故郷の超克としての「ふるさと」(9)
平成十一年に放送された『日本美巡礼 白洲正子の世界』という番組の再放送を観ていたら、車谷長吉氏が「白洲正子は小林秀雄に『あなたは近代の子だ』と言われたことに反撥して、骨董の世界にのめり込んだ」と語っていた。「近代の子」とはモダンガールくらいの軽い意味だと思われるが、白洲正子はどうしてそう見做されることに憤慨したのか。おそらく、ただキラキラと華やかなだけの近代主義は薄っぺらなもので、本当に深い意味は歴史の重みに鍛えられてきた古きよきモノにこそある、ということだろう。しかし、そうした価値観もしくは美意識は極めて貴重だと思うものの、骨董の世界は今や生活世界と乖離してしまった。民藝の世界はまた少し違うだろうが、生活に便利なモノはむしろ近代主義を歓迎するのではないか。お釜や土鍋がいくら美しくても、殆どの人は手軽で便利な炊飯器を選ぶに違いない。それでも便利なモノを排して手間暇かけた生活を望むのであれば、それは経済的に余裕のある富裕層に限られた生活だと言わざるを得ない。骨董の世界も金持の道楽世界だと言われても仕方がない。もとよりこれは偏に私が骨董の世界に疎いだけであって、骨董が胚胎する美を否定するつもりなど全くない。ただ、生活に便利なモノは近代主義の産物であり、その機能性や効率性を重視した美と骨董の美との質的差異を問題にしたいと思うだけだ。とは言え、今では骨董と称されるモノもそれが生み出された当初は機能性や効率性と無縁ではなかった筈だ。例えば、SL蒸気機関車はその当時の最高の機能性と効率性の結晶だと考えられる。それが電車になり、新幹線になり、やがてリニアになろうとしている。SLを骨董と見做すならば、その美しさは新幹線の美しさとは明らかに違うものの、さりとて全く無関係ではない。そもそも新幹線の美しさだって、昭和三十九年の創業当時と今とでは「進化」しているだろう。とすれば、美は時代と共に変遷するものなのか。確かに、「美が洗練される」ということはあるに違いない。新幹線に限らず、自動車でも電化製品でも余分な箇所が削られてシンプルになっていく。しかし、機能性や効率性に全く逆行する美もあるのではないか。例えば、私には全く理解できないが、新品のキレイなジーンズよりも穴のあいたボロボロの汚いジーンズの方が美しいとされるような場合だ。ヴィンテージ・ワインと同様、これは正に骨董の美ではないか。古ければ古いほど美しい(美味しい)とされる。古いモノの美は新しいモノの美と質的に異なっている。後者が更に新しいモノに淘汰され続けていくのに対し、前者には変わらない何かがある。それは「ふるさと」にとっても重要な何かだ。ただし、単に古ければいいということではない。大抵のモノは古くなれば汚くなる。時間の経過と共に美は失われる。それは新しいモノの美によって淘汰されていく現実と相即している。それにも拘らず、古くなることによって生まれる美があるとすれば、それは時代の流れに左右されない美しさ、すなわち歴史を超越した美しさではないか。当初、私はそこにイデアを見ようとしたが、どうも違うような気がする。「美しい花がある。花の美しさはない」と小林秀雄は述べているが、骨董の美はイデアではない。先述したように、骨董は最初から骨董である筈はなく、制作された当初は新しいモノであった。そこで凡百のモノが古くなることで美を失っていく中で、或るモノだけが古くなることで美を生み出していく。それが骨董になる。同様に、場所は否応なく変遷していくが、それでもそこには変わらない何かが沈澱していく。それが「ふるさと」だ。古い場所に「ふるさと」があるとは限らない。生まれ育った故郷に「ふるさと」があるというのも幻想だろう。骨董が歴史を超越するように、「ふるさと」は場所を超越する。
故郷の超克としての「ふるさと」(8)
