を苦しめる面も多々あり、敢えて便利な生活に背を向ける人も少なくありません。しかし結局、時代の流れには逆らえず、これからも世の中はどんどん便利になっていくでしょう。古いものが新しいものによって淘汰されていくのは運命です。先述したように、古いものに新たな意味を見出して「古きもの」のアルカディアを求めるのも一つの生き方ですが、私にはそれは運命からの逃避としか思えません。さりとて単に新しいものだけに迎合する生き方は運命への妥協であり、加えて様々な意味で持続可能な道ではないでしょう。詭弁と思われるかもしれませんが、我々の求めるべき真に新しいものは決して古くなることのない「新しきもの」なのです。

さて、埼玉は毛呂山にある新しき村はどこからどう見ても新しい村ではなく、むしろ傾きかけた家屋や廃屋ばかり目立つ古臭い村です。尤も最近は村のあちらこちらに近代的な太陽光発電パネルが鎮座しており、それらがかろうじて新しさを醸し出していると言えますが、そんなものが「新しきもの」である道理がありません。今はピカピカしているパネルもやがて古くなるのは必定だからです。では、来年創立百周年を迎える村の決して古くならない「新しきもの」とは一体何か。残念乍ら今のところ、それは理想だとしか言えません。ずっと理想のままで、百年経っても依然として理想のままで、到底実現の見込みのないままで、だから改めて「新しき村の理想」を問題にすることは汗顔の至りですが、それが「新しきもの」であるという事実は微動だにしないと私は信じています。とは言うものの、その「新しきもの」が毛呂山の村で実現できるとまでは流石に信じ切れておりません。殊更関係を絶って村を見限るつもりなどありませんが、「新しきもの」には新しい革袋が必要だとも考えております。たとい時代おくれだと嗤われても、それを様々な人たちと連帯して求めていくのが相も変らぬ私のespero(希望)なのです。

何れにせよ、我々にとっての新しい革袋の一つは労働組合、そして最終的には祝祭共働態というアソシエーションです。周知のように、今の新しき村に労働組合など必要ありません。村には労使対立はない、と言うよりも労使関係そのものがないからです。村人はそれぞれ独立した存在であり、在村期間や年齢・経験に応じて先輩後輩の区別があるのは当然ですが、それは断じて階級ではありません。日々の義務労働によって得られる報酬も全て平等で、高齢になれば自由村民として労働から解放されることが約束されています。ただし村の歴史上、未だかつて自由村民が誕生したことは皆無であり、約束は約束のまま皆肉体的に働けなくなるまで義務労働を続けるのが現実です。それでも義務労働は断じて強制労働などではなく、村人は総じて労働に喜びを感じていると言えるでしょう。しかし乍ら、この状況が理想の実現かと問われれば、私は否と応えざるを得ません。村に労使関係がないのは事実ですが、それは「雇用-被雇用」関係を超える協同労働(ワーカーズ・コレクティヴやワーカーズ・コープ)の理想とは程遠いものだからです。この点についてはどうもまた長くなりそうなので、稿を改めて更なる思耕を試みることにします。

 

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2017-06-06 23:26:05

時代おくれ(9)

