祝祭のユートピア(5)
先日のERRの記事では依然として増加傾向にある自殺者を問題にしていた。科学技術の進歩発展によって人は過酷な重労働から解放され、世の中は総じて便利で快適なものになった。実に刺激的で魅力溢れる娯楽(快楽装置)も巷に溢れている。そうした社会のパラダイス化にも拘らず、どうして人は自殺という道を選択するのか。筆者はその現実に逆説を見出す。周知のようにカミュは「人生が生きるに値するか否かを判断する、それが哲学の根本問題だ」と述べているが、科学はそれに有効な答えを出せるだろうか。記事の筆者によれば、或る会社は最近言わば「自殺を抑制するヘッドフォン」なるものを開発したそうだ。詳しいことはよくわからないが、どうやら脳に電流を送ることで鬱病などを改善する装置のようだ。他にも自殺の誘因となる化学物質を抑制する薬も開発されているようだが、こうした科学(医学)の努力は果たしてカミュの言う哲学の根本問題に応えることになるだろうか。筆者はどうも懐疑的なようだが、私も同 感だ。とは言え、科学が無力だとは思わない。むしろ、今後も科学は飛躍的に発展し続け、凡人の想像を絶するようなモノが人生を更に安楽にしていくに違いない。それによって画期的な新しい娯楽も登場するだろうが、そうした水平的発展(パラダイス)はついに自殺への道を断てないと私は思う。何故か。それぞれの道が質的に全く異なっているからだ。自殺を根源から絶つ可能性は娯楽にはない。祝祭にこそ見出される。
祝祭のユートピア(4)
結論だけを先取りして言えば、私は祝祭と娯楽を区別し、祝祭こそ真の遊びだと考えている。しかし、娯楽を蔑視して否定するつもりはない。むしろ、娯楽はこの生きづらい社会を生き抜くためには必要だと思っている。実際、「推し活」と称されるような娯楽への耽溺が多くの人にとって灰色の労働からの救いになっているだろう。また、灰色の労働とは無縁にやり甲斐のある仕事をバリバリとしている恵まれた人にとっても娯楽は息抜き(気晴らし)として要請される。娯楽自体を生き甲斐にするにせよ、娯楽で息抜きするにせよ、人生に娯楽は欠かせない。娯楽は人生の潤滑油だと言ってもいい。誰もが心置きなく自由に娯楽を享受できる社会、それが理想とされる。ところが、如何なる理由によるものか、私は若い頃からこの理想に満足できなかった。或るシュルレアリストは俗世間を嫌悪し、そこに繰り広げられる様々な気晴らしを憎悪したとのことだが、果たして私もそんな気分だった。ただし、非凡な天才ならそうした孤高の生き方も格好がつくが、凡庸な私では俗世間の娯楽に背を向けることは寂しい人生を余儀なくされる結果に追い込まれたにすぎない。この年末年始も正に「咳をしても一人」の寂しさだ。それもこれも全て身から出た錆ではあるが、老いるにつれてこの寂しさは耐え難くなる。とは言え、今更娯楽に逃げ込もうとは思わない。その逃避を望んでも、もはや私にとって娯楽は救いにならない。おそらく、娯楽が抑制される戦時体制に苦しんでいる人たちの不幸を思えば、祝祭への私の関心は戯言にしか聞こえないだろう。確かに、娯楽は平和の象徴だと言える。平和でなければ娯楽を享受することなどできない。それに対して、祝祭は常に戦争への危険性を孕んでいる。そんな恐るべき祝祭の意味をどう表現すればいいのか。
祝祭のユートピア(3)
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
人生は遊びだ。人間は遊ぶために生まれてきた。こんなことを言えば必ず、「人生の本質は遊びだなどと嘯いていられるのは余裕のある奴にすぎない!」という罵声が発せられるだろう。確かに、殆どの人が遊びに現を抜かしている年末年始でも、そんな余裕のない人は少なからずいる。食うための労働から或る程度解放されなければ、遊ぶ余裕ができないのは間違いない。剥き出しの生であるゾーエーを維持する行為を労働だとすれば、遊びはゾーエーの充足を前提としたビオスだ。ゾーエーなくしてビオスなし。同様に労働なくして遊びなし。月曜から金曜まで懸命に労働して、土日の楽しい遊びがある。年末年始の遊びも然り。従って、労働に追いまくられて遊ぶ余裕のできない人が一人でもいる限り、その社会は狂っていると言わざるを得ない。