補足:「民衆」への超越
毎年八月十五日が近づくと戦争に関するテレビ番組が多くなる。原爆などの悲惨な被害の歴史もさることながら、かつて日本がアジア各地で行ってきた加害の歴史にはより強く目を覆いたくなる。アジアを西欧列強の支配から解放するための戦争がどうして侵略に堕したのか。正義の日本が残虐で非道な蛮行をする筈がない。そう信じたい気持が募って、加害の歴史を何とか正当化しようとする。戦争になればどの国だって非道なことを余儀なくされる。アメリカも中国も例外ではない。日本だけが悪いのではない。悪いのは戦争だ。しかし、こうした正当化の論理はやはり自己欺瞞であろう。戦争が悪いのは当然であり、それぞれの国にそれぞれの加害の歴史があるのも事実だが、そのことによって日本の罪が相殺される道理がない。私が生まれる以前の罪なれど、私はその罪を背負って日本人として生きていかねばならない。では、日本人は永久に罪人として生きていくしかないのか。或る意味そうかもしれないが、中国や韓国の過度な反日教育を見ていると、それも正しいとは思えない。自虐史観に対する違和感も罪の正当化にすぎないのか。殴った人は忘れても、殴られた人は忘れない。私は日本の罪を忘却するつもりなど全くないが、罪の意識から一歩前に踏み出すことが重要だと考えている。「罪からの一歩」は決して「罪の忘却」ではない。君は被害者、我は加害者也。この真実から如何にして「されど仲良き」という真理を生み出せるか。罪を謝罪し続ける加害者と罪を糾弾し続ける被害者との間に真の和解(仲良き関係)はあり得ない。双方共に自らを超越する必要がある。そこで水平先生は「民衆」への超越を説く。日本人は日本人であることを超越して「民衆」になる。同様に、中国人も中国人であることを超越して「民衆」になる。確かに、「民衆」は罪を超越している。しかし、そこに人として生きる「本当」があるだろうか。垂直先生は異議を唱える。
されど仲良き大調和(10)
垂直先生は狂人ではないか。共に食って、飲んで、笑う「民衆」の地平こそ深層であって、その上に築かれる国民性とか宗教性の層は「虚」にすぎない。ユダヤとアラブ、ロシアとウクライナなどの対立も「民衆」の地平に立てば解消する。「民衆」に国境はない。「民衆」の神を信じる心にも壁はない。「民衆」として生きることにこそ人の幸福がある。垂直先生はその幸福を全く理解していない。これは主に水平先生からの批判だが、どうだろうか。国民性や宗教性を色と見做せば、「民衆」は様々な色を超越する純白だと理解できる。確かに、純白の「民衆」に色の対立など原理的にはあり得ない。もはやアラブ人でもユダヤ人でもない「民衆」は人が共に生きる地平だと言える。しかし、我々はそんな何者でもないニュートラルな「民衆」になれるだろうか。たといなれたとしても、言わば無味無臭の「民衆」として生きることにどんな意味があるのか。争いは確実になくなるが、同時に生の輝きも消え失せる。とは言え、「民衆」を水平化の理想として考えることはできる。色即是空。空即是色。一切を放下して「無の境地」に達すること、あるいは未だ主もなく客もない純粋経験、そこに「民衆」の生活がある。おそらく水平先生はそうした「民衆」への横超を目指しているのであろう。垂直先生もその理想を認めないわけではないものの、敢えて「民衆」からの垂直的超越を求める。ただし、それは竪超とも異なり、垂直的超越の真理は未だ明らかにされていない。「民衆」への横超と「民衆」からの垂直的超越との差異は何か。その理解は容易ではないが、垂直先生にとって「民衆」はやはり表層にすぎないようだ。垂直先生の関心は依然としてアラブ人とかユダヤ人といった色の相剋にある。純白の「民衆」に両者の仲良き関係が成立するとしても、垂直先生は色の相剋に執著する。当然、アラブ人とユダヤ人との対立は続く。それにも拘らず、垂直先生は「されど仲良き大調和」の可能性を諦めない。水平先生は「色の相剋を超越するのは純白しかない」と主張する。垂直先生は純白以外の可能性を摸索し続ける。垂直先生はやはり狂っているのだろうか。
されど仲良き大調和(9)
