「見えないもの」の芸術(8)
私は熱烈な野球少年だったので、高校野球であれ、プロ野球であれ、テレビ中継があれば欠かさず観ていた。殊に夏休み前のオールスター・ゲームは正に「夢の球宴」で、人気選手の活躍には本当に夢見る感じで胸躍らせていた。江夏が九者連続三振を達成した時の興奮は今でも覚えている。しかし、今では全く関心がなくなってしまった。何故だろう。勿論、私自身が変わってしまったということはある。私はもはや無邪気な野球少年ではない。しかし、それだけではないような気がする。野球そのものが大きく変質してしまったのではないか。大谷選手の大活躍に代表されるように、選手の体格や身体能力もさることながら、技術的にも日本の野球は確実に進歩しているに違いない。また、選手の健康管理についても理不尽なことはなくなり、総じて合理化されている。そうした野球の「発展」は実に結構なことだが、私は今の野球(プロ・アマを問わず)に魅力を感じない。それ故、野球に関するニュースに殆ど注目することもなくなったが、今年のオールスター・ゲームに関しては気になることがあった。それは「プレー中の選手にイヤホンマイクをつけて喋らせる」という試みだ。これはどうもMLBの真似のようだが、或る有名俳優は「少し遊びが目に余る」と苦言を呈していた。私などはその苦言は当然だと思うが、「オールスター・ゲームはお祭りで、エンタメだから、新鮮で良い試みだ」というイヤホンマイク賛成派も少なくないようだ。大相撲にも「初っ切り」があるように、プロ野球にも「遊び」があってもいい。オールスター・ゲームは差し詰め花相撲であろう。しかし、「遊び」と「ふざけること」は全く違う。むしろ、「遊び」には真剣さが不可欠であり、ヘラヘラふざけていては本当に遊ぶことなどできない。おそらく、私が今の野球に魅力を感じなくなったのは、野球が単なる見世物と化したせいだと思われる。これは野球に限らないが、合理化され、世俗化されたモノは必然的に見世物と化す。言うまでもなく、見世物の核心は「見えるもの」だ。私は見世物を否定するつもりはないが、「見えないもの」が忘却されていく時の流れには抗いたいと思う。「見えないもの」の忘却こそ、腐敗する世界の元凶に他ならない。