聖化のための覚書(9)
聖なるものは目に見えないし、言葉にすることもできない。従って、厳密に言えば、聖なるものとして問題にすることさえできない。問題にするや否や、それは既に神聖なものに転化している。「語り得ないものについては沈黙せねばならない」とはヴィトゲンシュタインの戒めだが、聖なるものについても沈黙が最も誠実な態度であろう。しかし、それでは話が始まらない。沈黙に徹する物語も可能だが、たとい堕落が不可避でも、私は聖なるものが現実化するドラマを求める。例えば、聖なるものをあらゆる色を超越する純白とするならば、世俗化の泥に塗れて暗黒と対峙する煉獄を経験することで全く新しい色を生み出していくドラマを望む。沈黙に徹して純白を維持すること、あるいは汚れ切った世界に純白を取り戻すことも一つの道ではあるが、私は「純白以上の色」を実現したい。それが聖化であり、同時に人間の使命でもある。もとより「純白以上の色」が如何なるものか、具体的には未だ何もわからない。そんな色など存在しない のかもしれない。されど聖化のドラマは既に始まっている。この腐敗した世界はもはや純白ではあり得ない。世俗化の真実からの更なる一歩が問われている。
聖化のための覚書(8)
世俗化と俗化を区別したように、私は聖なるものと神聖なものを区別している。二つの区別は対応している。どうしてそんな面倒な区別をするのか。何事にも肯定面と否定面があるからだ。「人は神なくして生きられない。神を否定すると偶像を拝み出す」とはドストエフスキイの言葉だが、その場合の神が聖なるもので、偶像が神聖なものだと理解してもいい。人は何のために生きているのか。その答えを求める途上で人は聖なるものと出会う。その出会いが聖化というドラマの起点になる。具体的には仏陀やイエスなどの教えを介しての出会いになるが、その関係の一次性において聖なるものは活々と輝いている。ところが、その教えが宗教となり、教団として発展するにつれて聖なるものは実定化されて神聖なものへと転化する。この転化は聖なるものの堕落ではあるが、それなくして聖なるものは現実化しない。すなわち、聖なるものの経験とは言わば「未だ主もなく客もない純粋経験」なのであり、それを崇拝の対象にすることはあり得ないのだ。聖なるものを崇拝するや否や、聖なるものは神聖なものへと実定化される。そして、その実定化と共に宗教は現実的に機能し始める。従って、厳密に言えば、あらゆる宗教は聖なるものの堕落(神聖化)に基づいているのであり、宗教の真理と邂逅するためには常に宗教のディコンストラクションが必要になる。因みに、ボンヘッファーが「非宗教的キリスト教」を主張したのも、その意味で理解すべきだろう。何れにせよ、我々の人生行路において、聖なるものは神聖なものに否応なく転化せざるを得ない。この神聖なものに対して世俗化の運動が始まる。言わば神殺しの運動だ。それが聖化というドラマの往相に他ならない。
聖化のための覚書(7)
思いつくまま書き連ねているので、支離滅裂な思耕が続いている。「世界の水平化」を上手くイメージ化できず、なかなか聖化にまで辿り着けない。臆面もなく言えば、私はこの腐敗した世界を根源的に変革すべきだと思っている。それが聖化だ。世界の腐敗は俗化に起因している。ならば俗化する以前の世界に戻れば腐敗は解消されるのか。それは違う。話はそんなに単純ではない。俗化と近代化は連動しており、それ以前に古き良き世界があったと想定することはできる。未だ神が生きていて、その恩寵を中心とした伝統を重んじる世界だ。しかし、それは堕落する運命にあり、神は他律的な支配者となって伝統を叩けば因循姑息の音がするようになる。古き良き世界も腐敗を避けられず、その現実が近代化を促した。神中心の世界から人中心の世界へ。近代化は人を「魔術の園」から解放し、文明開化をもたらす。そうした肯定的な意味での近代化を世俗化と称するならば、神を殺して全てを平板なものとする俗化は近代化の否定面として理解できる。世俗化と俗化という近代化の二重性、それが現代世界を根源的に変革する物 語を複雑にしている。それが聖化というドラマのモチーフに他ならない。
聖化のための覚書(6)
富裕層の生活はキレイで、貧困層の生活はキタナイ。一般的にはそう言えるが、清貧の生活こそキレイで、贅沢で浪費しがちな生活はキタナイ、とも言える。何がキレイで、何がキタナイか。それはその人の生き方による。もとより衛生上の清潔・不潔と無関係ではないが、ここでは生き方としてのキレイ・キタナイを問題にしたい。誰しも(殊に幼い頃は)キレイな生き方をしたいと思う。それは正直で、規範的な生活だ。しかし成長するにつれて、そんなキレイな生き方に疑念を懐くようになる。反抗期の到来。親や教師が押し付ける社会的規範は必ずしも正しくないと思い始める。良い学校を出て、良い会社に入り、良い家庭を築いて幸せになる。やがてその「良い」が単なるキレイゴトと化していく。