娯楽を超える祝祭(8)
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と晶子は歌ったが、野暮を承知で言えば、道を無視して柔肌ばかりに現を抜かすのも寂しいことではないか。そもそも柔肌と道は本来対立するものではない。柔肌の熱き血汐に触れることも一つの道だろう。しかし、一般的には柔肌に触れる現実主義と道を説く理想主義は対立するものと理解されている。更に言えば、前者のみが人生に充実をもたらすのであって、後者は気取ったインテリだけが必要とするものだと多くの人は考えている。本当にそうだろうか。確かに、今や理想主義は単なるキレイゴトとして歴史の片隅に追いやられている。理想主義にガザやウクライナで絶望している人たちを救う力があるなどとは殆ど誰も信じていない。しかし、たといそれが現実だとしても、人は理想なしで本当に充実した人生を得られるだろうか。むしろ、我々が為すべきことは理想主義を棄てることではなく、現実に絶望者を救う力のある理想主義を実現することではないか。私は柔肌に触れる現実主義を低俗なものとして蔑視するつもりは全くない。娯楽や家庭の幸福も然り。先述したように、そこに生の充実があることは間違いない。ただし、理想の不在はそれを水平的充実に止めてしまう。「それでもいい」というのが大方の意見なら仕方ないが、私はその限界を突破したい。余談ながら、同様の突破を求めた人にウィリアム・バトラー・イェイツがいるが、或る英文学者によれば「イェイツは己のヴィジョンと現実の落差を思い知らされて、アイルランドの民衆そのものにではなくとも、少なくともダブリンの中産市民階級には見切りをつけた」とのことだ。私はここに祝祭を求める「芸術家」と娯楽に耽る「市民」の分断を見出す。この分断が新しき理想主義の前に大きく立ちはだかっている。
娯楽を超える祝祭(7)
別に他人様から感謝されたり注目されたりするような立派な仕事でなくてもいい。誰かがしなければならない仕事を誠実にこなし、それによって生活を安定させ、その余暇に人生を楽しむ。楽しみ方は十人十色。法を犯さず、他人様の迷惑にならず、自分の生活を破綻させない範囲でなら何をしてもいい。幸か不幸か、世の中には人を楽しませる快楽装置が溢れている。お金さえあれば、ほぼ限りなく刺激的に遊び続けることができる。問題は、そうした遊びの欲望に歯止めがかからなくなり、自分の身の丈(経済力)以上の遊びにのめり込んでしまうことにある。それが犯罪にも繋がっていく。昔の犯罪は主に生活するためのお金を強奪したが、今や遊ぶためのお金欲しさの犯罪が増えている。勿論、犯罪や借金で破滅するまで遊ぼうとする人は異常であり、健全な娯楽で人生を楽しんでいる人が大半だろう。真面目に働いた後、それぞれの趣味や娯楽で生の充実を味わう。然り、労働と娯楽の循環には生の充実がある。しかし、それは自己欺瞞だ、と私は敢えて言いたい。おそらく、この主張によって私は誠実な労働者もしくは善良なる市民の殆どを敵に回すことになるだろう。誠実に労働して、楽しく遊ぶ。その循環の一体何が自己欺瞞なのか。そこには太宰治が「家庭の幸福は諸悪の本」と述べたことにも通じる問題がある。娯楽による生の充実が個人幻想だとすれば、家庭の幸福による生の充実の核には対幻想がある。愛する妻のため、子供たちのために生きるお父さんの何が自己欺瞞なのか。立派なお父さんではないか。それを否定する者は人間失格の烙印を押されるに違いない。
娯楽を超える祝祭(6)
私は松平定信のように娯楽を敵視するつもりはない。娯楽を超越したいとは考えているが、否定はしない。むしろ、娯楽は人生に不可欠だと思っている。誰だって娯楽を必要としているだろう。ただし、一口に娯楽と言っても、低俗な悪趣味から高尚な趣味まで様々だ。立派な聖人君子の方々は娯楽とは無縁のように超然とされているが、低俗と高尚の別を問わず、やはり息抜きとして何らかの娯楽を求めているに違いない。このように本来自分のなすべき仕事がしっかりとあって、その息抜きとして娯楽があるのはいい。問題はその関係が本末転倒して、娯楽が主たる生き甲斐になってしまうことにある。とは言え、「本来自分のなすべき仕事がしっかりとある」と胸を張って言える人などそんなにはいない。