共生と居場所
一般的に競争と共生は対立するものと見做されている。確かに競争相手は敵であり、それを倒すことで「新たな場所」を獲得できる。そこに敵は住めない。従って、敵を倒すための共生とか、敵を倒した後の共生は考えられるが、そんな味方だけの限定的な共生に意味があるとは思えない。論理的には、やはり敵と味方という対立を生み出さない「競争のない社会」が共生社会だということになる。すなわち、対立者のいない同一性の社会だ。しかし、そんなノッペラボウのような社会を理想とし得るだろうか。その同一性は言わば「全ての牛を黒くする暗闇」にすぎない。例えば、ガザでは相変わらずユダヤとアラブの対立が続いているが、どちらか一方が他方を殲滅することによって得られる同一性など明らかに本末転倒だ。対立は解消するが、そこに共生の理想はない。鄙見によれば、共生は競争を否定するものではなく、むしろ対立を前提にしている。共生の理想はあくまでも「対立者の一致」でなければならない。ただし、その「一致」は単なる同一性ではなく 、「同一性と差異性の同一性」だ。対立するユダヤとアラブが共生して、初めて共生は理想となる。とは言え、現実は理想通りにはいかない。余談ながら、ラグビーでは試合終了をノーサイドと称するが、ノーサイドは現実的な場所になり得るだろうか。ユダヤでもアラブでもないノーサイドの場所。ノーサイドは競争の終わりではあっても、共生の始まりではない。
競争と居場所
サッカーのW杯が始まった。暫く競争の熱狂が巷を賑わせるだろう。サッカーに限らず、最近の私はスポーツに熱狂することが殆どなくなったが、それでも日本チームが活躍すれば嬉しく思う。何にせよ、熱狂できるものがあるのはいいことだ。生きる意味に繋がる。勿論、サッカーなどなくても人は生きていける。むしろ、過度の熱狂は危険だ。所詮、サッカーは不要不急の娯楽スポーツにすぎないのに、勝利した相手チームもしくは敗北した自国チームに対する憎悪が募って殺人事件が起きたりする。そんな無益な競争に血道を上げることなく、皆仲良く平穏無事に暮らせればそれでいい。そもそも殊更に意味を問う以前に人は生かされている。そうした根源的生としてのゾーエーこそ人本来の居場所ではないか。ところが、人はゾーエーの場所に留まることができない。常にゾーエーを超える生の次元、すなわちビオスに生きる意味を求める。ただ生きて在るだけでは意味がない。人はパンのみにて生くるに非ず。パン(肉体の糧)によってゾーエーを後生大事に維持するだけの人生などつまらない。そこで人はパン以上の何か(魂の糧)によってビオスを充実させる場所を探し求める。それは差し当たって競争の場所となる。端的に、競争がビオスを充実させると言ってもいい。ゾーエーを充足するための競争(食うための生存競争)もさることながら、ビオスを充実させる競争が人を虜にする。他人より少しでも良い場所へ。W杯では優勝という「唯一の場所」を目指して各国の代表が鎬を削る。それを応援するそれぞれの国民も共に闘う。束の間の祝祭とは言え、そこには国民が一つになる場所がある。その競争の魔力は「競争のない社会」を忘却の彼方に追いやってしまう。問題は祭りの後にやって来る。
逃げ場所と居場所
『逃げるは恥だが役に立つ』という人気ドラマがあったが、逃げる場所があるのは良いことだ。救いになる。天災にせよ、人災にせよ、災いは必ずやって来る。その時、避難所の有無が生死を分ける。しかし、避難所は一時的な逃げ場所ではあっても、日常的な居場所にはならない。フリースクールも然り。今の学校にどんな理不尽なことがあるのか、具体的にはよく知らない。親ガチャによる学力の格差、虐め、スクールカーストなどがよく問題にされるが、結局は過酷な競争が子供たちを苦しめているように思われる。フリースクールには基本的に競争はない。そこは競争から解放された場所だと言ってもいい。だから寛げる。居場所になる。しかし、世間はそんなに甘くない。現実社会では学校以上に熾烈な競争を余儀なくされるだろう。フリースクールで甘やかされた子供たちが厳しい現実社会で生きていけるのか。多くの人の懸念はそこにある。学歴を競う教育から逃げ、出世を競う会社から逃げ、「自分はオンリーワンだ」と嘯いて生きていく。そんな甘すぎる自己満足がいつまでも続くとは思えない。それでもフリースクールのような「競争のない社会」を理想とすることはできる。誰とも競争することのない「Love and Peace」の共同体。それが非現実的だとしても、競争社会の片隅に競争とは無縁の楽しみを見出すことは可能だ。例えば、ヴィム・ヴェンダースの描く『Perfect Days』のような生活。余談ながら、昨今の脱力系のドラマには「誰とも競争しないこと」を美徳とする傾向があるような気がする。「人生、そんなに頑張らなくていいんだよ。自分のペースでゆっくり楽しく生きればいいんだよ」――時代は明らかに優しさを強調し始めている。されど優しさを「競争のない社会」に求めていくことには違和感がある。もとより過酷な「競争からの解放」には共感するものの、それは単なる「競争からの逃避」であってはならない。少なくとも私にとって「競争からの解放」は競争の理想と対峙する理想、すなわち共生の理想を生み出すものだ。「競争のない社会」に共生の理想はない。
