同化と異化(3)
同化と似た言葉に同和がある。ネットの記事によれば、同和は元来「人々が和合すること」(和衷協同)の意味だが、今では部落問題の文脈で使われるのが一般的で、その場合には「同胞融和」という意味だそうだ。因みに、「昭和」の元号が決定する際に、最後まで候補として検討されたのが「同和」だったとのことであり、そこには一つの理想が込められている。「日本国民が和合して生活する」という理想だ。これに対して、同化という言葉には何か理想に反する感じがする。私の勝手な印象にすぎないのかもしれないが、同和と同化は質的に異なっている。その差異を端的に言えば、同和においては本来同じものであるべきものの融和が目指されているが、同化には本質的に異なるものを無理に同じものにしようとする強引さが感じられる。同和と同化は厳密に区別すべきだ。従って、特定の人たちが理不尽な差別を受けるという現実から生じる部落問題は断じて少数派を多数派に同化させることで解決してはならない。目指すべきはあくまでも同和の理想であって、同化の現実ではない。とは言え、世界の至る所で生じている少数民族差別の問題は現実には同化政策によって解決が図られている。また少数民族にとっても、同化が最も手っ取り早い解決であろう。長い物に巻かれた方が生活も楽になる。それでも同化を断固拒絶するならば、どんなに困難でも分離独立の道を摸索することになる。確かに、それは一つの道ではある。しかし、私は同和の理想に執著したい。分離独立の道を選択しても、究極的には同和の理想に辿り着くと考えているからだ。では、同化の現実を超克する同和の理想は如何にして実現するのか。そこで注目すべきは異化の運動に他ならない。
同化と異化(2)
ウクライナにおけるロシア占領地で傍若無人の同化が横行している現状をNHKスペシャルで知った。おぞましい限りだ。日本も先の大戦で同様の同化をアジアの占領地で行っていたので偉そうなことは言えないが、全く絶望的な気分に陥る。ロシア人に限らず、どうして人はかかる醜悪な愚行を繰り返すのか。さりとて、この誰にも届かない便りで嘆いても仕方がない。私は無力だ。何もできない。たとい私に力があったとしても、何をすればいいのか。武装した屈強なロシア兵にロシア国籍への転向を迫られたら、それを受け容れるしかないだろう。同化はアメとムチだ。同化すれば、ウクライナ人でも好待遇の職が約束される。逆に同化を拒否すれば、医療が受けられないなど日常生活に支障をきたすことになる。酷い場合には、拷問の末に虐殺されてしまう。更に深刻なのは子供たちに対する同化だ。ロシアに忠誠を尽くすように同化教育されたウクライナの子供たちは将来どうなるのだろうか。暗澹たる思いを禁じ得ないが、こうした同化の暴力に対して我々に何ができるのか。現実的な解決策は、やはりロシアの暴力に勝る武力で対抗することだ。しかし、そんな武力がどこにあるのか。中国は同じ穴の狢だし、アメリカも狂い始めている。それに、たといロシア以上に強大な武力があったとしても、それもまた暴力ではないか。武力は現実的な解決をもたらしても、それは一時的・暫定的なものにすぎない。根源的な解決ではない。正義の武力などというものはない。などと御託を並べている間もロシアの同化の横暴は続いている。ならば、不正義でも武力の現実的な力に頼るしかないのか。同化を推進する武力とそれを阻止せんとする武力。それ以外の力を結集する可能性はないのか。何を言ってもキレイゴトにしか聞こえないだろうが、同化の醜悪なる力に対抗し得る力について引き続き思耕したい。
同化と異化
世界には様々な分断がある。富裕層と貧困層という経済格差による分断は、もとよりその解決は至難の業ではあるけれども、論理的には極めて単純だ。生活困窮者がいなくなり、同時に大富豪も絶滅して、皆が等しく豊かになればいい。その「経済的な豊かさの平等」が具体的に何を意味するかは依然として問題ではあるものの、一応「平等性への同化」が解決策となる。しかし、人種や民族、あるいは宗教による分断はどうか。果たして、何らかの同化が解決策になるだろうか。そもそも異なる民族や宗教信者の分断が問題になるのは一つ同じ場所に異なる者が存在しているからではないか。もしそうなら、少数派が多数派に同化するよりも、少数派と多数派は分離するのが得策だろう。例えば、インドとパキスタン、マレーシアとシンガポールのように。従って、分離こそが現実的な解決策であり、同化はむしろ帝国主義的侵略と見做される。因みに「一つの中国」も結構だが、台湾、香港、チベットなどが中国共産党とは異質であるならば、同化を強制することは如何なものか。さりとて、分離独立が唯一の解決策だとは思えない。少なくとも、理想はそ の先を求める。同化でも分離でもない解決策とは何か。異化にその可能性を私は見出したい。