私はこの便りを込み上げてくる思いのままに書き続けているが、誰かに届いているだろうか。届いていたとしても、生命(ゾーエー)の充足を超える生(ビオス)の充実を求める「呪われた部分」に共感が得られるだろうか。甚だ心許ない。むしろ、反感を募らせているのではないか。殆どの人は根源的生命の「ふるさと」であるアルカディアに安住の地を求めるか、それに反撥して生への欲望を刺激し続けるパラダイスを求めるか、そのどちらかであろう。「呪われた部分」はアルカディアを異化する点において後者と共通しているものの、パラダイスに同化するわけではない。つまり、アルカディアにもパラダイスにも同化できず、どちらも異化しようとする。アルカディアでもない。パラダイスでもない。しかし、現実は「あれか、これか」と問い詰めることで動いていく。「あれでもない、これでもない」と思耕を深めることで全く新しいものを生み出そうとする希望は空想だと嗤われる。確かに、そういう一面があることは否めない。しかし、それは「あれか、これか」の現実を無視した妄想にすぎず、その現実を見極めることによる「あれでもない、これでもない」の思耕は可能ではないか。全く新しいものを生み出そうとする思耕は空想ではなく、あくまでも理想に至る道だと信じたい。理想は現実に引き裂かれることの徹底から生まれる。従って、「アルカディアか、パラダイスか」――今はこの問いを徹底させねばならない。そして、現代社会の腐敗がパラダイスの無謀な追求によるものだとすれば、アルカディアの理想としての可能性に問題の焦点を絞るべきだろう。実際、行き過ぎた資本主義によって堕落した社会を変革する方策として「脱成長のコミュニズム」が注目されているが、これもアルカディアの可能性の一つとして理解できる。他にも便利な都会生活から不便な田舎暮らしへのライフスタイルの転換など、総じて自然に即した持続可能な生活が見直されている。余談ながら、「新しき村の運動」もこうしたアルカディアの再生運動として展開すれば、もっと多くの共感が得られたかもしれない。パラダイス批判を徹底させるならば、その方が歯切れもいいし理解もされやすかったに違いない。しかし、私は性懲りもなくパラダイス批判と同時にアルカディア批判もせざるを得なかった。今もその思いに変わりはないが、人々の「ふるさと」への憧憬を少し軽視していたと反省している。と言うのも、私自身孤独になって「ふるさと」を切望しているからだ。「ふるさと」は何処にあるのか。そもそも「ふるさと」は場所なのか。アルカディアをめぐる問いは尽きない。
故郷の超克としての「ふるさと」(7)
新しい「ふるさと」は明らかに矛盾を孕んでいる。「冷たい炎」のような撞着語法(oxymoron)だ。通常、「ふるさと」は始源にあるものであり、我々がそこから生まれ育った最も古い根源的な場所であろう。ゾーエーの次元における「ふるさと」が正にそのような場所だと考えられる。始めも終わりもないゾーエーの大いなる円環。そこに同化することで人の生命は充足する。具体的には自然に即した生活であり、そうしたゾーエーに根差した「ふるさと」はアルカディアの理想として理解できる。ところが、その「ふるさと」は今や失われた楽園にすぎない。どうして始源の楽園は失われたのか。神話としては知恵の木の実を食したことが原因とされているが、ヘーゲルは大略「愚かなケダモノのみが楽園にとどまれる」と述べている。確かにゾーエーの「ふるさと」では食うに困らず、生活に齷齪することもないだろう。しかし、人はパンのみにて生くるにあらず。これは聖書の誤解であろうが、人は生命(ゾーエー)の充足以上の何かを求めざるを得ない。それは生(ビオス)の充実であり、その欲望がアルカディアの円環の理想を超えるパラダイスの直線の理想への道を切り拓く。ただし、パラダイスを求める欲望は言わば神が定めたイキモノの生命を超えんとする「呪われた部分」であり、人は絶望の淵に立たされる運命にある。それ故、放蕩息子のように、再び「ふるさと」に帰還しようとする。聖書では帰還した放蕩息子は祝福されるが、本当にそうだろうか。失われた楽園は本当に回復されるだろうか。私は疑念を禁じ得ない。アルカディアの反復が望まれるとしても、それは後向きの運動ではあり得ない。あくまでも前向きの運動であるべきだ。そして、前向きに反復されたアルカディアはもはや元のアルカディアではあり得ない。ここに新しい「ふるさと」が求められる所以がある。