逆に言えば、全世界の人が例外なく労働と遊びの循環を享受できる社会が理想とされる。一部の人たちだけが特権的に遊ぶ余裕のできる社会は終わらねばならない。それが資本主義社会の死滅を意味するかどうかは別として、限りなく贅沢に遊ぼうとする欲望の肥大を抑制する「世界の水平化」が当面の課題になるに違いない。その意味での「水平革命」はすでに世界の至る所で進行中だが、私はその先の革命について思耕している。どうして「水平革命」だけでは不十分なのか。「水平革命」の実現だけでも困難な課題なのに、どうしてその先の革命が必要になるのか。一つの理由として挙げられるのは、「労働と遊びの循環」における遊びは本当の遊びではない、ということだ。少なくとも「人生は遊びだ。人間は遊ぶために生まれてきた」という真理における遊びは労働と対比されるようなものではない。それは娯楽にすぎない。
祝祭のユートピア(2)
『未来予測反省会』という興味深いテレビ番組がある。先日は「労働時間は1日3時間になる」という1930年の未来予測についての反省会であったが、私はうっかり見逃してしまった。従って、どんな反省がなされたのかわからないが、何となく予想はできる。予測から約百年経って、社会は明らかに便利で豊かになった。重労働は言うに及ばず、殆どの労働は機械に任せられるだろう。特にAIの進化によって、人にしかできない労働は皆無になりつつある。1日3時間どころか、労働時間0になることも夢ではない。しかし、現実にはそうならない。何故か。理由の一つは「無為へのぼんやりとした不安」だと考えられる。特に日本人には労働を美徳とする伝統があり、何もしないでいることに耐えられない傾向がある。以前に読んだ本によれば、古代において道具が発明されて労働時間が半減した時、殆どの民族はその半減した時間に昼寝をしたが、日本人は更に労働し続けて生産を倍増させたそうだ。その真偽は定かではないが、労働を原罪によってもたらされた罰だとする西洋(特にキリスト教)の伝統からすれば、労働より昼寝が歓迎されるのは当然だろう。日本でも西洋化された今時の若者たちはFIREに憧れ、可能な限り早期に労働から解放されたいと願っている。しかし、ダラダラと意味もなく長時間労働するのは論外だが、寝る間も惜しんで労働して豊かさの頂点を極めたいという人もいるに違いない。すなわち、「有為(うい)へのはっきりとした欲望」だ。これが労働時間0にならないもう一つの理由だと考えられる。とは言え、豊かさを求める労働が充実しているとしても、それは何のための豊かさなのか。限りなき欲望の充足の果てに一体何があるのか。結局、娯楽ではないか。食うための労働、すなわちゾーエーを充足するための労働は人に限らず、あらゆるイキモノがしなければならない行為だ。狩猟採集にせよ、農耕にせよ、あるいは賃労働にせよ、食うに困らぬ生活が基本となる。ただし、基本はあくまでも基本であって、それ以上のものではない。コンビニ弁当で基本を満たす人もいれば、それを不本意に思う人もいる。基本的な生活は日本国憲法に記されている「健康で文化的な最低限度の生活」を絶えず揺さぶっていく。たといベイシック・インカムというシステムが実現しても、それによって満たされる生活の基本は常にズレていくのではないか。何れにせよ、基本的な生活が安定するなら、労働時間の短縮に異を唱える人は皆無であろう。問題は「労働から解放された人は如何にして生の充実を得るか」ということになる。遊んで暮らす? それもいいだろう。新人類は余暇の過ごし方に優れており、様々な娯楽を享受していくかもしれない。しかし、私にとってはどんなに刺激的な娯楽も退屈でしかない。私は淘汰されるべき存在なのだろうか。
祝祭のユートピア