補足:聖化と理想
理想主義は断じてキレイゴトではない。一般的には汚いものには蓋をして綺麗なものだけに注目するのが理想主義だと思われているが、それは違う。理想は汚いものから生まれなければならない。泥沼に咲く蓮華の美しさ。しかし、真の理想は「泥中の蓮華」を超えていく。「蓮は泥より出でて泥に染まらず」と言われるが、そこでは未だ美しい蓮と汚い泥が分離されている。聖人の美しさは俗衆の中で際立つ。当然のことだ。水平の次元では聖人と俗衆は質的に対立する存在であり、聖人は俗衆の崇拝対象になる。その場合、聖人の存在は俗衆にとって理想になるが、そこに私の求めている理想主義はない。殺仏殺祖。私の理想主義はむしろ聖人の死を要請する。ただし、それは俗衆の単なる肯定を意味しない。聖人を殺して俗衆の天下になるのは、聖人の天下と同様に醜悪なものだ。聖人をその玉座から引き摺り下ろす俗衆の革命はルサンチマンによるものにすぎない。聖人を否定して、俗衆の中の権力者が新たな聖人になっても意味がない。その新しい聖人もいずれ俗衆の誰かに否定されるだけのことだ。そんな意味のない繰り返しはもうウンザリだ。問題は世界の、そして人の真の聖化(人が人間になる)に他ならない。水平の次元における聖と俗の対立。互いに排除し合う泥仕合に理想はあり得ない。綺麗は汚い、汚いは綺麗。聖が俗になり、俗が聖になる。そうした逆説的真理は垂直の次元において輝く。さりとて水平の次元における対立の真実を無視するわけではない。水平的真実の克服(水平革命)と垂直的真理の実現(垂直革命)は相即すべきであり、そこに真の聖化と理想主義が生み出される。
補足:「生命尊重以上の価値」と理想
「もはや戦後ではない」と言われた時代に生まれた私は「イノチより大切なものはない」と教えられて育ってきた。先の大戦で余りにも多くの尊いイノチが失われた痛恨の極みから生まれた教えだろう。健康第一。家内安全。商売繫盛。それらが戦後の人生における価値となった。ところが、私が中学生になった頃、或る著名な作家が「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と叫んで割腹した。私は大きな衝撃を受けた。この作家はマスコミからキチガイ扱いされたが、以後「生命尊重以上の価値」は私の肉中の棘となった。本当にそんなものがあるのか。作家は「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」と言ったが、現実にはもうそのような日本は何処にもなかった。神は死んだ。経済大国ともてはやされる国はあっても、それは到底「身捨つるほどの祖国」ではない。とは言え、戦前にそれはあったのか。確かに、「御国」のために多くの人たちがイノチを捧げた。しかし、その「御国」は本当に「生命尊重以上の価値」であったのか。甚だ疑問に思わざるを得ない。それは過去に求めるのではなく、むしろ将来に求めるべきではないか。さりとて過去を無視するのではない。古の歴史と伝統に学びながら、それを螺旋的に発展させていくのだ。かくして私は理想主義に徹する覚悟を決めた。「生命尊重」の現実に生きる人たちにとって、「生命尊重以上の価値」はある筈のない絶対であって、嗤うべき妄想でしかないだろう。彼等は決して理想主義を理解しようとしない。この拙い便りも誰にも読まれることなく、虚空に響くばかりだ。それでも私は諦めない。未熟な内容ではあるが、書き続けてさえいれば、いつか誰かの魂に届くと愚直に信じている。
補足:法律と理想
三谷隆正の「律法論」を読んでいたら、ルードルフ・ゾームという学者の「教会法は教会の本質に矛盾す」という言葉に遭遇した。ゾーム先生は次のように述べている。
