新・ユートピア数歩手前からの便り -5ページ目

純粋白色批判(5)

幼年時代が美しいとは限らない。おしんのように純真無垢を享受する暇もなく、いきなり過酷な人生を余儀なくされる者もいる。貧困もさることながら、重い障害を背負って生まれた者やネグレクトを含む親の虐待の被害者も然り。悲惨な幼年時代は枚挙に遑がない。それでも純真無垢が最初から欠落している人はいないのではないか。人生のドラマは例外なく純真無垢から開幕する。ただし、それは性善説の単純な肯定を意味しない。私はただ、純真無垢を人生の原点と考えているにすぎない。「下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬところへ、暗黒のみちるところへ」――或る詩人は原点をそう歌っているが、純真無垢もまた「花咲かぬところ」であり「暗黒のみちるところ」だろう。純真無垢だからと言って必ずしも善人を意味しない。純真無垢な少女だって人を殺す。尤も、そこに悪意があっても、それは未だ悪とは意識されず、ましてや犯罪として刑罰の対象になることはない。少年法で守られているという現実よりも、純真無垢が善悪の彼岸にあるという真実の方が重要だ。それは基本的にクマが人を殺す場合と変わらない。どんなに残忍に人を咬み殺しても、クマに悪意は認められない。クマには悪を意識するだけの能力が欠けているからだ、純真無垢な少女も然り。或る意味、純真無垢な生はクマのように生きることだと言ってもいい。クマもまた善悪の彼岸に生きている。されど人は純真無垢に留まることができない。善悪の彼岸から絶えず善悪を意識せざるを得ない地平に下りてくる。純真無垢を純白の生と理解するならば、純白の生の喪失から「本当」の生は始まる。とは言え、それを転落だと嘆く人も少なくない。幼年時代の美しい思い出と純白の理想。そこには幸福な人生の元型がある。純白は死んでも、その影としての白色がパラダイスに疲れ果てた人を魅了していく。

純粋白色批判(4)

人は誰しも純白の生に憧れる。それはキルケゴールの美的段階における無垢(Unschuld)に相当する。ティリッヒは「夢見る無垢」(dreaming innocence)と称しているが、正にそれは自己意識に目覚める前の夢のように幸福な状態だ。しかし、楽園喪失が人間の運命であるように、無垢もまた不安によって破れる運命にあり、やがて負い目(Schuld)と共に人間の倫理的段階が始まる。端的に言えば、「自分が未だ本来あるべき自分になっていない」という負い目だ。私はそれを埴谷雄高の「自同律の不快」と関連させているが、「現にある主辞の私」と「未だない賓辞の私」との間のズレはSollenの発生と密接に関係している。つまり、「本来あるべき自分」を無限に求め続けるのが倫理的段階なのだ。しかし、「自同律の不快」がそうであるように、「本来あるべき自分」の追求(己事究明)は至難の業であり、精神としての自己(無限性と有限性、可能性と必然性などの関係態としての自己)にとって絶望は避けられない。では、如何にして絶望を克服すべきか。この問いと共に宗教的段階が始まる。ただし、宗教と言っても特定の教理や教団とは関係なく、世俗的な水平の次元を垂直に貫く生が求められる。キルケゴールによれば、そうした宗教性にはAとBの二種類あるが、私はそれらを美的段階と倫理的段階のそれぞれの反復(受け取り直し=Wiederholung)として理解している。従って、宗教的段階は実体としては何処にも存在しない。存在するのはあくまでも美的段階と倫理的段階の「あれか、これか」だけだ。前者を選べば、問題は「如何にして無垢を反復するか」ということになる。つまり、純白の生の反復だ。されどキルケゴールは「反復は前向きの運動だ」と言っている。無垢もしくは純白の生を前向きに反復するとは如何なることか。純白の生への回帰ではない。回帰は後向きの運動にすぎぬ。宗教性Bは純白の死を要請する。

純粋白色批判(3)

