補足:直線の「虚」
厳密に言えば、「円環か、直線か」という選択はあり得ない。円環なしには生きられないからだ。人生は円環を生きることが基本となる。この基本は動かせない。先日、水俣病の胎児性患者、すなわち親が水俣病だったせいで生まれながら苦海を余儀なくされた人たちのドキュメンタリイを観た。予め歪んだ円環を負わされた人生の苦しみは想像を絶する。最近は「親ガチャ」などという実に嫌な言葉が蔓延っているが、親の経済力や育て方によって子の直線に大きな格差が生じるとしても、円環の基本そのものに大差はない。たとい美男美女に生まれなくても、貧乏な家に生まれたとしても、円環が健やかに回っていれば御の字ではないか。水俣病の胎児性患者の苦海に比べれば、「親ガチャ」の苦界など高が知れている。しかし、それにも拘らず、健全な円環に恵まれても人は絶望する。失恋、受験や就職の失敗、様々な夢の挫折など、自らの生を輝かせる何かに向かう直線の断裂も死に至る病に違いない。勿論、「歪んだ円環の苦海」と「断裂した直線の苦界」は質的に異なる。異質なものを比べても意味はないが、一般的にはゾーエーの円環が損なわれる絶望の方が根源的だろう。ビオスの直線が蹉跌する絶望など言わば贅沢な悩みにすぎない。円環の「実」に対する直線の「虚」。確かに、前者の損傷による絶望は切実だ。しかし、後者の破綻による絶望は虚妄で済ませられるだろうか。或る人が怪我をする。日常生活には全く支障のないほどに回復するものの、オリンピックに挑戦できるような走力は永久に失われた。果たして、この人の絶望は虚妄であろうか。「生来の障害で幼い頃からずっと歩けない人の苦しみを想像せよ!」この言葉が救いになるだろうか。円環上の切実な絶望を軽視するつもりは更々ないが、私は直線上の絶望をこそ問題にしたい。「何処にもない場」としてのユートピアの実現にそれは不可欠だからだ。