補足:スヴィドリガイロフの「本当」
犯罪を容認する気などさらさらないけれども、犯罪者にもそれなりの「本当」がある。それは情状酌量といった程度の軽いものではない。もとより低次元の薄っぺらな犯行動機はあるが、その奥底には根源的な「本当」が巣喰っている。例えば、ストーカーは執拗に付き纏われる被害者にとっては耐え難い苦痛をもたらすものだが、その病的な執拗さには「本当」がある。誤解を恐れずに言えば、ストーカーほど強く相手に執著している者はいないだろう。確かに、その執著は異常であり決して許されるものではない。ストーカー本人は愛だと言い張るかもしれないが、それはアガペーには程遠い歪んだエロスにすぎない。正常な人ならそれを抑制できる。しかし、ストーカーにはその抑制を踏み越えてしまう「本当」がある。抑制が健全な人の「本当」だとすれば、踏み越えはイキモノの「本当」だ。レイプなどのおぞましい性犯罪も然り。被害者にとっては唾棄すべきケダモノの「本当」だとしても、それがイキモノの「本当 」であることは否定できない。「私は強姦しました。自然に湧き上がってくる欲情を抑制できなかったのです。犯罪です。しかし、罪を犯したのは自然です。自然の力に身を委ねる快感を得ることも罪なのでしょうか?」そうした犯罪者の自己正当化に如何なる「本当」が対抗し得るか。人は生まれながらにイキモノの「本当」に従う自由を有するが、それがケダモノの「本当」へと暴走しないように抑制する鉄鎖が必要になる。それが美的段階から倫理的段階への移行を意味するのか。
補足:似て非なるもの
品行方正な優等生は気儘に生きる劣等生を軽蔑している。その時点で既に優等生の「本当」は怪しいが、二人は次のような会話を交わす。
優等生「君は気楽でいいですね」
劣等生「アンタは気遣いばかりで苦しそうだね」
優等生「確かに君よりも苦しい毎日だけど、私の苦しさには意味がある。君の気楽さには意味がない」
劣等生「意味がなくて上等だ。オレには自由がある」
優等生「それは本当の自由だろうか。自由と我儘は違う。意味もなく好き勝手に生きているのは我儘にすぎない。自由じゃない」
劣等生「我儘でも構わないよ。オレは好き勝手に生きたいだけさ」
優等生「君は傾向性の奴隷にすぎない」
劣等生「オレが奴隷だって?様々な規則に縛られているアンタの方が奴隷じゃないか」
優等生「私は常に自分が何をすべきかを考えて生活している。つまり、私は自律している。私の生活にはSollenがある。それに対して、君は好き勝手に生きているように見えて、実はその時々の感情や欲望に流されているだけです。君の生活には方向がない」
劣等生「難しいことは分からないが、オレは自然のままに生きている」
優等生「自分は自然に生きていると言い張ることほど不自然なことはありません。君は人生に意味を問うべきです。意味を問わない君はカラッポです」
劣等生「オレはカラッポのままでいいけどね」
優等生「我儘と自由が全く異なるように、カラッポと無は違います。人は問題との格闘なしに無の境地に達することはできません」
劣等生「多分、アンタは正しいだろう。けれど、オレはやはり納得はできないね」
一般的に、劣等生は人生の美的段階にあり、優等生は倫理的段階にあると理解されるだろう。しかし、その関係は似て非なるものにすぎない。どちらも未だ「本当」を生きていない。
補足:冷たくしないでよ
私は自分の致命的な課題をよく自覚している。対幻想の欠如だ。愛する人との関係性を深く掘り下げることなく、個人幻想と共同幻想の間を徒に彷徨っているにすぎない。だから、いとも簡単に「家庭の幸福」以上の「本当」を問題にすることができる。実際、殆どの人は「家庭の幸福」を踏み越えねばならぬ「本当」を理解しないだろう。そんな「本当」よりも「家庭の幸福」に安住する方を選ぶ。その安住こそ人生の「本当」だと確信している。それに対して私は如何なる反論ができるのか。余談ながら、CHIHIROという歌手の『冷たくしないでよ』という曲を最近よく聴いている。若い女性(私の勝手なイメージでは女子高生)の切ない片想いの心情が如実に歌われている。好きな人ができる。幸い、付き合うようになる。至福の日々。