新・ユートピア数歩手前からの便り -8ページ目

「大衆の原点に立つ」ということ

混迷を深める世界に対して危機感を懐いている人は少なくない。このままでは駄目だ。何とかせねばならない。そうした苛立ちやら焦燥に駆られた人たちが来月初めに緊急シンポジウムを東京で行うという知らせが届いた。早速知人にそのまま伝えたところ、意外な反応が返ってきた。「生活現場で日々呻いている自分たちとは縁遠い」ものだと言うのだ。この反応を私なりに解釈すれば、そのシンポジウムは大衆の原点に立っていないインテリ(知識人集団)の言わば机上の空論にすぎない、ということになる。果たして本当にそうか。大衆であれ、インテリであれ、世界の現状に危機感を懐いている人は根源的な変革を求めているに違いない。では、根源的な変革とは何か。私の知人の考えによれば、おそらくそれは「大衆の原点」から始まらねばならないだろう。そして、「大衆の原点」に立たないインテリに根源的な変革は不可能となる。ここで一つの疑問が生じる。インテリは「大衆の原点」に立つべきなのか。そもそも「大衆の原点に立つ」とは如何なることか。鄙見によれば、かつてのインテリには愚かな大衆を導く前衛としての自負があった。しかし、やがてその自負は粉砕され、逆に過酷な労働の現実と闘う大衆として生きていないことがインテリの負い目となり、その結果インテリは大衆の同伴者になろうとするに至った。ここにインテリの致命的な錯誤がある。前衛にせよ、同伴にせよ、そのような者になろうとする時点で既にインテリと大衆との間には深い溝が生じている。厳密に言えば、インテリも大衆の一種だが、その存在の在り様には質的な差異がある。ただし、その差異は優劣の問題ではない。つまり、「インテリは優秀で、大衆は愚か」ということではない。インテリと大衆の差異は、それぞれの求める根源的な変革の差異に他ならない。従って、誤解を恐れずに言えば、インテリは「大衆の原点」に立つことはできないし、立つべきではない。全く別の使命があるからだ。とは言え、それは「大衆の原点」を無視してもいい、ということではない。大衆が求めている根源的な変革も極めて重要だからだ。結論を先取りして言えば、大衆は水平革命を目指し、インテリは垂直革命に集中する。二つの革命が相即して、究極的な革命となる。

補足:「見えないもの」の呪われた部分

私が宗教哲学を研究しているのは世俗化された社会に絶望しているからだ。神が死んだ世界、絶対的なものが失われて全てが相対化された世界に私は生きたくない。しかし、こうした私のニヒリズムは一般的には不可解なものだろう。多くの人にとって世俗化は歓迎すべき運動だからだ。絶対的な神が死んで、人は他律的な支配から解放された。独裁者が絶対的な神の名の下に大衆を支配することもなくなるに違いない。世俗化社会は大衆が自由に生きられるパラダイスだ。勿論、自由な競争は過酷な格差社会をもたらす。パラダイスを享受できるのはほんの一握りの勝ち組であって、残りは負け組として地獄を味わうことになる。尤も現実に本当の地獄を味わうのは最底辺のこれまた一握りの転落者であって、大半の人は自分なりのパラダイスを見出して結構楽しく生きている。すなわち、パラダイスにも上流・中流・下流といった格差があって、それぞれの分相応なパラダイスがあるということだ。かくして世俗化社会に「見えないもの」の出る幕は殆どなくなる。ホラー映画やオカルトなどで「見えないもの」が重宝されても、それは娯楽として求められているだけであって、真剣に「見えないもの」を要請している人は皆無に近い。もし「見えないもの」を心の底から求める人がいるとすれば、それは「見えるもの」(偏差値や勤務評定などの数値化)だけが支配する格差社会の徹底的な粉砕を切望する最底辺の人、すなわち如何なる意味においてもこの世界にパラダイスを見出せない窮民であろう。窮民革命は格差の根絶、ラディカルな平等社会の実現を目指す。それは絶対的な「見えないもの」の支配によってのみ実現する。言わば絶対的な神の下での万人の平等だ。言うまでもなく、これは明らかにディストピアだが、世俗化された自由社会のパラダイスよりもマシだと考える人は必ずいるに違いない。或る作家は「絶対的なものが支配する戦時中ほど人々が平等であった時はない」と述べている。自由に競争できる格差社会か、それとも平等が徹底された絶対社会か。意見の分かれるところだが、ラディカルな平等化が「見えないもの」の呪われた部分であることは否定できない。従って善良なる市民は、たとい格差が広がっても、それは必要悪だと割り切って自由な競争社会、すなわち誰もが自由にそれぞれのパラダイスを分相応に享受できる社会を求めることになる。それでも競争が嫌な人は一般社会からドロップアウトして、自然楽園としてのアルカディアに救いを求めることができる。しかし、厳密に言えば、アルカディアも今や経済的に余裕のある人にしか許されないのが現実だ。つまり、実質的にはアルカディアもパラダイスの一種にすぎない。快適な田舎暮らしや悠悠自適な農的生活など、貧乏人には夢のまた夢。とすれば、現代人はそれぞれのパラダイスを見出して生きるのが無難だという結論に辿り着く。しかし、それ以外の結論は本当にないのか。私個人としては、「見えるもの」だけが支配する世俗化社会をディコンストラクトして、「見えないもの」が人の本当に生きる力となるような場所(社会)を実現する道を摸索したい。ただし、それは先述したような絶対的平等化のディストピアへの道ではない。「見えないもの」の呪われた部分の克服は容易ではないが、「見えないもの」の芸術は性懲りもなく「何処にもない場」としてのユートピアを求め続ける。