キレイな生き方に固執するのはキレイじゃない。美は乱調にあり。とは言え、そうした反抗を貫ける人は稀だ。一時的に「ドブネズミの美しさ」を主張する不良の道に迷い込んでも、その多くは再び「良い」生活を目指す社会的規範に戻って来る。良い学校や会社とは無縁であっても、良い家庭を築くことはできる。富裕層のキラビヤカな生活は無理でも、それなりにキレイな生活は誰にでも可能だろう。キラビヤカとキレイの格差はあっても、キタナイ生活をなくすことはできる。それは貧困の否定であると同時に、不当にキラビヤカな生活を享受する富裕の否定でもある。その二重の否定が「世界の水平化」に通じている。結局、それは資本主義の否定と同じことなのか。富裕層を生み出す資本主義が同時に貧困層を生み出していることは間違いない。両者は連動している。従って、どちらか一方だけを否定することはできない。頂点をなくせば底辺もなくなる。底辺をなくせば頂点もなくなる。果たして、頂点も底辺もない世界とは如何なるものか。論理的には「富が均一化された世界」が導き出されるが、誰もそんな中途半端な世界を望まないだろう。むしろ、たとい貧困が生まれても、富裕になれるチャンスを与え続ける資本主義の世界に執著するに違いない。「世界の水平化」はその執著にどう対抗できるのか。
聖化のための覚書(5)
聖化は究極的には「世界の垂直化」だが、「世界の水平化」とも無関係ではない。むしろ、現実的には「世界の水平化」として展開する。ただし、水平化は均一化ではない。水平先生によれば、世界の腐敗の兆候は貧富の差に見出されるが、人々の暮らしの均一化は愚の骨頂だ。そもそも働き者と怠け者の給料が同一なのは不公平ではないか。貧富の差が生じるのは自然の理に他ならない。強い者が栄え、弱い者は滅びる。それが真実だ。ところが、そうした自然の真実が人間の世界では腐敗の兆候となる。何故か。自然の真実を超越する人間の真理、それを実現しようとする意志があるからだ。それは単なる弱者救済ではない。貧しき者、虐げられし者、競争に敗れし者、総じて社会的弱者と称される人たちへの慈悲は大切だが、それは自然の真実に対する反省(対症療法)の閾を出ない。また、弱者自身、競争に敗れたのは自己責任だと諦めているのではないか。それとも自分が弱者になったのは社会のシステムのせいだと恨んでいるのか。そのルサンチマンも含めて、人は未だ自然の真実に囚われている。金持になりたい。支配 者になりたい。競争に勝ちたい。そうした欲望は自然の真実に起因している。人は人間にならねばならない。さもなければ、いくら社会のシステムを改善しても「本当」の幸いを得ることはできないだろう。何が「本当」にキレイな生活なのか。金持も貧乏人も、それぞれの生活の水平化が要請されている。
聖化のための覚書(4)
NHKスペシャル『潤日の肖像:日本に向かう中国』を観た。「潤日(ルンリィー)」とは中国の富裕層が日本に移住して良い生活をすることらしいが、その増加は何を意味するのか。私は複雑な思いに駆られている。中国マネーが日本に流れ込み、地方の産業などを活性化させるのは良い。また、中国政府が執拗に反日キャンペーンを繰り返しているにも拘らず、民衆レヴェルでは日本での生活にパラダイスを見出していることには嬉しさや誇らしさも感じている。しかし、よく考えてみれば、日本にパラダイスを見出せるのは富裕層だけだ。日本に移住したくてもできない貧困層は中国の底辺に取り残されるしかない。それは日本の貧困層も同様だろう。日本がパラダイスだとしても、そこに住めるのは富裕層に限られ る。実際、中国の富裕層が地方に豪邸を建てている影響で地価が高騰し、日本の庶民が住めなくなることが危惧されている。問題は何か。富裕層の生活はキレイで、貧困層の生活はキタナイ。富裕層はキレイな生活ができる場所を世界中に探しているに違いない。偶々そうした場所の一つとして日本が注目されているにすぎない。キレイな生活ができる場所としてのパラダイス。されど、そこに住めない貧困層はどうすればいいのか。スラムに吹き溜るしかないが、そのスラムも取り壊され続けている。つまり、キタナイ生活をする場所の浄化だ。世界は明らかに富裕層中心に回っている。その真実の凝視から聖化は始まらねばならない。
聖化のための覚書(3)
生きていれば汚れる。汗をかく。垢もたまる。死ねば、もう汗も垢も出ない。しかし、死体がキレイなのは束の間であり、やがて腐敗が始まる。その過程は実に醜い。おぞましい。ただし、微生物に完全に分解され尽くして土に還れば、やっと「本当」の死に辿り着ける。もっと手っ取り早く火葬されて骨になる近道が今では一般的だが、そこでは誰もがキレイになる。善人も悪人もない。もはや生の意味を問われることはなくなり、皆キレイなモノになる。例外はない。
