新・ユートピア数歩手前からの便り -5ページ目

律の呪縛

暴走族や半グレが「既成社会の秩序には従わない。オレたちは自由に生きる!」と誇らし気に語っているドラマを観ると、私はその無知を嗤いたくなる。不良のどこに自由があるのか。むしろ、既成社会の秩序以上の陳腐な掟に縛られているのではないか。反体制のテロリストも然り。体制に従う善良なる市民が他律的だとしても、それに反抗するテロリストが自由だとは言えない。尤も、善良なる市民は自分たちが他律的に生きているなどとは夢にも思わないだろう。大審問官の論理の下で自由な生活を享受していると確信している。その自己欺瞞を粉砕するテロリストにはそれなりの意味が認められるが、それでもやはり「本当」に自由ではない。確かに、反体制には自律の意志があるものの、残念ながら自律では他律の壁を打ち破れない。これは他力信仰(浄土門)と自力信仰(聖道門)との関係に等しく、一筋縄では理解できない。問題は、他律にせよ自律にせよ、「律の呪縛」にある。鄙見によれば、他律と自律との対立を克服する可能性は神律に見出されるが、神律とは一体何か。余談ながら、アガサ・クリスティーには心霊現象を題材にした一群の怪奇小説(主に短編)があるが、その中に『翼の呼ぶ声』(The Call of Wings)という作品がある。それは百万長者のヘイマー氏が或る浮浪者との出会いを介して奇妙な神経の病に苦しむ物語だ。その病は次のように語られる。

 

「どうもうまく説明できないんだが……そのときの気持ちはね、……しかしすばらしいものだったよ! それまでに感じたり、夢に見たどんな気持ちともちがうものだった。いや、それがそれ以来ずっと続いてるんだ。毎晩じゃなく、ほんのときどきだけどね。そのとき聞いた音楽、上へ引っぱりあげられていく気持ち、宙をとんでね……そして今度はおそろしく引っぱられて……地上へ引き戻されるんだ。そしてそのあとの苦痛、目がさめるときの実際の肉体的な苦痛がね。ちょうど高い山から降りてきたときみたいな気持ちなんだ……あの耳の痛みはきみも知ってるだろう? そう、あれに似てるが、もっとひどくて……しかもそれと同時におそろしい重圧感があるんだ……閉じこめられて、息苦しくて……」

 

要するに、ヘイマー氏は自分を天へと引っ張り上げる力と地に引っ張り下ろす力、言わば恩寵と重力に引き裂かれている。その苦しみは何もヘイマー氏に限ったものではない。現代人の多くが格闘している病に違いない。とまれ、ヘイマー氏の場合、その苦しみの果てに次のような「呼ぶ声」を耳にする。

 

「お前はわたしと妥協することはできないぞ」とその声は言っているようだった。「というのは、わたしはほかのすべてのものを超越しているからだ。もしお前が私の呼ぶ声にこたえようとするなら、ほかのすべてを棄て、お前を抑えつけている力を切り棄てなければだめだ。わたしが連れていくところへは自由なものしかついてこれないからだ……」

 

「わたしにはできない」とヘイマー氏は叫ぶが、結局は全財産を投げ出して無一文になり、最終的には地下鉄の線路に転落した酔っ払いの若者を助けて自分は電車に轢かれて死んでしまう。すなわち、ヘイマー氏は翼に包み込まれて天上に上っていったのだ。果たして、このヘイマー氏は神律に生きたのであろうか。

