嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(7)
「嫌いなものを好きになる」は「嫌いなものを好きなものに転化して好きになる」ということではない。それでは背理にならない。嫌いなニンジンをジュースにしても、ニンジンとしての味に本質的な変化はない。鼻をつまんで飲んでいるようでは「ニンジンが好きになる」とは到底言い難い。ニンジンの味が嫌いなら、その味を消すか全く別の味付けをするしか「ニンジンが好きになる」可能性はない。それが一般的な見解だ。しかし、それで食べやすくなっても、それはもはやニンジンではない。「ニンジンがニンジンである特性」をそのまま好きになる可能性こそが問われている。「ニンジンの味は大嫌いだけど、健康のためによく食べるように努めている」という場合はどうか。かつて青汁のCMで、青汁を飲んだタレントが「不味い!もう一杯!」と言っていたが、「不味いが健康に良い」というのが青汁の特性であれば、それは「青汁が好きだ」と言えるのか。どうも理屈ばかり捏ねて自分の言いたいことを上手く表現できないが、問題の核心は同一性と差異性にある。すなわち、好きなものの根拠が同一性に、嫌いなものの根拠が差異性に、それぞれあるとすれば、一般的に人は嫌いなものを好きなものに同化しようとする。ニンジンの味が嫌いな人は、その味を自分の好きな味に同化して好きになろうとする。同様に、外国人が嫌いな日本人は、日本人の生活習慣に同化した外国人を好きになる。当然、その逆の同化(例えば、日本人が西洋人に同化)もあり得る。しかし、そのような同化は本当の意味で「好きになる」ことではない。少なくとも私は同一性ではなく、差異性において「好きになる」可能性を摸索している。この背理の可能性にはやはり無理があるのだろうか。
嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(6)
嫌な奴と仲良くなんかなれない!それは「嫌いなものを好きになる」ということであり、論理的にも矛盾している。あり得ない。しかし、そのあり得ないことを要求される場合がある。例えば、偏食の戒め。ニンジンが嫌いな人に「ニンジンも食べなさい」と要求する。厳密に言えば、「ニンジンを好きになりなさい」とまで要求することはないが、ニンジンとの関係改善が求められている。どうして嫌いなニンジンと積極的に関係しなければならないのか。それはニンジンに含まれる栄養素(β-カロテン他)が人の健康に必要だからだろう。勿論、栄養素の必要だけが問題なら、サプリメントでニンジンとの直接的な関係を避けることも可能だ。しかし、自然に栄養のあるニンジンをそこまで嫌う必然性があるのか。その味と臭いが嫌悪の理由であるなら、サプリメントでそれを初期化することはできるものの、それはもはやニンジンではない。ジュースにするなど調理法を工夫すれば、ニンジンの特性を維持したまま関係改善を図ることが期待できる。そこに「嫌いなものを好きになる」可能性が生まれる。そして、その背理の可能性は人生を豊かにするものでもある。嫌いなものを遠ざけて、好きなものだけに囲まれて生きる幸福もあるが、「嫌いなものを好きになる」背理の幸福もあると思われる。とは言え、この世界には「どうしても好きになれない嫌いなもの」があるに違いない。ゴキブリ、ムカデ、ヘビの類だ。ヘビに関しては愛好家もいるが、それは生来の蛇好きなのであって、「嫌いなものを好きになる」わけではない。少なくとも私は「どうしても好きになれない嫌いなもの」の実在を認めざるを得ない。問題は「その実在を人の世界にも認めるべきか否か」にある。嫌な奴は確実に存在する。自分自身が嫌な奴であるという自己嫌悪も含めて、「嫌いなものを好きになる」背理の可能性はあるのか。実に困難な問題ではあるが、それは「人が人間になる」可能性と密接に関係していると私は考えている。
嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(5)