甘すぎる居場所
『タツキ先生は甘すぎる!』というドラマが最終回を迎えた。その舞台は不登校など通常の学校に違和感を覚える子供たちが集うフリースクールだが、主人公のタツキ先生には不登校になった自分の息子にキツク当たって自殺未遂にまで追い込んでしまった苦い経験がある。躓いた子供たちに対するかつての自分の姿勢を深く反省しているタツキ先生は、フリースクールで極めて誠実に対応している。個々の生徒の悩みに耳を傾け、理解し、「不登校も一つの生き方だ」と語って全てを受け容れる。実際、フリースクールにおいては何かを強制されることがなく、子供たちは自分の好きなことだけをしていればいいので実に居心地が良さそうだ。確かに、通常の学校には見出せなかった居場所がそこにはある。しかし、ドラマのタイトルにもあるように、それは「甘すぎる」居場所ではないか。タツキ先生自身も以前は自分の息子に「不登校は弱さだ。強くなれ!」と𠮟咤激励していた。「不登校生は怠け者」というのが一般の認識でもあり、学校の共同生活に耐えられない弱者として切り捨てられてきた。ところが、今や多様性を尊重する時代となり、不登校も一つの個性として許容されるようになった。言わば、強さを求める時代から弱さを許す時代へ。この変化を如何に理解すべきか。社会は正常になったのか。それとも甘くなったのか。この問いもまた「世界の聖化」に密接に関係している。
居場所の喪失
この世界に居場所がない。マルメラアドフならずとも、これほど辛いことはない。と同時に、これほど理不尽なことはない。どんなイキモノでも生まれてきた以上、何処かに居場所があるべきだ。ただし、棲み分けは守らねばならない。守っていれば殺し合うことはない。ところが、クマの居場所は森なのに、人里に現れて殺される。棲み分けを守らなかった罰だとも言えるが、どうして人里に出てくるのか。森にエサがなくなったからだ。そして、その原因が人の環境破壊にあるとすれば、クマの居場所喪失はやはり理不尽なことに違いない。人がクマの居場所を奪ったのだ。更に皮肉なことに、今や人は地球における自分たちの居場所まで奪おうとしている。温暖化で陸地が激減し、住める場所がなくなっていく。そこで月や火星への移住がまことしやかに語られているが、私には問題のすり替 えにしか思えない。確かに、新天地の開拓とか海の埋め立てなどによる物理的な場所(土地)の拡張は重要な問題だ。とにかく場所がなければ人は住めない。しかし、最も重要な問題は「場所があっても、そこが居場所にならない」という現実にある。居場所に関する二つの喪失。水平的喪失と垂直的喪失。より深刻な喪失である後者に私は問題の焦点を絞りたい。
補足:診断と治療
「哲学者はこれまで世界を様々に解釈してきた。しかし、重要なのはその変革だ」とはマルクスの有名な言葉だが、正にその通りだと思う。多くの若者がその言葉にシビレて革命運動に身を投じたが、残念ながら単なるテロリズムに行き詰っている。結果、「世界の真の変革」には未だ至っていない。何故か。理由は色々と考えられるが、「世界の腐敗」という病の診断が不十分なせいではないか。正しい病理診断があって初めて適切な治療が行われる。ただし、経済世界の病、すなわち資本主義の診断が完璧だとすれば、根源的な病は別にあると考えるべきだろう。そもそも資本主義が病だとしても、大半の人はその病から癒えることを望んでいない。逆に益々病にのめり 込んでいく。麻薬のように。資本主義の欲望はパラダイスを夢見させるが、パラダイスそのものがニヒリズムを分泌する。貧困から脱け出し、経済的に豊かになればなるほど深まるニヒリズム。確かに、貧困のニヒリズムの根は深い。それが世界最大の腐敗だと言う人もいるに違いない。しかし、貧困の克服それ自体が新たなニヒリズムを生み出している。これは経済的困窮者の現実を無視した戯言であろうか。聖化は貧困の克服を目指すが、それに尽きるものではない。むしろ、貧困の克服から始まる。神聖な支配は豊かなパラダイスをもたらすかもしれないが、そこに「本当」の豊かさはない。
補足:キレイな生き方
泥水を啜ってでも生きる。そんなキタナイことをするくらいなら潔く死ぬ。どちらがキレイな生き方であろうか。言うまでもなく、聖化のドラマは前者から始まる。後者は生もしくは死の神聖化にすぎない。いや、「すぎない」と言うのは違う。例えば、踏絵の試練において自らの信仰を貫く。結果、磔にされる。あるいは特高の拷問に屈することなく転向を拒否続ける。結果、虐殺される。凡人には真似のできない神々しい生き方 だ。神聖なものに殉じるのは容易ではない。多くの人はその立派な生き方を讃え続けるだろう。それに対して、磔刑への恐怖から逸早く転んだ者たち、拷問に耐えかねて転向した者たちは実に情けない。唾棄すべき虫ケラどもだ。しかし、聖化は正にこの虫ケラどもから始まる。神聖な神が虫ケラどもを断罪しても、聖なる神は決して見棄てない。聖化と神聖化。二つのドラマが鬩ぎ合う。