テーマ:ユートピア

アントニオ・グラムシ曰く、「サンディカリズム理論はプロレタリア革命の具体的経験の中で完全に破産した。労働組合はプロレタリア独裁を体現する組織的能力がないことを証明してきた。労働組合の正常な発展は、大衆の革命的精神の衰退と軌を一にしている。それは物質的な力を増大させ、征服の精神を萎縮させるか、全く消失させてしまう。生の躍動は勢いを失い、英雄的非妥協に日和見主義の実践、「パンとバター」の実践が取って代わる。」実際、労働組合と言えば直ちに賃上げ闘争が連想されます。労働条件の改善も結局は賃上げ要求に吸収されていくでしょう。確かに、少しでも多くの利潤を生み出すために可能な限り賃金を抑制しようとする資本家に対抗して、労働者の賃金を可能な限り上げることに労働組合の使命があります。当然、賃金が増えれば色々なものが買えるようになります。様々な家電製品のある暮らし、マイカーのある暮らし、そして快適に生活できる家のある暮らし――そこには賃金が増えれば増えるほど労働者は幸福になれるというバラ色の人生観があります。しかし、本当にそうでしょうか。グラムシによれば、サンディカリズムは資本主義社会の一形態に他ならず、資本主義社会を潜在的に超克したものではありません。と言うのも、労働組合は「労働者たちを生産者としてではなく、賃金の受取人として、すなわち、資本主義的私的所有制度の被造物として、労働力商品の売り手として組織」しているにすぎないからです。私はここに労働組合の限界を見出します。どんなに労働者の賃金が増えても、そのことによって資本主義を超克することにならないのは明白だからです。むしろ逆です。賃金が増えるのも資本主義の御蔭に他なりません。

とは言うものの、「労働組合は時代おくれだ」と未だ言い切れないのも事実です。そう言い切るためには賃上げがもたらす幸福とは全く異なる幸福について更に思耕する必要があるでしょう。言わば、パラダイスとは質的に異なる理想社会についての思耕です。資本家のパラダイスを労働者が奪ったところで、それは問題の根源的な解決にはなりません。

 

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2017-06-05 23:26:34

時代おくれ(8)

テーマ:ユートピア

私はネット上に無料配信されている映画を時々楽しんでいますが、この週末に『燃ゆるときTHE EXCELLENT COMPANY』(2006)という作品を観ました。原作は経済小説で有名な高杉良で、カップ麺でアメリカ進出した或る食品会社で働く日本人ビジネスマンたちの悪戦苦闘を描いた作品です。ドラマの中心は主にメキシコからの移民労働者との軋轢ですが、日本型の経営はそうした貧しき人々を食い物にしてまで利潤追求に走るアメリカ型経営とは一線を画しているという点がどうやらこの作品の言いたいことのようでした。端的に言えば、アメリカは従業員を機械の一部としてしか見ていないが、日本はあくまでも人間として接している、ということです。「本当にそうかなぁ…」という疑念が終始拭えないままドラマはクライマックスを迎えるのですが、そこでキーポイントとなるのが何と労働組合(ユニオン)なのです。

或るアメリカ企業がその日本の食品会社を乗っ取ろうと色々画策しているのですが、その最終的な裏工作が移民労働者たちの不満を掻き立てて労働組合をつくることでした。と言うのも、労働組合ができてしまえば、その絶え間ない要求の処理に追われて経営が行き詰るのは必定で、それだけ企業買収がしやすくなるというわけです。それ故、日本側としては必死に労働組合の設立を阻止しようと頑張るのですが、その是非を問う投票が行われる直前の労働者集会で主人公の日本人ビジネスマン(中井貴一)は次のように訴えます。

「ユニオンなんかつくってはいけない。そんなものができるとあなた方(労働者)と我々の間に溝ができてしまい、今後自由に腹を割って話すことができなくなる。我々は同じ会社で働く家族じゃないか。言いたいことがあれば何でも率直に言えばいい。家族の間にユニオンなどという外部からの第三者を割り込ませてはいけないのだ!」

この誠意溢れる必死の言葉に心動かされた移民労働者たちは、ユニオンをつくって会社との対立関係に入るよりも日本的な「会社=家族」という雰囲気の中で楽しく働き続けることを選ぶのです。つまり、労働組合は時代おくれであり、家族の如き労使協調こそThe Excellent Companyの証だということです。この意外なハッピーエンドに私は暫し呆然とするしかありませんでした。