「嫌な奴とも仲良くする」はキレイゴト、不自然なキレイゴトだ。自然は「嫌な奴は殺せ!」と叫ぶ。この自然の叫びには真実がある。しかし、真理ではない。私は真理の物語を求めている。既に何度も話題にしたが、或る幼女殺害事件の加害者家族と被害者家族の葛藤を描いた『それでも、生きてゆく』というドラマ(脚本は坂元裕二)がある。比較的最近観た台湾の『悪との距離』もほぼ同様のドラマであった。犯罪者を赦すことはできない。犯罪者がどんなに深い反省を示しても、また法によって下された刑罰(死刑も含む)に服しても、その罪は消えない。被害者家族の憎悪も消えない。ドイツ人がユダヤ人にしたこと、ユダヤ人がアラブ人にしたこと、日本人がアジアの民衆にしたこと、そうした歴史は修正されない。「ボクたちは未だ生まれていないから、そんな歴史なんて知らない」と今の若者たちは嘯いて、あらゆる国の人たちと仲良くできるかもしれない。結構なことだ。歴史を超越した友好は世界を平和にする。しかし、その平和は何だか薄っぺらな感じがしないか。単なる観光客として外国を訪れて歓迎される。逆に、単なる観光客として日本を訪れた外国人を歓迎する。国際的な友好の輪が広がる。それでいいのかもしれない。相手のことをもっと深く理解しようとすれば墓穴を掘ることになる。知らなくていいことまで知ることになる。しかし、「知らなくていいこと」とは何か。そんなものがあるのか。あるとすれば、やはりそれは歴史だろう。アウシュヴィッツを知らない世代がユダヤ人にもドイツ人にも増えれば、両国民はわだかまりなく更に仲良くなれるだろう。殴った者は殴ったことをすぐに忘れてしまう。その忘却は殴られた者が殴られたことを忘却すれば完璧になり、殴った事実は歴史から葬り去られる。白人が黒人にしてきたこと、民族を問わず帝国主義者が先住民にしてきたこと、その他一切の虐殺をチャラにする歴史のリセットボタンを押せば、この世界から「嫌な奴」はいなくなる。そして、初期化された人と人との新たな歴史が始まる。しかし、この「新たな歴史」は再び「嫌な奴」を生み出すことはないのか。そもそも「嫌な奴」のいなくなった初期化された世界は理想だと言えるのか。
嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(4)
この腐敗した世界には嫌な奴が溢れている。そう言っている自分自身が最も嫌な奴だ。余談ながら、ネットなどには様々なランキングがある。例えば、「結婚したい相手」のランキング。大抵そこには有名な美男美女の名が連なっている。馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでも何とかその趣向は理解できる。恥ずかしながら私も、「あんな美女が自分の伴侶だったらなぁ…」と思わないこともない。しかし、どうしても理解できないのは「なりたい顔ランキング」だ。そこにも有名な美男美女の名が連なっているが、本当に心の底からその顔になりたいのか。因みに「なりたい顔ランキング」で検索してみると、男性は竹野内豊、女性は北川景子が一位だった。特に男性は福山雅治が五連覇を達成して殿堂入りしたという笑うべき真実が記してあった。私は一応男性で、女性の気持は理解できないので、自分の顔が福山雅治になった場合を想像してみた。「おぞましい」の一言だ。言うまでもなく、私は福山雅治がイケメンであることを否定するつもりはない。私などと比べるべくもない美男だ。しかし、私は自分以外の誰かの顔になりたいなどと一度も考えたことはない。自分の顔が気に入っているからではない。むしろ、嫌悪している。嫌な顔だが、これ以外に私の顔はあり得ない。尤も、福山雅治の顔にならなくても、美容整形手術でイケメンになることはできる。また、何らかの先天的障害や戦争・事故などの後天的災厄によって「異常」と化した顔を「正常」に整形することも可能だろう。既存の顔に束縛される必要はない。しかし、「正常」な顔とは何か。「美しい」顔とは何か。爆弾で頬が焼けただれたり、鼻がもげたりした顔は「見にくい」(見るに耐えない)。明らかに「異常」だ。しかし、厳密に言えば、「見にくい」と「醜い」は違う。最近は美容整形が大繁盛で、猫も杓子も「美男美女」になることを求めているようだが、正にこの現実が世界を腐敗させているのではないか。「美男美女」に溢れた世界は「異常」だ。嫌な奴(他者)を排除しても世界の腐敗は止まらない。今は自分自身の内に住む「嫌な奴」と対峙することに徹するべきだと私は思う。
嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(3)
