されど仲良き大調和(7)
何のために思耕しているのか。よくわからなくなる時がある。今もそうだ。誰も私の思耕など望んでいない。私はマトモに生きてこなかった。マトモに就職し、マトモに結婚し、マトモに家庭を築く、ということをしてこなかった。ただ「本当」に生きることだけを思耕して生きてきた。それは日常生活を蔑ろにして一日の大半を日記ばかり書いているようなものだ。日記の目的が日常生活の出来事を記すことにあるとすれば、私の人生は明らかに本末転倒している。そんなマトモでない男の思耕に誰が関心を懐くのか。多くの人の関心はマトモに生きられない苦しみ、すなわちマトモに就職できない苦しみ、マトモに結婚できない苦しみ、そしてマトモに家庭を築けない苦しみといった水平的な問題にある。私もそうした問題に無関心なわけではないが、さりとて究極的な問題ではない。尤も、究極的な問題を重視すること自体が既にマトモではないかもしれないが、幸か不幸か、私の思耕は水平の次元を超えていかざるを得ない。実際、客観的には私のマトモでない人生はかなり惨めなものだが、究極的な問題に憑かれている私は全く意に介しない。むしろ、マトモな水平的幸福以上の問題に無関心でいることの方に危機感を覚えている。その無関心から世界の腐敗は始まっている、と言ってもいい。それは「家庭の幸福は諸悪の本」という太宰の言葉にも通じている。もし人が「家庭の幸福」に象徴される水平的幸福を至上のものとして生活するなら、世界に分断の壁があろうとなかろうと関係ないだろう。あるいは、水平的幸福が確実に保障されるなら、強大な支配者に「自発的隷属」もするに違いない。水平的幸福を求めることがマトモだとしても、それがどんなに甘美な幸福だとしても、マトモでない私はそこに人が生きる「本当」を見出さない。ただし、私には未だ水平的問題から究極的問題へと超越する契機がよくわからない。ハイデガーなら「世人」の頽落態を打破する「良心の呼び声」と言うだろうが、それは現実にどう作用するのか。究極的な思耕は依然として垂直の次元を彷徨い続けている。
されど仲良き大調和(6)
生き延びるために人は壁を築く。しかし、「本当」に生きるためには壁を壊さねばならない。これはキレイゴトだろうか。ベルリンの壁の崩壊によって世界中の壁が連鎖的になくなるものと期待されたが、逆に壁は増え続けている。世界は危険に満ちている。人を見たら狼と思え。多様性の尊重と言うけれど、異常性と何が違うのか。何処までが正常で、何処からが異常なのか。壁の重要性は高まるばかりだ。「壁なき平和」などと甘いことを言っていると、盗人に何もかも奪われてしまう。実際、スパイ天国と嗤われている日本では軍事的にも産業的にも防壁の強化が急がれている。その現実は否定できないが、壁に守られた生活に「本当」に生きる充実はあるのか。おそらく多くの人は「本当」の生よりも平穏無事な生活を選ぶだろう。私にその選択を非難する資格はない。批判はしたいが、説得力のある言葉を未だ見出せないでいる。確かに、壁によってゾーエーの充足は守られる。平穏無事な生活が維持されて、その上でそれぞれの好きなことに没頭できる。それを以てビオスの充実だと思う人もいるだろうが、私は納得できない。ビオスの充実と壁は両立しない。何故か。ゾーエーの充足が個別的なものであるのに対し、ビオスの充実は個人だけでは得られないからだ。それは「我々の生の充実」であり、我のビオスは君のビオスと無関係ではない。従って、ビオスの充実は君と我との間の壁を脱構築(deconstruction)する。ただし、厳密に言えば、それは壁の破壊(destruction)ではない。我のビオスと君のビオスが融合するわけではないからだ。問題はその二つが如何に交通するかにある。
されど仲良き大調和(5)
