過剰のニヒリズム(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

過剰のニヒリズム(10)

「みんな欠伸をしてゐた。これからどこへ行かう、と峻吉が言つた。」――これは三島由紀夫の『鏡子の家』の冒頭だが、物語は常に退屈から始まる。そして、退屈するのは有閑階級と相場は決まっており、食うための労働に忙しい階級は退屈している暇などない。果たして、こうした階級対立は今でも問題として有効だろうか。どうも「プロレタリアート独裁」は既に殆ど死語と化しているように思われる。この点、学者の先生方はどう分析されているのか、不勉強な私にはよくわからないが、もはや「有産階級=有閑階級」という常識は通用しないのではないか。言い換えれば、無産階級も今や有閑階級に成り上がっているのではないか。これはむしろ、プロレタリアートの死滅、もしくは総ブルジョア化と理解すべきなのかもしれないが、私は「食うための労働」から「余暇のための労働」への移行を問題にしたい。とは言え、「食うための労働」がこの世からなくなったわけではないし、食うために過酷な労働を強いられている人たちの問題を無視するつもりもない。しかし、あくまでも理想社会の相の下に考えれば、人はいつか「食うための労働」から解放されるべきだろう。実篤も「食うために労働する人が一人でもいる限り、その社会は未だ理想的ではない」と述べている。では、「食うための労働」から解放された人は何のために労働するのか。余暇を楽しむためだ。ゴルフでも麻雀でもパチンコでも釣りでも登山でも何でもいい。色と欲。そのための快楽装置なら現代社会に溢れている。当然、より大きな快楽のためにはより多くのお金が必要になるが、そのお金を稼ぐために人は労働する。そこには個人的な快楽だけではなく家族と余暇を楽しむという幸福も含まれる。「家庭の幸福は諸悪の本」ではなく、家庭の幸福は生き甲斐の本。厳密に言えば、家庭の幸福も個人的な快楽に根差しており、個人の私的領域を超えるものではない。実際、「食うための労働」からの解放が理想社会をもたらすならば、余暇を楽しめる私的領域こそがパラダイスを意味する。それはまた、欠乏のニヒリズムを克服することでもあるが、そこに公的領域の出る幕はない。少なくともパラダイスの理想が水平の次元に終始するものであるならば、公的領域とか垂直の次元は余計なものでしかないだろう。それでいいのか。確かに、現代人の大半はパラダイスを求めているように見受けられる。欠乏のニヒリズムを克服し、「食うための労働」から解放されて余暇を楽しむ人生を求めている。しかし、パラダイスが究極的な理想なのか。「究極的な理想よりもパラダイス!」という人たちが支配的なら仕方がないが、その現状は決して絶対的なものではない。鄙見によれば、「鏡子の家」に集う人たちはパラダイスに退屈している。何故か。余暇を楽しむ程度のことでは本当の退屈は解消しないからだ。パラダイスからどこへ行こうか。行き先は一つしかない。退屈から新たな物語が始まる。それは過剰のニヒリズムと闘うユートピアの物語に他ならない。