けれども、何だか最近彼との温度差を感じるようになる。秒で返っていたメールやLINEの返信も今では何時間待っても届かない。嫌われたのか。彼に好きな子でもできたのか。半ば諦めながらも一縷の望みを棄て切れない。そんな苦しみの中で、この良くない状況を何とかして打開する可能性を信じようとする。老人の私にはもはや無縁の心情ではあるが、片想いする女性の恋の切実さは伝わってくる。この恋する女性は「本当」に生きていないのか。そんな筈はない。恋にだって命を懸けることはできる。彼女は確かに「本当」を生きている。ただし、それは水平の「本当」であって、キルケゴールの実存弁証法に即して言えば美的段階の「本当」に他ならない。問題はその先の段階の「本当」だが、それをどう表現すればいいのか。
誰が本当に生きているのか(10)
『3か月でマスターする人体』というテレビ番組を観ていたら、睡眠を専門とする先生が大略「イキモノにとっては睡眠が主であって覚醒は従です」と語っていた。目から鱗が落ちる気がした。イキモノは眠るために生きている!ならば覚醒は何のためにあるのか。言うまでもなく、食物の確保のためだ。イキモノは食べなければ生きていけない。だから、目覚めている間は動いて、食物を獲得して、イノチを維持していく。そして、満腹になれば、寝る。その繰り返し。イキモノの生は単純明快。勿論、いつも食物が確保できるとは限らず、空腹を抱えて苦しむこともあるだろう。しかし、基本的には「食って寝る」、生きるとはその単純な繰り返しに尽きる。それ以上の「本当」はない。ところが、人はそうしたイキモノの「本当」を踏み越えていく。「食って寝る」という剥き出しの生(ゾーエー)の循環だけでは満たされず、それ以上の生(ビオス)の次元を切り拓く。とは言え、「睡眠が主で覚醒は従」ということに即せば、ゾーエーが「実」でビオスは「虚」ということになる。やはり大いなるゾーエーの円環の充「実」にこそ人生の「本当」を見出すべきであって、ビオスは人生の「虚妄」とすべきなのか。実際、ゾーエーなくしてビオスはあり得ないことを考えれば、ビオスはせいぜいゾーエーの充実後の娯楽程度に考えるのが無難かもしれない。しかし、たといビオスが巨大なゾーエーの氷山の一角だとしても、私は敢えてその一角に「本当」を創り出したい。それは如何なるドラマを生み出すのか。ゾーエーの円環上にもドラマは展開するが、それを包摂するビオスのドラマが望まれる。水平のドラマを包摂する垂直のドラマ。その基本構図はキルケゴールの実存弁証法に他ならない。
誰が本当に生きているのか(9)
「創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動とからできあがっている」とはシモーヌ・ヴェイユの言葉だが、水平的「本当」と垂直的「本当」は重力と恩寵の関係において理解できる。大雑把に言えば、我々が現実に生活する水平の次元は重力に支配されている。それは自然界の重力だけではなく、政治的な圧力、経済的な圧力など、様々な形で我々の日常生活を抑圧している。例えば、大国の圧力、政府の圧力、会社の圧力、学校の圧力、家庭の圧力等々。そうした圧力に人は日々圧し潰されそうになっている。苦しくて堪らない。それ故、何とかして重力に抵抗しようとする。そこに水平的「本当」の生き方がある。では、如何にして重力に抵抗するのか。重力の下降運動に対抗できるのは恩寵の上昇運動であろう。恩寵の自覚によって垂直の次元が切り拓かれる。ただし、恩寵に身を委ねることに垂直的「本当」はない。恩寵による重力からの解放を信じるとしても、我々は無重力に生きることなど望まないからだ。重力は我々の生活を抑圧する暴力と化すけれども、さりとて重力なしには生きられない。そこでヴェイユの言う「二乗された恩寵の下降運動」が要請される。恩寵は本来上昇運動ではあるが、下降運動でもある。上昇運動が恩寵の往相だとすれば、下降運動は還相だ。その二重運動に私は垂直的「本当」の生き方を見出す。そして、重力に抵抗する水平的「本当」は恩寵と共働する垂直的「本当」と相即することで理想社会(祝祭共働態)を創造していく。人生の「本当」はそうした創造活動にあると私は考えている。
