新・ユートピア数歩手前からの便り -7ページ目

補足:水平先生の困惑

ゾーエーの充足を求める大衆の原点に水平先生は立っている。医師として傷ついたゾーエーの回復に少しでも貢献できることを誇りにしている。しかし、水平先生はその誇りに立ち止まってはいない。大衆の原点からの超越を望む。何故か。怪我や病気が治ってゾーエーが健康を取り戻しても、依然として病んでいる人がいるからだ。それはビオスの病だ。ただし、水平先生はゾーエーとビオスを二元論的には考えていない。ビオスもゾーエーの大いなる円環の一部だと理解している。従って、ビオスの病も本質的にはゾーエーの病に他ならない。ゾーエーとビオスの差異は現象的なものだ。肉体の糧と魂の糧という差異も同様に現象的なものであり、両者が満たされて人は幸福になる。肉体の糧が満たされること、すなわち身体が健康で食うに困らぬ生活の実現は確かに人を幸福にする。しかし、魂の糧が満たされなければ人は本当の意味で幸福になれない。肉体の糧の充足だけに執著する大衆は堕落する。とにかく食うに困らなければそれでいい。日々の労働の後には居酒屋で一杯やり、休日には旅行、パチンコや競馬などのギャンブル、あるいはゴルフなどのスポーツを楽しめればいい。人生は労働と娯楽の繰り返し。それでいい。それで大衆は結構幸福に生きられる。されど水平先生はその幸福を大衆の堕落だと見做す。そして、そこからの超越を要請する。ところが、大衆はその要請に反撥する。「労働と娯楽の繰り返しで何故いけないのか。娯楽が自分たちの魂の糧だ」と反論する。ゾーエーの充足という原点に執著することを大衆は全く堕落とは思わない。水平先生はそうした大衆の反逆に困惑する。

「大衆の原点に立つ」ということ(10)

水平先生の反論。重要なことは「有用・無用」という価値観の垂直的超越ではなく、多様な有用性を認めることだ。人の能力は様々だ。学校という小さな社会を考えても、勉強の得意な人もいれば、運動が得意な人もいる。勉強も運動も苦手でも、他者を笑わせることが得意な人もいる。勉強ができて、学科試験の成績が良い人だけが「有用」とは限らない。高学歴でも「無用」な人はいる。また災害などの非常時には学歴など関係なく、冷静にテキパキと行動できる人が「有用」と見做されるだろう。このように多様な有用性を認めれば、「有能・無能」という区別も意味を失う。端的に言えば、どんな人でも生きてさえいれば、「無能」ということはあり得ない。知的障害者も認知症の人も寝たきりの植物状態の人も、生きている限り「有能」だ。こうした普遍的な「有用性」を認めることが水平的理想を意味する。けれど、これは現実には未だキレイゴトにすぎない。運動会では足の速い人が有能かつ有用と厚遇され、足の遅い人は無能かつ無用と冷遇される。会社でも何処でも同様の振り分けが行われる。だから人はそれぞれの社会で生き残るために、様々な資格試験に合格して自らの「有用性」のアピールを余儀なくされる。例えば、「御社に入社すれば、私はこんなにもお役に立ちます!」というアピール。会社でなくても、人は幼い頃から「社会の役に立つ人になれ!」と言われて育つ。つまり、「有用性」こそが人生の意味だという教育。有用であるためには有能にならねばならぬ。逆に言えば、無能な人は社会に無用であり、生きている意味がない。このように「有用性」に翻弄される現実が「大衆の原点」だとすれば、そこに立つことから始まる理想はやはり「有用性」の普遍化=水平化しかないだろう。たとい今はキレイゴトであっても、「無能の人」でも「有用な人」だと承認される水平的理想はいつか必ず実現する。ただし、その実現のためには「大衆の超越」が不可欠だ。或る特定の「有用性」に束縛される大衆は一度死なねばならない。かくして「大衆の原点に立つ」ことは大衆抹殺論に接続する。それは「有用性」を横に超える水平的超越に他ならない。

「大衆の原点に立つ」ということ(9)