補足:神秘的融即
レヴィ=ブリュール(Lucien Levy-Bruhl)は未開人の思惟を神秘的融即と称した。ここで融即と訳されている仏語はparticipationだが、自己を特定の動物や植物だと思い込むような大自然との一体化だと思われる。そこにおいて未開人の人格は大自然に溶け込んでいる。現代人にも「自分は大自然の一部だ」という意識はあるが、自己を失うまでには至らない。人格はしっかりと維持されており、自然を対象化して可能な限り自分たちに快適な自然に改作しようとしている。それは基本的に正しい。自然と一体化している未開人とは異なり、現代人は絶えず自然からズレているものの、そのズレ故に今日の発展がある。剥き出しの自然が美化された自然のパラ ダイスになる。しかし、自然とのズレは世界を腐敗させてもいる。便利な生活は幸福をもたらすが、便利になればなるほど環境破壊などの腐敗は進行する。一体、何のための発展なのか。AIも含めて、人工的に美化された自然において人は「本当」に幸福なのか。現代人はパラダイスの絶頂でニヒリズムに陥る。その時、未開人の生活が新たな輝きを帯びて見直される。自然との一体化。そこに現代人の活路はあるのか。その可能性を信じる人もいるかもしれないが、やはり未開人に戻るのは不可能だろう。たとい未開人の生活に聖なるものが息づいているとしても、それは言わば失われた楽園にすぎず、そこに現代人の求めるべき聖化のドラマはない。むしろ神秘的融即の破綻から聖化は始まる。
聖化のための覚書(10)
世俗化は正しい。他律的な支配者と化した神聖な神が死に、人は自律的な個人として生きる。しかし、自律の理想はやがて俗化してエゴイズムに堕していく。自己中心の世界に人が「本当」に生きる意味はない。そこで人は聖なるものとの関係を取り戻そうとする。世俗的な幸福を追求する水平の次元からそれを超越する垂直の次元へ。聖化のドラマのクライマックスは聖なるものとの新たな関係に見出される。もはや始源の聖なるものへの回帰(後向きの運動)はあり得ない。それは依然として大きな魅力ではあるが、私はあくまでも新たな関係の構築(前向きの運動)を求めたい。それは如何なる関係であろうか。二つの可能性が考えられる。同一化(identification)と参加(participation)だ。因みに、この二つは来日したティリッヒが仏教者と対話した際、仏教とキリスト教の対比として挙げたものだ。すなわち、仏教の悟りが聖なるものとの同一化(梵我一如)にあるとすれば、キリスト教の本質は神の聖なる働きに参加することにあるとティリッヒは言う。この対比の是非は別として(仏教者は納得しないだろう)、ティリッヒが重視しているのは人格性だと思われる。聖化のドラマに即して言えば、聖なるものとの新たな関係において個々人の人格性は維持されるか否か、ということだ。キルケゴールは「絶望が全く根こそぎにされた場合の自己の状態を表す定式」として「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は自己を措定した力のうちに透明に根拠をおいている」と述べているが、「自己を措定した力」を聖なるものとするならば、それに「透明に根拠をおく」とは如何なることか。ニルヴァーナにおいては自己が完全に消滅して融合してしまうのか。それとも『カラマーゾフの兄弟』のラストのように、天国(神の国)において我々は自己として再会できるのか。聖化のドラマに関する課題は尽きない。
聖化のための覚書(9)
聖なるものは目に見えないし、言葉にすることもできない。従って、厳密に言えば、聖なるものとして問題にすることさえできない。問題にするや否や、それは既に神聖なものに転化している。「語り得ないものについては沈黙せねばならない」とはヴィトゲンシュタインの戒めだが、聖なるものについても沈黙が最も誠実な態度であろう。しかし、それでは話が始まらない。沈黙に徹する物語も可能だが、たとい堕落が不可避でも、私は聖なるものが現実化するドラマを求める。例えば、聖なるものをあらゆる色を超越する純白とするならば、世俗化の泥に塗れて暗黒と対峙する煉獄を経験することで全く新しい色を生み出していくドラマを望む。沈黙に徹して純白を維持すること、あるいは汚れ切った世界に純白を取り戻すことも一つの道ではあるが、私は「純白以上の色」を実現したい。それが聖化であり、同時に人間の使命でもある。もとより「純白以上の色」が如何なるものか、具体的には未だ何もわからない。そんな色など存在しないのかもしれない。されど聖化のドラマは既に始まっている。この腐敗した世界はもはや 純白ではあり得ない。世俗化の真実からの更なる一歩が問われている。