補足:大衆の反逆と「見えないもの」

「裸の王様」の教訓とは何か。二つあると私は思う。一つは一般的に解された教訓、すなわち純真な子供のように「見えるもの」をそのまま信じ、「見えないもの」を見えると言う偽りに生きないこと。もう一つはそうした一般的な教訓を更に発展させて、王様の本質(王様を真に王様足らしめる権威)を「見えるもの」だけで判断すべきはない、ということだ。例えば、「絢爛豪華な衣装を身に付けているから王様だ」という短絡的な判断は間違っている。たとい襤褸を身に纏っていても、あるいは裸であっても、真の王様の本質は変わらない筈だ。とは言え、本質(イデア)は「見えないもの」であり、或る人が王様の本質を体現しているかどうかを判断するのは容易ではない。それ故、結果的に王様に相応しい衣装とか三種の神器といった「見えるもの」で判断することになる。この「見えるもの」に「見えないもの」を象徴する力がある間は良い。そもそも物象化は避けられず、それ自体が悪いわけではない。しかし、やがて「見えるもの」の象徴力が衰えてくると、そこに胚胎している筈の「見えないもの」が形骸化してくる。それは「見えるもの」を通じて「見えないもの」を直観していた古代人(archaic man)の堕落の始まりでもある。かくして形骸化した「見えないもの」(実は単なるモノ)を中心に生活する古き大衆が生まれてくる。そして、形骸化した「見えないもの」は偶像と化し、世界は「魔術の園」となる。周知のように、こうした古き大衆の時代を終わらせたのが啓蒙であり、世界を脱魔術化する近代人(modern man)が「見えるもの」の真実を科学的に確立していく。古代人が堕落して古き大衆と化し、その古き大衆を批判して近代人が生まれる。この流れは不可避であり、基本的に正しい。しかし、近代人もまた、「見えるもの」だけを真実として生活する新しき大衆と化して現代に至っている。その生活の一体何が問題なのか。盥の汚れた水(形骸化した「見えないもの」)と一緒に赤子(「見えないもの」そのもの)まで流してしまった結果、ニヒリズムに陥っているからだ。啓蒙(脱魔術化)は不可避だが、同時に「見えないもの」まで死滅させては元も子もない。人は「見えるもの」の真実だけでは本当に生きられない。どうしても「見えないもの」の真理が必要になる。ここに古き大衆が反逆してくる契機がある。古き大衆は曲がりなりにも「見えないもの」と共に生活していたからだ。さりとて我々は古き大衆に戻ることなどできないし、戻るべきではない。では、現代人は如何にして「見えないもの」との関係を修復できるのか。一つの可能性として「見えないもの」を直観できた古代人の力(野生の力)を取り戻すことが考えられるが、果たしてそれは可能だろうか。所詮、その力も偶像崇拝に堕していく運命にあるのではないか。その危惧も含めて、直観と象徴が「見えないもの」の芸術の課題となる。

