新・ユートピア数歩手前からの便り -2ページ目

補足:アルカディアへの回帰という選択

「食うための労働」からの解放がパラダイスだと述べたが、ゾーエーを基本に考えれば、純粋な「食うための労働」を生き甲斐とする人たちもいるだろう。それは単なる賃労働ではなく、純粋に自分たちの食べるものを生産する労働だ。狩猟採集でも農耕でもいい。可能な限り自然に即して生きる。日々額に汗して皆で共働する。食べものが収穫できれば皆で供食・共食する。そこに祝祭空間が生まれる。私はそれをアルカディアと称したい。尤も厳密に言えば、純粋アルカディアは無為自然の桃源郷だが、もはやそれは神話の中にだけ存在する失楽園にすぎない。現実的なアルカディアは純粋な「食うための労働」に基づくものとなる。そこに「本当の人生」を見出す人は幸いなり。しかし、アルカディアの理想に倦怠を懐く不幸な人もいる。現代人の大半はその不幸に陥っている。そしてパラダイスを求めるが、その理想も結局は退屈なものでしかない。アルカディアの倦怠とパラダイスの退屈。欠乏のニヒリズムを克服しても、過剰のニヒリズムが人を二つの理想の間を彷徨わせる。

過剰のニヒリズム(10)

「みんな欠伸をしてゐた。これからどこへ行かう、と峻吉が言つた。」――これは三島由紀夫の『鏡子の家』の冒頭だが、物語は常に退屈から始まる。そして、退屈するのは有閑階級と相場は決まっており、食うための労働に忙しい階級は退屈している暇などない。果たして、こうした階級対立は今でも問題として有効だろうか。どうも「プロレタリアート独裁」は既に殆ど死語と化しているように思われる。この点、学者の先生方はどう分析されているのか、不勉強な私にはよくわからないが、もはや「有産階級=有閑階級」という常識は通用しないのではないか。言い換えれば、無産階級も今や有閑階級に成り上がっているのではないか。これはむしろ、プロレタリアートの死滅、もしくは総ブルジョア化と理解すべきなのかもしれないが、私は「食うための労働」から「余暇のための労働」への移行を問題にしたい。とは言え、「食うための労働」がこの世からなくなったわけではないし、食うために過酷な労働を強いられている人たちの問題を無視するつもりもない。しかし、あくまでも理想社会の相の下に考えれば、人はいつか「食うための労働」から解放されるべきだろう。実篤も「食うために労働する人が一人でもいる限り、その社会は未だ理想的ではない」と述べている。では、「食うための労働」から解放された人は何のために労働するのか。余暇を楽しむためだ。ゴルフでも麻雀でもパチンコでも釣りでも登山でも何でもいい。色と欲。そのための快楽装置なら現代社会に溢れている。当然、より大きな快楽のためにはより多くのお金が必要になるが、そのお金を稼ぐために人は労働する。そこには個人的な快楽だけではなく家族と余暇を楽しむという幸福も含まれる。「家庭の幸福は諸悪の本」ではなく、家庭の幸福は生き甲斐の本。厳密に言えば、家庭の幸福も個人的な快楽に根差しており、個人の私的領域を超えるものではない。実際、「食うための労働」からの解放が理想社会をもたらすならば、余暇を楽しめる私的領域こそがパラダイスを意味する。それはまた、欠乏のニヒリズムを克服することでもあるが、そこに公的領域の出る幕はない。少なくともパラダイスの理想が水平の次元に終始するものであるならば、公的領域とか垂直の次元は余計なものでしかないだろう。それでいいのか。確かに、現代人の大半はパラダイスを求めているように見受けられる。欠乏のニヒリズムを克服し、「食うための労働」から解放されて余暇を楽しむ人生を求めている。しかし、パラダイスが究極的な理想なのか。「究極的な理想よりもパラダイス!」という人たちが支配的なら仕方がないが、その現状は決して絶対的なものではない。鄙見によれば、「鏡子の家」に集う人たちはパラダイスに退屈している。何故か。余暇を楽しむ程度のことでは本当の退屈は解消しないからだ。パラダイスからどこへ行こうか。行き先は一つしかない。退屈から新たな物語が始まる。それは過剰のニヒリズムと闘うユートピアの物語に他ならない。