君は君、我は我也。「だから」分断。それが自然であり現実的でもある。「されど」仲良くする必要などあるのか。それは理想かもしれないが、自然に反する。尤も、自然は多様性に満ちており、そこには共生もあるが、ライオンとシマウマは共存できない。ライオンはライオン、シマウマはシマウマ也。棲み分けて、それぞれの王国を築くに如くはなし。特にシマウマが生き延びるためには分断の壁が不可欠だが、シマウマにそれを築く能力はない。結果、「食う-食われる」の関係から解放されることもない。自然は常に弱い者が強い者に食われる危険性を孕んでいる。多様性の自然は危険性の自然でもある。弱いシマウマはそうした自然に甘んじるしかないが、人は違う。他のイキモノを食っても、人が食われる危険性のない自然に制御してきた。それでも「万人の万人のための闘争」の自然は未だ制御できていない。ライオンとシマウマの関係は人の社会にもある。ただし、シマウマと違って、人は分断の壁を築くことができる。君等は君等、我等は我等也。分断の壁は取り敢えず平和をもたらす。しかし、壁は絶対では ない。壁を破壊せんとする黒船は必ずやって来る。壁がもたらす平和(分断の平和)に限界があるとすれば、その限界は如何にして克服されるのか。壁なき平和、すなわち「されど」仲良くすることは可能なのか。
されど仲良き大調和(4)
君は君、我は我也。君と我は違う。この差異性から如何にして仲良き関係を築くか。この問いは明らかに背理を孕んでいる。通常、仲良き関係は同一性に基づいているからだ。差異性に基づく仲良き関係などあり得ない。中日ファンは巨人ファンと仲良くできない。尤も、全日本として外国のチームに対する場合には両者は仲良くできるが、それは全日本という同一性に基づいているからにすぎない。その同一性がなくなれば、中日ファンと巨人ファンとの差異性が甦ってくる。ただし、プロ野球ファンという別の同一性に基づけば、差異性を楽しむことができる。中日ファンと巨人ファンは対立するが、その対立が楽しい。全ての人が巨人ファンになってしまったら、プロ野球の楽しみは成立しない。同一性における差異性が楽しみを生み出す。差異性は必ずしも分断の壁を築くとは限らない。分断の壁を築くのはあくまでも差異性を認めない同一性だけだ。私は先に「差異性に基づく仲良き関係などあり得ない」と述べたが、対立を楽しむ関係を仲良き関係に含むなら事情は変わってくる。すなわち、同一性に基づく仲良き関係とは別に、差異性を享受する仲良き関係が考えられる。勿論、二つの仲良き関係は質的に全く異なっている。前者から見れば後者は敵対関係でしかなく、後者から見れば前者は馴れ合いに堕している。単純に、前者は喧嘩を許容しない仲良き関係、後者は喧嘩を胚胎した仲良き関係、と言ってもいい。どちらが「本当」の仲良き関係なのか。既に老化が進行している私の頭ではよく理解できないが、分断の壁を築く同一性は実質的には画一性であり、そこに調和の理想にとっての最大の問題があると思っている。
されど仲良き大調和(3)
調和よりも分断。壁を築いて異質なものが侵入して来ないようにする。壁の内側は安泰。同質なものだけが住んでいるからだ。同質なもの同士は争わない。ただし、「本当」に同質かどうかを見極めるのは至難の業だ。同じ日本人でも同質とは限らない。日本は日本人が住む場所だと言っても、そもそも日本人とは何か。国民国家は明治維新によって成立したと言われるが、「日本人かくあるべし!」という国民意識には人工的な臭いがする。日本人として生きる以前に、もっと自然に生きたい。自然に生きる幸福に国の壁など必要ない。そう考える人も多いと思われるが、「自然に生きる」とは何か。それがゾーエーの循環を中心に生きることであるならば、その幸福を脅かす敵の侵略を防ぐ壁がやはり必要になる。しかし、一体誰が敵なのか。国民意識をディコンストラクションして「自然に生きる」民衆に根を下ろしても、異なる民衆の間で略奪が生じる。A村の民衆とB村の民衆の対立。どうしてそんな馬鹿げた対立が生じるのか。同じ「自然に生きる」幸福を求める民衆同士ではないか。暮らしている村の違いなど関係な い。A村であろうとB村であろうと、「自然に生きる」同じ場所なのだ。そこに異質なものが入り込む余地はない。ところが、現実には分断の壁ができている。「自然に生きる」故郷を求めても、そこはいつしか異郷となっている。異質なものは何処からやって来るのか。
されど仲良き大調和(2)