先日のEsperanta Retradioの記事は「Nia Timo pri Enuo」(退屈についての我々の恐れ)と題していた。現代人は忙しい。忙しければ忙しいほど生は充実すると思われている。尤も、それは高度経済成長期のモーレツな時代の価値観にすぎず、今や総じて時代遅れとなった。もとより過労死するほど忙しいのは犯罪であり、誰もがビューティフルな生活を望んでいる。モーレツからビューティフルへ。しかし、我々の生活は本当にビューティフルになったのか。かつての貧しかった時代に比べれば、街は格段にキレイになり、人々は総じて豊かになった。ただし、その豊かさは農村を荒廃させ、住宅地にクマが頻繁に出没するような問題を引き起こしている。地球規模で見ても、現代人の豊かな生活が自然環境を犠牲にして成り立っていることは明らかだ。たといそれがどんなに便利で快適なものであったとしても、そこにビューティフルな生活はない。キレイな生活ではある。しかし、ビューティフルな生活ではない。さりとて経済的に豊かな生活を放棄して、かつての貧しい生活に戻ればいい、ということではない。清貧もキレイな生活ではある。しかし、ビューティフルな生活ではない。何が問題なのか。自然環境破壊もさることながら、ここでは「退屈」について思耕したい。貧しい時には忙しく生きることが生き甲斐であった。忙しく働けば働くほど収入は増え、生活は豊かになった。では、豊かになった生活で人は何をするのか。更に豊かになるために再び忙しく生きる人もいるだろうが、多くの人は娯楽に埋没していく。何故か。「退屈」、すなわち何もしないでいることが怖いからだ。先に言及した記事の中で、投稿者は「退屈は欠乏と見做されているが、実際には可能性だ」と述べている。ボーッと生きているとチコちゃんに叱られるが、そこにこそビューティフルな生活への可能性がある。私はそう考えている。
補足:祝祭のユートピアに向けて
幼い頃から何もしない人は怠け者で愚かだと教えられてきた。だから、偉大な何かを成し遂げる人になりたいと思った。しかし、何をすればいいのか。何ができるのか。映画やテレビの影響で様々な偉人たちの輝かしい業績に魅せられはしたものの、凡庸な自分にそんな大それたことなどできる道理がない。早々に諦めた。私は何もできないデクノボーだ。それでも生きていかねばならないので、自分にできることはしようと思った。日本国憲法には「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明記されているが、この権利を享受するためには国民としての義務を果たす必要がある。所謂三大義務の中でも主に勤労さえしていれば、人は健康で文化的な生活を営むことができる。健康は肉体の糧、文化的な生活は魂の糧によって、それぞれ得られるとすれば、人はそうした二つの糧のために生きているとも言える。だから、原理的には何もしないことはあり得ない。生きることは何かをすることだと言ってもいい。問題は、その何かによって人生の価値が決められることにある。当然、そこには格差が生じてくる。天才的能力の持ち主は偉業を成し、平凡な一般大衆は代わり映えしない日常生活を繰り返す。格差は天才と凡人の間に限らず、凡人たちの間にも生じるだろう。能力の多寡に関係なく、努力して大きなことを成し遂げた人はより高く評価される。こうした成果主義によって生まれる格差に異議を唱える人は殆どいない。それは正当な格差であり、むしろ成果も出さずに、あるいは不正による成果で評価されることの方が非難される。水平革命は格差をなくすことではない。世界の水平化と世界の平等(平均)化は全く異なる。格差を撤廃して、能力のある人もない人も、成果を出した人も出せない人も、皆一律に評価する平等主義の世界はディストピアだ。親ガチャに悩むことなく、誰もが同じ出発点から始める正当な競争の結果として生まれる格差は世界をパラダイスと化す。現代社会では、大半の人がパラダイスを目指している。学歴で格差をつけ、就職すれば昇進で格差をつけ、それが年収の格差に結実して「健康で文化的に最高の生活」に人生の幸福を見出していく。勿論、その裏側には格差をつけられた人たちがいるが、それでも「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利はある。「健康で文化的に最高の生活」と「健康で文化的な最低限度の生活」との格差は水平革命においても正当なものとして認めざるを得ない。しかし、それでいいのだろうか。成果主義は絶対的な正義なのか。才覚のある者はどんどんお金を稼いで豊かになっていく。お金さえあれば、貧乏人には受けられない高額治療も可能となり、健康もより盤石になる。文化的な生活もより洗練されるに違いない。パラダイスに必然的に伴う格差は「必要悪」として諦めるしかないのか。貧乏人が一斉に蜂起して、今の富裕層を皆殺しにしても問題の解決にならないことは明白だ。格差そのものは死なない。また、先述したように、格差を殺して平等主義を徹底させてもディストピアに転落するだけだ。では、どうすべきか。目に見える何かをすることで人生を評価する次元を超越するしかない。私はそう考えている。