道具を超える

道具は常に何かのために在る。ハンマーは釘を打つために在る。道具の存在理由は確固としている。従って、確固とした存在理由が欲しい人は道具になるのが手っ取り早い。「何のために生まれて、何をして生きるのか」というアンパンマンの問いは自分のなるべき道具存在によって解消する。ただし、道具は所詮モノにすぎない。モノとして生きることには人として違和感がある。確かに、道具には確固たる存在理由があるが、それは足枷にもなる。釘を打つためにつくられたハンマーにそれ以外の在り方はない。釘以外のモノ、例えば人の頭を打てば、それはハンマーの誤用であり、ハンマーは正しい存在理由を失う。モノとしてのハンマーはその正しい存在理由から一ミリもズレることができない。ところが、人はズレる。ズレ続ける。たとい道具として生きるとしても、絶えず予め定められた存在理由からズレようとする。恰もズレることに自らの本質があるかのように。それは「ハンマーはかくあるべし!」という他律からの逃走でもある。ハンマーの正しい使用法は客観的に定められているものの、人はそれに縛られない。ハンマーを自由に使おうとする。先述したように、釘ではなく人の頭を打てば、それはハンマーの誤用であり、場合によっては犯罪となる。だから一般的には自らを律し、ハンマーの正しい使用法から逸脱することはない。結果的に、他律にせよ自律にせよ、人は道具存在を超えることができない。言い換えれば、道具として生きる充実以外に人の存在理由は見出せない。それでいいのか。道具存在は盤石であると同時に束縛でもある。人は束縛を嫌う。さりとて束縛から逃走して、人は何処へ向かうのか。逃走は超越ではない。道具存在を超える、全く新しい生き方が求められている。

補足:神の道具になる

人の役に立つ道具になることは決して悪いことではない。誰かが誰かの道具になる。賢治が望んだ「世界全体の幸福」とはそうした調和なのかもしれない。悪い道理がない。悪いのは自分が道具になることなく他者を道具にして生きることだ。たといそれで安楽かつ贅沢な暮らしができたとしても、他者を道具にする個人の生活に幸福はない。幸福は常に相互関係において成り立つ。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」しかし現実には人の道具存在としての相互関係に亀裂が生じる。誰かが誰かの道具になるという調和が歪む。何故か。人には能力の格差があり、道具としての性能には否応なく優劣が生じるからだ。結果、人は有能な人と無能な人に区別される。両者の間に互酬性は成立しない。道具としての価値に格差があり過ぎるからだ。大谷選手と凡百のプロ野球選手とでは比較にならない。道具の価値は所得の格差に如実に反映し、それは正当なことだと見做される。しかし、その格差はあくまでも道具の価値によるものであって人の価値によるものではない。実際、無能な人、人の役に立ちたくても何もできない人、すなわち素晴らしい道具として生きられない人は人としての価値がないのだろうか。月並なヒューマニズムからではなく、私は人の有用性と有能性は厳密に区別すべきだと考え始めている。端的に言えば、道具として無能な人も有用な人になり得る。人の役に立つ道具にはなれなくても、神を喜ばせる道具にはなれるからだ。では、「神の道具になる」とは如何なることか。力ある他者の道具になることと何が違うのか。それは他律と神律の違いに他ならない。

補足:道具として生きる喜び

これまで道具を否定的に述べてきたが、立派な職人の道具は素晴らしい。立派な仕事をするためには素晴らしい道具が必要になる。更に言えば、自分自身が素晴らしい道具になることが立派な人生をもたらす。道具として生きることが生き甲斐になる。実際、難病さえ治癒できる素晴らしい道具になることが立派な医師であるように、それぞれの分野で素晴らしい道具になることが立派な人生に通じている。嫌な奴の道具になど死んでもなりたくはないが、愛する人の道具にはなってもいい。いや、喜んでなる。愛する家族のため、愛する会社のため、愛する国のため、人は喜んで道具となる。もとより素晴らしい道具になることは至難の業だ。誰でもなれるわけではない。それだけに一層、社会の役に立つ道具として生きられることが喜びとなる。逆に言えば、何の道具にもなれない役立たずは絶望を余儀なくされる。役に立つ人と役に立たない人。有用な人と無用な人。道具存在は人をそのように振り分ける。道具として生きる喜びの裏側には常に道具として生きられない悲しみがある。人が道具存在を超越することは難しい。それでもなお「人は道具になるべきではない」と言えるのか。