やなせたかし作詞の『手のひらを太陽に』では「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんな、みんな、生きているんだ、友だちなんだ」と歌われている。更に歌詞の二番ではトンボ、カエル、ミツバチ、三番ではスズメ、イナゴ、カゲロウが友だちの輪に加えられている。生きているものみんなが友だちのようだが、ゴキブリやムカデ、ヘビなども仲間に入れてもらえるだろうか。この歌の視点が人だとすれば、人はゴキブリなどの不快なイキモノとも友だちになれるのか。良寛さんは片足だけ蚊帳の外に出して蚊に血を吸わせていたそうだが、蚊を友だちだと思っていたのかもしれない。誰もが良寛さんのように生きられるわけではないが、多くの人がその生き方に憧れている。ちなみに新美南吉は子供たちに向けて次のように述べている。
君達の中には、西郷隆盛や、乃木大将や、ナポレオンや、ジンギスカンなどの本を読んだ者があるだろう。そしてそういう子は、本というものは、人間の中で偉かった人、何か大きなてがらを残した人に就いて、書かれるものだということを、知っているに違いない。そうだ。その通りだ。ところで…良寛さんは、偉かったろうか。君達は…不思議な気がするだろう。こんな坊さんの何処が偉いのかと思うだろう。こんな乞食のような坊さんが偉いのなら、そのへんの乞食やルンペンは、みんな偉いじゃないかという者があるかも知れない。……兎も角、良寛さんは偉かったと大人達がいっている。そればかりか、良寛さんの偉さが、どれ程であったかということは、大人達にもまだよく解っていないのである。(「良寛物語 手毬と鉢の子」)
実は私にもよくわからない。野暮を承知で言えば、蚊と友だちの良寛さんはムカデやマムシとも友だちになれるのか。良寛さんほどの人ならば友だちになれるかもしれないが、付き合い方を間違えると命取りになる。咬まれたら大変だ。インドの蛇使いなら決して咬まれないだろうが、それは徹底した調教によるものだ。つまり、蛇使いは蛇を支配しているのであって、そこに友だち関係はない。従って、対等な関係が友だちの大前提であるならば、忠実な警察犬や盲導犬も友だちにはなり得ない。ペットに関しても、いくら熱愛して友だちになろうとしても、それは飼い主の自己満足にすぎない。既に「飼い主」という立場がペットとの支配関係を表している。残念ながら、これは人が人を愛する場合にも言えることだろう。実際、「本当の友だち」と言える関係がどれだけあるのか。「愛している」と言いながら、その大半は相手を支配しようとしているのではないか。逆に言えば、自分が支配できる相手だけを愛することができるのだ。惜しみなく愛は奪う。嫌な奴も完全に支配できれば仲良くすることも可能になる。この世界を動かしているのは依然として「主人と奴隷の弁証法」だと言ってもいい。鄙見によれば、良寛さんはそうした支配関係とは無縁に自由に生きた。あらゆるイキモノとの対等な関係を築くこと、それが如何にして可能になるかは今後の課題だが、そこに「良寛さんの偉さ」があると私はボンヤリ考えている。
嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(2)
医者は嫌な奴の命も救う。災害時の消防士や自衛隊員もそうだ。命の選別などあり得ない。現実にはどうか知らない。おそらく、ホームレスのような貧乏人の命より金持や有力者の命の方が優先されることもあるだろう。極貧者の命は臓器売買の対象になるという過酷な窮状もある。しかし、たといそれが現実だとしても、真理は命の平等性にある。その真理は人に限らず、ペットの犬や猫などにも適用される。いや、ペットでなくても、野良犬や野良猫を面白半分に殺せば犯罪となる。鬼畜と罵られる凶悪犯の命も法的に守られている。最終的に死刑に処せられても、その死は報復によるものではない。死刑は法的に正当な殺人だ。他者の命を理不尽に奪った極悪人の命と雖も理不尽に奪うことは許されない。愛する人を惨殺された人が惨殺した犯人を憎悪するあまり殺せば罪に問われる。他者の命を奪った罪だ。こうした命の平等な尊重は当然だと思いながら、何か腑に落ちない。命の平等性という真理よりも命の差異性という真実の方を選ぼうとする自分がいる。実際、ゴキブリなどは躊躇なく叩き殺している。ゴキブリのような奴に同様の感情を懐いてもおかしくない。嫌な奴は殺せ!少なくとも仲良くなどなりたくない。それが真実だ。しかし厳密に言えば、ゴキブリにだって真理は宿る。ゴキブリも必死に生きようとしている。