過剰のニヒリズム(9)

これまで数限りない人たちが理想社会の実現を求めてきた。理想社会とは何か。それは主に欠乏のニヒリズムが克服された社会、すなわち飢餓も貧困もない社会だと考えられる。残念ながら、その理想は未だ実現していないが、社会が総じて豊かになったことは事実だ。勿論、それぞれの豊かさには格差がある。しかし、その格差も許容範囲内であれば、一切は自己責任の名の下に処理されるだろう。すなわち、自分に人並みに食うに困らぬだけの豊かさがありさえすれば、誰かが想像を絶する大富豪になろうと一向に構わないというわけだ。尤も、貧乏人のルサンチマンから大富豪の転落を喜ぶことはあるかもしれない。しかし、そのような場合でも、全ての富豪が否定され、豊かさが水平化された平等の徹底を人は望むであろうか。むしろ、自分の努力と運次第で富豪にも乞食にもなる格差社会の方を望むのではないか。結局、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)さえ保障されれば、どんな格差も許容されるのだ。とすれば、現代社会はすでに理想社会だということになる。少なくとも今の日本人の大半は「平和で安全な日本」をラディカルに変革しようなどとは望まない。場合によっては、それを望む過激派はテロリストだと危険視される。しかし、本当にそうか。そもそも「平和で安全な日本」は如何にして成り立っているのか。かつて「安保反対!」と叫んだ情熱は今や遠い昔の夢物語になりつつあるが、それでいいのか。「安保」はそんなに大事か。たとい大事だとしても、誰かを犠牲にして維持できるような「安保」に意味があるのか。最低の豊かさと最高の豊かさ。その格差を許容する社会は決して理想ではあり得ない。さりとて豊かさの水平化に理想を求めるべきではない。究極的な理想は豊かさの垂直化にこそある。

過剰のニヒリズム(8)

欠乏は増殖する。戦争や災害の限界状況ではたった一個のオニギリでも欠乏は満たされる。しかし、取り戻された日常では到底オニギリ一個で欠乏は満たされない。もっと美味しいものをもっとたくさん食べることが求められる。その欲求には限りがない。飢餓から飽食へ。それは幸福なことだろうか。再び食糧危機の到来が懸念される今、肥満などの健康上の理由からも飽食が戒められるべきは当然であろう。さりとてまたぞろ飢餓同然の限界状況への逆戻りを望む者は皆無だ。おそらく飢餓と飽食の中間あたりで安定できればいいのだが、分かっちゃいるけどやめられない。結局、欠乏の増殖は止まらない。かつては不可能であったことが可能になる。かつては欠乏ではなかったものが欠乏になる。もはやスマホのない日常は考えられないように、日々新たな欠乏が生まれている。欠乏の過剰は自由の過剰となり、いくら欠乏を満たしても充足感は得られない。むしろ何をしても退屈する。私はここに都会生活のニヒリズムを見出す。都会は刺激的で何でもあるが、その生活は退屈だ。それでも何もない田舎よりはマシだと思って都会にしがみつくか。それとも何もない田舎に救いを求めるか。都会のパラダイスと田舎のアルカディア。伊東静雄の言葉が思い出される。

「田舎を逃げた私が 都会よ

どうしてお前に敢て安んじよう

詩作を覚えた私が 行為よ

どうしてお前に憧れないことがあろう」

田舎で一生を過ごす人もいれば、都会しか知らぬ人もいる。それぞれに幸福であれば問題はない。しかし私は敢えて田舎と都会に引き裂かれる人の精神を問題にしたい。都会の退屈と田舎の倦怠。ニヒリズムの質は異なるけれど、その先にある理想を見極めたい。

過剰のニヒリズム(7)