補足:悲しき道具

甘いことを言うようだが、人は道具になるべきではない。しかし、道具になるのは人の運命だ。人は「関係の絶対性」において生きていると言われるが、生まれて最初に経験するのは親子関係であろう。子は親を喜ばす道具として生き始める。当然、親も子を喜ばす道具になろうとする。このように互いに喜ばし合う関係は理想的だと言える。実際、幸福な家庭は楽園に違いない。親は子のために生き、子は親のために生きる。そんな調和は滅多にないものの、それだけに多くの人の憧れとなる。けれど、たとい幸福な家庭に恵まれたとしても、残念ながら長続きはしない。楽園は必ず失われる。何故か。道具として生きることに疑念が生じてくるからだ。明確に道具存在を意識していないとしても、自分の人生を生きていないという漠然とした不安がある。子のために生きること、あるいは親のために生きることが「本当」に自分の人生なのか。むしろ、自分の人生を犠牲にしているのではないか。その不安が「他者の道具にはなりたくない」という思いを育んでいく。そして、「道具ではない生き方」を求める。それは言わば「他律的ではない自律的な生き方」を求めることに等しいが、他律と自律は何が違うのか。若きヘーゲルは「他律と自律は主人が自分の外にいるか内にいるかという違いにすぎない」と述べている。すなわち、他人の道具になることは拒絶できても、自分の道具になることは避けられない、ということだ。他律と自律、どちらにしても「道具であること」からは逃れられない。ここに道具として生きるしかない人の悲しき現実がある。

補助輪の幻(10)

自転車の補助輪はやがて不要になる運命にある。不要になることが道具としての役割だと言ってもいい。いつまでも補助輪が存在し続けるのは決して好ましい状況ではない。それに対して自転車も道具の一つだが、その必要がなくなることはない。尤も、古くなればお払い箱になるが、それは自転車の必要がなくなることを意味しない。単にポンコツのオンボロに自転車としての必要を満たすだけの能力がなくなったにすぎない。修理もしくは新品に買い替えて能力を再生させれば、自転車の必要は生き続ける。そこに補助輪との決定的な差異がある。補助輪はその道具としての能力自体の死滅が求められている。言い換えれば、不要になることを前提に存在している。不要になることが補助輪の使命であり喜びなのだ。思えば奇妙な道具ではある。人は必要に応じて道具をつくる。視力が衰えれば眼鏡をつくる。眼鏡はもはや身体の一部と化している。手術で視力が回復しない限り、眼鏡の必要がなくなることはない。コンタクトレンズも眼鏡の一種だと考えれば、誰も道具としての眼鏡の死滅を望まないだろう。道具は不可欠だ。道具は人の生活を便利で快適なものにしてくれる。道具が世界をパラダイスにする。されど私はそうしたパラダイスに違和感を懐いてしまう。それが私に補助輪の幻を見せる。不要となる運命を胚胎した道具の幻だ。殆ど誰も道具の必要性を疑わないが、それはいつしか人の有用性とすり替わっている。パラダイスに有用な人もモノも道具存在と化している。そこに人とモノとの区別はない。今は有用な若者もやがて老いれば不要廃棄物と化す。実際、人の有用性が道具(モノ)の必要性を超えないのなら、道具の運命もまた超えられない。補助輪の幻は当分この世界を徘徊し続けることになるだろう。

補助輪の幻(9)

通常、子供は有能な人材になることを期待されて育つ。勉強ができて成績が良い子供は有能と見做されるが、それは良い学歴のための、更には良い就職のための有能さであり、最終的には道具としての有用性と結び付けられる。会社員であれば、その会社が利益を生み出す道具としての有用性だ。社長とて例外ではない。会社組織の道具(機関)の一つにすぎない。それぞれに役割がある。その役割を果たすことで組織は回っていく。されど、そうした有用性において人は機械に敵わなくなっている。言い換えれば、有用性は人の必要性ではなくなりつつある。有能な機械があれば事足りるからだ。尤も、これまでも「有能な人が有用なマニュアルをつくり、大半の人はそのマニュアル通りに役割を果たす」のが一般的であった。従って、有能な人が有能な機械に代わったところで、大半の人は困らないのかもしれない。今まで通りの、いや今まで以上に便利で効率の良い生活になるだろう。もはや有能な人と無能な人という区別は意味を失う。格段に有能な機械の下では人の有能さなど所詮五十歩百歩、大差はない。せいぜいパソコンを使いこなせる人が有能な人に見えるだけだ。実際に有能なのは機械。人ではない。殆ど全てを有能な機械に依存できる世界、裏を返せば人の必要性が失われた世界はパラダイスか。道具存在の有用性から解放されたという意味ではパラダイスだと言ってもいい。ただし、それはニヒリズムに通じている。道具存在でなくなることは同時に生きる意味を失うことでもあるからだ。道具には明確な存在理由があるが、人にはそれに優る必要性があると信じたい。

補助輪の幻(8)