例えば、『プロジェクトX』で紹介されるような人たちにとっては仕事に没頭することが「生きる楽しみ」であって、娯楽はあくまでも二次的なもの(潤滑油)にすぎない。言い換えれば、わざわざ娯楽に「生きる楽しみ」を求める必要はない。ところが、そんな感動的なプロジェクトとは無縁の一般大衆にとって、仕事は往々にして生活のために余儀なくされる義務労働でしかない。そこでは日々の嫌な労働に耐え続けるために娯楽が求められる。つまり、娯楽が人生にとって一次的なもの(ガソリン)になる。例えば、週末の推し活のために平日の労働を頑張ることができるようになる。「もう死にたい!」と叫びたくなるような生きづらさを抱えている人が、娯楽に活路を見出して何とか生き続けている現実には切実な問題が渦巻いている。実際、ゲームでもスポーツでも芸能でも何でもいい、「娯楽を生き甲斐にして何が悪い!」という大衆の反逆にも一理ある。それでも娯楽を超越せねばならぬとすれば、それは一体何故か。
娯楽を超える祝祭(5)
「楽しい人生」とは何か。別に楽しくなくてもいい。日々平穏無事に過ごせれば、それだけで十分。そういう無欲な人たちばかりなら、世界はこんなにも腐敗することはなかっただろう。ただし、欲望がなければ、世界に発展もなかったに違いない。発展と腐敗は背中合わせ、その根柢には常に欲望がある。厳密に言えば、無欲に見える素朴な民衆にも「生きる楽しみ」はある。農民なら作物を収穫する楽しみ。自然の循環に即して暮らし、自分もその大いなる円環の一部として生きる楽しみ。その楽しみにとどまっていれば、世界はアルカディアのままであったと思われる。しかし、収穫の楽しみはやがて「もっとたくさん収穫したい!」という欲望へと転化した。尤も、楽しみは欲望の種子だとすれば、その転化は発展と言うべきかもしれない。何れにせよ、欲望の飛躍的増大によって人はアルカディアを失い、欲望の果てしない充足を目指すパラダイスに憑かれていく。そして、パラダイスは今や大きな危機に瀕している。欲望の拡大再生産による自然環境の破壊もさることながら、より深刻なのは欲望が分泌する格差によって 世界が分断されていることだ。この分断こそ腐敗した世界の元凶に他ならない。それにも拘らず、世界の分断に対して根源的に反抗する人は極めて少ない。反抗どころか、分断を不可避の前提として、それぞれの「楽しい人生」に活路を見出していく。そこでは宗教と並んで娯楽が民衆の阿片として機能している。
娯楽を超える祝祭(4)
人は死ぬ。生きているものは必ず死ぬ。あいみょんが歌うように「今ある命を精一杯生きなさい」なんて言うのはキレイゴトかもしれないが、さりとて生き続けることの汚辱を忌避して美しく自裁するのもキレイゴトだろう。どうせ遅かれ早かれ死は例外なくやって来るのだから、何も急ぐ必要はない。それに天災や病気、戦争も含めた人災や不慮の事故で不条理な死を余儀なくされる人の不幸を考えれば、可能な限り生を楽しむに如くはない。しかし、「生を楽しむ」とは何か。それは欲望の充足と密接に関係しているに違いない。人には様々な欲望がある。しかも際限がない。あれが欲しい。これも欲しい。次々に湧いてくる欲望が悉く満たされるなら、その人は生きているのが楽しくて仕様がない……ということになる。勿論、そんな人は殆どいない。現実には満たされない欲望に苦しんでいる人の方が大半であり、殊に衣食住に関する基本的な欲望が満たされないのは致命的な問題だ。従って、例えば「食うに困らぬ生活」の実現が当面の課題となる。実際、ウクライナやガザの惨状を伝えるニュースを目にするたび、一般大衆はロシアやイスラエルの支配下になってもいいから一日も早く「食うに困らぬ生活」を取り戻したいと願っているように感じられる。生命の危機に晒されることのない平穏無事な日常の回復。そこでこそ「生を楽しむ」余裕も生まれてくるだろう。しかし、その余裕は単に娯楽を享受する可能性であって、本当に「生を楽しむ」こととは違うのではないか。いや、娯楽も「生を楽しむ」ことの一つであることは間違いないが、それ以上に「生を楽しむ」次元があるのではないか。ロシアやイスラエルの支配下でも娯楽は享受できる。しかし、娯楽を享受する可能性を敢えて犠牲にしてでも、他国の支配下では本当に「生を楽しむ」ことはできないとする民衆は必ずいると私は思う。そうした民衆にとって、「生を楽しむ」ことは明らかに娯楽を超越している。