『ムショラン三ツ星』というドラマが終了した。有名なイタリア料理店のシェフだった女性が或る挫折を契機に男子刑務所の管理栄養士になり、炊事係の受刑者たちとの交流を通じて成長していくドラマだ。最初はギクシャクしていた関係が様々な試行錯誤を経て信頼関係に転化していくが、最終回では改めて受刑者の更生の意味が問われていた。主人公の女性は一般的に「クサイ飯」と言われる刑務所の食事を限られた予算内で少しでも美味しいものにしようと努力を重ねる。その情熱に影響されて、最初は冷淡だった受刑者も次第に心を開いて料理に生き甲斐を見出していく。ところが、そうした一見楽しそうな炊事係の様子がテレビで映されると、「どうして受刑者が楽しそうにしているのか」という意見がネット上に溢れて炎上してしまう。当然だと私は思った。刑務所とは罪を犯した者が刑罰を受ける場所、露骨に言えば犯罪者がその罪に応じた苦痛を与えられる場所だというのが一般的な理解だからだ。従って、刑務所で受刑者が快適に過ごすなど言語道断。殊に被害者家族を中心とした関係者にとっては全く許容できないことだろう。受刑者は「クサイ飯」を食べて、苦しんで、苦しんで、苦しみ抜かねばならない。もはや拷問はあり得ないが、心情的には拷問を望んでいるに違いない。その最たるものが死刑だ。しかし、そうした刑罰とは別に、刑務所にはもう一つの役割がある。更生だ。刑務所は受刑者が社会復帰を目指して更生する場所でもある。この観点からすれば、死刑はあり得ない。死んだら更生への道が完全に断たれてしまうからだ。或る意味、刑罰と更生は相反する。刑罰を重視すれば更生は無視され、更生を重視すれば刑罰が抑制される。とは言え、通常は決定された刑罰を受ければ更生の可能性が開く。では、更生とは何か。犯した罪が白紙に戻ることか。そんなことはあり得ない。しっかりと前科が残る。そして、それは一生付き纏う。更生は白色の不可能性から始まる。犯罪者はもう二度と自らの人生の絵を白いカンヴァスの上に描くことができない。罪を犯す以前の純白の生に憧れるとしても、汚れっちまったカンヴァスの上に犯罪者は更生の絵を描く。更に言えば、それは犯罪者に限ったことではない。人は皆、純白の理想に憧れを懐くものの、それは常に既に失われている。

純粋白色批判(2)

「美しい花がある。花の美しさというものはない」とは小林秀雄の言葉だが、ゲーテも「白い雪がある。雪とかかわりのない白さというものはない」と言うかもしれない。畑一成という研究者は次のように述べている。

 

ゲーテが白と呼ぶものは具体的な対象から離れた伝統的名称ではない。誰かからそう呼ぶように教えられたものでもなく、最も光を反射する表面などといった学的探究によって明らかになる抽象的説明でもない。むしろ雪を経験したときの印象、今まさに感じたあの色彩のことを白と呼ぶのである。ゲーテは白の具体的な一例として雪を挙げているのではない。白という概念が雪という事物に先立っているのではなく、雪という現象を体験することではじめて白という言葉でかろうじて指し示せる何かを手にする。雪は白という概念の間接的証拠ではなく、白そのものである。最も純粋な透明性が消える瞬間、我々はある印象を手にする。それが白である。もはや雪が白と呼ばれる必然性もなければ、白が雪であると指示される必要もないところで出会う体験が「白の導出」で語られていることである。(畑一成「ゲーテ色彩論の特徴的主題」)

 

