新・ユートピア数歩手前からの便り -2ページ目

補足:死を生きる

イキモノは生きようとする。何が何でも生き延びようとする。そこにイキモノの真実がある。ところが、その真実に反して死のうとする人がいる。他のイキモノにも集団自殺のように見える現象があるらしいが、それは本能によるものだと言われている。純粋な意味での自死ではない。人も重い病気や怪我による苦痛の余り死を望む場合があるが、それも「耐え難い苦痛から解放されたい!」という本能だろう。言わば苦痛に殺されているのであって、純粋な自死ではない。鄙見によれば、純粋な自死はビオスの次元にしかない。従って、ビオスの次元を知らぬイキモノに自死はあり得ない。更に言えば、他のイキモノは単にゾーエーの停止があるだけで、それを「死」と意識することはない。人のみが「死」を先駆的に意識し、自らの意志でゾーエーの停止を望むことができる。とは言え、ゾーエーの次元において、その停止を望むことは原理的にあり得ない。ゾーエーそれ自体は可能な限り健やかに持続することを望む。ただし、先述したように、ゾーエーに故障が生じて非常な苦痛に苛まれる場合にのみ、ゾーエー自ら停止を求める。それは本能による自動制御と言うべきものであり、やはり人に特有の自死とは認められない。私が問題にしたい自死はゾーエーの次元を超越する死、すなわちゾーエーは極めて健康なのに、敢えてその停止を求める死だ。卑近な例を挙げれば、失恋や何らかの挫折で「生きている意味はない」と絶望することに他ならない。「死に至る病」としての絶望はビオスの次元に生じる。それは明らかにイキモノの真実に反することであり、ゾーエーの「実」に比べればビオスの絶望など「虚」にすぎない。実際、せっかく健康なゾーエーに恵まれているのに失恋如きで死ぬのはバカバカしいことだ。失恋した本人の絶望(もう生きている意味はない)は切実だろうが、他のイキモノは「生きる意味」などなくても生きている。ゾーエーの充足を超えてビオスの充実(生きる意味)を求めるのは贅沢なことであり、真実を超える真理も不要不急の「遊戯」だと思われても仕方がない。それにも拘らず、人は真理を求める。もとより恋愛も真理になり得るものの、一般的にはゾーエーの充足だろう。それが真理になるためには「死を生きる」ことが要請される。凡百のチャラチャラした恋愛ではビオスは「本当」に充実しない。

補足:国防の真実と非暴力の真理

戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認という三要素から成る日本国憲法第九条には明らかに非暴力の真理が認められる。しかし、自衛権まで放棄していないという現実的解釈によって日本はかなり大きな戦力を保持している。国防の真実と非暴力の真理は相反するが、国民の大半は真実を支持するに違いない。かの永世中立国スイスさえ戦力を保持している現実からすれば、国防の真実が優先されるのは当然だと言える。しかし、それでいいのか。所詮、真理は画餅にすぎないのか。たといキレイゴトだと嗤われても、真理追求を断念すべきではない!そう叫んだところで全く説得力はないだろう。それほどに真実の力は強い。殴られたら殴り返す真実と殴られても殴り返さない真理。私自身が真理を貫く覚悟を決められたとしても、家族や友人・知人が蹂躙されているのを見過ごすわけにはいかない。抵抗する。ただし、非暴力で。非暴力の真理を貫くとは無抵抗に甘んじることではなく、あくまでも非暴力で抵抗することに他ならない。それは殴られたら殴り返す真実の力とは次元を異にする力を要す。単純な比較は意味を成さないが、真理を貫く力は真実を貫く力を遥かに超えている。結局、力に優る「無力の力」を信じられるか否か。問題はそこに収斂する。「無力の力」を信じたガンディーもキング牧師も力を信じる者に暗殺されてしまった。やはり力が支配する世界の真実は超えられないのか。真理追求の悲哀は世界の片隅に沈澱する。