補足:「見えないもの」の功罪

NHKの子供向けニュース番組を観ていたら、この時期に相応しく戦争を特集していて、「どうして日本は無謀な戦争を始めたのか」という問題を扱っていた。子供たちにどう答えるのかと注視していると、現代史の専門家らしい人が「中国の土地や資源を獲得するため」と解説した。私は反射的に非常な違和感を覚えた。その解説者は世界恐慌に端を発する当時の日本の深刻な経済的窮状を語っていたが、それは「貧しさ故に他人の所有物に手を出した」という盗人の論理ではないか。つまり、侵略戦争史観だ。しかし、厳密に言えば、私の違和感は侵略戦争史観に対するものではなく、「日本が中国などのアジア諸国を侵略した」という歴史的事実を否定するつもりはない。むしろ、「見えるもの」(歴史的事実)だけで判断すれば、侵略戦争史観は不可避だと思っている。ただし、それだけではない筈だ。私の違和感は、正に「見えるもの」だけで判断していることに対するものに他ならない。戦争を始める理由は決して「見えるもの」だけではない。より大きな理由は「見えないもの」にある。では、日本に戦争を始めさせた「見えないもの」とは何か。それは大東亜共栄圏というユートピアであり、満洲国に関しては五族協和・王道楽土の理想であろう。こんなことを言えば誤解は必至だが、私はここで「大東亜戦争肯定論」を繰り返そうとしているのではない。私はただ、侵略戦争史観が不可避だとしても、「盗人の論理は戦争を始める大義名分にはなり得ない」と言いたいだけだ。実際、多くの兵士は「侵略」のためではなく、「アジアの解放」のために戦ったのではないか。ロシアのウクライナ侵攻も、ロシア兵にとっては虐げられているロシア系住民を救い出すための解放戦争だろう。戦争は常に聖戦として始まる。「見えるもの」としては侵略戦争でも、「見えないもの」としては聖戦と化す。従って、論理的に考えれば、戦争を根絶するためには「見えないもの」を死滅させねばならない。言い換えれば、戦争の悲惨で愚かな現実だけを見ていれば、誰も戦争をしたいなどとは思わない。この時期にテレビ等で繰り返し戦争の悲惨な現実を伝えるドラマやドキュメンタリイが流される目的もそこにある。しかし、「見えないもの」の死滅は容易なことではない。それは人が生きる理想の死滅でもあるからだ。「見えるもの」の現実と「見えないもの」の理想。少なくとも私は理想なき現実に生きることはできない。さりとて理想は常に現実の歴史を修正しようとする。「見えないもの」の芸術の前に、「見えないもの」の二律背反が巨大な壁として立ちはだかっている。

「見えないもの」の芸術(10)

現代人は古き大衆と新しき大衆に引き裂かれている。前者は「見えないもの」を中心に生活し、後者は「見えるもの」だけを信頼して生活している。当然、古き大衆は近代化によって絶滅したものと思われていた。ところがどっこいシブトク生き残っている。奇妙なことだ。古き大衆の迷信に満ちた「魔術の園」は新しき大衆によって脱魔術化された筈ではないか。その脱魔術化によって「見えないもの」は歴史の外に追いやられ、それに代わって「見えるもの」が科学の力で精密に解明され、その御蔭で便利なモノ(機械)が次々と発明され、新しき大衆の生活は飛躍的に便利で快適なものになった。かつての「見えないもの」の深層も民俗学や精神分析学によって掘り起こされ、今や「見えないもの」は現代社会において死滅したかのようだ。つまり、「見えないもの」は化石となった。しかし、本当にそうか。「見えるもの」の支配が強大になればなるほど、死滅した筈の「見えないもの」の影が広がっているのではないか。いや、新しき大衆が「見えるもの」の支配に満足しているのなら、それでもいい。実際、先述したような数々の画期的な発明品を通じて、「見えるもの」は多くの人を幸福にしてくれる。今後も人工的な知能(AI)によって「見えるもの」の支配はますます盤石なものになっていくに違いない。そもそも「見えるもの」の世界において人はもはや機械に勝てなくなっている。勝てなくて結構。嫌なこと、苦しいこと、人にはできないこと、全て機械に任せてしまえばいいのだ。新しき大衆は「見えるもの」の支配の下で日々遊んで暮らせばいい。それはパラダイスだ。たとい全ての人がパラダイスを等しく享受することは不可能だとしても、新しき大衆にとって「見えるもの」の支配がパラダイスの前提になることは間違いない。とは言え、パラダイスそのものに疑念を懐く人たちが皆無というわけではないだろう。そして、その疑念は格差社会に対するルサンチマンだけではない。「見えるもの」の支配に対する苛立ち、人の生活が機械に乗っ取られてしまうことへの反撥――そうした思いに駆られる人たちは「見えるもの」の根柢に「見えないもの」の力を感じ取り、昔ながらの手作業もしくは手仕事を重視する生活の復権を願う。私はそこに「見えないもの」を中心に生活する古き大衆の反逆を見出す。その反逆はアルカディアへの回帰でもある。かくして古き大衆と新しき大衆に引き裂かれた現代人は厳しい分断に直面することになる。「見えないもの」のアルカディアか、「見えるもの」のパラダイスか。私はその根源的な問いを一つの対話篇として書き進めているが、焦点は「見えないもの」の影に絞られる。と言うのも、古き大衆の反逆を評価するにしても、もはや「魔術の園」に逆戻りするわけにはいかないからだ。「見えないもの」の復権がオカルトや悪しき神秘主義、あるいはカルト宗教に流れては元も子もない。その意味において、ニーチェの次のような言葉に改めて注目したい。