補足:娯楽のパラダイス
或る投資ファンドを描いたドラマを観ていたら、「何かを変えようと思うなら、何もしないことだ」というセリフに再会した。このドラマは再放送されるたびに何度も観ている名作だが、今回その逆説を孕んだセリフの意味が何となく朧気に見えてきたような気がする。また、「伝統は守るものだと思ってきたが、いつから壊すものになったのか」というセリフもあった。守るべき伝統と壊すべき伝統。新しき村の「新しさ」は近代都市の新しさとは全く違う。私は繰り返しそう述べてきた。近代都市は伝統の破壊の上に成り立ち、新しき村は伝統を螺旋的に進化=深化させる。近代都市は古きよき村を破壊したが、その御蔭で人々の生活は実に便利で快適なものとなった。例えば、伝統に縛られた生まれ故郷を出て東京で一人暮らしを始めれば、面倒くさい近所付き合いから解放されて純粋に個人の生活を楽しむことができる。コンビニに行けば必要なものはほぼ何でもあるし、繁華街に足を運べば娯楽施設が溢れている。東京に代表される大都会は正に娯楽のパラダイスだ。しかし、そうした近代都市の生活が今や行き詰っている。それでも都会生活に憧れる人が後を絶たないものの、「東京へゆくな ふるさとを創れ」という言葉は日ごとにその輝きを増しているのではないか。現代社会は明らかに病んでいる。絶え間ないイノベーションに追いまくられる毎日。このままでいい道理がない。そこで「何かを変えようと思うなら、何もしないことだ」というセリフが効いてくる。近代の超克。脱成長の戦略。確かに「何もしないこと」は有効な一つの道ではある。しかし、果たして現代人は無為に耐えられるだろうか。それに娯楽のパラダイスの魔力を克服することは容易ではない。「何もしないこと」は病める近代主義に対する有効な処方箋ではあるが、さりとてそれによって伝統に守られた古きよき村に回帰できるわけではない。たとい回帰できたとしても、それも再び失われる運命から逃れられないだろう。では、どうすべきか。ふるさとを新たに創るしかないが、それは如何なるふるさとであろうか。
補足:祝祭は娯楽に勝てるか
臆面もなく言えば、私は英雄(ヒーロー)になりたかった。悪者に虐げられている人々を悉く解放する救世主。皆から感謝されながら颯爽と去っていく正義の味方。そういう者に私はなりたいと思ったが、それはずっと憧れのままであり、その状況は今後も変わらないだろう。何故か。退治すべき悪者の姿が何だかぼやけてしまったからだ。一体、誰が悪者なのか。かつては鬼が悪者で桃太郎は文句なしの英雄だったが、今やそうした明確な二項対立は崩れている。一方で鬼だと非難されても、他方でその鬼を支持する人たちがいる。総じて誰の目にも見える悪者は警察などが取り締まってくれるが、本当の悪者は目に見えない。ほぼ毎日のように観ている刑事ドラマの主人公はいつもカッコイイが、私のなりたい英雄ではない。悪代官を懲らしめる水戸黄門のような単純明快な勧善懲悪のドラマはリアリティを失った。私はもはや英雄にはなれない。多くの人々から感謝されるような善人にはなれない。むしろ、英雄になろうとすればするほど、悪人になる決断を迫られているような気がする。悪人と悪者は質的に異なるが 、一般的にその差異は無視されるに違いない。それにも拘らず、私は性懲りもなく依然として英雄になりたいと思っている。たといその英雄が大衆から石を投げられるような悪人だったとしても。娯楽に惑溺する大衆にとって、祝祭を求める者は嫌悪すべきアウトサイダーでしかない。
娯楽を超える祝祭(10)