やはり私は甘い。甘すぎる。殆どの人は食うための労働に忙しく、日常生活に退屈などしている暇はない。たまの休日には娯楽などで労働の疲れを癒し、家族団欒に幸福を見出す。その繰り返し。そこに退屈や倦怠を問題にする私の思耕には全く説得力がない。誰の心にも響かない。しかし、中沢新一氏によれば、数学者の岡潔氏は「日本から労働者階級を無くすること、すなわち国民の一人一人が皆生きがいを感じて生きることのできる国にすること」を求めたそうだ。マルクスが労働者階級の権力掌握、すなわちプロレタリアート独裁による社会変革を目指したのに対し、岡潔は労働者階級そのものを無くしてしまうことを求めたと中沢氏は言われる。この対比が正しいかどうかは別として、労働もしくは労働環境の改善ではなく、労働そのものの揚棄に究極的な理想があることは間違いない。実際、近代以降の機械の導入、更には今後のAIの活用によって、人は確実に労働から解放されつつある。果たしてこれは悦ばしき流れであろうか。重労働からの解放は歓迎されるだろうが、人の日常生活から手作業・手仕事が消えていくのはどうか。そもそも労働から解放されて、人は何をするのか。鄙見によれば、人は労働そのものからの解放という究極的な理想の実現を潜在的には恐れている。労働は嫌だと思いながら、労働に執著している。何故か。労働からの解放とは、すなわち欠乏のニヒリズムの克服を意味するが、その先には新たなニヒリズムがあるからだ。その現実をこそ私は問題にしたいのだが、私の思耕には説得力がない。如何にしてこの甘さを克服できるのか。

過剰のニヒリズム(6)

くどいようだが、欠乏のニヒリズムの克服が先決問題(目の前の問題)だ。それは自明であり、我々は万難を排してこの世界から飢餓や貧困を根絶しなければならない。同様に、自由の欠乏である抑圧もなくしていかねばならない。健康の欠乏である病気や怪我についても、皆が等しく適正な医療を受けられる保険制度が不可欠だ。要するに、全世界の人が欠乏に苦しむことのない自他共生の社会が求められる。楽観的に過ぎるかもしれないが、欠乏は相互扶助の精神によっていつか必ず満たされる。私はそう信じたい。ちなみに先日のNHKスペシャルで、能登大地震によって壊滅的な打撃を受けた中小企業を立ち直らせようと懸命に奔走する信用金庫の職員たちの姿を知った。私如きが言葉にするのもおこがましいが、実に尊いと思った。こうした名もなき人たちの地道な努力によって被災地はやがて復興していくに違いない。各地で続く悲惨な戦争もいつかは終わり、やがて平和が訪れるだろう。前途多難ではあるが、欠乏のニヒリズムの克服という明確な目的は揺るがない。心ある人は皆、その目的に向かって邁進する。しかし、欠乏が満たされても、それで終わりではない。問題は続く。誰しも欠乏からの復興を願う。やがて街のあちこちから復興を象徴する「トカトントン」という明るい音が聞こえてくるが、そこには新たなニヒリズムの響きが混じっていないか。決して復興にケチをつけるつもりはないが、取り戻された平穏無事な日常生活には何かが欠けている。ヴィクトール・フランクルは「豊かさの中の空虚」を問題にしたが、欠乏が満たされて生活が豊かになっても、正にその豊かさから新たなニヒリズムが生まれてくる。その一つの兆候が退屈だが、人は通常様々な娯楽で退屈を解消しようとする。そして、欠乏状況から解放された豊かさの中で娯楽に没頭できる幸福を味わうことになる。しかし、そうした幸福自体に退屈することはないか。どんな娯楽によっても解消できぬ退屈、私はそれを倦怠と称して区別したい。全て私の杞憂であろうか。

過剰のニヒリズム(5)