生はキタナイ。死はキレイ。「本当」にそうか。イマドキの若者は原口統三や岸上大作の生き方=死に方に関心などないかもしれないが、かつては「純粋に生きること」が熱心に求められた。その求め方は人それぞれながら、結局は死に最終的な答えを見出す場合が多い。純粋精神を維持するための死。余談ながら、或るテレビ番組を観ていたら、「傷つくのは生きたからだ」という高見順の言葉が紹介されていた。生きたから傷つく。傷つきたくなければ生きなければいい。それだけのことではないか。「純粋に生きること」の帰結が死というのは余りにも単純すぎる。単純だから純粋でキレイだとも言えるが、生きて、汚れて、傷ついて、ボロボロになったその先にあるキレイを私は求めたい。浄化によるキレイではなく、聖化によるキレイ。二十歳前でキレイな自死を選んだ原口統三の浄化はエチュードにすぎない。彼は「本当」に生き始める前に純粋と心中した。
聖化のための覚書(2)
シルヴィア・プラスはガスオーブンに頭を突っ込んで死んだ。キタナイ、キタナイ、キタナイ。世界は腐敗している。そこに生きる自分も腐臭を放っている。キタナイ、キタナイ、キタナイ。だからキレイになりたいと思った。その結果がガスオーブンだ。
それにしても人は何故ガスオーブンに頭を突っ込んだ女に共感するのか。そこにどんな救いがあると言うのか。一つの推測。シルヴィア・プラスは「世界の浄化」を望んだ。そのためには先ず、自分がキレイにならなければならない。ガスオーブンは浄化の場所だ。では、そこで彼女は浄化されたのか。「死体」(body)というモノになったにすぎない。人でなくなり、モノになる。それが彼女の望んだ浄化なのか。
人として生きることの欲望が世界を腐敗させるのなら、モノになることには浄化の可能性が感じられる。モノは汚れるが、世界を汚さない。モノをゴミにして無闇に廃棄する人が世界を汚す。人がいなくなればいいのだ。人も他のイキモノと同じように生きればいい。そうすれば世界は完璧に浄化される。世界は再びキレイになる。しかし乍ら、私は浄化とは別の道を歩みたい。世界の腐敗と闘う別の道。それは「世界の聖化」に他ならない。人はモノにではなく、人間になるべきだ。人が人間になる場所。それは何処にあるのか。何処にもない場なのか。何れにせよ、ガスオーブンは頭を突っ込む場所ではない。
聖化のための覚書
身の程知らずの願いだが、何とかして聖化のドラマを書き上げたいと思っている。しかし、昨今の混迷を深める中東情勢などを見ていると、到底不可能だと悲観的にならざるを得ない。憎悪の炎が完全に消えることはないだろう。だから、自分たちの安全を確保するためには、憎悪する相手を根絶するしかないと思う。実際、ゴキブリやムカデなどの害虫はこの世界から消えてなくなるべきだ。それによって生態系が崩れて地球環境に悪影響(silent spring)を及ぼすとしても、人は害虫のいない世界を望むに違いない。同様に、人の社会においても自分たちに危害を及ぼす存在の徹底した排除が望まれる。つまり、世界の浄化だ。されど、人を害虫駆除のように浄化できるだろうか。あらゆるイキモノの権利が尊重される現代では、殊に人権の侵害には敏感になっている。それでも人権を無視した蛮行が罷り通っているが、誰もがそれを肯定しているわけではない。例えば、ヴィクトール・フランクル、ハンナ・アーレント、プリーモ・レーヴィといった人たちは自らユダヤ人でありながらユダヤ人の憎悪に駆られた行動を批判した。その結果、ユダヤの同胞から裏切り者扱いされたが、その勇気ある批判には聖化への一縷の望みがある。私はそう思いたい。ただし、それは自分の愛する人を殺した者にも人権を認めることであり、明らかに自然の感情に反している。聖化は人の傾向性を逆撫でする。
報復か、更生か
刑罰の意味には二つあると言われている。応報と予防(抑止)だ。目には目を歯には歯を。それが刑罰の起源だと言ってもいい。やられたらやり返す。尤も、その真意は過剰な報復の戒めであり、報復は受けた被害と同等に制限すべきだということらしい。人を殴った者の刑罰は殴られることまでであり、殺害はやり過ぎだ。また、「人を殴れば自分も殴られる」という刑罰の徹底は「もう二度と人を殴らない」という抑止にも繋がるだろう。当然、その抑止は犯罪者の更生にもなる。刑罰の二重の意味は相即して、健全な社会を維持していく。そこには未だ浄化と聖化の差異は生まれていない。問題は殺人に代表される凶悪犯罪において明らかになる。「人を殺せば自分も殺される」という刑罰の徹底は第三者の殺人の抑止にはなっても、殺人犯自身が更生する可能性を奪ってしまう。つま り、応報の一方通行で全てが終わる。また、少年法や刑法39条のように、応報の原則が機能しない場合もある。総じて言えば、現代社会における刑罰は応報よりも更生を重視する流れが目立つように思われる。それは死刑を廃止する流れでもあるだろう。罪を憎んで人を憎まず。表層的には浄化から聖化へと時代が動いているように感じられるが、「本当」にそうか。報復の応酬の泥沼から如何にして聖化のドラマが生まれるのか。