改めて言うまでもなく、私はヒトでなしだ。人として本当に生きようとしているうちに、いつの間にかヒトでなしになっていた。これは明らかに本末転倒、ヒトとして生きることに不十分な者が人として本当に生きられる道理がない。従って、私は人でなしでもある。誰よりも人間になることを望みながら、依然として人間以前を生きている。そこには人間神格に憧れながら人間失格に堕ちた太宰治と共通する部分がある。それでも太宰には「藁一すぢの自負」、すなわち「苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た」という自負があった。私には、そのような自負さえない。尤も、人として本当に生きようとすることの苦悩は人一倍してきたつもりだ。そのために誰よりも深く思耕することを心掛けてきた。しかし、私の思耕の苦悩は他人様に誇れるようなものではない。率直に言って、私は水平的な苦悩を知らない。例えば、就活の苦悩を知らない。特に就職氷河期の学生たちの、幾ら入社試験を受けても内定がもらえず、「自分は誰にも必要とされていない存在だ」という人格が否定されたような苦悩を味わったことがない。また、運よくどこかに就職できたとしても、一つの組織の中で生き抜いていくためには泥水をすするような経験を余儀なくされることもあるだろう。顧客のために笑いたくないのに笑い、下げたくもない頭を下げる。総じてゾーエーを維持するために理不尽なことをせざるを得ない苦悩を私は知らない。とは言え、そんな人でなしの私でも食うための日常生活から分泌される水平的苦悩が娯楽に救いを求めることは理解できる。だから、「娯楽に現を抜かすことは自己欺瞞だ!」などとは口が裂けても言えない。言うつもりもない。それにも拘らず、人生の苦悩は水平的苦悩に尽きるものではない。究極的には垂直的苦悩が問題になる。私はそう思わずにはいられない。水平的苦悩が娯楽を求めるとすれば、垂直的苦悩は祝祭を要請する。二つの苦悩が質的に異なっているのは明らかだ。漱石流に、水平的苦悩が馬鈴薯をめぐる苦しみで、垂直的苦悩は金剛石に関する苦しみだと言うこともできる。ただし、前者が切実な苦悩で、後者が贅沢な悩みという区別は当たらない。両者は相即すべきだが、その「相即の論理」については更なる思耕を要するだろう。人でなしの試行錯誤は当分終わりそうにない。
娯楽を超える祝祭(9)
先日の『映像の世紀 バタフライエフェクト』のタイトルは「ロシア革命 世界を覆ったユートピア幻想」であった。帝政ロシア下での民衆の苦悩を描いたトルストイの死から番組の幕は開く。民衆の本当の幸福とは何か。それがトルストイの根源的問題であったとすれば、その一つの帰結はロマノフ王朝を打倒した第一革命に結実した。しかし、皇帝を否定しても民衆は解放されない。何故か。周知のように、それはブルジョア革命にすぎず、資本主義による抑圧者と被抑圧者の関係が温存されたからだ。そこで誰一人として抑圧されることのない労働者と農民の楽園(理想社会)を実現すべく第二(ボリシェヴィキ)革命が行われた。大雑把にまとめれば、ロシア革命の流れはこのように理解されるだろう。番組の前半ではロシア革命の光の部分が強調され、コミュニズムの理想が西欧の著名人(H.G.ウェルズ、バーナード・ショー、アンドレ・ジッドなど)を魅了した様子が映し出された。しかし、後半ではその闇の部分、すなわちコミュニズムの理想が民衆を弾圧してきた現実が暴き出された。皇帝の否定から始まったロシア革命はレーニンやスターリンという新たな皇帝を生み出したにすぎない。ロシア革命はユートピア幻想――これが番組の結論だと言えるが、本当にそうだろうか。確かに、ロシア革命は民衆を解放するどころか、かつての帝政以上に民衆を抑圧する「堕落した革命」であった。しかし、その堕落はコミュニズムそのものの理想とは厳密に区別すべきではないか。とは言え、ロシア革命の堕落の現実とコミュニズムの理想とが全く無関係である道理はない。むしろ、関係は大いにある。ロシア革命はコミュニズムの理想を実現することに大失敗した。だからと言って、「資本主義万歳!」という結論にはならない。当然のことだ。鄙見によれば、ロシア革命の限界は水平革命の限界に他ならない。そこには垂直の次元が致命的に欠けている。これはベルジャーエフのロシア革命批判にも通じる問題点だ。コミュニズムの理想を本当に実現するためには、水平革命はどうしても垂直革命に接続しなければならない。言い換えれば、社会の変革に止まることなく、そこに生きる民衆の在り方そのものの変革が要請されるのだ。そうした変革の第一歩こそ「娯楽を超える祝祭」への究極的関心だと私は確信している。