「大衆の原点に立つ」ということ | 新・ユートピア数歩手前からの便り

「大衆の原点に立つ」ということ

混迷を深める世界に対して危機感を懐いている人は少なくない。このままでは駄目だ。何とかせねばならない。そうした苛立ちやら焦燥に駆られた人たちが来月初めに緊急シンポジウムを東京で行うという知らせが届いた。早速知人にそのまま伝えたところ、意外な反応が返ってきた。「生活現場で日々呻いている自分たちとは縁遠い」ものだと言うのだ。この反応を私なりに解釈すれば、そのシンポジウムは大衆の原点に立っていないインテリ(知識人集団)の言わば机上の空論にすぎない、ということになる。果たして本当にそうか。大衆であれ、インテリであれ、世界の現状に危機感を懐いている人は根源的な変革を求めているに違いない。では、根源的な変革とは何か。私の知人の考えによれば、おそらくそれは「大衆の原点」から始まらねばならないだろう。そして、「大衆の原点」に立たないインテリに根源的な変革は不可能となる。ここで一つの疑問が生じる。インテリは「大衆の原点」に立つべきなのか。そもそも「大衆の原点に立つ」とは如何なることか。鄙見によれば、かつてのインテリには愚かな大衆を導く前衛としての自負があった。しかし、やがてその自負は粉砕され、逆に過酷な労働の現実と闘う大衆として生きていないことがインテリの負い目となり、その結果インテリは大衆の同伴者になろうとするに至った。ここにインテリの致命的な錯誤がある。前衛にせよ、同伴にせよ、そのような者になろうとする時点で既にインテリと大衆との間には深い溝が生じている。厳密に言えば、インテリも大衆の一種だが、その存在の在り様には質的な差異がある。ただし、その差異は優劣の問題ではない。つまり、「インテリは優秀で、大衆は愚か」ということではない。インテリと大衆の差異は、それぞれの求める根源的な変革の差異に他ならない。従って、誤解を恐れずに言えば、インテリは「大衆の原点」に立つことはできないし、立つべきではない。全く別の使命があるからだ。とは言え、それは「大衆の原点」を無視してもいい、ということではない。大衆が求めている根源的な変革も極めて重要だからだ。結論を先取りして言えば、大衆は水平革命を目指し、インテリは垂直革命に集中する。二つの革命が相即して、究極的な革命となる。