観光旅行で見知らぬ海外の土地を訪れる。レストランなどで現地の人たちに出遭って仲良くなる。数日間の付き合いで国を超えた相互理解が成立したような気分になる。「何処で生まれ育っても人は同じだ。食って、飲んで、笑えば仲良くなれる」――心からそう思う。そこに「世界の水平化」を見ることができる。善きサマリア人のように、国や宗教の違いに関係なく、困窮している人がいれば躊躇なく助ける。そうした「民衆」のレヴェルで人と人は仲良くなれる。それは「されど」なしの仲良き関係だ。純朴な仲良き関係だと言ってもいい。確かに、それは一つの理想ではある。しかし、垂直先生はそれでは駄目だと言う。そんな表層ではなく深層における仲良き関係を求めるべきだと主張する。もとより表層だから仲良き関係が成立するのであって、深層にまで踏み込めば様々な軋轢が生じるに違いない。せっかくの仲良き関係が崩壊し、喧嘩が始まる。だから賢明な多くの人は互いの深層にまで踏み込むことを忌避し、表層での関係に終始しようとする。その典型がネット上でのSNSの関係であり、そこでは匿名やハンドルネームでの付き合いになる。匿名やハンドルネームは深層にまで踏み込ませないための壁に他ならない。また、最近はAIを最高の友達だと思っている人が増えているそうだが、それもまたAIが表層の友達だからだと思われる。総じて今の若者たちは争いを嫌う余り、結果的に表層の仲良き関係にしがみついているように見受けられる。争いを嫌うのは良い。さりとて少し臆病すぎるのではないか。そこで垂直先生は敢えて「深層に踏み込む勇気を持て!」と叫ぶ。当然、深層に踏み込めば争いになる可能性が高まるが、その軋轢を通じてこそ「されど仲良き関係」が現実のものとなる。実際、喧嘩もしないような相手と「本当」に仲良くなれるだろうか。ただし、喧嘩の後に必ず仲良き関係が成立するとは限らない。表層の仲良き関係に留まっていた方が無難であることは間違いない。この無難な選択を垂直先生は如何にして粉砕するのか。
されど仲良き大調和(8)
図らずも原爆をテーマにしたドラマを観た。マトモに生活する可能性を一瞬に奪われた人たちの悲劇。最近も熊本で大きな地震が起きたが、人災と天災の違いはあれ、何気ない日常をマトモに暮らすことの大切さを痛感させられる。究極的な問題など暇人の戯言にすぎない。そう思われても仕方がない。理不尽なことは色々あるが、とにかくマトモに生活できていることを感謝すべきだ。先ずは自分の生活。それから余裕があれば、周囲の人たちの生活に心を配る。そして、この世界からマトモに生活できない人が全くいなくなるように皆で骨を折る。それが「世界の水平化」であり、それ以上の問題はないように思われる。ところが、垂直先生は敢えて究極的な問題に執著する。この執著は殆ど誰にも理解されない。一般的にはマトモな生活を求める水平的問題以上のものはないからだ。垂直先生は孤立を余儀なくされる。誰よりも人間の連帯を求めている先生が孤立する!どうしてこんなイロニーが生じるのか。垂直先生の孤立は天才数学者の孤立とは違う。天才数学者がどんな問題と格闘しているのか、一般的には殆ど理解されていない。とは言え、凡人の理解を遥かに超えているものの、極めて重要な問題であることは間違いない。その成果が稀に凡人の日常生活に役立つ機器の発明に寄与したりすることもあるが、基本的に日常生活とは絶縁している。天才数学者は非日常的な宇宙の神秘と格闘することにおいて孤立する。それに対して、垂直先生が凡人の日常生活と絶縁することなどあり得ない。そもそも垂直先生は天才ではなく、一介の凡人にすぎない。垂直先生もまた水平的問題と格闘している。ただし、それを垂直の次元において受け取り直す運動に究極的な問題があると確信している。そこに垂直先生の孤立がある。殆ど誰も垂直の次元など必要とはしないからだ。宗教を熱心に信じている人はいるが、凡百の宗教の次元は垂直の次元とは関係がない。垂直先生が執著する垂直の次元とは何か。水平の次元にも仲良き関係はあるが、垂直の次元において受け取り直された仲良き関係は質的に異なっている。もとより「前者が低次で後者が高次」だということではない。究極的な問題は水平的問題を超越するが、超越は優越ではない。垂直先生の孤立を甚だ遺憾に思う。
されど仲良き大調和(7)