朝ドラ『チョッちゃん』の再放送を観ているが、チョッちゃんの母親はお嬢様育ちで家事など何もできない。教会には熱心に通っているようだが、信仰以外のことは全てお手伝いさんに任せている。平和な時はその世事に疎い佇まいが愛らしくも思えたが、戦争も末期になって疎開生活が始まると、この何もできない母親の存在が鬱陶しく思えてきた。勿論、そう思うのはドラマを外から観ている私であって、ドラマの中のチョッちゃんたち家族は困惑しながらもその純粋さを愛し続けている。しかし、その寛容さが更に私を苛立たせる。何故か。その母親が「無能の人」だからだ。私は悪人なので、「無能の人」は「無用な人」にしか思えない。自分自身のことは棚に上げて、能のない人はこの世界に存在する意味はない、そう思ってしまう。そんな悪しき自分を深く嫌悪するが、「無能の人」に生きる意味はあるのか。バットは球を打てるから存在する。折れて球が打てなくなったバットは無用であり、バットとして存在する意味を失う。風呂の焚き付けにはなるかもしれないが、バットとしては廃棄されるしかない。切れなくなった包丁も同様の運命を辿る。人とて例外ではない。赤ん坊は「無能の人」だが、これは「有用な人」に成長することができる。他人様や社会の役に立つ人にするのが教育だろう。しかし、老いて「無能の人」に戻れば、老人もまた「無用な人」として廃棄されることになる。折れたバットや切れなくなった包丁と同様に遇するのは人情として忍びないが、老人ホームは実質的には廃棄物処理場と化している。障害者施設も同様だ。余談ながら、私は野島伸司の『聖者の行進』というドラマの再放送も観ているが、これは知的障害者の生きる希望を描いた作品だと言われている。率直に言って、杜撰なシナリオで今のところ如何なる希望も見えない。せいぜい知的障害者を虐待する悪人や悪徳会社を糾弾する正義を描くだけの作品だ。老人同様、知的障害者も社会的弱者と見做され、ドラマでは「無能の人」として描かれることが多い。論理的に考えれば、「無能の人」の生きる希望は「有用な人」になることにしかない。しかし、この希望の前には「無能の人」は「無用な人」でしかないという厳格な論理が大きな壁として立ちはだかる。そもそも「無能の人」が「有用な人」になること自体が背理ではないか。老人は若い頃のように働けない。知的障害者も健常者のようには働けない。それが厳然たる事実だ。とは言え、老人には長年生きてきた経験に培われた知恵があり、知的障害者にも底抜けの明るさがある。そこに有用性を見出し、この世界には「無用な人」など一人もいないとするのが「正義」の社会であろう。この「正義」において、「無能の人」も何らかの意味で「有用な人」として肯定される。こうした誰一人排除しない「正義」は素晴らしいと思いながらも、私は何か腑に落ちない思いも懐かざるを得ない。「無能の人」でも「有用な人」として肯定する「正義」は水平的理想であり、「大衆の原点に立つ」ことの極北でもある。しかし、未だ究極的理想ではない。「無能の人」が「無能の人」のまま肯定される道はないのか。それは「有用・無用」の価値観を超越する道でもある。この超越なくして、誰一人排除しない「正義」も本当の意味では実現しないのではないか。殆ど妄想に等しき理想なれど、善人になり切れぬ私は水平的理想を超越する道を彷徨わずにはいられない。

「大衆の原点に立つ」ということ(8)

バットは球を打つモノであって人の頭を殴るモノではない。出刃包丁は魚を捌くモノであって人の腹を刺すモノではない。モノには用途がある。使用上の注意をよく理解して、用途を間違えてはならない。しかし、誰が用途を決めたのか。それはそのモノを制作した人であろう。球を打つためにバットが作られ、魚を捌くために出刃包丁が作られた。そうした用途、制作者によって予め決められた用途をしっかり守って生活することに大衆の原点がある。この原点からはみ出してはならない。はみ出さなければ平穏無事に生きていける。ところが、用途のわからぬコトがある。モノには用途があるが、コトにはない。人もモノだと見做せば用途がある。そして、有用な人と無用な人に分けられる。有用な人はモノの世界に疑問も不満も懐かないだろうが、無用な人はいつまでも忍従していない。勿論、忍従して生きる人もいる。それに心優しき有用な人は無用な人でも或る程度幸せに生きられるモノの世界を実現してくれるだろう。完璧な福祉が実施される理想社会。そこでは無用な人もそれなりに有用な人として生活できるかもしれない。しかし、どうしてもモノの世界に安住できない人がいる。そうした人は有用・無用の差異を超越して、モノの世界からはみ出そうとする。それは大衆の原点からのはみ出しでもあり、善良なる市民はそれを人デナシと見做す。人デナシはモノの世界からコトの世界へと超越するが、これは実に危険なコトだ。なにしろ用途を超越しているから、バットで人の頭を殴ったり、出刃包丁で人の腹を刺したりする可能性が高くなる。善良なる市民がこうした人デナシを管理もしくは隔離、場合によっては抹殺しようとするのも無理はない。かつて大杉栄や伊藤野枝が虐殺されたように。そこにはモノの世界の明確な論理がある。しかし、鄙見によれば、「人が人間になる」道に人デナシは不可避だ。人デナシになることを避けて人は人間になれない。この道は如何にしてモノの世界の論理に対抗し得るか。