四足歩行するケダモノが直立二足歩行するヒトになる。前足二本は歩行に不要になるが、新たに両手の必要が生まれる。鳥は二本足だが翼がある。翼が不要になった前足の転化なのかは定かでないが、新たな必要であることは間違いない。何かが不要になれば、新たな必要が生まれる。それを進化と解すれば、逆に新たな必要を生み出せなければ退化、もしくは絶滅することになる。例えば、恐竜は新たな環境に適応する必要を生み出せなかったから絶滅したと考えられる。この文脈において、ヒトはかなり上手く進化して人になったと言える。様々なモノを不要にして、次々と新たな必要を生み出してきた。その極北に人工知能(AI)がある。人工知能はこれからも多くのモノを不要にしていくに違いない。皮肉なことに、その不要になっていくモノの中に人の頭脳も含まれるのではないか。実際、人の知能は人工知能に勝てなくなっている。加えて、身体機能の補助として作られた機械が今や人の身体機能を上回ろうとしている。自ら作り出した、この新たな環境に人はどう適応するのか。恐竜と同じ轍を踏むのであろうか。全ては人が人として存在する新たな必要を生み出せるかどうかに掛かっている。

補助輪の幻(7)

子供の時に必要であったモノが大人になると不要になる。それが成長だが、逆に子供には不要であったのに大人になると必要になるコトがある。その最たるものは労働の必要であろう。労働の必要が生じて子供は大人になる。従って、どんなに幼くても、労働を余儀なくされる子供は既に大人だと言えよう。大人は労働に齷齪する。そして、いつか労働の必要から解放されることを夢見る。労働が不要になった世界、それがパラダイスだ。通常、大金持になることがパラダイスに通じているが、誰にでも許される道ではない。実際、万人が大金持になることは原理的に不可能だ。そこで多くの人は技術の革新に期待を寄せる。殊に近頃のAIの「進化」には目を瞠るものがある。熟練の事務員でも数時間を要する作業をAIは数秒でいとも簡単に完了してしまう。これまでも機械が人の労働を軽減してきたが、今やAIの能力は軽減の閾を遥かに超えている。余談ながら、少し前に中国のヒューマノイドロボットがハーフマラソンの世界記録を破ったというニュースがあったが、体力・知力の両面において人の出る幕はなくなりつつある。かつて機械は人の労働を補助するモノにすぎなかったが、これからは人が機械の補助をするようになるに違いない。いや、補助する必要さえなくなるだろう。AIが自ら考えて作業する。人の曖昧な操縦は要らない。労働の主体は完全に機械となり、その方が正確で作業効率も優れている。これは正に人が長年夢見てきた労働の必要からの解放ではないか。機械万歳!AI万歳!そう諸手を上げて祝福したいところだが、そのパラダイスで人は何をするのか。終日、娯楽や趣味に耽って過ごすのか。AIの嗤い声が聞こえてくる。それは暇を持て余したバカ殿に対する失笑に似ている。

補助輪の幻(6)

赤ん坊にはオムツが必要だが、やがて成長すれば不要になる。成人してもオムツを付けているのは病人か性的変態だけだろう。因みに私も数年前に或る手術の後にオムツの着用を余儀なくされたが、人生が終わったような気分に陥った。情けない。その一言に尽きる。健全な人はオムツなど付けない。尤も、老齢になれば、またオムツのお世話になるだろう。その点に自転車の補助輪との差異がある。補助輪は一度不要になれば、もう二度と必要になることがない。オムツは大人になれば不要になるが、病気や老齢になれば再び必要の機会が訪れる。松葉杖も然り。足の怪我が治れば不要になるが、また怪我をすれば必要になる。一般的に道具存在は目的を果たせば不要になるが、目的が死なない限り、その必要は生き続ける。補助輪という道具の目的は一度死ねば甦ることがない。私はそこに成長を見る。すなわち、目的の死滅は成長を意味する。かつて必要であったモノが不要になる。外国語をマスターすれば、映画の字幕も不要になる。問題は、そうした人の「成長」とモノ(道具)の「進化」が錯綜していることにある。例えば、AIに代表される機械の「進化」は人の「成長」に繋がるのか。そもそもAIは道具存在にとどまっていられるのか。AIがもたらすパラダイスに私は非常な危機感を懐かざるを得ない。