何のために思耕しているのか。よくわからなくなる時がある。今もそうだ。誰も私の思耕など望んでいない。私はマトモに生きてこなかった。マトモに就職し、マトモに結婚し、マトモに家庭を築く、ということをしてこなかった。ただ「本当」に生きることだけを思耕して生きてきた。それは日常生活を蔑ろにして一日の大半を日記ばかり書いているようなものだ。日記の目的が日常生活の出来事を記すことにあるとすれば、私の人生は明らかに本末転倒している。そんなマトモでない男の思耕に誰が関心を懐くのか。多くの人の関心はマトモに生きられない苦しみ、すなわちマトモに就職できない苦しみ、マトモに結婚できない苦しみ、そしてマトモに家庭を築けない苦しみといった水平的な問題にある。私もそうした問題に無関心なわけではないが、さりとて究極的な問題ではない。尤も、究極的な問題を重視すること自体が既にマトモではないかもしれないが、幸か不幸か、私の思耕は水平の次元を超えていかざるを得ない。実際、客観的には私のマトモでない人生はかなり惨めなものだが、究極的な問題に憑かれている私は全く意に介しない。むしろ、マトモな水平的幸福以上の問題に無関心でいることの方に危機感を覚えている。その無関心から世界の腐敗は始まっている、と言ってもいい。それは「家庭の幸福は諸悪の本」という太宰の言葉にも通じている。もし人が「家庭の幸福」に象徴される水平的幸福を至上のものとして生活するなら、世界に分断の壁があろうとなかろうと関係ないだろう。あるいは、水平的幸福が確実に保障されるなら、強大な支配者に「自発的隷属」もするに違いない。水平的幸福を求めることがマトモだとしても、それがどんなに甘美な幸福だとしても、マトモでない私はそこに人が生きる「本当」を見出さない。ただし、私には未だ水平的問題から究極的問題へと超越する契機がよくわからない。ハイデガーなら「世人」の頽落態を打破する「良心の呼び声」と言うだろうが、それは現実にどう作用するのか。究極的な思耕は依然として垂直の次元を彷徨い続けている。
されど仲良き大調和(6)
生き延びるために人は壁を築く。しかし、「本当」に生きるためには壁を壊さねばならない。これはキレイゴトだろうか。ベルリンの壁の崩壊によって世界中の壁が連鎖的になくなるものと期待されたが、逆に壁は増え続けている。世界は危険に満ちている。人を見たら狼と思え。多様性の尊重と言うけれど、異常性と何が違うのか。何処までが正常で、何処からが異常なのか。壁の重要性は高まるばかりだ。「壁なき平和」などと甘いことを言っていると、盗人に何もかも奪われてしまう。実際、スパイ天国と嗤われている日本では軍事的にも産業的にも防壁の強化が急がれている。その現実は否定できないが、壁に守られた生活に「本当」に生きる充実はあるのか。おそらく多くの人は「本当」の生よりも平穏無事な生活を選ぶだろう。私にその選択を非難する資格はない。批判はしたいが、説得力のある言葉を未だ見出せないでいる。確かに、壁によってゾーエーの充足は守られる。平穏無事な生活が維持されて、その上でそれぞれの好きなことに没頭できる。それを以てビオスの充実だと思う人もいるだろうが、私は納得できない。ビオスの充実と壁は両立しない。何故か。ゾーエーの充足が個別的なものであるのに対し、ビオスの充実は個人だけでは得られないからだ。それは「我々の生の充実」であり、我のビオスは君のビオスと無関係ではない。従って、ビオスの充実は君と我との間の壁を脱構築(deconstruction)する。ただし、厳密に言えば、それは壁の破壊(destruction)ではない。我のビオスと君のビオスが融合するわけではないからだ。問題はその二つが如何に交通するかにある。
されど仲良き大調和(5)
君は君、我は我也。「だから」分断。それが自然であり現実的でもある。「されど」仲良くする必要などあるのか。それは理想かもしれないが、自然に反する。尤も、自然は多様性に満ちており、そこには共生もあるが、ライオンとシマウマは共存できない。ライオンはライオン、シマウマはシマウマ也。棲み分けて、それぞれの王国を築くに如くはなし。特にシマウマが生き延びるためには分断の壁が不可欠だが、シマウマにそれを築く能力はない。結果、「食う-食われる」の関係から解放されることもない。自然は常に弱い者が強い者に食われる危険性を孕んでいる。多様性の自然は危険性の自然でもある。弱いシマウマはそうした自然に甘んじるしかないが、人は違う。他のイキモノを食っても、人が食われる危険性のない自然に制御してきた。それでも「万人の万人のための闘争」の自然は未だ制御できていない。ライオンとシマウマの関係は人の社会にもある。ただし、シマウマと違って、人は分断の壁を築くことができる。君等は君等、我等は我等也。分断の壁は取り敢えず平和をもたらす。しかし、壁は絶対では ない。壁を破壊せんとする黒船は必ずやって来る。壁がもたらす平和(分断の平和)に限界があるとすれば、その限界は如何にして克服されるのか。壁なき平和、すなわち「されど」仲良くすることは可能なのか。