「新しい戦い。――仏陀が死んだ後、なお何百年もの長い間、或る洞窟に仏陀の影が見られた――巨大なぞっとするような影が。神は死んだ。しかし、人間の本性からして、多分、神の影が見られる多くの洞窟がまだ何千年もの長い間存在することになるであろう。――そして我々は――我々はこの神の影をもやっつけねばならない。」

この「新しい戦い」こそ、「見えないもの」の芸術に他ならない。

「見えないもの」の芸術(9)

世界の腐敗は大衆を中心とすることから始まる。これは一般的には暴論にしか聞こえないだろう。と言うのも、王様や貴族中心の世界を打倒して、大衆中心の世界を実現したことを「人類の進歩」だとするのが近代以降の常識だからだ。そして、政治家は通常「大衆の幸福」を至上の目的として掲げる。また、大衆も自分たちの生活に幸福をもたらす政治を求めている。このことに疑念を懐く人は殆どいない。常識(共通感覚)としての民主主義。しかし、正にこの常識にこそ現代社会の危機が胚胎しているのではないか。そもそも大衆とは何か。私は二種類の大衆を考えている。古き大衆と新しき大衆、前者は啓蒙以前の大衆、後者は啓蒙以後の大衆だ。その差異を端的に言えば、見えないものを盲目的に信じる「魔術の園」に生きる大衆と世界を脱魔術化して見えるものだけを信じて生きる大衆、ということになる。啓蒙を境にして、「王様は裸だ!」と言えなかった大衆が言える大衆へと進化する。それは確かに「進化」であり、非主体的な古き大衆が王様や貴族の権威を支えていたことを考えれば、その権威を打倒する主体的な新しき大衆が世界の中心になること、すなわち民主主義の確立は歓迎すべきことではある。しかし、その民主主義が今や世界を腐敗させている。これはやはり暴論でしかないのか。実際、トランプのアメリカ、プーチンのロシア、習近平の中国などを見ていると、世界は未だ絶対的な権力者を支持する古き大衆を中心としていると思わざるを得ない。つまり、腐敗した世界の元凶は古き大衆を中心とする悪しき民主主義であって、それを批判する新しき大衆(別名インテリ)を中心とする真の民主主義の成熟が求められている、ということだ。例えば、トランプを支持する「愚かな古き大衆」とトランプを批判する「進歩的な新しき大衆」という対立構図は分かりやすいが、本当にそれは妥当であろうか。言い換えれば、新しき大衆が中心となる真の民主主義が実現すれば、世界は本当に理想的になるだろうか。私は甚だ疑問に思う。民主主義は水平的理想の極北ではあるが、究極的な理想ではない。さりとて私は民主主義を否定して、啓蒙以前の絶対主義に回帰するつもりはない。むしろ、絶対主義を支持する古き大衆の死滅は不可避だと思っている。問題は古き大衆を死滅させる新しき大衆の台頭をも貫く「大衆の反逆」にある。率直に言って、主体的な新しき大衆が世界の中心になることを問題にする人は殆どいない。非主体的な古き大衆を否定する「主体性は真理である」という原理は正しい。多くの人は一般的に、それが世界の中心原理になることを歓迎もするだろう。しかし、或る哲学者が言うように、究極的には「主体性は非真理である」という逆説的な原理に直面することになる。それは垂直の次元と密接に関係しており、水平の次元だけでいくら考えても、その逆説的原理を理解することは到底できない。その理解は偏に「見えないもの」の芸術の使命に他ならない。