故郷の超克としての「ふるさと」(6)
ハウスレスと区別されるホームレスはこの世界に「居場所がない」ことと理解される。学校に居場所がない。職場に居場所がない。家庭に居場所がない。そこで「サードプレイス」という場所が注目されているが、それは根源的な問題の解決になるだろうか。どんな場所であれ、自分が心から寛げる居場所があるのは結構なことだ。悪い道理がない。しかし、居場所探しが自分探しでもあることを考えると、何だか腑に落ちない感じもする。居場所がなかった私が居場所を見つける。それは「本当の自分」を見つけたことになるのか。もしそうなら、場所が「本当の自分」を規定することになる。それはおかしいのではないか。リラックスできる場所の必要性は理解できる。喫茶店とか居酒屋とか、広い意味での娯楽の場所は生活に不可欠だ。しかし、そこに居る私が「本当の自分」なのか。野暮を承知で言えば、娯楽の場所は私が「本当の自分」に至る途上の休息の場所にすぎない――私はそう考えている。おそらく、これは眠っている私と活動している私、あるいは無意識の私と意識している私のどちらが「本当の自分」か、という問題に繋がってくるだろう。意識的に活動している私など「本当の自分」の氷山の一角だと考えることもできる。実際、無数の細菌が私の意識とは関係なく働いてイノチを維持しているゾーエーの次元に比べれば、私が主体的に生きる意味を求めているビオスの次元など実にちっぽけなものだ。その意味では、ゾーエーの次元こそ「ふるさと」なのであって、そこで何も考えずにボーッとしている私が「本当の自分」ということになる。しかし私は敢えてビオスの次元に執著したい。あらゆるイキモノのイノチの根源であるゾーエーの大いなる円環。それが「ふるさと」であるのは自明なれど、ビオスの次元にも「ふるさと」はあるべきだと私は思う。ゾーエーとビオスは無関係ではあり得ないが、さりとて次元を異にする。前者の「ふるさと」が生命尊重に徹するとすれば、後者の「ふるさと」は生命尊重以上の価値を生み出していく。どちらも居場所であることに変わりはないものの、それぞれの意味は質的に異なっている。或る場所に居ることの同化と異化。ゾーエーの居場所は人をそこに同化させる。その同化によって人々は心からリラックスできる。正にその場所をビオスは異化する。その異化によって全く新しい「ふるさと」が求められる。果たして、これは殆ど誰も必要としない、余計な「ふるさと」であろうか。快適な居場所としての「ふるさと」さえあれば十分なのであろうか。
故郷の超克としての「ふるさと」(5)
故郷喪失。ハイデガーは存在者と存在を区別して、存在を忘却している現代人の頽落的な生活に危機感を懐いた。その一つが故郷喪失として現象している。誰にでも生まれ育った故郷がある。私の場合、故郷は岐阜県の多治見だが、既に父も母もなく、そこはもはや「ふるさと」ではない。故郷はあるが「ふるさと」はない。従って、厳密に言えば、ハイデガーの言う故郷喪失は「ふるさと」喪失として理解すべきだろう。故郷が存在者だとすれば、「ふるさと」は存在、すなわち故郷を故郷たらしめる存在の力だ。「ふるさと」を忘却すれば、故郷は故郷でなくなる。私は以前にハウスとホームの区別をしたが、立派な建物(住居)としてのハウスがあっても、そこはもはやホームではない。そうした意味でのホームレスは現代社会に溢れているのではないか。私も例外ではない。一般的な意味でのホームレス、雨露を凌げる場所(ハウス)がない窮状も無視できないが、より重要な問題は「ふるさと」のないホームレスだ。ハウスはお金さえあれば建てられるが、ホームはお金では得られない。