教会の本質は精神的であり法律の本質は世俗的である。教会は神々しき精神によって導かれ、支配せらるることを要し、法律は常にただ地的なる、謬り易き、時の流に抗し得ざるところの、人間的支配を産み得るに止まる。……教会は其理想と本質とよりして、神の民また国、地上に於ける基督の体である。神の国が人間的(法律的)構成をもつとか、基督の体が人間的(法律的)支配を身に帯びるとかいう事は考えられない。法律の本質は教会の理想的本質に逆行する。
イエスの革命的な教えの一つはユダヤ教の律法主義に対するラディカルな批判であった。それは律法を廃止するものではないにしても、律法の形式主義をディコンストラクトするものではある。人は法律を守って生きなければならない。自然界に物理法則があるように、人の社会にも人として生きる道理がある。しかし、人は法律に縛られてはならない。自然法と実定法では問題が質的に異なるにせよ、法律は総じて自転車の補助輪のようなものであるべきだ。自転車を自由に乗りこなせるようになれば、もう補助輪は必要なくなる。ただし、必要がなくなっても補助輪の存在意味は残る。不必要になることが補助輪の意味だと言ってもいい。従って、教会法が矛盾であるならば、道徳法も矛盾であろう。他律から自律へ、そして神律へ。この理路を辿っていけば、教会の本質は無教会に極まることになる。しかし、これはあくまでも理想に他ならない。現実には法律も教会も無にならない。教会の問題はさておき、我々の日常生活は法律に守られている。それが厳然たる事実だ。法律が無になれば、力の強い者の横暴が野放しになってしまう。それ故、法律の権威を絶対化して、全ての人がそれに服従する体制が必要になる。暴力の支配を不可能にする法律の力。とは言え、厳密に言えば、法律自体に力はない。あるとすれば「無力の力」だが、それは現実には無に等しく、犯罪者を厳罰に処すことのできる圧倒的な力がなければ、法律はただの紙切れにすぎない。また法治国家というけれども、法治を可能にしているものは国家権力だ。法律の支配もまた大審問官の論理に基づかざるを得ない。この現実に対して、それでも理想は法律を超えていこうとする。大衆はそうした理想の超越を理解せず、むしろ余計なお世話だと反撥を強める。イエスは沈黙し続け、大審問官の高笑いだけが世界中に響いていく。
理想主義に徹する覚悟(10)
悠久の大宇宙に比べれば人生などせいぜい生きて百年、高が知れている。比べること自体滑稽であり、人生の意味に苦悩することが馬鹿馬鹿しくなる。意味などなくてもいいではないか。どうしてこの世界に生まれてきたのか。如何に生きるべきか。そんなことはどうでもいい。何事のおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる。曲がりなりにもイノチが与えられたことに感謝して、イノチが続く限り楽しめばいい。意味のある人生より楽しい人生。人生を楽しく生きるためにはどうすればいいのか。それ以外に現実的な問題はない。競争に勝ってテッペンの生活を目指す人もいれば、競争を放棄してテイヘン付近でのんびり暮らすことを望む人もいる。格差社会上等!自分と家族が最テイヘンの極貧生活に転落しなければいい。最低限、食うに困らぬ社会を前提に身の丈に合った娯楽を享受できる生活を望む。そんな大衆が世界の大半を占め、その意向によって選ばれた権力者が世界を支配ししつある。「それでいい。それが現実なのだ。その現実の中で少しでも楽しく生きるしかない。そこに人の幸福がある」――そういう生き方もあるだろう。しかし、私は現実的な幸福の先にある理想を求めたい。これは実に僭越な意向だと思われるかもしれないが、私は敢えて理想主義に徹したい。何故か。「人が人間になる」という垂直的理想を実現したいからだ。もはや私の拙い人生でその実現を果たすことは叶わないが、せめてその理路だけは明らかにしておきたい。鄙見によれば、垂直的理想をユートピアとするならば、その実現のためには二つの水平的理想を克服しなければならない。アルカディアとパラダイスだ。アルカディアはゾーエーの大いなる円環に極力調和して生きようとする理想であり、言わば自然に即した生活を目指す。それに対して、パラダイスはビオスの充実に集中し、個々それぞれの夢の実現を目指す。アルカディアもパラダイスも実に魅力的であるものの、それぞれに致命的な問題を胚胎している。