誰が本当に生きているのか(8)
通常、人は生きていることに「本当」を意識しない。生きている現実しか目に入らず、如何にして幸福になるかとばかり思い煩う。それは大抵「家庭の幸福」であり、『アンナ・カレーニナ』の冒頭にあるように、全て互いに似通っている。しかし、不幸はそれぞれ異なる。人は不幸という躓きの石において、生きることの「本当」を意識し始める。これは単に「病気や怪我をして初めて健康の有難さを知る」と等しきことであろうか。確かに、健康な人は自らの健康を意識しないように、幸福な人も自分が幸福だとは意識しないだろう。けれど、健康には客観的な正常値があるが、幸福にそのようなものはない。健康であっても不幸な人はいるし、健康でなくても幸福な人もいる。また、宮澤賢治が言うように、世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はあり得ない、ということもある。自分だけが幸福になっても、それは「本当」の幸福ではない。一体、「本当」の幸福とは何か。かくして生きることの「本当」が問題になる。極言すれば、人は「本当」に生きるために死を選ぶこともある。「本当」には「生命尊重以上の価値」があるからだ。勿論、全ての人がそのように過激な「本当」に殉じるわけではない。むしろ、大半の人は金太郎飴のような「家庭の幸福」に安住しようとする。安住できるなら、それに越したことはない。しかし、生命尊重以上の過激な「本当」の対極に生命尊重の穏やかな「本当」があるとしても、それは幸福に安住するようなものではない筈だ。「本当」は幸福を超えていく。さりとて私は決して幸福を否定するつもりはないし、「本当」が不幸にあるとも思わない。不幸はあくまでも「本当」への躓きの石にすぎない。幸福と不幸を超越する「本当」は重力と恩寵の糾える縄の如し。
誰が本当に生きているのか(7)
私の思耕は根源的にズレている。その錯誤を深く自覚している。マトモ(正常)な人は見向きもしない。それでいい。その方がいい。そう思いながら、私は自らのズレに執著する。どうしてだろう。私は山本周五郎のような作家になりたかった。と言うより、山本周五郎が描くような「本当」の生き方に憧れた。それにも拘らず、私はその「本当」からズレる生き方を求めている。生ある限り、そのズレを問題にせざるを得ない。それが私の運命であり、僭越ながら使命だとも思っている。「本当」に生きることのズレ。鄙見によれば、山本周五郎は水平的「本当」を極めている。武士と町民や農民では生き方が異なるものの、水平的「本当」は通底している。人としてお天道様に恥じない生き方。水平的「本当」に貫かれた社会は理想だ。誰もが正しく誠実に生きたいと願っている。それができないのは何故か。金や権力・名声に目が眩むのは露骨過ぎて微笑ましくもあるが、究極的な問題は名もなき庶民の求める幸福な生活そのものにある。太宰治はそれを「家庭の幸福は諸悪の本」という一言に集約したが、幸福になるのはいけないのか。いけないと言えば、それはマトモな論理を超えている。幸福は水平的に生きることにある。決して平坦な道ではないが、それぞれ幸福になろうと懸命に生きている。悪い道理がない。しかし、そうした水平的「本当」を垂直的に超える「本当」がある。もし垂直的「本当」が真理だとすれば、水平的「本当」を描く山本周五郎は追放されるべき詩人だろうか。垂直的「本当」と水平的「本当」。二つの「本当」は「人が人間になる」理想に欠かせない。
誰が本当に生きているのか(6)
正常は客観的に割り出される。その正常値を基準にして身心の健康が診断される。疑問の余地はない。ところが「本当」は主観的に判断される。他人の目には異常だと映っても、自分にとってはその異常が「本当」になることがある。胡散臭いカルト宗教を信じ込んでいるような場合、他人がいくら合理的に説得しても、その固い信仰が揺らぐことはないだろう。むしろ、世間の批判が激しくなればなるほど、信仰共同体はその結束を強めていく。これは何もカルト宗教に限ったことではない。世の中には様々な「本当」が渦を巻いている。今も世界のあちこちで戦争が起こっているが、それは「本当」と「本当」の衝突に他ならない。