ハウスレスは主に政治経済の問題だが、ホームレスは哲学の問題だ。ホーム=「ふるさと」とは何か。一般的な故郷のイメージが農村の田園風景だとすれば、都市に生まれ育った者は生来の故郷喪失者ということになる。もしかしたら都市生活者には農村(山村、漁村も含む)に足を運べば「ふるさと」が見つかるという希望があるかもしれないが、それは幻想にすぎない。大都会は言うに及ばず、今や農村にも「ふるさと」はない。ただ「ふるさと」の痕跡があるだけだ。「ふるさと」は遠きにありて思うもの、そして悲しく歌うものと相場が決まっている。されど私は「帰るところにあるまじや」とは思わない。「遠きみやこで成功するまで故郷には帰れない」という悲壮な決意は単なる感傷にすぎず、それは「ふるさと」の本質とは無関係だ。むしろ、「遠きみやこで一旗揚げて故郷に錦を飾る」というパラダイス志向の発想自体を問題にすべきだろう。「ふるさと」は依然としてアルカディアとパラダイスとの間で揺れ動いている。
故郷の超克としての「ふるさと」(4)
場所は変遷する。故郷はもはや「兎追いしかの山」でも「小鮒釣りしかの川」でもない。大都会の比ではないが、地方の故郷も「進化」を余儀なくされている。街は整備され、大型ショッピングモールができている。その反面、懐かしい田園風景はなくなり、賑やかだった商店街は閑散としたシャッター通りと化している。農村と都会では事情が異なるものの、それぞれの活性化が求められているのは間違いない。故郷は年年歳歳その姿を変えていく。故郷の異化は不可避だ。では、同化したい故郷の姿とは何か。殆どの人にとって、理想の故郷はアルカディアとして思い描かれるだろう。従って、東京のような都会に生まれ育った者には故郷がない、あるいは予め故郷は失われていると見做される。しかし、アルカディアのような故郷などもう何処にも存在しない。時々テレビ番組で、自然に即した自給自足の長閑な山村の暮らしが映し出され、都会で時間に追われる忙しい毎日を送る人々の憧れを掻き立てることがあるが、現実のその場所は限界集落にすぎない。若者たちは吉幾三のように「オラ、こんな村イヤだあ!」と叫んで都会に出ていく。さりとて都会という場所は幸福な世界であろうか。そもそも人はどうして故郷を棄てて都会に出て行くのか。パラダイスを求めて――私はそう考えている。人は故郷のアルカディアと都会のパラダイスという二つの理想の間で揺れ動く。ただし、先述したように、故郷はもはやアルカディアではない。実際、寂れた故郷の活性化は都会化であることが多く、人々は故郷にさえパラダイスを求めている。勿論、パラダイスに絶望している人も少なくない。都会で挫折した人もさることながら、夢が叶った人にもパラダイスは致命的な問題を孕んでいる。人の欲望に限りはなく、何処まで行っても満たされないからだ。それに世界を脅かす危機的諸問題(戦争や環境問題など)は全てパラダイスの追求に発している。それ故、都会のパラダイスに見切りをつけて、故郷のアルカディアに再び救いを求める人が続出すると予想される。しかし、アルカディアは本当に救いになるのか。加えて、そう簡単にパラダイスを断念できるとも思えない。或る詩人はかつて「東京へゆくな ふるさとを創れ」と歌ったが、今や次のように歌うべきではないか。東京にも地方にも「ふるさと」を創れ。それはアルカディアでもパラダイスでもない、全く新しい理想に他ならない。
故郷の超克としての「ふるさと」(3)