これをどう理解すべきか。単なるノミナリズムか。あらゆる色を超越する純白は西田幾多郎の言う「未だ主もなく客もない純粋経験」に通じている。雪を見る。白いと感じる。その感覚の奥底に純白が「ある」のか。ただし、その「ある」は存在の根柢であり、通常の「ある」ではない。「ある」とその否定としての「ない」の対立を根源的に超越する言わば絶対無だ。それは絶対有と称しても基本的に同じだが、その絶-対の地平に「ある」純白は如何にして経験されるのか。白色と純白。それは現象とイデアなのか。そもそも「本当」の色とは何か。同じモノでも反射光で見るのと透過光で見るのとでは異なって見える。同じ色ではない。また、反射光と透過光のどちらにしても、光を当てなければモノは見えないが、光を当てれば「本当」からズレてしまう。理論負荷性のディレンマも無視できない。結局、カントの言うように、人はモノそれ自体の「本当」を認識することは不可能なのか。たとい不可能でも、人は「本当」を問わずにはいられない。それが人間理性の運命だ。カント曰く、「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命だ。斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからであり、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を超えているからだ。」イデアを排してモノの現象だけを問うことも可能だが、そのような唯物論は世界を矮小化する。白いモノがある。黒いモノがある。様々な色が乱舞する世界で、人は色に溺れる。色即是空。空即是色。純白の理想は避けられない。

純粋白色批判

汚れっちまった悲しみに沈む者は白色に憧れる。そこには汚れる以前のカタチがある。全ては白から始まる。しかし、そもそも白は色なのか。手元の辞書で白の意味を引けば、「太陽の光線をあらゆる波長にわたって一様に反射することによって見える色」という物理的意味に続いて「何かを書いたり加工したりしていないこと」という日常的な意味が記されている。つまり、「白紙に戻す」という表現に見られるように、日常生活における白は「何かが始まる以前の始源の状態」と理解することができる。人生を絵画に譬えるなら、それぞれの絵は白く塗られたカンヴァスから始まる。様々な色は白の地平の上に成り立つ。白がなければ色は存在し得ない。その意味において、白は色の根源、そこから色が生まれてくる原点だと言えよう。私が尊敬する純白先生も「白は色であって色ではない。むしろ、色の彼岸、光そのものではないのか。私たちは光の国からやって来て、再びそこへ帰還する」と述べられている。確かに、白は色を超越している。殊に純粋白色、すなわち純白は不本意な色に染まってしまった人生に絶望する者にとっては救いとなるに違いない。されど、その救いは「本当」の生に通じているのか。人生が純白から始まっていることは間違いない。しかし、我々は純白の生に帰還すべきなのか。私は疑念を懐かざるを得ない。どんなに甘美に思い返されても、純白の生は帰るところにあるまじや。

補足:イキモノの「本当」と「虚」

イキモノは生きようとする。生きるためには何でもする。ここに一個のオニギリがある。それを食べなければ死んでしまうという限界状況において、一個のオニギリの奪い合いが始まる。他人を殺してでもオニギリを食う。選択の余地はない。躊躇すれば自分が殺される。殺されないためには殺すしかない。熾烈な生存競争。弱肉強食。そこにイキモノの「本当」がある。それに対して、そんな醜い殺し合いをするくらいなら死んだ方がマシだと思う人がいる。醜悪に生き続けるよりも美しく死にたい。一個のオニギリを他人に譲る。キレイゴトだ。美しく死ぬことで美しく生きたような気になるかもしれないが、それは自己満足にすぎない。イキモノとしては本末転倒、すなわち「虚」に他ならない。泥に塗れても生きる。卑怯者だの極悪人だのと罵られても生き抜く。そんな風に生きることに意味はないと思う人もいるだろうが、生きることに意味を求めること自体が「虚」なのだ。イキモノは意味など求めない。ただ生きようとする。それにも拘らず、人は生きることに意味を求めざるを得ない。イキモノの「虚」が人の「本当」になる。人はキレイゴトが実現する世界を望む。それを理想主義と称する。強者の支配に反抗し、弱者でも幸福に暮らせる社会を実現しようとする。弱肉強食の自然のディコンストラクション。自分のイノチを犠牲にしてまで他人のイノチを生かそうとする。自分の愛する家族や仲間のために犠牲になることは他のイキモノにもあるが、人は見ず知らずの他人のために犠牲になることもできる。あるいは目に見えない大義に殉じることもできる。全てイキモノとしては「虚」だ。されど「虚」に生きることに人の「本当」がある。安楽に暮らせる故郷を棄てて旅に出る渡世人も然り。人は「虚」を「本当」にするドラマを生きる。その果てに異郷がある。