されど仲良き大調和(4)
君は君、我は我也。君と我は違う。この差異性から如何にして仲良き関係を築くか。この問いは明らかに背理を孕んでいる。通常、仲良き関係は同一性に基づいているからだ。差異性に基づく仲良き関係などあり得ない。中日ファンは巨人ファンと仲良くできない。尤も、全日本として外国のチームに対する場合には両者は仲良くできるが、それは全日本という同一性に基づいているからにすぎない。その同一性がなくなれば、中日ファンと巨人ファンとの差異性が甦ってくる。ただし、プロ野球ファンという別の同一性に基づけば、差異性を楽しむことができる。中日ファンと巨人ファンは対立するが、その対立が楽しい。全ての人が巨人ファンになってしまったら、プロ野球の楽しみは成立しない。同一性における差異性が楽しみを生み出す。差異性は必ずしも分断の壁を築くとは限らない。分断の壁を築くのはあくまでも差異性を認めない同一性だけだ。私は先に「差異性に基づく仲良き関係などあり得ない」と述べたが、対立を楽しむ関係を仲良き関係に含むなら事情は変わってくる。すなわち、同一性に基づく仲良き関係とは別に、差異性を享受する仲良き関係が考えられる。勿論、二つの仲良き関係は質的に全く異なっている。前者から見れば後者は敵対関係でしかなく、後者から見れば前者は馴れ合いに堕している。単純に、前者は喧嘩を許容しない仲良き関係、後者は喧嘩を胚胎した仲良き関係、と言ってもいい。どちらが「本当」の仲良き関係なのか。既に老化が進行している私の頭ではよく理解できないが、分断の壁を築く同一性は実質的には画一性であり、そこに調和の理想にとっての最大の問題があると思っている。
されど仲良き大調和(3)
調和よりも分断。壁を築いて異質なものが侵入して来ないようにする。壁の内側は安泰。同質なものだけが住んでいるからだ。同質なもの同士は争わない。ただし、「本当」に同質かどうかを見極めるのは至難の業だ。同じ日本人でも同質とは限らない。日本は日本人が住む場所だと言っても、そもそも日本人とは何か。国民国家は明治維新によって成立したと言われるが、「日本人かくあるべし!」という国民意識には人工的な臭いがする。日本人として生きる以前に、もっと自然に生きたい。自然に生きる幸福に国の壁など必要ない。そう考える人も多いと思われるが、「自然に生きる」とは何か。それがゾーエーの循環を中心に生きることであるならば、その幸福を脅かす敵の侵略を防ぐ壁がやはり必要になる。しかし、一体誰が敵なのか。国民意識をディコンストラクションして「自然に生きる」民衆に根を下ろしても、異なる民衆の間で略奪が生じる。A村の民衆とB村の民衆の対立。どうしてそんな馬鹿げた対立が生じるのか。同じ「自然に生きる」幸福を求める民衆同士ではないか。暮らしている村の違いなど関係な い。A村であろうとB村であろうと、「自然に生きる」同じ場所なのだ。そこに異質なものが入り込む余地はない。ところが、現実には分断の壁ができている。「自然に生きる」故郷を求めても、そこはいつしか異郷となっている。異質なものは何処からやって来るのか。
されど仲良き大調和(2)
調和は多様性を前提にしている。様々な色の花が咲き誇るから調和の花園は成立する。唯一色の花に画一化された花園に調和はあり得ない。しかし、現実に調和は可能なのか。ロシアとウクライナ、中国と台湾の間に調和は実現するのか。むしろ、大国であるロシアや中国による小国の画一化に平和が期待できるのではないか。それは大審問官の論理による平和であるが、とにかく戦争は回避できる。調和の理想と画一化の現実。余談ながら、先日のNHKスペシャルでは『激変 安全保障:日本の針路は』と題して、最近の防衛力強化の傾向について主に憲法学者と政治学者が意見を戦わせていた。両者共に理想と現実に引き裂かれている苦しみにおいては同じだが、どちらかを尊重する決断をしなければならない。今のところ、日本国民の多くは未だ「憲 法九条」の理想を信じようとしているようだが、その思いはいつ決壊してもおかしくない。緊張高まる世界情勢が更に悪化すれば、現実的な防衛力強化に賛同する人は増加していくだろう。イノチの危機に瀕すれば誰だってそうする。それにも拘らず、非暴力の抵抗を続けることができるだろうか。非暴力は服従ではないものの、現実には服従と同じ結果になる。殺されるか、画一化を余儀なくされる。非暴力の抵抗を貫くことは不可能に近い。無理だ。されど垂直先生はその無理を通そうとする。垂直先生は狂人であろうか。