補足:「裸の王様」の悲哀

「裸の王様」は裸体にも拘らず豪華な衣裳を身に着けていると見做される。豪華な衣裳など何処にもないのに…。従って、「王様は裸だ!」という叫びが真実となる。しかし、この真実は「バカには豪華な衣裳が見えない」という詐欺師(仕立屋)の巧みな虚言によって隠蔽される。誰も自分がバカだと思われたくないからだ。この虚栄心が「ないモノ」を「あるモノ」にし、「見えないモノ」を「見えるモノ」にする。虚栄心とは無縁の純真無垢な子供だけが真実を見抜く。通常、それが「裸の王様」の教訓とされるが、果たしてどうか。「本当」の教訓は真実を見抜くことから始まるのではないか。すなわち、「王様は裸だ!」という真実の叫びが「王様とは何か?」という真理の次元を切り拓く。もし仕立屋が詐欺師ではなく立派な職人なら、王様に相応しい豪華な衣裳が確実に用意されるだろう。民衆はその豪華な衣裳を目にして「王様、万歳!」と叫ぶに違いない。それが真理の叫びであろうか。もし他の誰か、例えば見窄らしい乞食が豪華な衣裳を身に着けても、やはり「王様、万歳!」と叫ばれるのだろうか。もしそうなら、豪華な衣裳が人を王様にしていることになるが、それは明らかに本末転倒だ。さりとて裸体の人を王様と見極めるのは難しい。やはり一般的に人は衣裳で判断する。衣裳に真理が現れるとしても、衣裳はあくまでもモノにすぎない。真理そのものではない。それ故、真実を見抜く力と同様に、真理を見抜く力も要請される。前者は純真無垢な子供に自然に備わっていたが、後者はどうしたら得られるのか。「裸の王様」も「豪華な衣裳の王様」も共に「自分は本当に王様なのか」という悲哀に苛まれている。裸体の真実と衣裳の真理。その葛藤は永遠に続く。

真理追求の悲哀(10)

真実は裸体で、真理は衣裳だ。ゾーエーなくしてビオスはないように、裸体がなければ衣裳は意味を成さない。裸体こそ人の「本当」の姿だと考えることもできるが、裸体は他人に見せるものではない。尤も、ボディビルなどで「見せる裸体」に肉体改造することは可能だが、その場合には盛り上がった筋肉が衣裳になるだろう。衣裳にその人の生きる意味が現れる。裸体は言わば白いカンヴァスであって、衣裳はその上に描かれる絵に他ならない。裸体にどんな衣裳を身に着けるか、白いカンヴァスにどんな絵を描くか、それが問題になる。ところが、現実には誰もが同じ白いカンヴァスを平等に与えられているわけではない。厳密に言えば、「純粋な裸体」というものはあり得ず、白いカンヴァスには既に何かしら描かれている。それは生来の能力(格差)もさることながら、生まれ育った場所の風土や文化・習慣、更には家庭環境(経済状況も含む)といった下絵だ。当然、望ましい下絵もあれば、忌まわし下絵もある。素晴らしいピアニストの絵を夢見ても、生活環境的にも経済的にも貧弱な下絵ではその夢は叶わない。能力の下絵は仕方がないかもしれないが、それ以外の下絵は可能な限り水平化すべきだろう。例えば、英語が実質的に国際語となっている現状において、英語を母語とする者は国際的に極めて有利な立場にある。この英語帝国主義と称される特権的な下絵をエスペラント語のような中立語によって水平化する必要がある。ただし、言語の水平化はそれぞれの母語(民族語)を廃止して中立語だけに統一することではない。水平化は均一化ではなく、むしろ逆にそれぞれの差異を活かすものでなければならない。そうした「世界の水平化」は真実において要請される革命だが、真理追求の往相でもある。「世界の水平化」、すなわち真実による水平革命は真理の次元を切り拓く。それは「世界の垂直化」、すなわち真理による垂直革命に接続すると言ってもいい。その接続が真理追求の還相となる。問題はあくまでも、どんな衣裳を身に着けるか、もしくはどんな絵を描くか、にある。そのことにおいて人は基本的に自由であるが、そこには否応なく「律」が生じてくる。自由に衣裳や絵を決めているように思われても、実際は至る所で鎖に繋がれている。その鎖が「律」であり、他律から自律へ、そして更に神律へと深化していく。真実の裸体から遠く離れて、真理の衣裳は絶えず「裸の王様」の危殆に瀕している。