故郷は国籍を超えるものの、一般的には一致している。生まれ育った場所が故郷となり、そこの国籍になる。先述したように、故郷と国籍が異なる理由は主に政治経済によるが、国籍とは関係なく、あるいは国籍を変えることなく、故郷の異化を試みる場合について考えてみたい。例えば、ロシアの大地に生まれ育った者は例外なく皆ロシアを故郷とする。しかし、その同じ故郷に同化する者もいれば、異化する者もいる。プーチンを愛し、その独裁体制を心から支持する者は前者であり、ロシア人であることを誇りに思い「世界一強大なロシア」の実現を望む。これに対して後者は今の体制下でロシア人であることを恥じ、隣国に侵攻したり言論弾圧したりするロシアを故郷とすることに激しく反撥する。「こんなロシアは本当のロシアじゃない!」それが反体制派の本音であろう。しかし、「本当のロシア」とは何か。同様の問いは世界の至る所で発せられている。「トランプが支配するアメリカは本当のアメリカじゃない!」「自民党が大勝するような日本は本当の日本じゃない!」もとより「本当のロシア」も「本当のアメリカ」も「本当の日本」も、それぞれを故郷とする者が格闘するべき問題だが、相互に全く無関係ではない。そこには「ふるさと」が介在してくるからだ。私はロシアやアメリカを自分の故郷にすることはできないが、それぞれの故郷の異化に「ふるさと」を意識することはできる。誤解を恐れずに言えば、ロシアやアメリカだけではなく、ウクライナも台湾も香港もチベットも、皆私の「ふるさと」なのだ。故郷と「ふるさと」は次元を異にする。
故郷の超克としての「ふるさと」(2)
甘美な場所であれ、唾棄すべき場所であれ、故郷は一つだ。そして通常、故郷は選べない。ただし極めて稀ではあるものの、故郷を選ばざるを得ない状況がある。「第二の故郷」という言葉があるが、例えばアメリカに移住した日系人は先の大戦において「二つの祖国」に引き裂かれ、どちらかを選ぶことを余儀なくされた。勿論、一口に日系人と言っても、一世とそれ以外の世代との間には大きな断絶がある。一世が祖国に弓引くことに抵抗したのに対し、アメリカで生まれ育った二世以上の日系人はアメリカ人として日本と戦った。もはや日本が祖国だという自覚さえなかったかもしれない。むしろ、そうした自覚は自分が「正真正銘のアメリカ人」であることを証明するためには邪魔だったと思われる。しかし、厳密に言えば、そこで問われているのは国籍であって故郷ではない。故郷は国籍を超えている。多くの外国人が日本に帰化して日本人になったが、国籍は変わっても生まれ育った故郷は不変であろう。当然のことだ。では、どうして国籍を変えたのか。そこには政治的・経済的な理由があったに違いない。すなわち、日常生活を送るに当たって日本国籍であった方が何かと便利だという理由だ。実際、国籍は便宜的なものであって、本当に心の底から「日本人になりたい!」と望んでいる人は皆無に近い。それにも拘らず、鬼怒鳴門氏のように、政治経済の理由を超えて日本人になることを決意した人もいる。その場合、日本は彼にとって「ふるさと」になったと私は考える。敢えて「第二の故郷」という表現は拒否したい。何故か。故郷は水平の次元における或る一定の場所であって、鬼怒鳴門氏の故郷はニューヨーク以外にはないからだ。故郷はあくまでも一つだが、人は世界の何処でも「ふるさと」にすることができる。垂直の次元における場である「ふるさと」は人間の原点に他ならない。
故郷の超克としての「ふるさと」
ウクライナの若者が隣国のポーランドを始めとして大量に国外流出しているというニュースがあった。私は複雑な思いに駆られる。これまで政府によって厳しく制限されてきた国外移住が緩和されたことに伴う現象だが、もとより賛否両論がある。「悲惨な戦争であたら若い人たちの可能性を潰してしまうよりも、安全な国外で勉強させた方が祖国の将来にとっても有益だ」という意見。もう一つは当然「祖国が大変な時に逃げ出すとは何事か!」という意見。前者は国外流出した若者たちが再び祖国に戻って来ることを前提にしている点で楽観論だと言わざるを得ない。後者は若者たちをただ絶望の淵に追い込むだけの悲観論だ。極めて難しい問題であり、自分自身の問題として考えてみても容易に答えが見つからない。かなり意味は異なるが、これは被災者の故郷に対する思いと通底している。被災した故郷に踏み止まって頑張るか、それとも新天地での可能性に全てを懸けるか。