「大衆の原点に立つ」ということ(7)

肉体の糧の充足が大衆の原点だ。食うに困らぬ社会、これが大衆の求める理想社会になる。狩猟採集で肉体の糧が満たされていた時代は良い。動物にせよ、植物にせよ、そこに在るものを食べ続けられるなら、そこは自然楽園だ。しかし、狩猟採集には限界がある。そこに在るものはやがて食い尽くされ、生き延びるために農耕や畜産が開発された。人工楽園の始まりだ。食料生産は増大し、それに伴って人口も増えた。論理的に考えれば、食べるものが増えれば、それだけ食うに困らぬ社会の実現に近づく筈だ。ところが、そうはならなかった。全体的にはボトムアップしたものの、現実の人工楽園は多く食べられる人と少ししか食べられない人という格差のある社会と化した。どうして格差は生まれるのか。能力や努力の問題なのか。能力がなくても、その不足分を努力で補えるとすれば、努力も能力の一つと見做されるだろう。能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。働かざる者、食うべからず。能力があっても働かない者は食えず、能力がなくても誠実に働く者は食える社会の実現。能力と必要が調和する社会は正当であり、そこでは格差は是認される。大谷選手が億万長者であることに異を唱える人は皆無であろう。逆に、さしたる能力もなく、誠実に働きもしない怠け者が億万長者になるなら、それは間違っていると誰しも思う。能力のある者はどんどん金を稼いで大金持になればいい。自由競争は悪ではない。親ガチャのような不平等な出発点は撤廃すべきだが、正当な競争によって生まれる貧富の差は何ら悪ではない。ただし、富める者には貧しき者を経済的に援助するという義務が生じる。ノブレス・オブリージュ。かくして貧しき者も食うに困らぬ社会が実現する。果たして、これが大衆の求める理想社会であろうか。もしそうなら、世界は大衆の理想から腐敗し始める。もはや問題は生産ではなく分配にあるとしても、我々は大衆の理想を超越すべきではないか。大衆の超越。これは決して「大衆の原点に立つ」ことと矛盾しない。

「大衆の原点に立つ」ということ(6)

四月から始まった朝ドラ『あんぱん』も終盤を迎えている。周知のように、これは漫画家やなせたかしとその妻のぶの夫婦愛を描いたドラマだが、その底流には「逆転しない正義とは何か」という問いがあった。すなわち、先の大戦は「鬼畜米英」に代表される西欧列強による理不尽な支配からアジアを解放するという「正義の戦争」であった筈なのに、敗戦を境に鬼畜はむしろ日本であってアメリカを中心とした連合軍こそ解放軍であったと「正義」が逆転してしまった。この耐え難い現実にやなせ(劇中では柳井)氏は苦しみ、かつて愛国教師であった妻と共に「逆転しない正義」を摸索することになる。その結果、辿り着いたのは「この世界から飢えに苦しむ人をなくすことこそが不変の正義だ」という信念であり、それを体現したのがアンパンマンというヒーローに他ならない。アンパンマンは飢えている人の下に駆けつけ、自分の顔(あんパン)を食べさせて救う。敵も味方もない。飢餓の克服こそが問題であり、無益な戦争で飢餓を生み出さないことが「逆転しない正義」だ。実際、古今東西のユートピア思想は「全世界の人が食うに困らぬ社会」の実現を目指してきた。アンパンマンがその理想社会を実現できるかどうかはさておき、喫緊の課題は金持と貧乏人という格差を生み出す経済の克服であろう。水平先生はその課題を「世界の水平化」によって果たそうとする。先述したように、水平化は平均化ではない。金持を打倒して、その富を奪って貧乏人に施すことでは問題は解決しないのだ。そもそも全ての貧乏人が金持の打倒を望むわけではない。むしろ、いつかは自分も金持になりたいと思っている貧乏人の方が多いのではないか。飢餓の克服が大衆の原点であるとしても、大衆の果てしなき欲望がその原点に立ち続けることを不可能にする。「大衆の原点に立つ」アンパンマンもやがて途方に暮れるに違いない。