娯楽を超える祝祭(3)
ErnstとSpiel。私は遊びを知らない。現代社会は無数の快楽装置で溢れている。それは知っている。お金さえあれば様々な遊びを楽しめることも知っている。しかし、実際に遊ぼうとは思わない。臆病で吝嗇なせいかもしれないが、夜の盛り場に犇いているような遊びには魅力を感じない。それでも若い頃には周囲からツマラナイ奴と見られるのを恐れて、無理に遊ぼうとしたことはある。当然、無理に遊ぼうとしても本当に遊べる道理はなく、無様で嫌な思い出しか残っていない。だから、やはり私には遊びがわからない。世の中には華麗に遊んでいる人はたくさんいるが、私が心から羨ましく思う遊び人は極めて稀だ。こんなことを述べれば、私は遊びなどには目もくれぬ真面目一方の堅物だと思われるだろう。ところが、私は真面目な勉強家ではなかった。むしろ、矛盾したことを言うようだが、私はずっと遊びを求めてきたような気がする。ガリ勉を軽蔑し、遊ぶことにこそ生きる意味があると直感していた。とは言え、私の求める遊びは何処にもなかった。言い換えれば、巷で俗に言う遊びは私にとって何ら遊びではなかった。何故か。ずっと思耕してきて、辿り着いた一つの考えがある。それは、遊びは二つに大別される、という考えだ。水平的遊びと垂直的遊び。水平の次元に見出される遊びが娯楽だとすれば、垂直の次元に関係する遊びは祝祭だ。私は祝祭を生きたいと思っている。
娯楽を超える祝祭(2)
事ここに至って愚痴を言っても仕方がないが、この便りは全く人気がない。そんなことは最初から自明であるものの、最近はアクセス数がゼロの日が目立つようになった。つまり、殆ど誰も読んでくれていない、ということだ。絶望的な気分になる。「人間として本当に生きる」とは何か。これは誰もが否応なく直面する問題だと私は思ったが、間違いだったのか。因みに三谷隆正氏に『問題の所在』という名著があるが、問題は学問と密接に関係しているというのが一般的な見解だ。三谷氏は「学問をするにはまず、人類が始まって以来今日に至るまで、人は何を考え、何を学んできたか、その全精神史の大要を心得ておく必要がある」と述べている。全く同感だが、全ての人が学問を成就するわけではないだろう。当然、私も成就には程遠い。厳密に言えば、 私は学問を志したが、人の全精神史を辿ることの困難さを思い知り、結局は挫折した。しかし、それでも私は問題を放棄していない。むしろ、より深く問題と格闘している。これは学問に挫折したことの自己正当化かもしれないが、学問だけが問題と格闘する道ではないだろう。もとより学問的追求の成果は最大限活用すべきだが、問題との本当の格闘は学問の次元を超えているのではないか。少なくとも、問題は学問のある一部のインテリだけのものではない。そう信じて、この便りを書き続けているが結果的に非学問的な戯言に堕している。黙殺されて当然だが、私はいつか問題の闡明によって娯楽に現を抜かす大衆を戦慄せしめたい。
娯楽を超える祝祭
またもや大河ドラマ『べらぼう』を観ていた時のことだが、依然として華美贅沢を厳しく取り締まる松平定信の政治に対して、民は「正しき世」ではなく「楽しき世」を求めているという言葉があった。ここに見出されるのは「白河の清き流れに住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という有名な狂歌にも通じる大衆の本音であろう。実際、この場面をお茶の間で観ていた大衆の多くは「その通り!」と思ったに違いない。しかし、野暮を承知で言えば、人は本当に「正しき世」ではなく「楽しき世」を求めているのか。例えば、吉原という悪所。ドラマでは江戸文化の華のように描かれるが、一皮むけば女性の身売りや売春が横行している苦界ではないか。そんな場所が「正しき世」にあっていい筈がない。とは言え、そこに「楽しきこと」があり、一つの文化が生まれていることも事実だ。果たして、人が楽しく暮らすためには悪所は不可欠なのだろうか。そもそも「正しき世」と「楽しき世」は絶対に相容れないものなのか。もし「正しきこと」が単に「法律に反しないこと」であれば、問題はそれほど複雑化しない。売春を合法化するなど、「楽しきこと」を法律内に収めれば事は済む。