補足:ヤクザとカタギ

久し振りに高倉健主演の任侠映画を観た。『昭和残侠伝 破れ傘』。シリーズ最終作とのことだが、それに恥じぬ見事なマンネリ振りだった。それにしても私はどうして任侠映画に魅せられるのか。尤も、任侠映画はやがて廃れて実録路線に取って代わられた。私はそこに義理人情を重んじる理想主義から仁義なき現実主義への転換を見る。所詮、人は色と欲。社会で成功するためには敵対者に勝たねばならぬ。それ故、平気で敵対者を殺す。その剥き出しの欲望に多くの人は共感した。それが人の「本当」の姿だ。義理人情に縛られて生きるのは噓っ八だ。とは言え、その共感はあくまでもスクリーンの中だけに限られる。実際、ヤクザの「仁義なき戦い」にリアリティを感じたとしても、殆ど誰もヤクザになりたいなどとは思わない。むしろ、反社会的な暴力の横行に怯えて、社会的な秩序の中に逃げ込もうとする。そして、ヤクザの現実はケダモノの「本当」にすぎず、カタギの穏やかな生活にこそ人の「本当」があると思う。この感覚を任侠映画は共有している。花田秀次郎も風間重吉もカタギとして暮らすのが「本当」だと信じている。それにも拘らず、彼等はカタギとして生きられない。義理人情に生きる渡世人になってしまう。考えてみれば奇妙なことだ。義理人情のために憎んでもいない人と殺し合いをする。実に不自然だ。故郷でカタギとして幸福に暮らしたいのに旅に出ざるを得ない。任侠映画の渡世人は全て故郷喪失者だ。その異郷を目指すことを余儀なくされる生き方に私は深く共鳴する。

補足:実存と構造

実存は本質に先立つ。実存の本質(あるべき自己)は歴史の中で自由につくられる。そう言われても途方に暮れるばかりだ。設計図なしで自分の家を建てよと言われるに等しい。神の設計した本質から逃走した実存主義は根無草となった。されど生きていくのに根は不可欠だ。そこで構造という根が求められた。実存主義は構造主義に接続する。実存主義が否定した本質を構造として受け取り直す。では、本質と構造はどう違うのか。どちらも根源的なBildであることに変わりはない。ただ、本質がUrbildとして実存を規定し続けるのに対し、構造はUrbildであると同時にVorbildを求めて絶えず発展していく。従って、本質主義は自同律に安住できるが、実存主義を核とする構造主義は常に自同律の不快を胚胎している。私はその発展する構造を元型と称して本質と区別したい。厳密に言えば、本質も単なる固定した設計図ではなく言わば動的平衡を維持するものだが、元型は更にその平衡をディコンストラクトして不断に型破りするものと理解できる。元型は故郷喪失者の居場所であり、そこが異郷の起点となる。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(10)