調和は多様性を前提にしている。様々な色の花が咲き誇るから調和の花園は成立する。唯一色の花に画一化された花園に調和はあり得ない。しかし、現実に調和は可能なのか。ロシアとウクライナ、中国と台湾の間に調和は実現するのか。むしろ、大国であるロシアや中国による小国の画一化に平和が期待できるのではないか。それは大審問官の論理による平和であるが、とにかく戦争は回避できる。調和の理想と画一化の現実。余談ながら、先日のNHKスペシャルでは『激変 安全保障:日本の針路は』と題して、最近の防衛力強化の傾向について主に憲法学者と政治学者が意見を戦わせていた。両者共に理想と現実に引き裂かれている苦しみにおいては同じだが、どちらかを尊重する決断をしなければならない。今のところ、日本国民の多くは未だ「憲 法九条」の理想を信じようとしているようだが、その思いはいつ決壊してもおかしくない。緊張高まる世界情勢が更に悪化すれば、現実的な防衛力強化に賛同する人は増加していくだろう。イノチの危機に瀕すれば誰だってそうする。それにも拘らず、非暴力の抵抗を続けることができるだろうか。非暴力は服従ではないものの、現実には服従と同じ結果になる。殺されるか、画一化を余儀なくされる。非暴力の抵抗を貫くことは不可能に近い。無理だ。されど垂直先生はその無理を通そうとする。垂直先生は狂人であろうか。
されど仲良き大調和
三谷隆正の「The Profound Unity」と題する英文エッセイを読んだ。その冒頭で三谷氏はフランスの或る批評家が大略「ヨーロッパには多様性と調和(diversity and harmony)があるが、アメリカには画一性(uniformity)ばかり目立って全く調和がない」と述べていることを紹介している。アメリカに多様性がないかどうかはよくわからないが、その批評家はヨーロッパ社会の自然性とアメリカ社会の人工性を対比させたいのだと拝察される。自然は多様性に満ちている。大きいものもあれば、小さいものもある。強いものもいれば、弱いものもいる。それは一見理不尽にも思えるが、全体としては調和がとれている。ただし、それは言わば弱肉強食の調和、すなわち弱いものが強いものに食われることで循環していく調和だ。それを自然の調和と称するならば、それに反抗する人工の調和も考えられる。例えば、蛇行する川は洪水を起こすが、その後に土地を肥沃にするという循環の調和がとれている。それに対して川の流れを真っ直ぐにすることは洪水が起きない調和を人工的につくることを意味する。尤も、先のフランスの批評家の見方によれば、人工的な自然の改作は調和ではなく画一性を意味するに違いない。デコボコしていながらも調和している自然を平にすることは自然の画一化と言われても仕方がない。しかし、画一化された自然こそ我々の生活に都合の良い自然ではないか。快適に制御された「人工的な自然」の理想。新世界としてのアメリカに画一性が目立つのは当然だと言える。問題は、アメリカにせよ、ヨーロッパにせよ、今や調和には程遠い分断の時代に直面しているという現実にある。多様性と分断は質的に異なる筈なのに見分けがつかなくなっている。結果、「君は君、我は我也。だから分断」という短絡が横行している。全く情けない話だ。「君は君、我は我也。されど仲良き」という多様性を尊重した調和の理想は何処に行ったのか。その大調和の理想を取り戻すためにも、我々は今一度分断をもたらす画一性の理想について思耕しなければならない。
補足:「為すべきこと」と義務
通常、「為すべきこと」は「嫌なこと」だと見做される。嫌でも為さねばならない。それは義務だ。徴兵制のある国では、一定年齢に達すると兵役が「為すべきこと」になる。如何なる理由であれ、人を殺すのは「嫌なこと」だが、その国で生活している以上、国民として「為すべきこと」、すなわち義務から逃れられない。逃避すれば非国民と見做される。これは畢竟「嫌なこと」の強要ではないか。そんな「為すべきこと」が理想である道理がない。イマドキの若者たちの多くはそう感じるに違いない。自分たちは「嫌なこと」などしたくない。可能な限り「好きなこと」をして暮らして生きたい。それが自然であり、自分に正直に生きることだ。若者たちの感覚は間違っていない。そして、その感覚は「為すべきこと」から解放されて「好きなこと」に没頭できる社会を理想とする。それは個人の私的領域を至上のものとする理想でもある。「好きなこと」は私的領域の産物であり、「為すべきこと」は公的領域において命じられる。とは言え、人は孤立しては生きていけない。加えて協同した方が何かと便利なので、公的領域の必要が全くなくなるわけではない。ただし、その必要はあくまでも私的領域のためのもの、すなわちそれぞれの個人が自分の「好きなこと」に心置きなく没頭できる環境を整えることに限られる。公共サービスを享受するために最低限の「為すべきこと」を要求されるとしても、私的領域を犠牲にするような公的領域は過去の遺物と化した。今や滅私奉公は狂人の戯言でしかない。しかし、「本当」にそうか。滅私奉公と似た言葉に則天去私があるが、両者は同じ意味なのか。質的かつ絶対的に違う、と私は思う。「為すべきこと」は断じて強要される義務の如きものではない。それは「好きなこと」と「嫌なこと」を共に超越している。