そもそも労働組合運動は通常労使の対立を前提にしており、その核となるものは労働者を搾取し続ける資本家に対する階級闘争に他なりません。尤も、労使協調を旨とする会社の御用組合もありますが、それが堕落した労働組合であり、凡そ労働組合などとは言えぬ代物であることは明白です。しかし鄙見によれば、階級闘争を旨とする労働組合が時代おくれになっていることも事実です。年々低下する組合の組織率もさることながら、資本家の打倒を真剣に求めている人が一体どれほどいるでしょうか。いるとしても極めて少数派で、しかも過激派とかテロリストのレッテルを貼られてしまうでしょう。大多数の人は自分が資本家になることを目指すか、さもなければ良き資本家の下での安定した幸福な生活を望む大衆だと思われます。だとすれば、家族の如き労使協調というハッピーエンドも強ち間違いではないのかもしれません。しかし、果たして本当にそうでしょうか。

 

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2017-05-30 23:49:49

時代おくれ(7)

テーマ:ユートピア

昨夕、退社して品川駅に向かっていると、駅前で宣伝車の屋根に乗った人が或る大手企業の不当解雇を糾弾する演説を行っていました。その周囲では労働組合関係者と思われる人たちが「よろしくお願いします」と連呼しながらビラを差し出していましたが、帰宅を急ぐ人々、あるいは友人たちと一杯飲みに行く途中の人々は殆ど無視して通り過ぎて行きました。かく言う私もビラを受け取らなかった薄情者の一人ですが、どうして受け取らなかったのか、自分でもよくわかりません。いつもなら一応受け取るのですが、昨日は何故か咄嗟に手が出なかったのです。いや、厳密には瞬時に受け取らない判断をしたと言った方がいい。何故そんな判断をしてしまったのか。後悔やら後ろめたいといった気持もさることながら、何かそれとは違う思いも心の底に蠢いていて、以後ずっとモヤモヤしています。

一つには単にビラを受け取ることだけで「私も皆さんの仲間ですよ」といった顔(同志面)をしたくないということがあったような気がします。そんな自己満足でお茶を濁すくらいなら、いっそ通り過ぎる傍観者の一人と思われた方がいい。それに、もしかしたら無関係かもしれませんが、宣伝車の近くにはフォークギターを弾きながら何やら歌っている人たちもいて「一体、この奇妙に明るい雰囲気は何だ・・・」と戸惑ったことも事実です。私もしがない労働者の端くれとして、誰かが不当解雇されれば決して他人事ではない筈ですが、どうも自分は場違いのような気がしてなりませんでした。とは言うものの、私は労働組合運動に全く関心がないわけではないのです。むしろ名古屋で働いていた時には、不登校生を食い物にするような経営方針の学校長に対抗するために自分たちで組合を立ち上げた経験があります。結果的にその活動は実を結びませんでしたが(あくまでも私個人の活動として)、その際にお世話になった専従の方の熱意には本当に頭が下がる思いがしたことを数十年経った今でも鮮明に覚えています。実際、昨夕のビラ配りの方々も何とかして困っている労働者たちを救いたいという情熱に溢れた人たちばかりでしょう。おそらく、そこには私などの知る由もない努力や苦労があると思われます。しかし、そのことを重々承知の上で敢えて言いますが、「労働者を救う」とは一体如何なることでしょうか。

朝ドラ「ひよっこ」の向島電機も倒産してしまい、主人公のみね子たち集団就職で上京してきた娘たちは解雇を余儀なくされました。幸い殆どの娘たちの再就職先は決まったようですが、もはやこれまでのような「毎日が修学旅行」の楽しい生活は望めそうにありません。ドラマの展開として、新たな就職先は向島電機ほど楽しい職場にはならないような気がしますが、もし理不尽なことを強要されるブラック企業だったら、みね子たちは労働組合に救いを求めるでしょうか。まさか朝ドラでそんなシビアな展開など期待できそうにありませんが、このドラマの時代背景が東京オリンピック以後の高度経済成長期であることからすれば、強ち無理な流れではないと思われます。しかし、組合の組織率が低下する一方の現代ではどうでしょうか。果たして労働組合運動は今や時代おくれなのでしょうか。

 

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