誰もが都会に憧れるわけではない。田舎暮らしを愛するものの、田舎では食っていけないから嫌々都会に出ている人もいるだろう。経済的な問題さえ解消すれば、あるいは田舎暮らしを望む人の方が多くなるかもしれない。そこには自然に即した人本来の生活のカタチ(元型)がある。例えば、宮澤賢治が「雨ニモマケズ風ニモマケズ」と歌ったデクノボウの生活。しかし、現実にはデクノボウとして生活するのはほぼ不可能だ。食っていけない。そもそも田舎暮らし自体、今や金持か潤沢な年金生活者にしか許されないものと化している。別に農業で食っていく必要はない。投資などで金を稼いで、その余暇に自分たちの食べる分程度の米や野菜づくりを楽しめればいい。言わば土に親しむ娯楽としての農作業。さぞ楽しいことだろうが、そんなところにアルカディアはない。むしろ、それはパラダイスだ。場所は田舎でも、そこは都会の延長にすぎない。と言うより、田舎暮らしを満喫する富裕層は決して「便利で豊かな生活」を棄てることなく農村と都会の往還を楽しんでいる。実に羨ましい悠々自適の生活だが、これを一般化することはできるだろうか。できなければ、農都往還のパラダイスは一部の富裕層にのみ許された特権的な理想に堕していく。当然、私は特権的なパラダイスなど容認しないが、パラダイスの追求そのものは否定しない。さりとてアルカディアに徹するデクノボウの生活も否定しない。愚直に元型に忠実であろうとする生活は実に尊い。とは言え、元型は人の在り方のUrbildではあるけれども、それに基づいてVorbildを求める可能性も棄て切れない。単純に、Urbildに生きるアルカディアとVorbildを求めるパラダイスという対比で考えてもいい。世界を腐敗させるパラダイスの危険性を考慮すれば、アルカディアに徹するデクノボウの生活を持続可能なものにする道を摸索する方が賢明かもしれない。されど、その道を切り拓くためにも、アルカディアに閉塞すべきではないと私は思う。デクノボウにとっても故郷喪失は不可避となる。故郷のアルカディアは都会のパラダイスに接続しなければならない。ただし、それは故郷の都会化でもなければ都会の故郷化でもない。単なる農都往還のグリーンツーリズムを超える全く新しい場所の実現!それは異郷のユートピア、すなわち人が人間として生きる祝祭共働態に他ならない。

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(9)

率直に言って、私はアルカディアを究極的な理想とは考えていない。されどアルカディアを消滅させてはならぬと思っている。故郷のアルカディアから都会のパラダイスへ。これはほぼ不可避の流れであるものの、パラダイスは深刻な問題を孕んでいる。現代社会の腐敗はパラダイスの果てなき追求に起因していると言ってもいい。もし人が自然に即した生活を理想とするアルカディアに安住できたなら、世界は楽園のままだっただろう。しかし、楽園は失われた。人はそれを「自然に縛られた生活」と見做し、自然を改作することによってより豊かで自由な生活を求めたからだ。自然の改作とは何か。それは神が創造した自然の元型を人の手によって組み替えることだ。例えば、作物や家畜の品種改良によって生産性を向上させたり、川の流れを変えて災害を防いだりする。今後も遺伝子組み換えやAIの技術の発展などで世界は益々人が快適に暮らせる場所になっていくに違いない。悪いウィルスや害虫は完全に遮断され、夏は涼しく、冬は暖かい、人に都合のいい自然環境がつくられる。ところが、現実は理想通りにはいかない。人工楽園は逆に環境破壊をもたらしている。やはりパラダイスの追求には致命的な無理があるのだろうか。実際、従来通りの「便利で豊かな生活」の発展を求め続けることに危機感を懐いている人たちは脱成長を唱えている。それは或る程度、自然楽園としてのアルカディアへの回帰を意味する。腐敗し続ける世界を救う道はそれしかないのか。確かに、パラダイスの魔力に対抗し得るのはアルカディアの理想しかない。ただし、アルカディアが今や失楽園であることも厳然たる事実だ。もはや後向きの運動はあり得ない。あるとすれば、前向きの運動だ。回帰ではなく再生。それは前向きの反復に等しいが、単なる自然楽園を超えている。いや、むしろ人工楽園に近いと言うべきかもしれない。アルカディアの尾をパラダイスが噛み、パラダイスの尾をアルカディアが嚙んでいる。その奇妙な円環がユートピアの理想に転化していく。故郷のアルカディアと都会のパラダイスとの対立は意味を失い、全世界が異郷となる。異郷としてのユートピア、それは現実にどのように機能するのか。