厳しい決断に迫られるが、私は私的領域と公的領域の関係において考えてみたい。私的領域だけを考慮するなら、東京でも何処でも、自分と家族が幸福に暮らせる場所に移住するだろう。そこには何の躊躇もない。しかし公的領域を重視するなら、たとい已むを得ず故郷を離れる結果になったとしても、故郷の復興に無関心ではいられない。何処に移住しても、生まれ育った場所が自分の故郷であることに変わりはない。ただし、公的領域を重視して生きることは決して故郷に縛り付けられることではない。公的領域は滅私奉公を強要されるような場所とは全く違う。この点に関して、何度も言及したサン=ヴィクトルのフーゴーの有名な言葉を改めて思い出したい。
故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。
自分の私的領域における幸福だけを求めて故郷を棄てる人は悲しい。それは故郷に残っても実質的には同じことだ。私的領域の充実が可能になる場所が故郷かそうでないかの違いにすぎない。重要なことはそうした私的領域の超越、すなわち公的領域を切り拓き、故郷を異郷と見做して、その場所から新たに「ふるさと」を創ることだ。それは人が人間になる場に他ならない。
補足:「自同律の不快」と異化
嫌な奴とは付き合わなくてもいい。仲良くしたい人とだけ付き合えばいい。そんな人がいなければ一人でいればいい。しかし、一人でいることは可能なのか。孤独になることはできるが、部屋に閉じこもっても一人にはなれない。孤独を深めれば深めるほど、一人になれない原事実を思い知らされる。「自己という他者」がいるからだ。孤独において私は私と向き合うことを余儀なくされる。私は単独者になる。単独者は自己自身の異化から生き始める。それは「自同律の不快」を噛み締めるということだ。「私は私である」と言い切れない。主辞の私と賓辞の私がズレるからだ。私は私に同化したいのに、主辞の私は賓辞の私に包摂されることを頑なに拒む。そこに私が一人になれない理由もある。私は同化に値する私にならねばならない。かくして主辞の私は理想とすべき賓辞の私を求める旅に出る。その旅の途上で私は私以外の他者と出会う。そこで「人間の複数性」を自覚する。人は単数では未だ人間ではない。個としての人は「自同律の不快」を克服できず、賓辞の私は主辞の私から遠ざかるばかりだ。人が人間になる。それは「人間の複数性」を自覚して、「我である我々・我々である我」という理想に辿り着くことに他ならない。無論、その理想は未だ遥か遠くにあるのが現実だ。私は理想主義に徹する覚悟は決めているものの、現実は常に私を忸怩たる思いに陥らせる。私は一介の日和見主義者と罵られても仕方がない。因みに昨日、『政治犯にされて:クレムリンに抗う声』という昨年制作された海外ドキュメンタリイを観たが、ロシアの言論弾圧の現実を垣間見て、改めて理想主義の無力さを痛感した。反体制者の声を圧殺する警察や軍隊などの暴力もさることながら、反体制者を当局に密告する市民の存在がより絶望的だ。その中には教え子を売った教師もいれば、その逆に教師を売った生徒もいた。どうして人はこんなにも醜悪になれるのか。プーチンとその独裁体制を心から支持しているのか。それとも単なる保身から已むを得ず支持しているだけなのか。どちらにしても、そうした人々に「自同律の不快」の片鱗も見られないのが不思議で堪らない。ロシアでも中国でも、市民に銃口を向ける兵士たちが『戦艦ポチョムキン』の兵士のように銃口の向きを変えるにはどうすればいいのか。昨日観たドキュメンタリイのように、現実にそこで何が起こっているかを世界中に伝えるジャーナリズムの使命は大きい。しかし、現実を正しく(フェイクニュースや体制側のプロパガンダに踊らされることなく)認識することは極めて重要だが、その現実を変革するのはやはり理想の力ではないか。現実の暴力に対して理想主義は余りにも無力であるものの、その無力に全てを懸ける人の情熱を私は信じたい。人は必ず人間になれる。