「見えないもの」の芸術(8)

私は熱烈な野球少年だったので、高校野球であれ、プロ野球であれ、テレビ中継があれば欠かさず観ていた。殊に夏休み前のオールスター・ゲームは正に「夢の球宴」で、人気選手の活躍には本当に夢見る感じで胸躍らせていた。江夏が九者連続三振を達成した時の興奮は今でも覚えている。しかし、今では全く関心がなくなってしまった。何故だろう。勿論、私自身が変わってしまったということはある。私はもはや無邪気な野球少年ではない。しかし、それだけではないような気がする。野球そのものが大きく変質してしまったのではないか。大谷選手の大活躍に代表されるように、選手の体格や身体能力もさることながら、技術的にも日本の野球は確実に進歩しているに違いない。また、選手の健康管理についても理不尽なことはなくなり、総じて合理化されている。そうした野球の「発展」は実に結構なことだが、私は今の野球(プロ・アマを問わず)に魅力を感じない。それ故、野球に関するニュースに殆ど注目することもなくなったが、今年のオールスター・ゲームに関しては気になることがあった。それは「プレー中の選手にイヤホンマイクをつけて喋らせる」という試みだ。これはどうもMLBの真似のようだが、或る有名俳優は「少し遊びが目に余る」と苦言を呈していた。私などはその苦言は当然だと思うが、「オールスター・ゲームはお祭りで、エンタメだから、新鮮で良い試みだ」というイヤホンマイク賛成派も少なくないようだ。大相撲にも「初っ切り」があるように、プロ野球にも「遊び」があってもいい。オールスター・ゲームは差し詰め花相撲であろう。しかし、「遊び」と「ふざけること」は全く違う。むしろ、「遊び」には真剣さが不可欠であり、ヘラヘラふざけていては本当に遊ぶことなどできない。おそらく、私が今の野球に魅力を感じなくなったのは、野球が単なる見世物と化したせいだと思われる。これは野球に限らないが、合理化され、世俗化されたモノは必然的に見世物と化す。言うまでもなく、見世物の核心は「見えるもの」だ。私は見世物を否定するつもりはないが、「見えないもの」が忘却されていく時の流れには抗いたいと思う。「見えないもの」の忘却こそ、腐敗する世界の元凶に他ならない。

「見えないもの」の芸術(7)

『わたしの日々が、言葉になるまで』というテレビ番組がある。日常生活のちょっとした思い、例えば失恋の苦しみとか親友への嫉妬の表現を文学作品やマンガ、あるいはヒット曲の歌詞などに見出して、人気作家(比較的若手の)やタレントがあれこれ意見を言い合う内容だ。私は毎回楽しく観ているが、イマドキの若者たちが言葉による表現にかなり熱い関心を懐いていることを意外だと思うと同時に、何だか嬉しい感じもする。そこにも「見えないもの」の芸術があると思うからだ。これは別の番組だが、「泣く」という行為についても、慟哭、涕泣、嗚咽などの差異があることを描くドラマがあった。しかし、そうした適切な言葉(単語)の選択もさることながら、「皺くちやになつた絹の手巾」で愛する息子を亡くした母親の悲しみを表現する芥川龍之介のような手法にこそ「見えないもの」の芸術の醍醐味があると私は思う。婦人は涙を見せていない。むしろ、顔では笑っている。しかし、テエブルの下の「皺くちやになつた絹の手巾」が全身で泣いていることを表現している。たといその手法に多少の「臭味」(メッヘン)が感じられるとしても、婦人の心の奥底にある「見えないもの」を手巾という「見えるもの」で表現することに私は感動する。おそらく、こうした表現によって喚起される感動は横光利一などの新感覚派の芸術にも通じるだろう。しかしながら、心の奥底にある「見えないもの」の表現に芸術の本質があるとは思うものの、私は全く異質の「見えないもの」の芸術を求めている。「世界は舞台だ」というジェイクイズに倣って、この現にある世界を劇場と見做し、そこにあるべき世界を表現したい。勿論、それは「未だないもの」であり「見えないもの」だ。加えて、その逆説を孕んだ表現は芸術としては邪道かもしれない。しかし、その異端の芸術に私はどうしようもなく憑かれている。