アルカディアはやがて因循姑息な閉鎖的空間に堕し、人はゾーエーの充足以上の充実をビオスに求め始める。それがパラダイスへの移行を推進するが、人の欲望には限りがなく、個々のビオスの充実の名の下に経済の搾取(貧富の差)や自然の搾取(環境破壊)が横行し、パラダイスもまたディストピアへと堕していく。かくしてビオスの直線上においても、アルカディアとパラダイスの循環運動(厳密には振り子運動)に陥る。すなわち、堕落したアルカディアに絶望した人はパラダイスに希望を見出すものの、そのパラダイスも堕落を避けることができず、再びアルカディアに希望を求めていく…その繰り返し。これは水平的理想の宿命でもあるが、その醜悪なる運動を断ち切るために如何にすべきか。ユートピアという垂直的理想の実現しかない、と私は考えている。勿論、水平的理想の克服は容易ではない。実際、大国の強引なパラダイス追求に全く歯止めがかからず、それに対抗する有効策も見つからないのが現実だ。大国の強大な力に対してなす術もなく、そもそも力に対して力で対抗するのは本末転倒であろう。頼みの綱は「無力の力」であり、具体的には脱成長によるアルカディアの反復(受け取り直し)に微かな可能性が垣間見えるが、それは本当にパラダイスを克服できるだろうか。理想主義に徹する私の覚悟は微動だにしないが、垂直的理想への道は遥か遠くまで延々と続いている。
理想主義に徹する覚悟(9)
人生の意味はビオスにある。それは生の始まりとその終わりである死への直線上に織り出されるテクストとしてのドラマだ。夢が実現するドラマだけではない。夢に挫折するドラマもまた人生の意味になる。さりとてビオスだけが人生にとって重要であって、ゾーエーは二次的だということではない。そもそもゾーエーがなければビオスはなく、両者を二元論的に理解するのは間違っている。ゾーエーは円環でビオスは直線だという質的差異はあるものの、二つの生は分離できず、ましてや対立するものではない。ゾーエーはビオスなど比較にならぬほど壮大なものであり、ビオスの直線はゾーエーの巨大な円周上のほんの一部分にすぎない。従って、厳密に言えば、ビオスは直線ではない。ただゾーエーが途方もなく巨大すぎて、その円周上の一部分が直線に見えるだけだ。しかし、それならば壮大なゾーエーの円環にこそ人生の意味があると考えるべきではないか。実際、偉大な宗教はそう教えている。すなわち、人の生死を遥かに超越する大宇宙(大自然)の意志との大調和だ。例えば、ブラフマンとアートマンの一致(梵我一如)、あるいは「我もはや生くるにあらず。キリスト、我において生くるなり」という信仰。個人の生はその子孫に受け継がれていく。たとい子孫を残さなくても、その生は死後、千の風になって宇宙を循環していく。個々の肉体は滅びても、霊魂は不滅だと信じることもできる。確かに、そのようにゾーエーの偉大なる円環にビオスの個々の直線が融合していくことに人生の意味を見出すことはできる。そこでは個人の有限な生は無限化されるだろう。しかし、無限に循環する円環と悪無限の直線とは一体何が違うのか。始まりも終わりもない直線の悪無限が絶望なら、同様に始まりも終わりもない円環もまた絶望ではないか。むしろ、円環の永遠回帰の方が遥かに深い絶望だと思われる。ニーチェ曰く、「あるがままの生存は、意味もなく目標もなく、しかもそれでいて不可避的に回帰しつつ、無に終わることもない。すなわち、永遠回帰。これがニヒリズムの極限的形式である。すなわち、無が永遠に!」恥ずかしながら若い頃に、私も本当に生きることを求めて「無我の境地」に憧れたことがある。しかし修行が足りぬせいか、直線的に生きようとする自我を滅却しようとすればするほど、無意味なものが永遠に循環する円環の運命に圧し潰されそうになる。問題は「永遠回帰というニヒリズムの極限的形式を如何にして肯定の最高形式にし得るか」にある。ニーチェは更に述べている、「私自身がそれを生き抜いて試してみた実験的-哲学は永遠回帰の円環運動を欲する。――この同じ事物と同じ論理と同じ非論理とを以て円環を結び上げることを欲するのである。生存に対してディオニュソス的に立つことこそ哲学者たる者の到達し得る最高の境地であるが、このことを表す私の定式が運命愛なのである。」鄙見によれば、この運命愛がゾーエーの円環とビオスの直線との婚姻を可能にするのであり、その婚姻によって「人間」が誕生する。そうした「人間」の誕生にこそ、人が本当に生きる意味があると私は考えている。