動物を殺すことも、スポーツハンティングを認める法律の下では「楽しきこと」と「正しきこと」は対立しない。人を殺すことさえ、死刑制度の下では法的に「正しきこと」とされている。しかし、法律が全てなのだろうか。もとより我々の日常生活が法律に守られていることは間違いない。法律が「正しき世」をつくっている。では、例えば禁酒法の「正しき世」において飲酒を楽しみたい人はどうすべきか。違法の楽しみを避けるとすれば、飲酒を合法化するしかないだろう。それが一般的な解決策だと思われるが、私は全く新しい道を摸索したい。その道は法律を超えている。極めて危険だが、その果てにこそ人間にとって本当に「楽しきこと」、すなわち祝祭があるのではないか。法律の下での「楽しきこと」は人の単なる娯楽にすぎない。
補足:垂直先生と水平先生の狭間で
大河ドラマ『べらぼう』を観ていたら、蔦谷重三郎が「遊ぶってのは生きる楽しみだ」と言っていた。これは田沼時代を批判的に引き継いだ松平定信が倹約令の下に江戸庶民の娯楽をことごとく禁じていることに対する不満の言葉だが、そこに大衆の原点があると思われる。大衆は食うために生きる。しかし、単に食って寝るだけではつまらない。そこで遊びが生まれる。蔦重の言うように、遊びが生きる楽しみになる。すると遊ぶために生きるようになる。これは一つの転倒であり、遊ぶためのお金欲しさに働き出すと大衆の堕落が始まる。さりとて遊ぶことを知らず、ただ食うために生きているだけに見える健全な農民も収穫祭を楽しんでいる。祭りも遊びの一つだとすれば、堕落した大衆も健全な農民も同じHomo ludensに他ならない。遊びなくして人生の充実はあり得ない。食うために生きることが肉体の糧を得るための労働だとすれば、遊びは魂の糧を得るための活動だと考えることもできる。では、大衆の「労働と娯楽の繰り返し」と農民の「労働と祝祭の永遠回帰」に差異はないのか。更に言えば、前者が堕落で後者は健全だという差異は妥当なのか。問題は娯楽と祝祭の質的差異に収斂していく。娯楽は真の遊びではない。遊びの本質は祝祭にこそある。垂直先生も水平先生もその認識において一致する。ただし、水平先生が祝祭的生を大衆以前の民衆(農民がその典型)の生活に見出そうとするのに対し、垂直先生は大衆を超越する人間に祝祭共働を求める。民衆への水平的超越と人間への垂直的超越。もしくはアルカディアへの超越とユートピアへの超越。大衆が求めるパラダイスの限界が明らかな今、我々が目指すべき理想の可能性はそうした二つの超越にしかないだろう。
補足:垂直先生の懸念
本来、大衆の原点に立つことと大衆の超越は矛盾する。もし水平先生が大衆の原点に立つことに徹するなら、そこから大衆の超越を要請することは論理的にあり得ない筈だ。しかし、水平先生は矛盾を生きる。大衆の原点に立ちながら、その超越を要請する。大衆の原点、すなわちゾーエーの充足は無視できない。人は食うために生きる。それが原点だ。それ故、食うに困らぬ社会の実現が当面の課題になる。しかし、水平先生はその課題から更に一歩先に進もうとしている。水平革命は食うに困らぬ生活を実現する単なる経済の変革に尽きるものではないからだ。肉体の糧が満たされること、身体的に健康で食うに困らぬ生活が実現すれば人は取り敢えず幸福になれるが、魂の糧が満たされなければ人は本当の意味で幸福にはなれない。問題は大衆の大半がその論理を受け容れない現実にある。逆に、食うに困らぬ生活を実現してくれるなら、どんな権力者の支配も受け容れるだろう。大衆は魂の糧を知らない。「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉は知っていても、「パン以上の問題」は知らない。あるいは、知らない振りをする。パンが肉体の糧だとすれば、大衆にとって魂の糧はせいぜいパンに塗るバターやジャムにすぎない。バターやジャムはパンをより美味しくするだろうが、パンを超えるものではない。では、魂の糧とは一体何か。それは垂直の次元と密接に関係している。ところが、水平先生は垂直の次元を認めず、水平の次元だけで魂の糧を問題にしようとする。それは原理的に不可能だ。「娯楽が自分たちの魂の糧だ」と大衆に言われたら、水平先生に反論する術はない。