小松左京は「人間にとって文学とは何か」と問われて、次のように答えている。

「人間はたしかに、文学がなくても、小説がなくても、飯が食えれば生きられる。しかし私自身はその逆にぎりぎりに生きて腹減らしているときに、むしろ生理的空腹を精神的充実感で補うために、やたら小説を読んでいた。そして戦後は言論の自由、思想の自由、表現の自由、それから生き方の自由が保障されていると思い、小説はだれが何を読んでも書いてもよくなったと思っていた。そのときに、戦後にもその種の考え方(労働生産性に寄与しない小説は政治的プロパガンダとしてのみ役に立ち、文学とはやはり泰平の逸民の余技にすぎない)があるということにたいへんショックを受けたわけです。

しかし、文学は文学として、人間の何千年の、あるいはひょっとしたら、「文学」の出現以前にさかのぼる何万年の歴史の営為の中で生み出され、生物的に生きる上の必要性以外の理由によって維持されてきた。

そこには必要とは言わないまでも、文学が「あったほうがいい」という理由が、あるいはもう少し積極的に文学が果してきた独自の役割というものが、人間社会の中であったんじゃないか。そのグルントをなんとか探究できないだろうか」

 

ここで小松氏が言われている「精神的充実感」もしくは「生物的に生きる上の必要性以外の理由」は過剰のニヒリズムにとって重要なものだ。人は通常、欠乏のニヒリズムを克服するために生きている。例えば、空腹を満たすために生きている。では、狩猟採集にせよ、農耕牧畜にせよ、食べ物を得て満腹になったらどうするか。次の空腹時までノンビリと休息すればいい。しかし、やがて食べ物を保存蓄積できるようになって休息期間が長くなるにつれて、人は次第に退屈し始めるのではないか。おそらく、他のイキモノは退屈を知らないだろう。食うための労働と休息を繰り返して子孫繁栄に励むだけだ。人のみがそうしたサイクルに退屈して、食うための労働と子孫繁栄以上の活動を求める。それが「精神的充実感」に繋がり「生物的に生きる上の必要性以外の理由」となる。たとい欠乏のニヒリズムが克服されて生理的空腹が満たされても、人には未だ精神的飢餓がある。それが過剰のニヒリズム生み出す。かくして問題は、この言わば「満腹時の飢餓」を如何にして満たすか、ということに収斂する。ただし、それは「満腹して退屈した者の暇潰し」とは質的に全く異なる活動を要請する。鄙見によれば、欠乏のニヒリズムを克服した後の「退屈」と過剰のニヒリズムとしての「倦怠」は次元が違う。一体、どう違うのか。

過剰のニヒリズム(4)

人生に退屈するのは幸福なことかもしれない。戦争や大災害に巻き込まれたら退屈などしている暇はない。生きるのに精一杯の日々。食うために齷齪する人生は悲惨だ。何とかしてその地獄から這い出したいと誰しも願う。ただ生き延びるだけの生活から解放されて、日々ノンビリと過ごしたい。しかし、「その先」に何があるか。小松左京の『模型の時代』によれば、「生きることを機械にまかせてしまった時代、生まれてから死ぬまで、すべて『余暇』(レジャー)であるような時代」が到来するだろう。そこではもはや生活に齷齪する必要はない。単に食うことを超えて、美味しいものを食べるという美食を楽しむことができる。人生は「余暇」であり、様々な娯楽の享受が生活の本質となる。確かに、それはパラダイスだ。人類にとって長年の夢の実現だと言える。しかし、そこに我々の人間としての「本当の幸福」があるだろうか。日々ノンビリと無為に過ごすも良し。日本中、更には世界中を旅するも良し。今後は宇宙旅行も可能になるだろう。そうしたパラダイス、今は一部の金持連中にしか許されていないパラダイスを万人に普及させること、それこそが我々の為すべきことなのか。それが人類の総意であるなら、それでもいい。しかし、私はパラダイスに倦怠を懐く人間に新たな可能性を見出したい。パラダイスの「その先」にある理想について思耕したい。

過剰のニヒリズム(3)