ゴキブリに罪はない。ただ、真理よりも「気持ちが悪い!」という真実の方が遥かに勝っているだけだ。こうした真理と真実の軋轢は何を意味するか。言うまでもなく、「ゴキブリは気持ち悪い」という認識は人が人として生きる次元に限られる。イキモノの世界にそのような認識はあり得ず、天敵という利害関係はあっても、基本的には命の平等性という真理が支配的だろう。それはゾーエーの真理だ。犯罪者の命が尊重されるのも、このゾーエーの真理によるものだと思われる。どんな極悪人でも、その罪を憎んでゾーエーを憎まず。憎むべき罪はビオスの次元で認識される。同様に、「ホタルはキレイで、ゴキブリはキタナイ」という認識もビオスの次元でのみ成立する。ビオスの次元を持たないイキモノには無縁の認識だ。命の差異性という真実もビオスの次元の問題だと言えよう。従って、「嫌な奴」もビオスの次元にのみ存在するのであって、あらゆるイキモノに通底するゾーエーの次元にまで遡れば、「嫌な奴」という認識は命の平等性という真理に呑み込まれる。つまり、「嫌な奴」は「嫌な奴」でなくなる。これは詭弁であろうか。
嫌な奴とも仲良くする必要があるのか
先日の『クローズアップ現代』では孤独死・孤立死を問題にしていた。高齢者の問題とばかり思われてきたが、最近では二十代や三十代にも増えているらしい。「セルフネグレクト」という言葉も出ていたが、他人ばかりでなく自分への関心も失われている。そこにこの問題の深刻さがある。或る統計によれば、六割を超える若者が「誰にも干渉されない一人暮らし」を望んでいると言う。好きな時に食事をして、好きな時に寝る。働いていれば完全に自由というわけにはいかないが、無職になれば生活を律しなければならぬ理由はなくなる。食うために最小限のアルバイトをするものの、そのうちに食うことさえどうでもよくなる。他人と接触することもなくなるから入浴などの身だしなみも面倒になってくる。気がつくと、部屋はゴミ屋敷。こんな生活を誰が望むだろうか。さりとて他人と積極的に交流する生活が幸福だとは思えない。映画やテレビでは友情や愛情溢れる感動的なドラマが展開するが、現実にそんなことはあり得ない。むしろ、学校でも職場でも嫌な奴ばかりだ。そんな奴等との関係を余儀なくされるくらいなら、いっそ孤独のままでいい。嫌な奴と無理に付き合う必要はない。引きこもれ!可能な限り引きこもる生活に理想がある。しかし、実に寂しい理想だ。引きこもる人同士が「共通の地平」を見出して、そこにささやかな交流が生まれることはあるだろう。嫌な奴ばかりではない。たとい少数であっても、気の合う人もいる。引きこもる生活を基本としながらも、気の合う人とだけ時々交流していけばいい。とは言え、それが「緩やかな連帯」に発展していくとしても、依然として寂しい理想であることに変わりはない。それは究極的な理想の断念でもある。
補足:ユートピアへの執著
この世界の腐敗に心を痛めている人はたくさんいる。このままでは駄目だ。何とかしなければならぬ。でも、何をすればいいのか。それは「世界の腐敗」をどれだけ深く理解するかによるだろう。「海の向こうの戦争はなかなか終わらないし、給料は上がらないし、米などの物価は相変わらず高いし、正直者が馬鹿を見る理不尽なことが多すぎるし、世界は全くどうしようもなく腐っている!」と思っても、居酒屋で一杯やって、テレビのお笑い番組などでアハハと笑って一晩寝れば、もう「世界の腐敗」のことなど忘れている…という程度の理解で日々をやり過ごせるなら幸福なことだ。しかし、本気で「世界を変革せねばならぬ!」とヒーロー気取りで思い詰めるほどの理解に囚われたらどうなるか。最悪、テロリストになってしまう可能性もなくはない。テロリスト上等!天に代わりて不義を討つ。しかし、テロリストになるためには悪に対するラディカルな憎悪と「この悪さえ排除すれば、世界の腐敗は終わる!」という揺るぎない確信が必要になる。幸か不幸か、今の私にはそうした憎悪もなければ確信もない。そもそもテロリストになるとして、一体誰を標的にすればいいのか。アメリカのTやロシアのPを天誅すれば、世界は良くなるのか。彼等が悪ならば、彼等を熱狂的に支持する人たちも天誅の対象にしなければならぬ。ウクライナの人たちは「ロシア人」を憎悪し、それを排除すれば世界は平和になると確信する、しかし、ロシアの人たちも「ウクライナ人」に対して同様の憎悪と確信を懐いているに違いない。