「見えないもの」の芸術(6)

芸術の神髄は「見えないもの」の表現にあるが、「見えるもの」の芸術もある。むしろ、後者の方が一般的だろう。「見えるもの」で勝負する。人には「見たい!」という欲望がある。ストリップやポルノ映画を芸術と言えるかどうか定かではないが、剥き出しの欲望に基づく表現は無視できない。ただし、それが単なる「覗き趣味」ではないとすれば、そこには然るべき演出が求められるだろう。すなわち、それぞれの裸体をより美しく、あるいはよりエロティックに「見せる」という演出だ。それは芸能人やスポーツ選手の「推し」の活躍を見たいという欲望についても基本的には同じだと思われる。何れにせよ、人は「見たい!」という欲望を満たすために劇場や競技場などに足を運ぶ。当然、そこでは人々の見たいものを見せるパフォーマンスが要求される。大谷選手が打席に立つ。人々は大谷選手がホームランを放つ場面を見たいと思う。そして、大谷選手が実際にホームランを放つ。そのパフォーマンスは芸術だと言える、同様に、泣きたい場面を見たいと思う観客を実際に泣かせる名優のパフォーマンス(演技)も芸術だ。こうした「見えるもの」で勝負する芸術を私は決して軽視するつもりはない。しかし、私は「見えないもの」で勝負する芸術により強く魅せられている。と言うより、「見えるもの」の勝負は究極的には「見えないもの」の表現に収斂していくと思わずにはいられない。「見えないもの」と雖も、「見えるもの」で表現するしかない。しかし、繰り返し述べているように、それは「見えないもの」を「見えるもの」にすることではない。では、「見えないもの」の表現とは何か。そもそも「見えないもの」とは何か。私は「見えないもの」と「隠されているもの」を厳密に区別したい。最近、冤罪を告発するドラマをよく観るが、殆どの人がその人の犯行であると疑わない現実の裏に「隠されているもの」、すなわち一般的には「見えないもの」である真実を明るみに出すドラマは実に感動的だ。けれど、これは「隠されているもの」を「見えるもの」にするドラマであって、「見えないもの」の表現とは言えない。「見えないもの」の表現は全く異なる次元を要請する。

「見えないもの」の芸術(5)

世界の腐敗は「見えるもの」において生じる。あるいは、「見えるもの」が腐敗する。今美しく見える人もやがて美しく見えなくなる。美容整形手術等で永久に美しく見えるようにすることは可能かもしれないが、人は永久に生きられない。例えば、百歳の老婆が二十歳の頃の美しさを再現することに成功したとして、それは美しく見えるだろうか。むしろ、百歳の老婆には百歳の美しさがあると考えるべきではないか。勿論、百歳の美しさと二十歳の美しさとは質的に異なるだろう。「見えるもの」としての美しさは確実に衰える。しかし、決して衰えることのない美しさがあるに違いない。それは「見えないもの」だ。永久に美しく見えるものはないが、永遠に美しいものはある。クロノスの永久性とカイロスの永遠性。イデアの不可視性を思えば、当然、永遠の美は「見えないもの」となる。信仰はそこで立ち止まる。賢明な判断だ。しかし、芸術はその一線を越える。永遠の美を「見えないもの」として信じる一線を越えて、何とかして表現しようとする。その表現は「見えないもの」を「見えるもの」にすることではない。それは原理的に不可能だ。「見えないもの」を「見えるもの」にした途端、永遠の美は堕落する。では、芸術は如何にして永遠の美を表現するか。「見えるもの」に光を当てれば影ができる。「見えるもの」がなくなれば、影は消える。影だけを見ることはできない。芸術はある筈のないイデアの影を創造する。