そして、力の強い「本当」が弱い「本当」を屈服させていく。力で「本当」が決められていく世界の現実。これに対して理想はどう闘えばいいのか。「無力」を力とするしかないが、それは現実の力に勝てるのか。いや、勝負ではない。勝負は力の支配によるものなので、理想はそれとは質的に全く異なる闘いをしなければならない。「無力」は無抵抗ではなく不服従を貫く力だが、その「本当」は垂直の次元からやって来る。水平の次元における現実の力と垂直の次元から到来する理想の力。結局、この拙い便りは後者の伝達を目的とするものだけれども、どうしても歯切れが悪くなってしまう。結果、カルト宗教の「本当」との差異を明確に言い切ることができない。私もまた、胡散臭い「本当」に憑かれているだけなのか。紙一重の差異。「本当」は人を狂わせる。「本当」がなくても、いや「本当」などない方が人は幸福に生活できる。それでも「本当」に生きようとするのは何故か。私自身、よくわからない。誰にもわからない。
誰が本当に生きているのか(5)
結局、私のズレていく思耕はなりたかった者になれなかった者の歪んだ欲望に起因するのではないか。ルサンチマンと言ってもいい。所詮、その程度の的外れの思耕にすぎない。そう見做されても仕方がない。実際、子供の頃に憧れていたプロ野球選手になれていたら、おそらく私は人生の「本当」についてなど考えなかっただろう。その夢に挫折して、私は「本当」に生きる理想を考えざるを得なくなった。とは言え、夢に挫折したのは私だけではない。むしろ、順風満帆な人生は稀だと言える。とすれば、夢の挫折が必ずしも人を理想へと導くとは限らない。殆どの人はなりたかった者になれなくても水平の次元を超えることはない。理想などなくても人は結構幸福に生活していける。では、一体何が人を生きることの「本当」に直面させるのか。天災や人災の不幸が契機になることも考えられるが、夢の挫折と同様に決定的なものではない。順風満帆な人生に恵まれても、その幸福が永続するわけではない。栄枯盛衰、盛者必衰。現世(水平の次元)の無常観が垂直の次元への道を切り拓く可能性は大いにある。余談ながら、十五年前の大震災で亡くなった人と話すために設けられた「風の電話」をめぐるドキュメンタリイを観た。「風の電話」は今や海外にも広がっているようだが、電話線のない電話は一体何処に繋がっているのか。それぞれの垂直の次元だ、と私は思った。愛する人が亡くなっても愛の関係は続いている。人はその関係を確かめるために「風の電話」に足を運ぶ。そして、実際に愛する人と話をする。垂直の次元で。しかし、垂直の次元に人生の「本当」はない。更に言えば、垂直の次元に「本当」を見出してはならない。繰り返し述べているように、垂直の次元は「何処にもない場」であり、そこで生きることはできないからだ。人が生きる場所は水平の次元しかない。ただし、垂直の次元への超越なくして人は「本当」に生きることはできない。問題は依然として超越の理解に掛かっている。
誰が本当に生きているのか(4)
正常と本当。何が「本当」なのかはよくわからないが、正常は明白だ。殊に身体に関する異常は痛みとして現象する。恰も機械が故障するように身体は傷む。素人には故障の原因が不明でも、専門家にはわかる。的確に故障個所を見つけ出し、素早く修理する。人の身体も基本的に機械と同じだから、医師が傷んだ箇所を治療する。その箇所が修復不可能なら、新しい部品(臓器)と交換すればいい。結果、痛みは去り正常が戻る。勿論、治療には限界があるが、身体の正常が明白である以上、それを回復する技術は必ず開発されるに違いない。問題は、その技術が暴走して、正常以上を目指す場合に生じる。遺伝子やAIに関する技術がその最先端であろうが、これまで不可能であったことが可能になる。例えば、身体はやがて死ぬのが正常だったのに、不死の身体を所有することになる。これはもはやSFの世界だが、正常以上は異常だと言わざるを得ない。しかし、異常を求めることが精神の正常だとしたらどうなるか。そもそも精神の正常とは何か。「病むべく創られて、健やかにと命ぜられて」とはブレイクの言葉だが、正常からズレていくことに精神の「本当」があるのではないか。我ズレる、故に我あり。