私の拙い思耕の歴史を振り返ると、大学の卒業論文「倦怠の概念」がその原点だと思われる。キルケゴールの『不安の概念』並びに絶望を分析した『死に至る病』に基づいて現代のニヒリズム克服を摸索したものだが、私はその副題として「地下生活者の一歩」と記した。当時の私は臆面もなく自らをドストエフスキイの描く地下生活者と同定していたからだ。地下生活者とは何か。この世界(地上)に生きる意味を失った者、すなわちニヒリストだと私は理解している。言うまでもなく、生きる意味を失う理由は様々だ。病気や事故による身体の自由の喪失とそれに伴う苦痛。経済的破綻による貧困への転落とそれに伴う生活苦。失恋もしくは愛する人の裏切りによる厭世観。他にも多々あるだろうが、そこに見出されるのは何らかの欠乏のニヒリズムに他ならない。従って、論理的に言えば、それぞれの欠乏さえ満たすことができれば、その人はニヒリズムを脱して再び生きる意味を取り戻せるに違いない。実際、医療技術の飛躍的な進歩によって不治の病は減り、経済的発展によって生活苦も消えつつある。失恋についてはよくわからないが、総じて欠乏のニヒリズム克服の努力は今後も続いていくものと思われる。しかし、欠乏の完全なる充足は未だ遥か先のことであるものの、そこに我々の望む「地上の理想」はあるだろうか。欠乏のニヒリズム克服が地下生活からの一歩であることは間違いない。身体的に健康で、経済的に豊かで、それに加えて愛情にも恵まれれば、それ以上の幸福はない。多くの人はそうした幸福を求める。確かに、それはパラダイスだ。しかし、その水平的幸福には何かが欠けている。奇妙なことだ。水平的には欠乏は充足されている筈なのに、一体何が欠けているのか。その奇妙な空虚感を私は倦怠を通じて理解しようとした。そこから私の思耕が始まった。

過剰のニヒリズム(2)

「その先」の問題が究極的だとは言え、「目の前」の問題を無視することはできない。その意味では、「目の前」の問題の方が根源的だと言える。かく言う私も最近体調を崩し、健康の欠乏状態に陥った。自由に動け「ない」。自由に食べられ「ない」。自由に思耕でき「ない」。すると健康の回復、すなわち欠乏のニヒリズムの克服という「目の前」の問題しか目に入らなくなる。何とかして「ない」を「ある」に戻したい。健康で「ある」状態を回復できれば、私の生は充実する。幸い、手術などの医療の御蔭で私は健康を回復できた。欠乏のニヒリズムは克服され、「目の前」の問題は解決した。私は今、束の間の幸福を噛み締めている。束の間?どうして束の間なのか。「その先」の問題があるからだ。しかし、健康で「ある」ことの幸福の先に何があるのか。逆説的に言えば、健康という病が「ある」。健康も時に人を殺すことがあり、「ある」もまたニヒリズムを生み出す。おそらく、こうした「その先」の問題には多くの人たちの理解もしくは共感が得られないだろう。むしろ、病(健康の欠乏)と今まさに懸命に闘っている人たちは「何という倒錯か!」と怒り出すに違いない。実際、私も数日前までお世話になっていた病院では患者やその付き添い家族は言うに及ばず、医師や看護師、更には受付・支払などを担当する事務員や清掃員に至るまで、皆「健康の回復」という明確な目的で固く結び付けられていた。それのみが人生の目的であり、それこそが人を幸福にする。健康の欠乏というニヒリズムに苦しむ人たちがやって来て、そのマイナスをプラスにする技術を持った人たちが対応する。病院ほど単純明快な目的意識に貫かれた場所はない。それは自動車修理工場の単純明快さに匹敵する。勿論、廃車を余儀なくされる不幸な場合もあるが、故障した車が修理されて再び走行できるようになれば、それに優る幸福はない。どこにでも行ける。しかし、どこに行けばいいのか。どこにでも行ける自由に溺れた車は行き先を決定してくれる強大な独裁者を待望する危険性を孕んでいる。ゾーエーが満たされても、ビオスが満たされるとは限らない。