こうした無益な応酬の泥沼から如何にして抜け出るか。「ロシア人」の奥底にロシアで生きる常民を見出し、「ウクライナ人」の奥底にウクライナで生きる常民を見出す。ヒトまで遡ると本能的な生存競争に巻き込まれてしまうので、人が人として生きる次元に「共通の地平」を創り出さねばならない。勿論、そこでも人と人との対立は生まれる。しかし、その対立は本能的に争うゾーエーの次元を超えていくべきであり、それぞれのビオスの次元における「円環と直線の葛藤」、すなわち人として生きる「理想の闘議」が望まれる。人は様々な理由で争い合うが、大抵は理想以前の利害で頭に血が上る。宗教紛争さえ例外ではない。世界には様々な分断があり、それが世界を腐敗させていることは明白だ。もはや「悪を排除せよ!」というテロリストの論理では「世界の腐敗」を終わらせることはできない。悪は分断の両側に巣食う。相反する理想に生きる人たちは住み分けるしかないのかもしれない。嫌な奴等とは付き合わなければいい。君は君。我は我也。しかし、私はどうしても「されど仲良き」という次元を切り拓きたい。到底理解し合えないと思いながらも、「利害の対立」を超えた「理想の闘議」を実現したい。そこに私が性懲りもなくユートピアに執著し続ける理由がある。
補足:直線の「虚」
厳密に言えば、「円環か、直線か」という選択はあり得ない。円環なしには生きられないからだ。人生は円環を生きることが基本となる。この基本は動かせない。先日、水俣病の胎児性患者、すなわち親が水俣病だったせいで生まれながら苦海を余儀なくされた人たちのドキュメンタリイを観た。予め歪んだ円環を負わされた人生の苦しみは想像を絶する。最近は「親ガチャ」などという実に嫌な言葉が蔓延っているが、親の経済力や育て方によって子の直線に大きな格差が生じるとしても、円環の基本そのものに大差はない。たとい美男美女に生まれなくても、貧乏な家に生まれたとしても、円環が健やかに回っていれば御の字ではないか。水俣病の胎児性患者の苦海に比べれば、「親ガチャ」の苦界など高が知れている。しかし、それにも拘らず、健全な円環に恵まれても人は絶望する。失恋、受験や就職の失敗、様々な夢の挫折など、自らの生を輝かせる何かに向かう直線の断裂も死に至る病に違いない。勿論、「歪んだ円環の苦海」と「断裂した直線の苦界」は質的に異なる。異質なものを比べても意味はないが、一般的にはゾーエーの円環が損なわれる絶望の方が根源的だろう。ビオスの直線が蹉跌する絶望など言わば贅沢な悩みにすぎない。円環の「実」に対する直線の「虚」。確かに、前者の損傷による絶望は切実だ。しかし、後者の破綻による絶望は虚妄で済ませられるだろうか。或る人が怪我をする。日常生活には全く支障のないほどに回復するものの、オリンピックに挑戦できるような走力は永久に失われた。果たして、この人の絶望は虚妄であろうか。「生来の障害で幼い頃からずっと歩けない人の苦しみを想像せよ!」この言葉が救いになるだろうか。円環上の切実な絶望を軽視するつもりは更々ないが、私は直線上の絶望をこそ問題にしたい。「何処にもない場」としてのユートピアの実現にそれは不可欠だからだ。
補足:マルくなるな、トンガレ!
若者は年長者などから「マルくなるな、トンガレ!」という有難い教訓を受けることがある。「若いうちから無難に生きることを考えては駄目だ。どんどん冒険しろ!」というくらいの意味だろうが、私なりに解釈すれば「円環ではなく直線を!」という挑発に他ならない。他方、「堪忍は無事長久の基」という家康遺訓があるものの、これはいかにも円熟した老人好みの教訓だ。やはり若者には無鉄砲な直線が相応しい。ピストルからバキューンと発射されるような生き方。「円環と直線の葛藤」は人生の至る所に見受けられる。ささやかな円環を地道に百年生きる人もいれば、華やかな直線を派手に生き急ぐ人もいる。当然、円環を生きる幸福と直線を生きる幸福は質的に異なる。相反する幸福、と言うべきか。若い頃は直線をガンガン生きても、晩年にはマルくなる場合もあるだろう。「いくらトンガッても、最後は誰しもマルくなる」というわけだ。危険な道を避けて小さくまとまることを拒絶して、どんどん事業を拡大して会社を発展させる。その結果、事業に失敗して破産しても悔いはない。それも人生 だ。どう生きようと、その人の自由だが、生き方の選択肢は円環と直線しかないのだろうか。「螺旋の円熟」という可能性を求めたい。