補足:傾向性(Neigung)の奴隷
『沼にハマってきいてみた』というテレビ番組がある。「沼にハマる」とは「趣味に没頭して抜け出せなくなること」を意味するイマドキの言葉らしいが、番組では様々な「沼」が紹介されてきた。最近では「鉄道切符沼」や「扇風機沼」があった。鉄道の切符を収集する思いくらいなら何となく理解できるが、扇風機を集めたり自分で作ったりする思いはよくわからない。しかし、それぞれの「沼」にハマった人は皆楽しそうだ。おそらく、自分の「好きなこと」をしている充実感があるからだろう。この人たちは明らかに怠けていない。「沼」にハマって忙しく日々を過ごしている。そうした幸福を私は否定するつもりはない。されど、野暮を承知で言えば、「好きなこと」は「為すべきこと」ではなく、「沼」の幸福は「本当」の生の充実には程遠い。この見解には殊に若者たちからの強い反撥が予想される。「好きなこと」に没頭して何が悪い。自分たちにとっては「好きなこと」が「為すべきこと」だ。多くの若者たちはそう主張するに違いない。私とて趣味や娯楽に没頭することが一概に悪いとは思わない。自己破産や他人様の迷惑にならない限り、どんな「沼」にハマろうとその人の自由だし、その幸福も認める。それにも拘らず、私はやはり「好きなこと」と「為すべきこと」は厳密に区別すべきだと考える。「好きなこと」は水平の次元における傾向性にすぎない。それに対して「為すべきこと」は垂直の次元からやって来る。ただし、水平の次元にも「為すべきこと」はある。問題は「本当」の「為すべきこと」を見極めることにあるが、それは至難の業だ。「好きなこと」をする快楽(カイラク)に優る「為すべきこと」をする快楽(ケラク)を未だ殆ど誰も知らない。
補足:多忙な怠け者
怠け者とは「為すべきこと」をしていない人だ。学生の「為すべきこと」が勉強ならば、勉強しないでブラブラしている学生は怠け者と見做される。しかし、勉強しないで部活動ばかりしている学生はどうか。部活動も学生の重要な活動だとすれば、怠け者と見做されることはない。では、勉強にも部活動にも熱心ではない所謂「帰宅部」の連中はどうか。更に不登校生はどうか。学校の活動としては殆ど何もしていないので怠け者と見做される可能性が高いが、帰宅して、あるいは部屋に引きこもって、自分の「好きなこと」をするのに忙しいのではないか。極端な話、「何もしないでボーッとしていること」も一つの行為であり、それも「好きなこと」に含まれる。されど、「好きなこと」が何であれ、例えばマンガやゲームにどんなに多忙でも怠け者の汚名は返上できない。「為すべきこと」をしていないからだ。そこで怠け者は考える。「為すべきこと」と「好きなこと」との差異は何か。そこには場所の力が働いている。すなわち、学校という場所がそこに身を置く学生の「為すべきこと」を規定する。従って、その場所から離れて学生でなくなれば、取り敢えず「為すべきこと」からも解放される。ただし、それだけでは依然として怠け者のままだ。「好きなこと」が「為すべきこと」になって初めて怠け者とは見做されなくなる。マンガを描くことが「好きなこと」であれば、プロのマンガ家になってマンガの創作を「為すべきこと」にすることがその一例だ。それはマンガ家という場所に立つことに等しいが、マンガ創作を労働(職業)にすることとは微妙に異なる。全く売れないマンガ家でも、その創作が自分の「為すべきこと」だと確信している限り怠け者と見做されることはない。逆に、食うための労働に忙殺されてマンガ創作に費やす時間がなくなれば、その人は仕事を怠けていると見做される。重要なことは自分の「本当」に生きる場所、自分の「為すべきこと」を決める場所を見出すことに他ならない。その場所が見つからないうちは、どんなに忙しく生活しているbusiness manも所詮「多忙な怠け者」にすぎないだろう。