真理追求の悲哀(9)

私は単純な男なので、真理が貫かれるドラマを好む。ただし、真理は常に真実との関係においてある。その関係は錯綜しているので一筋縄ではいかない。昨日の便りで述べたように、真実に反して真理に生きることもあれば、真実に徹することが真理に繋がることもある。私は基本的に「ゾーエーの真実とビオスの真理」という対比で思耕しているが、真理は常に「真実にも拘らず」という逆説を胚胎している。すなわち、「生命尊重」の真実にも拘らず「生命尊重以上の価値」という真理にイノチを懸ける、というように。この点、「生命尊重」は「生活第一」とも言えるが、「生活上の真実」と「事実としての真実」は微妙にズレていく。例えば、或る大企業の自動車会社が自社製品のリコール隠しを画策する。これは池井戸潤原作の『空飛ぶタイヤ』というドラマで描かれた問題だが、そのリコール隠しを命じた大企業の常務は「社員全体の生活を守るためには已むを得なかった」と嘯く。「会社組織を守るため」と言っても実質的には同じことだが、そこには「生活上の真実」がある。会社を守るため、自分の生活を守るため、自社製品(トラック)の致命的欠陥という「事実としての真実」を隠そうとする。「生活上の真実」のために「事実としての真実」が隠蔽されるわけだ。されど、ドラマでは自社のリコール隠しを内部告発する社員が現れる。言うまでもなく、この社員は自社の倒産及び自らの失業を覚悟している。つまり、自分の「生活上の真実」を犠牲にして「事実としての真実」を暴いたのだ。ここに真理のドラマがある。もとより現実はドラマのようにいかないだろう。「生活上の真実」(失業したくない!)のために自社のリコール隠しに加担もしくは見て見ぬふりをするのが大半かもしれない。実際、曲がりなりにも大企業の社員でいれば「家庭の幸福」は約束されたようなものだ。その幸福を棄ててまで真理を貫く意味はあるのか。意味はない。それが真実だ。その真実にも拘らず、真理は追求される。真実を踏み越えていく悲哀の中で。

真理追求の悲哀(8)

ゾーエーの真実とビオスの真理。水平的に生活する日常において二つに引き裂かれることは殆どないが、踏絵の試練は必ずやって来る。踏絵はかつての隠れキリシタンに限られたことではない。学校や会社などの組織の中でも、同調圧力に屈するか否かの瞬間が襲ってくる。誰かが虐められている時、「やめろ!」の一言を発せられるかどうか。会社の組織ぐるみの不正を知った時、それを告発できるかどうか。踏絵は至る所にある。踏むか、踏まないか。踏めばイノチは助かる。しかし、魂は死ぬ。踏むことを決然と拒絶できる人は、イノチが途絶えても魂は永遠に続くと信じている。イノチが「実」で、魂の永生は「虚」だ。イノチが消滅した後のことなど誰にもわからない。そんなわからないものにイノチを懸けられるだろうか。真実に忠実な者、更に言えば真実しか信じない者は決してイノチを棄てるようなことはしない。如何なる状況であろうと、イノチ以上に大切なものなどこの世には存在しないからだ。されど現実には、自分のイノチを犠牲にして他者のイノチを救おうとする奇特な人がいる。あるいは、他者に自分のイノチを奪われても信念を貫こうとする人がいる。こうした人は真実に反して真理に生きる。真実に生きている人にとっては、大切なイノチを「虚」に懸ける狂人にしか思えないだろう。果たして、「生命尊重以上の価値」はあるのか。それを信じる者は狂人なのか。真理追求は否応なく悲哀を伴う。