理想主義に徹する覚悟(8)
直線には始まりと終わりがあるべきだ。始まりも終わりもない無限の直線は恐怖でしかない。悪無限の直線は絶望であり、始まりと終わりのある直線(線分)、すなわち生から死に至る直線上に希望が生まれる。とは言え、生と死にも絶望がある。生きることの苦悩と死ぬことの不安。どちらも根源的にはゾーエーに関するものだが、実存的な絶望はビオスの次元にある。言わば食い詰めて死ぬしかない窮境の絶望と夢の挫折による絶望だ。前者を欠乏のニヒリズム、後者を過剰のニヒリズムと言ってもいい。因みに、新しき村の精神はその第一として「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする」とあるが、そこに謳われている「天命の全う」を肉体の糧によるゾーエーの充足、「自我の完全な成長」を魂の糧によるビオスの充実と理解することができる。言うまでもなく、「天命の全う」は容易なことではない。病気や事故、更には戦争や災害で人生の強制終了を余儀なくされる人は少なくない。従って、全ての人が等しく「天命の全う」できる社会の実現が水平革命の課題となる。しかし、その革命が成就しても、未だ「自我の完全な成長」という課題がある。それは取り敢えず、それぞれの人の個人的な夢の実現という形を取るに違いない。勿論、全ての夢が叶うわけではない。むしろ、挫折する人の方が大半だろう。その挫折の形も様々だが、例えばオリンピックのマラソン選手になるという夢が足の故障で挫折を余儀なくされる場合、その人は自らのビオスを如何にして充実させるのか。総じてゾーエーは健康で「天命の全う」に全く支障がないとしても、生き甲斐であるマラソン選手として生きられない人生(ビオス)にどんな意味があるのか。ビオスの充実は諦めて、ゾーエーの充実だけで満足すべきか。あるいは様々な娯楽の享受を以てビオスの充実とすべきか。それらを妥協と決めつける資格は誰にもないが、私はビオスの真の充実には理想が不可欠だと考えている。と言うより、夢の実現は素晴らしいものの、それだけではビオスは真に充実しない。この点については更なる議論を要するが、もとより私にはそれぞれの夢を実現させた成功者の幸福を否定するつもりはない。確かに、そうした幸福もビオスの充実ではある。しかし、真の充実ではない。ゾーエーの充足(健康)という幸福、それを基本としたビオスの充実(夢の実現)という幸福。二つの幸福は水平の次元で展開するが、そこでは未だ人は人間になってはいない。「人が人間になる」という理想こそビオスの真の充実であり、そのドラマは垂直の次元を必要とする。
理想主義に徹する覚悟(7)
不老長寿の先には不老不死がある。それは今のところSFにおいてのみ可能な夢だけれども、その理想郷はディストピアとして描かれることが多い。例えば『未来惑星ザルドス』では、ボルテックスに住む永遠人(Eternals)は無気力に陥っている。どうして不老不死の夢を実現した永遠人が無気力になるのか。為すべきことがないからだ。或る意味、これは戦争と平和の関係に似ている。戦時中には明確な目的があった。「敵を殺す」という為すべきことがあった。ところが戦争が終わると、一つの目的に向かって一致団結していた国民は個々バラバラになり、孤立した個人は何を為すべきか途方に暮れる。そうした復員兵の苦悩を描いた『我等の生涯の最良の年』( The Best Years of Our Lives)という名作があるが、私はそこに平和のニヒリズムを見出す。さりとて平和よりも戦争の方が望ましいなどとは思わない。当然のことだ。戦争には平和のニヒリズム以上に悲惨なニヒリズムがある。二つのニヒリズムは質的に異なっているが、どちらも耐え難いことに変わりはない。人は平和のニヒリズムに耐え切れずに戦争を起こし、戦争になればそのニヒリズムに何もかも破壊し尽くされて再び平和を望む。その繰り返し。この意味のない、醜悪なニヒリズムの循環を断ち切るにはどうすればいいのか。それは不老不死の夢を超える理想の問題と通底している。死の希望と不死の絶望。あるいは直線の希望と円環の絶望。両者の婚姻が要請される。