「大衆の原点に立つ」ということ(5)

先月からずっと戦争の悲惨さを描く映画やドキュメンタリイを観続けている。何れの作品もその基調は「二度と愚かな戦争をしてはならない」という訴えであったが、それは大衆の原点でもある。大衆は戦争を好まない。或るドラマの中に「もう戦争や国に振り回されたくない!」というセリフがあったが、今や「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」という教育勅語も歴史の遺物と化し、国民に兵役の義務もなくなった。メデタシ、メデタシ。真面目に労働して税金さえ納めていれば、大衆は基本的にそれぞれの幸福を自由に追求することができる。もはやアカガミに怯えることもなく、自分の好きなことだけに没頭する生活。尤も、自由競争は過酷であり、様々な格差は避けられない。実際に幸福を享受できるのは一握りの勝ち組だけだろう。そうした格差を生み続ける自由競争が新たな戦争を呼び起こす危険性はあるものの、今のところ大衆にそこまでの危機感はないようだ。少なくとも戦争を始めるほどの気概はない。それよりも平均的な幸福、取り敢えず食うに困らぬだけの稼ぎを得て、その後で様々な娯楽という快楽装置に身を委ねる幸福に埋没していく。それでいいのか。「大衆の原点に立つ」とはその幸福を容認することなのか。大衆の水平的幸福ほど醜悪なものはない、と垂直先生は言う。たとい醜悪でも戦争を始めるよりはマシだ、と水平先生は反論する。果たして、世界に垂直の次元を取り戻すことは戦争を始める理由(大義)を復活させることなのか。

「大衆の原点に立つ」ということ(4)

大衆の原点は衆生済度の原点でもある。水平先生はその原点に立つことで水平革命、すなわち全世界の人が食うに困らぬ社会の実現を目指す。これに対して垂直先生は次のような疑念を懐く。

 

「改めて確認しておきたいことは」と垂直先生は鼻をグズグズさせながら切り出した。「私は水平革命に反対していない、ということです。全世界の人が食うに困らぬ社会、すなわち肉体の糧が普遍的に充足された社会。私もそんな社会の実現が基本になると思っています。しかし、その単純な基本がうまくいかない。それは水平先生と私の共通認識です。何故、うまくいかないのか。世界の人口が増えすぎたということもあるでしょうが、おそらく技術的には全世界の人が飢えないだけの食糧生産は可能でしょう。それにも拘らず、この世界には飢餓が依然として存在する。肥沃な地と不毛な地があるのは現実であり、生産能力にも違いがある。しかし、問題は分配です。過剰に生産できる者は欠乏している者に分け与えれば良い。ところが、どうしても貧富の差が生じてくる。より多く働いた人がより豊かになるのは良いとしても、誠実に働きたい人に職がなく、職があっても懸命に働く人が豊かになれない社会はおかしい。また、怠惰な人が豊かさを享受して、勤勉な人が貧しさに喘ぐ社会は根源的に腐敗している。果たして貧富の差を生まない分配は可能でしょうか」

「それを可能にするのが水平革命ではありませんか」

「そうですね。しかし、どうやって可能にするのですか。『世界の水平化』が単なる平均化ではないことは繰り返し伺ってきました。貧富の差をなくすことは、金持の過剰な財産を奪って貧乏人の欠乏を補い、全世界の人の所得を均一にすることではない。能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。量的な平均化は明らかに不平等です。身体が大きくなれば食べる必要量も大きくなります。着る服のサイズも大きくなるでしょう。唯一の平均的サイズを強制することは愚の骨頂。その人に相応しい特定のサイズが必ずある筈です。そうした多様性を認めることが『世界の水平化』だと私は理解しています。大衆は平均人だと言ったのはスペインの或る思想家ですが、水平革命は平均人を超えて行かねばならない。正に水平革命の原点は大衆抹殺にあります。こうした私の理解が正しければ、『大衆の原点に立つ』水平先生は重大な自己矛盾に陥るのではありませんか」