真理追求の悲哀(7)

私の思耕は真実を貶めていると思われるかもしれないが、決してそうではない。私もまた基本的に世界が真実によって貫かれることを望んでいる。因みに、私は今日『でっちあげ:殺人教師と呼ばれた男』と題する映画を観た。自分の子が担任教師から酷い体罰を受けていると妄想する異常な母親によって告発され、その「でっちあげ」を鵜吞みにした学校や教育委員会から厳しく処分され、マスコミからも「殺人教師」の烙印を押されて苦悩する小学校教諭の話だ。実話に基づいているとのことだが、こうした冤罪はしばしば問題にされている。幸いこの小学校教諭の場合、親身になってくれた弁護士や杜撰な証言を内部告発してくれた善意の人の御蔭で冤罪は晴れたが、世の中には汚名を着せられたまま無念の死を迎えた人も少なくないだろう。刑事事件の有罪率は99.9%だと言われるが、検察の過度の威信のせいで冤罪と知りつつ有罪にする理不尽がドラマでもよく描かれている。こうした理不尽が世界から一掃され、「真実の世界」が実現することを誰もが願っているに違いない。とは言え、「不都合な真実」の隠蔽は依然として続いている。地球温暖化の真実もさることながら、企業の利益に反する真実はないものとされる。また組織を守るために真実が歪められることもある。総じて弱者の真実は強者にとって不都合となる。「真実を明らかにすることが必ずしも正しいとは限らない」――権力者は大抵そう弁明する。言うまでもなく、真実が不都合とされる世界は間違っている。そして、権力者に都合のいい真実だけが横行する世界は腐敗している。では、世界の腐敗は如何にして克服されるのか。私は先に「世界が真実によって貫かれることを望んでいる」と述べたが、それは真実の力だけでは果たされないと考えている。むしろ、真実だけが支配する世界はどうしても歪んでしまう。何故か。真実は相対的なものだからだ。もとより冤罪の真実は一つ(罪を犯していない)だが、人々の生活の真実は複数になる。強者の真実もあれば、弱者の真実もある。どちらか一方の真実だけが支配的になれば、世界は確実に歪む。そこで真理の力が要請される。ただし、それは悲哀に満ちた「無力の力」に他ならない。真理は弱者の真実も強者の真実も共にde-constructする。

真理追求の悲哀(6)

柄谷行人氏は安吾について次のように述べている。

 

坂口安吾は、われわれを根源的に突きはなす何かを「文学のふるさと」と呼んだ。「ふるさと」とは、帰りついて安堵するような自己同一性ではなく、われわれを突きはなし無根拠のなかに生きることを迫るような「他なるもの」のことである。だが、同時にそれは、われわれをたえず生きる方向に鼓舞する。その意味で、安吾は私にとっていつも懐かしい「ふるさと」である。完成とは無縁だった安吾の作品は、日本の知性上の事件として現在形において在りつづけている。

 

ここには真理が息づいている。一般的には「帰りついて安堵するような自己同一性」の場所が故郷と見做される。安吾の言う「文学のふるさと」は異郷と称すべきだろう。故郷に安住したいという自然の情が真実だとすれば、真理はそれを踏み越えていく。「ふるさと」はもはや安住の地ではなく、「われわれを根源的に突きはなす何か」だ。故郷喪失は不可避であり、全世界を異郷とすることに「本当」の生がある。されど、その真理は悲しい。「無根拠のなかに生きる」とは根無し草として生きることに等しいからだ。その悲しさ故に、人は何処かに根付こうとする。そして、その何処かは故郷である場合が多い。つまり、故郷の真実に回帰しようとする。それはアルカディアへの回帰を意味するが、果たして可能だろうか。私は甚だ疑問に思うが、自然に即した生活を望む人はいるに違いない。そのライフスタイルを否定する権利も資格も私にはない。ただ、アルカディアへの後向きの運動は意味がないと思っている。楽園に回帰しても、その喪失を繰り返すだけだ。アルカディアの反復を望むなら、それは前向きの運動でなければならない。すなわち、故郷喪失を前提とした上で「ふるさと」をつくる、ということだ。ただし、前向きに反復されたアルカディアは実質的に異郷に等しく、パラダイスとも対峙する。アルカディアか、パラダイスか。真実を踏み越えた真理はその狭間で揺れ動く。

真理追求の悲哀(5)

真理の追求が悲しいのは何故か。真実を踏み越えていかねばならないからだ。真実はゾーエーの「必要」であり、自然に即して生きることでもある。どこか故郷に似ている。いつまでも故郷で暮らしたい。それは自然の情であり、幼い頃は誰もがそう願っているのではないか。故郷は存在の本来性が見出され、ゾーエーの「必要」が満たされる場所であるからだ。しかし、それはやがて幻影と化す。故郷それ自体の変化もさることながら、人は成長するからだ。余談ながら、「国民的アニメ」と称される『サザエさん』が六十年に及ぶ長きに亘って人気を博しているのは、そこに多くの人が「失われた故郷」を見出しているからだと思われる。どうして「サザエさん一家」が人々の故郷であり続けられるのか。それは登場人物が全く成長しないからだ。サザエさんはいつも若々しく、波平もフネも相変わらず元気で、カツオもワカメもずっと小学生のまま「永遠に循環する時」を生きている。そんなことは現実にはあり得ない。否応なく親の介護や財産の相続、子の受験や就職などの諸問題が生じてくる。故郷喪失は不可避だ。いつまでも子供のまま生きられないのと同様に、人は存在忘却を余儀なくされる。それでも故郷の幻影は残る。『サザエさん』同様、映画『男はつらいよ』も長きに亘って人気を博しているが、観客は葛飾柴又にそれぞれの故郷の幻影を求めているに違いない。車寅次郎自身、繰り返し故郷・葛飾柴又に戻って来るが、やがて再び旅に出ざるを得なくなる。「葛飾柴又でサクラやおいちゃんおばちゃんと暮らしたい」という真実を踏み越えて旅に出る――「そこが渡世人のつらいところよ」と寅さんは言うが、真理追求も然り。寅さんが真理を求めて旅を続けているとまで言うつもりはないが、真実に安住しているサザエさんとは明らかに違う。渡世人の寅さんには悲哀が感じられる。

真理追求の悲哀(4)

生きる意味は「必要」と密接に関係している。それは「生活の必要」と言ってもいい。幼い子供は生きる意味を問わない。親が「生活の必要」を満たしてくれるからだ。親から自立して自分で自分の「生活の必要」を満たさざるを得なくなって、ようやく子供は自分の生きる意味について考え始める。すなわち、如何にして「生活の必要」を満たすか、その問いが生きる意味を形成する。一般的にはそのように考えられるが、果たして「本当」にそうか。「生活の必要」とは主に「食うための必要」だが、食うに困らぬ生活に生きる意味を問う必要はないのか。確かに、生きる意味を失うのは失業などによる生活困窮者が多い。つまり、貧困生活には生きる意味がない。だから再就職して「生活の必要」が安定すれば、生きる意味もまた回復する。しかし、「生活の必要」が満たされても、いや「生活の必要」が満たされた後にこそ、人は「本当」に生きる意味を問うのではないか。誤解を恐れずに言えば、人が「本当」に生きる意味は「生活の必要」を超越している。私は別に「生活の必要」を蔑ろにするつもりはない。「生活の必要」の充足とは言わばゾーエーの充足だが、それが幸福であることは間違いない。実際、殆どの人はその幸福を求めて生きている。されど、人の幸福はそうした水平的幸福に尽きるものではない。「生活の必要」が満たされる幸福が真実だとしても、それを超える真理がある。ただし、真理は悲哀に満ちている。「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」と牧水は歌ったが、「空の青海のあを」という色の真実に染まることのない白い鳥は孤独に真理を求めて漂い続ける。