 

果たして大衆抹殺論は暴論であろうか。垂直先生によれば、衆生済度は衆生の根源的な自己変革なくしてあり得ない。衆生が衆生のまま救われる道は大審問官の論理に絡めとられていく。

「大衆の原点に立つ」ということ(3)

大衆は「平均人」だ、とオルテガは述べている。すなわち、大衆とは万人に共通する性質、社会において特定の所有者がないもの、他人と異ならず、自分のうちに普遍的なタイプを繰り返すだけの人間だ。ハイデガーなら「世人」と言うだろうが、今やこうした「平均人」が世界を支配している。この支配を巷では民主主義と称しているが、そこに如何なる真理があるのか。垂直先生はそこを問題にする。以下、『続・垂直先生』からの抜粋。

 

「世界の腐敗は大衆を中心とすることから始まるのです」垂直先生はきっぱりと言い放った。「一般的に政治家は大衆の幸福のために活動します。そして、大衆もまた自分たちを幸福にしてくれる政治を求めている。しかし、そうした政治は一度死ぬ必要があります」

「政治の死は社会を徒に混乱させるだけではありませんか!」水平先生はすかさず反論した。「必要なのは政治の死ではなく、あくまでも政治の改革です。政治をなくすことなどできません」

「政治も法律も、更には警察も軍隊も、言わば自転車の補助輪のようなものです。自由に自転車を乗りこなせるようになれば必要なくなる……」

「それは空想です!」

「私は理想の話をしているのです」

「そんな理想は現実には通用しません。理想をイマジンできるのは暇人だけでしょう。現実に生活している人たちには政治も法律も警察も軍隊も必要です。垂直先生には生活が感じられません」

「今日は随分と手厳しいですね。それは問題が本質に近づいてきた証拠でしょう。水平先生が現実の生活に拘るのは当然です。『大衆の原点に立つ』ということも、その拘りの一つだと思います。しかし、私は一貫して究極的な理想を問題にしているのです」

 

こうして二人の対話は延々と続くが、現実の生活に拘る水平先生と究極的な理想を問題にする垂直先生との間に相互承認は成立するだろうか。成立しなければならぬ。

「大衆の原点に立つ」ということ(2)

私は今、「垂直先生」と題する芸術以前の作品を書いている。「大衆の原点に立つ」ことから世界の根源的変革を目指している水平先生とそれを批判的に理解しようとする垂直先生との対話篇だ。これが「芸術以前」であるのは、芸術的な意味(効果)についてはエポケーして「世界の根源的変革」への理路だけを可能な限り追求しているからにすぎない。周知のように、マルクスは「哲学者はこれまで世界を様々に解釈してきたが、重要なことはそれを変革することだ」と述べている。しかし、「世界の根源的変革」とは何か。二つの理路がある、と私は考えている。究極的には一つに収斂されるが、当面は二つの理路の対立という問題になる。すなわち、水平革命と垂直革命の対立だ。おそらく、一般的には水平革命は肉体の糧の充足を目指す政治経済の変革、垂直革命は魂の糧の充実を求める宗教の変革、と理解されるだろう。余談ながら、先日、或る強大な新興宗教のプロパガンダ映画を観たが、その中で過酷かつ劣悪な職場に怒りを爆発させて賃上げ闘争などの労働運動に熱中する信者たちに対して、その宗教の幹部である指導者が「赤旗を振って社会を根源的に変革できるのか! 君たちはもっと大きな使命、赤旗など比べものにならないほど遥かに大きな使命を担っているのだ。世界の、いや大宇宙に生きていることの本質を見極めよ!」と一喝する場面があった。政治や経済の革命ではなく、精神の革命もしくは人間革命に集中せよ、ということだろう。垂直革命も、この宗教指導者の信念に通じるものがあるのは否定できないが、決してそれに尽きるものではない。少なくとも垂直先生は単なる宗教的な人間革命を目指しているわけではない。また、「大衆の原点に立つ」水平先生がこの世界から貧困をなくして誰もが「食うに困らぬ社会」(肉体の糧が普遍的に充足された世界)の実現に向かっているのは間違いないが、それも政治経済の変革に尽きるものではない。水平革命と垂直革命、「世界の根源的変革」への二つの理路は錯綜する。私の対話篇も遅々として前に進まない。